「あいつ、随分と眠そうだな……」
その言葉の矛先にいるルシアンという人物は、受付の奥底で座りながらも眠っていた。屍のようにとでも言ったら良いのだろうか、理由は分からないが疲れ果てているようで、誰が見てもそれは明らかだった。
普通、勤務時間に寝てようものなら怒られても文句は言えないだろうが、あそこまで堂々と眠りこけているのを目の当たりにしてしまうと、最早注意をする人物は誰もいない。貴族の御曹司だから……と単に言いにくいだけなのかもしれないが、僕個人としても、別に咎めようなどとは思ってはいなかった。
「な、何かあったんですかね?」言いながら、僕は受付の席へと座る。
「なんだ、お前も知らないのか?」
「僕が来た時からああでしたけど……」
僕が今話をしている彼は、レナルドという人物である。レナルドとも一応付き合いが長く、かれこれ十年来の仲になるだろう。ルシアンよりも年上で、僕からすると近所のお兄さんといったところだろうか。
「そういうレナルドだって、今忙しいんじゃないですか?」
「俺は研究員じゃないからいいんだよ」
レナルドが勤めているのはの図書館ではない。街の北に位置する、星学の研究所の管理をしているのだ。
三年ほど前、研究所を統括していた父が病で亡くなりその後を継がざるを得なくなったようだが、あくまでも形だけと言い張って止まず、何を聞いても研究者として働いているというわけでもないと答えが返ってくる。しかしルシアンによると、レナルドは研究者としての資格は持っているのだそうだ。
「鮮紅月(せんこうづき)が起きるからって、誰もかれも浮かれててばかりだ。戻りたくもないね」
呆れたように頬杖をつくレナルドさんは、ひとつの自然現象の名前を口にする。余り詳しくは知らないが、なんでも鮮紅月というのは、その日一日だけ太陽が昇ることなく月が空に居座り続ける現象のことなのだそうだ。しかしそれだけだったら、鮮紅という名前は付かなかっただろう。その名前がついた理由は、どうやら日が変わるその瞬間に月が紅く染まり、それと同時に世界の色も変わることに所以するらしい。
元々十年に一度だったらしいその現象は、月の周期が時と共に変動したことにより今となってはそれが起こるのは五十年に一度となったようである。つまり、この鮮紅月を人生で二回見られる可能性は限りなく低いということだ。研究者が浮かれるのも当然だろう。
「いつ頃なんでしたっけ、それ」ただの好奇心による質問を、僕はレナルドさんに投げかけた。
「ああ、確か……」
研究所の誰かが言っていたのを聞いたのか、それともレナルド自ら調べ上げたのか。研究者ではないと言っておきながら、答えは比較的早く返ってきたような印象だった。
「二か月後の、五月十八日だったな」
レナルドは、少し遠くの未来を指定する。その言葉を聞いて、僕はどういうわけか唾をのんでしまった。
鮮紅月という馴染みのない名前は、僕を僅かに浮世離れした気持ちにさせた。
「……へぇ、そうなんですね」
「聞いておいてなんだその反応は」どうやら、レナルドは僕の反応が気に食わないようだった。
「ああいや……」
確かに言われてみれば、聞いておきながらリアクションが薄かったかもしれない。もう少しちゃんとした反応をした方が良かったか、そうは言っても僕はオーバーなリアクションをするようなタイプでもないのだが。
僕はどうにも、星学には余り関心がないようである。
「なんていうか、随分先だなって」
「そりゃまあ、研究員たちが勝手に騒いでるだけだからな」
「一緒に騒がないんですか? 同じ研究者なのに……」
「あんな研究馬鹿たちと一緒にするなよ。それに、俺は別に研究者じゃない」
研究者の資格は持ってるはずなのに、その言い分は通用するのだろうか? そう疑問に思った時だった。
「よく言うよ」一体いつの間に起きていたのか、ルシアンが話に割って入ってきた。
あからさまに気だるげにため息をつき、頭に手をやりながら片目だけで僕たちのことを視界に入れる。その様子を見ていると、今が勤務中であるということを忘れてしまいそうだ。
「半年も前から鮮紅月についての本借りまくってるんだから、一番はしゃいでるのレナルドでしょ」
「それは俺が読むんじゃなくて、研究員の奴らが……」ルシアンの言葉に、レナルドは少々目を泳がせていた。
「だったら研究費で買えばいいのに、自分が持ってると都合が悪いから借りてるんじゃないの?」
