アルセーヌの隣というのは、いつにも増して酷く落ち着かなかった。何度もアルセーヌの様子を伺って目を泳がせてしまうし、それでもアルセーヌはオレの言葉を待ってくれるし、上手いかない説明はアルセーヌが質問しながら補足をしてくれたし、どっちが説明してるのかまるで分からなくなるくらいだった。隣にいるだけでこうなのだから、これが正面だったらどうなっていたか余計に分からない。掴まれそうになるほどの視線が見えないということだけが救いだった。
「クレイヴの説明は、きっと私より分かりやすかっただろう?」
「そ、そんなこともないと思うけど……あんまり覚えてないし」
「じゃあ、今度は私が説明してみようか?」
「ま、間に合ってる。間に合ってます」
「そうかい? 残念だな」
軽口を叩くアルセーヌはどこか楽しそうだったが、それとは裏腹にオレはもう適当なことは言わないと自分に誓った。余り覚えていないというのは確かに語弊があったし、あの小難しい説明をもう一度聞くのは正直ご免である。
「……幼い時の私はどうだった?」
そう問いかけてくるアルセーヌを、オレは思わずまじまじと見つめてしまった。まるで今目の前にいるアルセーヌと、遠い昔のアルセーヌを頭の中で描いて並べているような感覚だった。
「う、うーん……今とは全然違った、かな」
「それは見た目が、という意味?」
「それも無くはないけど……」
服装が違うのも身長が高いのもアルセーヌが大人になっているのも、それは当然のことである。なんせ十年も経っているのだ。しかし、オレが持っている違和感はそこではない。
その十年間は自分の記憶を探るまでもなく接点がなかったから、本当に同一人物なのかイマイチ合点がいかないのだ。
「どっちが本当のアルセーヌなのかなって、不思議な感じだった」
「どっちも何も、私は私だよ」
困った時に見せる笑みがアルセーヌそのものであるというのも、そう思わせる要因の一つかも知れない。
「……シント君は、あの頃と随分変わったよね」
ぽつりと出てきたアルセーヌの声は、まるで閉め忘れた蛇口から漏れ出る水滴のようだった。
「私が知っていたキミは、もっと元気が良くて周りを巻き込んでいくようなタイプだったのに、今は色んなことを沢山我慢しているような、そういう風に私の目には映ってる」
誰にも言われたことの無い言葉の数々は、恐らく的確だった。少なからず昔親交があった人物がそう言うのだから、間違いは無いのだろう。
「そ、そうかな……」
しかし、それを素直に受け止めるのはどうにも気恥ずかしかった。
自分では余り言いたくないが、確かにあの頃のオレは快活で強引だった。いかにも子供らしいというよりは、それがオレの性格だったというのが正しいと思うくらいにだ。だが、今のオレにどこまでそれが反映されているのかを考えたとき、到底その快活という言葉は当てはまらないだろう。
「オレに隠してること、他にもあるの……?」
「……どうしてそう思うんだい?」
「どうしてかな……分かんないけど、そんな気がする」
こんなのただの勘でしかないし、もう何もないと言われてしまってはそれまでなのだが、何となくそんな気がしてしまって仕方がなかった。
だってこれだけ話していても、アルセーヌはまだどこか言い足りないというような顔をしていたのだ。
「……シント君に言わなければいけないこと、本当はまだ沢山あるよ」
アルセーヌの、到底嘘をついているとは思えない言葉にオレは心なしかどきりとした。
オレに言わなければいけないことが沢山ある。その沢山というのは一体どれくらいの数なのだろう? 両手で抱えきれないほどなのか、それともそれはただの比喩で、オレがまだ知らないことがあるというだけなのだろうか?
「でも物事には順序があるから、出来れば私は段階を踏みたい。……なんていうのは、きっとこじつけだね。単純に、私が言いたくないだけなんだと思う」
どういうわけか、アルセーヌはすぐに自分の口にしたことを否定した。いつもの言葉切れのいいアルセーヌはどこかに行ってしまったようだった。
「隠したがりでごめんね。怒ってくれていいんだよ」
そうやって言うということは、それくらい言いにくい何かが含まれるということなのかも知れない。そう思うと、アルセーヌの非力な笑みが余計オレの目にかなり痛く突き刺さった。
この時、やっぱりオレは貴族は好きじゃないと思った。
隠したがりで嘘つきなのに、人のことにばかり口出しをしてくる貴族なんて好きじゃない。そしてその原因が全部オレにあるとなれば、尚更嫌になって仕方がなかった。
「……せいっ」
気づけばオレは、拳を作ってアルセーヌの左腕に叩きつけていた。
「怒ったから、もういいや」
その理由は、アルセーヌに怒ったとかどうというよりは、ただの八つ当たりに近かったのかもしれない。
「オレのことも怒ってよ」
しかしそうは言っても、オレのことも怒ってくれないと気が済まなかった。黙っていたアルセーヌが怒られて然るべきるというのなら、約束を破ったオレも怒られるべきなのだ。
「……さっきキミのことを随分変わったって言ったけど、やっぱりそうでもないね」
そう口にしたかと思うと、アルセーヌはオレの頬に向かって左手を伸ばしていった。一体何をされるのかと思ったすぐ後のこと、親指と人差し指で頬をつまんできたのだ。
「い、いたい……」
「さっきのも結構痛かったからね」
だから仕返し。そう言いながらも、オレの頬をぐりぐりしている様はどこか楽しそうにも見えた。
手袋に包まれたアルセーヌの体温は余り分からない。ただ決して本気でつねっているという訳ではなく、なんならただ触れているというのに近かった。オレが言った痛いというのは嘘に近いが、アルセーヌの言ったそれが嘘かまでは分からなかった。本気でぶつけた訳ではないから痛くはなかったはずなのだが、オレがそう思っているだけなのかも知れない。
「私はね、今日こうして会いに来てくれたのが嬉しかったんだよ?」
