06話:有限は虚空に映る


2024-08-14 21:42:14
文字サイズ
文字組
フォントゴシック体明朝体
 朝方の少し冷たい空気は、俺を支配している眠気を相殺するにはまだ少し物足りない。この時間に起きているだなんて珍しい、などと各方面から声が聞こえてきそうだが、それでも体を動かさないといけない理由があった。

「……今日はお早いんですね」
「レイヴェンが来るからな」
「それだけで早起きする貴方では無いでしょうに」

 早速馬鹿にされているのか何なのか、ゼフィルの口からは当然のようにそんな言葉が繰り出された。茶化しているというよりは、今日これから先に起こることを危惧しているような、そんな感じに近かったのかもしれない。

「これでも、一応ビビってるんだ」

 いくら幼馴染み相手とはいえ、ある程度真面目な話をするとなるとどうにも落ち着きが悪くなる。昔からそうだ。

「エリオットの部屋行ってくる」

 ゼフィルとの会話を早々に済ませ、俺は足早にエリオットの部屋へと向かった。時間が全くないというわけでもないのだが、やはり少々落ち着きに欠けていたのかエリオットの部屋にはすぐについてしまった。部屋を一応ノックはしてみたものの返事のようなものはなく、仕方なく扉を開ける。

「どうだ、調子は?」

 外の景観を眺めていたのか、窓のすぐそばにある椅子にエリオットは腰かけていた。エリオットからの返事は一向に返ってくる気配がなく、辛うじて目があったのはこの部屋に入った瞬間だけで、その後は視線を行ったり来たりさせていた。

「……飯食うだろ? 早く来ないと冷める」

 そうは言っても時間よりも少々早いのだが、殆ど無反応な人間にはこのくらいが丁度いいだろう。それにこんな状態の人間を部屋にひとりにさせておくというのは、些か不安が募るというものである。
 エリオットの膝の上に静かに座るロデオは、気を遣っているのか恐る恐るオレを視界に入れているようだった。

「……なあ、結局妖精っていつもなに食ってるんだ? 虫とか言われても困るけど。ティーナが困ってたぞ」
「んん? 虫さんはお友達だよぉ」
「ならいいわ、うん。一生友達でいてくれ」

 首を傾げるロデオを前に、俺は切にそう願っておくことにした。結局ろくな収穫は得られなかったが、妖精に食事をするという概念がなかったとしても特別驚きはしない。虫と言われてもまあ驚きはしないが……出来れば止めて頂きたいものである。
 こいつが家に来てからまだ数日しか経ってはいないが、ロデオが一体何を好んで物を食すのかが未だに理解できていない。質問してもさっきのようなふんわりとした答えしか返ってこないし、エリオット向けに出されたものを見ただけで目をキラキラとさせてしまうのだから、恐らくは見解通り食べるという概念がないのだろう。しかしそうは言ってもこっちだけが食卓を囲むわけにもいかず、ティーナが毎回頭を抱えている。いい加減なんとかしてやりたいものだが、まだ暫くは難しそうだ。

「……この後、十時過ぎに客人が来るんだ。お前も紹介したい」

 今日、俺がこいつの部屋に足を運んだのには当然理由がある。ただ飯に呼ぶくらいなら、俺が呼びに行く必要なんてないというものだ。

「……その人も、貴族なんですか?」
「ああ、まあな。ここに来るのは、そいつとその家族くらいだよ」

 そう答えると、エリオットは少々考え込むように視線を逸らした。記憶を失っているというのもあってか、恐らく本人なりに思うところはあるのだろう。それとも、潜在的に自分の存在を余り人に知られなくないと思っているのだろうか? 警戒心があるのは結構なのだが、今回に関しては出来れば警戒心剥き出しの事態は避けたいのである。

「まあ一応、信用出来る相手だ。お前にとってどうかは分からないけどな」

 こんなこと本人に言ったら苦い顔をされてしまいそうだが、俺は嘘なんて言っていない。生産性の欠片もない嘘なんて俺は嫌いだ。

「……別に、反対はしません」
「本当か? 後で文句言われても困る」

 この反対しないというのが、言いたいことがあるが言わないということなのか、それとも本当に反対する理由がないからなのかの判断に少々困った俺は、一応不満の有無を聞いてみることにした。例えばこれで本当は嫌というのなら、そこまでして会わせることは現段階では白紙にしていたかもしれない。