ルシアンは、この時ばかりはどういうわけかやけに突っかかってきた。いつものそれと言われればそうかも知れないし、睡眠の邪魔をされたと思われている場合もあるが、そこまで言わなくても……というのが正直な感想だった。
確かにこの前、月の満ち欠けと人々の感情の変化がどうなどという本を手に立ち読みしていたのを見かけたが、僕はこれ以上レナルドに何かを言うつもりは毛頭ない。
「……文句あるのか?」
「ぼ、僕はなにも言ってませんけど……?」
何故か僕に詰め寄ってきたレナルドは、ばつが悪そうにすぐにそっぽを向いた。この話はここで終わると思っていたのだが、どうやらレナルドは言い足りないらしかった。
「研究員の資格をはく奪されたらたまったもんじゃないからな。やることはやってるんだ。文句言われる筋合いはないな」
「あ、そう。せいぜい頑張ってね」
「いちいち腹立つな……」低い声でレナルドが言った。
二人して同じようなタイミングでため息をつき、一旦話は収束する。性格が似ているとまでは言わないが、お互い本質的な部分はどこか似ているのかも知れない。
「それより、お前今日はなんでそんなに眠そうなんだよ。……いや、眠そうなのはいつもか」誰もが聞きたいであろう、しかし誰も聞かないことをレナルドさんは簡単に口にした。
「なんだっていいでしょ。レナルドと違って、やること沢山あるんだよ」
「とてもそうには見えないけどな」
ルシアンはわざと突っかかっているのか、しかしレナルドさんはそれを簡単に躱していった。実際、図書館の次期館長になるのだろうから暇ということはないのだろうが、ルシアンが忙しい状態になっているというのが、僕にはどうにも想像が出来なかった。全く失礼な話ではあるが。
「……なに?」僕の視線が気にくわなかったのか、今度はルシアンが僕に悪態をついた。
「な、なんで二人して僕に当たるの?」
全くもって解せないが、ルシアンはそれだけ言うと顔を伏せて目を閉じたまま動かなくなってしまった。どうやら本当に寝ようとしているらしい。いつもは文句を言いながらちゃんと仕事はしているのに、今日ばかりはそうではなかった。本来なら僕が文句の一つでも言うべきなのかも知れないが、生憎そんな小言を言うような人間でも無い。最もレナルドさんなら言うかもしれないが、ルシアンのその様子を見てレナルドさんも呆れるばかりで、それ以上のことは言わなかった。
しかし本当に、どうしてそんなに眠気に負けているのだろうか? 何か言えないことでもあるのかも知れないが、どちらにしても、その理由は僕には到底分からない。
◇
夕方を過ぎた頃の、空があかね色に染まる時刻は、一日の終わりをまざまざと見せつけられているような感覚にさせられる。実際、それは間違っているわけでもないのだが、どちらかと言うと僕は余り好きではなかった。
図書館での勤務が終わり帰る頃には、既に、その時刻は過ぎかけているわけだが、それが余計に物悲しさを助長させていく。帰り道の順路には、街の真ん中にある大きな公園があった。特別用があるわけでもないから普段は寄ったりしないのだが、歩いている道のすぐ近くにある公園のベンチに見覚えのある人物が座っているのが見えたお陰で、僕の足並みは遅くなった。後ろ姿だけでもそれが誰なのかが分かるということは、知り合いと言ってしまってもいいのだろか? 僕は、一度足を止めてその人物のいるベンチの横まで数歩足を進める。
「……何してるんですか?」顔を覗き込ませると、アルティさんが目だけを動かしてこちらを見た。
「別に、何もしてません」
実に簡素な言葉を投げられ、それ以上のことを返すのに少々難儀する。自分から話しかけておいて何だが、言葉に詰まった。彼女は今機嫌が悪いと説明されたら納得してしまいそうだが、アルティさんは普段からこんな感じだ。……などと口にしてしまったら、流石に怒られるかも知れないが。
誰も座っていないアルティさんの左隣には、何かが入った紙袋が置かれている。恐らく彼女のものだろうが、僅かな好奇心に任せて顔を覗かせようとすると、彼女の膝の上で見覚えのない白い猫が寛いでいるのが分かった。
「猫……?」
「勝手に寄ってくるんです」
彼女がそう口にすると、白猫は前足を舌で丁寧に舐め始めた。その様子から、どうやらこの白い猫とアルティさんは今日初めて出会ったというわけでもないように僕の目には映った。猫の方が勝手に寄ってくるというのが少々気になるが、マタタビでも隠し持っているのだろうか?