「な、なんで……?」
「だって、前は貴族のことを避けたくて仕方が無いって顔してたじゃないか」
「そんな顔に出てたかな……」
「出てたよ。かなり出てたし、実際そう思ってだだろう?」
「こ、ごめん……」
「私は別に、キミに謝ってほしいわけじゃないんだけどね」
オレの謝罪をまるでなかったかのように軽い言葉を口にし、いつまで経っても頬から離れてくれないアルセーヌの手をオレは無理矢理引き剥がした。少し顔の皮膚が伸びたような気がしてしまい、思わず両頬を違いを確認するかのように擦った。
クスクスと笑ってみせるアルセーヌの笑みにどういうわけか懐かしさを感じてしまったオレは、もう少しだけ思っていることを伝えてみることにした。
「あ、あのさ……」
やっぱりこういのは、口にしないと到底伝わらないのだ。
「オレ、もうちょっと頑張るよ」
「……別に、無理して頑張る必要はないよ?」
「でもアルセーヌだって無理してるんでしょ?」
そう口にした根拠は、何一つとして存在しない。しかし、何となくそんな気がしてしまってならなかった。事件から十年経っているのだ。その間、ここに至るまでもきっと、オレの計り知れないことが沢山あったはずだ。それなら、ここから先はオレが頑張らないといけないというのは明白だ。
そうしないと、いつまで経っても何も終わらない。
「知らないことばっかりっていうのも、疲れるから」
この短期間でオレの周りに起きている出来事なんて、恐らくは些細なことばかりだ。
「だからそういうの……知らないふりっていうのも、もう終わりにしたい」
珍しく、と自分でも思ってしまうくらいに、その言葉は自分自身の内から出てきたものに感じた。
これがこの前アルベルが言った「変わった」という部分に含まれるのなら、これも少しは悪くはないのかも知れない。そう思うと、特別悪くないようなそんな気がした。
「……昔みたいに、話せるようになったらいいなぁ」
それが一体何に向けてだったのか、自分でもよく分からなかった。しかしどうやらオレは、前よりも欲張りになってしまったらしい。それを理解してしまった途端に急に気恥ずかしくなってしまうのだから、オレにはまだ何かが足りないのだ。
◇
「今日のホットケーキは豪華なんですよー」
そう口にしたリアの手には二枚のお皿、ネイケルの手にも二枚のお皿が持たれている。テーブルに並べてられていくお皿にはホットケーキと生クリーム、更にはジャムがかかっていた。紅く照りつく蜜とゴロゴロと形が残った実がよく映えていた。
「イチゴ……?」
「あ、これラズベリージャムなんですよ」
アルセーヌの前に腰を落としたリアが、わざわざオレの独り言を拾ってくれた。確かに実をよく見てみると、ラズベリーの特徴的なつぶつぶが目に入った。ラズベリージャムというのを余り聞いたことがなかったのだが、これはリアの趣向なのだろうか?
「……紅茶、ほんとにストレートでいいんですか?」
「え? ああ……そうだね」
「せっかくリンゴジャムも買ってきたのに、残念ですねぇ」
リアとアルセーヌのやり取りを端から聞いていると、なんのことを話しているのかと思わず首を傾げたくなってしまった。紅茶に砂糖を入れるかどうかの話ではなく、ここにはないリンゴジャムという単語が出てきたのがその要因だった。
「……昔、紅茶にジャムを入れるという飲み方を知ってから角砂糖が苦手になってしまってね。元々甘いものが余り好きじゃないから」
どうやらオレは自分が思っているよりもアルセーヌをまじまじと見つめてしまっていたようで、さっきの会話の意図をわざわざ説明してくれた。もしかすると、ラズベリージャムもリアの趣向というよりはアルセーヌに合わせたものなのかも知れない。
「紅茶にジャム入れると美味しいんですよね。私もはじめて知ったんですよ」
「好きならやりゃいいのに」
「放っておいてくれ」
アルセーヌは投げやり気味にそう言うと、恐らくは砂糖の入っていないストレートティーを口に含んだ。テーブルの真ん中に置いてある角砂糖は、どうやら今日は余り意味を成さないらしい。オレは別に角砂糖は嫌いではないが、これから甘いものを食べるというのに、紅茶に砂糖まで入れてしまっては後で後悔してしまいそうだったのだ。
「ところでずっと気になっていたんだけど、ネイケル君は今どこに寝泊まりしてるんだい?」
「え、普通にそこら辺の宿だけど」
「それはよかった。野宿じゃなくて安心したよ」
「野宿は流石になぁ……」
既に一口ホットケーキを口にしていたネイケルは、口を動かしながらそう答えた。野宿をしている貴族なんて、正直余り考えたくない。というより、貴族って家柄も身分もそれ相応に高いはずなのだから、その貴族が野宿だなんてそもそも考えるに至らないだろう。
「……私の家、部屋にまだ空きがある」
しかし、アルセーヌの意図はそれとは少しまた違ったようだ。
「タダ飯とかなんとか言って好きでもない人の家に上がり込んでくるんだから、言うほどいいところに泊まってないんじゃないのかい? 手配くらい幾らでも出来るだろうに」
呆れにも近いアルセーヌの問いに、ネイケルは答えなかった。代わりにホットケーキを口に放り込んだのが、どうやら答えらしい。つまりは当たらずとも遠からずといったところなのだろう。
「まあ別に、キミがその方が動きやすいって言うのなら無理強いはしないけどね。飢え死にされるのは困るよ」
「……どっちもどっちって感じだよな」
「オ、オレ見て言わないでよ」
誰かに同意を求めるかのように、ネイケルはなぜかオレを見ながらそう言った。思わず口にしたホットケーキは、控えめな甘さの生クリームと相性がとても良かった。
ネイケルがアルセーヌの家にちょくちょく入り込んでいるらしいというのも、きっとそこまでいいところに泊まっていないからなのだろう。それは貴族としてどうなのだろうかとオレが心配してしまうくらいなのだから、本当は余りよくないことなんじゃないだろうか?