「……反対出来るほど、おれは自分がどういう状況にあるのか分かってないので」

 しかし、どうやらそれともまた少し違ったようだ。

「だから別に、どっちでもいいです」

 少なからずエリオットの口調は投げやりで、この間俺と目を合わせることをしなかった。俺はそのエリオットの答えにどう反応するべきかかなり困った。記憶が薄れる、或いは忘れるということはあっても、記憶を完全に無くすという経験をしたことがなかったからだ。

「別に、お前から何かを説明させたいわけじゃない。適当に話は纏めておくから、思うことがあるならゼフィルにでも匿ってもらえ。一応、まだ時間はあるからな」

 俺の質問は、配慮というものが完全に欠けていたに違いない。

「そろそろ行かないと俺がどやされる。あと腹減った」
「お、おれはいいです……」
「なんだと? 俺が怒られてもいいんだな? ついでにここに来るまでの労力を返せ」
「りべりお、おこられちゃうの……?」
「ロデオからも言ってくれよ。多分その方が効く」

 しかし、配慮を持ち合わせすぎていていては貴族の当主なんてやっていられないというものだ。


   ◇


「……珍しいな、俺が来る前に起きてるなんて」

 顔を合わせて早々にこの類いのことを言われるのは、今日だけで四回目のことである。

「いや、そういう時だってあるだろ」
「出来れば毎回そうであってほしいよ」

 全くどいつもこいつも俺のことをなんだと思っているんだと、それ相応に規則正しい生活をしていれば言えたかもしれない。しかしそうではないという自覚が、俺の口を止めさせた。
 レイヴェンがこの家を訪れてすぐ、俺の部屋の客用のテーブルとソファーには紙束が大量に並べられた。俺の隣にはクロードが居たお陰で荒らされないか少々気がかりだったが、どうやらその心配はいらなかったらしく、ソファーの上に置いてあるクッションを陣取って優雅に寝転んでいた。

「早速だけど、お前この前の初稿誤字酷かったぞ。寝ながら書いたのか?」
「俺は切実に寝ながら書けるようになりたいわ……」

 何を馬鹿なことをと言われそうだが、寝ながら執筆作業が出来る術があるのなら真面目に身につけたいくらいである。そんなこと本当にやったら死期が早まりそうではあるが、願望くらいは別に口にしたって構わないだろう。

「んで、中身は?」
「内容にケチつけたことは一回も無いんだから、気にすることでもないだろ」
「甘やかしすぎだろ? 自分が天才かと錯覚するわ」

 レイヴェンの答えに、俺は思わず思いきりソファーにもたれかかった。
 俺が口にしたように、レイヴェンは俺が書いた小説に口を出したことは一度もない。一体何のためにこの男が間に入っているのか、こうなってくると最早よく分からないだろう。しかしまあ、そこら辺の編集者を名乗る人間よりは幾らかマシかも知れない。

「……別に、そう思ったって差し支えないだろうに」

 ぼそりと口にしたそれは、どちらかといえば独り言に近かった。

「褒めてもなんも出ないけど?」
「そんなことよりも、お前が欲しがってた資料集めてきたから感謝しろ」
「おいおい、お前は神か?」

 あからさまに話を逸らしてきたレイヴェンに、俺はすぐさま乗っかった。俺が欲しがっていた資料というのは、お菓子の種類と作り方が載っている本である。お菓子と一括りにしてもその種類は多岐に渡り、例えばケーキは勿論、クッキーやチョコレートにキャンデーといった定番のものや、異国の聞いたとこはあるが見たことのないものなど、とにかくあるだけのお菓子の資料を頼んだのだ。今日のレイヴェンの手荷物は殆どがそれで、ドサリという音がテーブルの上にまでのし掛かった。しかし五、六冊でいいと言うといつも十冊以上持ってくるのは、流石図書館を営んでいると言うべきか、単にこいつの目分量がおかしいのか判断に困るところである。
 この資料を請求したのは、今回レイヴェンに渡したいわゆる初稿とはまた別のシナリオで使おうと思っているのだが、それよりもニシュアとティーナが見たがっていたからという理由のほうが大きかったかも知れない。本来、興味の湧かないものの資料を頼むだなんてことを俺はしないのだ。

「……で、何があった?」

 テーブルに雑に置かれた本の数々を手に取り品定めをしていると、レイヴェンは急にそんなことを口にし始めた。思わず、ウロウロさせていた手が止まってしまう。

「俺が来る前に準備万端でお前が居るんだから、そういうことじゃないのか?」

 相変わらずというべきなのか、それとも俺が身支度をして午前中からちゃんと起きているからこそなのか、やはりこの人物は誰よりも察しが良かった。

「……なんでどいつもこいつも、早く起きたくらいで物珍しい目で見てくるんだろうな」
「それくらい珍しいってことなんだろ。嫌なら規則正しい生活でも送って見せろ」
「無理難題だわ……」

