微睡む意識の中、遠くから誰かが俺のことを呼んでいる。そんな気がした。
「……んんー?」
これは、眠気に負けていつものように机に突っ伏している時の出来事である。
何かが机にのし掛かるような音が聞こえたかと思ったら、間髪入れずに俺の頭が無造作に叩かれる。俺が起きるその時までパシパシと続くそれに、俺はやむ無く重たい瞼をあげた。
「な、なんだよクロード……。飯はさっき食わなかったっけ……」
「んにゃあ」
「いや痛い……。髪の毛抜ける……」
やかましいクロードの猫パンチで起こされた俺は、クロードの体を掴むべく上半身を起こす。いつもだったら、大体飯の時間か俺が約束の時間ギリギリまで寝てる時とかに叩かれることが多いのだが、昼飯はもうとっくに終わった時間だし、今日は約束事なんてなかったはずた。……いや多分、なかったと思う。まあ、大体の約束事はレイヴェンとだから別に遅れてもいいのだけれど。
「お前ー……珍しく構ってちゃんか?」
うにゃうにゃと声をあげたまま俺の手からすり抜けようとする辺り、どうやら構って欲しいというのとは少し違うらしい。
クロードは一言だけ声をあげると、いとも簡単に俺の元から離れていく。軽やかにクロードが向かったのは、すぐ側にある庭を見渡すことのできる窓だ。カリカリと引っ掻く音が部屋に響く。傷がつくから心底やめて欲しいと思う中、近づくと聞こえてきたのは、外から誰かが何かを言っている声だ。ようやく聞こえてきた誰かの声に、俺はクロードを牽制して窓を覗きこむ。
「んんー……?」
そこにいたのは、街から帰ってきたばかりらしいやたら大きな声を出しているニシュアだった。俺が覗き込んだのが分かると、尚更身ぶりを大きくしていく。少しだけ錆び付いた窓の鍵を易々と開けると、僅かに風が入り込んでいるのが分かった。
「お兄ちゃん! お兄ちゃんってば!」
「なんだよー、そんな大声で……」
ニシュアに引き換え、俺はまるで寝起き時の貧相な声しか出てこない。いや、寝てたからそりゃそうなんだけど。まさかクロードは、ニシュアが俺を呼んでいたから起こそうとしていたのだろうか? なんて主人想いの優秀な猫なんだ。
「すぐそこに……っ、血まみれの男のひとが!」
……などと思っている場合では、どうやらないらしい。
「な、何でもいいから早くーっ!」
「分かった、分かったから。ちょっと待ってろ!」
明らかに焦っているニシュアに一度待ったをかけて、俺は早々に窓を閉める。開いた手は、自然とすぐ側にいるクロードの頭に置いていた。
「教えてくれてありがとなぁ」
このまま飽きるまで撫で回してやりたい気分ではあるものの、生憎そういうわけにもいかない。俺は、窓の鍵を閉めることをせずに足早に部屋を出た。
血塗れの男がすぐそこに。そう言っていたニシュアの言葉をそう簡単に呑み込みたくはないが、本当にそうだとするならとんでもない事態であることには間違いない。自然と早足になっていたのがその証拠だろう。
「あ、リベリオ様。さっきから――」
「あー! 丁度良かった。何処でもいいから部屋ひとつ用意しといてくれ。一応な!」
「……ニシュア様が大声で叫んでましたけど、それと関係あるんですか?」
「俺ちょっと行ってくるから、後は頼んだわ!」
「ちょ、ちょっと……!」
何処と無く噛み合っていないゼフィルとの会話を僅か数秒で終わらせ、そのまま止まることなく俺は玄関へと歩を進めた。中々縮まないニシュアとの距離を前に、こういう時家が無駄にデカいと面倒だと改めて思い知らされる。出来れば、もう少し簡素で分かりやすいただの民家だったら幾らかマシだっただろう。
「こっち!」
窓から見た時は庭のど真ん中にいたニシュアだったが、居ても立っても居られなかったのだろう。いつの間にか正門の近くへと移動していた。妹を先導に、街へと続く木に囲まれた道を進んでいく。いつもの見慣れた景色の中に現れるその男を、俺は今か今かと待ちわびていた。
「……え、そっち?」
ニシュアが向かったのは、街のある道ではなくどういうわけか花畑がある方だ。街からここにやって来るとするなら、そっちはまず通らないであろう道である。もっと正確に言うのであれば、通ることの出来ない道だと言っていいだろう。それなのにそっちに人がいるというのは、思わず怪訝な顔をせざるを得ない。
いや、心当たりは確かにある。あるにはあるのだけれど、出来ればそれは考えたくないというのが本音だった。
「あそこ……っ」
声を漏らしたニシュアの足取りが、ゆっくりと落ちていく。俺は一歩、少し息を切らした妹の前に立った。すると、何かに縋るようにニシュアが俺の裾を掴んだ感覚が走った。
まるでそれは、道端のゴミのように転がっていたと言って相違はない。少し遠くからでも嫌になるくらいによく目に映った血に塗れているそいつは、微塵も動く素振りを見せることはない。生きているのかというのは、ここからだと把握することは難しい。
足取りは決して軽くはないが、段々とその人物との距離は縮まっていった。散乱している髪の毛のお陰で顔は余り見えず、隙間から僅かに見える瞼は動く気配は全くない。男との距離は僅か数歩。微かに聞こえてきたのは、風によって擦れる葉の音である。
「うえっ……ぐす……」
それと、何処かから聞こえてくる声にもならない嗚咽だった。
当然それは男の声などではない。男の上着に隠れるようにして僅かに見えたのは、とても小さな顔のいわゆる小人だ。本当はもう少し情報があれば完璧だったのだけれど、それよりも前に口が勝手に言葉を出してしまう。
「……妖精、か?」
ただ一言、その単語だけで十分過ぎる存在がそこにはいた。
「ふえ……?」
そう俺が口にしてすぐ、それはやっと俺らのことに気付いたようで、声と同時に顔をあげる。その時はじめて見えた綺麗な羽根に、ようやくその存在が妖精であるという確信を持った。はじめて出会ったその存在に、当然ながら俺の瞳はまじまじとそれを捉えていた。
「に、にんげん増えたあぁ……!」
大粒の涙を浮かべた妖精と思わしき彼が、いかにも慌てた様子でそう口にする。
瞳から流れたそれが合図であるかのようにして巻き起こったのは、大きな風だ。それはさながら、大きな竜巻が起こる時のようにまわりを取り巻く円を描いたモノだった。
「わ、わわっ……!」
「やば……」
ニシュアの驚いた声に、俺は咄嗟にニシュアの肩を寄せた。
「ちょ、ちょっと待てタンマ! 何もしないって!」
「うえええん……っ!」
見知らぬ人間の声なんて、今の妖精には届かない。相当動揺しているのか、手にしていた小さな棒のようなモノをブンブンと振るたびに風が強くなっていくのを感じた。
このままだと収拾がつかなくなってしまうどころかこっちの分が悪すぎてかなりマズイ。せめてそこに転がっている男の素性だけでも知りたいのだが、だからといってこれ以上容易に近づくことも出来ない。何か、なにか解決策は――。
「落ち着けって……」
その時、妙に沈んだトーンの声が辺りを蔓延った。声の主は、勿論俺でもニシュアでもそこにいる妖精でもない。
「……まだ、死んでない」
地面に転がっている男が発した声に、恐らくは誰もが息をのんだ。
「うえっ……エリオット……」
僅かに動いた左手が、妖精の頬を撫でる。風が穏やかになったのは一体いつのことだったか、俺は思い出すことが出来なかった。いや、この際そんなことはどうだってよかった。
(エリオット……?)
妖精が口にしたその名前を、思わず心の中で反復してしまう。
やっと他の人間がいることに気づいたのか、妖精からエリオットと呼ばれた人物が顔を動かした。邪魔をしていた髪がようやくはだけて見えた顔には、朱くこびり付いたそれがよく映えていた。恐らくは夕に染まり始めていたからそう感じたのだろう。そいつと目があったのは、ほんの数秒のことだった。
「あんた、向こうの道の先に住んでるやつか……?」
「え? まあ、そうだけど……」
喋る気力だけはあったのか、それとも無理矢理だったのかは分からない。そうか、と、それだけ言い終えると、エリオットと呼ばれた男は再び瞼を綴じた。残された妖精は、止まりかけていた涙を溢し始める。声にならないその嗚咽が痛々しくて、俺はニシュアを寄せていた右手を離し、一歩だけ歩を進めた。後ろから俺のことを呼ぶ声が聞こえたが、左手で牽制する以上の余計なことはしない。
出来るだけ妖精の目線に合わせるようにして、俺は道の真ん中で行儀悪くしゃがむ。
「なあ、この人……エリオットだっけ? 俺の家に運びたいんだけど許してくれる? ここにずっといたんじゃ、いろんな意味で危ないからさ」
「うえええん……」
「ほらほら、そんなに泣いてたら干からびるぞ? それでもいいなら止めないけど」
「いやだああぁ……」
泣いてばかりの小さいのに構ってるとキリが無さそうだし、俺はその言葉を都合良く肯定と取って、転がっているそいつを何とかおぶれるようにと身体を動かしていく。その様子を見てなのか、ニシュアがようやく俺に合わせて動き出した。でも、当然のように蔓延してる血に滅茶苦茶焦ってたから、取りあえず妖精と仲良くしておくことを勧めておいた。どうやらそれは正解だったようで、ニシュアが妖精を抱くように手に収めてからはさっきと比べて非常に大人しくなった。鼻を啜る音は相変わらずではあるが。
おぶっているのが男だから尚更なのか、力の抜けた人間ってどうしてこうも重たいのだろうかと多少の文句が湧いてしまう。まるで体力が男に吸い取られるようで、正直あんまりいい気はしない。それよりも考えなければならないのは、助けるのはいいけどこれからどうするかということだろう。一瞬だけ過った俺の考えが当たっていなければいいと真底思うし、変にややこしいことにならなければ当然一番いい。
エリオットと呼ばれた人物を背負いながら、俺の思考は休まることはしない。
「ちょっと、先に行ってあいつら呼んどいてくんない? 着いてからのことは、俺だけじゃちょっと無理があるから」
「わ、分かった!」
先にニシュアと妖精を家に帰らせ、俺は身体に重くのし掛かるそれらを背負い歩いた。やけに静かになった道中聞こえていたのは、いつもより鈍く響く足音に、まるで帰路を導いてくれているかのようになだからに漂う風。そして、僅かに俺の耳にかかる誰かの寝息だけである。
「はぁ……。なんか家遠くない? 俺が代わりに死にそうなんだけど……」
俺の喧しい独り言は、自分が地面を踏みしめたと同時に消えてなくなっていく。俺が代わりに死ぬほうがよっぽど楽なのかもしれないなどと馬鹿らしいことを思いながら、仕方なく歩みを進めていった。こういう時、本当に目的地にちゃんと近付いているのだろうかと不安になるが、その心配は不要らしかった。
「リベリオ様!」
聞きなれた声と、その奥に見える自分の家に自然と安堵の息が零れる。どうやら家の門のすぐ傍で待っていたらしく、ニシュアから聞いて外に出てきたところだったようだ。
「私が代わります」
「あ? あー……いや、いいわ。めんどい」
「……部屋二階なんですけど本当に大丈夫ですか?」
「余計なこと言うなよ……」
今までの人生の中、これほどまでに家までの帰路を恨むなんてことはそうそうなかっただろう。家の門が見えた時、正直このまま倒れてやろうかと思った。変な意地を張った自分を殴りたい気分だが、かと言ってゼフィルに代わってもらうということは出来ればやりたくはない。それよりも問題は、恐らくこの後部屋に着いてからだろう。
◇
死ぬ気で家の階段を上り、やっとの思いで用意されていた部屋に着いてからのことに関しては、全くと言っていい程記憶がなかった。手伝う気力なんていうものが残っているはずがなかったというのも確かにあるが、男をベットに寝かせた後、その部屋にあったソファーに飛び込んですぐに俺の意識もどこかに飛んだ。それはさながら、本当にこのまま死んでいてももおかしくないくらいだった。例えば一般的な成人男性だったら、これくらいのことでここまで体力を奪われることもなかっただろうが、生憎俺はその一般的な成人男性というものに当てはまりはしないらしい。不規則な生活を送っているせいだというのは簡単だが、これは流石に体力というか気力がなさ過ぎると後々反省した。