「ま、考えとくわ」
「そうしてくれると嬉しいね」
本当に考える気があるのかどうなのか、返事は思いのほか軽かった。
どうやら小難しい話は一旦収束したらしく、各々が紅茶やホットケーキを口に含んだ。それに習うかのように、オレも再びホットケーキを一切れ口にした。ラズベリーの甘酸っぱい蜜は、思いのほかさっぱりとしていて控えめに言ってもかなり食べやすかった。
人の家に上がり込んで何かをごちそうになるというのは余りないから、こういうのは余計新鮮だ。
(……そういえば、あれも聞こうと思ってたんだっったっけ)
いつもとは違う景観に、ひとつだけ口にしていなかったことがあったのを思い出してしまった。別に言わなくてもいいことなのかも知れないが、思い出してしまうとどうにも複雑な気分になってしまう。
「ね、ねえ」
本当に言わなくてもいいことなのだとしたら、こんなに考えなくなって構わないはずなのだ。
「最近、アルベルと会った?」
「アルベル君? ああ、昨日の夜に会ったよけれど……」
「ふうん……」
どうやらオレの家に来たその日の夜、普通にアルセーヌには会っていたらしい。アルセーヌの口ぶりからは何かがあったようには見えず、それが余計オレの疑問を募らせた。もし何かあったのなら、もう少し言葉を選ぶ時間があってもよかったはずだ。
「……その質問は、一体どこから来たのかな?」
それなのに、考えあぐねてしまっていたのはオレのほうだった。
「昨日アルベルが家に来たから、何かあったのかなって思ってたんだけど……」
「家に……? 彼がキミの家に行ったのかい?」
「なんか、靴探しに来たって言ってたけど……クッキー食べて帰っていった」
「その説明だと食い逃げみたいだな」
「キミとアルベル君を一緒にしないでくれないか」
誰も一緒だとは言っていない気がするのだが、確かにアルベルとネイケルのそれを一緒にするのはどうかと感じてしまう。というのは、心の中だけに留めておくことにした。オレの説明の仕方も悪かったのだ。しかしそうは言っても、それ以上に適切な説明をすることは難しかった。
「キミの言うように、靴を探しに来たついでにクッキーを食べて帰っていったっていうのならきっとそこまで気にかけることはないと思うんだけど、何か引っかかるようなことがあったのかな?」
「うーん、そういうわけでもないんだけど……」
「……まあ、彼は彼であんまり自分のことは話さないし無頓着なところがあるから、理由はどうあれわざわざキミの家にまで行くっていうのは結構珍しいことかも知れないね」
「そうなの?」
「うん。私相手じゃ話してくれる気がしないけど、次に会えたら聞いてみるよ」
アルセーヌが知らないのだから、きっとオレの思い違いなのだろう。そうでなければ困るのだが、どうしてオレ自身が困るのかまでは理解するまでには及ばない。その理由を考えれば考えるほど、気になって仕方が無くなってしまう。徐に放り込んだホットケーキの味は、もうなんだかよく分からなくなってしまっていた。
◇
シント君が私の元に訪れた、その日の夜のことだ。
「で、キミは具体的にロエル君に何を言われたんだい?」
「なにって……」
暗がりの街の中を歩きながら、私はネイケル君に問いを投げた。彼は、あの後も私の家に居たままだった。居候するかどうかの返事は適当で、まだ返ってきていないに等しいのだが、恐らくそれを自分から言うことに躊躇しているのではないだろうか?