 当然俺に自覚が全くないわけではなく、本当ならレイヴェンの言う規則正しいごく一般的な生活をするべきなのだろうが、そんなにすぐ元に戻せるのならこんな文句なんて出てはこないだろう。まあ、レイヴェンにとってはそれがある意味分かりやすくていいのかも知れないが。
 今この部屋には、俺とレイヴェン……あとクロードしかいない状況だ。仕事の話をする時はいつもそうなのだが、それにしたってここまで真面目な空気になることなんてないだろう。

「今、この家にお前以外に客人が来てるんだ」
「……客人?」

 そう口にすると、レイヴェンは途端に酷く訝しい顔を見せた。一体どうして自分とその身内以外に客人がこの家にいるのかというような、おおかたその類いのことを思っているのだろう。それくらいは考えなくたって分かる。この家に人が訪れるということは、そういうことなのだ。
 俺はまず、その客人がどうしてここに居るのかの経緯を説明することにした。一口に客人と言ってもその人物がここを訪ねて来たというわけではなく、花畑へと向かう道で血まみれの状態で倒れていたところをニシュアが見つけここに運ばれたが、その客人は血に塗れるほどの怪我を負っていなかったということ。その客人は妖精を連れていたということ。どうやら記憶の殆どを無くしているらしく、名前がエリオットであるらしいということしかその人物の情報が分からない……。とまあ、大まかにそんな感じの説明を、レイヴェンはただただ聞いていた。
 この幾ばくかの沈黙は、レイヴェンの考えをまとめるのに必要な時間だったに違いない。

「……なるほどな」

 これから先は、仕事の話と言うよりも貴族としての話である。レイヴェンの顔がそれを物語っていた。

「そいつ、今どこにいる?」
「え? ああ……確か、ニシュアに捕まって一緒に庭に居るんだったと思ったけど」
「ひとり……じゃないか。その客人っていうのはエリオットと妖精だけだよな?」

 聞かれたくない話が含まれているのかなんなのか、今一度レイヴェンは状況の確認を俺に取った。俺が肯定の合図を口に出した後、再び考え込んでしまう。この男は比較的すぐに結論を提示してくるのだが、今回はどうやら少し前置きが必要らしい。

「そいつが居た街……。いや、エリオットの家系がと言った方が正しいか」

 どうやら、この短時間でレイヴェンの中でようやく話がまとまったようだ。

「その家、妖精の研究と謳って妖精狩りをしているという噂が大昔からあった。恐らく市民は知らないだろうけどな」

 そして、どうしてレイヴェンがそこまで時間を要していたのかの片鱗が見え始めていく。この段階で俺すらも、ああなるほどとある意味納得をしてしまう話が含まれていた。

「エリオットが行方不明になった三日後、エリオットの両親と他三人が殺害されているところが発見された。だからエリオット捜索の届けがこの街にまで来たって話はしたよな?」
「ああ……」
「そのエリオットが失踪した翌日に、一人の女性が姿を眩ませている。どうも大層親しかったらしい」

 その話を聞いて、少々嫌な予感が頭をよぎりはじめていく。

「……つまり、エリオットを追った?」
「可能性のひとつとしてなら、それは十分にある」

 レイヴェンが言った可能性のひとつとしてそれはあり得るというのは確かにそうで、その可能性が限りなくゼロに近かったとしても起こりえないと言うのは全くもって早計だろう。しかし、それにしても一人の女性が行方を眩ませているという状況がまずい。

「……エリオットの服についていた血が、その女のモノだっていう可能性は?」

 何故なら、この余り考えたくない事象がおおかた立証出来てしまうからだ。

「可能性は全くない、とは言い難いだろ」

 あえてと言うべきなのか、レイヴェンはここで明言まではしなかった。

「妖精の研究をしていた、っていうのはおおかた事実だろう。それはこの際構わない。が、そこを統括していた人物が殺害され、息子が逃走。更に親しかった人間の行方が分からないとなると、その事件がまだ貴族間にしか共有されていないことが唯一の救いだが、事態としては最悪だな」

 だが、明言をしようがしまいが良い状況ではないことは明白だ。

「……エリオットが犯人である可能性が否定できない以上、ただ匿いましたと言うにはリスクが高い」

 そして、こちら側が言いたいことを全て先回りされてしまっているらしいという直感が働いてしまったせいで、自分の家だというのに些か居心地が悪かった。

「これを聞いても匿うって言うか?」
「……まだ何も言ってない」
「言う気は満々だっただろ」

 一体いつからそう思われてたのか、レイヴェンは俺の考えを断定した。

「今言ったことは全部憶測に過ぎない。が、見つかれば確実に全部の罪がエリオットに被るだろうな。本当に犯人じゃなかったとしても、それで隠蔽が楽に出来るのなら貴族の考えてることなんて大体想像がつく」

 レイヴェンは、更に俺が一番危惧している状況を口にした。この辺りの思考は恐らく貴族だからこそなのだろう。そうじゃなきゃ、ここまで考えが一致するなんてことはあり得ない。レイヴェンは既に情報を掴んでいたようだから、おおかた俺と似たようなことを既に考えていたのではないだろうか?

