さらりと流れる風が、どうしてか酷く心地いい。
もし、このまま静かに眠りにつけるのなら、きっと今までのことなんて全て忘れて、何もかもを終わらせることが出来るんじゃないか。なんて無意味な想像を何度もした。
酷い眠気に襲われ、このまま倒れてしまいそうなではあるけれど、重たくのし掛かる瞼を無理矢理開ける。目の前に広がるのは、何処かで見たことのあるようなモノクロの景色。普段なら青いであろう空も、鮮やかに彩られいるであろう花畑も、おれの目にはただの白と黒として、そして、その間に挟まれた灰色にしか映っていない。おれのいる世界が一体何を意味するのかなんて不思議と考えることはしなかったが、それは恐らく、頭のどこかで今の状況がなんなのかというのを分かっていたから。
この異様な景色。それは、おれがもうこの世の者ではないということの象徴なのだろう。
一体どれくらいの時間をこうやって過ごしたのか。そう思うくらいに、酷く淡々としたこの場所。こうなる前、自分は何をしていたのかなんていうものは、もう殆ど思い出せなくなっていた。微かに覚えているのは、今もこうしておれの足元でゆらゆらと揺れている何かの花に、おれは魅いられていたということと、いつも一緒にいた小さな誰かと、あと……なんだっただろう。何度思い出そうとしても思い出せないというのは、少し前なら嫌気がさしていたかも知れない。でも、そうはならなかった。
「……思い出す気力もないな」
――さっきより、意識が朦朧としてくるのが分かる。その時おれは確信した。ああ、おれはやっとここから解放されるのか、と。
体の力を抜き、白黒の花畑の上に倒れ込む。花は簡単に押し潰れ、その衝撃で花びらが舞うのがよく見える。この光景を、おれは何処かで見た気がした。
(どうして……、おれは死んだ?)
仰向けのまま、ゆっくりと目を閉じる。微かに通る風に意識を向けると、風に紛れて聞き覚えのある音が聞こえてくるのだ。
(……何かの音が聞こえる)
その音は、耳を澄ませていても聞こえにくいような微かな音。これは一体何なのだろうか。そんなことはもう思い出せる訳がないのだが、思い出せないと分かっているはずなのに、ずっと考えてしまう。もう何も覚えていないに等しいのに、それでも俺の心に残っている小さな記憶。
この状態になっても何かが引っ掛かっているということは、多分、そう簡単に忘れてはならないものなのだろう。でも、もう駄目だ。
「約束、果たせそうにないな……」
誰に言うでもなく、おれの口から無意識に溢れ落ちる言葉。でも、だからといってそれが一体何を意味するのかなんて、もう分からない。もう、何もかも終わったことなのだ。
さらりと風が横切る度に、花が靡いていく。その間を縫って、少しずつ何かが近付いてくる音が聞こえた。今までおれ以外に、この場所に誰かがいるなんてことはなかったというのに。
音のする方へ、顔だけ向ける。見覚えのある誰かは、花を踏み潰しながらおれのそばにやって来て、気付けば優しい笑みを浮かべながらおれを見下ろしていた。
「お前は……?」
『やっと見つけた』
そう言ったかと思うと、腰を下ろしておれの手をそっと握った。
『ここであなたを探すの、大変だったんだけど……。また会えてよかった』
おれの目に、酷く優しく映る笑顔。それに付随その言葉は、おれが全てのことを思い出すのに十分だった。
(……ああ、そうか。やっぱりか)
分かってしまう。ここから消え失せたとしても、次のおれもまた、これに囚われてしまうのだろうと。手を握られた衝撃からか、少しだけ生きていた時のことを思い出す。これが、いわゆる走馬灯のようなものだったのかも知れない。
目の前にいる誰か。ここに咲いている花の名前。いつからか一緒にいた小さなあいつ。そして、何かがおかしい彼らのことを。そして、自身において恐らく最も重要なこと。
どうしておれは死んだのかということを。
思い出したところで、もう俺は消えるのだろうが、それでも、例えどんな記憶だろうと、思い出せたことは嬉しかったのかも知れない。あるいは、その逆か。自然と、涙がこぼれ落ちていた。
(アイツ、どうしてるかな……)
段々と視界がぼやけていく。それは涙によってとかいうことではなく、おれがここから消える前触れだった。
光のような何かが体から漏れている。というより、体が少しずつ光の粒になっていくような感覚だ。
果たして、これからおれはどうなるのだろうか?