我々が次に家に帰る頃には開いている部屋一室が綺麗に整っているはずだから、帰ったらもう一押しする必要があるだろう。
「言葉が出なくなるほどにこっぴどく言われたのかな?」
「んー……」
ネイケル君の返事は、依然としてまともに返ってはこなかった。本当は街中で歩きながらする話では無いのだが、この話は家で軽々しく出来るものでもなく、結果こういう形でしか彼から話を聞くことが出来ない状況だ。
リア君に聞かれては困るようなことが含まれていないとしても、受け取る側がどう思うかはまた別の話なのだから。
「オレ、アイツのことまともに探す気なかったんだよね」
どうやら、ロエル君のお陰でようやく少しは本音を見せる気持ちになったようだ。
「それ見透かされてたし、ここに来たときに一番最初に会った貴族がロエルさんで、警察に近い貴族の側にいるよりも楽だったからついて回ってたっていうのもバレてた」
恐らくはこっぴどく何かを言われたというより、ネイケル君の意図する行動全てを見透かされていたからばつが悪いといったところだろう。ロエル君が私の家に来たときに言った「いいように使われた」というのは、今彼が口にした「警察に近い貴族の側にいるよりも楽だったからついて回ってた」という部分に当てはまるのだろう。つまりロエル君はそれが気にくわなかったわけだ。
どうしてあの彼があそこまで機嫌が悪かったのかようやく理解をしたが、しかしこの街に来たときに一番最初に会った貴族がロエル君であるというのは、初耳だった。
「元はオレのところで起きた事件だから、まあオレがやらないといけないってのは理解してるし、一応その為に来てはいるんだけどさ。かといってオレに何が出来るのかって言ったら、特に出来ることってないんだよね」
その言葉がどういうわけか、何かを諦めているように私の目には映ってしまう。それに加えて彼は、地面と会話をしているかのように頑なに私と顔を合わせようとはしなかった。
「……その特に出来ることがないっていうのに、一体どれくらいの根拠があるんだい?」
「アイツのこと、二回捕まえ逃してる」
「それだけ?」
私がそう口にすると、ネイケル君の足が止まった。どうやら、何か触れられたくないことに私は触れてしまったらしい。ようやく私と彼の目が鉢合わせをした。
「オレが魔法使うの失敗してるってこと、知ってるでしょ?」
「知ってはいるけど、いつだったかにキミそれを聞いたとき適当にはぐらしてきたから、余り信用はしてないよ」
しかしそれは、無理矢理にでも触れて聞き出さないとこの先いい結果になり得ないことだと思ったのだ。聞いたからといって、それこそ私に何か出来るわけでもないのだが……。
「……その魔法の暴発というの、本当にキミがやったのかい?」
全くもって、損な役回りであるとしか言いようがないだろう。
「何度も同じこと言わせないでよ」
それだけ言うと、そそくさと私の前を行ってしまった。私だって、本当はこんなこと何度も聞きたくは無い。ただ、私を含めて誰もが嘘をつきすぎているのが問題なのだ。
先を行ったネイケル君は、少し行ったところにある左に続く細い道の前でピタリと足を止めた。それにならって私も足を止めると、何かが地面を踏みしめてこちらに向かってくるような音が聞こえてきた。その足音はゆっくり迫ってくるわけでもなく、何かに隠れて潜んでいるという程小さい音でもなく、かといって何かにせき立てられているように忙しないわけでもなかった。単に散歩をしているような歩調に近く、これだけではそれが誰かまでは分からないが、貴族の誰かであるということだけは理解が出来た。
「……な、なんで二人してこっち見てるんですか?」
「いや、誰か来ると思って」
何故なら、こんな時間に悠長に暗がりの細い道を歩いている人間なんて限られているからである。
「ああ良かった。会えなかったらシント君になんて言おうかと思っていたところだったんだ」
「シント君に……?」
「彼の家に行ったそうじゃないか。不思議そうにしていたよ」
「ああ、そのことですか……。行こうかどうするかってかなり迷ってたみたいでしたけど、ちゃんとアルセーヌさんの家に行ったんですね」
もう少し違う話を期待していたとでも言いたげに脱力のある返事が返ってきたが、その後すぐ持ち直すようにして言葉を畳みかけてきた。彼の口ぶりからして、シント君はかなり気合いを入れて私の家に赴いたらしい。そこまで勇気のいることだったのかと思うと申し訳なさが募るが、それはそれとして私の聞きたいことは何一つとして返ってくることはなかった。
「靴を探しに行っただけということになっているらしいけど、それは本当かな?」
「……どういう意味ですか?」
「仮にも貴族の人間が、市民の営んでいる店に一人で行くというのは些か不自然じゃないかということだよ」
「うーん……知り合いの店に行くのがそんなに不自然ですか?」
「あぁなるほど? キミからしたら単に事件について数回話を聞いただけの少年だというのに、既に知り合いという枠の中に彼はいるんだね。驚きだな」
私の質問にどうも答えたくないようだから少しカマをかけてみると、ようやく彼の表情が変わる。少々面倒な疑いをかけられているといった類いのものに見えたが、どちらにせよ、私の言葉に引っかかる部分があったらしい。
「……僕がシント君について何か探っているって言いたそうですね」
「それは曲解だよ。彼がかなり気にしていたようだったから、そうなってくると私も少なからず気になってしまってね」
いつもだったらカマをかけてもろくに突っかかってこない彼を前に、この状況で全く疑問を抱かないだなんてことはあるわけがなかった。微々たる差だと言われてしまえばそれまでだが、それくらい彼は物事に対しての情緒の起伏に欠けるのだ。
「何か隠しているんじゃないかという気がしているんだけど、どうかな?」
シント君に会った時がどういう感じだったのかは知らないが、これは疑われても文句は言えないだろう。それくらい、今日の彼には違和感があった。
「隠さないといけないようなことなんて、何もありませんよ」