「……まあ、それはあくまでも早々にここにエリオットが居ると分かった場合の話だ」

 その言葉に、俺は自然と今までより一層耳を傾けた。レイヴェンのこの切り出し方は俺にとってはある意味では確かに幸運だった。

「見つからなかったら見つからなかったで、どうせ適当に隠蔽するんだろうからな。ああいう奴等は、必要だったら犯人だってでっち上げるだろ」

 しかし、それはあくまでも俺の考えを汲んだ上での発言であることを、俺は忘れてはならないだろう。

「今の話は何も聞かなかったことにしてやってもいい。別に難しいことじゃない。ここが見つからないようにすることだって出来る。お前が一番よく知ってるだろ?」
「……本気か?」
「本気だよ」

 元々は俺が持ちかけようとしていた話ではあるのだが、ここまで協力的に物事を進められるとなると多少なりとも気が引けてしまうし、なにより都合が良すぎるというものである。全くもって自分勝手ではあるが、本来は俺のほうから交渉するべき話なのにそれが逆になってしまっているというのも要因のひとつだろう。

「今までだって、そうしてきたんだ」

 この言葉が、一体どれだけの事柄を経て出てきたものなのかというのは、出来れば余り考えたくはない。

「但し、これ以上事態が悪化するようなことだけは避けてくれ。そうなってくると流石に俺だけじゃどうにも出来ない」

 一応といったていで釘を刺してきたが、つまりはこの際犯人だろうが記憶喪失だろうがこれ以上の騒ぎにならないようにお前が気を配れといったところだろう。もとよりそのつもりなのだが、実のところこれが一番難しい。

「……もっと反対されるかと思ってた」
「言い逃れが出来ないほどの証拠があれば別だが、まともに取り合ったってお前聞かないだろ? こういうことは特別珍しい話でもないし、こっちから引き下がった方が早い」

 最悪、一家まるごと一瞬で存続が危うくなるなんていう可能性があるわけだ。

「それより、一応エリオットに会わせてくれ。居るんだろ?」
「あ、ああ……」
「……不満か?」
「いや……ゼフィル達にはまだ簡単な話しかしてないから、まだ余計なことは言わないようにしてくれ」
「そう言われてもな……。辻褄を合わせるならもう少し擦り合わせしないと無理だ」
「それは確かにそうだけど、顔合わせる以上のことはするなよって話」
「この状況で余計なことなんて言うにも言えないだろ」
「分かった分かった。俺が悪かったから行くなら早く行ってくれ」

 終わらなそうな言い合いに無理矢理終止符をうつと、レイヴェンはひとつため息をつく。それ以上気が緩むよりも前に腰を上げ、何をいうでもなく部屋を出て行ってしまった。別にそうまでして急いでエリオットに会う必要もなさそうだが、きっとここに帰ってきたら情報の擦り合わせがまた始まるのだろう。こうなってしまっては、今日はもう仕事どころでは無くなりそうだ。
 今のこの短い時間が、今日唯一の安堵の時間と言っても差支えはないかも知れないと思うと、俺までため息が漏れてしまう。

「言い逃れが出来ないほどの証拠、ねぇ……」

 少し前にレイヴェンが口にしたその言葉を、俺は再び反復する。

「あっても黙認するだろ、俺の頼みだったら」

 誰もいない部屋にこだまする声は、当然ながら誰も拾ってはくれない。


   ◇


「客人のエリオットがいるんだろ? まだ庭にいるんだよな?」
「……黙認されるんですか?」

 廊下で鉢合わせたとあるひとりの従者の口調は、明らかに機嫌を損ねている時のそれだった。
 一体どこまでの話がゼフィル達に伝わっているのかはまだ知らないが、こうして詰め寄られてしまうのだから亡命の有無くらいの話はしているのかも知れない。どちらにしても、ただエリオットの居場所を聞いたくらいでこうもあからさまにされてしまっては、こっちもたまったものではない。