「そういえば、アルティさんって鮮紅月って知ってます?」話しかけてしまった手前、僕は慌てて話題を探した。今日レナルドさんと話をしたようなことを、またアルティさんに向けて口にする。
「鮮紅月? そういえば、今日お店に来た子供が言ってたかも……そろそろなの?」
「研究所の人が二か月後って言ってましたけど」レナルドから聞いたことを、大雑把にアルティさんに伝えた。
「なんだ、思ってたより先なのね……」
僕と同じような感想を持ったアルティさんは、露骨に面白くなさそうな顔をした。もしかすると、僕もあの時似たような顔をしてしまっていたのかも知れないと思うと、今になってここには居ないレナルドへの申し訳なさが募った。
「でも、それならそろそろ準備しないと駄目ね」
「準備?」
「そういう不思議な現象があるとみんな浮かれるから、何かモチーフになるようなものを仕入れると売り上げが上がるってこと」
そう口にするアルティさんは、正しくお菓子屋の店員による発言だった。いや、アルティさんはお店に行けば必ずと言って良いくらいには顔を合わせているし、店員としての姿はある程度知っているつもりではいるのだが、店の外にいるからかその発言が新鮮だったのだ。
「……何?」
「いや、そういうこと考えてるんだなぁって」
「失礼ね……。こう見えてちゃんと仕事してるんです」
少し不貞腐れたような口調になったが、そこにはまだ大人の余裕があった。といっても、そこまで年齢の差はないのだろうが、その数歳の埋められない差が出ているような、そんな気がした。
「というか、こんなところで油売ってないでさっさと帰りなさいよ」
「そういうアルティさんこそ……。グランさん待ってるんじゃないですか?」
「……まあ、買い出しから二時間も経ってるんじゃそうかもね」
「に、二時間も何やってたんですか?」
買い出しと言うわりには少々時間が経ちすぎているような気がして、僕は思わず驚いた。僕が気になった紙袋は恐らくお店に必要なものが入っているのだろうが、遠い店まで買い出しに行っていたのなら分かるのだが、グランさんがそんな時間のかかるようなことを彼女に頼むとも思えないし、何をしていたのか余計に気になってしまう。それに、グランさんはそうそう怒るような人では無いのは知っているが、流石に心配くらいはされているのではないだろうか?
「あなたこそ、こんなところで油売ってる時間なんて無いんじゃないの?」
続けて「同居人待たせてたら可哀想じゃない」とアルティさんは言った。その言葉に、僕は一瞬どきりとした。そういえば、妖精が家にいることがグランさんにバレた時、当然だが彼女も居たというのをすぐに思い出す。同居人と口にする辺り、妖精と言わないように配慮しているのだろうというのが窺えた。
「ほら、あなたもそろそろ帰りなさいな」
その言葉は僕に向けてではなく、膝の上で寛いでいた白猫に向けての言葉だった。毛に隠れて見えなかったが、首輪を付けているのが見えた。どうやら野良猫ではなく家猫らしい。寛いでいた猫をアルティさんが持ち上げ、地面に置く。すると、猫がアルティさんに向けて鳴き声をあげ、どこかに向かっていった。あれは猫なりの挨拶だったのかもしれない。
「じゃあね」
猫を見送ったアルティさんは、さっさと荷物を持ちそれだけ言って去って行ってしまった。向かった先はお店のある方角だったから、恐らく今度こそはお店に向かっているのだろう。そうでなければおかしな話だが。
アルティさんの後ろ姿を数秒眺めた後、僕は歩いていた道に戻って自分の家がある方へと歩いて行く。心なしか足が速く動いているような気がしたのは、きっと気のせいではないはずだ。
◇
図書館での休息というのは、余り効率的ではないと言っても差し支えはないだろう。ルシアンとは言い合いが絶えないし、アオイとの会話は聞いているのかいないのか、掴みにくくて無駄に体力を使ってしまう。図書館で力を使う場面と言ったら、せいぜいい手の届かない場所に目的の本が置いてある時くらいだろうが、こんなことを口にしようもんなら、文句があるなら来るなとルシアン言われてしまいそうだ。
