今日の天気は、少し雲が流れているものの出掛けには十分すぎるくらいに太陽がよく見える。そんな空の下、休館で人がいない図書館の出入り口の前でひとり待ちぼうけているのはなんと滑稽だろう。
俺が待ち合わせ場所に着いたのは、十三時五十五分頃。つまりは約束した時間の五分前。念のため持ってきた腕時計に視線を合わせると、時計の針は既に十四時七分をさしている。足元に置かれた灯りのついていないランタンが、待ち飽きている俺の気持ちを表しているようだった。
「……遅」
正直、約束通りに来るだなんて思ってはいないし、いつものことだから期待なんてしていない。だけど、「自分が行ってもいいのか?」という質問をしておきながら、なんだかんだで楽しみにしていたのはどう見てもアオイのほうだったし、今日くらいはちゃんと来ると思ってたけど、やっぱりそんなことはなかったようだ。というより、よくもまあそんなんで普通に図書館に勤めていられるなと、寧ろ感心してしまう。こういう時だけ遅刻するというのは、当事者側からしたらそれとこれとは話が別なのだろうか。
こうやって待たされている時というのは、待ち人が遅れている分の時間を埋めるようにして、どうしてかその人のことばかり考えてしまう。
……最悪、来れないような出来事に見舞われている可能性も無くはないのだから、それは当然なのかも知れないけど。
そんなことを考えながら、出入り口の少ない階段に設置された手すりにもたれ掛かっていると、遠くから見たことのある人物が走ってくるのが見える。ああ、やっと来たか。その言葉を代弁するかのように、俺の口からはため息が溢れ出ていた。
「ご、ごめん遅れた……っ!」
息を切らしてやって来たアオイの髪の毛は、走ってきたからなのか、それともただの寝癖なのか。とにかくいかにも急いで家を出てきました感が漂っている。アオイの場合は多分両方だろうけど。
「……まあ、時間通りに来るとは思ってなかったから別にいいけど」
そう、そうなのだ。別にアオイが時間通りに来るだなんて最初から思っていないし、遅れてくることに関してはわりとどうでもいい。
「リベリオさんの小説読んでたら夜が明けてて、気づいたらそのまま寝てた……。本当にごめん……」
ただ、その遅れる理由がいつも『小説を読んでいたら夜が明けていた』というのがどうにも気に入らない。というかなんだその理由は。まるで、出掛けるのが楽しみでそわそわして寝られなかった子供みたいじゃないか。……まあ、小説を読んでたら夜が明けてたっていうのは俺もそれなりにあるから何も言わないけど。
「別に何でもいいけど、そういう生活してるといつか死ぬよ?」
「は、はは……そうだね……」
自分のことを棚にあげた言葉をアオイに向け、足元にあるランタンを手に取る。カラリという音が、やっとこの場所から動くことが出来るという俺の気持ちの現れに聞こえた。
「じゃあ、さっさと行こうか。誰かのせいで十分も過ぎちゃったし」
「ちょ、ちょっと待って反省してるから置いてかないで!」
別に怒っている訳ではないけど、こうやって少し嫌味ったらしく言ったところで、遅刻する人っていうのはこれから先も遅れてくるということを、俺はこの遅刻魔のお陰で十分理解している。
きっと、この気持ちは待たされる側じゃないと分からないだろうけど、だからといって分かって欲しいとも思わない。
待っている時間というのも、案外悪くないのだから。
◇
「街のはずれって言ってたけど、どの辺りなの?」
「んー……位置的には、図書館から見て右かな。森のある方だよ」
「へえ……」
図書館を後にして僕たちが向かったのは、図書館の隣にあるルシアンの家を通り過ぎて大通りを通り、人通りの少なくなった小道を抜けた先にある森。長いこと暮らしてはいるけど、この辺りはお店があるとかそういう訳でもないし、近くにある植物園に行く時を除けば来る機会は決して多くない。
「あ、あそこの道を行けば着くかな、確か」
ルシアンを先導にして僕の目の前に現れたのは、街の外れにある森へと続くであろう小道。その先へさらに足を進めると、一応整備はされてはいるものの、古めかしい木製の扉がそこには立ち塞がっていた。
「……入れるの?」
「まあね。管理はうち持ちになってるから普段は入れないようになってるけど。というか、別にここからじゃなくても入ろうと思えば入れるし」
「そ、それは言ったらおしまいじゃない?」
多分、ここからじゃなくても適当に森に入れば着くだろうってことを言いたいんだろうけど、そういうの、管理してる側が余り言うもんじゃない気がする。
というか、確かに僕は行きたいとは言ったけど、本当に彼の家に行ってもいいのだろうか?その思いは、僅かに後ろめたい気持ちと混ざって未だに残っている。管理者の家の人間が言うなら多分きっと大丈夫なのだろうけど、普通に考えたらそういうことでもないというのは僕もよく分かっている。それでもこうして足を運んでしまったのは、やっぱり好奇心の方が遥かに上回ってしまっていたからだろう。
ルシアンが上着の内ポケットを探って出したのは、大きめの鍵。扉に備え付けられている大袈裟にも見える南京錠に鍵をさせば、カチャリという音が辺りに広がった。その音がやけに僕の耳に残った気がしたのは、やっとリベリオさんの家に行くという実感が湧いたからからなのかも知れない。
この先に、何百年も前に生きて文章を綴ってきた人の家が本当にあるのかと思うと、何処か不思議な気分になる。
「……この辺りはそんなに来ることはないけど、本当に街の外れなんだね」
「ま、森しかないからね。俺だって、わざわざこんなところになんて来ないし」
先急いでしまいそうになる気持ちを落ち着かせるようにしてルシアンと話を進めると、緩やかな風に揺れて、葉同士が摩れる音が聞こえる。それはいつもの風の気配で、いつもの木の葉の音だ。
最初は、そう思っていた。
「ん……?」
風が運ぶ音に紛れて、一瞬何かが耳を掠めた気がして足を止める。木々が奏でるそれらともまた違う、何か別の音。耳をすませるほどに聞こえてくるそれは、明らかに僕の知っている何かの音だと、どうしてかそう断言が出来た。
「……なにかあった?」
ルシアンは気付いていないのか、足が止まった僕に問いを投げかける。
「あっちだ……」
その言葉を無視して、気付けば、僕は自然とその音の聞こえる方へと足を運んでいた。道なんて何処にもない、ただの森の中へと足早に入っていく。その行動に、迷いなんてものがあるわけがなく。
「え、ちょっアオイどこ入って……って、聞いてないね」
「こういうタイプって、すぐ迷子になるんだよね……」というような言葉が耳を掠めたが、そんなことなんて今は気にしていられない。どうしてか僕は、その音のする方へと向かわなければならないと思ってしまっていた。
「この音……笛?」
僕の向かう方向、少しずつ音が大きくなっていくのは、それが近づいて来ている証拠だ。気を抜くと聞こえなくなってしまうようなか細いこの音。もはや後ろにいるかも分からないルシアンは、果たして気づいているのだろうか。草木が僕の行く手の邪魔をする。足を踏みしめ、手でそれらを牽制して、やっとの思いで少しだけ開けた場所へと辿りつく。足早だった自身の足は、自然とゆっくりといつもの調子に戻っていった。熱のこもった体に当たる風が、段々と僕の中の冷静さを掻き立てていくかのように心地いい。
……どうしてこんなにも、必死になってその音を探していたのか。そう問われても、今の僕にはきっと答えられない。でも僕はきっと、この音をずっとどこかで探していたのだろう。
「……ルシアン置いていっちゃったな」
気付けば、後ろにいたはずのルシアンの姿はそこにはおらず、残ったのは後悔に似たものだけ。そんなに遠くには来ていないはずだけど、自分でもよく分からない行動によってはぐれたのは事実だ。
ああ、これは間違いなくルシアンにどやされる。彼が来るのをここで待っていようか、それとも自分から行くべきか。どうしようかと迷っていると、また何処からか笛の音が聞こえてくる。遠くから聞こえているかのような小ささではあるけど、もしかしてかなり近いんじゃないか?