「別に、お前に文句を言われる筋合いはない話だ」

 聞き耳でも立てていたのか、それとも家に来てまだ数十分も経っていないのに俺が部屋から出てくるという行為が少々不振だったのか、どちらにせよどうにも俺の提示した結論に不服らしいが、どうにもゼフィルが首を突っ込んでくる理由がよく分からなかった。

「リベリオ様とどういった話をされたのかは分かりませんが、仮にあの人が犯人だったとすれば匿った我々も立派な犯罪者ですよ?」

 この言い分をきいても、それはなおのことである。確かにこの男の言い分は最もだ。それ自体は理解できる。亡命の片棒を担ぐくらいまではある程度の黙認がきくが、仮にそれが犯罪者だった場合話は状況は変わってくるだろう。それこそ見つかれば犯罪者どころの騒ぎではないはずだ。

「……それが嫌なら、あの時さっさと出ていけばよかったじゃないか」

 俺の口調は、恐らくいつにも増して冷たく冷えきっていたことだろう。

「この家に居るということはそういうことだというのを、忘れるお前じゃないだろう?」

 リベリオよりも従者からこの類いの言葉を聞くほうが、正直タチが悪いかもしれない。
 冷たくあしらいゼフィルの言葉が途切れたのを確認して、俺は一階へ続く階段を降りた。リベリオはエリオットは今庭にいるらしいという話をしていたが、一応居場所をもう一人の従者であるティーナに聞いてみることにした。本当はこんなことをしないでさっさと庭にでたほうが早いのだろうが、これはある種の聞き込みである。意識調査とでもいうべきだろうか? リベリオ以外にこの家に住んでいる人物が、エリオットを家に置くという状況をどう思っているのかというのはある意味リベリオ以上に俺が分かっていないといけないことだろう。そういう結論をつけた俺にだって、一応の責任は付きまとう。最初から余り期待はしていなかったが、ゼフィルは元からああだからどういう答えが返ってこようと余り関係ない。問題はどちらかというとティーナのほうではないだろうか?
 彼女を探すことのほうに時間がかかっては意味が無いのだが、俺が来るタイミングならおおかたリビングやキッチン辺りにいるだろう。ここから一番近いのはリビングだったが、中を覗いても誰も居る気配がなくすぐさまキッチンへと足を運んだ。すると、小さな物音が耳を触りはじめる。どうやら目的の人物はそこにいるらしい。

「……ティーナ」
「あら、どうされました?」
「いや……リベリオから聞いた客人に会おうと思ってな」
「ああ、エリオットさまのことですね。まだニシュアさまと庭に居るはずですよ」

 それだけ口にすると、ティーナはすぐに作業に戻っていく。

「……何も聞かないんだな?」
「そうですねぇ」

 手元で作業をしながら、ティーナがどこか虚空を見ながら何かを考え始める。それが本当に言葉を探しているからこそなのか、それともただのフリなのかは、恐らくこの後の台詞でおおかた予想がつけられるだろう。

「どうせなら、もう少しお話が纏まってからお聞きしたいですもの」

 ……と思ったのだが、やはりこの人物の言葉はかなり分かりにくい。いっそゼフィルのように詰め寄られるほうが分かりやすくて楽まであるのではないだろうか? せめてどういう話をしたのかくらい聞いてくれたって構わないのに、それすらもないとなると気持ちのやり場に困るというものである。

「エリオットさまを探していらっしゃるということは、どうするかというお話自体はまとまったんですか?」
「ああ、まあ……。全く、ゼフィルは頭が固くて困るよ」
「あら、もう小言を言われた後なんですね」
「危うく喧嘩になるところだった」
「それはよかったですわ。お二人の喧嘩の仲裁ほど嫌なものはありませんし」
「小言ばかりですみませんね……」

 突然、ここには居なかったはずの人物の声が部屋を走る。一体いつからそこにいたのか、振り向けばそこにはゼフィルの姿があった。

「……別に、お二人が考えた結果なら私だってそれで構いません。ただ……」

 あらかたの話を聞いてたらしいゼフィルは、聞いてもいないのに先ほどのやり取りを蒸し返して弁解を始めた。しかし、そこから先に続く言葉が中々帰ってこない。

「心配なら心配だと言えばよろしいのでは?」

 ティーナの一言を決定打に、ゼフィルの目に明らかに動揺が走った。

「じゅ、従者が当主の心配をするのは当然でしょう……っ!」

 それだけ言うと、ゼフィルはすぐさま何処かへ行ってしまった。結局何を言おうとしたのかは計り知れないが、おおかたティーナの言うとおりなのだろう。昔はもう少し素直だったような記憶があるのだが、もしかすると俺の記憶違いなのかもしれない。
 けしかけたティーナはと言うと「あらあら……」とまるで他人事だ。年上のはずのゼフィルをああも動揺させるのは、この家ではティーナしかいないのではないだろうかと思ってしまうほどである。