研究所に戻った後は、比較的穏やかな時間である……と言いたいところだが、ここはここで慌ただしく好きではない。どちらが嫌いかと問われれば、間違いなく研究所と答えるだろう。
鮮紅月がどうなどという事象はもはや関係なく、研究者はいつも何かに追われていて時間の感覚がなくなることが多い。最も、俺はそこまで研究熱心でもなければ星学には対して興味はないのだが。ルシアンに「一番はしゃいでいるのはお前だろう」などと言われたが、あいつは何も知らないからそんな適当なことを言えるのだ。しかしまあ、鮮紅月で浮かれていると思われただけなら不幸中の幸いだろう。
元は父が使っていた研究所の自室に戻ると、俺はすぐに出入口から向かって右側にある二つの本棚に目をやった。五段ある棚にぎっしりと詰められた本の種類はと言えば、例えば月の満ち欠けについて研究した書籍や星の移り変わりを観察した研究書など、星学術に関係するようなものばかりだ。綺麗に本棚を埋め尽くしているそれは、まるで自分の身の潔白を証明しているかのようにわざとらしく羅列されている。ふと目を向けたその棚へ、俺は足を向けた。向かったのは、並べられているうち右の棚だ。
自分と同じ目線くらいの列にある、一番左端の本を二冊ほど手に取る。しかしその本に目をくれることはなく、本があった場所に更に右手を突っ込んだ。奥の棚の即面を思い切り押し込むと、ガコリと何かが外れた音が耳に入る。その音を確認し、俺はようやく棚から手を引き上げた。
「……ここに入るのも久しぶりだな」
棚同士の隙間に少々無理矢理手を突っ込むと、数冊の重みが無くなったほうの棚が、右の何も置かれていない空いているスペースへ動いていく。棚が完全にスライドされると、棚があった先にはひとつの部屋が現れる。ここを視界に入れる時、必ずと言っていいほど俺の眉間にはしわが寄った。
いわゆる隠し収納部屋には、父が星学研究所の総責任者の裏で調べていたとあるモノに関する書籍がこれでもかというくらいに乱立されている。一応片付けられてはいるものの、「研究にかまけて整頓が疎かになっている人間の部屋」という程度のもので、お世辞にも綺麗とは言い難い。
この場所を見つけたのは、父が死んでから半年後のことだ。責任者という籍を押し付けられ、面倒な雑務が片付いたのがおおかたそのくらいの時期だった。こんな面倒な場所はさっさと無くしてやりたいと思っていたのだが、少々難があって結局このままになっている。今日みたいにルシアンに小言を言われるくらいなら、この場所を有効活用してもいいかもしれないと思って中に入ってみたのだが……。
(あのクソ親父……)
もし今も父が存命していたのなら、面と向かってそう言ってやりたい気分に苛まれた。
父が裏で一体何を研究していたのか。そんなことは知ったことではないと一蹴りしたいところだが、当然そう簡単に行くわけがなく、ろくに手を付けないまま放っておいてあったのだ。表の本棚よりも一回り小さいくらいの本棚には入り切っていない本や資料が、乱雑に床に置かれている。ここ最近は全く触っていなかったせいで埃が少しかかっているのを払うついでに、一番近くのそれを手に取った。
「全く、どうすんだよこれ……」資料の題名と中身を流し見すればするほど、文句は止まることがなかった。
本当は、見つけた時すぐに処分したって構わなかったのだ。中身なんて俺が気にすることではないのだろうし、証拠隠滅だって早い方が当然よかっただろう。だが、俺はそうすることを躊躇したのである。
もうこの世には居ない人間に向かって、俺は思わず舌を鳴らした。
その言葉の矛先にいるルシアンという人物は、受付の奥底で座りながらも眠っていた。屍のようにとでも言ったら良いのだろうか、理由は分からないが疲れ果てているようで、誰が見てもそれは明らかだった。
普通、勤務時間に寝てようものなら怒られても文句は言えないだろうが、あそこまで堂々と眠りこけているのを目の当たりにしてしまうと、最早注意をする人物は誰もいない。貴族の御曹司だから……と単に言いにくいだけなのかもしれないが、僕個人としても、別に咎めようなどとは思ってはいなかった。