僕は再び、笛の音らしきものに耳をすませる。風が運ぶ木の葉の音を、出来るだけ排除して辿り着いた結論は。
「妖精だ……」
視線の先。そこにいたのは、手のひらサイズ程の石の上にちょこんと座り、ひとり笛を吹いている小さな妖精だった。
◇
手のひらサイズ程の小さな妖精。それが、恐らく僕に背を向けた状態で小さな音を奏でている。はじめて妖精という存在を目にしたという事実に、一瞬思考が止まった気がしたが、心が踊っているのが自分でもよく分かった。
風に乗って聞こえてくるような微かなそれを耳に入れるのに必死で、話しかけるとかそういう思考になるには少し時間が必要だった。
妖精なんて、今の時代にはその姿を見ることなんてまずないけど、その昔は、それこそ共存という言葉に相応しいくらいに人と妖精、またそれ以外の存在は互いに尊重しあって生きていたと言われている。ただ、その裏では彼らが持っているらしい力を無理やり行使しようと『人外狩り』のようなことが行なわれていたらしく、そのせいもあってか、今の時代では姿を見ること自体が珍しくなってしまったと、まるで示し合わせたかのように文献にはそう綴られている。
そもそも、彼らのような存在に害を為すことは禁止されてはいるものの、隠れてすることなんて幾らでも出来るわけで。勿論、僕はそんなことはしないけど。しかし、初めて出会ったそれを見たせいもあって、純粋にそこにいる妖精に興味があった。
本でしか出会ったことのない存在。いつか、いつか俺も出会える時が来るのだろうかと考えたことは何度もあったけど、正直、先人が本の中で作り上げた存在だと思っていたというか。心の何処かでは、きっといないだろうとなんて思っていたこともあった。それくらい、彼らと出会う機会なんてまず起こり得ないのだ。だから、ついつい言葉が漏れる。
「本当にいた……」
目の前にいるそれを前に、勝手に口が動いてしまう。僕の声にやっと気付いたのか、笛の音がようやく止まった。妖精が僕の存在を確認するかのようにして振り向いた時。
僕は、僕としてこの世界で生きている中、はじめて泣き虫で小さな彼と顔を合わせた。
「え……うわっ、にんげんだあああ……」
小さな彼は、僕の姿を見るや否や声をあげて一目散にその場から飛び去ろうと羽を広げていた。その様子を見て、どうしてか僕まで焦ってしまう。咄嗟に引き止めようと、気付けば声が出てしまった。
「あっ、待って! 僕は――」
「わあああああ……!」
慌てながらその場を去っていく小さな彼に、僕はそれ以上の言葉をかけることが出来なかった。
「行っちゃった。怖がらせちゃったな……」
まあでも、小さな彼の反応は最もかも知れない。これが大昔のことだったらこうはならなかったのかなって思うと、やっぱり寂しく感じてしまうけど。
「ふえ……う、うわあああああん!」
「ん……?」
居なくなったはずの小さな彼の声が、何処かから大きくなって聞こえてくる。さっきの、僕を見た時のそれとは少し違うような、何処か切羽詰まっているような声だった。さっきも逃げられちゃったし、こういうのって多分余り干渉するべきじゃないんだろうけど、聞いてしまった以上、このまま無視するというのは流石に出来なかった。
出来るだけゆっくりと、小さな彼が向かった方へと足を進める。葉っぱが生い茂っているところ、明らかにガサガサと音を立てている場所に向かって、腰を下ろす。
「……大丈夫?」
言いながら、僕は葉っぱにそっと手をかけた。
「ありさんっ……! おいらの事虐めないでよお!」
「蟻さん……?ああ、帽子に付いちゃったのか……」
ぼろぼろと大粒の涙を流し慌てふためく妖精に、僕は無意識に手を向けしまう。そうしてやっと僕の存在に気付いたのか、妖精の声は更に大きくなっていった。
「わあああああ! に、にんげんもやだあ!」
「ああ、ごめんごめん。どうしようかな……」
妖精は完全に動揺している。というか、なんなら帽子についてしまった蟻も困惑しているようにも見えた。僕がなんとかしようとすればまた同じことの繰り返しになっちゃうけど、かといって放っておくのもどうかと思うし、何か別の方法が出来ないだろうかと辺りを見回してはみたものの、当然、辺りは木々に囲まれているだけだ。ただ、その中でだって、自分がやろうと思えば方法なんていくらでもあるというものだ。
地面に落ちている何でもないそれを手に取り、ゆっくりと妖精の帽子に向けた。
「よっ、と……」
「え……?」
「……はい、蟻さんいなくなったよ」
妖精に向けたそれ。地面に落ちていたなんてことない木の棒には、さっきまで帽子で慌てふためいていた蟻の姿があった。
「キミが驚いてばかりだから、蟻さんも困ってたんだよ」
「うう……ごめんよ、ありさん……」
ぐすぐす鼻をならしていた彼は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。そこで、はじめて僕たちはちゃんと顔を合わせた気がした。
「う、その……あ、ありが……とう……」
「あ、いや……こっちこそ、キミを怖がらせるつもりはなかったんだ。驚かせてごめんね」
「う、うん……」
「あ、そういえば……。さっきの笛の音、キミだよね?」
「え……?」
「えーっと……違ったかな?」
「そ、そうだけど……。ほんとうに、聴こえたの……?」
「うん。小さかったけど、可愛かったよ。ねえ、ルシア……あれ」
辺りを見回してみたけど、ルシアンの姿が見えない。そういえば、彼の音に誘われて自分からはぐれに行ったんだっけ。目の前にいる彼と話がしたくて、完全に忘れていた。
「おーい、ルシアーン?」
「はいはい、ちゃんといるよ」
少し遠くの方、ルシアンの声と同時にガサリと音が響いてくるのが聞こえてくる。段々と近付いてくる草の音の正体が何なのかというのを想像するには、十分だった。
「何処行ってたの?」
「いや、こっちの台詞なんだけど……って、そこの小さい彼はどうしたの?」
「あ、うん。さっきね、蟻に襲われてたから」
「ふーん?」
視線が、ちらりと小さい彼の方へと向けられる。だけどそれはほんの一瞬のことだった。
「それはいいけど、探すの面倒だから勝手に行かないでくれる?」
「そ、そうだね……。ごめん……」
「リベリオさん家でも同じことしないでよね?あの家広いし」
「りべりお……?」
その言葉を発したのは、僕ではなく小さな彼だ。一見、ルシアンが発した言葉のひとつを口に出しただけのように見えたけど、そう思ったのはどうやら僕だけのようだった。
「……君は、リベリオさんのこと知ってるの?」
ルシアンが、さも当たり前のように彼と話をし始めている。それは、彼がそういうことにまるで興味がないからなのか、それとも僕が知らないだけでこういう類の存在に出会ったことがあるのか。今の僕には、それが分からない。単純に、ルシアンがこういうのに物怖じしない人間だから、というのが一番しっくりきそうではあるけど。
「う、うう……」
