21話:行動力の限度


2024-08-13 18:00:54
文字サイズ
文字組
フォントゴシック体明朝体
 買い物の帰り、特別目移りすることなく市場の中を歩いていく。紙袋独特の擦れた時の匂いが鼻を掠めていくのには、もうすっかりと慣れてしまっていた。
 今日の市場はいつもとさして変わらない。事件があってからは確かに人通りが少なくなったようにも感じるが、それも言われなければ分からないくらいで、ごくごく普通の日常そのもののようにオレの目捉えている。事件がひとつふたつ起きたくらいでは、誰もが皆他人事だ。そしてそれは、当然オレも含んでいるわけなのだが……。
 果たして、すぐそこにある裏路地に続くような細道の隅で、猫と戯れているとある人物も同じ環境状況に置かれているのだろうか?
 道の隅と言っても、こんな人が多いところで堂々としゃがみ込むというのは余り出来るものではないと思うのだが、もしかするとオレの考えすぎなのかも知れない。少々人の目が集まっているようにも感じるが、オレはそれだけでは飽き足らず思わず足を止めた。

「……何してるの?」
「ん?」

 その道の隅でしゃがみ込んでいる人物というのは、ネイケルだったのだ。

「お前んちってこっちだったか?」
「いや、買い物の帰り……」

 手の内で転がっている猫をもて遊び、明らかに暇をしている貴族を前に思わず頭を掻いてしまった。

「貴族って暇なの?」
「暇だったらわざわざ隣街になんか来ねーって。あ、やべ……ちょっと待て爪引っ掛かってる」

 上着の裾に引っかかっているらしい猫の爪を優しく取り繕う辺り、ある程度猫の扱いに慣れているように見えた。家で飼っていたりするのだろうか?

「……猫好きだったんだね」
「別に好きってわけでもねーけど。勝手に寄ってくるっていうか」

 勝手に寄ってくるほどのマタタビでも密かに持っているのだろうかと一瞬疑ったけど、好きでもないということは別にそんなことはないのだろう。実は好きだけど隠している、というようにも見えなくて、それが余計にオレの首を捻らせた。

「……オマエさぁ」

 特に意味の無い雑談が一通り終わったところで、ネイケルはおもむろに口を開いた。

「今この街で起きてるアレ、路地裏のヤツの犯人に会ったんだよな?」
「犯人?」
「アレだよ。アルセーヌさんと、あとアルベルさんだっけ……が駆け付けたっていうヤツ」

 アルセーヌとアルベルが駆けつけた、というと思いつく事案はひとつしかない。裏路地で知らない男に襲われた時の話だろう。
 正直なところレズリーの一件で記憶の彼方に行っていたのだが、そう問われると昨日のことのように思い出せてしまう。自分が思っているよりも印象深く、かつ強烈的だったのだろう。あれ以来ひとりで迂闊に裏路地には入らないようになった辺り、多分そういうことだと思う。

「そういえば、そんなこともあったな……」
「……忘れるようなことじゃなくね?」
「だ、だって……あの日から色々あったから……」
「色々?」

 そう口にすると、ネイケルは途端に猫に興味を無くし目をきょとんとさせた。てっきり知ってるものかと思っていたのだけれど、どうやらそうではないらしい。
 オレは、ネイケルに出来るだけ伝わるようにあの日に何があったのか説明することにした。広場で噴水を見ていたら誰も居ない街中に変わってたということと、そのいつもと違う風貌の街にある、とある路地を進んでいったらレズリーの家にたどり着き、レズリー本人に出会ったこと。そこで左手首にぶら下がっているブレスレットを貰ったこと。そして、その後家に帰る途中で通り魔に襲われたというところまで、何とか口にすることができた。どこまで伝わっているかは定かではないが、ネイケルはこの話に深く突っ込んでくるようなことはしてこなかった。
 余り大きな声で言えない話ばかりだからなのか、気づけばオレも道の隅でしゃがみこむうちの一人となってしまっていた。

「……お前それ、帰ってこれたの奇跡じゃね?」
「そ、そうかも……」

 ネイケルの感想を聞くに、どうやらちゃんと伝わっているかの心配は余りいらなかったようだ。余り考えたことはなかったが、確かに行方不明とかになっていてもおかしくなかったかも知れない。

「アルセーヌとかに聞いてないの?」
「そのなんとかさんに関してはどっちかっていうと部外者だしな。つか、オマエが思ってる程アルセーヌさんには会ってねーし」
「……ご飯は食べに行くのに」
「飯食うにも金かかるからなぁ」
「そ、そうだね……?」

 思わず肯定してしまったが、貴族の口から金銭の話が出てきても余り想像が出来ない。お前らが思っているより貴族は金がない、とネイケルに言われたとしても、簡単に信用するのは難しいというものだ。

