07話:嘘の剥奪


2024-08-14 21:43:58
文字サイズ
文字組
フォントゴシック体明朝体
「妖精の好きな食べ物?」

 カウンター越し、頬杖をつきながら言葉を返す店の店主は、僅かに視線を逸らして思考を巡らせはじめた。

「グランさんは知ってます?」
「いいや? 会ったこともない存在の好きな食べ物なんて、皆目検討もつかないよ」
「そうですよねぇ……」

 そう答えた後、僕は腕を組んであからさまに考えこんだ。
 図書館での勤務が終わって僕が最初に向かったのは、知り合いであるグランさんのお菓子屋である。街の中心部に構えている少しこじんまりしたお店の中には、瓶に詰められているお菓子がこれ見よがしに棚に沢山置かれている。定番のグミや飴にチョコはもちろん、異国の見たこと無いものまで置かれているところを見ると、グランさんの放浪好きな部分が垣間見えて少しだけ不安になってしまうのは、僕とグランさんは昔からの馴染みであるからだろう。

「にしても、随分と急に妖精の話を持ち出すね。もしかして、どこかで会ったりしたのかな?」
「ああいや、そういう訳じゃ……。妖精って、よく本に出てくるじゃないですか。でも、何を食べているのかとかそういうのってちゃんと書かれてないっていうか。書いてあっても創作の一種なので、本当のところはどうなのかなって」
「……まあ、創作じゃなくて実際に起きた史実という可能性もあるだろうから、一概に全部が嘘だとは言えないだろうさ」
「いやでも、花の蜜とかならまだ分かりますけど、こう……虫を捕食? みたいなのは流石にないんじゃないかなあっていうか」

 そう、僕が引っかかっているのはそこなのだ。ひと昔前の本ではわりとそういう描写のものが多かったのもあって、一度想像してみたことがあったんだけど、ロデオのあの顔でそんなことされたら流石の僕でもちょっと引いてしまうというものだ。
 でも、もし本当にそうだとするなら家にいるというのは酷なんじゃないだろうかとも思っている。いやでも、はじめて会った時蟻にかなり翻弄されていたし、グミを渡されて食べるのに苦労しているところを見るにそれは考えにくいというか、そうであって欲しいというか。勿論ロデオには聞いたけれど首を傾げたまま答えが返ってこなかったし、そもそも食べるという概念がないのだろうか? それがどうにも分からなくて、こうして腕を組んで唸ってしまう要因になっているのである。

「……やっぱり、会ったんだね?」
「え?」
「アオイは昔から嘘が下手だから、すぐに分かるよ。会ってみてどうだった? やっぱり手のひら程の大きさだった?」
「ああはい……。こう、手のひらに収まるくらいの……じゃなくて! いやあの、僕は別に見た訳じゃなくてですね」
「分かった分かった。まあそういうことにしておくとして、キミは妖精が一体何を食べるのかという部分が気になって仕方がないわけだ」

 クツクツとからかった笑みを溢しながら、グランさんは自身の定位置である椅子にもたれ掛かる。完全にバレてしまっているのは言うまでもないけれど、どうやら見ていないという体で話は継続するらしい。

「アルティはどうだい? 妖精について、意外と詳しかったりするのかな?」

 唐突に、グランさんがレジの側で暇そうに座っている店員のアルティさんに声をかける。が、雑誌を手に流しながらそれを眺めている彼女から、返答に至る言葉はまるで返ってはこない。

「無視ということは、実は知っていると私はそう解釈するけど」
「知りません」
「本当かな? キミも嘘が下手だから、隠していてもすぐにバレるんだ。言っておいた方が身のためだよ」
「だから知りません」
「アオイはどう思う? 私は嘘だと思うのだけれど」
「えーっと……。本当に知らないんですか?」
「何度も聞かないでよ! あと、買う気がないなら帰ってください」
「買います買います。だからもうちょっとだけ」
「それ三十分前にも聞きました」
「そ、そうだっけ?」

