これは、ロデオから聞いた話……というには、少々脚色しすぎているかも知れない。あくまでもロデオの話を聞いて僕なりに解釈をしたというだけであり、変な話ただの想像の産物である。
ロデオがことを起こしたのは、僕が仕事に出かけて二時間が経った頃のようだ。正確な時間こそ分からないが、とある人物がロデオを見つけ、僕がとある場所に駆けつけた時間を考えると概ねそのくらいだろう。
それまで、ロデオはベットがある窓際で日向ぼっこをしていたようで、何をするでもなく寝入ってしまっていたようだった。だがその穏やかな時間が過ぎ去るのは、何とも呆気なかった。急に窓が、バンバンと大きな音を立てて揺れ動いたのだ。窓ガラスが割れてしまうのではないかというようなその反動で、ロデオは思い切り飛び起きた。「な、なあに……?」辺りを見回し、視線はようやく窓ガラス越しに辿り着く。
「ねこさんだ……」
ロデオの視界に飛び込んできたのは、真っ白で綺麗な毛並みをした一匹の猫だった。ロデオが窓のすぐそばまで近づくと、白猫がもう一声上げ窓の手をかける。カリカリと、窓が傷付いてしまうのではないかと思うような擦れる音が続くと、窓が僅かに隙間をあけた。これは紛れもなく僕の落ち度だが、内から鍵がかかっていなかったのだ。
窓が傷つくからやめて欲しいものだが、白猫はどうにか家に侵入しようとその隙間を段々と広げていく。顔さえ侵入させてしまえば、隙間なんていうものは猫にとってはさして問題ではなくなってしまった。猫は軽々と僕のベットに身を落とすと、顔を左右に振り侵入する際に乱れた毛並みを整えた。
窓際にいたロデオは、ゆっくりと羽を動かして猫の居るベットへと落ちていく。音にもならない程度に、しかし紛れもなく宙に埃が舞った。
「か、かってに入ったら、いけないんだよ……?」
そうロデオが口にすると、猫はロデオにじゃれているのか飛びついてきたのだそうだ。
「わああっ……!」
「んにゃ」
余りの突然のことに、ロデオはようやくその猫の顔をまじまじと視界に入れる。すると、真っ白な毛並みの猫は、何かを言いたげにこちらをじっと見つめていたらしい。
「な、なあに……?」
ロデオは半泣きでそう問いかけ、白猫の顔を見つめ返した。
「……あれ?」
涙が溜まった大きな目をいっそう大きくさせ、ロデオはこう思ったのだそうだ。
「えーっと、しぇーる……しぇる? んん、名前なんだっけ……?」
ずっと昔に出会った、とある猫にそっくりだ、と。
白猫は、ひと鳴きしたかと思うと足を翻して窓の外へと駆け下りた。こちらを見上げ、再びロデオに語りかけるようにして声を上げたかと思うと、そのまま歩いて行ってしまった。一体何を言われたのか、ロデオはすっかり困り果ててしまった。なんだか機嫌がよかったらしい白猫の後ろ姿に、ロデオの気持ちは焦るばかりだ。
「ま、まって!」
そして無造作に開いた窓から、ロデオは白猫を追いかけて飛び出していったのだ。
◇
この日も、特にいつもと変わったところはなく面白みのない街並みだった。私の住んでいる街は、大きなわりに人はそこまで多くなく、比較的暮らしやすい場所であり、平凡ではあったがそれなりに気にいっていた。気候は他に比べて暖かいというには程遠いだろうが、それも些細なことに過ぎなかった。
「……よく鳴く猫だな」
「元気でいいじゃないですか」
しかし、しいて言うのであれば今日は猫がよく鳴いていた。
一緒に歩いていた従業員のリュシーは、猫の声くらいでは余り興味が無いようだった。植物園の備品を購入するために二人で外に出ていると、何やら猫が騒がしく唸りをあげている場面を目撃したのである。猫の発情期なんていつなのか知ったことではないが、そうではなく、どちらかというと遊んでいる時に出している時のそれのように聞こえた。それでも、騒がしいということには変わりはないが。
「にゃあん、にゃあ」
「頭ぐるぐるしないでよぉ……!」
猫しか居ないはずの場所から、誰かの声が聞こえてくる。それは幼子の声によく似ていた。確かに公園だから子供の姿は見える。しかし、私の周りにはそれに該当する人物の姿はなかった。とうとう可笑しくなってしまったかと思ったが、生憎私はまだ正常だった。突然目に入ったものに、私は目を奪われたのだ。
「あれは……?」
一瞬見えた、猫ではない何かに私は思わず石のように固くなった。時が止まったような気がしたが、どうやらそうではなかったらしい。一度見えたものはすぐに猫に邪魔されて見えなくなったが、私は負けじと猫のすぐそばにまで近づいた。
陰気な影が残る、ベンチの裏の整備された草むらまで行き、ベンチの背に手をつき視線下げる。私が抱いていたもしかしてという感情は、期待い通りに心を揺さぶった。
「館長? 何やって――」
私のことを館長と呼ぶのはリュシーくらいなものだというのに、私は彼女のことなんて全く視界に入らなかった。有り体に言うのなら無視をしたのである。
「おいら、オモチャじゃないよぉ」
「んなぁ?」
「えぇー? おいら、ここがどこだかもよくわからないよぉ……」
猫と会話をしている、小さな人の姿をしたそれは――この現代において、そう簡単にお目にかかることは出来ない存在であることは間違いないだろう。恐らくリュシーも同じようなことを思っているのだろうか? そうだと話が早いのだが――。
「よ――妖精!?」
普段は余り大声を出さない彼女だが、今回ばかりはその限りではなかった。
「こ、声大きいって!」
「いやだって、それ……ええっ!?」
リュシーの声にそばを歩いていた通行人や猫、兼ねては妖精までもがこちらを見た。僅かに集まる視線に、私は思わず猫と妖精ごと抱え込む。幸いと言ったらいいか、猫が暴れることはなかったし、彼女が妖精と呼んだ存在も大人しかった。