そして大抵の場合、こういう時は何かがあったとしても何もないと否定してくるものだ。
アルベル君はそれだけ言うと、すぐに足を翻して行ってしまった。後ろ姿から、もう何も聞いてくれるなという訴えが見え隠れしているように感じたのは、きっと私だけではなかっただろう。
「……めっちゃ怪しんだけどそれって暗いから?」
「だといいけどね」
私より一緒にいる期間が限りなく短いネイケル君からそんな言葉が出てくるのだから、恐らくはそれくらいの違和感があったのだろう。しかしどちらかというと問題はそこではなく、それを恐らく当の本人が気づいていないということのほうが致命的だ。
アルベル君が歩いた道を、私たちは仕方なく習うように進み始めた。おおかたの想像の通り、どうやら私はシント君に余りいい報告が出来ないらしい。
「クレイヴの説明は、きっと私より分かりやすかっただろう?」
「そ、そんなこともないと思うけど……あんまり覚えてないし」
「じゃあ、今度は私が説明してみようか?」
「ま、間に合ってる。間に合ってます」
「そうかい? 残念だな」
軽口を叩くアルセーヌはどこか楽しそうだったが、それとは裏腹にオレはもう適当なことは言わないと自分に誓った。余り覚えていないというのは確かに語弊があったし、あの小難しい説明をもう一度聞くのは正直ご免である。
「……幼い時の私はどうだった?」
そう問いかけてくるアルセーヌを、オレは思わずまじまじと見つめてしまった。まるで今目の前にいるアルセーヌと、遠い昔のアルセーヌを頭の中で描いて並べているような感覚だった。
「う、うーん……今とは全然違った、かな」
「それは見た目が、という意味?」
「それも無くはないけど……」
服装が違うのも身長が高いのもアルセーヌが大人になっているのも、それは当然のことである。なんせ十年も経っているのだ。しかし、オレが持っている違和感はそこではない。
その十年間は自分の記憶を探るまでもなく接点がなかったから、本当に同一人物なのかイマイチ合点がいかないのだ。
「どっちが本当のアルセーヌなのかなって、不思議な感じだった」
「どっちも何も、私は私だよ」
困った時に見せる笑みがアルセーヌそのものであるというのも、そう思わせる要因の一つかも知れない。
「……シント君は、あの頃と随分変わったよね」
ぽつりと出てきたアルセーヌの声は、まるで閉め忘れた蛇口から漏れ出る水滴のようだった。
「私が知っていたキミは、もっと元気が良くて周りを巻き込んでいくようなタイプだったのに、今は色んなことを沢山我慢しているような、そういう風に私の目には映ってる」
誰にも言われたことの無い言葉の数々は、恐らく的確だった。少なからず昔親交があった人物がそう言うのだから、間違いは無いのだろう。
「そ、そうかな……」
しかし、それを素直に受け止めるのはどうにも気恥ずかしかった。
自分では余り言いたくないが、確かにあの頃のオレは快活で強引だった。いかにも子供らしいというよりは、それがオレの性格だったというのが正しいと思うくらいにだ。だが、今のオレにどこまでそれが反映されているのかを考えたとき、到底その快活という言葉は当てはまらないだろう。
「オレに隠してること、他にもあるの……?」
「……どうしてそう思うんだい?」
「どうしてかな……分かんないけど、そんな気がする」
こんなのただの勘でしかないし、もう何もないと言われてしまってはそれまでなのだが、何となくそんな気がしてしまって仕方がなかった。
だってこれだけ話していても、アルセーヌはまだどこか言い足りないというような顔をしていたのだ。
「……シント君に言わなければいけないこと、本当はまだ沢山あるよ」
アルセーヌの、到底嘘をついているとは思えない言葉にオレは心なしかどきりとした。
オレに言わなければいけないことが沢山ある。その沢山というのは一体どれくらいの数なのだろう? 両手で抱えきれないほどなのか、それともそれはただの比喩で、オレがまだ知らないことがあるというだけなのだろうか?
「でも物事には順序があるから、出来れば私は段階を踏みたい。……なんていうのは、きっとこじつけだね。単純に、私が言いたくないだけなんだと思う」
どういうわけか、アルセーヌはすぐに自分の口にしたことを否定した。いつもの言葉切れのいいアルセーヌはどこかに行ってしまったようだった。
「隠したがりでごめんね。怒ってくれていいんだよ」
そうやって言うということは、それくらい言いにくい何かが含まれるということなのかも知れない。そう思うと、アルセーヌの非力な笑みが余計オレの目にかなり痛く突き刺さった。
この時、やっぱりオレは貴族は好きじゃないと思った。
隠したがりで嘘つきなのに、人のことにばかり口出しをしてくる貴族なんて好きじゃない。そしてその原因が全部オレにあるとなれば、尚更嫌になって仕方がなかった。
「……せいっ」
気づけばオレは、拳を作ってアルセーヌの左腕に叩きつけていた。
「怒ったから、もういいや」
その理由は、アルセーヌに怒ったとかどうというよりは、ただの八つ当たりに近かったのかもしれない。
「オレのことも怒ってよ」
しかしそうは言っても、オレのことも怒ってくれないと気が済まなかった。黙っていたアルセーヌが怒られて然るべきるというのなら、約束を破ったオレも怒られるべきなのだ。
「……さっきキミのことを随分変わったって言ったけど、やっぱりそうでもないね」
そう口にしたかと思うと、アルセーヌはオレの頬に向かって左手を伸ばしていった。一体何をされるのかと思ったすぐ後のこと、親指と人差し指で頬をつまんできたのだ。
「い、いたい……」
「さっきのも結構痛かったからね」
だから仕返し。そう言いながらも、オレの頬をぐりぐりしている様はどこか楽しそうにも見えた。
手袋に包まれたアルセーヌの体温は余り分からない。ただ決して本気でつねっているという訳ではなく、なんならただ触れているというのに近かった。オレが言った痛いというのは嘘に近いが、アルセーヌの言ったそれが嘘かまでは分からなかった。本気でぶつけた訳ではないから痛くはなかったはずなのだが、オレがそう思っているだけなのかも知れない。