 言われてはじめて、アルティさんの後ろにある時計を視界に入れる。そんな長い時間を過ごしてしまったのだろうかと、自分の時間感覚を疑ってしまうほどだったが、時計をよく見るとまだ十分も経っていなかった。いや、まだ十分も経ってないですよ。そう口にしそうになったが、細かい指摘は怒られそうだから止めておこう。

「……妖精の食事が気になるということは、キミの家にそれが居たりしてね?」

 ふと投げ掛けられたグランさんのその言葉に、僕の心が跳ね上がった感覚が全身を走る。思わず苦笑を浮かべると、そのまま小さなため息が零れ落ちた。

「キミはもう少し、嘘をつくというのを学んだ方がいいね。私が相手だからまだいいものの、それを探し求めているような変態だったらどうなるか分かったもんじゃないよ」
「き、気を付けます……」

 こうして、ある程度の嘘が混じる話をグランさんの前ですると、どういう訳かすぐにバレてしまう。僕の素行の問題か、はたまたグランさんの直感力が優れているだけなのだろうか? 昔からそうであるから、どっちなのかが未だに分からないのだ。

「どういう経緯でそうなったのかは知らないけど、注意はしておいた方がいいね。妖精狩りなんて言葉が廃れてきたとはいえ、そんなのは裏でなら幾らでも出来るんだ」

 その言葉に、僕は少し背筋が伸びた気がした。言われてみれ分かったが、確かに心のどこかで少し浮かれていたのかも知れない。妖精と出会うだなんて、このご時世そう簡単には起きてはいけないことだ。仮に起きたとしても、本来はそれ以上首を突っ込むべきではないだろう。それがここ数日の出来事で少し感覚がおかしくなっていたのかも知れない。
 そうですね……などと小さな声でしか返事をすることが出来なかったのは、単に意気消沈してしまっただけなのか、それとも身の締まる思いに借られたからなのか、僕自信よく分からなかった。

「……まあそれはそれとして、そんなキミと妖精に、私からのプレゼントだ」

 そう口にしたグランさんは、徐に手を伸ばしすぐ傍にあるひとつの瓶に触れた。中には、ひと口サイズのクッキーの上に甘いアイシングがされているものだ。……ロデオの口では、恐らくひと口では無理だろうが。

「気に入ってくれるかは、その妖精次第だけど」
「いいんですか? でも……」
「アルティの給料から引いておくから、別に構わないさ」
「全然よくありませんから!」
「冗談だよ。まあいいから、貰っておきなさい」

 噛みつくかの如く身を乗り出すアルティさんを手で牽制しながら、グランさんは僕の胸元にそれを押し付けてくる。

「その妖精とやら、きっと待っているんじゃないのかな?」

 そう言いながら奏でる柔和で甘美な笑みに、僕は思わず押し付けられたそれに手をつけた。その瞬間、グランさんの手はすぐに瓶から離れていった。今も昔も、相変わらずグランさんの笑みには弱いのである。

「あ、ありがとうございます……」
「礼はいらないから早く行かないか。その妖精とやらに何かあっても、流石に私は責任をとれないよ」

 どうやら本当に妖精の身を案じてくれているようで、笑みこそ変わらないものの少し困った顔に移っていった。給料から引いておく、と言われていたアルティさんは、完全にむくれてしまっており僕を見ようなどという行為は一切しない。一言くらい何か気を遣った言葉を言えればよかったのだろうが、余り余計なことを言ってしまうとそれこそ火に油を注ぐことになってしまいそうだ。

「また来ます……っ!」

 短い言葉だけを置いていき、僕は比較的すぐに足を翻した。これ以上長居してしまってはお店にも迷惑がかかるだろうし、何よりロデオのもとに早く帰らなければという気持ちに駆られたのだ。しかし「また来ます」と言ったはいいものの、次に来た時にはまた鎌をかけられて簡単に喋ってしまいそうだ。いつものことと言ってしまえばそれまでだが、これはどうにかして余り突っ込まれないようにする術を身につけないとこの先が思いやられるというものだ。
 自分が思っているよりも問題が山積みであるというのをこんな場所で痛感しながら、僕は店を後に家へと向かうことにした。