リュシーの手を取り私はすぐに足を翻した。我々が来た植物園に逆戻りだ。足早に動く私の足は、多少なりとも罪悪感が踏みしめられていたことを、彼女は知らない。
◇
「困ったね」
「そうですね……」
植物園のスタッフルームに戻った我々は、すっかりと困り果ててしまっていた。一緒にいた猫は、私たちが植物園に辿り着いたかと思うと、私の腕からいとも簡単に逃げ去ってしまった。全く勝手な猫だと思ったが、妖精をこんなところに連れてきてしまった私の方が身勝手であることには、なるべく気付かないようにしていた。
「連れて来ない方が良かったんじゃないですか?」
「そうかも知れないけれど、あのまま放っておいたんじゃあ大騒ぎになるよ」
「それはそうですけど……」
彼女は、珍しく大声をあげてしまったことを痛く気にしていた。
テーブルの上、真ん中に置いてあるポットに隠れるようにしながら被っている帽子を両手でしっかりと抑えている様が、余計に小さくなって私の目に映っていた。
「……かわいい」
リュシーが妖精を見て一言そう呟くと、目が合ったのか妖精はポットの裏にしっかりと隠れてしまう。完全に嫌われたと思ったのか、彼女はあからさまにショックを隠せていなかった。
「ま、またやっちゃった……」
一体誰に向かって言っているのか、それともただの独り言だったのか、見えない小さな客人がそう言った。
「知らない猫さんについていったら駄目って――エリオットが……」
「エリオット……?」
聞き馴染みのない名前に、思わず首を傾げた。側にいるリュシーは、私と目が合うとすぐに首を横に振る。どうやら彼女も知らない名前のようだ。もしかすると、その人物の元からはぐれてしまいあんな街中に居たのだろうか? だとするなら、そのエリオットの元に出来るだけ早く返してやらなければならないと、この時ようやく焦りが生まれた。
私は、出来れば妖精と顔を合わせて話をしたいと、ゆっくりと妖精がいるであろう方へとすり足をした。少し顔を覗かせると、今にも泣きそうになりながら帽子を深く被りしゃがんでている様子が伺えた。
視線を向けすぎてしまったか、妖精は私に気付くと驚いた拍子に涙が溢れて止まらなくなってしまったらしかった。私は、これ以上は刺激しないよう一定の距離を保ち、更には下手くそな笑みを繕った。
「キミは何処から来たの? その……エリオットって人のところ?」
私がそう聞くと、妖精は口をへの字に曲げて必死に首を横に振った。どうやら言葉が出ないようだった。小さな腕で目の際を擦り、少し赤くなった鼻をすすったかと思うと、小さな身体から更に小さな声をあげた。
「アオイのおうち……どこだか分からなくなっちゃった……」
その名前を聞いて、私は思わず彼女の方に目をやった。この時の私は、恐らくリュシーと同じような顔をしていたことだろう。突然の知り合いの名前に、私たちは余計に混乱する羽目になったのだ。
◇
図書館という静かな空間にずっといると、何かと色々考えてしまうものだ。最も、仕事中にそんなことをしょっちゅう考えていられる程、図書館での仕事というのは暇があるというわけでもないのだが――。
「……やっぱり、連れてきた方がよかったかな」
ここ数日、僕の頭の中はロデオのことでいっぱいだった。
「その台詞、もう聞き飽きたんだけど」ルシアンが冷たく言った。
「だ、だって、妖精一人を家に置いて自分は仕事って、なんか罪悪感が凄いんだけど……」
この言葉だけ切り取ると、まるで自分の子供を家に置いて自分は外に出ている人の台詞のようで、余りいい気はしなかった。
「なら連れてくればよかったのに」
「いやでも、それで見つかったら元も子もないというか……」
「この会話ももう飽きた」
何を言っても同じようなことしか言わない僕に愛想をつかしたルシアンは、ため息をつきながら返却された大量の本を手際よく仕分けをしていく。
「置いていくのが嫌なら、誰か信用できる人のところに預けるか――それも駄目なら、自然に還すしかないね」
「そんな、捕まえた虫の話してるわけじゃないんだから……」
ルシアンの物言いは、妖精に対しても少々冷たかった。それだけ妖精に興味が無いということなのか、それとも何か別の要因があるのだろうか? 余り面倒ごとに関わりたくないという意思表示だったのかもしれない。
「――グランさん、だっけ? あの人だったら、アオイの頼みなら断らなさそうだけど」
「うーん……」
急にここにいない人物の名前が出てきて、何故かどきりとした。ルシアンの言わんとしていることは、分からなくはなかった。
グランさんと僕は、この街にいる誰よりも親しいと言っても過言ではない程の間柄だろう。ルシアンとの仲も十年来になるだろうが、それよりも前からグランさんとは知り合いなのだ。確かに、グランさんだったら僕も信頼しているし、ロデオを家に一人するよりも格段に安心できるのだが……。
「ロデオの気持ちもあるからなぁ」
この言葉は、どうやら誰の耳にも届いてはいないらしかった。
「――アオイさん」
ふと、後ろから聞き覚えのある女性の声が聞こえた。振り向く と、リュシーさんの姿があった。
「あれ、こんにちは。珍しいね」
「ちょっと来ていただけますか。今すぐに」
「え、今?」急な申し出に、思わず腑抜けた声が出てしまった。
「今です」
端的にそう口にしたかと思うと、彼女はなんのお構いなしにすぐ僕の腕をひいた。
「ちょ、ちょっと待って! なんで……?」僕がそう口にすると、彼女の動きがピタリと止まった。しかし、足元はなんだかソワソワしていた。
「あなたのお知り合いが、植物園に来てます」
「知り合い? 知り合いって誰――」
「ということで、一刻も早く来てください」
僕の話なんてどうでもいいとでも言いたげに、彼女は再び僕の腕を引っ張った。いつもはこんなに強引な人ではなかったと記憶しているのだが、今日は一体どうしてしまったというのだろうか?