小さな彼は、帽子を被り直しながら何かを言いたそうにしているようだったけど、如何にも泣き出しそうな声を上げていた。それを見たルシアンは、彼の目線に合わせて腰を落とす。
「君も一緒に行く?」
「……え?」
その質問は、小さな彼と僕の口を開かせた。小さな彼の口から『リベリオ』という単語が出てきたからなのか、いつも面倒になりそうなことには余り首を突っ込まないルシアンが、自らこうやって問いかけるなんて正直思わなかったのだ。
少しの沈黙は、風と一緒に何処かへ流れていく。
「に、人間についていったら、きっとおいら食べられちゃうよ……」
「はは……生憎、俺は妖精を食べる趣味はないんだけど」
苦笑いかけながら、再度小さな彼に問いかけた。
「どうする?」
僕が唯一理解できたのは、ルシアンのそれは何かを考えた上での行動であるということだけ。
「お、おいらも……一緒にいきたい……」
風の音にすら負けてしまいそうな小さな声で、彼はそう答えた。
「じゃあ一緒に行こうか、小さい妖精くん?」
「う、うんっ!」
「で……君って名前ある?」
「ロ、ロデオだよ……」
「へぇ……じゃあ宜しくね、ロデオくん?」
僕はと言えば、この件に関してだけは完全に蚊帳の外だった。リベリオさんの家に行くというだけで一大イベントなのに、そこに追い打ちをかけるように妖精のロデオが現れた。
それはある意味では偶然で、ある意味では必然だったのかも知れない。
「……なに?」
気付けば僕は、ルシアンを視界に入れていた。
「いや……ルシアンって、結構優しいんだね」
「は? そういうお世辞いらないから」
捨て台詞のようなそれを置いて、さっさと元の道へ戻っていくルシアンの姿は、いつものそれと全く同じに見えた。
「えーっと……宜しくね?」
「う、うん……っ」
ロデオは、自身の持っている羽を動かして空を飛び始めたたかと思うと、一直線に向かったのは僕がしているマフラーだった。
「え、ちょ……っ!」
もぞもぞと潜り込んで、何かを探しているかのように動くそれは、さながら巣作りのようで。
「おいら、ここがいいな……」
「はは……。まあ、いいけどね」
満足したかのように呟く声が、マフラーの中から聞こえてくる。右の頬に微かに触れる彼の帽子だけが、姿を確認できる唯一の感覚だった。
◇
元の道に戻った僕たちは、早々にリベリオさんの家へ足を運んだ。少しずつ草木がなくなっていくのは、民家が近づいている証拠だろう。木々の隙間から、人工物が見え隠れしているのがよく分かる。
特に何かを話すでもなくして見えてきたのは、ひとりの小説家の家と呼ぶには余り似つかないくらいに大きな家と、行く手を阻む正門だった。
「家大きいね……」
「ま、ただの小説家ってわけじゃないし」
「そうなの?」
その問いにルシアンは答えない。変わりに、僕の目の前にランタンが差し出された。
「ちょっとこれ持って」
ポケットから取り出した鍵束の中から、それらしい鍵を手にし、鉄格子にかけらているそれに入れる。無機質な音が、微かに耳を掠めた。
「……ねえ、本当に僕入っていいの?」
「今それ言う? 別に帰ってもいいけど」
「待ってごめん行く。行きます」
鉄格子の鈍く擦れた音が、この場所が本当に長年使われていないということがよく分かる。当然のことではあるけど、本来客人を迎えてくれるはずの庭も、すっかりと廃れてしまっている。玄関のほう、まるでお金持ちが住んでいるかのような立派な扉がそびえたっているのが分かる。それが、どうしてかそこから先は入ってはいけないのではないかという思考にさせた。
ルシアンの持っている鍵束のどれか。どうやらその中に玄関の鍵があるようなのだけれど、ほんの少しした後、「……どれだっけな」なんていう言葉が聞こえてきた。どうやら、どれが玄関に鍵なのかが分からないらしい。ルシアンが考えあぐねていると、僕のマフラーがロデオによって動き始めた。顔だけ出して、ルシアンの持っている鍵束をじっと眺めたかと思うと、綺麗な羽を動かして僕の元を離れていく。
「たぶん……」
「ん?」
「これだとおもう……」
ちいさな手で触れたのは、鍵束に埋もれていたひとつの鍵だ。ルシアンは、一瞬驚いたような素振りを見せたものの、ロデオが提示したそれを手に取り、鍵穴に入れる。
ガチャリという音が、それが正解であるということの表れだった。
「……よく分かったね?」
ルシアンがそう口にすると、ロデオは慌てて僕のマフラーへと戻っていく。どうやら、すっかりそこが定位置になってしまったようだ。
何となく、僕とルシアンの目が合ってしまう。お互いに含んだ笑みを浮かべながらも、玄関の扉はゆっくりと開かれた。
「……埃くさ」
「はは……そうだね……」
一歩、屋敷の中へと足を運ぶ。見た目に似合う広い玄関のようだけれど、当然薄暗くて正直よく分からない。手にしていたランタンに日火を灯そうと、その場で一旦しゃがむ。こういうの、あんまり得意じゃないから本当は余りやりたくはないんだけど、ルシアンは今にも埃で死にそうだし。
ぎこちない手つきながらも、取り合えず灯りをつけることには成功した。壊さなくて良かったと心底思っているところに、ロデオがマフラーから身を乗り出してランタンを眺めているのが分かった。
「きらきら……」
「ああ、ランタンって言うんだよ」
「らんたん……」
ロデオの顔がオレンジ炎に満ちている。「あちち……」と目をぱちくりしているところを見る辺り、どうやら本当にはじめてそれに触れたようだった。
「そういえば、ルシアンって何処になにがあるかって分かってるの?」
「覚えてないこともないけど、子供の頃に入ったきりだから余り信用できないかな……。ああでも、彼の部屋が二階にあるってことは知ってるけど」
「ふうん……あ、あそこって何? 入れるの?」
「え? まあ入れるんじゃないの……って聞いてないな」
ルシアンの声が聞こえるよりも前に、足が勝手に動く。こういうの、どうやら鍵がかかってるのは正門と玄関だけのようだった。辺りを見回すと、僕の目に飛び込んだのは、ひとつのキャンドルスタンドだ。
「ねえルシアン! これって、今はもう作られてない型のキャンドルスタンドじゃない? なんで残ってるの?」
「ああ、まあ……そりゃそういうのも残ってるだろうけど。別にそれを見に来たわけじゃないっていうか」
「あっ、待ってあれは? あの机にあるやつ」
目に見える全てのものが、僕には新鮮に見える。その分ルシアンは如何にも興味がなさそうに、というより呆れにも近い様子で部屋に入ってきた。
「ねえルシアンあっちの部屋は?全部開いてるんだよね?」
「分かった分かった。分かったから勝手に行くのだけは勘弁して」
ルシアンに制止されながらも、僕の足は止まることを知らなかった。「二階に行くのすら時間がかかりそうだな……」なんていう声が、後ろから聞こえてくるものの、誰にも拾われることなく地面へと落ちた。
◇
