雪は降らない
――少しだけ、思い出したことがある。それは数十年前の僕が小学生の時。入学して初めての冬のことだ。
言ってしまえば、今更これを思い返したところで意味もなければ、これからの僕にとっては紛れもなく必要のないものであることには変わりはない。
今まで思い出すことが出来なかったものなのだから、僕にとってはその程度のことでしかなかったのだろう。それに関しては、知らない誰かに薄情者だと言われても反論する余地はどこにもない。実際のところ、自分でも薄情だなと感じる部分もある。……本当に、少しだけだけれど。
でも、だからこそ思うことがある。僕がもっと早くこのことを思い出していたのであれば、また何か違う未来が訪れていたこともあったのかもしれないと。
◇
放課後。今日の校庭は、いつもに比べて人が少なかった。
雲が厚くかかっていて天気が悪かったというのもあったのだろう。校庭の隅の方にある砂場にいるのは、この時は僕だけだった。先生が「早く帰れ」と言うのはいつものことだけれど、今日は特段その言葉をよく聞いた気がする。
いつもだったら素直に聞いていたであろう先生の言うことも今日は特段乗り気がせず、校庭の端の、こんな誰もいないところで暇を潰してしまっていた。ストーブのきいた教室から出るのが惜しかったくらいには今日の空気は冷え込んでいたようだったけれど、それもなるべく気にしないようにしてた。
ランドセルを砂場の端の目に入る場所に置き、僕は何をするでもなく砂を弄っていた。砂を盛って山を作ってトンネルを掘って開通してみる……または砂を集めて何かを作ってみるなどをしても良かったのだが、手が汚れるだけだし別に遊びたいわけではなかった。
仕方なく、その辺に落ちていた木の枝を使って特に意味もなく砂の集まりに傷をつけるだけに留めていた。暇が潰れればそれでよかったのだ。
風が冷たく手の感覚が少しおかしくなっている気もしたけれど、そんなことは今の僕には関係がない。とにかくここに居る必要があった。……居る必要がある、というのは流石に言い過ぎかもしれないけれど。
小学校の時から、僕は一人で何かをしている時間がとても多かった。
なんせ家に帰っても母と父は僕のことには目もくれなくて面白くないし(姉のことはとても可愛がっていたけれど)、自ら友達を作れるような性格でもなかった。
同じクラスで僕に話しかけてくる人は確かにいたものの、それも友達という関係でもなかったように思う。少なくとも僕はそう感じていた。
友達を余り作らなかったのには僕の性格とは関係ない理由も一応あるのだが、聞く人によっては些細なことなのかもしれない。
でも僕からしてみればそれは重大なことで、友達というものを作る気には到底なれなかった。
「……することないなあ」
周りに誰もいないと思い込み、ふとそんな言葉を漏らしてしまう。一人でいるには限界があったのだ。
「そうなの?」
だからこの時、誰かが話しかけてくるなんて少しも思っていなかったのだ。
「うわっ……!」
思わず情けない声を出してしまい、肩がびくついたのが自分でも分かる。僕は声のしたほうに思い切り顔を向けた。
後ろから声をかけてきたのは、僕と同じくらいの背丈の男の子だった。
誰もいないと思って呟いてしまった言葉が人に届いてしまっていたという恥ずかしさと、独り言を言っているような奴に話しかけてくる人がいるのかという驚きで頬に熱が伝っていくのを感じる。
「あは、ごめんごめん」
突然現れたその人は軽い謝罪をして、ランドセルをとても雑に地面に置いて僕の隣にわざわざしゃがんだ。
「帰らないの?」
そう言って、その人は僕の目をじっと見つめた。思わず目をそらしたくなってしまうくらいに純粋な目だった。最初はそれも我慢していたのだけど、やっぱり耐え切れなくなり地面に視線を向けてしまう。
帰らないのかと問われた僕は、一体どう返せばいいものかとても悩んだ。
正直に言うとするのなら「お父さんとお母さんが構ってくれないから帰りたくない(姉とも余り話をしたくない)」からここにいるのだけれど、今会った人にそんなことを言えるわけがない。かと言って黙ったままというのもおかしいし、というかこの沈黙に僕が耐えられる気がしなかった。
……恐らく数十秒、沈黙が流れていたと思う。
「帰っても、つまんないし……」
ごちゃごちゃと考えてはみたものの、結局出てきた言葉は非常に無難でありきたりなものだった。考える必要すらなかったようにも思え、あの時間はなんだったのだろうかと自分に嫌気がさしてしまう。
一般的には家に帰るのが当たり前で、学校なんてつまらないと思うかもしれない。でも僕にとっては逆だった。
話す相手がそんなにいないのは変わらないけど、それでもまだ、学校のほうがマシだったように思う。
僕にとってはそれが当たり前で普通だけど、家に帰ってもつまらないだなんておかしなことを言う奴だと思われるかもしれない。そう思ったのだけれど……。
「オレと同じだ!」
この人は、僕の言っていることを否定するなんてことはしなかった。
「オレもあんまり帰りたくないんだよねー」
そう言うと、本当に帰りたくなさそうにため息をついて「面白くないからさ」と続ける。……僕からしてみれば、それはとても意外に映った。