「す、ストップストップ! 本落ちる!」
抱えるようにして手に持っていた数冊の本を、すぐ近くのテーブルに置くことしか出来ず、彼女にそのまま連れていかれてしまう。図書館という特殊な閉鎖された空間での喋り声のお陰で、周りの注目を受けるのはどうにも避けようのないことだった。
「ちょっとこの人お借りします」
「どうぞご自由に」
すぐそばに居るというのに全く助ける気のないルシアンはこちらのことを見ようともしていなかった。なんて無慈悲なんだと言いたくもなってしまったが、そんな時間は僕には残されてはいなかった。
◇
図書館と植物園の距離は決して近いわけではないが、走れば十分もかからない距離である。彼女の歩幅に合わせて、足早に植物園に向かった。街の中央にある公園を東に進むと見える、ガラス張りの建物が植物園だ。
植物園に来たのは実に久しぶりだった。ここ数年は足を運んでいなかったせいか、外からでも植物が生い茂っていることが垣間見えるガラス張りのそれは、新鮮に映った。しかし、決して植物園に遊びに来たわけではないというのをすぐに思い出すと、途端に陳腐に見えて仕方がなかった。
入口の扉を彼女が開けると、少し籠った空気が僕らを襲った。色んな植物を扱っているこの空間では当たり前のことだが、寒冷地に当てはまるこの街では余りない感覚だ。
スタッフルームは、入ってすぐ左にある。そこの空気は、流石に本館よりも落ち着いていた。丁度真ん中にあるテーブルにはラックさんがいるようだった。
――そしてよく見ると、最早見慣れてしまった妖精が、テーブルの上に置いてある何かに隠れるようにそこにいたのである。
「ロデオくんは、クッキー食べたことある?」ラックさんは、テーブルに置いてある四角い缶からクッキーをひとつ取り、とある妖精に向かってそう言った。
「わ、わかんないよぉ……」
「わかんないかぁ」
ラックさんの質問に分からないと答えた妖精――もといロデオは、缶を盾にするようにしてラックさんと距離を取っていた。(と言っても、身を乗り出さなくてもすぐに届く距離ではあるのだが)
僕らに気付いたラックさんの顔は、よく知っている笑顔だった。久しぶりだね、と言いたそうにしていたが、その挨拶は省略された。
「この妖精くん、街の広場の隅で猫に遊ばれたんだよね」
「猫……?」ラックさんは、僕の疑問には答えてくれなかった。
「アオイくんの家から来たって聞いたから、仕事中だろうし余り呼び出したくはなかったんだけど、かと言ってここで待たせてるのも彼が可哀想だし――」
ずっとあんな感じだからさと、ラックさんは最後に言葉を付け足した。
ラックさんの説明は、かなり簡素だった。恐らくかなり分かりやすい説明なのだろうと思うのだが、かといってそうなんですかと言って終わりにするには少々情報が足りなかった。まさかロデオがこんなところにいるとは思っておらず、動揺していたのかもしれない。すぐに言葉が出てこなかった。僕は、ロデオのいるテーブルに近づき視線をロデオに合わせた。
「えーっと……家にいるの嫌になっちゃった?」
どういう聞き方をすればいいのか分からず、僕は少し曖昧な言葉をロデオに向ける。猫と一緒に居たとラックさんは言っていたが、家で猫は飼っていないし、心当たりも無かった。いや、そういえば、アルティさんがこの前白猫と一緒にいたような気がするが――。
「……遊ぼって、言ってたの」
顔の中心に全てのパーツを集めるかのように、ロデオの顔はどんどん歪んでいった。
「しぇるーが言ってたんだよぉ」
「しぇる……?」この時、僕はロデオが何を言っているのか、正直よく分からなかった。
「うえええん……」
泣き出してしまったかと思うと、ロデオは僕の胸に飛び込んできた。どうやら嫌になって抜け出したというわけではなかったようでそこだけは少し安心したが、それにしてもどうしてロデオが家を抜け出してしまったのかはイマイチ分からなかった。ラックさんとロデオの言っていたことを組み合わせるに、街中で猫と遊んでいたところで彼に見つかったのだろうか……?