「な、何かあったんですかね?」言いながら、僕は受付の席へと座る。
「なんだ、お前も知らないのか?」
「僕が来た時からああでしたけど……」
僕が今話をしている彼は、レナルドという人物である。レナルドとも一応付き合いが長く、かれこれ十年来の仲になるだろう。ルシアンよりも年上で、僕からすると近所のお兄さんといったところだろうか。
「そういうレナルドだって、今忙しいんじゃないですか?」
「俺は研究員じゃないからいいんだよ」
レナルドが勤めているのはの図書館ではない。街の北に位置する、星学の研究所の管理をしているのだ。
三年ほど前、研究所を統括していた父が病で亡くなりその後を継がざるを得なくなったようだが、あくまでも形だけと言い張って止まず、何を聞いても研究者として働いているというわけでもないと答えが返ってくる。しかしルシアンによると、レナルドは研究者としての資格は持っているのだそうだ。
「鮮紅月(せんこうづき)が起きるからって、誰もかれも浮かれててばかりだ。戻りたくもないね」
呆れたように頬杖をつくレナルドさんは、ひとつの自然現象の名前を口にする。余り詳しくは知らないが、なんでも鮮紅月というのは、その日一日だけ太陽が昇ることなく月が空に居座り続ける現象のことなのだそうだ。しかしそれだけだったら、鮮紅という名前は付かなかっただろう。その名前がついた理由は、どうやら日が変わるその瞬間に月が紅く染まり、それと同時に世界の色も変わることに所以するらしい。
元々十年に一度だったらしいその現象は、月の周期が時と共に変動したことにより今となってはそれが起こるのは五十年に一度となったようである。つまり、この鮮紅月を人生で二回見られる可能性は限りなく低いということだ。研究者が浮かれるのも当然だろう。
「いつ頃なんでしたっけ、それ」ただの好奇心による質問を、僕はレナルドさんに投げかけた。
「ああ、確か……」
研究所の誰かが言っていたのを聞いたのか、それともレナルド自ら調べ上げたのか。研究者ではないと言っておきながら、答えは比較的早く返ってきたような印象だった。
「二か月後の、五月十八日だったな」
レナルドは、少し遠くの未来を指定する。その言葉を聞いて、僕はどういうわけか唾をのんでしまった。
鮮紅月という馴染みのない名前は、僕を僅かに浮世離れした気持ちにさせた。
「……へぇ、そうなんですね」
「聞いておいてなんだその反応は」どうやら、レナルドは僕の反応が気に食わないようだった。
「ああいや……」
確かに言われてみれば、聞いておきながらリアクションが薄かったかもしれない。もう少しちゃんとした反応をした方が良かったか、そうは言っても僕はオーバーなリアクションをするようなタイプでもないのだが。
僕はどうにも、星学には余り関心がないようである。
「なんていうか、随分先だなって」
「そりゃまあ、研究員たちが勝手に騒いでるだけだからな」
「一緒に騒がないんですか? 同じ研究者なのに……」
「あんな研究馬鹿たちと一緒にするなよ。それに、俺は別に研究者じゃない」
研究者の資格は持ってるはずなのに、その言い分は通用するのだろうか? そう疑問に思った時だった。
「よく言うよ」一体いつの間に起きていたのか、ルシアンが話に割って入ってきた。
あからさまに気だるげにため息をつき、頭に手をやりながら片目だけで僕たちのことを視界に入れる。その様子を見ていると、今が勤務中であるということを忘れてしまいそうだ。
「半年も前から鮮紅月についての本借りまくってるんだから、一番はしゃいでるのレナルドでしょ」
「それは俺が読むんじゃなくて、研究員の奴らが……」ルシアンの言葉に、レナルドは少々目を泳がせていた。
「だったら研究費で買えばいいのに、自分が持ってると都合が悪いから借りてるんじゃないの?」
ルシアンは、この時ばかりはどういうわけかやけに突っかかってきた。いつものそれと言われればそうかも知れないし、睡眠の邪魔をされたと思われている場合もあるが、そこまで言わなくても……というのが正直な感想だった。