こんなこと到底本人には言えないけれど、こんなに明るい雰囲気を持った人でもそういうことを思うのかというのが正直なところだった。それに、僕と似たようなことを思っている人がいるということをこの時初めて知った。
余り喜ばしいことではないのだろうけど、ほんの僅かだが安心してしまった感覚を覚える。こんなの、人と話さない限りは分からなかっただろう。
「オレ、橋下 香(はしもと きょう)っていうんだ。何年生?」
出会ってから少し時間が経ってようやく、僕はこの人が橋下という人物であるということを知った。
「……一年生」
あまり乗り気ではなかったが、僕は答えた。
「じゃあオレの一個下だ」
ふーんと、この人は何かを納得したような声を出す。一年生の冬になるまで僕はこの人には会ったことが無かったし、一個上だというのは何となく僕自身も納得だった。
これ以上、特に話すことなんてないだろうと思っていたのだけれど……。
「じゃあ、友達になろ!」
どういうわけか、この人はそんなことを口にして僕を驚かせたのだ。
そしてまた、沈黙が訪れる。とはいえ今回は僕が答えるのに、そう時間はかからなかった。
「やだ……」
「なんで!?」
拒否されるとは思っていなかったのか、僕の答えにこの人は途端に変な顔をした。
僕の返事は、決してそういうノリとかいうわけではなかった。もし仮に数年後に同じことを言われても、同じように返すだろう。……僕はそういうやつだ。
「だって、三学期が終わったら引っ越すし……」
三学期も始まり、残り数か月もないくらいのタイミングで友達を作るだなんて訳が分からない。僕が嫌がったのは概ねそういった理由だ。
子供が引っ越しをするという時は大抵家の都合で、この時もそうだった。
姉は引っ越しのことを知ると何故か意気揚々としていたが(恐らく、引っ越すということを人に伝えることで自分が中心になっている感じが良かったのだろう)少なくとも僕にとっては憂鬱だった。
別に離れるのが嫌と思えるような友達がいるわけでもないのだが、自分の意思に関係なく環境が変わるのというのは余りいい気はしないものである。……僕がそう思っているということを、きっと家族は誰も知らないだろう。
「別の学校行っちゃうの?」
「うん……」
「ふうん」
僕が言うと、この人はうーんとまたしてもいかにも考えていますといったように声を出す。案の定、少し静かな時間が流れた。
その間僕はと言えば、早くこの話を終わらせたくて仕方がなかった。明日以降この人と会うかも分からないうえに僕は引っ越してこの学校から居なくなるのに、なんでこんな話をしているのだろうかという気になってしまっていた。
こんなところで暇を潰していないで、やっぱり先生の言う通りにしてさっさと帰ってしまったほうが良かったのだろうかとむしゃくしゃしてしまう。別にこの人が悪いというわけでは無いのだけれど……。
「で、きみの名前は?」
「……え?」
「いやだって、聞いてないし」
確かに僕の名前はまだ言っていないのだけれど、まるでこれまでの話なんてなかったかのように名前を要求してくるものだから驚いて言葉が出なかった。
話が逸れたことは大いに有難かったが、今更僕の名前を聞いたところでどうなるというのだろう? 僕からしてみれば、引っ越すと言っているのだから別に名前なんてどうでもいいと思うのだけど……。
僕はまた、思わず黙り込んでしまう。正直なところ、面倒だしもういっそ走って逃げてしまいたかった。
このまま黙りこくって、相手が飽きるのをただひたすら待って終わりにしてしまいたかったのだけれど……。あまりにもこの人が僕の名前を待ち遠しそうにしているものだから、それをするのは少し惜しいような気もしてしまい。
「あ、あい……」
「なになに?」
そう言ってわざとらしく耳に手を当てて、更に僕に近付いてくる。
「あいたに、こうき……」
僕が言うとようやく満足したのか、満面の笑みを見せた。
「よろしく、こうきくん! ……って、そうだ。オレと友達にはなってくれないだっけ」
そっかそっかーと分かっているのかいないのか、それはあまりにも適当な相槌でなんだか呆気に取られてしまう。なんとなくだが、本当はまともに話を聞いていないのではないかという気がした。個人的には、出来ればそのほうが助かるのだけど。
「そんなに嫌なの? おれと友達になるの」
「だ、だって……暫くしたらもう会えないし……」
僕が改めて引っ越すということを主張すると、どういうわけか何故か少し不満そうな顔をした。せっかく会ったのにというニュアンスなのだと思うけど、よく分からない。
次は何を言われるのだろうかと少し期待してしまう自分がいるのも、よく分からなかった。
「でもさー、またいつか会えるかもしれないよ」
さっきまで少し不満そうだったのに、急な笑顔を向けてこの人はそう言った。僕はといえば、していないことばかりを口にするものだから驚くというよりはとても不思議でそれどころではなかった。
どうして、そうやって「またいつか」という難しそうなことを簡単に言うのだろう。僕はそんな不確かなことを口になんてしたくないから、尚更おかしく僕の目に映る。
「そ、そうかな……」
「そうだよー。だって、人生は長いんだよ」
僕と大して変わらない歳のはずのこの人の、まるで何十年も生きてきたかのような物言いに僕は少し……いや、かなり戸惑った。またどこかで会えるだなんて、そんなこと本当にあるのだろうか?