「ひょっとすると、お節介だったかもしれないね」
「い、いえ。他の人に見つかっていたかもしれないと思うとぞっとします」
ラックさんはかなり謙遜していたが、もし見つけていたのが彼ら以外だったら今こうしてロデオと喋っていることはなかったかもしれないと思うと、一気に体温が下がるのを感じた。勿論、この二人が何を思ってロデオをここに連れてきたのかは分かり兼ねるが……。
「……どうかした?」
「あ、いえ……」
さっきまではすぐ近くにいたはずのリュシーさんは、ラックさんの傍へと移っていた。まるで陰に隠れるようにラックさんを盾にし、こちらを注視していた。……注視しているといっても、僕と目が合っているというわけではなかった。
「……これ以上嫌われたら、困るので」
どうやら、彼女はロデオに嫌われてしまったらしかった。一体何をしたら嫌われるのだろうかと考えたが、まさか彼女がロデオに何かしたわけではないだろうし、出来れば思い違いであって欲しいと願うばかりだ。
「私は、リュシーは優しい方だと思うけどなぁ」
「館長に言われても余り嬉しくありません……」
ラックさんの言葉は、今の彼女にはどうやらお世辞に映ったようである。
「リュシーさんのこと、嫌いなの?」
どうしても気になった僕は、ロデオに直接聞いてみることにした。すると、ロデオは彼女をまじまじと見つめた。どういうわけか、ロデオの目には再び涙が溜まり始めていた。
「わかんないよぉ……」
どうやら、ロデオ自身も自分の感情がよく分かっていないようである。
◇
暫くして、僕はロデオを連れて一度家に帰ることにした。道中にある図書館に一度寄ろうかとも考えたが、そんな余裕は僕にもロデオにも残されていなかった。
まるでこれから大事な用があるかのようにさっさと足を進めたお陰で、すっかりと疲れてしまった。玄関を開けると、少し冷たい風が頬を横切る。このまま家でゆっくりしてしまいたいところだが、仕事を少し抜けただけであって残念ながらまだ業務時間内である。気合を入れ直して、自分の部屋に向かった。
部屋のドアを開けると、先ほど微かに感じた風の正体がすぐに分かった。窓が思い切り開いており、カーテンが靡いていたのだ。
僕はすぐに開いている窓に向かい、特に理由も無く外を覗く。すると、外側のガラス窓が何かで引っ?いたかのような縦長い跡が残っていた。
(誰かが外から開けた……? いや――)
改めて部屋の中を見渡してみるが、明らかに泥棒が入りましたといったように荒らされているわけではなく、もっと言うのであれば、朝に家を出るときと状態はさほど変わっていないように見えた。ガラス窓を除けばの話だが。
しかし一点だけ、ベッドの布団が朝よりも少し乱れているのが気になったので僕はベッドへと向かう。
ずっと僕の上着の中でじっとしていたロデオが、思い出したかのようにようやく動き始めた。下衿の一番下のところから小さな顔を出したかと思うと、息を止めていたかのように息を吐いた。狭い空間の中、息苦しかったのかも知れない。
「もしかして、窓開いてた?」
「んん……? しぇるーが開けたんだよ」
ロデオの言うしぇるーというのは、恐らくラックさんの言っていた猫のことだろうか、つまり猫が外から窓を開けて入ってきたということだろう。ベッドの上に微かに残っている、獣の毛がそれを証明していた。
「完全に僕の落ち度だなぁ、これは。ごめんね」
正直なところ、その猫が無理矢理窓を壊して入ったと言われた方がまだ気持ちはマシだっただろう。今日のことについては、完全に僕の不注意で起きたことに他ならなかった。
「お、おいらがいけないんだよぉ……。エリオットも言ってたのに……」
「エリオットさんが……?」
「しらない猫さんについていったら駄目って、言ってたんだよ……」
昔のことを思い出したのか、ロデオの声は少し小さくなった。ロデオとエリオットさんらが一緒にいた時期というのは悠に百年は経過しているというのに、まるで昨日のことかのように口にしているのを見ると、何故か僕の心までがざわついた。
「……じゃあ、僕とも約束しよう。知らない猫さんには、ついていったら駄目って」
「う、うんっ!」
ロデオは元気な返事をしたかと思うと、すぐに顔が困った顔になっていく。妖精というのは、誰もがこうして表情豊かなのだろうか?
「でも、しぇるーとはおともだちだよ……?」
「それは困ったな……」
どうやらロデオは、「しぇるー」と呼んでいる猫ともう親しくなってしまったらしい。友達が増えること自体は嬉しなことだが、またロデオが独りでにどこかに行ってしまったらと考えると、複雑な気持ちである。
だがもし、外に出たいという気持ちがあったから猫について行ったのであれば、この家に再び連れてきてしまったのはロデオにとっては余りいいことではなかったかもしれない。
「……ロデオは、外に行きたいとか、この家は嫌だとか思ったことない?」
「ううん……?」ロデオは首を傾げた。どうやら僕の言っていることが上手く伝わっていないらしい。
「ええっと……ほら、僕が外に出かけることが多いから……一人で寂しくないのかなって思って」
なるべくかみ砕いて口にしたつもりだが、これでも伝わらなかったらどうしようかと尚更頭を悩ませた。
ロデオにとってはどういう環境が好ましいのか、数日共にしてみたが僕にはまだ分からなかった。リベリオさんの家に居た過去があるということは、例えば綺麗な水がないと生きられない生物のように、特殊な環境がないといけないということはないのだろうが、それでもやはり不安というものは拭えない。僕は、これまでより一層ロデオがどんな答えを返すのかが気になってそわそわした。
「おいら、アオイのおうちがいいよぉ……」
ロデオの言葉は、難しい言葉を並べただけの堅苦しいものとは相反したものだった。それが余計、これを本心で口にしているものなのだという証明のような気がした。