「あんまりからかってやるなって……」

 一応ティーナに少し苦言を呈してみたものの、笑っているばかりで余りまともには受け取ってくれていない。俺の言葉に耳を貸さないというのも如何なものかという気持ちもあれど、ティーナの主は俺ではないのだから仕方が無いと無理矢理結論付けるほかなかった。しかしなんと言えばいいのだろう。エリオットがこの家に来たときは血まみれだったらしいというのに、特別詮索をしてこない辺り流石この家の従者といったところだろうか? それでも非常に冷静なのが気にならないこともないが、必要以上に詮索しないというのも従者としては正解だろう。ゼフィルの態度に問題があるかというと、それもまた違う話ではあるが。
 リベリオは恐らく、状況が掴めるまでエリオットを家に置くということにしているのだろう。そうじゃなくてこの態度だとするなら、流石に少々怖くなる。小さくため息を落とし、俺はそのままティーナのいたキッチンへと背を向けた。余り時間がかかってしまえば、後で変にリベリオに詮索されてしまうだろう。……いや、リベリオはそんなことはしないだろうか? しかし特に何があるわけでも無いからこそ、辺に時間がかかってしまっては面倒以外に他ならない。これまでの必要なロスを取り戻すように、俺は急ぎ足で庭へと歩みを進めた。
 玄関を出てすぐ、目の前にはかなり整備された庭が広がっている。来た時は庭には誰もいなかったと記憶しているが、どうやら状況は少し変わったらしい。この庭の整備は、確かにティーナと申し訳程度にゼフィルが関わっていたと記憶しているが、一番手をかけているのはニシュアだろう。

「……ニシュア」

 一体どうしてそうなったのか、庭にいるのはやはりニシュア一人だけではなかった。

「あれ、お兄ちゃんとの話はもう終わったんですか?」
「その前に、客人に挨拶でもしておこうかと思って。暫くは居るんだろ?」

 全く見覚えの無い人物がこの家にいるというのは、正直些か落ち着かない。気分が悪いとまではいかないが、まるで自分のパーソナルスペースに無理矢理入り込まれたかのようだ。

「お兄ちゃんの仕事の関係で、よく家に来るんです。ええと……」
「レイヴェンだ、宜しく」

 簡単に挨拶をすると、エリオットという人物は少々目を泳がせながら小さく会釈をした。どうやら余り話はしたくないらしい。そこまで威圧的なそれではなかったはずだが、記憶が無いというところを考慮すれば恐らくこんなものではないだろうか。そこは別にたいしたことではない。

(この男が、本当に人を殺して亡命したのか……? しかもその上で誰かを殺すだなんて、リスクが高いなんてもんじゃない)

 部外者でしかない以上、どうしても断片的にしか情報は入ってこない。それが一番厄介だ。亡命をする以上、亡命した先の場所では極力大人しく過ごすことが暗黙の条件として付きまとうはずである。それなのに、こんなところにまで来てわざわざ誰かを殺すだなんてことをするのだろうか? それ程までに追い詰められていたというのも確かに考えられるが……。
 変に疑いの気持ちを持ちたくないからこそ、やはりもう少しこちらで調べる必要があるだろう。今後暫く、休まる時間はそう多くはないかも知れない。

 どうしてニシュアとエリオットが一緒なのかと尋ねたところ、どうやら「庭の整備をするから」とニシュアが手伝いという名目で、部屋から余り出てこないエリオットを連れ出したらしい。少し見ただけですぐに分かったのだが、この人物が本当にエリオットなのかどうかは置いておくとして、貴族であることに間違いはないらしい。それは別に、服装や雰囲気といった見た目に表だった貴族の特徴というものがあったというわけではない。そうなってくるとただの勘ではないのかと言われそうだが、それもあながち間違いではないだろう。しかし、同族というのは目に映っただけでも分別が出来る。そういうものだ。最も、エリオットのほうが俺をどう認識しているのかまでは分かりかねるが。
 しかし、彼が貴族となるとエリオットであるという証拠が無くても可能性はかなり上がってくる。この辺りの貴族はおおかた把握しているのも相まって、信憑性は高いといっていいはずだ。

「今日もシェルロは連れて来てないんですか?」

 ニシュアが口にした「シェルロ」というのは、俺の家で飼っている猫のことである。たまに家族でここに来るときに連れてくることがあり、ここ最近は余り連れてくる機会がなかったから恐らくは気がかりだったのだろう。