あれからほんの少しして。僕の熱が冷めるよりも前に、ルシアンが僕に「いい加減二階に行かない?飽きたんだけど」と言ったことにより、止む無く二階に足を運ぶことになった。多分、十分も経っていない頃だったと思う。
階段を歩きながら、ルシアンはすっかり静かになったロデオに話しかけはじめた。
「……ところで、ロデオくんはどうして一緒に行きたいって思ったの?」
でも、それに対する言葉は返ってこない。
「流石の俺も、無視はちょっと傷ついちゃうなぁ」
「うう……」
その代わりに返ってきたのは、唸り声にも似た何か。そして、続けて放たれた言葉は、想像していたものとは少し違った。
「や、やっぱりおいらじゃ無理だよお……」
「……ロデオ?」
「ふえええ……」
「あーあ……アオイが泣かした」
「いや、僕のせいではないと思うんだけど……」
僕の角度からだとロデオの表情はよく見えないけど、ぽろぽろと流れてきた涙がマフラーを濡らしていくのだけはよく分かる。
「ごめんごめん。言いたくなかったんだよね。単に気になっただけだから」
鼻を鳴らしながらも、どうやらロデオが首を振ってそれを否定しているようで、流石のルシアンもどうしたもんかと困惑しているようだった。
「お、おいら……」
すると、目を擦りながらロデオが言葉を口にする。
「案内するの、たのまれたの……」
「案内……?」
「おいらの音が聞こえた人に、見せてあげろって、言ってたの……」
「……誰が?」
「りべりお……」
一瞬、ルシアンは確かに驚いていたようだったけど、「……そっか」とすぐに笑顔を向けて、それ以上言及することはしなかった。乱立される、もうこの世にはいない人物の名前。どうしてか、それが妙に恐怖心に似た何かを掻き立てているのを感じる。
廊下を進み、ふたつ程扉を見送った辺り。そこで僕たちは立ち止まる。目の前にあるのは、ロデオが示したリベリオさんの部屋へと通じるらしい扉だ。
「ここだよね? リベリオさんの部屋って」
「う、うん……」
ロデオに確認したルシアンが、扉取っ手に手をかける。少し錆びついたような音が耳につくと同時に、埃が空に舞った。
「うわ……ひっど……」
「そ、そうだね……」
それは恐らく、開けた瞬間に舞ったそれらが、ダイレクトにルシアンを襲ったから出た言葉なのだろう。そういえば、さっきまでは僕が勝手に扉を開けてはその後ろからルシアンがついてきたから特に何ともなかったけど、僕が開けないとそういうことが起こりえるのか。
足を踏み入れてすぐに僕の目の前に飛び込んできたのは、ひとり掛けの机と椅子。多分だけれど、作業机というのが一番しっくりくるだろう。ということは、だ。彼は、もしかしたらあの場所で小説を執筆していたのかも知れない。そう思うと、少しずつ胸の高鳴りが早くなってくるのが分かる。但し、それが本当にリベリオという人物に対する憧憬の念によるものなのかどうかは、また別の話だけれど。
「ここが……」
自然と、言葉が口から漏れる。机の後ろと窓側には、本来多くの本が並べられていたのであろう何も入っていない大きな棚。机の正面には、数人が座れるソファにアンティーク調のテーブルが置いてある。そしてその更に奥には、今となっては何の意味も持たないベットが置いてあった。
ベットの近くにある窓からは、さっき僕らが通った庭がよく見える。なんというか、その景色は本当にただの小説家が住んでいる場所とは思えないほどに、贅沢なものに感じた。
「……ん?」
声をあげたのは、作業机のほうにいるルシアンだ。疑問を呈するようなその声に、僕は反応せざるを得なかった。
「どうしたの?」
「いや、今……ちょっとランタン貸して」
「あ、うん」
言われるがままに、ランタンはルシアンの手元へと渡る。すると、床に向かって視線を動かしはじめた。
「何かあったの?」
「あったっていうか……」
イマイチ歯切れの悪い言い方をするルシアンがランタンの光で灯した床を、僕も一緒に眺めていく。一瞬、窓から差し込まれた光によって床が照らされた時、散りばめられた埃の間を縫うようにして、何かが視界に入ったのを、僕は見逃さなかった。
どうやらそれはルシアンも同じだったようで、ランタンの光がそこで止まっている。僕は目を凝らしながら腰を落とし、手で埃を払う。そうして見えたのは、黒いインクで書かれたのであろう文字。そこには、こんなことが綴られていた。
『――私は知っている。
もし、誰かがこの家に蔓延る真実を知ることが出来たのなら、私たちの物語は、本当の意味で終わりを告げるということを。』
床に書かれたその文字。書いているものが何を意味するのかはよく分からない。それはある種当然のことだけれど、ただ驚くことに、そこに存在している文字は、今僕らが使っている文字そのものだったのだ。
「これ、今僕たちが使ってる文字だよね……?」
この前、資料室で見たリベリオさんの手記と思われるものに書いてあったものとは明らかに違うもの。今の時代に当たり前のように蔓延っている文字。
僕らのいる街からは確立されているこの場所は、今となってはルシアンの家が管理者となっているから、ここに入ることは恐らく容易ではない。誰かの悪戯というには、余りにも不自然だった。
「……ルシアン?」
「え? ああ……。そうだね……」
何か、考え込むかのようにじっとその文字を見つめるルシアンを他所に、ロデオが急にその文字の元へ飛び立っていく。
「うう……」
眉をひそめながらも、手には出会った時に音を奏でていた笛がいつの間にか持たれているのが見える。
「ええいっ……!」
そして、ロデオの声に合わせるようにして、起こるはずのない風が部屋の中を蠢いた。
「え、ちょっ……!」
カタカタと窓が悲鳴を上げる。巻き起こった風と同時に、何かと共鳴するようにして聞いたことのある音が鳴り響く。その反動でロデオが飛んでいきそうになるのを何とか捕まえたのはいいものの、今何が起きているのかを理解するのは容易ではなかった。
――なにか、地に書かれた文字の近くから力のようなものを感じる。そう思った時には、僕らの周りは、目が開けられないほどの白い光に包まれていた。
俺が待ち合わせ場所に着いたのは、十三時五十五分頃。つまりは約束した時間の五分前。念のため持ってきた腕時計に視線を合わせると、時計の針は既に十四時七分をさしている。足元に置かれた灯りのついていないランタンが、待ち飽きている俺の気持ちを表しているようだった。
「……遅」
正直、約束通りに来るだなんて思ってはいないし、いつものことだから期待なんてしていない。だけど、「自分が行ってもいいのか?」という質問をしておきながら、なんだかんだで楽しみにしていたのはどう見てもアオイのほうだったし、今日くらいはちゃんと来ると思ってたけど、やっぱりそんなことはなかったようだ。というより、よくもまあそんなんで普通に図書館に勤めていられるなと、寧ろ感心してしまう。こういう時だけ遅刻するというのは、当事者側からしたらそれとこれとは話が別なのだろうか。