 ――笑顔をまき散らしながら大きな足音を立て、マフラーを揺らして急いで店を後にするアオイは、どうやら酷くその妖精とやらに恋い焦がれているらしい。それがほんの僅かながらにも寂しく、かつ我が子のように嬉しく感じてしまうのは、彼のいつもの動向に原因があるのだろう。
 今回のようにアオイが自分の話をしに来るというのは珍しく、私が話を振らないと中々身の回りのことを滅多に口にはしない。せいぜい読んだ本の感想を口にするくらいで、今日もおおかたそんな話をするのだろうと思っていたのだが、どうやらひとりで何か面白いことに首を突っ込んだらしい。それともあのルシアン君も一緒なのだろうか?
 突然妖精の話を持ち出すということがそもそもおかしいのだが、前提として彼の特性を知っているからこそ、アオイの動向に変化が現れるほどの出来事があったのだろうという推察は容易に出来た。最も、彼は自分のことになどまるで興味がないお陰で、そのことに全く気付いていないだろうけれど。
 視界の端に映る、勤務中であるにも関わらず雑誌から目を離すことをしないひとりの従業員。それを咎めるなんていうことをする訳もなく、私は問いを投げた。

「ところでアルティは、本当に妖精と会ったことはないのかな?」
「し、しつこいです。何回も言わせないでください」
「はは、そうか。まあ、キミが妖精と知り合いだったとしても、私は特別驚かないけどね」

 これ以上言うと怒られそうだから、いい加減止めておくよ。一応そうつけ加えておくことにして、この話は一旦ここで区切りをつけることにする。別に怒られること自体はさして問題ではないが、踏み込んでいいことといけないことの判別くらいは出来ているつもりだ。

「……妖精、か」

 まだ消化の出来ない言葉を口にしながら、私は再び身体を背もたれに預けた。


   ◇


 もうそろそろ太陽の役目が終わる時間、息を切らして走っているのは、見る限りでは僕だけらしい。グランさんのお店から家までの距離が特別遠いわけではないけれど、それでも僕の足が止まることはなかった。
 いくらバレるのが不味いからといって、あんな小さい、しかも妖精を家にひとり置いておくというのが正しいとは思っていない。バレないようにする、という点では確かにそれは間違ってはいないのだろうが、かといって家を開けすぎるだなんてもってのほかだ。ルシアンがこの場に居たら、「そんなに言うならあの時潔く置いていけばよかったのに」と言われてしまいそうである。例えばもう一人、誰かが家に居たのならまた話は違ってくるのかも知れないが……。

「た、ただいまあ……」

 扉を開けてすぐ、つい最近までは自分しかいなかったはずの部屋に言葉を向けるというのは、なんとも不思議な心持ちである。
 ロデオが居るからと付けっぱなしにしていた電気を、帰ってきた時のいつもの癖で思わず電源に手をかけてしまいそうになったが辛うじて回避した。日々の習慣というのはこういう場合において少々やっかいである。しかもそこに居るのは妖精なのだから、家に帰ったところで落ち着くわけがなかった。
 朝、家を出るときはここにいたはずというだけでベッドのすぐ側にある腰くらいの棚へと足を進める。近づくよりも前にロデオが顔を覗かせていたお陰で、探すという行為には至らなかった。

「……元気?」
「うんっ」

 ロデオが居るのは、お菓子の入っていた丸い缶に適当なタオルが入った超簡易的なベッドである。リベリオさんの家で見た時のような丁度いいカゴなんて一人暮らしの男部屋にあるわけがなく、これもグランさんのところで買ったものだ。最も、本人が気に入っているかは分からないが……。