然るべきところに逝けるのか、生きていた頃の行いが災いして別の場所へと逝くことになってしまうのか。はたまた、そんなものなんてこの世界には存在しないのか。それは誰にも分からない。
こうなったのは一体誰のせいなのか、ということを無視して、この期に及んで叶いもしないであろうことを思ってしまう。
もし、この世界に輪廻という概念が存在していて、かつ前世というものが次におれという存在が生きる時に大きく関係しているとするのなら。出来ることなら、おれはまたあいつに会いたい。会って、何も起こらないような何てことない日常を過ごしたい、と。
意識が無くなる少し前。耳元で誰かの息遣いが聞こえる。そして放たれた言葉の意味を理解するのに、時間なんて必要なかった。
『……だって、ずっと一緒だもんね?』
ああ、そうだ。そうだったな。お前とも、そんな約束をしたんだったな。
「約束は、果たさないとな……」
また出会えたなら、今度こそ――。
ゆっくりと、光の粒が色濃くなっていく。その場にいたはずの誰かの姿なんていうのは、もうどこにもいない。変わりにその場に残されていたのは、モノクロの世界の中に唯一の色を放っている、赤く染まった一輪の花だった。
◇
「あーあ……資料室なのは分かるけど、こんな管理の仕方したら痛んじゃうよ……」
本についた埃を、軍手をした手で優しく払う。払った埃が、今まで掃除していなかったことの当て付けのように宙へと舞った。
今僕がしているのは、勤めている図書館にある資料室の掃除。図書館司書としての仕事というのも確かにあるけど、どちらかと言うとただの手伝いというよりは、「何か面白いものがあるかも」と言われ、普段は見れないようなものが見れるかも知れないという好奇心に駆られたから。
だけど、だ。歩くと埃で足跡がくっきりと残ってしまうくらい放置されているというのは、流石に文句のひとつくらい言いたくなってしまうというものである。こういう場所が埃っぽいというのは、ある意味では当たり前だししょうがないとは思うけど、掃除もせずに本を長年放置しているのは、図書館としては如何なものだろうか。
……それにしても、さっきから鼻がムズムズする。ここまで酷いとは思わなかったから持ってこなかったけど、やっぱりマスクくらいはあった方が良かったのかも知れない。
「ねえルシアーン?……おーい」
僕の声が、静まりかえった資料室に少し反響する。僕を倉庫の掃除に巻き込んだ張本人の声が返ってこない。そこまで広いわけではないはずだから、聞こえてると思うんだけど。
「……無視?」
「あーちょっと待って、くしゃみが……っ」
「だ、大丈夫?」
声の主であるルシアンの場所は、片手をひらひら掲げ主張してくれたことによって辛うじて把握ができた。どうやら、しゃがんだ先でくしゃみに襲われているようで、確かにここに来た時から鼻がぐずついていたのを思い出す。
「……で、何?」
「いや、ここってどれだけ放置されてるのかと思って」
「二年くらいじゃない? 前来たときも埃まみれだったし。面倒臭がって誰も掃除しないんだよね」
「それ、図書館としてどうなの……?」
「だから今日やってるんでしょ?」
そう言ってマスクを下ろして鼻をすすっている姿を見るに、ルシアンは完全に埃にやられてしまったらしい。僕は、出来るだけ埃が舞わないようにと、ルシアンの元に足を運んだ。
いつも着ている上着を脱ぎ、袖口を巻くっている姿を見るのは何処か新鮮で、大袈裟に言うなら別人のようにさえ感じてしまう。まあ、僕だっていつも着ているものは出来るだけ外に置いてきているから、人のことは言えないけど。
ルシアンの周りには、名前も知らないような大きめの本が乱雑に詰まれている。本を触ると、ザラザラとした感触が軍手越しでも伝わってきた。やはりというべきなのか、それは長年掃除をしていない証拠なのだろう。
「あ、そうそう……何処やったっけ」
唐突に声を上げたルシアンは、何かを探している様子で辺りにあるを漁りはじめる。埃が舞う中で目を擦りながらルシアンが手にしたのは、手帳のような……日記にも似た分厚い何かだった。
「はい、これ」
「……何これ?」
「リベリオ……だっけ? 何とかさんが書いたって言われてるやつ。日記とか手帳とか、そういう類いのやつだと思うけど……アオイってそういうの好きでしょ?」
「リベリオ? リベリオって何処かで……」
「あのー、あれだよ。小説家の」
差し出されたそれを手に取る。埃こそはあるものの、綺麗に体裁されている表紙を眺めながら考えていたのは、ルシアンが口にした『リベリオ』という単語について。
真っ先に浮かび上がったのは、とあるひとりの小説家だった。
「……色褪せたシリーズとか書いてる人じゃないよね?」
「そうそう、その人……うわ、この本絶対虫湧いてるでしょ……」
片手で本の端をつまみながら何かを言っているルシアンをよそに、僕は手にしているそれをまじまじと見つめていた。リベリオという人物は、百年以上前に活躍していたとされる小説家の名前だ。その人の書く小説は数多く存在するけど、その中でも恐らく一番有名なのは、『色褪せた○○』というシリーズものだろう。
「……これ本物?」
「本物じゃない?リベリオさんの家にあったやつらしいし」
「へー……」
リベリオさんの家にあったもの、ということに対して普通に返事をしてしまったが、よく考えてみればひとつ返事で終わりにしたらいけないことなんじゃないだろうか。思い直して、僕は再び疑問を口にした。
「……何で、その小説家の日記がここにあるの?」
「知り合いだったらしいよ。俺もよく知らないけど」
「え!? そうだったの?」
「うん。でも、別に親交があったってだけだと思うし。というか百年以上も前の話だからね」
「ま、まあ……そうか。そうだね……いや、そうなのかな……?」
言い切るルシアンの言葉に言いくるめられそうになるけど、普通に考えたらかなり凄いことというか、僕がこうして普通に手に取ったらいけないものなんじゃないだろうか。
確かに、リベリオさんが生きていたであろう時は百年以上も前の話。ルシアンの言いたいことも分かるし、ルシアンの家はその当時から図書館を運営しているような貴族だから、そういう人達との交流があったとしても、まあ不思議ではない。
「こういうのって、僕が読んじゃいけないんじゃないの?」
「んー……まあ、見れば分かるよ。っていうか、やっぱり窓開けない?このままだと埃に殺されそう」
少し歯切れの悪い言い方をするルシアンは、僕が返事をする前に、周りに置いてある本を避けつつ開いてる窓へと足を運ぶ。風で本が靡かないように半分も開けていなかったけど、どうやら限界のようだった。確かに、このままじゃ体にも悪い。ガラリと音を立てて開かれた窓から靡く風に合わせて、僕はリベリオさんのものらしい日記に目を向ける。見てもいいのだろうかという気持ちと、好奇心。どちらの気持ちがより大きいかと言われたら、紛れもなく後者だった。
そっと、表紙に手をかける。何となく後ろめたい気持ちもありながら、彼の綴ったものが見たい。そう思ってしまったのは、紛れもなく僕の意思そのものだった。
◇
ぱらぱらと、適当に開いたページを眺める。そして僕は、どうしてルシアンが歯切れの悪い言い方をしていたのかをようやく理解した。
「わあ……読めない」
「でしょ? 昔の文字なんだろうけど」
「へー……」