「そんなしょっちゅうは連れて来ないよ。今日は仕事の話をしに来ただけだ」
「次はいつ会えるかなって楽しみにしてるんですよ? 次は連れてきてくださいね?」
「分かったよ、覚えておく」

 恐らく目に見えた変化はないだろうが、妖精について聞くかどうするかこの時かなり迷っていた。ニシュアと話しながら、今の状況で一体何が適切か考えるのに必死だった。俺が容認した以上、選択肢を間違えるわけにはいかなかったのだ。どちらが正しい選択なのかなんていうのは、どのみち選択してみてからじゃないと分からないから今考えたところで余り意味は無いのだが。

「……じゃあ、戻るよ」
「お仕事頑張ってくださーい」

 その結果、俺はそれ以上のことは今は何も聞かないことにした。一体何をしに来たのかと言われればそれまでだが、変に警戒されるのがこの先一番困るし、会って早々に警戒心を与えてしまっては意味が無い。そうなってしまっては、容認した意味が無くなってしまうというものだ。確かに今日全てを知るのが一番楽で判断こそしやすいが、記憶喪失だと謳うこの人物を前に詮索のし過ぎはリスクが高すぎるだろう。それに加えて妖精の有無はかなりデリケートな話だ。逆上されればそれこそこの場で何が起こるか分からない。
 少しずつ遠ざかる、背中から感じる二人の温度を僅かに感じ、誰のせいと言うわけでもないが少々眉が歪んでしまう。これはあくまでも極論ではあるのだが、俺はこの家主の安寧が保たれさえすれば、別に誰が居ようが誰が居なくなろうがどうだって構わないのである。ある種そう自分に言い聞かせているような節を自身で理解してしまっているせいか、俺は尚更顔を歪めた。


   ◇


「エリオットねぇ……」

 抱えている数冊の本を棚に入れながら、僕とルシアンは雑談に似た会話を同時に並べていた。どうしてその名前が出たのかというと、単純に僕が見たので見た夢の話だったのだけれど……。

「知ってるの?」
「知ってるっていうか……」

 その僕の見た夢というのがどうやらあのリベリオさんの家と関係がありそうで、気付けば僕は夢の内容をルシアンに向けていた。
 あの時、リベリオさんの家で見た記憶の中に居なかったエリオットという人物と、そのエリオットと相当親しかったのではないかと思われる妖精のロデオが居たのが気になってしまい、どうにも自分だけでは処理が出来なかったのだ。出会ったばかりのロデオが夢に出てくるというのは往々にして起こりえることだし、普段だったらそこまで気にすることは無かったのかも知れないけど、そこに全く知らない人物が出てきて尚且つリベリオさんらの家に居たらしいとなっては、気になって仕方が無くなってしまうというものだ。
 それに、僕にはその夢が、どうしても起きた出来事を整理するだけのものとは思えなかったのだ。

「あの家に住んでたのってさ、リベリオさんと妹さんのニシュアさん。それに、執事だったゼフィルさんにメイドのティーナさんで、まあ、ここまでは別にいいんだけど、どうももうひとり居たらしくてさ」
「……それが、エリオットって人?」

 僕の質問に答えることはなく、ルシアンは更に言葉を続けていく。

「エリオットがあの家に居たっていう事実は多分どこにも残ってない。でもきっと、ちゃんと居たんだろうね。レイヴェンはその類の話を一切手元に残していなかったけど、リベリオさんの手記には急に妖精の食べ物について書いてあったり、後はこっちが把握してる人数と描いてある数が合わなかったりすることがあってさ。ただまあ、名前は出てきてないから証拠はなんにもないけどね」

 ルシアンの言い方で察するに、エリオットという人物については誰もが相当気を遣って誰にも悟られないようにしていたのだろう。夢の内容を鵜呑みにするのであれば、エリオットさんは亡命を計ったようだったから、それが一番の要因なのかもしれない。

「俺はさ、別にリベリオさんの家で何があったのかとか、正直どうでもいいんだけど……」

 ルシアンは、この会話をするにあたって初めて僕のことを視界に入れた。

「どうしてアオイは、そんな夢を見たんだろうね?」
「……どうしてだろうね?」
「いや知らないけど。聞いてるの俺だし」

 確かに、例えばリベリオさん達の夢を見たというだけだったら、単純な夢として捉えていたはずだ。あの時にことが忘れられなかったという子供じみた理由で済んだはずだ。でも、あの場所にいなかった人物に焦点が当たる夢を見るというのは違和感極まりない。勿論僕は、そのエリオットという人物を見た記憶がないのである。過去に会ったが忘れている、あるいはただすれ違っただけの人物が夢に出てきたという部分まで入ってしまうと、流石に何が正しいのか分からなくなってしまうから出来ればその考えはどこかに捨てておきたい。もっと言ってしまうなら、それこそ夢がないというものだ。