ようやく辺りの空気が落ち着いたらしかったのは、いつの間にか寝入っていた俺の意識が覚めた時には既に訪れていた。だが、俺の手には依然として誰とも知らぬ血が僅かに残って離れない。
一体誰が掛けてくれたのか、体にかかったブランケットと共に身体を起こし辺りを一度見回した。
「ああ、やっとお目覚めですか」
俺の様子を見てすぐにそう口にしたのは、向かいのソファーに座っているゼフィルだった。ニシュアとティシーは晩飯の準備で数十分も前に部屋を出たらしい。いくら連れてきた人物が寝入っているからといって、一家の主を見知らぬ男と同じ部屋に置いてはおけないとかなんとか、ゼフィルがまだ部屋に居たのはそういう類いの理由で、俺が起きるまで気が気じゃなかったと最後に言葉を追加した。
テーブルの上には、ご丁寧なことに水差しとコップが置いてある。ゼフィルが注いでくれた水を口に含みながら、俺はまだ目が覚めないらしいエリオットという人物をちらりと視界にいれた。どうやら呼吸も安定しているようだが、その様子を見るに大層な大けがをしているという訳でもなさそうであるというのが少々気がかりで、俺は取りあえず男の状況を把握してみることにした。
「怪我、どうだった?」
そう問いかけると、ゼフィルは少し言葉を選んでいるような素振りを見せた。どうやら、それを説明するには都合の悪い何かが含まれていたらしい。
「……彼、怪我という怪我はしていませんでした。倒れていたのはどちらかというと衰弱が理由かと」
ゼフィルの声に、コップに漂っている水の波打ちが止まったような気がした。
「彼以外の誰かの血と言って、差し支えないかと思います」
続けざまに羅列されたそれらは、到底聞き入れがたい類いのモノだったといって差支えはないだろう。余り考えたくない事柄ではあるが、流石にこれは考えざるを得ないだろう。つまりは、そこで寝ている男以外に怪我をしていた人物がどこかにいたということなのだろうか? 道中それらしい人物には出会っていないし、もしかしたらまだこの近辺のどこかにいるのかも知れない。いや、それとも既に死体としてどこかに転がっている可能性もある。どちらにしても、背筋に悪寒が走るような状況であるということには変わりない。
「レイヴェンから何か連絡あったりしたか?」
「いえ、特には……」
もし大けがをしたという人物が街に戻っているのであればそれなりに大事になっているだろうし、男と会った場所が場所だからレイヴェンが俺の家に連絡してくるということは避けられない。それがないということは……?
「……そういえば、あの小さいのはどうした? ニシュアが連れてきただろ?」
「ああ、彼ならあそこのかごの中に」
ゼフィルの言ったかごというのは、比較的すぐに見つけることが出来た。男の寝ているすぐそばにある腰くらいまでの高さの小さ目な棚に、この家では余り見覚えのないかごが置いてあったのだ。どうやら、ニシュア様が自室から持ってきてくれたもののようだった。
「ずっと起きてたんですけどね。彼も疲れていたようで……」
よく耳を澄ませると、その妖精のもののような寝息が微かに聞こえてくるのがわかった。しかしなんというか、妖精がまるでただの客人のように家にいるというのは少々不思議な感覚である。ゼフィルは妖精がいることに驚き終わったのか、至って普通の返答ばかりだった。
それにしても、ここの家にいる人間に一応良識があって良かったかもしれない。妖精狩りという単語があるくらいだ。オレが起きたら妖精なんて跡形もなく無くなっていたという可能性も、最悪なくはなかっただろう。
「……ニシュアからこいつらの名前聞いたか?」
「いえ……何も聞いていませんが」
その状況に少しだけ安堵したのもつかの間、俺の頭はすぐに回転をはじめる。
「……エリオット」
というのも、妖精が口にしたこの名前に心当たりがあったのだ。
「そこの小さいのが、そう呼んでたんだよな……」
少々独り言のようになってしまったか、妖精が読んでいた名前を反復する。ひじ掛けに該当するそれを置き、思わず片手で頭を支えた。
「……それがどうされました?」
「いや……」
これは少々まずいかもしれない。考えれば考える程、問われた時の回答は適当になった。
(……下手したら大事件ものだな)
出来ることなら今すぐにでもレイヴェンに連絡を取りたい気分だが、そこまでしてあからさまに慌ててしまうと後の対処に困る。面倒だから余り大事にはしたくないというのは当然あるが、しかしそうなるとこれ以上考えても無駄ということになってしまう。少しくらい何か行動を起こしておきたい気持ちはあるが、今の段階では、どうしたってあそこで寝ている男が目を覚まさない限りは全て無意味でしかないだろう。暫くの間は、こうして無意味な考え事をすることで精神を保つことくらいしか出来ないのだ。
◇
そこは酷く冷たく、どこか混沌としている場所だった。何色にも染まることのないモノクロの景色の中にひとり、おれという存在が息巻いているというのを確かに把握するのには、そう時間はかからない。
どこにあるのかも分からない世界の中、ただひとりおれだけが存在しているというのは、それだけで恐怖心というのが煽られるはずなのに、どちらかと言えば心地よささえも感じてしまう。そう思ってしまうということは、恐らくおれはこの時から既に毒されていたのだろう。
――ゆっくりと靡く風に紛れて、誰かがおれを呼んでいる。辺りを見回しても誰もいないはずなのに、そこには確実に誰かがいる。いや、それは少し違うだろうか? 誰もいない筈だったのだ。
「×××××!」
その声の主は、一体誰なのだろうか?
大きく響く草花の掠れる音。何かを危惧しているかのように、酷く耳をつんざいていく容赦のないその音に、どういう訳か目を伏せる。その声を、聞きたくなんてなかったのだ。
「×××××!」
鮮明に聞こえはじめる、誰かがおれを呼ぶ声。どうしてこう、不安を掻き立てるようにじわじわと近づいてきているかのように聞こえてくるのだろう。次に目を開けたとき、おれの目に何が映っているのか、それを考えるのが怖くてたまらない。でも、だからといっていつまでもこうしているだなんて、出来はしないのだ。
固く閉じられていた瞼は、糊の接着面のように僅かに抵抗がかかる。接がれるのは時間の問題だった。
きっと、おれは最初から知っていたのだ。一体誰がおれのことを呼んでいたのかということに、気付かないはずがないのである。
「……あれ、目覚めてんじゃん」
どこからともなく視界に入り何かを言っているのは、長髪で眼鏡をかけた男だった。
「さっきまで起きてたんだけどなー、そこの小さいの」
そいつが視線で促した場所にあるのは、おれのいるベッドのすぐ隣にある棚だった。何があるのかと目を凝らしてみるが、その男が言う何かを見つけることが出来ず、重く鉛のようになっている上半身を無理矢理起こす。意識がまだはっきりとしていないのか、焦点があうのに少し時間がかかった。
棚の上に置いてある底の浅い手かごは、身体を起こすと底がよく見える。布が敷き詰められたその中には、酷く小さな体をした小人のようなモノが寝息を立てていた。
そのすぐ近くにいる、おれに声をかけてきた男の手には、波紋を打ちながら揺れる水が入ったコップが持たれている。一体何をするのかと思ったが、そのコップはおれの胸元にまで差し出された。ほぼ無理矢理、という程に押し付けられたお陰で、冷たい感覚が手にじわりと伝う。
そのあとすぐに目があったのは、水を押し付けてきた男の後ろにいる別の男だ。そいつが少し怪訝な顔をしている姿が妙に刺さり、視線は自然と水の波を追っていた。
「……お前、名前は?」
問われた言葉を前に、思わず思考が止まる。おれはその問いに答えることはしなかったが、まるで沈黙そのものが答えだったかのようにして、男は続けざまに問いを投げた。
「んじゃ、こいつの名前知りたいんだけど」
次に問われたのは、かごの中にいる小さなそいつの名前についてだ。果たしてなんと返せば適切なのか、答えに困る。一応意思表示として、おれは首を横に振った。
「……いやでも、こいつお前の名前知ってたぞ?」
さっきまで笑みを零していた男の顔は、途端にその面影を無くした。参ったな、という声と共に頭を掻くその仕草からして、どうやらおれの答えは想定外だったらしい。
「名前……」
「ん?」
「おれの名前、なんて言ってました?」
だとしたら、おれが聞くことはただ一つだけだった。
呆けた表情を見せる男だけれど、おれはわりと真面目に聞いている。どうやらそれが分からないと話にならないというのは、何となくだが理解が出来た。この男がおれの名前を知っているのか、ということまで考えることは出来なかったが、どうやらそれは些細なことだったらしい。
「あー、そういうあれか。そっか、そういうことか……」
その代わりとでも言うかのように似たような言葉を繰り返している様子は、恐らくは困惑と混乱。
「じゃあ、なんでここに居るのかも分からないってことだよな?」
それと同時に、何かを既に悟られているかのような感覚がおれを襲った。
「どうすっかな……まあいいや。ひとつずつ説明するから、取りあえず水くらい口にしとけ」
促されたまま、少し躊躇はしたがコップに口をつける。冷えた水が喉を伝っていくのが心地よかったと思えたのは、まだ幸いだったと言っていいだろう。なんとなくおれが落ち着いたのが分かったのか、口をコップから離すと男は真剣な口調でこれまでの経緯を話してきた。
まずひとつは、おれが街外れにあるこの家に続く道で倒れていたということ。ふたつ目は、倒れていたすぐ側にそこにいる小人……妖精がいたということ。みっつ目は、どうやらおれはその妖精のを知り合いであるということ。大まかに、そんなことを聞かされた。
「……まあ面倒な話はここまでとして、ひとつ提案というか……寧ろお願いか? まあ別にどっちでもいいんだけど」
そう前置きをして、男は続けてこう言った。
「記憶が戻るまでの間、ここに居座るってのがお前的には一番安パイだと思うんだけど、どうだ?」
その言葉を聞いて、おれの視界が僅かに広がった。
「部屋なんて腐るほどあるし……いや腐るほどはないけど。別にひとりくらい増えたって困らないしさ」
「いや、でも……」
「今のまま街に行っても宛なんてないだろ? それにまあ……あれだ。とにかく余計ややこしいことになるから、居てもらわないと困るっていうか」
確かに、男の言うように行く宛なんてものはない。いや、本来はあったのかも知れないけど、今のおれには存在しない。単純に状況だけを考えれば好機でしかないけど、果たして本当に全てを鵜呑みにしていいのだろうか? 当然、その疑念は沸いてくる。
端的にいうのなら厄介者でしかないはずのおれを、どうしてここに居ろとこいつは言うのだろうか? それに、居てもらわないと困るというのもよく分からない。元から知り合いというわけでも無さそうだし、別にこいつが困ることなんてひとつもないだろうに、他はともかくとしてそこだけがどうしても引っ掛かった。
「……ん、んん?」
「あ……起こしちゃったか?」
おれが答えを探している最中、何かが言葉にならない声を発しはじめた。男の言葉と視線に準ずるなら、多分かごの中で寝入っている小さいやつの声だろう。
布の衣擦れる音に合わせて、手で目を擦りながら大きな欠伸をしているのが垣間見える。その最中、眠気に襲われていたはずの小さいのと、しっかり目が合った。
「えりおっと……?」
小さいのは、おれを認識したかと思えば瞬く間に顔が歪んでいく。