その文字は、今僕らが使っているものとはまるで違うもの。ルシアンの言うように、昔使っていたそれに見える。所々読めそうな部分もあるが、それでも読めない文字のほうが明らかだった。
何ページか進めてみても、その文字の羅列は変わることはない。唯一の変化と言えば、僕の好奇心をより掻き立ててくるということだけだろう。
少し厚みのあるリベリオさんの手記。これだけ分厚い手記の中には、一体何が書かれているのだろうか。そう思いながらペラペラと適当にページをめくっても、そこにあるのは当然見たことのないものばかり。読めないが為に、意味を持たない文字列の集まりだ。
「ん……?」
ついさっきまではそれだけだったのに、とあるページが僕の目に止まった。
「誰もが、見とれ、る……赤い、花……?」
そのページが、僕にそう訴えてくるのがよく分かる。決してそこに書いてあるものを読み解いたわけでも、文字を理解できた訳でもない。それなのに、どうしてか理解できるページがそこにはあった。
窓の側で外を眺めていたルシアンが、僕の方に体を向け問いかけてくる。
「読めるの?」
「いや、読めるっていうか……」
ルシアンの問いに、どうやっても答えを濁すことしか出来ないでいた。何故ならそれは、読めたのではなく解っただけに過ぎないのだから。
僕は、誰に言われるでもなくそのページに書かれていることを口にする。それはまるで、窓から流れてくる風に促されているかのようだった。
――誰もが見とれる赤い花。
狂ったかのように咲き誇るその花に心奪われると、人は身も心も少しずつ狂っていく。そして、身の回りにいる人間すら狂わせていき、全てを無へと還すかのように、関わった者は謎の死を遂げる。
そんな噂が蔓延る花畑があった。
噂というのは不思議なもので、まるで枝分かれするかのように色々な解釈がなされ、そしていつしか、真実とはかけ離れたものが真実と呼ばれるようになる。噂なんてそんなものだと私は思っているし、そもそも信憑性がないものを信用する気は毛頭ない。
――だが、ある日突然、ひとりの男が私の前に姿を現した。
うすべ笑いを浮かべた男は、私にこう述べる。
『俺は、噂の真実を知っている』と。
私は、その言葉に酷く困惑した。それは何故か?答えは、至極簡単で単純だ。
ここにいる人間は、その男が来る遙か前から既に狂っていたのだから――。
まるで小説の一節のようなそれ。これが、僕が読めたそのページも全てだった。
「……読めた、ってことだよね?」
「いや……うーん?」
確かに読めた。でも多分、そうじゃない。この場合の多分という言葉にどれだけの意味があるのかは分からないけれど、何か別の理由があって読めた気がする。ということだけは確信として僕の中に存在していた。
読めたことへの疑問とか恐怖なんてものはまるでなく、ただただ不思議でしょうがない。他のページは読めなかったはずなのに。どうしてここだけ読めてしまったのだろう。
「花畑って、よく言われてる『枯れることなく永遠に咲き続ける花畑がある』ってやつ?」
「どうだろう……。リベリオさんの手記ならその可能性は高いとは思うけど、これだけじゃ、そうとは言い切れないなあ……」
「ふーん?」
信じているのかいないのか、ルシアンの口からは適当な言葉が僕へと向けられる。
「でもこれ、僕何処かで見たことあるような……」
「あー……まあ、小説家の手記っていうんなら、そういうのが書いてあってもおかしくないかもね」
「そ、そうだね……」
ルシアンが何処まで本気にしてるか分からないけれど、こうして相手の言うことを真っ向から否定しないところは、昔から変わらない。そのいつもの様子に、少なからず僕は救われていた。
彼の言う『枯れることなく永遠に咲き続ける花畑』というのは、この世界に昔から伝わるもので、簡単にいうなら都市伝説というものがそれに当てはまるのかも知れない。正確に言うと、『足を踏み入れると呪われる』の部分が抜けているけど。
リベリオさんの色褪せたシリーズは、その花畑を題材としていると言われている。言われているというか、そういう伝記のようなものは見つかっていないから、リベリオさんの小説から広まったんじゃないかというのが、一番有力な説だ。
「そういえばさ、そのリベリオさんの家って、街から少し外れたところにまだ残ってるんだよね」
「え、そうなの?」
「うん。立ち入り禁止になってるところあるでしょ? あの辺りって、一応俺ん家持ちなんだけど、そこの奥にまだ残ってるんだよ」
「……それ、僕に言って大丈夫なの?」
「別にいいんじゃない? ほぼ放置っていうか、管理する気まるでないみたいだし」
それは管理者としてどうなのだろうか。というより、何百年前の家がそのまま残っているというのも普通に考えれば不自然だし、何よりリベリオさんの家がこんなに近くに本当にあるのだろうか? そんな疑問の数々が口から零れそうになる。でも、だからといってルシアンが僕に嘘をつくメリットがどこにもないし、辛うじてそれらを言うことはしなかった。
「明後日図書館休みだし、暇ならリベリオさんの家にでも行く?」
「ええっ、そんな感じで行っていいの? 僕部外者なんだけど……」
「いいんじゃない? 目ぼしいものは大体ここにあるだろうし。それに、言っちゃえば今となってはただの廃墟だよ」
そう言われてしまえば確かにそうだけれど、リベリオさんの家なんてかなり気になるし、とても行きたい気持ちはある。でも、なんだろう。ルシアンはこういうことには余り興味がないのか、わりと適当な態度を取ることが多い。リベリオさんの手記を渡された時もそうだったけど、こういうのって、部外者の僕に簡単に言っていいものなのだろうか。
いや、普通に考えたら良くはないというのは分かる。下手したら怒られるどころじゃすまされない案件だろう。……なんていう綺麗ごとを思いはしたものの、一度芽生えた好奇心というものは中々抑えることが出来ないから不思議なものだ。
若干の後ろめたさもあるけど、管理者の息子が行ってもいいって言うのなら、最悪何かあっても僕の責任にはならないだろう。と、思う。まあ僕が無理やり案内を頼んだとか言われたら即終わりだけど、その可能性は限りなく低い。一応それなりに長い付き合いだから、そう言える自身はあった。
「……行ってもいいなら、断る理由はないかな」
「じゃあ決まりで。それより掃除だよ掃除。この調子だと、明日もやらなきゃだし」
「あ、ああそうだね。……っていうか、この状態を二人で掃除するっていうの、かなり無理があると思うんだけど……」
ルシアンは、どちらかと言うと掃除のほうに思考がいっているようで、そこら辺に転がっていた雑巾を手にとる。動き出すルシアンをよそに、僕は未だリベリオさんの手記から目を離すことが出来ないでいた。それを見かねたのか、ルシアンはため息混じりで僕に話しかける。
「探せば、他にも面白そうなのあるんじゃない?その日記だって、この前オレがたまたま見付けただけだし」
「え、本当?」
「資料室っていうより、保管室みたいなもんだしね。だから、見るのはいいけど掃除しながらにしてよ。俺、休み跨いでまでここ掃除したくないから」
「そ、そうだね……」
つまるところ、気になるのは分かったから掃除をしろということのようだ。まあここに来た目的は掃除だからそれは分かるんだけど、こういうのルシアンは気にならないのだろうか。切り換えが早すぎないか。まあ、管理者の息子だから昔からこういうことには多く触れてきたんだろうし、そう思えば無理やり納得することは出来る。僕はあくまでも手伝いでここに来ているだけだし、ルシアンの言うことはそれなりにちゃんと聞いておいたほうが色々と得策だろう。……やっぱり行かないとか言われたら困るし。