こうやって待たされている時というのは、待ち人が遅れている分の時間を埋めるようにして、どうしてかその人のことばかり考えてしまう。
……最悪、来れないような出来事に見舞われている可能性も無くはないのだから、それは当然なのかも知れないけど。
そんなことを考えながら、出入り口の少ない階段に設置された手すりにもたれ掛かっていると、遠くから見たことのある人物が走ってくるのが見える。ああ、やっと来たか。その言葉を代弁するかのように、俺の口からはため息が溢れ出ていた。
「ご、ごめん遅れた……っ!」
息を切らしてやって来たアオイの髪の毛は、走ってきたからなのか、それともただの寝癖なのか。とにかくいかにも急いで家を出てきました感が漂っている。アオイの場合は多分両方だろうけど。
「……まあ、時間通りに来るとは思ってなかったから別にいいけど」
そう、そうなのだ。別にアオイが時間通りに来るだなんて最初から思っていないし、遅れてくることに関してはわりとどうでもいい。
「リベリオさんの小説読んでたら夜が明けてて、気づいたらそのまま寝てた……。本当にごめん……」
ただ、その遅れる理由がいつも『小説を読んでいたら夜が明けていた』というのがどうにも気に入らない。というかなんだその理由は。まるで、出掛けるのが楽しみでそわそわして寝られなかった子供みたいじゃないか。……まあ、小説を読んでたら夜が明けてたっていうのは俺もそれなりにあるから何も言わないけど。
「別に何でもいいけど、そういう生活してるといつか死ぬよ?」
「は、はは……そうだね……」
自分のことを棚にあげた言葉をアオイに向け、足元にあるランタンを手に取る。カラリという音が、やっとこの場所から動くことが出来るという俺の気持ちの現れに聞こえた。
「じゃあ、さっさと行こうか。誰かのせいで十分も過ぎちゃったし」
「ちょ、ちょっと待って反省してるから置いてかないで!」
別に怒っている訳ではないけど、こうやって少し嫌味ったらしく言ったところで、遅刻する人っていうのはこれから先も遅れてくるということを、俺はこの遅刻魔のお陰で十分理解している。
きっと、この気持ちは待たされる側じゃないと分からないだろうけど、だからといって分かって欲しいとも思わない。
待っている時間というのも、案外悪くないのだから。
◇
「街のはずれって言ってたけど、どの辺りなの?」
「んー……位置的には、図書館から見て右かな。森のある方だよ」
「へえ……」
図書館を後にして僕たちが向かったのは、図書館の隣にあるルシアンの家を通り過ぎて大通りを通り、人通りの少なくなった小道を抜けた先にある森。長いこと暮らしてはいるけど、この辺りはお店があるとかそういう訳でもないし、近くにある植物園に行く時を除けば来る機会は決して多くない。
「あ、あそこの道を行けば着くかな、確か」
ルシアンを先導にして僕の目の前に現れたのは、街の外れにある森へと続くであろう小道。その先へさらに足を進めると、一応整備はされてはいるものの、古めかしい木製の扉がそこには立ち塞がっていた。
「……入れるの?」
「まあね。管理はうち持ちになってるから普段は入れないようになってるけど。というか、別にここからじゃなくても入ろうと思えば入れるし」
「そ、それは言ったらおしまいじゃない?」
多分、ここからじゃなくても適当に森に入れば着くだろうってことを言いたいんだろうけど、そういうの、管理してる側が余り言うもんじゃない気がする。
というか、確かに僕は行きたいとは言ったけど、本当に彼の家に行ってもいいのだろうか?その思いは、僅かに後ろめたい気持ちと混ざって未だに残っている。管理者の家の人間が言うなら多分きっと大丈夫なのだろうけど、普通に考えたらそういうことでもないというのは僕もよく分かっている。それでもこうして足を運んでしまったのは、やっぱり好奇心の方が遥かに上回ってしまっていたからだろう。
ルシアンが上着の内ポケットを探って出したのは、大きめの鍵。扉に備え付けられている大袈裟にも見える南京錠に鍵をさせば、カチャリという音が辺りに広がった。その音がやけに僕の耳に残った気がしたのは、やっとリベリオさんの家に行くという実感が湧いたからからなのかも知れない。
この先に、何百年も前に生きて文章を綴ってきた人の家が本当にあるのかと思うと、何処か不思議な気分になる。
「……この辺りはそんなに来ることはないけど、本当に街の外れなんだね」
「ま、森しかないからね。俺だって、わざわざこんなところになんて来ないし」
先急いでしまいそうになる気持ちを落ち着かせるようにしてルシアンと話を進めると、緩やかな風に揺れて、葉同士が摩れる音が聞こえる。それはいつもの風の気配で、いつもの木の葉の音だ。
最初は、そう思っていた。
「ん……?」
風が運ぶ音に紛れて、一瞬何かが耳を掠めた気がして足を止める。木々が奏でるそれらともまた違う、何か別の音。耳をすませるほどに聞こえてくるそれは、明らかに僕の知っている何かの音だと、どうしてかそう断言が出来た。
「……なにかあった?」
ルシアンは気付いていないのか、足が止まった僕に問いを投げかける。
「あっちだ……」
その言葉を無視して、気付けば、僕は自然とその音の聞こえる方へと足を運んでいた。道なんて何処にもない、ただの森の中へと足早に入っていく。その行動に、迷いなんてものがあるわけがなく。
「え、ちょっアオイどこ入って……って、聞いてないね」
「こういうタイプって、すぐ迷子になるんだよね……」というような言葉が耳を掠めたが、そんなことなんて今は気にしていられない。どうしてか僕は、その音のする方へと向かわなければならないと思ってしまっていた。
「この音……笛?」
僕の向かう方向、少しずつ音が大きくなっていくのは、それが近づいて来ている証拠だ。気を抜くと聞こえなくなってしまうようなか細いこの音。もはや後ろにいるかも分からないルシアンは、果たして気づいているのだろうか。草木が僕の行く手の邪魔をする。足を踏みしめ、手でそれらを牽制して、やっとの思いで少しだけ開けた場所へと辿りつく。足早だった自身の足は、自然とゆっくりといつもの調子に戻っていった。熱のこもった体に当たる風が、段々と僕の中の冷静さを掻き立てていくかのように心地いい。
……どうしてこんなにも、必死になってその音を探していたのか。そう問われても、今の僕にはきっと答えられない。でも僕はきっと、この音をずっとどこかで探していたのだろう。
「……ルシアン置いていっちゃったな」
気付けば、後ろにいたはずのルシアンの姿はそこにはおらず、残ったのは後悔に似たものだけ。そんなに遠くには来ていないはずだけど、自分でもよく分からない行動によってはぐれたのは事実だ。
ああ、これは間違いなくルシアンにどやされる。彼が来るのをここで待っていようか、それとも自分から行くべきか。どうしようかと迷っていると、また何処からか笛の音が聞こえてくる。遠くから聞こえているかのような小ささではあるけど、もしかしてかなり近いんじゃないか?