「うえっ……ぐす……」
そして、潤んだ瞳から大きな涙が落ちていった。それらを必死に拭いながら、背中から生えている特徴的な透明の羽を動かして、おれの布団の上へと移動してくる。腹の上に落ちて、すがるようにしておれの手にしがみつくそいつを、自身の視界から消えないようにとじっと眺めていた。
「……げんき?」
下がった眉でおれの顔をしっかりと見て、ただ一言そう言った。元気かどうかを聞かれると、多分今のおれは元気ではないのだろう。ただそいつの顔をじっと見ていると、どうしてかそれを口にすることを拒んでしまう。瞼を動かすたびに落ちそうになる涙を見ていると、自然とそいつの頬に手が触れていた。小さいのが身体を硬直させたのはほんの数秒で、いとも簡単に表情が緩んでいくのが分かる。
「や、止めてよお」
そう言いながらも口調はとても嬉しそうで、どうやら本当におれと小さいのは親しい関係にあったらしい。男がずっと泣いていたと言っていたけど、もしかしておれを危惧しての涙だったのだろうか? そうだとするなら、多少なりとも心嬉しくなる。
『……泣くな』
いつだったか、こうやって小さな頬に伝った涙を拭ったことがあったような、そんな気がした。出来ることなら気のせいであって欲しくないと思う理由は、まだ見付けることが出来ない。
「なんだ、やっぱり仲良しじゃん」
男の言うように、いわゆる仲の良かったであろう時のことも全部覚えていない。そう思うと、居たたまれない気持ちに逆戻りだ。
「……記憶のないやつなんかが居たら、迷惑になります」
「んなこともないけど。知り合い同士なら面倒なこともありそうだけど、別に知り合いじゃないし。それに、ここ出るってなったら多分妖精もついてくだろ? 妖精連れて街まで行くってーのも、色々危ないから止めといた方がいいと思うんだよなあ」
別に悪い話でもないだろ? そうやって言う男は、どうもおれをここに留まらせておきたいから言葉を使って巧みに肯定させようとしているような気がしてならない。いや、何も分からないからそう感じるだけで、それは流石に考えすぎなのだろうか?
前のというのは少し違うかもしれないが、以前のおれだったらこういう場合どうしていただろう。
「……お前は、どうしたい?」
「えぇ?」
そう思うと、気付けば妖精に意見を求めてしまっていた。
「お、おいら……」
唸るような声と共に首を傾げ、ほんの少しだけ考えて出した結論がおれの前に提示される。
「おいらは、エリオットと一緒がいいなぁ」
この言葉を、おれは何処かで期待してしまっていたのかも知れない。
「……そうか」
そう思ってしまう程、妖精の声が甘美に頭に響いていた。
「記憶が戻るまで、ということですよね……?」
「ん? まあ別にどっちでもいいけど。目的があるなら出てけばいいし、無ければ居たって構わない。ってか、そういうの考えるのは全部思い出したときにしとけ。今考えたって答え出ないだろ」
目的があるなら出てけばいいし、無ければ居たっていい。一見単純ではあるけど、今のおれにはそれすらも難しい。最も、それを考えられるほどの情報量をまだ持ち合わせていないのだが。
「俺はリベリオ。ま、一応ここの主人ってことで。宜しくな」
握手を求めるリベリオの右手。何となく一瞬躊躇してしまったが、差し出されてしまってはそれに準ずるしかなくなってしまう。まだ本調子ではないのであろう冷たいおれの手に、少しだけ体温が戻った気がした。
「ところで、妖精って名前あるのか? あるなら教えて欲しいんだけど」
「ろ、ロデオだよ……」
「ロデオかー。宜しくなー」
自分のことをロデオと呼んだ妖精の頭を、リベリオが雑に撫で回す。慣れていないのかどうなのか、ロデオは激しく揺れていた。
「そういえばひとつ聞きたいんだけど、コイツの名前ってエリオットであってる?」
問われたロデオは、首を大きく縦に振る。その意味を理解するのに少なからず時間がかかってしまったけど、どうやらおれの名前はエリオットと言うらしい。
「そっか」
ロデオの仕草を見たリベリオは、ただ一言そう口にした。それを見つめる眼差しは、僅かながらに心憂いものが混じっているように見えた。
「……じゃ、宜しくエリオット」
この感じだと、本当に暫くの間ここに厄介になってしまいそうだ。リベリオの言う通り、今のおれには特にどこか宛てがあるわけでもないし、それならそれで断る理由は確かにどこにも存在しない。ただひとつだけ気になることがあるとするなら、窓から射してくる光によく似合う家の当主の笑み。それがおれには、どうしてか賎しく見えた。
◇
「……ここに留まらせるなら、そうだと前もって言っておいて頂きたいものですね」
「はいはい。悪かったって」
エリオットの居る部屋をゼフィルと共に後にしてからは、おおかたこんな類のことをゼフィルに永遠と言われ続けた。
少し涼しくなってきたらしい夜の風が、窓を僅かに鳴らしている。そんなことをされても遮断された家の中には入ってこれないのだが、こうも催促をされてしまうとふとした瞬間に開けてしまいそうになる。といっても、開けるつもりは毛頭ないのだが。夜といっても、夕食前のまだ日が落ち切っていない時間である。
「あの方を家に置くという結論に至ったのは何故ですか?」
「んー……」
どうにも腑に落ちないといった様子で詰め寄ってくるゼフィルに、俺は少々嫌気がさした。ゼフィルがしつこいからというわけではなく、果たしてどういう伝え方をするべきかを考えていたせいで余り心のない返事しかできないのだ。
「あいつ、貴族だからなぁ」
緊急事態と位置付けるには少し弱い気がするが、状況としてはまずまずではないだろうか。俺のこの言葉だけではある種答えにはなっておらず、ゼフィルは一層訳が分からないといった顔をした。急にあいつの素性が貴族だと言われればそんな顔にもなるだろうが、どちらかというとエリオットが貴族であるということと家に暫く置かせる結論に至ったことと一体何が関係しているのかとでも言いたげだった。
「しかも、三ヶ月程前から行方不明になっている隣国に住んでる奴だ」
勘が鈍い男ではないはずだ。これを口にすれば、俺の言いたいことをおおかた理解するだろう。しかしこの状況では、あくまでも俺の口にしていることは想像の範囲内だ。更にそこに畳みかけるようにして、俺の考えを主張する。
「本人は大した怪我をしていないが、それにしては血の量が尋常じゃなかった。果たしてあの血が何時ついたのかまでは分からないが……」
本当なら、こういう話はレイヴェンとしてから従者に伝えたいものである。
「十中八九、亡命だろうな」
しかし、今の状況はそれを許してはくれない。
記憶を無くしたと謡うあいつがエリオットだという明確な証拠は今のところないが、あいつが貴族だということは分かる。しかしこれもまあ、明確な証拠があるわけでもないのだが、出会った場所が証拠と言って差し支えはないだろう。
例え亡命だったとしても、別にそれが隣国の貴族だろうがそうじゃなかろうが別に俺はどうだって構わない。
「……この辺りで最近事件なんてなかったよな?」
「私の記憶にはありませんが……。どうしても情報が入りづらいというのはありますが、犯人が逃走してるような事件をレイヴェン様が我々に伝えない、というのはまず無いかと」
ゼフィルの言う通り、レイヴェンが俺らに街の情報を伝えないということはまずあり得ないだろう。最も、ことが発生してからまだ日が浅い、または誰にも見つかっていないというのであれば話は別だ。可能性としては後者の方がやや高いくらいのものだが、それなら尚更、今のこの状況では俺が考えたところで結論は出るものではない。
だがもうひとつ、俺が気にかかっていることがまだ残っているのである。
「……あいつ、本当に記憶がないと思うか?」
エリオットの記憶がないという実証をすることが、事実上不可能であるということだ。
「疑う理由は……?」
「家に来る前、一度アイツと喋ってる。その時はロデオのことも憶えてた。それが家に来た途端知らぬ存ぜぬってのは、ちょっと都合が良すぎるよ」
出会ったあの時は明確にロデオを認識していたし、何か明確な意思があってあそこまで来ていたように見えた。口調の差異は確かにあるが、記憶がないと言っているわりには冷静で状況を飲み込むのも早かった。エリオットが記憶喪失であるということを疑っているというよりは、記憶喪失というものがイマイチちゃんと理解できていないというところが本音かもしれない。
職業柄とでも言うべきか、一般人に比べれば人の感情や意思を汲み取る能力には長けているが、生憎俺は医者ではなく小説家だ。記憶喪失人の感情がどの程度まで保持されているのかも、あいつがこの状況をどう感じているのかもまだよく理解しきれていない。それが恐らく、俺がまだエリオットを信用出来ていない所以だろう。
現状における俺の見解を述べたところ、難しい顔をし続けているゼフィルが意見を述べた。
「やはりレイヴェン様に連絡した方が良いのでは? このまま保護というのは流石にリスクが高すぎます」
「いや、まだ連絡しなくていい。明後日あいつ来るだろ? その時でも遅くは無いよ」
「ですが……」
少し思案したのち、ゼフィルが更に言葉を続けていく。
「貴族のエリオット様であろう、というのはこの際構いません。本当に記憶喪失かどうかというのも、余り重要ではないかと思います。それだけだったら私だって鬼ではありませんよ。ただ、あの血が別の人間のモノである可能性が大きい以上、はいそうですかとは私は簡単には言えません」
「じゃあ、あのまま妖精と一緒にポイか?」
「そうは言ってませんが……」
望まない言い争いが始まりそうで、少々強引に極端なことを口にする。ゼフィルの言い分は最もだし、本来なら俺が引き下がるべき事案なのはよく分かるが、それでもあいつをこのまま野放しにするというのは頂けない。
「あいつが本当にエリオットだとして、だ。別にレイヴェンのことは疑ってないけど、他の人間の耳に入るのだけは避けたい」
貴族だからこそとでも言うべきだろうか。恐らくはそう容易く理解されないであろう事柄ばかりが辺りを渦巻いているのは、致し方ないというものだ。
「妖精が懐いている以上、それ相応に信用のおける人間以外の耳には入れたくない。その妖精が原因でここまで来た可能性だってある。エリオットが記憶喪失と謳っている以上、このまま簡単に身柄を渡したらどうなるかなんて簡単に想像がつくだろ? 最悪の事態にでもなったら、俺は夢見が悪くなるね」
妖精が懐いているというのも、一般的にはあり得ない事象だ。人の前にそうは現れないはずの妖精と親しくなるだなんて、例え運よく出会ったとしてもそこから先親しくなるのは相当に難しいはずだ。妖精狩りなどという嫌な言葉があるくらいだし、妖精だってそれなりに警戒しているだろう。
これはあくまでも所感でしかないが、何となくふたりの関係というのが、ありふれた言葉で言うのであれば信頼、もっと言うなら依存。そんな感じにも見えた。それがどの事象よりも、俺の目には不自然に映ったのだ。
「様子見ってことなら、別になにも起こらないだろ」
しかしだからこそ、現状の情報だけに囚われてしまうのは完全に悪手である。状況だけで判断するのなら、確かにエリオットがここに辿り着くまでの道中に何かしてはいけないことを犯した可能性の方が大きいし、恐らくは状況を見れば誰もがそう思うだろう。
「……レイヴェン様はどう説得するおつもりですか?」
「説得? ああ……ま、何とかなるだろ」
だが、エリオットが何かしらの事件の犯人である、という部分についてはさして問題ではないと俺は思っている。
「……そこまで仰るのなら、私はこれ以上のことは申しません」
納得はいっていないが理解はした、といったような吐息がゼフィルの口から漏れる。一応、ゼフィルが折れたということになるだろう。