「私はね、今日こうして会いに来てくれたのが嬉しかったんだよ?」
「な、なんで……?」
「だって、前は貴族のことを避けたくて仕方が無いって顔してたじゃないか」
「そんな顔に出てたかな……」
「出てたよ。かなり出てたし、実際そう思ってだだろう?」
「こ、ごめん……」
「私は別に、キミに謝ってほしいわけじゃないんだけどね」
オレの謝罪をまるでなかったかのように軽い言葉を口にし、いつまで経っても頬から離れてくれないアルセーヌの手をオレは無理矢理引き剥がした。少し顔の皮膚が伸びたような気がしてしまい、思わず両頬を違いを確認するかのように擦った。
クスクスと笑ってみせるアルセーヌの笑みにどういうわけか懐かしさを感じてしまったオレは、もう少しだけ思っていることを伝えてみることにした。
「あ、あのさ……」
やっぱりこういのは、口にしないと到底伝わらないのだ。
「オレ、もうちょっと頑張るよ」
「……別に、無理して頑張る必要はないよ?」
「でもアルセーヌだって無理してるんでしょ?」
そう口にした根拠は、何一つとして存在しない。しかし、何となくそんな気がしてしまってならなかった。事件から十年経っているのだ。その間、ここに至るまでもきっと、オレの計り知れないことが沢山あったはずだ。それなら、ここから先はオレが頑張らないといけないというのは明白だ。
そうしないと、いつまで経っても何も終わらない。
「知らないことばっかりっていうのも、疲れるから」
この短期間でオレの周りに起きている出来事なんて、恐らくは些細なことばかりだ。
「だからそういうの……知らないふりっていうのも、もう終わりにしたい」
珍しく、と自分でも思ってしまうくらいに、その言葉は自分自身の内から出てきたものに感じた。
これがこの前アルベルが言った「変わった」という部分に含まれるのなら、これも少しは悪くはないのかも知れない。そう思うと、特別悪くないようなそんな気がした。
「……昔みたいに、話せるようになったらいいなぁ」
それが一体何に向けてだったのか、自分でもよく分からなかった。しかしどうやらオレは、前よりも欲張りになってしまったらしい。それを理解してしまった途端に急に気恥ずかしくなってしまうのだから、オレにはまだ何かが足りないのだ。
◇
「今日のホットケーキは豪華なんですよー」
そう口にしたリアの手には二枚のお皿、ネイケルの手にも二枚のお皿が持たれている。テーブルに並べてられていくお皿にはホットケーキと生クリーム、更にはジャムがかかっていた。紅く照りつく蜜とゴロゴロと形が残った実がよく映えていた。
「イチゴ……?」
「あ、これラズベリージャムなんですよ」
アルセーヌの前に腰を落としたリアが、わざわざオレの独り言を拾ってくれた。確かに実をよく見てみると、ラズベリーの特徴的なつぶつぶが目に入った。ラズベリージャムというのを余り聞いたことがなかったのだが、これはリアの趣向なのだろうか?
「……紅茶、ほんとにストレートでいいんですか?」
「え? ああ……そうだね」
「せっかくリンゴジャムも買ってきたのに、残念ですねぇ」
リアとアルセーヌのやり取りを端から聞いていると、なんのことを話しているのかと思わず首を傾げたくなってしまった。紅茶に砂糖を入れるかどうかの話ではなく、ここにはないリンゴジャムという単語が出てきたのがその要因だった。
「……昔、紅茶にジャムを入れるという飲み方を知ってから角砂糖が苦手になってしまってね。元々甘いものが余り好きじゃないから」
どうやらオレは自分が思っているよりもアルセーヌをまじまじと見つめてしまっていたようで、さっきの会話の意図をわざわざ説明してくれた。もしかすると、ラズベリージャムもリアの趣向というよりはアルセーヌに合わせたものなのかも知れない。
「紅茶にジャム入れると美味しいんですよね。私もはじめて知ったんですよ」
「好きならやりゃいいのに」
「放っておいてくれ」
アルセーヌは投げやり気味にそう言うと、恐らくは砂糖の入っていないストレートティーを口に含んだ。テーブルの真ん中に置いてある角砂糖は、どうやら今日は余り意味を成さないらしい。オレは別に角砂糖は嫌いではないが、これから甘いものを食べるというのに、紅茶に砂糖まで入れてしまっては後で後悔してしまいそうだったのだ。
「ところでずっと気になっていたんだけど、ネイケル君は今どこに寝泊まりしてるんだい?」
「え、普通にそこら辺の宿だけど」
「それはよかった。野宿じゃなくて安心したよ」
「野宿は流石になぁ……」
既に一口ホットケーキを口にしていたネイケルは、口を動かしながらそう答えた。野宿をしている貴族なんて、正直余り考えたくない。というより、貴族って家柄も身分もそれ相応に高いはずなのだから、その貴族が野宿だなんてそもそも考えるに至らないだろう。
「……私の家、部屋にまだ空きがある」
しかし、アルセーヌの意図はそれとは少しまた違ったようだ。
「タダ飯とかなんとか言って好きでもない人の家に上がり込んでくるんだから、言うほどいいところに泊まってないんじゃないのかい? 手配くらい幾らでも出来るだろうに」
呆れにも近いアルセーヌの問いに、ネイケルは答えなかった。代わりにホットケーキを口に放り込んだのが、どうやら答えらしい。つまりは当たらずとも遠からずといったところなのだろう。
「まあ別に、キミがその方が動きやすいって言うのなら無理強いはしないけどね。飢え死にされるのは困るよ」
「……どっちもどっちって感じだよな」
「オ、オレ見て言わないでよ」
誰かに同意を求めるかのように、ネイケルはなぜかオレを見ながらそう言った。思わず口にしたホットケーキは、控えめな甘さの生クリームと相性がとても良かった。
ネイケルがアルセーヌの家にちょくちょく入り込んでいるらしいというのも、きっとそこまでいいところに泊まっていないからなのだろう。それは貴族としてどうなのだろうかとオレが心配してしまうくらいなのだから、本当は余りよくないことなんじゃないだろうか?