「帰ったら、色褪せたシリーズ読み返さなきゃ……」
という言葉が口から零れてしまうのだから、恐らくこの瞬間から一日が終わるまで僕は上の空だろう。その言葉をリベリオさんの手記に溢しながら、僕は手に持っているそれをゆっくりと閉じた。
◇
「はあ……。なんか疲れた……」
家に帰って早々に発せられた言葉は、まるで今日一日とてつもなく忙しかったかのような台詞だった。ただ掃除をしていただけと言われてしまえば確かにそうだけれど、普段しないことをするといつもより仕事をしたような気になってしまうなんてことは、実際よくある話だ。……なんだが、僕が普段ちゃんと仕事をしてないんじゃないかと思われそうだけれど、そんなことはない、はずだ。
ぼふっと音を立てたベットが、僕の両脇を通り抜ける。正直なところ、最初に掃除の話をルシアンから聞かされた時は余り乗り気じゃなかったんだけど、手伝ってよかったと今なら思う。ルシアンに呆れられはしたけど、リベリオさんの手記以外にも面白いことは沢山あった。大きくて分厚い年表のようなものがあったり、絶版になっていた本を危うく読みふけってしまいそうになってルシアンに怒られたり、しれっと虫の湧いてる本を手渡されたこともあったけど、まあそれは気にしないでおくことにする。
疲れた体をベットに任せてこのまま寝てしまいたい衝動にかられるけど、そうもいかない。明後日の為に、少しだけ考えたいことがあるからだ。普段より重く感じる体を起こし僕が向かったのは、ベッドのすぐ側にあるわりと大きめの本棚の前。目で本のタイトルを追い、目的の本を手にとる。それは、リベリオさんが書いた本のうちのひとつ。色褪せたシリーズの一巻目である『色褪せた記憶』という本。
この本の話は、なんというか……読んでいると複雑な気分になる。それは決して不思議な話が繰り広げられているというわけではなく、単なる僕の感想なのだが。本との相性っていうのも勿論あるんだろうけど、彼の作品の中で唯一と言っていいくらいに賛否が分かれているであろうシリーズである。
色褪せたシリーズのあらすじを簡単に説明するとこうだ。
町外れにあるとある貴族の家に、記憶を失ったひとりの青年と妖精が姿を表す。その青年は、記憶を取り戻すまでの間、使用人としてそこで暮らしていくことになるのだが、少しずつ記憶が戻っていく中、記憶を無くす前の彼の不審な動向と、この家の住人らの何処かおかしな部分が、この話を狂気という空気に包まれていく。その様子を、あくまでも日常を交えつつ描いており、『どうしてそうなったのか』という答え合わせと、『何が彼らをそうさせたのか』という部分に焦点が当てられている。
また、主人公はその家の主人でも記憶喪失の青年でもなく、リベリオさんの作品に必ず出てくる「ラック」という人物であることも特徴のひとつだろう。この色褪せたシリーズは、全5巻と上下巻で構成されており、上下巻では記憶喪失の男が貴族の家にくる前の話が綴られていて、『何が彼らをそうさせたのか』という部分が色濃く描かれている。それと、この作品を語るに当たって、外すことの出来ないものがひとつ。
ルシアンが言っていた、とある花畑だ。
『この世界の何処かに、枯れることなく永遠に咲き続ける花畑がある。そこに足を踏み入れた者は、咲き誇っている花に魅了され、囚われる。そして、自身と周りの環境全てを巻き込み、自ら滅びの道を進んでいく』
要約すると、その花畑に足を踏み入れると死ぬ。というわけだけれど、その花畑に登場人物の誰かが足を踏み入れたことによって、本来なら何も起きなかったであろうことが起きてしまったのか。それとも、呪われた花畑なんて関係なく起きた出来事だったのか。それは、読み手によって大きく意見が別れる部分となっている。というより、上下巻を読まなければ殆どの人がその呪いによってこの事件が起きたのではないかと思うだろう。
作中では答えが示されていないからか、どうにも複雑で、読んだ後に色々と考えてしまう構成になっているのがなんとも憎い。
所謂フィクションではあるんだけど、時々考えてしまう。
本当に、そんな花畑は存在しないのだろうかと。
存在しないのならば、あの時、僕が読めてしまったリベリオさんの手記に書かれていたものは、一体なんだったのだろう。気になっているのは、どうして僕があれを読めたのかという点ではない。
書かれていたあの文章は、一体なんだったのか。
どうしてリベリオさんはそれを手記に残したのか。
僕の興味は、そこに注がれていた。ルシアンが一体何を考えてリベリオさんの家に行こうと言い出したのかはよく分からないけど、その答え合わせは恐らく明後日に行われるだろう。何かがあるとは思っていないけど、単純に嬉しいというか、何処かソワソワしてしまっている自分がいる。小説家の住んでいた家に足を踏み入れるだなんて、そんなことはまず起こり得ないと思っていた。
でも、起きないと思っていたことが起きようとしている。
「取りあえず、寝る準備だけはしておこう……」
多分、まだ寝られないであろうことは直感で分かる。でもまあ、明日は普通に仕事というか、結局掃除が終わらなかったからまたあの資料室に行くことになってるから、つまり僕の気が早いのだ。
ひとまず、本を棚に戻す。暫くしたらまた戻ってくるであろうその場所に、ほんの少し後ろ髪を引かれながらも、訪れるその日を待ち遠しく思いながら僕は一旦その場を後にした。
もし、このまま静かに眠りにつけるのなら、きっと今までのことなんて全て忘れて、何もかもを終わらせることが出来るんじゃないか。なんて無意味な想像を何度もした。
酷い眠気に襲われ、このまま倒れてしまいそうなではあるけれど、重たくのし掛かる瞼を無理矢理開ける。目の前に広がるのは、何処かで見たことのあるようなモノクロの景色。普段なら青いであろう空も、鮮やかに彩られいるであろう花畑も、おれの目にはただの白と黒として、そして、その間に挟まれた灰色にしか映っていない。おれのいる世界が一体何を意味するのかなんて不思議と考えることはしなかったが、それは恐らく、頭のどこかで今の状況がなんなのかというのを分かっていたから。
この異様な景色。それは、おれがもうこの世の者ではないということの象徴なのだろう。
一体どれくらいの時間をこうやって過ごしたのか。そう思うくらいに、酷く淡々としたこの場所。こうなる前、自分は何をしていたのかなんていうものは、もう殆ど思い出せなくなっていた。微かに覚えているのは、今もこうしておれの足元でゆらゆらと揺れている何かの花に、おれは魅いられていたということと、いつも一緒にいた小さな誰かと、あと……なんだっただろう。何度思い出そうとしても思い出せないというのは、少し前なら嫌気がさしていたかも知れない。でも、そうはならなかった。
「……思い出す気力もないな」
――さっきより、意識が朦朧としてくるのが分かる。その時おれは確信した。ああ、おれはやっとここから解放されるのか、と。
体の力を抜き、白黒の花畑の上に倒れ込む。花は簡単に押し潰れ、その衝撃で花びらが舞うのがよく見える。この光景を、おれは何処かで見た気がした。
(どうして……、おれは死んだ?)