「私は一応止めましたと主張はしておいてください。一緒に怒られるのは御免です」
「分かった分かった」
「ニシュア様とティーナへの説明はどうされますか?」
「そうだな……まあ、似たようなことは俺から説明しておくよ」
ニシュアとティーナは一体どういう気持ちで今いるのかは分からないが、心中穏やかかといえばそうではないだろう。まずは俺の口から今ゼフィルに話したようなことをまた言わなければならない。さて、一体どのタイミングで残りの二人に似たようなことを説明するべきか、今はそれで頭がいっぱいだ。
(……エリオット、か)
散々エリオットを擁護するような言葉を口にはしたが、だからといって全てを容認している訳では当然ない。
記憶がないというのが本当は嘘だった、くらいならまだいいが、あの男の服に付着していた血が何なのかというのを知った時、果たして俺はどこまで知恵を出すことが出来るのか、これは相当の手腕が問われるところだ。全ての謎が明かされる時、なにも起きなければいいのだが。
その一文は、さながら小説の主人公であるかのようなセリフで自然と眉を歪めていた。
◇
街灯もなくすっかりと暗くなった外の景観は、昼に見るよりも不気味に見えて仕方がない。もう既に日付が変わり、恐らくは大半の人間が寝静まっている頃のはずだ。目の前に唯一あるランタンの光を頼りに、こんな時間に外に出ることなんて普通に生活をしていればそうはない。特に今の状況からして言うのであれば、知り合いではない男が家にいるのだから家主が外に出るなんて本当はするべきではないというのも確かにその通りだ。俺だって、別にこんな時間になんて出たくて出てきたわけじゃない。だが、この時家を出た理由のひとつに、全く好奇心がなかったといったら嘘になるだろう。誰に言うこともせずこんな時間に花畑へと向かうというのは、背徳感が凄まじい。
ゼフィルにさえも言わないでここに来た理由としては、言えば必ず止められるし大喧嘩になりかねないからだ。もし帰ってすぐにバレたとしても、事後であれば文句は言われるかも知れないがある程度は押し通せるはずだ。最も、あの家が俺のいない間も平和的な空間であるということが前提の話ではあるが。
『……行方不明?』
レイヴェンから隣国の貴族の一人が行方不明になったという話を聞いたのは、一か月にも満たない頃の話である。
『なんでそんな話が俺のところに来るんだよ』
『念のためだ。あんまりいい話じゃないからな』
『念のためなんだって? ……あ、やべ間違えた』
『……お前、さては書き物しながら俺の話聞こうとしてるだろ』
電話越しの少し籠ったレイヴェンの声は、この時の俺には余り耳には入っていなかった。受話器を方と頬で挟み、手帳にシナリオの構想を書きながら話を聞こうとしているのだから、そもそもレイヴェンの話をまともに聞く気がなかったのだ。電話の時くらい手を止めればいいのにと言われてしまえばそれまでだが、話の構想を練っている時に電話なんてしてくるほうが悪いのである。俺のせいではない。
『その行方不明の貴族、エリオットって言うんだが……あ、こら止めないか。今大事な話を……』
しかし、レイヴェンの声が俺以外の誰かに向かれたのはすぐに分かった。最初はレイヴェンの息子であるロルフが来たのかと思ったが、ロルフに対しての言葉とも少し違うように感じた。その理由はただの勘だが、どうやら気のせいではないようで、理由もすぐに知ることになる。猫の一声が受話器越しから聞こえてきたのだ。
『お、シェルロ元気か? 最近来ねーからクロード怒ってたぞ』
『なぁー?』
『当たり前のように猫と会話するなよ。そのエリオットの家なんだが……』
『んなあー』
『こら邪魔するんじゃない。で……』
シェルロはレイヴェンの家族ごと家に来る時によくついて来る白猫なのだが、彼女はうちのクロードよりも社交的だ。おまけに甘え上手という特性がつく為、今回も恐らくその類のものだろう。レイヴェンと電話をするとよくあることだ。一応受話器からは少し離れたのか、しかしまだシェルロの声が微かに聞こえてくる辺り、恐らくはレイヴェンの膝の上にいるのだろう。レイヴェンが俺に説明したがっていたエリオットについてのことは、おおかたこんな感じである。
エリオットが行方不明になった三日後、エリオットの両親と他三人が殺害されているところが仕事場で発見されたのだそうだ。他三人というのは従者ではなく、仕事の関係者らしい。エリオット捜索の届けがこの街にまで来たのは、国がエリオットを犯人として捜したがっているからというのは確かにあるが、それよりも仕事の内容の方が問題だったらしい。しかし一体どういう仕事だったのかまでは教えてはくれなかったようで、こっちでどうにかしてその仕事とやらの内容を情報を探している最中だとレイヴェンは言っていた。レイヴェン曰く、機密情報だから教えないなどという建前はどうでもいいらしく、元々存在しているとある噂が気になっているようで、仮にエリオットがこちらで見つかったとしてもことは慎重に運びたいようだった。
噂の真相が掴めていないからか、レイヴェンが気にしていた噂の内容は教えてはくれなかったが、まあエリオットがうちの家にいるということが分かればその話もしてくれることだろう。
数時間前、ゼフィルが「エリオットを家に置くという説明をレイヴェンにどうやってするのか」というようなことを言っていたが、これに関してはどうにでもなるというか、そこまで気にすることではないと現段階では思っている。もし仮にエリオットが両親と他三人を殺した犯人だったとしても、「記憶がない」とエリオットが言っている以上、レイヴェンも簡単に隣国に引き渡すという選択は取らないのではないだろうか? まあこれはあくまでも推測に過ぎず、その選択をすれば変に面倒ごとを増やすことになるはずだから見当違いということも大いにある。その場合どうするかをもう少し考えなければならないだろうが、ここでひとつ、ようやく自分の思考に疑問が及ぶ。
(……別に、そこまでしてエリオットを庇う必要なんてないんだけどな)
エリオットという人物のことをまだよく知らないのに少々肩入れしすぎているように感じているのは、きっと俺だけではない。多少なりともゼフィルは勘づいているだろうし、エリオット本人も不思議で仕方がないことだろう。この俺の行動理念に果たして理由があるのかと聞かれてしまえば、俺はろくな答えを出すことができない。しかし強いて言うのであれば、隣国の貴族が亡命という部分に少々引っかかりを覚えているのだ。その引っ掛かりが分からない以上、変に騒ぎ立てて大事にはしたくない。それだけだ。
花畑の中腹で、俺の足はすぐに止まった。その一点、範囲は一メートルくらいだろうか? そこだけが、明らかに俺の知っている花畑の景観とは違っていたのだ。
「ここか……?」
一応月の光が降り注いでいるのと、手に持っているランタンがあるお陰である程度の色味は認識できるが、それでも少々認識はしずらいものがある。もっと近くでそれを認識するために腰を下ろし、目の前に広がっているうちのひとつの花に触れた。すると、見覚えのある感覚が手に伝っていくのがよく分かった。まだ乾ききっていなかったのか、手には僅かに花の色がこびりついてしまっている。しかし手についたのは、花本来が持つ色ではない。
(……あいつが犯人かどうかはともかく、やっぱりここで誰かが死んだんだな)
日中だったらもっとあからさまだったのだろうが、この一帯、範囲は一メートルに及ぶ花だけが、血を被っているのである。
俺に医学的知識があるわけでもないが、明らかに普通の怪我ではないほどの血の量であるというのは誰が見てもわかるくらいに飛散していた。しかし辺りには、その血を吐いたと思われる人物の姿は見つからない。場所を移してどこかで野垂れ死んでいるのか、それとも辛うじて生きていて助かっているのか、はたまた「死体はもうこの世には存在していない」のかのどれかかだろうが、別に答えをすり合わせる必要はないだろう。
風が俺を追い越していく。それに合わせるように、俺は思わず後ろを振り向いた。当然そこには誰もいなかったが、何かはいる。そんな感覚だ。恐らく、もう少し神経を研ぎ澄ませばその何かが視える可能性があったのだろうが、俺はそこまでのことをしなかった。貴族の特権とも言える力をここで行使しないのだから、俺は貴族とは程遠い。だが別に、それでよかった。
向き直り空を見上げると、月が俺のことを見降ろしていた。十三夜月くらいだろうか? 満月には満たない月の光は、太陽よりもやけに眩しく感じたのを覚えている。俺の心を見透かしているかのようで、心地としては最悪だ。それに加えて右手についてしまった血は視界に入ると、俺は思わず顔をしかめてしまう。洗っても洗ってもこびりついて離れないそれの臭いが、俺は昔から嫌いで仕方がなかった。だから思わず、こんな小説の一節のようなセリフを口にしてしまう。
「……誰もが見とれる赤い花、か」
――狂ったかのように咲き誇るその花に心奪われると、人は身も心も少しずつ狂っていく。そして、身の回りにいる人間すら狂わせていき、全てを無へと還すかのように、関わった者は謎の死を遂げる。そんな噂が蔓延る花畑があった。
噂というのは不思議なもので、まるで枝分かれするかのように色々な解釈がなされ、そしていつしか、真実とはかけ離れたものが真実と呼ばれるようになる。噂なんてそんなものだと私は思っているし、そもそも信憑性がないものを信用する気は毛頭ない。
だが、ある日突然、ひとりの男が私の前に姿を現した。うすべ笑いを浮かべた男は、私にこう述べる。
『俺は、噂の真実を知っている』と。
私は、その言葉に酷く困惑した。それは何故か? 答えは、至極簡単で単純だ。何故ならここにいる人間は、その男が来る遙か前から既に狂っていたのだから。
「……んんー?」
これは、眠気に負けていつものように机に突っ伏している時の出来事である。
何かが机にのし掛かるような音が聞こえたかと思ったら、間髪入れずに俺の頭が無造作に叩かれる。俺が起きるその時までパシパシと続くそれに、俺はやむ無く重たい瞼をあげた。
「な、なんだよクロード……。飯はさっき食わなかったっけ……」
「んにゃあ」
「いや痛い……。髪の毛抜ける……」
やかましいクロードの猫パンチで起こされた俺は、クロードの体を掴むべく上半身を起こす。いつもだったら、大体飯の時間か俺が約束の時間ギリギリまで寝てる時とかに叩かれることが多いのだが、昼飯はもうとっくに終わった時間だし、今日は約束事なんてなかったはずた。……いや多分、なかったと思う。まあ、大体の約束事はレイヴェンとだから別に遅れてもいいのだけれど。
「お前ー……珍しく構ってちゃんか?」
うにゃうにゃと声をあげたまま俺の手からすり抜けようとする辺り、どうやら構って欲しいというのとは少し違うらしい。
クロードは一言だけ声をあげると、いとも簡単に俺の元から離れていく。軽やかにクロードが向かったのは、すぐ側にある庭を見渡すことのできる窓だ。カリカリと引っ掻く音が部屋に響く。傷がつくから心底やめて欲しいと思う中、近づくと聞こえてきたのは、外から誰かが何かを言っている声だ。ようやく聞こえてきた誰かの声に、俺はクロードを牽制して窓を覗きこむ。
「んんー……?」
そこにいたのは、街から帰ってきたばかりらしいやたら大きな声を出しているニシュアだった。俺が覗き込んだのが分かると、尚更身ぶりを大きくしていく。少しだけ錆び付いた窓の鍵を易々と開けると、僅かに風が入り込んでいるのが分かった。
「お兄ちゃん! お兄ちゃんってば!」
「なんだよー、そんな大声で……」
ニシュアに引き換え、俺はまるで寝起き時の貧相な声しか出てこない。いや、寝てたからそりゃそうなんだけど。まさかクロードは、ニシュアが俺を呼んでいたから起こそうとしていたのだろうか? なんて主人想いの優秀な猫なんだ。