確かにこの前、月の満ち欠けと人々の感情の変化がどうなどという本を手に立ち読みしていたのを見かけたが、僕はこれ以上レナルドに何かを言うつもりは毛頭ない。
「……文句あるのか?」
「ぼ、僕はなにも言ってませんけど……?」
何故か僕に詰め寄ってきたレナルドは、ばつが悪そうにすぐにそっぽを向いた。この話はここで終わると思っていたのだが、どうやらレナルドは言い足りないらしかった。
「研究員の資格をはく奪されたらたまったもんじゃないからな。やることはやってるんだ。文句言われる筋合いはないな」
「あ、そう。せいぜい頑張ってね」
「いちいち腹立つな……」低い声でレナルドが言った。
二人して同じようなタイミングでため息をつき、一旦話は収束する。性格が似ているとまでは言わないが、お互い本質的な部分はどこか似ているのかも知れない。
「それより、お前今日はなんでそんなに眠そうなんだよ。……いや、眠そうなのはいつもか」誰もが聞きたいであろう、しかし誰も聞かないことをレナルドさんは簡単に口にした。
「なんだっていいでしょ。レナルドと違って、やること沢山あるんだよ」
「とてもそうには見えないけどな」
ルシアンはわざと突っかかっているのか、しかしレナルドさんはそれを簡単に躱していった。実際、図書館の次期館長になるのだろうから暇ということはないのだろうが、ルシアンが忙しい状態になっているというのが、僕にはどうにも想像が出来なかった。全く失礼な話ではあるが。
「……なに?」僕の視線が気にくわなかったのか、今度はルシアンが僕に悪態をついた。
「な、なんで二人して僕に当たるの?」
全くもって解せないが、ルシアンはそれだけ言うと顔を伏せて目を閉じたまま動かなくなってしまった。どうやら本当に寝ようとしているらしい。いつもは文句を言いながらちゃんと仕事はしているのに、今日ばかりはそうではなかった。本来なら僕が文句の一つでも言うべきなのかも知れないが、生憎そんな小言を言うような人間でも無い。最もレナルドさんなら言うかもしれないが、ルシアンのその様子を見てレナルドさんも呆れるばかりで、それ以上のことは言わなかった。
しかし本当に、どうしてそんなに眠気に負けているのだろうか? 何か言えないことでもあるのかも知れないが、どちらにしても、その理由は僕には到底分からない。
◇
夕方を過ぎた頃の、空があかね色に染まる時刻は、一日の終わりをまざまざと見せつけられているような感覚にさせられる。実際、それは間違っているわけでもないのだが、どちらかと言うと僕は余り好きではなかった。
図書館での勤務が終わり帰る頃には、既に、その時刻は過ぎかけているわけだが、それが余計に物悲しさを助長させていく。帰り道の順路には、街の真ん中にある大きな公園があった。特別用があるわけでもないから普段は寄ったりしないのだが、歩いている道のすぐ近くにある公園のベンチに見覚えのある人物が座っているのが見えたお陰で、僕の足並みは遅くなった。後ろ姿だけでもそれが誰なのかが分かるということは、知り合いと言ってしまってもいいのだろか? 僕は、一度足を止めてその人物のいるベンチの横まで数歩足を進める。
「……何してるんですか?」顔を覗き込ませると、アルティさんが目だけを動かしてこちらを見た。
「別に、何もしてません」
実に簡素な言葉を投げられ、それ以上のことを返すのに少々難儀する。自分から話しかけておいて何だが、言葉に詰まった。彼女は今機嫌が悪いと説明されたら納得してしまいそうだが、アルティさんは普段からこんな感じだ。……などと口にしてしまったら、流石に怒られるかも知れないが。
誰も座っていないアルティさんの左隣には、何かが入った紙袋が置かれている。恐らく彼女のものだろうが、僅かな好奇心に任せて顔を覗かせようとすると、彼女の膝の上で見覚えのない白い猫が寛いでいるのが分かった。
「猫……?」
「勝手に寄ってくるんです」
彼女がそう口にすると、白猫は前足を舌で丁寧に舐め始めた。その様子から、どうやらこの白い猫とアルティさんは今日初めて出会ったというわけでもないように僕の目には映った。猫の方が勝手に寄ってくるというのが少々気になるが、マタタビでも隠し持っているのだろうか?