仰向けのまま、ゆっくりと目を閉じる。微かに通る風に意識を向けると、風に紛れて聞き覚えのある音が聞こえてくるのだ。
(……何かの音が聞こえる)
その音は、耳を澄ませていても聞こえにくいような微かな音。これは一体何なのだろうか。そんなことはもう思い出せる訳がないのだが、思い出せないと分かっているはずなのに、ずっと考えてしまう。もう何も覚えていないに等しいのに、それでも俺の心に残っている小さな記憶。
この状態になっても何かが引っ掛かっているということは、多分、そう簡単に忘れてはならないものなのだろう。でも、もう駄目だ。
「約束、果たせそうにないな……」
誰に言うでもなく、おれの口から無意識に溢れ落ちる言葉。でも、だからといってそれが一体何を意味するのかなんて、もう分からない。もう、何もかも終わったことなのだ。
さらりと風が横切る度に、花が靡いていく。その間を縫って、少しずつ何かが近付いてくる音が聞こえた。今までおれ以外に、この場所に誰かがいるなんてことはなかったというのに。
音のする方へ、顔だけ向ける。見覚えのある誰かは、花を踏み潰しながらおれのそばにやって来て、気付けば優しい笑みを浮かべながらおれを見下ろしていた。
「お前は……?」
『やっと見つけた』
そう言ったかと思うと、腰を下ろしておれの手をそっと握った。
『ここであなたを探すの、大変だったんだけど……。また会えてよかった』
おれの目に、酷く優しく映る笑顔。それに付随その言葉は、おれが全てのことを思い出すのに十分だった。
(……ああ、そうか。やっぱりか)
分かってしまう。ここから消え失せたとしても、次のおれもまた、これに囚われてしまうのだろうと。手を握られた衝撃からか、少しだけ生きていた時のことを思い出す。これが、いわゆる走馬灯のようなものだったのかも知れない。
目の前にいる誰か。ここに咲いている花の名前。いつからか一緒にいた小さなあいつ。そして、何かがおかしい彼らのことを。そして、自身において恐らく最も重要なこと。
どうしておれは死んだのかということを。
思い出したところで、もう俺は消えるのだろうが、それでも、例えどんな記憶だろうと、思い出せたことは嬉しかったのかも知れない。あるいは、その逆か。自然と、涙がこぼれ落ちていた。
(アイツ、どうしてるかな……)
段々と視界がぼやけていく。それは涙によってとかいうことではなく、おれがここから消える前触れだった。
光のような何かが体から漏れている。というより、体が少しずつ光の粒になっていくような感覚だ。
果たして、これからおれはどうなるのだろうか?