……いや、確かに僕がまたこの街に戻ってくることだってあるかもしれないし、何かのタイミングでばったり出会うことだってゼロではないのかもしれない。
そんなことを言ったって、どうせ大半の人は僕のことなんて忘れてるだろうし、僕だってきっとこの時のことなんて忘れしまうだろうという気持ちが勝ってしまう。
でもこの人は、きっとそうじゃないのだろう。
「だからオレのことは覚えててよ。あ、でもこうきくんが忘れててもオレが見つけに行くから。大丈夫大丈夫! オレ見つけるの得意だし!」
続けてこの人が口にしたのは、やっぱり僕の想像とは少し違ったものだった。
なんでそんなことを今日会ったばかりの人が言うのだろうかと思ったし、明日にはそんなこと忘れているだろうに約束まがいのことを言うなんてどうかしてると思った。
だけどあまりにもハッキリとそうやって言うものだから、そういうこともあるのかもしれないともほんの少しだけ思った。
本当は何かを言葉にしたかったのだけど、余りにも不明瞭な感情に自分がついていくことが出来なくて、僕は声を出すこともままならない。
先に声を出したのは、僕ではなかった。
「でも、今日はもう帰った方がいいよ。雨降るって言ってたし。あれ、雪だったかも」
「そ、そうだね……」
一体何に対してそうだねと言っているのかもはや分からない返事をしてしまい多少なりとも後悔はしたけど、それを訂正する時間はどうやら無いらしい。
ふと地面を見ると、砂に濃い点のようなものが浮かび上がっているのに気付く。頬に何かが当たったような感覚もあって空を見上げた。すると一つ、また一つと水の粒が当たる感覚が走った。
よく見ると知らない間に上着が随分湿っていて、もうとっくに雨は降っていたのだと思う。それに気づかないくらい、僕はこの人との話に夢中になっていた……そういうことなのだろうか?
隣にいるその人は「降ってきちゃった」と言うと、腰を上げてひっくり返っている自分のランドセルを手に取った。砂を雑に払って、これまた雑にそれをさっさと背負う。
「またね!」
そう言うと、この人は僕の返事を聞く前にさっさと何処かに走って行ってしまった。僕が何かを言う暇もなく、本当にすぐのことだった。
……辺りは、もうすっかり静かになっていた。そのかわり雨の音だけが、少しだけ強くなったようなそんな気がする。まるで今までのやり取りなんてなかったかのように、周りには誰もいない。これまでのことは幻覚だと言われたほうが、まだマシな気さえしてしまう。
(なんだったんだろう……)
さっきまで喋っていた人物があっさりと居なくなってしまい、僕はどんな感情でここに居ればいいのか途端に分からなくなった。
僕が引っ越すということを茶化しているわけでは無さそうだったのに、また会えるとか何とか言っておきながらさっさと帰ってしまうし、なのにまるで明日以降も普通に会えるかのような気分だ。
決してそうはならないというのが、余計にへんな気分にさせる。
「……へんな人」
そう、一言で表すのなら僕からしてみればあの人はとても変だ。独り言を呟いてしまった僕に話しかけてくる時点で変だし、最初から最後まで僕とは違う感覚で話をしていたのも変に感じる要因だったに違いない。
そしてもう一つだけ、疑問に思うことがある。
(下の名前で呼ばれたこと、あったっけ……)
この一年を適当に振り返ってみて思うのは、学校で僕のことを下の名前で呼んでくれたのはもしかするとあの人が最初なのではないだろうかということだ。さらに付け加えるとするなら、時期的にあの人が最後になるのかもしれない。
クラスにあの人のように誰だろうと構わず話しかけてくる人がいたのならとっくに下の名前で呼ばれていたはずで、そうじゃないということはもうそうなることは無いのだろう。……自分の社交性の無さに、そろそろ嫌になってきた。
「……僕も帰ろう」
独り言を呟いてみても、当然のように周りには人は誰も居ない。
今日あったことを思い返してみて、やっぱりあの人とは話さないほうが良かったのだろうかと虚しい気持ちに晒されながら、ランドセルを急いで背負って一人冷たい雨の中を急いで走った。
◇