「ロデオに聞いたら、なにか分かったりするのかなぁ」
「かもね」

 僕の見た夢が史実だとするなら、確かにこの話に一番詳しいのは恐らくロデオだろう。ただ、その類いの話をロデオに振っていいものなのか少々判断に困る。彼は俗にいう泣き虫だから、余り踏み込み過ぎると収拾がつけられなくなってしまいそうだ。でも、ロデオはリベリオさんと知り合いだったに等しかったようなことを口にしている。聞いてみるには十分のものが揃っているのではないだろうか?

「……ロデオくん、まだ家に居るの?」
「え? ああ、うん。……本当に連れてきて良かったのかなぁ」
「良くはないだろうけど、あのまま置いていくのはちょっとって言ったのアオイでしょ?」
「そ、そうでした……」

 連れてきたというのはちょっと語弊がある言い方だけれど、ロデオは半分寝惚けてたし、大方そういうことになるだろう。

『ふあ……』

 花畑を出て暫く、呆けていた僕のすぐ近くで聞こえたのは、ロデオが欠伸をしている声だった。会った頃とはうって変わってすっかり大人しくなっていたロデオは、どういう訳かかなり眠そうで、今にもその辺りの石ころと同じように転がっていってしまいそうな勢いだった。

『……眠いの?』
『ちから使うと、こうなっちゃうの……』
『へえ、はじめて知った……』

 妖精という生体だからなのか、それともロデオだけなのかは分からないが、特殊な存在というのは力を使いすぎると姿を消してしまうなどという類の話は確かにいつの時代にも存在する。眠くなるというのも一種のそれなのかもしれない。

『……妖精くんって、家あるの?』
『んん……?』

 ふと、ルシアンがロデオに声をかける。それは確かに僕も気になるところではあるけど、言葉にならない声の他には、ロデオの言葉は返ってこない。その代わりにとでも言うように、静かな寝息が聞こえてきた。

『……寝ちゃったの?』
『おきてるよぉ』
『あ、そう……』

 ロデオはそう言うものの、これは起きてると言いつつ数秒後には寝入ってしまっているやつだというのはすぐに分かった。ルシアンが「そろそろお別れだから起きないと」と口にすると、ロデオは一応答えてはくれるが、それにしても答えがふにゃふにゃしており残念なことに言葉になっていなかった。このままだと夜にむけてすぐに暗くなってしまうし、かと言ってその辺りに置いておくというわけにもいかない。僕は別にいいけど、普段姿を見せることをしない妖精が街にいるというのは色々とよろしくないだろうし、何かがあっても困る。その何かというのが、例えば昔に行われていた妖精狩りに匹敵することだったら尚更だ。
 悩んだ挙句、「それなりに懐いてるし別にいいんじゃない?」と適当なことを言ったのルシアンに乗せられたかたちで、僕の家に連れていくことになったのだ。目が覚めたロデオは確かに驚いていたけどそれも最初だけで、敵意がないというのが分かっているからなのか、どちらかと言えば今はかなり落ち着いているように感じる。相変わらずビビってはいるけど、どうやら元はかなり温和な性格のようだ。
 特に何事もなければ今も家に居ると思うけど、果たしてこのままで良いのだろうかという気持ちは尽きない。追い出すというのも少し違う気がするし、こればっかりはロデオの意思次第といったところだろうか。

「……妖精ってさ、何食べると思う?」
「さあ……。というか聞けばいいのに」
「聞いたんだけど、なんかちゃんとした答えが返ってこなくて……。ああでも、グミは気に入ってくれたよ」
「ふうん」

 明らかに興味の無さそうな返答が返ってくるけど、僕からしたら結構な大問題だ。妖精が題材の小説は数あれど、だからと言って彼らが何を好んで食べるのかという部分なんて、書いてあったとしても信憑性に欠けるものばかりだろう。たまたま封を開けていないグミがあったから良かったが、お菓子ばかりという訳にもいかない。ああそうだ、帰る時にグランさんのところにでも寄ってロデオが好きそうなものを探してみるのも良いかもしれない。
 僅かに感じるルシアンの視線なんて気にも止めず、僕は考え込みながらも手持ちの本を棚に納めた。

いいね!