僕は再び、笛の音らしきものに耳をすませる。風が運ぶ木の葉の音を、出来るだけ排除して辿り着いた結論は。
「妖精だ……」
視線の先。そこにいたのは、手のひらサイズ程の石の上にちょこんと座り、ひとり笛を吹いている小さな妖精だった。
◇
手のひらサイズ程の小さな妖精。それが、恐らく僕に背を向けた状態で小さな音を奏でている。はじめて妖精という存在を目にしたという事実に、一瞬思考が止まった気がしたが、心が踊っているのが自分でもよく分かった。
風に乗って聞こえてくるような微かなそれを耳に入れるのに必死で、話しかけるとかそういう思考になるには少し時間が必要だった。
妖精なんて、今の時代にはその姿を見ることなんてまずないけど、その昔は、それこそ共存という言葉に相応しいくらいに人と妖精、またそれ以外の存在は互いに尊重しあって生きていたと言われている。ただ、その裏では彼らが持っているらしい力を無理やり行使しようと『人外狩り』のようなことが行なわれていたらしく、そのせいもあってか、今の時代では姿を見ること自体が珍しくなってしまったと、まるで示し合わせたかのように文献にはそう綴られている。
そもそも、彼らのような存在に害を為すことは禁止されてはいるものの、隠れてすることなんて幾らでも出来るわけで。勿論、僕はそんなことはしないけど。しかし、初めて出会ったそれを見たせいもあって、純粋にそこにいる妖精に興味があった。
本でしか出会ったことのない存在。いつか、いつか俺も出会える時が来るのだろうかと考えたことは何度もあったけど、正直、先人が本の中で作り上げた存在だと思っていたというか。心の何処かでは、きっといないだろうとなんて思っていたこともあった。それくらい、彼らと出会う機会なんてまず起こり得ないのだ。だから、ついつい言葉が漏れる。
「本当にいた……」
目の前にいるそれを前に、勝手に口が動いてしまう。僕の声にやっと気付いたのか、笛の音がようやく止まった。妖精が僕の存在を確認するかのようにして振り向いた時。
僕は、僕としてこの世界で生きている中、はじめて泣き虫で小さな彼と顔を合わせた。
「え……うわっ、にんげんだあああ……」
小さな彼は、僕の姿を見るや否や声をあげて一目散にその場から飛び去ろうと羽を広げていた。その様子を見て、どうしてか僕まで焦ってしまう。咄嗟に引き止めようと、気付けば声が出てしまった。
「あっ、待って! 僕は――」
「わあああああ……!」
慌てながらその場を去っていく小さな彼に、僕はそれ以上の言葉をかけることが出来なかった。
「行っちゃった。怖がらせちゃったな……」
まあでも、小さな彼の反応は最もかも知れない。これが大昔のことだったらこうはならなかったのかなって思うと、やっぱり寂しく感じてしまうけど。
「ふえ……う、うわあああああん!」
「ん……?」
居なくなったはずの小さな彼の声が、何処かから大きくなって聞こえてくる。さっきの、僕を見た時のそれとは少し違うような、何処か切羽詰まっているような声だった。さっきも逃げられちゃったし、こういうのって多分余り干渉するべきじゃないんだろうけど、聞いてしまった以上、このまま無視するというのは流石に出来なかった。
出来るだけゆっくりと、小さな彼が向かった方へと足を進める。葉っぱが生い茂っているところ、明らかにガサガサと音を立てている場所に向かって、腰を下ろす。
「……大丈夫?」
言いながら、僕は葉っぱにそっと手をかけた。
「ありさんっ……! おいらの事虐めないでよお!」
「蟻さん……?ああ、帽子に付いちゃったのか……」
ぼろぼろと大粒の涙を流し慌てふためく妖精に、僕は無意識に手を向けしまう。そうしてやっと僕の存在に気付いたのか、妖精の声は更に大きくなっていった。
「わあああああ! に、にんげんもやだあ!」
「ああ、ごめんごめん。どうしようかな……」
妖精は完全に動揺している。というか、なんなら帽子についてしまった蟻も困惑しているようにも見えた。僕がなんとかしようとすればまた同じことの繰り返しになっちゃうけど、かといって放っておくのもどうかと思うし、何か別の方法が出来ないだろうかと辺りを見回してはみたものの、当然、辺りは木々に囲まれているだけだ。ただ、その中でだって、自分がやろうと思えば方法なんていくらでもあるというものだ。
地面に落ちている何でもないそれを手に取り、ゆっくりと妖精の帽子に向けた。
「よっ、と……」
「え……?」
「……はい、蟻さんいなくなったよ」
妖精に向けたそれ。地面に落ちていたなんてことない木の棒には、さっきまで帽子で慌てふためいていた蟻の姿があった。
「キミが驚いてばかりだから、蟻さんも困ってたんだよ」
「うう……ごめんよ、ありさん……」
ぐすぐす鼻をならしていた彼は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。そこで、はじめて僕たちはちゃんと顔を合わせた気がした。
「う、その……あ、ありが……とう……」
「あ、いや……こっちこそ、キミを怖がらせるつもりはなかったんだ。驚かせてごめんね」
「う、うん……」
「あ、そういえば……。さっきの笛の音、キミだよね?」
「え……?」
「えーっと……違ったかな?」
「そ、そうだけど……。ほんとうに、聴こえたの……?」
「うん。小さかったけど、可愛かったよ。ねえ、ルシア……あれ」
辺りを見回してみたけど、ルシアンの姿が見えない。そういえば、彼の音に誘われて自分からはぐれに行ったんだっけ。目の前にいる彼と話がしたくて、完全に忘れていた。
「おーい、ルシアーン?」
「はいはい、ちゃんといるよ」
少し遠くの方、ルシアンの声と同時にガサリと音が響いてくるのが聞こえてくる。段々と近付いてくる草の音の正体が何なのかというのを想像するには、十分だった。
「何処行ってたの?」
「いや、こっちの台詞なんだけど……って、そこの小さい彼はどうしたの?」
「あ、うん。さっきね、蟻に襲われてたから」
「ふーん?」
視線が、ちらりと小さい彼の方へと向けられる。だけどそれはほんの一瞬のことだった。
「それはいいけど、探すの面倒だから勝手に行かないでくれる?」
「そ、そうだね……。ごめん……」
「リベリオさん家でも同じことしないでよね?あの家広いし」
「りべりお……?」
その言葉を発したのは、僕ではなく小さな彼だ。一見、ルシアンが発した言葉のひとつを口に出しただけのように見えたけど、そう思ったのはどうやら僕だけのようだった。
「……君は、リベリオさんのこと知ってるの?」