然るべきところに逝けるのか、生きていた頃の行いが災いして別の場所へと逝くことになってしまうのか。はたまた、そんなものなんてこの世界には存在しないのか。それは誰にも分からない。
こうなったのは一体誰のせいなのか、ということを無視して、この期に及んで叶いもしないであろうことを思ってしまう。
もし、この世界に輪廻という概念が存在していて、かつ前世というものが次におれという存在が生きる時に大きく関係しているとするのなら。出来ることなら、おれはまたあいつに会いたい。会って、何も起こらないような何てことない日常を過ごしたい、と。
意識が無くなる少し前。耳元で誰かの息遣いが聞こえる。そして放たれた言葉の意味を理解するのに、時間なんて必要なかった。
『……だって、ずっと一緒だもんね?』
ああ、そうだ。そうだったな。お前とも、そんな約束をしたんだったな。
「約束は、果たさないとな……」
また出会えたなら、今度こそ――。
ゆっくりと、光の粒が色濃くなっていく。その場にいたはずの誰かの姿なんていうのは、もうどこにもいない。変わりにその場に残されていたのは、モノクロの世界の中に唯一の色を放っている、赤く染まった一輪の花だった。
◇
「あーあ……資料室なのは分かるけど、こんな管理の仕方したら痛んじゃうよ……」
本についた埃を、軍手をした手で優しく払う。払った埃が、今まで掃除していなかったことの当て付けのように宙へと舞った。
今僕がしているのは、勤めている図書館にある資料室の掃除。図書館司書としての仕事というのも確かにあるけど、どちらかと言うとただの手伝いというよりは、「何か面白いものがあるかも」と言われ、普段は見れないようなものが見れるかも知れないという好奇心に駆られたから。
だけど、だ。歩くと埃で足跡がくっきりと残ってしまうくらい放置されているというのは、流石に文句のひとつくらい言いたくなってしまうというものである。こういう場所が埃っぽいというのは、ある意味では当たり前だししょうがないとは思うけど、掃除もせずに本を長年放置しているのは、図書館としては如何なものだろうか。
……それにしても、さっきから鼻がムズムズする。ここまで酷いとは思わなかったから持ってこなかったけど、やっぱりマスクくらいはあった方が良かったのかも知れない。
「ねえルシアーン?……おーい」
僕の声が、静まりかえった資料室に少し反響する。僕を倉庫の掃除に巻き込んだ張本人の声が返ってこない。そこまで広いわけではないはずだから、聞こえてると思うんだけど。
「……無視?」
「あーちょっと待って、くしゃみが……っ」
「だ、大丈夫?」
声の主であるルシアンの場所は、片手をひらひら掲げ主張してくれたことによって辛うじて把握ができた。どうやら、しゃがんだ先でくしゃみに襲われているようで、確かにここに来た時から鼻がぐずついていたのを思い出す。
「……で、何?」
「いや、ここってどれだけ放置されてるのかと思って」
「二年くらいじゃない? 前来たときも埃まみれだったし。面倒臭がって誰も掃除しないんだよね」
「それ、図書館としてどうなの……?」
「だから今日やってるんでしょ?」
そう言ってマスクを下ろして鼻をすすっている姿を見るに、ルシアンは完全に埃にやられてしまったらしい。僕は、出来るだけ埃が舞わないようにと、ルシアンの元に足を運んだ。
いつも着ている上着を脱ぎ、袖口を巻くっている姿を見るのは何処か新鮮で、大袈裟に言うなら別人のようにさえ感じてしまう。まあ、僕だっていつも着ているものは出来るだけ外に置いてきているから、人のことは言えないけど。
ルシアンの周りには、名前も知らないような大きめの本が乱雑に詰まれている。本を触ると、ザラザラとした感触が軍手越しでも伝わってきた。やはりというべきなのか、それは長年掃除をしていない証拠なのだろう。
「あ、そうそう……何処やったっけ」
唐突に声を上げたルシアンは、何かを探している様子で辺りにあるを漁りはじめる。埃が舞う中で目を擦りながらルシアンが手にしたのは、手帳のような……日記にも似た分厚い何かだった。
「はい、これ」
「……何これ?」
「リベリオ……だっけ? 何とかさんが書いたって言われてるやつ。日記とか手帳とか、そういう類いのやつだと思うけど……アオイってそういうの好きでしょ?」
「リベリオ? リベリオって何処かで……」
「あのー、あれだよ。小説家の」
差し出されたそれを手に取る。埃こそはあるものの、綺麗に体裁されている表紙を眺めながら考えていたのは、ルシアンが口にした『リベリオ』という単語について。
真っ先に浮かび上がったのは、とあるひとりの小説家だった。
「……色褪せたシリーズとか書いてる人じゃないよね?」
「そうそう、その人……うわ、この本絶対虫湧いてるでしょ……」
片手で本の端をつまみながら何かを言っているルシアンをよそに、僕は手にしているそれをまじまじと見つめていた。リベリオという人物は、百年以上前に活躍していたとされる小説家の名前だ。その人の書く小説は数多く存在するけど、その中でも恐らく一番有名なのは、『色褪せた○○』というシリーズものだろう。
「……これ本物?」
「本物じゃない?リベリオさんの家にあったやつらしいし」
「へー……」
リベリオさんの家にあったもの、ということに対して普通に返事をしてしまったが、よく考えてみればひとつ返事で終わりにしたらいけないことなんじゃないだろうか。思い直して、僕は再び疑問を口にした。
「……何で、その小説家の日記がここにあるの?」
「知り合いだったらしいよ。俺もよく知らないけど」
「え!? そうだったの?」
「うん。でも、別に親交があったってだけだと思うし。というか百年以上も前の話だからね」
「ま、まあ……そうか。そうだね……いや、そうなのかな……?」
言い切るルシアンの言葉に言いくるめられそうになるけど、普通に考えたらかなり凄いことというか、僕がこうして普通に手に取ったらいけないものなんじゃないだろうか。
確かに、リベリオさんが生きていたであろう時は百年以上も前の話。ルシアンの言いたいことも分かるし、ルシアンの家はその当時から図書館を運営しているような貴族だから、そういう人達との交流があったとしても、まあ不思議ではない。
「こういうのって、僕が読んじゃいけないんじゃないの?」
「んー……まあ、見れば分かるよ。っていうか、やっぱり窓開けない?このままだと埃に殺されそう」
少し歯切れの悪い言い方をするルシアンは、僕が返事をする前に、周りに置いてある本を避けつつ開いてる窓へと足を運ぶ。風で本が靡かないように半分も開けていなかったけど、どうやら限界のようだった。確かに、このままじゃ体にも悪い。ガラリと音を立てて開かれた窓から靡く風に合わせて、僕はリベリオさんのものらしい日記に目を向ける。見てもいいのだろうかという気持ちと、好奇心。どちらの気持ちがより大きいかと言われたら、紛れもなく後者だった。