「……そう?」
「うんっ」
その真っ直ぐな返事と共に笑顔になるロデオを見て、勝手に口角が上がってしまうのがよく分かった。自分はなんて単純な人間なのだろうかと思いながらも、「ならよかった」と、僕はそう口にした。
ロデオがことを起こしたのは、僕が仕事に出かけて二時間が経った頃のようだ。正確な時間こそ分からないが、とある人物がロデオを見つけ、僕がとある場所に駆けつけた時間を考えると概ねそのくらいだろう。
それまで、ロデオはベットがある窓際で日向ぼっこをしていたようで、何をするでもなく寝入ってしまっていたようだった。だがその穏やかな時間が過ぎ去るのは、何とも呆気なかった。急に窓が、バンバンと大きな音を立てて揺れ動いたのだ。窓ガラスが割れてしまうのではないかというようなその反動で、ロデオは思い切り飛び起きた。「な、なあに……?」辺りを見回し、視線はようやく窓ガラス越しに辿り着く。
「ねこさんだ……」
ロデオの視界に飛び込んできたのは、真っ白で綺麗な毛並みをした一匹の猫だった。ロデオが窓のすぐそばまで近づくと、白猫がもう一声上げ窓の手をかける。カリカリと、窓が傷付いてしまうのではないかと思うような擦れる音が続くと、窓が僅かに隙間をあけた。これは紛れもなく僕の落ち度だが、内から鍵がかかっていなかったのだ。
窓が傷つくからやめて欲しいものだが、白猫はどうにか家に侵入しようとその隙間を段々と広げていく。顔さえ侵入させてしまえば、隙間なんていうものは猫にとってはさして問題ではなくなってしまった。猫は軽々と僕のベットに身を落とすと、顔を左右に振り侵入する際に乱れた毛並みを整えた。
窓際にいたロデオは、ゆっくりと羽を動かして猫の居るベットへと落ちていく。音にもならない程度に、しかし紛れもなく宙に埃が舞った。
「か、かってに入ったら、いけないんだよ……?」
そうロデオが口にすると、猫はロデオにじゃれているのか飛びついてきたのだそうだ。
「わああっ……!」
「んにゃ」
余りの突然のことに、ロデオはようやくその猫の顔をまじまじと視界に入れる。すると、真っ白な毛並みの猫は、何かを言いたげにこちらをじっと見つめていたらしい。
「な、なあに……?」
ロデオは半泣きでそう問いかけ、白猫の顔を見つめ返した。
「……あれ?」
涙が溜まった大きな目をいっそう大きくさせ、ロデオはこう思ったのだそうだ。
「えーっと、しぇーる……しぇる? んん、名前なんだっけ……?」
ずっと昔に出会った、とある猫にそっくりだ、と。
白猫は、ひと鳴きしたかと思うと足を翻して窓の外へと駆け下りた。こちらを見上げ、再びロデオに語りかけるようにして声を上げたかと思うと、そのまま歩いて行ってしまった。一体何を言われたのか、ロデオはすっかり困り果ててしまった。なんだか機嫌がよかったらしい白猫の後ろ姿に、ロデオの気持ちは焦るばかりだ。
「ま、まって!」
そして無造作に開いた窓から、ロデオは白猫を追いかけて飛び出していったのだ。
◇
この日も、特にいつもと変わったところはなく面白みのない街並みだった。私の住んでいる街は、大きなわりに人はそこまで多くなく、比較的暮らしやすい場所であり、平凡ではあったがそれなりに気にいっていた。気候は他に比べて暖かいというには程遠いだろうが、それも些細なことに過ぎなかった。
「……よく鳴く猫だな」
「元気でいいじゃないですか」
しかし、しいて言うのであれば今日は猫がよく鳴いていた。
一緒に歩いていた従業員のリュシーは、猫の声くらいでは余り興味が無いようだった。植物園の備品を購入するために二人で外に出ていると、何やら猫が騒がしく唸りをあげている場面を目撃したのである。猫の発情期なんていつなのか知ったことではないが、そうではなく、どちらかというと遊んでいる時に出している時のそれのように聞こえた。それでも、騒がしいということには変わりはないが。
「にゃあん、にゃあ」
「頭ぐるぐるしないでよぉ……!」
猫しか居ないはずの場所から、誰かの声が聞こえてくる。それは幼子の声によく似ていた。確かに公園だから子供の姿は見える。しかし、私の周りにはそれに該当する人物の姿はなかった。とうとう可笑しくなってしまったかと思ったが、生憎私はまだ正常だった。突然目に入ったものに、私は目を奪われたのだ。
「あれは……?」
一瞬見えた、猫ではない何かに私は思わず石のように固くなった。時が止まったような気がしたが、どうやらそうではなかったらしい。一度見えたものはすぐに猫に邪魔されて見えなくなったが、私は負けじと猫のすぐそばにまで近づいた。
陰気な影が残る、ベンチの裏の整備された草むらまで行き、ベンチの背に手をつき視線下げる。私が抱いていたもしかしてという感情は、期待い通りに心を揺さぶった。
「館長? 何やって――」
私のことを館長と呼ぶのはリュシーくらいなものだというのに、私は彼女のことなんて全く視界に入らなかった。有り体に言うのなら無視をしたのである。
「おいら、オモチャじゃないよぉ」
「んなぁ?」
「えぇー? おいら、ここがどこだかもよくわからないよぉ……」
猫と会話をしている、小さな人の姿をしたそれは――この現代において、そう簡単にお目にかかることは出来ない存在であることは間違いないだろう。恐らくリュシーも同じようなことを思っているのだろうか? そうだと話が早いのだが――。
「よ――妖精!?」
普段は余り大声を出さない彼女だが、今回ばかりはその限りではなかった。
「こ、声大きいって!」
「いやだって、それ……ええっ!?」
リュシーの声にそばを歩いていた通行人や猫、兼ねては妖精までもがこちらを見た。僅かに集まる視線に、私は思わず猫と妖精ごと抱え込む。幸いと言ったらいいか、猫が暴れることはなかったし、彼女が妖精と呼んだ存在も大人しかった。