「すぐそこに……っ、血まみれの男のひとが!」
……などと思っている場合では、どうやらないらしい。
「な、何でもいいから早くーっ!」
「分かった、分かったから。ちょっと待ってろ!」
明らかに焦っているニシュアに一度待ったをかけて、俺は早々に窓を閉める。開いた手は、自然とすぐ側にいるクロードの頭に置いていた。
「教えてくれてありがとなぁ」
このまま飽きるまで撫で回してやりたい気分ではあるものの、生憎そういうわけにもいかない。俺は、窓の鍵を閉めることをせずに足早に部屋を出た。
血塗れの男がすぐそこに。そう言っていたニシュアの言葉をそう簡単に呑み込みたくはないが、本当にそうだとするならとんでもない事態であることには間違いない。自然と早足になっていたのがその証拠だろう。
「あ、リベリオ様。さっきから――」
「あー! 丁度良かった。何処でもいいから部屋ひとつ用意しといてくれ。一応な!」
「……ニシュア様が大声で叫んでましたけど、それと関係あるんですか?」
「俺ちょっと行ってくるから、後は頼んだわ!」
「ちょ、ちょっと……!」
何処と無く噛み合っていないゼフィルとの会話を僅か数秒で終わらせ、そのまま止まることなく俺は玄関へと歩を進めた。中々縮まないニシュアとの距離を前に、こういう時家が無駄にデカいと面倒だと改めて思い知らされる。出来れば、もう少し簡素で分かりやすいただの民家だったら幾らかマシだっただろう。
「こっち!」
窓から見た時は庭のど真ん中にいたニシュアだったが、居ても立っても居られなかったのだろう。いつの間にか正門の近くへと移動していた。妹を先導に、街へと続く木に囲まれた道を進んでいく。いつもの見慣れた景色の中に現れるその男を、俺は今か今かと待ちわびていた。
「……え、そっち?」
ニシュアが向かったのは、街のある道ではなくどういうわけか花畑がある方だ。街からここにやって来るとするなら、そっちはまず通らないであろう道である。もっと正確に言うのであれば、通ることの出来ない道だと言っていいだろう。それなのにそっちに人がいるというのは、思わず怪訝な顔をせざるを得ない。
いや、心当たりは確かにある。あるにはあるのだけれど、出来ればそれは考えたくないというのが本音だった。
「あそこ……っ」
声を漏らしたニシュアの足取りが、ゆっくりと落ちていく。俺は一歩、少し息を切らした妹の前に立った。すると、何かに縋るようにニシュアが俺の裾を掴んだ感覚が走った。
まるでそれは、道端のゴミのように転がっていたと言って相違はない。少し遠くからでも嫌になるくらいによく目に映った血に塗れているそいつは、微塵も動く素振りを見せることはない。生きているのかというのは、ここからだと把握することは難しい。
足取りは決して軽くはないが、段々とその人物との距離は縮まっていった。散乱している髪の毛のお陰で顔は余り見えず、隙間から僅かに見える瞼は動く気配は全くない。男との距離は僅か数歩。微かに聞こえてきたのは、風によって擦れる葉の音である。
「うえっ……ぐす……」
それと、何処かから聞こえてくる声にもならない嗚咽だった。
当然それは男の声などではない。男の上着に隠れるようにして僅かに見えたのは、とても小さな顔のいわゆる小人だ。本当はもう少し情報があれば完璧だったのだけれど、それよりも前に口が勝手に言葉を出してしまう。
「……妖精、か?」
ただ一言、その単語だけで十分過ぎる存在がそこにはいた。
「ふえ……?」
そう俺が口にしてすぐ、それはやっと俺らのことに気付いたようで、声と同時に顔をあげる。その時はじめて見えた綺麗な羽根に、ようやくその存在が妖精であるという確信を持った。はじめて出会ったその存在に、当然ながら俺の瞳はまじまじとそれを捉えていた。
「に、にんげん増えたあぁ……!」
大粒の涙を浮かべた妖精と思わしき彼が、いかにも慌てた様子でそう口にする。
瞳から流れたそれが合図であるかのようにして巻き起こったのは、大きな風だ。それはさながら、大きな竜巻が起こる時のようにまわりを取り巻く円を描いたモノだった。
「わ、わわっ……!」
「やば……」
ニシュアの驚いた声に、俺は咄嗟にニシュアの肩を寄せた。
「ちょ、ちょっと待てタンマ! 何もしないって!」
「うえええん……っ!」
見知らぬ人間の声なんて、今の妖精には届かない。相当動揺しているのか、手にしていた小さな棒のようなモノをブンブンと振るたびに風が強くなっていくのを感じた。
このままだと収拾がつかなくなってしまうどころかこっちの分が悪すぎてかなりマズイ。せめてそこに転がっている男の素性だけでも知りたいのだが、だからといってこれ以上容易に近づくことも出来ない。何か、なにか解決策は――。
「落ち着けって……」
その時、妙に沈んだトーンの声が辺りを蔓延った。声の主は、勿論俺でもニシュアでもそこにいる妖精でもない。
「……まだ、死んでない」
地面に転がっている男が発した声に、恐らくは誰もが息をのんだ。
「うえっ……エリオット……」
僅かに動いた左手が、妖精の頬を撫でる。風が穏やかになったのは一体いつのことだったか、俺は思い出すことが出来なかった。いや、この際そんなことはどうだってよかった。
(エリオット……?)
妖精が口にしたその名前を、思わず心の中で反復してしまう。
やっと他の人間がいることに気づいたのか、妖精からエリオットと呼ばれた人物が顔を動かした。邪魔をしていた髪がようやくはだけて見えた顔には、朱くこびり付いたそれがよく映えていた。恐らくは夕に染まり始めていたからそう感じたのだろう。そいつと目があったのは、ほんの数秒のことだった。
「あんた、向こうの道の先に住んでるやつか……?」
「え? まあ、そうだけど……」
喋る気力だけはあったのか、それとも無理矢理だったのかは分からない。そうか、と、それだけ言い終えると、エリオットと呼ばれた男は再び瞼を綴じた。残された妖精は、止まりかけていた涙を溢し始める。声にならないその嗚咽が痛々しくて、俺はニシュアを寄せていた右手を離し、一歩だけ歩を進めた。後ろから俺のことを呼ぶ声が聞こえたが、左手で牽制する以上の余計なことはしない。
出来るだけ妖精の目線に合わせるようにして、俺は道の真ん中で行儀悪くしゃがむ。
「なあ、この人……エリオットだっけ? 俺の家に運びたいんだけど許してくれる? ここにずっといたんじゃ、いろんな意味で危ないからさ」
「うえええん……」
「ほらほら、そんなに泣いてたら干からびるぞ? それでもいいなら止めないけど」
「いやだああぁ……」
泣いてばかりの小さいのに構ってるとキリが無さそうだし、俺はその言葉を都合良く肯定と取って、転がっているそいつを何とかおぶれるようにと身体を動かしていく。その様子を見てなのか、ニシュアがようやく俺に合わせて動き出した。でも、当然のように蔓延してる血に滅茶苦茶焦ってたから、取りあえず妖精と仲良くしておくことを勧めておいた。どうやらそれは正解だったようで、ニシュアが妖精を抱くように手に収めてからはさっきと比べて非常に大人しくなった。鼻を啜る音は相変わらずではあるが。
おぶっているのが男だから尚更なのか、力の抜けた人間ってどうしてこうも重たいのだろうかと多少の文句が湧いてしまう。まるで体力が男に吸い取られるようで、正直あんまりいい気はしない。それよりも考えなければならないのは、助けるのはいいけどこれからどうするかということだろう。一瞬だけ過った俺の考えが当たっていなければいいと真底思うし、変にややこしいことにならなければ当然一番いい。
エリオットと呼ばれた人物を背負いながら、俺の思考は休まることはしない。
「ちょっと、先に行ってあいつら呼んどいてくんない? 着いてからのことは、俺だけじゃちょっと無理があるから」
「わ、分かった!」
先にニシュアと妖精を家に帰らせ、俺は身体に重くのし掛かるそれらを背負い歩いた。やけに静かになった道中聞こえていたのは、いつもより鈍く響く足音に、まるで帰路を導いてくれているかのようになだからに漂う風。そして、僅かに俺の耳にかかる誰かの寝息だけである。
「はぁ……。なんか家遠くない? 俺が代わりに死にそうなんだけど……」
俺の喧しい独り言は、自分が地面を踏みしめたと同時に消えてなくなっていく。俺が代わりに死ぬほうがよっぽど楽なのかもしれないなどと馬鹿らしいことを思いながら、仕方なく歩みを進めていった。こういう時、本当に目的地にちゃんと近付いているのだろうかと不安になるが、その心配は不要らしかった。
「リベリオ様!」
聞きなれた声と、その奥に見える自分の家に自然と安堵の息が零れる。どうやら家の門のすぐ傍で待っていたらしく、ニシュアから聞いて外に出てきたところだったようだ。
「私が代わります」
「あ? あー……いや、いいわ。めんどい」
「……部屋二階なんですけど本当に大丈夫ですか?」
「余計なこと言うなよ……」
今までの人生の中、これほどまでに家までの帰路を恨むなんてことはそうそうなかっただろう。家の門が見えた時、正直このまま倒れてやろうかと思った。変な意地を張った自分を殴りたい気分だが、かと言ってゼフィルに代わってもらうということは出来ればやりたくはない。それよりも問題は、恐らくこの後部屋に着いてからだろう。
◇
死ぬ気で家の階段を上り、やっとの思いで用意されていた部屋に着いてからのことに関しては、全くと言っていい程記憶がなかった。手伝う気力なんていうものが残っているはずがなかったというのも確かにあるが、男をベットに寝かせた後、その部屋にあったソファーに飛び込んですぐに俺の意識もどこかに飛んだ。それはさながら、本当にこのまま死んでいてももおかしくないくらいだった。例えば一般的な成人男性だったら、これくらいのことでここまで体力を奪われることもなかっただろうが、生憎俺はその一般的な成人男性というものに当てはまりはしないらしい。不規則な生活を送っているせいだというのは簡単だが、これは流石に体力というか気力がなさ過ぎると後々反省した。
ようやく辺りの空気が落ち着いたらしかったのは、いつの間にか寝入っていた俺の意識が覚めた時には既に訪れていた。だが、俺の手には依然として誰とも知らぬ血が僅かに残って離れない。
一体誰が掛けてくれたのか、体にかかったブランケットと共に身体を起こし辺りを一度見回した。
「ああ、やっとお目覚めですか」
俺の様子を見てすぐにそう口にしたのは、向かいのソファーに座っているゼフィルだった。ニシュアとティシーは晩飯の準備で数十分も前に部屋を出たらしい。いくら連れてきた人物が寝入っているからといって、一家の主を見知らぬ男と同じ部屋に置いてはおけないとかなんとか、ゼフィルがまだ部屋に居たのはそういう類いの理由で、俺が起きるまで気が気じゃなかったと最後に言葉を追加した。
テーブルの上には、ご丁寧なことに水差しとコップが置いてある。ゼフィルが注いでくれた水を口に含みながら、俺はまだ目が覚めないらしいエリオットという人物をちらりと視界にいれた。どうやら呼吸も安定しているようだが、その様子を見るに大層な大けがをしているという訳でもなさそうであるというのが少々気がかりで、俺は取りあえず男の状況を把握してみることにした。
「怪我、どうだった?」
そう問いかけると、ゼフィルは少し言葉を選んでいるような素振りを見せた。どうやら、それを説明するには都合の悪い何かが含まれていたらしい。
「……彼、怪我という怪我はしていませんでした。倒れていたのはどちらかというと衰弱が理由かと」
ゼフィルの声に、コップに漂っている水の波打ちが止まったような気がした。
「彼以外の誰かの血と言って、差し支えないかと思います」