「あ、これ。知り合いからもらったんだけど食べる? 知ってるかな……」

 僕が一段落ついて忘れてしまうよりも前に、グランさんから貰ったクッキーをロデオの前に提示することにした。

「おいら、これ知ってる! く、く……くっきー?」
「そうそう、クッキー。上にアイシングが乗ってるやつだから、普通のクッキーよりも甘いんじゃないかなあ」
「あいしんぐ……」
「えっと……お砂糖がついてるんだよ」
「おさとう……」

 分かっているのかいないのか、僕の言葉を反復するロデオにさてどうやって砂糖の説明をしようかと考えてしまったが、もしかしたら僕の口にしたことを反復しているだけなのかもしれないということにしておいて、僕はそれ以上説明はしないことにした。グランさんやルシアンだったらもう少し上手くやり取りが出来たかも知れないと思うと、些か申し訳なさが募ってしまう。
 瓶の中、更に袋で梱包されているのを少々強引に取り出し、切り口にそって袋を開けた。少し小さめのクッキーが沢山入っており、アイシングによって水色とピンクと黄色の三種類に分けられており色とりどりに飾られている。恐らくはごく普通のクッキーなのだろうが、やはり色があるだけでだいぶ華やかだ。

「何色がいい?」
「う、うーんうーん……これっ」

 ロデオが指をさしたのは、水色のクッキーだった。行く手を阻む別の色のクッキーをどうにかして避け、摘まんだ水色のそれをロデオに手渡した。僕にとっては一口ではあるが、ロデオが手にするとまるでクッキーが大きくなってしまったかのように両手に納められた。

「……美味しい?」
「あまぁい」

 それは果たして美味しいのかどうなのかは疑問なのだけど、一口だけではなく二口と続いていく様子を見るに、多分嫌な甘さというわけではないのだろう。気をつかって食べているだけなのではと言われてしまえばそれまでだが……。念のため、どれくらいの甘さなのかを確かめようとピンクのアイシングがされているクッキーをひとつ摘まんで口に運んだ。数回咀嚼した後に浮かんだ感想をあえて言うのであれば、「見た目ほど甘くはない」といったところだった。小さいクッキーが数十と入っているからだろうか? 確かに甘いは甘いのだが嫌な甘さではなくように感じた。最も、僕の味覚が一般的なものかどうかは分からないが。
 気づけば、ロデオの手元にあるクッキーは先ほどよりもかなり減っているようだった。減っているといっても僕達からしたらその量は微々たるものかも知れないが、それでも僕は少なからず安心した。人間からのものなんて受け取らないくらいの態度でもおかしくないと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしいのだ。ロデオの性格によるものなのか、それとも過去に会った人間が大層いい人ばかりだったのかは分からない。

「ね、ねえ」

 だからどう、というわけでは決してないのだが……。

「その……。ロデオは、エリオットって人知ってる?」

 例えばその過去に会った人間が大層いい人ばかりだったという部分に関しては、エリオットさんや彼を匿ったリベリオさん達が当てはまっていればいいなと、そう思ったのだ。

「……し、知ってるよ」

 唐突な僕の問いに、ロデオは疑問を提示するわけでもなく恐る恐る肯定をした。

「アオイは、エリオットのこと知ってるの……?」

 クッキーで顔の殆どを隠し、首を傾げてそう問いかけてくるロデオは何ともあどけなかった。そんなロデオに、果たしてエリオットさんのことを聞いていいものなのか一抹の不安が募る。

「知ってるというか……昨日ね、夢にエリオットって人が出てきたんだけど、そこにリベリオさんとか、あとロデオも居たから……。どうなのかなあって」
「ゆめ……?」
「ええっと……。寝るとたまに見るやつ、かな? うん」

 首を傾げたロデオに、なるべく簡素な説明を述べた。

「そ、それなら、おいらも見るよ」

 果たして本当に伝わっているのか心配だったが、どうやらその心配はないらしい。

「ねむくなると、いつもみんながいるの。リベリオと、二シュアと、ゼフィルと、ティーナと……。あ、あとクロードとシェルロも! それと、れ、れ……れー、れい?」
「レイヴェン……?」
「う、うんっ。みんな、リベリオの家で楽しそうにお話してるの」

 あの家で僕が見たものと似たようなものがロデオの頭の中で行われているというのは、ロデオの顔を見れば比較的すぐに理解することが出来た。それくらい鮮明に、今もなおロデオの記憶に残っているということなのだろう。それとも何か、それくらい印象的なことが当時あったのだろうか?