「そういえば、アルティさんって鮮紅月って知ってます?」話しかけてしまった手前、僕は慌てて話題を探した。今日レナルドさんと話をしたようなことを、またアルティさんに向けて口にする。
「鮮紅月? そういえば、今日お店に来た子供が言ってたかも……そろそろなの?」
「研究所の人が二か月後って言ってましたけど」レナルドから聞いたことを、大雑把にアルティさんに伝えた。
「なんだ、思ってたより先なのね……」
僕と同じような感想を持ったアルティさんは、露骨に面白くなさそうな顔をした。もしかすると、僕もあの時似たような顔をしてしまっていたのかも知れないと思うと、今になってここには居ないレナルドへの申し訳なさが募った。
「でも、それならそろそろ準備しないと駄目ね」
「準備?」
「そういう不思議な現象があるとみんな浮かれるから、何かモチーフになるようなものを仕入れると売り上げが上がるってこと」
そう口にするアルティさんは、正しくお菓子屋の店員による発言だった。いや、アルティさんはお店に行けば必ずと言って良いくらいには顔を合わせているし、店員としての姿はある程度知っているつもりではいるのだが、店の外にいるからかその発言が新鮮だったのだ。
「……何?」
「いや、そういうこと考えてるんだなぁって」
「失礼ね……。こう見えてちゃんと仕事してるんです」
少し不貞腐れたような口調になったが、そこにはまだ大人の余裕があった。といっても、そこまで年齢の差はないのだろうが、その数歳の埋められない差が出ているような、そんな気がした。
「というか、こんなところで油売ってないでさっさと帰りなさいよ」
「そういうアルティさんこそ……。グランさん待ってるんじゃないですか?」
「……まあ、買い出しから二時間も経ってるんじゃそうかもね」
「に、二時間も何やってたんですか?」
買い出しと言うわりには少々時間が経ちすぎているような気がして、僕は思わず驚いた。僕が気になった紙袋は恐らくお店に必要なものが入っているのだろうが、遠い店まで買い出しに行っていたのなら分かるのだが、グランさんがそんな時間のかかるようなことを彼女に頼むとも思えないし、何をしていたのか余計に気になってしまう。それに、グランさんはそうそう怒るような人では無いのは知っているが、流石に心配くらいはされているのではないだろうか?
「あなたこそ、こんなところで油売ってる時間なんて無いんじゃないの?」
続けて「同居人待たせてたら可哀想じゃない」とアルティさんは言った。その言葉に、僕は一瞬どきりとした。そういえば、妖精が家にいることがグランさんにバレた時、当然だが彼女も居たというのをすぐに思い出す。同居人と口にする辺り、妖精と言わないように配慮しているのだろうというのが窺えた。
「ほら、あなたもそろそろ帰りなさいな」
その言葉は僕に向けてではなく、膝の上で寛いでいた白猫に向けての言葉だった。毛に隠れて見えなかったが、首輪を付けているのが見えた。どうやら野良猫ではなく家猫らしい。寛いでいた猫をアルティさんが持ち上げ、地面に置く。すると、猫がアルティさんに向けて鳴き声をあげ、どこかに向かっていった。あれは猫なりの挨拶だったのかもしれない。
「じゃあね」
猫を見送ったアルティさんは、さっさと荷物を持ちそれだけ言って去って行ってしまった。向かった先はお店のある方角だったから、恐らく今度こそはお店に向かっているのだろう。そうでなければおかしな話だが。
アルティさんの後ろ姿を数秒眺めた後、僕は歩いていた道に戻って自分の家がある方へと歩いて行く。心なしか足が速く動いているような気がしたのは、きっと気のせいではないはずだ。
◇