続けざまに羅列されたそれらは、到底聞き入れがたい類いのモノだったといって差支えはないだろう。余り考えたくない事柄ではあるが、流石にこれは考えざるを得ないだろう。つまりは、そこで寝ている男以外に怪我をしていた人物がどこかにいたということなのだろうか? 道中それらしい人物には出会っていないし、もしかしたらまだこの近辺のどこかにいるのかも知れない。いや、それとも既に死体としてどこかに転がっている可能性もある。どちらにしても、背筋に悪寒が走るような状況であるということには変わりない。
「レイヴェンから何か連絡あったりしたか?」
「いえ、特には……」
もし大けがをしたという人物が街に戻っているのであればそれなりに大事になっているだろうし、男と会った場所が場所だからレイヴェンが俺の家に連絡してくるということは避けられない。それがないということは……?
「……そういえば、あの小さいのはどうした? ニシュアが連れてきただろ?」
「ああ、彼ならあそこのかごの中に」
ゼフィルの言ったかごというのは、比較的すぐに見つけることが出来た。男の寝ているすぐそばにある腰くらいまでの高さの小さ目な棚に、この家では余り見覚えのないかごが置いてあったのだ。どうやら、ニシュア様が自室から持ってきてくれたもののようだった。
「ずっと起きてたんですけどね。彼も疲れていたようで……」
よく耳を澄ませると、その妖精のもののような寝息が微かに聞こえてくるのがわかった。しかしなんというか、妖精がまるでただの客人のように家にいるというのは少々不思議な感覚である。ゼフィルは妖精がいることに驚き終わったのか、至って普通の返答ばかりだった。
それにしても、ここの家にいる人間に一応良識があって良かったかもしれない。妖精狩りという単語があるくらいだ。オレが起きたら妖精なんて跡形もなく無くなっていたという可能性も、最悪なくはなかっただろう。
「……ニシュアからこいつらの名前聞いたか?」
「いえ……何も聞いていませんが」
その状況に少しだけ安堵したのもつかの間、俺の頭はすぐに回転をはじめる。
「……エリオット」
というのも、妖精が口にしたこの名前に心当たりがあったのだ。
「そこの小さいのが、そう呼んでたんだよな……」
少々独り言のようになってしまったか、妖精が読んでいた名前を反復する。ひじ掛けに該当するそれを置き、思わず片手で頭を支えた。
「……それがどうされました?」
「いや……」
これは少々まずいかもしれない。考えれば考える程、問われた時の回答は適当になった。
(……下手したら大事件ものだな)
出来ることなら今すぐにでもレイヴェンに連絡を取りたい気分だが、そこまでしてあからさまに慌ててしまうと後の対処に困る。面倒だから余り大事にはしたくないというのは当然あるが、しかしそうなるとこれ以上考えても無駄ということになってしまう。少しくらい何か行動を起こしておきたい気持ちはあるが、今の段階では、どうしたってあそこで寝ている男が目を覚まさない限りは全て無意味でしかないだろう。暫くの間は、こうして無意味な考え事をすることで精神を保つことくらいしか出来ないのだ。
◇
そこは酷く冷たく、どこか混沌としている場所だった。何色にも染まることのないモノクロの景色の中にひとり、おれという存在が息巻いているというのを確かに把握するのには、そう時間はかからない。
どこにあるのかも分からない世界の中、ただひとりおれだけが存在しているというのは、それだけで恐怖心というのが煽られるはずなのに、どちらかと言えば心地よささえも感じてしまう。そう思ってしまうということは、恐らくおれはこの時から既に毒されていたのだろう。
――ゆっくりと靡く風に紛れて、誰かがおれを呼んでいる。辺りを見回しても誰もいないはずなのに、そこには確実に誰かがいる。いや、それは少し違うだろうか? 誰もいない筈だったのだ。
「×××××!」
その声の主は、一体誰なのだろうか?
大きく響く草花の掠れる音。何かを危惧しているかのように、酷く耳をつんざいていく容赦のないその音に、どういう訳か目を伏せる。その声を、聞きたくなんてなかったのだ。
「×××××!」
鮮明に聞こえはじめる、誰かがおれを呼ぶ声。どうしてこう、不安を掻き立てるようにじわじわと近づいてきているかのように聞こえてくるのだろう。次に目を開けたとき、おれの目に何が映っているのか、それを考えるのが怖くてたまらない。でも、だからといっていつまでもこうしているだなんて、出来はしないのだ。
固く閉じられていた瞼は、糊の接着面のように僅かに抵抗がかかる。接がれるのは時間の問題だった。
きっと、おれは最初から知っていたのだ。一体誰がおれのことを呼んでいたのかということに、気付かないはずがないのである。
「……あれ、目覚めてんじゃん」
どこからともなく視界に入り何かを言っているのは、長髪で眼鏡をかけた男だった。
「さっきまで起きてたんだけどなー、そこの小さいの」
そいつが視線で促した場所にあるのは、おれのいるベッドのすぐ隣にある棚だった。何があるのかと目を凝らしてみるが、その男が言う何かを見つけることが出来ず、重く鉛のようになっている上半身を無理矢理起こす。意識がまだはっきりとしていないのか、焦点があうのに少し時間がかかった。
棚の上に置いてある底の浅い手かごは、身体を起こすと底がよく見える。布が敷き詰められたその中には、酷く小さな体をした小人のようなモノが寝息を立てていた。
そのすぐ近くにいる、おれに声をかけてきた男の手には、波紋を打ちながら揺れる水が入ったコップが持たれている。一体何をするのかと思ったが、そのコップはおれの胸元にまで差し出された。ほぼ無理矢理、という程に押し付けられたお陰で、冷たい感覚が手にじわりと伝う。
そのあとすぐに目があったのは、水を押し付けてきた男の後ろにいる別の男だ。そいつが少し怪訝な顔をしている姿が妙に刺さり、視線は自然と水の波を追っていた。
「……お前、名前は?」
問われた言葉を前に、思わず思考が止まる。おれはその問いに答えることはしなかったが、まるで沈黙そのものが答えだったかのようにして、男は続けざまに問いを投げた。
「んじゃ、こいつの名前知りたいんだけど」
次に問われたのは、かごの中にいる小さなそいつの名前についてだ。果たしてなんと返せば適切なのか、答えに困る。一応意思表示として、おれは首を横に振った。
「……いやでも、こいつお前の名前知ってたぞ?」
さっきまで笑みを零していた男の顔は、途端にその面影を無くした。参ったな、という声と共に頭を掻くその仕草からして、どうやらおれの答えは想定外だったらしい。
「名前……」
「ん?」
「おれの名前、なんて言ってました?」
だとしたら、おれが聞くことはただ一つだけだった。
呆けた表情を見せる男だけれど、おれはわりと真面目に聞いている。どうやらそれが分からないと話にならないというのは、何となくだが理解が出来た。この男がおれの名前を知っているのか、ということまで考えることは出来なかったが、どうやらそれは些細なことだったらしい。
「あー、そういうあれか。そっか、そういうことか……」
その代わりとでも言うかのように似たような言葉を繰り返している様子は、恐らくは困惑と混乱。
「じゃあ、なんでここに居るのかも分からないってことだよな?」
それと同時に、何かを既に悟られているかのような感覚がおれを襲った。
「どうすっかな……まあいいや。ひとつずつ説明するから、取りあえず水くらい口にしとけ」
促されたまま、少し躊躇はしたがコップに口をつける。冷えた水が喉を伝っていくのが心地よかったと思えたのは、まだ幸いだったと言っていいだろう。なんとなくおれが落ち着いたのが分かったのか、口をコップから離すと男は真剣な口調でこれまでの経緯を話してきた。
まずひとつは、おれが街外れにあるこの家に続く道で倒れていたということ。ふたつ目は、倒れていたすぐ側にそこにいる小人……妖精がいたということ。みっつ目は、どうやらおれはその妖精のを知り合いであるということ。大まかに、そんなことを聞かされた。
「……まあ面倒な話はここまでとして、ひとつ提案というか……寧ろお願いか? まあ別にどっちでもいいんだけど」
そう前置きをして、男は続けてこう言った。
「記憶が戻るまでの間、ここに居座るってのがお前的には一番安パイだと思うんだけど、どうだ?」
その言葉を聞いて、おれの視界が僅かに広がった。
「部屋なんて腐るほどあるし……いや腐るほどはないけど。別にひとりくらい増えたって困らないしさ」
「いや、でも……」
「今のまま街に行っても宛なんてないだろ? それにまあ……あれだ。とにかく余計ややこしいことになるから、居てもらわないと困るっていうか」
確かに、男の言うように行く宛なんてものはない。いや、本来はあったのかも知れないけど、今のおれには存在しない。単純に状況だけを考えれば好機でしかないけど、果たして本当に全てを鵜呑みにしていいのだろうか? 当然、その疑念は沸いてくる。
端的にいうのなら厄介者でしかないはずのおれを、どうしてここに居ろとこいつは言うのだろうか? それに、居てもらわないと困るというのもよく分からない。元から知り合いというわけでも無さそうだし、別にこいつが困ることなんてひとつもないだろうに、他はともかくとしてそこだけがどうしても引っ掛かった。
「……ん、んん?」
「あ……起こしちゃったか?」
おれが答えを探している最中、何かが言葉にならない声を発しはじめた。男の言葉と視線に準ずるなら、多分かごの中で寝入っている小さいやつの声だろう。
布の衣擦れる音に合わせて、手で目を擦りながら大きな欠伸をしているのが垣間見える。その最中、眠気に襲われていたはずの小さいのと、しっかり目が合った。
「えりおっと……?」
小さいのは、おれを認識したかと思えば瞬く間に顔が歪んでいく。
「うえっ……ぐす……」
そして、潤んだ瞳から大きな涙が落ちていった。それらを必死に拭いながら、背中から生えている特徴的な透明の羽を動かして、おれの布団の上へと移動してくる。腹の上に落ちて、すがるようにしておれの手にしがみつくそいつを、自身の視界から消えないようにとじっと眺めていた。
「……げんき?」
下がった眉でおれの顔をしっかりと見て、ただ一言そう言った。元気かどうかを聞かれると、多分今のおれは元気ではないのだろう。ただそいつの顔をじっと見ていると、どうしてかそれを口にすることを拒んでしまう。瞼を動かすたびに落ちそうになる涙を見ていると、自然とそいつの頬に手が触れていた。小さいのが身体を硬直させたのはほんの数秒で、いとも簡単に表情が緩んでいくのが分かる。
「や、止めてよお」
そう言いながらも口調はとても嬉しそうで、どうやら本当におれと小さいのは親しい関係にあったらしい。男がずっと泣いていたと言っていたけど、もしかしておれを危惧しての涙だったのだろうか? そうだとするなら、多少なりとも心嬉しくなる。
『……泣くな』
いつだったか、こうやって小さな頬に伝った涙を拭ったことがあったような、そんな気がした。出来ることなら気のせいであって欲しくないと思う理由は、まだ見付けることが出来ない。
「なんだ、やっぱり仲良しじゃん」
男の言うように、いわゆる仲の良かったであろう時のことも全部覚えていない。そう思うと、居たたまれない気持ちに逆戻りだ。
「……記憶のないやつなんかが居たら、迷惑になります」
「んなこともないけど。知り合い同士なら面倒なこともありそうだけど、別に知り合いじゃないし。それに、ここ出るってなったら多分妖精もついてくだろ? 妖精連れて街まで行くってーのも、色々危ないから止めといた方がいいと思うんだよなあ」
別に悪い話でもないだろ? そうやって言う男は、どうもおれをここに留まらせておきたいから言葉を使って巧みに肯定させようとしているような気がしてならない。いや、何も分からないからそう感じるだけで、それは流石に考えすぎなのだろうか?