「でも、いつもエリオットだけいないの」

 しかし、それでもエリオットという人物の話になると様子が変わる。声のトーンが少し落ち、視線もどこか遠くに行ってしまった。

 ロデオが口にしてくれた夢の話は、おおかたこんな感じである。
 夢の中のロデオは、リベリオの部屋で談笑している彼らの中に混じって、猫のクロードの頭の上にいつもいるのだそうだ。しかしロデオも最初はエリオットさんがいないということには気づいておらず、それに気づくのはクロードとシェルが鳴き声で一声挨拶を交わしたのが皮切りだった。
 エリオットさんがいないことを不思議に思ったロデオがエリオットさんを探しに外に出ると、なんとそこは色のついてない黒と白の世界になっているらしい。いつもの景観に色がついてないという状況に泣きそうになりながら彼を探しているうちにたどり着くのは、とある場所に静かに存在している花畑だ。
 色のついていない花の上を、自身の羽を動かし見つかるかも分からないエリオットさんを探していると、見覚えのある後ろ姿をようやく見つけるのだそうだ。しかしその人物はロデオにはまだ気づいていないのかこちらを向くことはせず、またエリオットさんとの距離は一向に縮まらないらしい。その人物をエリオットさんだと判断するのに特別時間はかからなかったようで、ロデオはすぐに彼の名前を呼んだ。

『エリオット……っ!』

 ロデオがそう口にすると、エリオットさんはゆっくりとロデオのいる方に身体を向ける。すると、エリオットさんは何か言葉を発しているようで口が僅かに動き出すのだそうだ。一体何を伝えようとしているのか、ロデオが耳を澄ませようとしたときのことである。大きな風が、辺りを取り巻くのだそうだ。ロデオが思わず目をつむったところで、いつも目が覚めてしまうらしい。

「うえっ……ぐす……」

 ――気づけばロデオの目には大きな水だまりが出来ており、さらには鼻をならしていた。その水だまりが形を崩して落ちていってしまうのに、そう時間はかからない。

「うえええん……」
「ご、ごめんごめんっ!」

 声を出して眉を歪めるロデオに、思わず声高に謝罪の言葉が出てしまった。しかしここで僕に出来ることといえば特になく、それどころかロデオが泣いてしまった原因を作ってしまった手前、ただただあたふたすることしか出来ないでいた。手元のクッキーに少し涙が染みついているのも最早余り気にならないが、やはりこの類いの話題を軽率に口にするべきではなかったとしか言いようがないだろう。
 ルシアンから聞いた、リベリオさんの家で起きたとあるひとつの事件。その当事者と思わしきエリオットさんは、その事件のあった日に忽然と姿を消した。

(……亡命か)

 ロデオの彼らに対する想いがどれ程のものなのか、今の僕に計り知ることは当然難しい。


   ◇


 つい最近まで辺りを蔓延していた埃はすっかりと無くなり、本来の存在意義を取り戻した書個室には、オレンジがかった優しい光が落とされていた。誰にも邪魔をされないようにと、わざわざ内側から鍵まで閉めた徹底っぷりで環境音は俺が動いた時にしか聞こえてこない。
 元々置いてあった大層な作業机の上には、整頓したはずの本の類いが十を超えるほどに詰まれている。ひとつひとつ確実にそれらを頭の中に叩き込もうとすると、そうなってしまうの仕方がないというものだろう。
 一般的には流通することのない極めて希少な本があるにも関わらず、俺はそれに目もくれず、とあるものの内容をひたすら頭の中で復唱していた。