「ま、考えとくわ」
「そうしてくれると嬉しいね」
本当に考える気があるのかどうなのか、返事は思いのほか軽かった。
どうやら小難しい話は一旦収束したらしく、各々が紅茶やホットケーキを口に含んだ。それに習うかのように、オレも再びホットケーキを一切れ口にした。ラズベリーの甘酸っぱい蜜は、思いのほかさっぱりとしていて控えめに言ってもかなり食べやすかった。
人の家に上がり込んで何かをごちそうになるというのは余りないから、こういうのは余計新鮮だ。
(……そういえば、あれも聞こうと思ってたんだっったっけ)
いつもとは違う景観に、ひとつだけ口にしていなかったことがあったのを思い出してしまった。別に言わなくてもいいことなのかも知れないが、思い出してしまうとどうにも複雑な気分になってしまう。
「ね、ねえ」
本当に言わなくてもいいことなのだとしたら、こんなに考えなくなって構わないはずなのだ。
「最近、アルベルと会った?」
「アルベル君? ああ、昨日の夜に会ったよけれど……」
「ふうん……」
どうやらオレの家に来たその日の夜、普通にアルセーヌには会っていたらしい。アルセーヌの口ぶりからは何かがあったようには見えず、それが余計オレの疑問を募らせた。もし何かあったのなら、もう少し言葉を選ぶ時間があってもよかったはずだ。
「……その質問は、一体どこから来たのかな?」
それなのに、考えあぐねてしまっていたのはオレのほうだった。
「昨日アルベルが家に来たから、何かあったのかなって思ってたんだけど……」
「家に……? 彼がキミの家に行ったのかい?」
「なんか、靴探しに来たって言ってたけど……クッキー食べて帰っていった」
「その説明だと食い逃げみたいだな」
「キミとアルベル君を一緒にしないでくれないか」
誰も一緒だとは言っていない気がするのだが、確かにアルベルとネイケルのそれを一緒にするのはどうかと感じてしまう。というのは、心の中だけに留めておくことにした。オレの説明の仕方も悪かったのだ。しかしそうは言っても、それ以上に適切な説明をすることは難しかった。
「キミの言うように、靴を探しに来たついでにクッキーを食べて帰っていったっていうのならきっとそこまで気にかけることはないと思うんだけど、何か引っかかるようなことがあったのかな?」
「うーん、そういうわけでもないんだけど……」
「……まあ、彼は彼であんまり自分のことは話さないし無頓着なところがあるから、理由はどうあれわざわざキミの家にまで行くっていうのは結構珍しいことかも知れないね」
「そうなの?」
「うん。私相手じゃ話してくれる気がしないけど、次に会えたら聞いてみるよ」
アルセーヌが知らないのだから、きっとオレの思い違いなのだろう。そうでなければ困るのだが、どうしてオレ自身が困るのかまでは理解するまでには及ばない。その理由を考えれば考えるほど、気になって仕方が無くなってしまう。徐に放り込んだホットケーキの味は、もうなんだかよく分からなくなってしまっていた。
◇
シント君が私の元に訪れた、その日の夜のことだ。
「で、キミは具体的にロエル君に何を言われたんだい?」
「なにって……」
暗がりの街の中を歩きながら、私はネイケル君に問いを投げた。彼は、あの後も私の家に居たままだった。居候するかどうかの返事は適当で、まだ返ってきていないに等しいのだが、恐らくそれを自分から言うことに躊躇しているのではないだろうか?