前のというのは少し違うかもしれないが、以前のおれだったらこういう場合どうしていただろう。
「……お前は、どうしたい?」
「えぇ?」
そう思うと、気付けば妖精に意見を求めてしまっていた。
「お、おいら……」
唸るような声と共に首を傾げ、ほんの少しだけ考えて出した結論がおれの前に提示される。
「おいらは、エリオットと一緒がいいなぁ」
この言葉を、おれは何処かで期待してしまっていたのかも知れない。
「……そうか」
そう思ってしまう程、妖精の声が甘美に頭に響いていた。
「記憶が戻るまで、ということですよね……?」
「ん? まあ別にどっちでもいいけど。目的があるなら出てけばいいし、無ければ居たって構わない。ってか、そういうの考えるのは全部思い出したときにしとけ。今考えたって答え出ないだろ」
目的があるなら出てけばいいし、無ければ居たっていい。一見単純ではあるけど、今のおれにはそれすらも難しい。最も、それを考えられるほどの情報量をまだ持ち合わせていないのだが。
「俺はリベリオ。ま、一応ここの主人ってことで。宜しくな」
握手を求めるリベリオの右手。何となく一瞬躊躇してしまったが、差し出されてしまってはそれに準ずるしかなくなってしまう。まだ本調子ではないのであろう冷たいおれの手に、少しだけ体温が戻った気がした。
「ところで、妖精って名前あるのか? あるなら教えて欲しいんだけど」
「ろ、ロデオだよ……」
「ロデオかー。宜しくなー」
自分のことをロデオと呼んだ妖精の頭を、リベリオが雑に撫で回す。慣れていないのかどうなのか、ロデオは激しく揺れていた。
「そういえばひとつ聞きたいんだけど、コイツの名前ってエリオットであってる?」
問われたロデオは、首を大きく縦に振る。その意味を理解するのに少なからず時間がかかってしまったけど、どうやらおれの名前はエリオットと言うらしい。
「そっか」
ロデオの仕草を見たリベリオは、ただ一言そう口にした。それを見つめる眼差しは、僅かながらに心憂いものが混じっているように見えた。
「……じゃ、宜しくエリオット」
この感じだと、本当に暫くの間ここに厄介になってしまいそうだ。リベリオの言う通り、今のおれには特にどこか宛てがあるわけでもないし、それならそれで断る理由は確かにどこにも存在しない。ただひとつだけ気になることがあるとするなら、窓から射してくる光によく似合う家の当主の笑み。それがおれには、どうしてか賎しく見えた。
◇
「……ここに留まらせるなら、そうだと前もって言っておいて頂きたいものですね」
「はいはい。悪かったって」
エリオットの居る部屋をゼフィルと共に後にしてからは、おおかたこんな類のことをゼフィルに永遠と言われ続けた。
少し涼しくなってきたらしい夜の風が、窓を僅かに鳴らしている。そんなことをされても遮断された家の中には入ってこれないのだが、こうも催促をされてしまうとふとした瞬間に開けてしまいそうになる。といっても、開けるつもりは毛頭ないのだが。夜といっても、夕食前のまだ日が落ち切っていない時間である。
「あの方を家に置くという結論に至ったのは何故ですか?」
「んー……」
どうにも腑に落ちないといった様子で詰め寄ってくるゼフィルに、俺は少々嫌気がさした。ゼフィルがしつこいからというわけではなく、果たしてどういう伝え方をするべきかを考えていたせいで余り心のない返事しかできないのだ。
「あいつ、貴族だからなぁ」
緊急事態と位置付けるには少し弱い気がするが、状況としてはまずまずではないだろうか。俺のこの言葉だけではある種答えにはなっておらず、ゼフィルは一層訳が分からないといった顔をした。急にあいつの素性が貴族だと言われればそんな顔にもなるだろうが、どちらかというとエリオットが貴族であるということと家に暫く置かせる結論に至ったことと一体何が関係しているのかとでも言いたげだった。
「しかも、三ヶ月程前から行方不明になっている隣国に住んでる奴だ」
勘が鈍い男ではないはずだ。これを口にすれば、俺の言いたいことをおおかた理解するだろう。しかしこの状況では、あくまでも俺の口にしていることは想像の範囲内だ。更にそこに畳みかけるようにして、俺の考えを主張する。
「本人は大した怪我をしていないが、それにしては血の量が尋常じゃなかった。果たしてあの血が何時ついたのかまでは分からないが……」
本当なら、こういう話はレイヴェンとしてから従者に伝えたいものである。
「十中八九、亡命だろうな」
しかし、今の状況はそれを許してはくれない。
記憶を無くしたと謡うあいつがエリオットだという明確な証拠は今のところないが、あいつが貴族だということは分かる。しかしこれもまあ、明確な証拠があるわけでもないのだが、出会った場所が証拠と言って差し支えはないだろう。
例え亡命だったとしても、別にそれが隣国の貴族だろうがそうじゃなかろうが別に俺はどうだって構わない。
「……この辺りで最近事件なんてなかったよな?」
「私の記憶にはありませんが……。どうしても情報が入りづらいというのはありますが、犯人が逃走してるような事件をレイヴェン様が我々に伝えない、というのはまず無いかと」
ゼフィルの言う通り、レイヴェンが俺らに街の情報を伝えないということはまずあり得ないだろう。最も、ことが発生してからまだ日が浅い、または誰にも見つかっていないというのであれば話は別だ。可能性としては後者の方がやや高いくらいのものだが、それなら尚更、今のこの状況では俺が考えたところで結論は出るものではない。
だがもうひとつ、俺が気にかかっていることがまだ残っているのである。
「……あいつ、本当に記憶がないと思うか?」
エリオットの記憶がないという実証をすることが、事実上不可能であるということだ。
「疑う理由は……?」
「家に来る前、一度アイツと喋ってる。その時はロデオのことも憶えてた。それが家に来た途端知らぬ存ぜぬってのは、ちょっと都合が良すぎるよ」
出会ったあの時は明確にロデオを認識していたし、何か明確な意思があってあそこまで来ていたように見えた。口調の差異は確かにあるが、記憶がないと言っているわりには冷静で状況を飲み込むのも早かった。エリオットが記憶喪失であるということを疑っているというよりは、記憶喪失というものがイマイチちゃんと理解できていないというところが本音かもしれない。
職業柄とでも言うべきか、一般人に比べれば人の感情や意思を汲み取る能力には長けているが、生憎俺は医者ではなく小説家だ。記憶喪失人の感情がどの程度まで保持されているのかも、あいつがこの状況をどう感じているのかもまだよく理解しきれていない。それが恐らく、俺がまだエリオットを信用出来ていない所以だろう。
現状における俺の見解を述べたところ、難しい顔をし続けているゼフィルが意見を述べた。
「やはりレイヴェン様に連絡した方が良いのでは? このまま保護というのは流石にリスクが高すぎます」
「いや、まだ連絡しなくていい。明後日あいつ来るだろ? その時でも遅くは無いよ」
「ですが……」
少し思案したのち、ゼフィルが更に言葉を続けていく。
「貴族のエリオット様であろう、というのはこの際構いません。本当に記憶喪失かどうかというのも、余り重要ではないかと思います。それだけだったら私だって鬼ではありませんよ。ただ、あの血が別の人間のモノである可能性が大きい以上、はいそうですかとは私は簡単には言えません」
「じゃあ、あのまま妖精と一緒にポイか?」
「そうは言ってませんが……」
望まない言い争いが始まりそうで、少々強引に極端なことを口にする。ゼフィルの言い分は最もだし、本来なら俺が引き下がるべき事案なのはよく分かるが、それでもあいつをこのまま野放しにするというのは頂けない。
「あいつが本当にエリオットだとして、だ。別にレイヴェンのことは疑ってないけど、他の人間の耳に入るのだけは避けたい」
貴族だからこそとでも言うべきだろうか。恐らくはそう容易く理解されないであろう事柄ばかりが辺りを渦巻いているのは、致し方ないというものだ。
「妖精が懐いている以上、それ相応に信用のおける人間以外の耳には入れたくない。その妖精が原因でここまで来た可能性だってある。エリオットが記憶喪失と謳っている以上、このまま簡単に身柄を渡したらどうなるかなんて簡単に想像がつくだろ? 最悪の事態にでもなったら、俺は夢見が悪くなるね」
妖精が懐いているというのも、一般的にはあり得ない事象だ。人の前にそうは現れないはずの妖精と親しくなるだなんて、例え運よく出会ったとしてもそこから先親しくなるのは相当に難しいはずだ。妖精狩りなどという嫌な言葉があるくらいだし、妖精だってそれなりに警戒しているだろう。
これはあくまでも所感でしかないが、何となくふたりの関係というのが、ありふれた言葉で言うのであれば信頼、もっと言うなら依存。そんな感じにも見えた。それがどの事象よりも、俺の目には不自然に映ったのだ。
「様子見ってことなら、別になにも起こらないだろ」
しかしだからこそ、現状の情報だけに囚われてしまうのは完全に悪手である。状況だけで判断するのなら、確かにエリオットがここに辿り着くまでの道中に何かしてはいけないことを犯した可能性の方が大きいし、恐らくは状況を見れば誰もがそう思うだろう。
「……レイヴェン様はどう説得するおつもりですか?」
「説得? ああ……ま、何とかなるだろ」
だが、エリオットが何かしらの事件の犯人である、という部分についてはさして問題ではないと俺は思っている。
「……そこまで仰るのなら、私はこれ以上のことは申しません」
納得はいっていないが理解はした、といったような吐息がゼフィルの口から漏れる。一応、ゼフィルが折れたということになるだろう。