「誰もが見とれる赤い花、か」

 ここを掃除した時、アオイが口にした内容は全て覚えている。覚えているというよりは、思い出す必要のない程に、それは鮮明に俺の中にも存在していたと言って等しいだろう。それくらいにアオイが口にした言葉を全て憶えている、ということだ。
 ただひとつ問題があるとするのなら、そのアオイが読んだ手記が果たしてどれだったかという部分だろう。手当たり次第に漁ってはみたものの、その成果は薄く、こうして机の上に数多くのそれらを連ねることになってしまった。どうしてここまでその手記を探すことに苦戦しているかと言うと、単純に手記の数が50を超えているからというところにある。人ひとりが書いたとも思えないほどの量を前に、こうして再度ここに足を運んだことをかなり後悔していた。
 それでも俺は、時が経ったにも関わらずそれ程痛んでいないそれらに手をかけることを止めはしない。理由のひとつとして挙げるとするのなら、どうしてこの家に彼の手記が残されているのかというところに、僅かながらも引っ掛かる部分があったからだ。単純に知り合いだったから? 当時名を馳せた小説家だったから?

 ――この図書館という場所を行使して、私はあの屋敷に残されたリベリオの手記を全て書庫室へと移し渡した。

 本当に、それだけの理由しかないのだろうか?

 ――果たして、何がリベリオをそうさせたのかは分からない。恐らくは、私の理解が及ばないことがそこにはあったのだろう。だからこそ、とでも言えばいいのだろうか。

 そうであるのなら、レイヴェンの日記にあんな言葉が書いてあるはずがない。

 ――それでも私は、リベリオの意思全てに耳を傾け、彼が『遺作』と唱えた色褪せた物語を、本という形あるモノへと置き換えた。

 たったひとりの小説家の書いた全ての手記がここに残されているというのが、一体何を意味するのか。

 ――私だからこそ分かってしまう、彼の作品の中に残された真実と事実が、全て嘘で塗り固められていることを切に願うしか他ない。

 ほんの僅かながらにも、俺は興味があった。いつもならどうでもいいと思ったものを、知りたいと思ってしまった。我ながら自分らしくないとは思うのだが、ここまであからさまに「誰か真実に辿り着いてください」と言わんばかりにリベリオとレイヴェンの手記がおおかた全て残されているというのは不自然極まりない。
 それにもうひとつ、アオイがこの古文で塗り固められた手記を読めてしまったというところにある。というより、こんなことを考えないといけなくなってしまったのは全てはアオイのせいだ。

「俺だけじゃ無理だな……」

 分かってはいたが、夜中にこの部屋に来て約四十分で早々に根を上げる。そもそもが興味のないことであるというのが前提として存在しているせいで単純にやる気が出ないし、まずこれらリベリオさんの手記と、レイヴェンの日記をイチから洗い流すというのはどう考えても無理があるだろう。何処かの小説馬鹿が入れば幾らかマシだったかも知れないけど、どうせ見るのに夢中になって本来の目的なんて忘れるのがオチだ。最も、頼む気なんて微塵もないけれど。
 というよりも、こんなことをして本当に意味があるのか? とも正直思う。わざわざ睡眠時間を削って、数百年も前のことなんて調べて、一体何が変わるというのだろうか。
 気付けば手は完全に止まってしまっていて、そんなことばかり考えていた。いっそ、このまま諦めて自室に戻ればいいとさえ思った。別に誰かに頼まれてやっている訳でもないし、止めたところで咎められることもないだろう。ここにリベリオさんの手記があることも、レイヴェンの残した日記の内容も、アオイが手記の中身を読めた理由も、ロデオという妖精が現れたということも、あの屋敷で見た景象も、道中にある花畑と呼ばれた場所も。全部、よく考えたら微塵も気にならない。本当に、関係のないことばかりじゃないか。