……記憶の片隅にあったそれに、思わずため息をつく。思い出すことが出来たのは、紛れもなく橋下さんと最初にあった時のことだ。
橋下さんが最後に「昔、実は会ったことがある」だなんて言わなければ、きっと思い出すこともなかっただろう。
(そういえば、あの日は結局雨だったな……)
橋下さんと会ったあの日、雪の予報だったが結局降らずに雨で一日が終わったことも思い出す。それが余計に虚しく心が揺れた。
僕のろくに信用できない記憶を正しいとするなら、あの日以降橋下さんと会うことは無かった。高校になって再会するわけだけど、橋下さんは僕のことを覚えていてわざわざ僕を追ってきたのだろうか? いくら橋下さんがそういう人だとはいえ、何の理由もなく誰かを追うことはしないだろう。
だけど、そうだとするならそれを最後の最後まで言わなかった橋下さんは……なんというかとてもずるいと思う。言うタイミングなんて幾らでもあったはずなのに、どうして今まで言わなかったのかとても不思議だ。
……いや、あんな再会の仕方をしてしまっていたら言えないのも当然かもしれない。僕が橋下さんのことを全く覚えていなかったというのも、当然あるだろう。つくづく、僕はとても薄情でどうしようもない人間だと痛感する。
状況が違えば昔の話をもっと早くに出来ていたのかもしれないと思うと、こんなこと思い出さないほうが良かったのだろうかという気に晒される。今これを思い出したところで全く意味がないということは、誰が見ても明らかだ。
そしてそれを思い出させてきた橋下さんがもうここに居ないということが、非常にらしくて腹が立つ。そして僕もすぐに消えてしまうのだろうという事実に、余計に嫌気がさした。
なのに、少し……ほんの僅かだが口が綻んでしまうのが不思議で仕方ない。
僕はこの今更どうすることも出来ない状況に対して何かをぶつけたいだけであって(それも烏滸がましいことであることには変わりないのだけれど)、決して橋下さんに怒っているわけではなかった。
思い返してみれば、橋下さんは今と昔でなんら変わらない人だった。
僕が高校に入って校舎の屋上で再会した時も、急に僕のもとに現れて一人で勝手に喋って、一通り話しが終わって満足したのかさっさとどこかに行ってしまった。小学校で橋下さんと始めて話した時も、殆ど同じ状況だったように思う。
でもあの時と違ったのは、その後も橋下さんは僕に執拗に会いに来たというところだ。
その時の僕は橋下さんのことを覚えていなかったということもあって最初はとても嫌で、僕が嫌そうな顔をしているにも関わらず隙があれば僕についてくる勝手な人だった。端的に言うなら迷惑だったのをよく覚えている。
――でもその勝手さが無ければ、僕は宇栄原さんと神崎さんと知り合うことは絶対に無かっただろう。
橋下さんと再会することがなければ、これまでと一緒で特に誰と話すこともなかった。友達なんてもってのほかで、僕に聞こえるようにわざと噂を話しているような人達に囲まれながら、それに気付かないふりをして過ごす日々が続いていたに違いない。
その、僕一人ではどうすることも出来ない時間が減ったのは、紛れもなく橋下さんが居たからである。
神崎さんも宇栄原さんも、僕からしてみればとても優しい人で、どうして橋下さんが僕を半ば強制的に二人に会わせたのかがなんとなく分かるくらいには意味のあるものに違いなかった。そうじゃなければ、クラスの誰よりも話をした回数が多いだなんてそんなこと起きるはずがない。今になって、それがとてもよく分かる。
……よせばいいのに、何かを期待して僕は静かに目を開ける。
辺りに見えるのは、到底現実では見ることが出来ないであろう淡く優しい色を纏わせた景観だ。同時に光が揺らめいているせいなのかとても眩しく、今にも消えてしまいそうな感覚に陥る。
……なんとなく、ここにはもう僕だけしかいないのだろうということを痛感した。そのせいで少し、本当に僅かだが僕の感情が動く。
(ああ、嫌だな……)
今、この状況になったからこそ僕は思うのだ。
(……僕は結局、誰のこともちゃんと知らないままだったのに)
誰かが手を引っ張ってくれるというのはとても恵まれていることであり、あの僅かな時間が、僕にとっては紛れもなく幸せなものだったのだと。