「私は一応止めましたと主張はしておいてください。一緒に怒られるのは御免です」
「分かった分かった」
「ニシュア様とティーナへの説明はどうされますか?」
「そうだな……まあ、似たようなことは俺から説明しておくよ」
ニシュアとティーナは一体どういう気持ちで今いるのかは分からないが、心中穏やかかといえばそうではないだろう。まずは俺の口から今ゼフィルに話したようなことをまた言わなければならない。さて、一体どのタイミングで残りの二人に似たようなことを説明するべきか、今はそれで頭がいっぱいだ。
(……エリオット、か)
散々エリオットを擁護するような言葉を口にはしたが、だからといって全てを容認している訳では当然ない。
記憶がないというのが本当は嘘だった、くらいならまだいいが、あの男の服に付着していた血が何なのかというのを知った時、果たして俺はどこまで知恵を出すことが出来るのか、これは相当の手腕が問われるところだ。全ての謎が明かされる時、なにも起きなければいいのだが。
その一文は、さながら小説の主人公であるかのようなセリフで自然と眉を歪めていた。
◇
街灯もなくすっかりと暗くなった外の景観は、昼に見るよりも不気味に見えて仕方がない。もう既に日付が変わり、恐らくは大半の人間が寝静まっている頃のはずだ。目の前に唯一あるランタンの光を頼りに、こんな時間に外に出ることなんて普通に生活をしていればそうはない。特に今の状況からして言うのであれば、知り合いではない男が家にいるのだから家主が外に出るなんて本当はするべきではないというのも確かにその通りだ。俺だって、別にこんな時間になんて出たくて出てきたわけじゃない。だが、この時家を出た理由のひとつに、全く好奇心がなかったといったら嘘になるだろう。誰に言うこともせずこんな時間に花畑へと向かうというのは、背徳感が凄まじい。
ゼフィルにさえも言わないでここに来た理由としては、言えば必ず止められるし大喧嘩になりかねないからだ。もし帰ってすぐにバレたとしても、事後であれば文句は言われるかも知れないがある程度は押し通せるはずだ。最も、あの家が俺のいない間も平和的な空間であるということが前提の話ではあるが。
『……行方不明?』
レイヴェンから隣国の貴族の一人が行方不明になったという話を聞いたのは、一か月にも満たない頃の話である。
『なんでそんな話が俺のところに来るんだよ』
『念のためだ。あんまりいい話じゃないからな』
『念のためなんだって? ……あ、やべ間違えた』
『……お前、さては書き物しながら俺の話聞こうとしてるだろ』
電話越しの少し籠ったレイヴェンの声は、この時の俺には余り耳には入っていなかった。受話器を方と頬で挟み、手帳にシナリオの構想を書きながら話を聞こうとしているのだから、そもそもレイヴェンの話をまともに聞く気がなかったのだ。電話の時くらい手を止めればいいのにと言われてしまえばそれまでだが、話の構想を練っている時に電話なんてしてくるほうが悪いのである。俺のせいではない。
『その行方不明の貴族、エリオットって言うんだが……あ、こら止めないか。今大事な話を……』
しかし、レイヴェンの声が俺以外の誰かに向かれたのはすぐに分かった。最初はレイヴェンの息子であるロルフが来たのかと思ったが、ロルフに対しての言葉とも少し違うように感じた。その理由はただの勘だが、どうやら気のせいではないようで、理由もすぐに知ることになる。猫の一声が受話器越しから聞こえてきたのだ。
『お、シェルロ元気か? 最近来ねーからクロード怒ってたぞ』
『なぁー?』
『当たり前のように猫と会話するなよ。そのエリオットの家なんだが……』
『んなあー』
『こら邪魔するんじゃない。で……』
シェルロはレイヴェンの家族ごと家に来る時によくついて来る白猫なのだが、彼女はうちのクロードよりも社交的だ。おまけに甘え上手という特性がつく為、今回も恐らくその類のものだろう。レイヴェンと電話をするとよくあることだ。一応受話器からは少し離れたのか、しかしまだシェルロの声が微かに聞こえてくる辺り、恐らくはレイヴェンの膝の上にいるのだろう。レイヴェンが俺に説明したがっていたエリオットについてのことは、おおかたこんな感じである。
エリオットが行方不明になった三日後、エリオットの両親と他三人が殺害されているところが仕事場で発見されたのだそうだ。他三人というのは従者ではなく、仕事の関係者らしい。エリオット捜索の届けがこの街にまで来たのは、国がエリオットを犯人として捜したがっているからというのは確かにあるが、それよりも仕事の内容の方が問題だったらしい。しかし一体どういう仕事だったのかまでは教えてはくれなかったようで、こっちでどうにかしてその仕事とやらの内容を情報を探している最中だとレイヴェンは言っていた。レイヴェン曰く、機密情報だから教えないなどという建前はどうでもいいらしく、元々存在しているとある噂が気になっているようで、仮にエリオットがこちらで見つかったとしてもことは慎重に運びたいようだった。
噂の真相が掴めていないからか、レイヴェンが気にしていた噂の内容は教えてはくれなかったが、まあエリオットがうちの家にいるということが分かればその話もしてくれることだろう。
数時間前、ゼフィルが「エリオットを家に置くという説明をレイヴェンにどうやってするのか」というようなことを言っていたが、これに関してはどうにでもなるというか、そこまで気にすることではないと現段階では思っている。もし仮にエリオットが両親と他三人を殺した犯人だったとしても、「記憶がない」とエリオットが言っている以上、レイヴェンも簡単に隣国に引き渡すという選択は取らないのではないだろうか? まあこれはあくまでも推測に過ぎず、その選択をすれば変に面倒ごとを増やすことになるはずだから見当違いということも大いにある。その場合どうするかをもう少し考えなければならないだろうが、ここでひとつ、ようやく自分の思考に疑問が及ぶ。
(……別に、そこまでしてエリオットを庇う必要なんてないんだけどな)
エリオットという人物のことをまだよく知らないのに少々肩入れしすぎているように感じているのは、きっと俺だけではない。多少なりともゼフィルは勘づいているだろうし、エリオット本人も不思議で仕方がないことだろう。この俺の行動理念に果たして理由があるのかと聞かれてしまえば、俺はろくな答えを出すことができない。しかし強いて言うのであれば、隣国の貴族が亡命という部分に少々引っかかりを覚えているのだ。その引っ掛かりが分からない以上、変に騒ぎ立てて大事にはしたくない。それだけだ。
花畑の中腹で、俺の足はすぐに止まった。その一点、範囲は一メートルくらいだろうか? そこだけが、明らかに俺の知っている花畑の景観とは違っていたのだ。
「ここか……?」
一応月の光が降り注いでいるのと、手に持っているランタンがあるお陰である程度の色味は認識できるが、それでも少々認識はしずらいものがある。もっと近くでそれを認識するために腰を下ろし、目の前に広がっているうちのひとつの花に触れた。すると、見覚えのある感覚が手に伝っていくのがよく分かった。まだ乾ききっていなかったのか、手には僅かに花の色がこびりついてしまっている。しかし手についたのは、花本来が持つ色ではない。
(……あいつが犯人かどうかはともかく、やっぱりここで誰かが死んだんだな)
日中だったらもっとあからさまだったのだろうが、この一帯、範囲は一メートルに及ぶ花だけが、血を被っているのである。
俺に医学的知識があるわけでもないが、明らかに普通の怪我ではないほどの血の量であるというのは誰が見てもわかるくらいに飛散していた。しかし辺りには、その血を吐いたと思われる人物の姿は見つからない。場所を移してどこかで野垂れ死んでいるのか、それとも辛うじて生きていて助かっているのか、はたまた「死体はもうこの世には存在していない」のかのどれかかだろうが、別に答えをすり合わせる必要はないだろう。
風が俺を追い越していく。それに合わせるように、俺は思わず後ろを振り向いた。当然そこには誰もいなかったが、何かはいる。そんな感覚だ。恐らく、もう少し神経を研ぎ澄ませばその何かが視える可能性があったのだろうが、俺はそこまでのことをしなかった。貴族の特権とも言える力をここで行使しないのだから、俺は貴族とは程遠い。だが別に、それでよかった。
向き直り空を見上げると、月が俺のことを見降ろしていた。十三夜月くらいだろうか? 満月には満たない月の光は、太陽よりもやけに眩しく感じたのを覚えている。俺の心を見透かしているかのようで、心地としては最悪だ。それに加えて右手についてしまった血は視界に入ると、俺は思わず顔をしかめてしまう。洗っても洗ってもこびりついて離れないそれの臭いが、俺は昔から嫌いで仕方がなかった。だから思わず、こんな小説の一節のようなセリフを口にしてしまう。
「……誰もが見とれる赤い花、か」
――狂ったかのように咲き誇るその花に心奪われると、人は身も心も少しずつ狂っていく。そして、身の回りにいる人間すら狂わせていき、全てを無へと還すかのように、関わった者は謎の死を遂げる。そんな噂が蔓延る花畑があった。
噂というのは不思議なもので、まるで枝分かれするかのように色々な解釈がなされ、そしていつしか、真実とはかけ離れたものが真実と呼ばれるようになる。噂なんてそんなものだと私は思っているし、そもそも信憑性がないものを信用する気は毛頭ない。
だが、ある日突然、ひとりの男が私の前に姿を現した。うすべ笑いを浮かべた男は、私にこう述べる。
『俺は、噂の真実を知っている』と。
私は、その言葉に酷く困惑した。それは何故か? 答えは、至極簡単で単純だ。何故ならここにいる人間は、その男が来る遙か前から既に狂っていたのだから。