図書館での休息というのは、余り効率的ではないと言っても差し支えはないだろう。ルシアンとは言い合いが絶えないし、アオイとの会話は聞いているのかいないのか、掴みにくくて無駄に体力を使ってしまう。図書館で力を使う場面と言ったら、せいぜいい手の届かない場所に目的の本が置いてある時くらいだろうが、こんなことを口にしようもんなら、文句があるなら来るなとルシアン言われてしまいそうだ。
研究所に戻った後は、比較的穏やかな時間である……と言いたいところだが、ここはここで慌ただしく好きではない。どちらが嫌いかと問われれば、間違いなく研究所と答えるだろう。
鮮紅月がどうなどという事象はもはや関係なく、研究者はいつも何かに追われていて時間の感覚がなくなることが多い。最も、俺はそこまで研究熱心でもなければ星学には対して興味はないのだが。ルシアンに「一番はしゃいでいるのはお前だろう」などと言われたが、あいつは何も知らないからそんな適当なことを言えるのだ。しかしまあ、鮮紅月で浮かれていると思われただけなら不幸中の幸いだろう。
元は父が使っていた研究所の自室に戻ると、俺はすぐに出入口から向かって右側にある二つの本棚に目をやった。五段ある棚にぎっしりと詰められた本の種類はと言えば、例えば月の満ち欠けについて研究した書籍や星の移り変わりを観察した研究書など、星学術に関係するようなものばかりだ。綺麗に本棚を埋め尽くしているそれは、まるで自分の身の潔白を証明しているかのようにわざとらしく羅列されている。ふと目を向けたその棚へ、俺は足を向けた。向かったのは、並べられているうち右の棚だ。
自分と同じ目線くらいの列にある、一番左端の本を二冊ほど手に取る。しかしその本に目をくれることはなく、本があった場所に更に右手を突っ込んだ。奥の棚の即面を思い切り押し込むと、ガコリと何かが外れた音が耳に入る。その音を確認し、俺はようやく棚から手を引き上げた。
「……ここに入るのも久しぶりだな」
棚同士の隙間に少々無理矢理手を突っ込むと、数冊の重みが無くなったほうの棚が、右の何も置かれていない空いているスペースへ動いていく。棚が完全にスライドされると、棚があった先にはひとつの部屋が現れる。ここを視界に入れる時、必ずと言っていいほど俺の眉間にはしわが寄った。
いわゆる隠し収納部屋には、父が星学研究所の総責任者の裏で調べていたとあるモノに関する書籍がこれでもかというくらいに乱立されている。一応片付けられてはいるものの、「研究にかまけて整頓が疎かになっている人間の部屋」という程度のもので、お世辞にも綺麗とは言い難い。
この場所を見つけたのは、父が死んでから半年後のことだ。責任者という籍を押し付けられ、面倒な雑務が片付いたのがおおかたそのくらいの時期だった。こんな面倒な場所はさっさと無くしてやりたいと思っていたのだが、少々難があって結局このままになっている。今日みたいにルシアンに小言を言われるくらいなら、この場所を有効活用してもいいかもしれないと思って中に入ってみたのだが……。
(あのクソ親父……)
もし今も父が存命していたのなら、面と向かってそう言ってやりたい気分に苛まれた。
父が裏で一体何を研究していたのか。そんなことは知ったことではないと一蹴りしたいところだが、当然そう簡単に行くわけがなく、ろくに手を付けないまま放っておいてあったのだ。表の本棚よりも一回り小さいくらいの本棚には入り切っていない本や資料が、乱雑に床に置かれている。ここ最近は全く触っていなかったせいで埃が少しかかっているのを払うついでに、一番近くのそれを手に取った。
「全く、どうすんだよこれ……」資料の題名と中身を流し見すればするほど、文句は止まることがなかった。
本当は、見つけた時すぐに処分したって構わなかったのだ。中身なんて俺が気にすることではないのだろうし、証拠隠滅だって早い方が当然よかっただろう。だが、俺はそうすることを躊躇したのである。
もうこの世には居ない人間に向かって、俺は思わず舌を鳴らした。