「……やっぱり出るか」

 そう考えたら、目の前にある無数の紙なんて俺の視界から外れるのは時間の問題だった。椅子の軋む音に押され、俺はすぐさま席を立つ。数あるそれらの中から数冊だけ手に取り、申し訳程度に適当に本棚に入れた。
 無機質に鳴る、鍵が開かれる音。必要な鍵だけを持ち歩くというのは、どれがどの鍵なのかというのを考えなくて済むというのがいい。外の鍵もそうしてくれればいいのになどと思いながら、部屋に灯された明かりは指ひとつで容易に消えた。


   ◇


 漫然と続く暗闇の中、ひとり歩を進めるというのは、それ相応に妖しい気持ちになってしまっても仕方が無いというものだ。特別悪いことなんてしていないのに俺にそう思わせるだけの力を持つということは、そもそも夜中に出歩くもんじゃないという固定概念が存在しているからだろう。でも俺は、その中でもひと際輝くことを止めない星と、一定の周期の中で何とか誰かに気付いてもらおうとしているかのように光を落としてくる月がある限りは、別に夜に外出することが悪だとは思わないのだ。ただ、そこに必ずと言っていいほどに付随する、暗闇に乗じて何かをしようという人間の行動が悪というだけである。
 弱く頬に当たる風のせいで、やけに前髪が目にかかるのを少しだけ気にしながら、俺は街外れにあるすっかり錆びた扉の鍵を開けた。ここから先、住んでいる人もいなければ街灯なんてものがあるわけなく、ランタンの光だけだと少し心もとないというのは知っている。まあ、こんなところなんて誰が来るわけでもないだろうしほぼ一本道だから、もう慣れてしまった俺からすればそれは些細なことだ。
 リベリオさんの家に行くことは比較的簡単で容易だけれど、今回の目的はそこじゃない。足を止めた場所は、希代の小説家と言われた人物の家へと向かう丁度真ん中辺りである。花畑に続く道は、まるであたかも最初からそこに存在していたかのような白々しさと相俟って、薄味悪いほどに静寂が続いている。それは決して夜だからどう、という話ではない。ある種、この道を知ったその時から、俺はずっとそう感じていたと言っても差支えはないだろう。アオイはどうもそうは思ってなかったようだったけれど、別にそれはどうだっていい。問題は、目的の場所についてからだ。
 一応、どうして俺がそう思ってしまうのかについての理由はある程度見当がついている。でもそれは、まだ憶測の範囲でしかないから誰かに言うことはしない。というよりも、誰かに言ったところでどうせ「この男は一体何を言っているのか?」という顔をされて終わるだろう。それに、現状でのその話は単純に時間の無駄だ。
 ――別に、何もいなかった。あの時、誰かが言った適当な言葉。本当なら、あの場所ですぐにでも問い詰めてやりたかったところだけど、そうすることを俺はしなかった。

「ねえ、居るんでしょ?」

 あんな下手な嘘に話を合わせるということに、すっかり慣れてしまっていたというのが原因だ。それを分かっているにも関わらず、知らないふりをしてこうして再び足を運んでいる俺は、控えめに言っても馬鹿なのだろう。
 どこからでもなく、草の揺れる音が耳に入る。風に揺れたから発せられた音とはまた違う。それは、今はまだ姿を見せない何かがいるという合図だということを、俺は知っていた。

「……久しぶり、だっけ? この前は姿も見せてくれなかったよね。アオイがいたからかな?」

 今となっては草原の真ん中で、誰かがいるわけでもない場所でひとり声を上げる。はたから見たら何をやっているのだろうかと首を傾げられると同時に、怪訝な顔をされること間違いなしではないだろうか?

「ちょっとだけ、俺と話でもしない?」

 どこからともなく吹き抜ける優しい風が、どこかに居るはずの何かを如実に表しているような、そんな気がした。

いいね!