ルシアンが、さも当たり前のように彼と話をし始めている。それは、彼がそういうことにまるで興味がないからなのか、それとも僕が知らないだけでこういう類の存在に出会ったことがあるのか。今の僕には、それが分からない。単純に、ルシアンがこういうのに物怖じしない人間だから、というのが一番しっくりきそうではあるけど。
「う、うう……」
小さな彼は、帽子を被り直しながら何かを言いたそうにしているようだったけど、如何にも泣き出しそうな声を上げていた。それを見たルシアンは、彼の目線に合わせて腰を落とす。
「君も一緒に行く?」
「……え?」
その質問は、小さな彼と僕の口を開かせた。小さな彼の口から『リベリオ』という単語が出てきたからなのか、いつも面倒になりそうなことには余り首を突っ込まないルシアンが、自らこうやって問いかけるなんて正直思わなかったのだ。
少しの沈黙は、風と一緒に何処かへ流れていく。
「に、人間についていったら、きっとおいら食べられちゃうよ……」
「はは……生憎、俺は妖精を食べる趣味はないんだけど」
苦笑いかけながら、再度小さな彼に問いかけた。
「どうする?」
僕が唯一理解できたのは、ルシアンのそれは何かを考えた上での行動であるということだけ。
「お、おいらも……一緒にいきたい……」
風の音にすら負けてしまいそうな小さな声で、彼はそう答えた。
「じゃあ一緒に行こうか、小さい妖精くん?」
「う、うんっ!」
「で……君って名前ある?」
「ロ、ロデオだよ……」
「へぇ……じゃあ宜しくね、ロデオくん?」
僕はと言えば、この件に関してだけは完全に蚊帳の外だった。リベリオさんの家に行くというだけで一大イベントなのに、そこに追い打ちをかけるように妖精のロデオが現れた。
それはある意味では偶然で、ある意味では必然だったのかも知れない。
「……なに?」
気付けば僕は、ルシアンを視界に入れていた。
「いや……ルシアンって、結構優しいんだね」
「は? そういうお世辞いらないから」
捨て台詞のようなそれを置いて、さっさと元の道へ戻っていくルシアンの姿は、いつものそれと全く同じに見えた。
「えーっと……宜しくね?」
「う、うん……っ」
ロデオは、自身の持っている羽を動かして空を飛び始めたたかと思うと、一直線に向かったのは僕がしているマフラーだった。
「え、ちょ……っ!」
もぞもぞと潜り込んで、何かを探しているかのように動くそれは、さながら巣作りのようで。
「おいら、ここがいいな……」
「はは……。まあ、いいけどね」
満足したかのように呟く声が、マフラーの中から聞こえてくる。右の頬に微かに触れる彼の帽子だけが、姿を確認できる唯一の感覚だった。
◇
元の道に戻った僕たちは、早々にリベリオさんの家へ足を運んだ。少しずつ草木がなくなっていくのは、民家が近づいている証拠だろう。木々の隙間から、人工物が見え隠れしているのがよく分かる。
特に何かを話すでもなくして見えてきたのは、ひとりの小説家の家と呼ぶには余り似つかないくらいに大きな家と、行く手を阻む正門だった。
「家大きいね……」
「ま、ただの小説家ってわけじゃないし」
「そうなの?」
その問いにルシアンは答えない。変わりに、僕の目の前にランタンが差し出された。
「ちょっとこれ持って」
ポケットから取り出した鍵束の中から、それらしい鍵を手にし、鉄格子にかけらているそれに入れる。無機質な音が、微かに耳を掠めた。
「……ねえ、本当に僕入っていいの?」
「今それ言う? 別に帰ってもいいけど」
「待ってごめん行く。行きます」
鉄格子の鈍く擦れた音が、この場所が本当に長年使われていないということがよく分かる。当然のことではあるけど、本来客人を迎えてくれるはずの庭も、すっかりと廃れてしまっている。玄関のほう、まるでお金持ちが住んでいるかのような立派な扉がそびえたっているのが分かる。それが、どうしてかそこから先は入ってはいけないのではないかという思考にさせた。
ルシアンの持っている鍵束のどれか。どうやらその中に玄関の鍵があるようなのだけれど、ほんの少しした後、「……どれだっけな」なんていう言葉が聞こえてきた。どうやら、どれが玄関に鍵なのかが分からないらしい。ルシアンが考えあぐねていると、僕のマフラーがロデオによって動き始めた。顔だけ出して、ルシアンの持っている鍵束をじっと眺めたかと思うと、綺麗な羽を動かして僕の元を離れていく。
「たぶん……」
「ん?」
「これだとおもう……」
ちいさな手で触れたのは、鍵束に埋もれていたひとつの鍵だ。ルシアンは、一瞬驚いたような素振りを見せたものの、ロデオが提示したそれを手に取り、鍵穴に入れる。
ガチャリという音が、それが正解であるということの表れだった。
「……よく分かったね?」
ルシアンがそう口にすると、ロデオは慌てて僕のマフラーへと戻っていく。どうやら、すっかりそこが定位置になってしまったようだ。
何となく、僕とルシアンの目が合ってしまう。お互いに含んだ笑みを浮かべながらも、玄関の扉はゆっくりと開かれた。
「……埃くさ」
「はは……そうだね……」
一歩、屋敷の中へと足を運ぶ。見た目に似合う広い玄関のようだけれど、当然薄暗くて正直よく分からない。手にしていたランタンに日火を灯そうと、その場で一旦しゃがむ。こういうの、あんまり得意じゃないから本当は余りやりたくはないんだけど、ルシアンは今にも埃で死にそうだし。
ぎこちない手つきながらも、取り合えず灯りをつけることには成功した。壊さなくて良かったと心底思っているところに、ロデオがマフラーから身を乗り出してランタンを眺めているのが分かった。
「きらきら……」
「ああ、ランタンって言うんだよ」
「らんたん……」
ロデオの顔がオレンジ炎に満ちている。「あちち……」と目をぱちくりしているところを見る辺り、どうやら本当にはじめてそれに触れたようだった。
「そういえば、ルシアンって何処になにがあるかって分かってるの?」
「覚えてないこともないけど、子供の頃に入ったきりだから余り信用できないかな……。ああでも、彼の部屋が二階にあるってことは知ってるけど」
「ふうん……あ、あそこって何? 入れるの?」
「え? まあ入れるんじゃないの……って聞いてないな」
ルシアンの声が聞こえるよりも前に、足が勝手に動く。こういうの、どうやら鍵がかかってるのは正門と玄関だけのようだった。辺りを見回すと、僕の目に飛び込んだのは、ひとつのキャンドルスタンドだ。
「ねえルシアン! これって、今はもう作られてない型のキャンドルスタンドじゃない? なんで残ってるの?」
「ああ、まあ……そりゃそういうのも残ってるだろうけど。別にそれを見に来たわけじゃないっていうか」
「あっ、待ってあれは? あの机にあるやつ」