リュシーの手を取り私はすぐに足を翻した。我々が来た植物園に逆戻りだ。足早に動く私の足は、多少なりとも罪悪感が踏みしめられていたことを、彼女は知らない。
◇
「困ったね」
「そうですね……」
植物園のスタッフルームに戻った我々は、すっかりと困り果ててしまっていた。一緒にいた猫は、私たちが植物園に辿り着いたかと思うと、私の腕からいとも簡単に逃げ去ってしまった。全く勝手な猫だと思ったが、妖精をこんなところに連れてきてしまった私の方が身勝手であることには、なるべく気付かないようにしていた。
「連れて来ない方が良かったんじゃないですか?」
「そうかも知れないけれど、あのまま放っておいたんじゃあ大騒ぎになるよ」
「それはそうですけど……」
彼女は、珍しく大声をあげてしまったことを痛く気にしていた。
テーブルの上、真ん中に置いてあるポットに隠れるようにしながら被っている帽子を両手でしっかりと抑えている様が、余計に小さくなって私の目に映っていた。
「……かわいい」
リュシーが妖精を見て一言そう呟くと、目が合ったのか妖精はポットの裏にしっかりと隠れてしまう。完全に嫌われたと思ったのか、彼女はあからさまにショックを隠せていなかった。
「ま、またやっちゃった……」
一体誰に向かって言っているのか、それともただの独り言だったのか、見えない小さな客人がそう言った。
「知らない猫さんについていったら駄目って――エリオットが……」
「エリオット……?」
聞き馴染みのない名前に、思わず首を傾げた。側にいるリュシーは、私と目が合うとすぐに首を横に振る。どうやら彼女も知らない名前のようだ。もしかすると、その人物の元からはぐれてしまいあんな街中に居たのだろうか? だとするなら、そのエリオットの元に出来るだけ早く返してやらなければならないと、この時ようやく焦りが生まれた。
私は、出来れば妖精と顔を合わせて話をしたいと、ゆっくりと妖精がいるであろう方へとすり足をした。少し顔を覗かせると、今にも泣きそうになりながら帽子を深く被りしゃがんでている様子が伺えた。
視線を向けすぎてしまったか、妖精は私に気付くと驚いた拍子に涙が溢れて止まらなくなってしまったらしかった。私は、これ以上は刺激しないよう一定の距離を保ち、更には下手くそな笑みを繕った。
「キミは何処から来たの? その……エリオットって人のところ?」
私がそう聞くと、妖精は口をへの字に曲げて必死に首を横に振った。どうやら言葉が出ないようだった。小さな腕で目の際を擦り、少し赤くなった鼻をすすったかと思うと、小さな身体から更に小さな声をあげた。
「アオイのおうち……どこだか分からなくなっちゃった……」
その名前を聞いて、私は思わず彼女の方に目をやった。この時の私は、恐らくリュシーと同じような顔をしていたことだろう。突然の知り合いの名前に、私たちは余計に混乱する羽目になったのだ。
◇
図書館という静かな空間にずっといると、何かと色々考えてしまうものだ。最も、仕事中にそんなことをしょっちゅう考えていられる程、図書館での仕事というのは暇があるというわけでもないのだが――。
「……やっぱり、連れてきた方がよかったかな」
ここ数日、僕の頭の中はロデオのことでいっぱいだった。
「その台詞、もう聞き飽きたんだけど」ルシアンが冷たく言った。
「だ、だって、妖精一人を家に置いて自分は仕事って、なんか罪悪感が凄いんだけど……」
この言葉だけ切り取ると、まるで自分の子供を家に置いて自分は外に出ている人の台詞のようで、余りいい気はしなかった。
「なら連れてくればよかったのに」
「いやでも、それで見つかったら元も子もないというか……」
「この会話ももう飽きた」
何を言っても同じようなことしか言わない僕に愛想をつかしたルシアンは、ため息をつきながら返却された大量の本を手際よく仕分けをしていく。
「置いていくのが嫌なら、誰か信用できる人のところに預けるか――それも駄目なら、自然に還すしかないね」
「そんな、捕まえた虫の話してるわけじゃないんだから……」
ルシアンの物言いは、妖精に対しても少々冷たかった。それだけ妖精に興味が無いということなのか、それとも何か別の要因があるのだろうか? 余り面倒ごとに関わりたくないという意思表示だったのかもしれない。
「――グランさん、だっけ? あの人だったら、アオイの頼みなら断らなさそうだけど」
「うーん……」
急にここにいない人物の名前が出てきて、何故かどきりとした。ルシアンの言わんとしていることは、分からなくはなかった。
グランさんと僕は、この街にいる誰よりも親しいと言っても過言ではない程の間柄だろう。ルシアンとの仲も十年来になるだろうが、それよりも前からグランさんとは知り合いなのだ。確かに、グランさんだったら僕も信頼しているし、ロデオを家に一人するよりも格段に安心できるのだが……。
「ロデオの気持ちもあるからなぁ」
この言葉は、どうやら誰の耳にも届いてはいないらしかった。
「――アオイさん」
ふと、後ろから聞き覚えのある女性の声が聞こえた。振り向く と、リュシーさんの姿があった。
「あれ、こんにちは。珍しいね」
「ちょっと来ていただけますか。今すぐに」
「え、今?」急な申し出に、思わず腑抜けた声が出てしまった。
「今です」
端的にそう口にしたかと思うと、彼女はなんのお構いなしにすぐ僕の腕をひいた。
「ちょ、ちょっと待って! なんで……?」僕がそう口にすると、彼女の動きがピタリと止まった。しかし、足元はなんだかソワソワしていた。
「あなたのお知り合いが、植物園に来てます」
「知り合い? 知り合いって誰――」
「ということで、一刻も早く来てください」
僕の話なんてどうでもいいとでも言いたげに、彼女は再び僕の腕を引っ張った。いつもはこんなに強引な人ではなかったと記憶しているのだが、今日は一体どうしてしまったというのだろうか?