我々が次に家に帰る頃には開いている部屋一室が綺麗に整っているはずだから、帰ったらもう一押しする必要があるだろう。
「言葉が出なくなるほどにこっぴどく言われたのかな?」
「んー……」
ネイケル君の返事は、依然としてまともに返ってはこなかった。本当は街中で歩きながらする話では無いのだが、この話は家で軽々しく出来るものでもなく、結果こういう形でしか彼から話を聞くことが出来ない状況だ。
リア君に聞かれては困るようなことが含まれていないとしても、受け取る側がどう思うかはまた別の話なのだから。
「オレ、アイツのことまともに探す気なかったんだよね」
どうやら、ロエル君のお陰でようやく少しは本音を見せる気持ちになったようだ。
「それ見透かされてたし、ここに来たときに一番最初に会った貴族がロエルさんで、警察に近い貴族の側にいるよりも楽だったからついて回ってたっていうのもバレてた」
恐らくはこっぴどく何かを言われたというより、ネイケル君の意図する行動全てを見透かされていたからばつが悪いといったところだろう。ロエル君が私の家に来たときに言った「いいように使われた」というのは、今彼が口にした「警察に近い貴族の側にいるよりも楽だったからついて回ってた」という部分に当てはまるのだろう。つまりロエル君はそれが気にくわなかったわけだ。
どうしてあの彼があそこまで機嫌が悪かったのかようやく理解をしたが、しかしこの街に来たときに一番最初に会った貴族がロエル君であるというのは、初耳だった。
「元はオレのところで起きた事件だから、まあオレがやらないといけないってのは理解してるし、一応その為に来てはいるんだけどさ。かといってオレに何が出来るのかって言ったら、特に出来ることってないんだよね」
その言葉がどういうわけか、何かを諦めているように私の目には映ってしまう。それに加えて彼は、地面と会話をしているかのように頑なに私と顔を合わせようとはしなかった。
「……その特に出来ることがないっていうのに、一体どれくらいの根拠があるんだい?」
「アイツのこと、二回捕まえ逃してる」
「それだけ?」
私がそう口にすると、ネイケル君の足が止まった。どうやら、何か触れられたくないことに私は触れてしまったらしい。ようやく私と彼の目が鉢合わせをした。
「オレが魔法使うの失敗してるってこと、知ってるでしょ?」
「知ってはいるけど、いつだったかにキミそれを聞いたとき適当にはぐらしてきたから、余り信用はしてないよ」
しかしそれは、無理矢理にでも触れて聞き出さないとこの先いい結果になり得ないことだと思ったのだ。聞いたからといって、それこそ私に何か出来るわけでもないのだが……。
「……その魔法の暴発というの、本当にキミがやったのかい?」
全くもって、損な役回りであるとしか言いようがないだろう。
「何度も同じこと言わせないでよ」
それだけ言うと、そそくさと私の前を行ってしまった。私だって、本当はこんなこと何度も聞きたくは無い。ただ、私を含めて誰もが嘘をつきすぎているのが問題なのだ。
先を行ったネイケル君は、少し行ったところにある左に続く細い道の前でピタリと足を止めた。それにならって私も足を止めると、何かが地面を踏みしめてこちらに向かってくるような音が聞こえてきた。その足音はゆっくり迫ってくるわけでもなく、何かに隠れて潜んでいるという程小さい音でもなく、かといって何かにせき立てられているように忙しないわけでもなかった。単に散歩をしているような歩調に近く、これだけではそれが誰かまでは分からないが、貴族の誰かであるということだけは理解が出来た。
「……な、なんで二人してこっち見てるんですか?」
「いや、誰か来ると思って」
何故なら、こんな時間に悠長に暗がりの細い道を歩いている人間なんて限られているからである。
「ああ良かった。会えなかったらシント君になんて言おうかと思っていたところだったんだ」
「シント君に……?」
「彼の家に行ったそうじゃないか。不思議そうにしていたよ」
「ああ、そのことですか……。行こうかどうするかってかなり迷ってたみたいでしたけど、ちゃんとアルセーヌさんの家に行ったんですね」
もう少し違う話を期待していたとでも言いたげに脱力のある返事が返ってきたが、その後すぐ持ち直すようにして言葉を畳みかけてきた。彼の口ぶりからして、シント君はかなり気合いを入れて私の家に赴いたらしい。そこまで勇気のいることだったのかと思うと申し訳なさが募るが、それはそれとして私の聞きたいことは何一つとして返ってくることはなかった。
「靴を探しに行っただけということになっているらしいけど、それは本当かな?」
「……どういう意味ですか?」
「仮にも貴族の人間が、市民の営んでいる店に一人で行くというのは些か不自然じゃないかということだよ」
「うーん……知り合いの店に行くのがそんなに不自然ですか?」
「あぁなるほど? キミからしたら単に事件について数回話を聞いただけの少年だというのに、既に知り合いという枠の中に彼はいるんだね。驚きだな」
私の質問にどうも答えたくないようだから少しカマをかけてみると、ようやく彼の表情が変わる。少々面倒な疑いをかけられているといった類いのものに見えたが、どちらにせよ、私の言葉に引っかかる部分があったらしい。
「……僕がシント君について何か探っているって言いたそうですね」
「それは曲解だよ。彼がかなり気にしていたようだったから、そうなってくると私も少なからず気になってしまってね」
いつもだったらカマをかけてもろくに突っかかってこない彼を前に、この状況で全く疑問を抱かないだなんてことはあるわけがなかった。微々たる差だと言われてしまえばそれまでだが、それくらい彼は物事に対しての情緒の起伏に欠けるのだ。
「何か隠しているんじゃないかという気がしているんだけど、どうかな?」
シント君に会った時がどういう感じだったのかは知らないが、これは疑われても文句は言えないだろう。それくらい、今日の彼には違和感があった。
「隠さないといけないようなことなんて、何もありませんよ」
そして大抵の場合、こういう時は何かがあったとしても何もないと否定してくるものだ。
アルベル君はそれだけ言うと、すぐに足を翻して行ってしまった。後ろ姿から、もう何も聞いてくれるなという訴えが見え隠れしているように感じたのは、きっと私だけではなかっただろう。
「……めっちゃ怪しんだけどそれって暗いから?」
「だといいけどね」
私より一緒にいる期間が限りなく短いネイケル君からそんな言葉が出てくるのだから、恐らくはそれくらいの違和感があったのだろう。しかしどちらかというと問題はそこではなく、それを恐らく当の本人が気づいていないということのほうが致命的だ。
アルベル君が歩いた道を、私たちは仕方なく習うように進み始めた。おおかたの想像の通り、どうやら私はシント君に余りいい報告が出来ないらしい。