目に見える全てのものが、僕には新鮮に見える。その分ルシアンは如何にも興味がなさそうに、というより呆れにも近い様子で部屋に入ってきた。
「ねえルシアンあっちの部屋は?全部開いてるんだよね?」
「分かった分かった。分かったから勝手に行くのだけは勘弁して」
ルシアンに制止されながらも、僕の足は止まることを知らなかった。「二階に行くのすら時間がかかりそうだな……」なんていう声が、後ろから聞こえてくるものの、誰にも拾われることなく地面へと落ちた。
◇
あれからほんの少しして。僕の熱が冷めるよりも前に、ルシアンが僕に「いい加減二階に行かない?飽きたんだけど」と言ったことにより、止む無く二階に足を運ぶことになった。多分、十分も経っていない頃だったと思う。
階段を歩きながら、ルシアンはすっかり静かになったロデオに話しかけはじめた。
「……ところで、ロデオくんはどうして一緒に行きたいって思ったの?」
でも、それに対する言葉は返ってこない。
「流石の俺も、無視はちょっと傷ついちゃうなぁ」
「うう……」
その代わりに返ってきたのは、唸り声にも似た何か。そして、続けて放たれた言葉は、想像していたものとは少し違った。
「や、やっぱりおいらじゃ無理だよお……」
「……ロデオ?」
「ふえええ……」
「あーあ……アオイが泣かした」
「いや、僕のせいではないと思うんだけど……」
僕の角度からだとロデオの表情はよく見えないけど、ぽろぽろと流れてきた涙がマフラーを濡らしていくのだけはよく分かる。
「ごめんごめん。言いたくなかったんだよね。単に気になっただけだから」
鼻を鳴らしながらも、どうやらロデオが首を振ってそれを否定しているようで、流石のルシアンもどうしたもんかと困惑しているようだった。
「お、おいら……」
すると、目を擦りながらロデオが言葉を口にする。
「案内するの、たのまれたの……」
「案内……?」
「おいらの音が聞こえた人に、見せてあげろって、言ってたの……」
「……誰が?」
「りべりお……」
一瞬、ルシアンは確かに驚いていたようだったけど、「……そっか」とすぐに笑顔を向けて、それ以上言及することはしなかった。乱立される、もうこの世にはいない人物の名前。どうしてか、それが妙に恐怖心に似た何かを掻き立てているのを感じる。
廊下を進み、ふたつ程扉を見送った辺り。そこで僕たちは立ち止まる。目の前にあるのは、ロデオが示したリベリオさんの部屋へと通じるらしい扉だ。
「ここだよね? リベリオさんの部屋って」
「う、うん……」
ロデオに確認したルシアンが、扉取っ手に手をかける。少し錆びついたような音が耳につくと同時に、埃が空に舞った。
「うわ……ひっど……」
「そ、そうだね……」
それは恐らく、開けた瞬間に舞ったそれらが、ダイレクトにルシアンを襲ったから出た言葉なのだろう。そういえば、さっきまでは僕が勝手に扉を開けてはその後ろからルシアンがついてきたから特に何ともなかったけど、僕が開けないとそういうことが起こりえるのか。
足を踏み入れてすぐに僕の目の前に飛び込んできたのは、ひとり掛けの机と椅子。多分だけれど、作業机というのが一番しっくりくるだろう。ということは、だ。彼は、もしかしたらあの場所で小説を執筆していたのかも知れない。そう思うと、少しずつ胸の高鳴りが早くなってくるのが分かる。但し、それが本当にリベリオという人物に対する憧憬の念によるものなのかどうかは、また別の話だけれど。
「ここが……」
自然と、言葉が口から漏れる。机の後ろと窓側には、本来多くの本が並べられていたのであろう何も入っていない大きな棚。机の正面には、数人が座れるソファにアンティーク調のテーブルが置いてある。そしてその更に奥には、今となっては何の意味も持たないベットが置いてあった。
ベットの近くにある窓からは、さっき僕らが通った庭がよく見える。なんというか、その景色は本当にただの小説家が住んでいる場所とは思えないほどに、贅沢なものに感じた。
「……ん?」
声をあげたのは、作業机のほうにいるルシアンだ。疑問を呈するようなその声に、僕は反応せざるを得なかった。
「どうしたの?」
「いや、今……ちょっとランタン貸して」
「あ、うん」
言われるがままに、ランタンはルシアンの手元へと渡る。すると、床に向かって視線を動かしはじめた。
「何かあったの?」
「あったっていうか……」
イマイチ歯切れの悪い言い方をするルシアンがランタンの光で灯した床を、僕も一緒に眺めていく。一瞬、窓から差し込まれた光によって床が照らされた時、散りばめられた埃の間を縫うようにして、何かが視界に入ったのを、僕は見逃さなかった。
どうやらそれはルシアンも同じだったようで、ランタンの光がそこで止まっている。僕は目を凝らしながら腰を落とし、手で埃を払う。そうして見えたのは、黒いインクで書かれたのであろう文字。そこには、こんなことが綴られていた。
『――私は知っている。
もし、誰かがこの家に蔓延る真実を知ることが出来たのなら、私たちの物語は、本当の意味で終わりを告げるということを。』
床に書かれたその文字。書いているものが何を意味するのかはよく分からない。それはある種当然のことだけれど、ただ驚くことに、そこに存在している文字は、今僕らが使っている文字そのものだったのだ。
「これ、今僕たちが使ってる文字だよね……?」
この前、資料室で見たリベリオさんの手記と思われるものに書いてあったものとは明らかに違うもの。今の時代に当たり前のように蔓延っている文字。
僕らのいる街からは確立されているこの場所は、今となってはルシアンの家が管理者となっているから、ここに入ることは恐らく容易ではない。誰かの悪戯というには、余りにも不自然だった。
「……ルシアン?」
「え? ああ……。そうだね……」
何か、考え込むかのようにじっとその文字を見つめるルシアンを他所に、ロデオが急にその文字の元へ飛び立っていく。
「うう……」
眉をひそめながらも、手には出会った時に音を奏でていた笛がいつの間にか持たれているのが見える。
「ええいっ……!」
そして、ロデオの声に合わせるようにして、起こるはずのない風が部屋の中を蠢いた。
「え、ちょっ……!」
カタカタと窓が悲鳴を上げる。巻き起こった風と同時に、何かと共鳴するようにして聞いたことのある音が鳴り響く。その反動でロデオが飛んでいきそうになるのを何とか捕まえたのはいいものの、今何が起きているのかを理解するのは容易ではなかった。
――なにか、地に書かれた文字の近くから力のようなものを感じる。そう思った時には、僕らの周りは、目が開けられないほどの白い光に包まれていた。