「す、ストップストップ! 本落ちる!」
抱えるようにして手に持っていた数冊の本を、すぐ近くのテーブルに置くことしか出来ず、彼女にそのまま連れていかれてしまう。図書館という特殊な閉鎖された空間での喋り声のお陰で、周りの注目を受けるのはどうにも避けようのないことだった。
「ちょっとこの人お借りします」
「どうぞご自由に」
すぐそばに居るというのに全く助ける気のないルシアンはこちらのことを見ようともしていなかった。なんて無慈悲なんだと言いたくもなってしまったが、そんな時間は僕には残されてはいなかった。
◇
図書館と植物園の距離は決して近いわけではないが、走れば十分もかからない距離である。彼女の歩幅に合わせて、足早に植物園に向かった。街の中央にある公園を東に進むと見える、ガラス張りの建物が植物園だ。
植物園に来たのは実に久しぶりだった。ここ数年は足を運んでいなかったせいか、外からでも植物が生い茂っていることが垣間見えるガラス張りのそれは、新鮮に映った。しかし、決して植物園に遊びに来たわけではないというのをすぐに思い出すと、途端に陳腐に見えて仕方がなかった。
入口の扉を彼女が開けると、少し籠った空気が僕らを襲った。色んな植物を扱っているこの空間では当たり前のことだが、寒冷地に当てはまるこの街では余りない感覚だ。
スタッフルームは、入ってすぐ左にある。そこの空気は、流石に本館よりも落ち着いていた。丁度真ん中にあるテーブルにはラックさんがいるようだった。
――そしてよく見ると、最早見慣れてしまった妖精が、テーブルの上に置いてある何かに隠れるようにそこにいたのである。
「ロデオくんは、クッキー食べたことある?」ラックさんは、テーブルに置いてある四角い缶からクッキーをひとつ取り、とある妖精に向かってそう言った。
「わ、わかんないよぉ……」
「わかんないかぁ」
ラックさんの質問に分からないと答えた妖精――もといロデオは、缶を盾にするようにしてラックさんと距離を取っていた。(と言っても、身を乗り出さなくてもすぐに届く距離ではあるのだが)
僕らに気付いたラックさんの顔は、よく知っている笑顔だった。久しぶりだね、と言いたそうにしていたが、その挨拶は省略された。
「この妖精くん、街の広場の隅で猫に遊ばれたんだよね」
「猫……?」ラックさんは、僕の疑問には答えてくれなかった。
「アオイくんの家から来たって聞いたから、仕事中だろうし余り呼び出したくはなかったんだけど、かと言ってここで待たせてるのも彼が可哀想だし――」
ずっとあんな感じだからさと、ラックさんは最後に言葉を付け足した。
ラックさんの説明は、かなり簡素だった。恐らくかなり分かりやすい説明なのだろうと思うのだが、かといってそうなんですかと言って終わりにするには少々情報が足りなかった。まさかロデオがこんなところにいるとは思っておらず、動揺していたのかもしれない。すぐに言葉が出てこなかった。僕は、ロデオのいるテーブルに近づき視線をロデオに合わせた。
「えーっと……家にいるの嫌になっちゃった?」
どういう聞き方をすればいいのか分からず、僕は少し曖昧な言葉をロデオに向ける。猫と一緒に居たとラックさんは言っていたが、家で猫は飼っていないし、心当たりも無かった。いや、そういえば、アルティさんがこの前白猫と一緒にいたような気がするが――。
「……遊ぼって、言ってたの」
顔の中心に全てのパーツを集めるかのように、ロデオの顔はどんどん歪んでいった。
「しぇるーが言ってたんだよぉ」
「しぇる……?」この時、僕はロデオが何を言っているのか、正直よく分からなかった。
「うえええん……」
泣き出してしまったかと思うと、ロデオは僕の胸に飛び込んできた。どうやら嫌になって抜け出したというわけではなかったようでそこだけは少し安心したが、それにしてもどうしてロデオが家を抜け出してしまったのかはイマイチ分からなかった。ラックさんとロデオの言っていたことを組み合わせるに、街中で猫と遊んでいたところで彼に見つかったのだろうか……?