そっと、表紙に手をかける。何となく後ろめたい気持ちもありながら、彼の綴ったものが見たい。そう思ってしまったのは、紛れもなく僕の意思そのものだった。
◇
ぱらぱらと、適当に開いたページを眺める。そして僕は、どうしてルシアンが歯切れの悪い言い方をしていたのかをようやく理解した。
「わあ……読めない」
「でしょ? 昔の文字なんだろうけど」
「へー……」
その文字は、今僕らが使っているものとはまるで違うもの。ルシアンの言うように、昔使っていたそれに見える。所々読めそうな部分もあるが、それでも読めない文字のほうが明らかだった。
何ページか進めてみても、その文字の羅列は変わることはない。唯一の変化と言えば、僕の好奇心をより掻き立ててくるということだけだろう。
少し厚みのあるリベリオさんの手記。これだけ分厚い手記の中には、一体何が書かれているのだろうか。そう思いながらペラペラと適当にページをめくっても、そこにあるのは当然見たことのないものばかり。読めないが為に、意味を持たない文字列の集まりだ。
「ん……?」
ついさっきまではそれだけだったのに、とあるページが僕の目に止まった。
「誰もが、見とれ、る……赤い、花……?」
そのページが、僕にそう訴えてくるのがよく分かる。決してそこに書いてあるものを読み解いたわけでも、文字を理解できた訳でもない。それなのに、どうしてか理解できるページがそこにはあった。
窓の側で外を眺めていたルシアンが、僕の方に体を向け問いかけてくる。
「読めるの?」
「いや、読めるっていうか……」
ルシアンの問いに、どうやっても答えを濁すことしか出来ないでいた。何故ならそれは、読めたのではなく解っただけに過ぎないのだから。
僕は、誰に言われるでもなくそのページに書かれていることを口にする。それはまるで、窓から流れてくる風に促されているかのようだった。
――誰もが見とれる赤い花。
狂ったかのように咲き誇るその花に心奪われると、人は身も心も少しずつ狂っていく。そして、身の回りにいる人間すら狂わせていき、全てを無へと還すかのように、関わった者は謎の死を遂げる。
そんな噂が蔓延る花畑があった。
噂というのは不思議なもので、まるで枝分かれするかのように色々な解釈がなされ、そしていつしか、真実とはかけ離れたものが真実と呼ばれるようになる。噂なんてそんなものだと私は思っているし、そもそも信憑性がないものを信用する気は毛頭ない。
――だが、ある日突然、ひとりの男が私の前に姿を現した。
うすべ笑いを浮かべた男は、私にこう述べる。
『俺は、噂の真実を知っている』と。
私は、その言葉に酷く困惑した。それは何故か?答えは、至極簡単で単純だ。
ここにいる人間は、その男が来る遙か前から既に狂っていたのだから――。
まるで小説の一節のようなそれ。これが、僕が読めたそのページも全てだった。
「……読めた、ってことだよね?」
「いや……うーん?」
確かに読めた。でも多分、そうじゃない。この場合の多分という言葉にどれだけの意味があるのかは分からないけれど、何か別の理由があって読めた気がする。ということだけは確信として僕の中に存在していた。
読めたことへの疑問とか恐怖なんてものはまるでなく、ただただ不思議でしょうがない。他のページは読めなかったはずなのに。どうしてここだけ読めてしまったのだろう。
「花畑って、よく言われてる『枯れることなく永遠に咲き続ける花畑がある』ってやつ?」
「どうだろう……。リベリオさんの手記ならその可能性は高いとは思うけど、これだけじゃ、そうとは言い切れないなあ……」
「ふーん?」
信じているのかいないのか、ルシアンの口からは適当な言葉が僕へと向けられる。
「でもこれ、僕何処かで見たことあるような……」
「あー……まあ、小説家の手記っていうんなら、そういうのが書いてあってもおかしくないかもね」
「そ、そうだね……」
ルシアンが何処まで本気にしてるか分からないけれど、こうして相手の言うことを真っ向から否定しないところは、昔から変わらない。そのいつもの様子に、少なからず僕は救われていた。
彼の言う『枯れることなく永遠に咲き続ける花畑』というのは、この世界に昔から伝わるもので、簡単にいうなら都市伝説というものがそれに当てはまるのかも知れない。正確に言うと、『足を踏み入れると呪われる』の部分が抜けているけど。
リベリオさんの色褪せたシリーズは、その花畑を題材としていると言われている。言われているというか、そういう伝記のようなものは見つかっていないから、リベリオさんの小説から広まったんじゃないかというのが、一番有力な説だ。
「そういえばさ、そのリベリオさんの家って、街から少し外れたところにまだ残ってるんだよね」
「え、そうなの?」
「うん。立ち入り禁止になってるところあるでしょ? あの辺りって、一応俺ん家持ちなんだけど、そこの奥にまだ残ってるんだよ」
「……それ、僕に言って大丈夫なの?」
「別にいいんじゃない? ほぼ放置っていうか、管理する気まるでないみたいだし」
それは管理者としてどうなのだろうか。というより、何百年前の家がそのまま残っているというのも普通に考えれば不自然だし、何よりリベリオさんの家がこんなに近くに本当にあるのだろうか? そんな疑問の数々が口から零れそうになる。でも、だからといってルシアンが僕に嘘をつくメリットがどこにもないし、辛うじてそれらを言うことはしなかった。
「明後日図書館休みだし、暇ならリベリオさんの家にでも行く?」
「ええっ、そんな感じで行っていいの? 僕部外者なんだけど……」
「いいんじゃない? 目ぼしいものは大体ここにあるだろうし。それに、言っちゃえば今となってはただの廃墟だよ」
そう言われてしまえば確かにそうだけれど、リベリオさんの家なんてかなり気になるし、とても行きたい気持ちはある。でも、なんだろう。ルシアンはこういうことには余り興味がないのか、わりと適当な態度を取ることが多い。リベリオさんの手記を渡された時もそうだったけど、こういうのって、部外者の僕に簡単に言っていいものなのだろうか。
いや、普通に考えたら良くはないというのは分かる。下手したら怒られるどころじゃすまされない案件だろう。……なんていう綺麗ごとを思いはしたものの、一度芽生えた好奇心というものは中々抑えることが出来ないから不思議なものだ。
若干の後ろめたさもあるけど、管理者の息子が行ってもいいって言うのなら、最悪何かあっても僕の責任にはならないだろう。と、思う。まあ僕が無理やり案内を頼んだとか言われたら即終わりだけど、その可能性は限りなく低い。一応それなりに長い付き合いだから、そう言える自身はあった。
「……行ってもいいなら、断る理由はないかな」