「ひょっとすると、お節介だったかもしれないね」
「い、いえ。他の人に見つかっていたかもしれないと思うとぞっとします」
ラックさんはかなり謙遜していたが、もし見つけていたのが彼ら以外だったら今こうしてロデオと喋っていることはなかったかもしれないと思うと、一気に体温が下がるのを感じた。勿論、この二人が何を思ってロデオをここに連れてきたのかは分かり兼ねるが……。
「……どうかした?」
「あ、いえ……」
さっきまではすぐ近くにいたはずのリュシーさんは、ラックさんの傍へと移っていた。まるで陰に隠れるようにラックさんを盾にし、こちらを注視していた。……注視しているといっても、僕と目が合っているというわけではなかった。
「……これ以上嫌われたら、困るので」
どうやら、彼女はロデオに嫌われてしまったらしかった。一体何をしたら嫌われるのだろうかと考えたが、まさか彼女がロデオに何かしたわけではないだろうし、出来れば思い違いであって欲しいと願うばかりだ。
「私は、リュシーは優しい方だと思うけどなぁ」
「館長に言われても余り嬉しくありません……」
ラックさんの言葉は、今の彼女にはどうやらお世辞に映ったようである。
「リュシーさんのこと、嫌いなの?」
どうしても気になった僕は、ロデオに直接聞いてみることにした。すると、ロデオは彼女をまじまじと見つめた。どういうわけか、ロデオの目には再び涙が溜まり始めていた。
「わかんないよぉ……」
どうやら、ロデオ自身も自分の感情がよく分かっていないようである。
◇
暫くして、僕はロデオを連れて一度家に帰ることにした。道中にある図書館に一度寄ろうかとも考えたが、そんな余裕は僕にもロデオにも残されていなかった。
まるでこれから大事な用があるかのようにさっさと足を進めたお陰で、すっかりと疲れてしまった。玄関を開けると、少し冷たい風が頬を横切る。このまま家でゆっくりしてしまいたいところだが、仕事を少し抜けただけであって残念ながらまだ業務時間内である。気合を入れ直して、自分の部屋に向かった。
部屋のドアを開けると、先ほど微かに感じた風の正体がすぐに分かった。窓が思い切り開いており、カーテンが靡いていたのだ。
僕はすぐに開いている窓に向かい、特に理由も無く外を覗く。すると、外側のガラス窓が何かで引っ?いたかのような縦長い跡が残っていた。
(誰かが外から開けた……? いや――)
改めて部屋の中を見渡してみるが、明らかに泥棒が入りましたといったように荒らされているわけではなく、もっと言うのであれば、朝に家を出るときと状態はさほど変わっていないように見えた。ガラス窓を除けばの話だが。
しかし一点だけ、ベッドの布団が朝よりも少し乱れているのが気になったので僕はベッドへと向かう。
ずっと僕の上着の中でじっとしていたロデオが、思い出したかのようにようやく動き始めた。下衿の一番下のところから小さな顔を出したかと思うと、息を止めていたかのように息を吐いた。狭い空間の中、息苦しかったのかも知れない。
「もしかして、窓開いてた?」
「んん……? しぇるーが開けたんだよ」
ロデオの言うしぇるーというのは、恐らくラックさんの言っていた猫のことだろうか、つまり猫が外から窓を開けて入ってきたということだろう。ベッドの上に微かに残っている、獣の毛がそれを証明していた。
「完全に僕の落ち度だなぁ、これは。ごめんね」
正直なところ、その猫が無理矢理窓を壊して入ったと言われた方がまだ気持ちはマシだっただろう。今日のことについては、完全に僕の不注意で起きたことに他ならなかった。
「お、おいらがいけないんだよぉ……。エリオットも言ってたのに……」
「エリオットさんが……?」
「しらない猫さんについていったら駄目って、言ってたんだよ……」
昔のことを思い出したのか、ロデオの声は少し小さくなった。ロデオとエリオットさんらが一緒にいた時期というのは悠に百年は経過しているというのに、まるで昨日のことかのように口にしているのを見ると、何故か僕の心までがざわついた。
「……じゃあ、僕とも約束しよう。知らない猫さんには、ついていったら駄目って」
「う、うんっ!」
ロデオは元気な返事をしたかと思うと、すぐに顔が困った顔になっていく。妖精というのは、誰もがこうして表情豊かなのだろうか?
「でも、しぇるーとはおともだちだよ……?」
「それは困ったな……」
どうやらロデオは、「しぇるー」と呼んでいる猫ともう親しくなってしまったらしい。友達が増えること自体は嬉しなことだが、またロデオが独りでにどこかに行ってしまったらと考えると、複雑な気持ちである。
だがもし、外に出たいという気持ちがあったから猫について行ったのであれば、この家に再び連れてきてしまったのはロデオにとっては余りいいことではなかったかもしれない。
「……ロデオは、外に行きたいとか、この家は嫌だとか思ったことない?」
「ううん……?」ロデオは首を傾げた。どうやら僕の言っていることが上手く伝わっていないらしい。
「ええっと……ほら、僕が外に出かけることが多いから……一人で寂しくないのかなって思って」
なるべくかみ砕いて口にしたつもりだが、これでも伝わらなかったらどうしようかと尚更頭を悩ませた。
ロデオにとってはどういう環境が好ましいのか、数日共にしてみたが僕にはまだ分からなかった。リベリオさんの家に居た過去があるということは、例えば綺麗な水がないと生きられない生物のように、特殊な環境がないといけないということはないのだろうが、それでもやはり不安というものは拭えない。僕は、これまでより一層ロデオがどんな答えを返すのかが気になってそわそわした。
「おいら、アオイのおうちがいいよぉ……」
ロデオの言葉は、難しい言葉を並べただけの堅苦しいものとは相反したものだった。それが余計、これを本心で口にしているものなのだという証明のような気がした。
「……そう?」
「うんっ」
その真っ直ぐな返事と共に笑顔になるロデオを見て、勝手に口角が上がってしまうのがよく分かった。自分はなんて単純な人間なのだろうかと思いながらも、「ならよかった」と、僕はそう口にした。