「じゃあ決まりで。それより掃除だよ掃除。この調子だと、明日もやらなきゃだし」
「あ、ああそうだね。……っていうか、この状態を二人で掃除するっていうの、かなり無理があると思うんだけど……」
ルシアンは、どちらかと言うと掃除のほうに思考がいっているようで、そこら辺に転がっていた雑巾を手にとる。動き出すルシアンをよそに、僕は未だリベリオさんの手記から目を離すことが出来ないでいた。それを見かねたのか、ルシアンはため息混じりで僕に話しかける。
「探せば、他にも面白そうなのあるんじゃない?その日記だって、この前オレがたまたま見付けただけだし」
「え、本当?」
「資料室っていうより、保管室みたいなもんだしね。だから、見るのはいいけど掃除しながらにしてよ。俺、休み跨いでまでここ掃除したくないから」
「そ、そうだね……」
つまるところ、気になるのは分かったから掃除をしろということのようだ。まあここに来た目的は掃除だからそれは分かるんだけど、こういうのルシアンは気にならないのだろうか。切り換えが早すぎないか。まあ、管理者の息子だから昔からこういうことには多く触れてきたんだろうし、そう思えば無理やり納得することは出来る。僕はあくまでも手伝いでここに来ているだけだし、ルシアンの言うことはそれなりにちゃんと聞いておいたほうが色々と得策だろう。……やっぱり行かないとか言われたら困るし。
「帰ったら、色褪せたシリーズ読み返さなきゃ……」
という言葉が口から零れてしまうのだから、恐らくこの瞬間から一日が終わるまで僕は上の空だろう。その言葉をリベリオさんの手記に溢しながら、僕は手に持っているそれをゆっくりと閉じた。
◇
「はあ……。なんか疲れた……」
家に帰って早々に発せられた言葉は、まるで今日一日とてつもなく忙しかったかのような台詞だった。ただ掃除をしていただけと言われてしまえば確かにそうだけれど、普段しないことをするといつもより仕事をしたような気になってしまうなんてことは、実際よくある話だ。……なんだが、僕が普段ちゃんと仕事をしてないんじゃないかと思われそうだけれど、そんなことはない、はずだ。
ぼふっと音を立てたベットが、僕の両脇を通り抜ける。正直なところ、最初に掃除の話をルシアンから聞かされた時は余り乗り気じゃなかったんだけど、手伝ってよかったと今なら思う。ルシアンに呆れられはしたけど、リベリオさんの手記以外にも面白いことは沢山あった。大きくて分厚い年表のようなものがあったり、絶版になっていた本を危うく読みふけってしまいそうになってルシアンに怒られたり、しれっと虫の湧いてる本を手渡されたこともあったけど、まあそれは気にしないでおくことにする。
疲れた体をベットに任せてこのまま寝てしまいたい衝動にかられるけど、そうもいかない。明後日の為に、少しだけ考えたいことがあるからだ。普段より重く感じる体を起こし僕が向かったのは、ベッドのすぐ側にあるわりと大きめの本棚の前。目で本のタイトルを追い、目的の本を手にとる。それは、リベリオさんが書いた本のうちのひとつ。色褪せたシリーズの一巻目である『色褪せた記憶』という本。
この本の話は、なんというか……読んでいると複雑な気分になる。それは決して不思議な話が繰り広げられているというわけではなく、単なる僕の感想なのだが。本との相性っていうのも勿論あるんだろうけど、彼の作品の中で唯一と言っていいくらいに賛否が分かれているであろうシリーズである。
色褪せたシリーズのあらすじを簡単に説明するとこうだ。
町外れにあるとある貴族の家に、記憶を失ったひとりの青年と妖精が姿を表す。その青年は、記憶を取り戻すまでの間、使用人としてそこで暮らしていくことになるのだが、少しずつ記憶が戻っていく中、記憶を無くす前の彼の不審な動向と、この家の住人らの何処かおかしな部分が、この話を狂気という空気に包まれていく。その様子を、あくまでも日常を交えつつ描いており、『どうしてそうなったのか』という答え合わせと、『何が彼らをそうさせたのか』という部分に焦点が当てられている。
また、主人公はその家の主人でも記憶喪失の青年でもなく、リベリオさんの作品に必ず出てくる「ラック」という人物であることも特徴のひとつだろう。この色褪せたシリーズは、全5巻と上下巻で構成されており、上下巻では記憶喪失の男が貴族の家にくる前の話が綴られていて、『何が彼らをそうさせたのか』という部分が色濃く描かれている。それと、この作品を語るに当たって、外すことの出来ないものがひとつ。
ルシアンが言っていた、とある花畑だ。
『この世界の何処かに、枯れることなく永遠に咲き続ける花畑がある。そこに足を踏み入れた者は、咲き誇っている花に魅了され、囚われる。そして、自身と周りの環境全てを巻き込み、自ら滅びの道を進んでいく』
要約すると、その花畑に足を踏み入れると死ぬ。というわけだけれど、その花畑に登場人物の誰かが足を踏み入れたことによって、本来なら何も起きなかったであろうことが起きてしまったのか。それとも、呪われた花畑なんて関係なく起きた出来事だったのか。それは、読み手によって大きく意見が別れる部分となっている。というより、上下巻を読まなければ殆どの人がその呪いによってこの事件が起きたのではないかと思うだろう。
作中では答えが示されていないからか、どうにも複雑で、読んだ後に色々と考えてしまう構成になっているのがなんとも憎い。
所謂フィクションではあるんだけど、時々考えてしまう。
本当に、そんな花畑は存在しないのだろうかと。
存在しないのならば、あの時、僕が読めてしまったリベリオさんの手記に書かれていたものは、一体なんだったのだろう。気になっているのは、どうして僕があれを読めたのかという点ではない。
書かれていたあの文章は、一体なんだったのか。
どうしてリベリオさんはそれを手記に残したのか。
僕の興味は、そこに注がれていた。ルシアンが一体何を考えてリベリオさんの家に行こうと言い出したのかはよく分からないけど、その答え合わせは恐らく明後日に行われるだろう。何かがあるとは思っていないけど、単純に嬉しいというか、何処かソワソワしてしまっている自分がいる。小説家の住んでいた家に足を踏み入れるだなんて、そんなことはまず起こり得ないと思っていた。
でも、起きないと思っていたことが起きようとしている。
「取りあえず、寝る準備だけはしておこう……」
多分、まだ寝られないであろうことは直感で分かる。でもまあ、明日は普通に仕事というか、結局掃除が終わらなかったからまたあの資料室に行くことになってるから、つまり僕の気が早いのだ。
ひとまず、本を棚に戻す。暫くしたらまた戻ってくるであろうその場所に、ほんの少し後ろ髪を引かれながらも、訪れるその日を待ち遠しく思いながら僕は一旦その場を後にした。