「で、その路地裏で会ったヤツ。なんか言ってなかったか?」
「なにかって?」
「いや別に、何も言ってなかったならそれでいいんだけど」

 そうネイケルに問われ、何か言われただろうかと改めて記憶を思い返す。アルベルに助けられるより少し前のことを、オレは真剣に頭の中で何度も反復した。

「殺してくれ、とかなんとか言ってたかも……」
「……それ、人に向かって言う台詞かあ?」

 頭を掻きながら、ここにはいない人物に向かってネイケルはため息をつきはじめた。

「気になることでもあるの?」
「んー……」

 聞いてはいけないことだったのか、ネイケルの口から苦悶の声が漏れる。そもそもオレはどうしてネイケルがこの街に来ているのかを知らないのだけれど、何か関係があるのだろうか?

「その事件関連でアルセーヌさんのとこ行かねーとなんだけどさー……いや、別に行けって言われたわけでもねーんだけど」

 聞き馴染みのある名前をネイケルの口から聞いた時、内心どきりとした。

「ちょっとなー、あんまり行きたくねーっていうか」
「……喧嘩?」
「いっそ、喧嘩の方がいくらかマシだったな……」

 マジで行きたくねぇわ、と嘆くネイケルを見て、オレはどこか既視感を覚えた。……既視感というよりは、まるでつい最近のオレを見ているようだった。

「じゃ、じゃあさ」

 悪い言い方をすると、これはオレにとって少し好機ではないかと思った。

「オレと一緒に行こうよ」

 そう口にすると、ネイケルはオレの顔を呆けた顔で見つめた。今すぐにでも「何言ってんだコイツ」と言ってきそうな顔から、思わず目を背けたくなる。それを必死に堪え、オレはネイケルのことを視界に入れ続けた。


   ◇


 一旦家に帰って荷物を置いたオレは、ネイケルと一緒に街の中を歩いていた。店で一番最初に会ったローザおばさんに、もう一度出かけることはちゃんと伝えている。アルセーヌの家に行くというのも当然伝えた。すると、どういうわけか少し嬉しそうに「いってらっしゃい」と言われてしまい、すぐに気恥ずかしくなって軽い返事だけして早々に足を翻してしまった。
 店の外で待っていたネイケルと再び合流し、アルセーヌの家に着くまで間の会話は、オレがどうしてアルセーヌの家に一緒に行こうと言い出したのかという部分に注力された。

「……オマエって結構無茶すんのな」

 ある程度の説明が終わった後、ネイケルの感想は確かこんな感じだった。
 無茶というよりは、オレが意図していないことが起きただけなのにとんだ言われようだ。

「だって、気付いたら居たんじゃどうしようもなかったし……」
「いやそこじゃねぇよ」
「違うの?」
「クレイヴって図書館館長だろ? デカい街一番の権力の象徴じゃん。その館長に助けられるって結構ヤバいっていうか」
「そ、そうか……そうだね……」

 確かに、クレイヴという人物を「図書館の館長」という認識だとそうでもないように感じるのだが、「街の象徴である図書館を運営している貴族」となると途端に緊張が走る。今さらだが全く単純なものだ。

「その人来なかったら、オマエ今生きてるか分かんねぇもんなー」

 日常の片鱗となりつつあるせいで忘そうになるのだが、市民が貴族と話をするというのもおかしな話である。今日だって、隣街のとはいえ貴族であるネイケルと一緒に、これまた貴族のアルセーヌの家に行こうとしているのだ。

「……なんだよ」
「いや……貴族と普通に話してるのも相当おかしいなと思って……」
「んーまあ、それもそうだけど」

 イマイチ歯切れの悪い返事が返ってくるよりも少し前、ようやく見えたアルセーヌの家に思わず気を取られてしまったお陰で、少々会話がズレてしまった。そうだ、確かにあの時クレイヴが来てくれなかったら一体どうなっていたか分からない。……もし仮にオレに対処出来る力があったとしても、例外ではなかったはずだ。
 一般的な家というには少々大きすぎる家を前に、ネイケルの足取りがピタリと止まる。

「マジで入るのか……」
「そりゃ……。だって、その為にここまで来たんだし」

 オレがそう口にした途端、沈黙が辺りを走った。さてどっちがいの一番に行動を起こすのかという、様子を伺っている時に起こるそれと全く同じモノだ。

「に、逃げないよね?」

 だから思わず、オレはネイケルの左腕を鷲掴みにした。特別逃げることをしなかった腕を掴まえるのは簡単だった。どちらかというと、逃げる気すらも起きないくらいに脱力しているといったほうが近いかもしれない。

「いや逃げはしねーけど……。こういうの、適当に行くとか言うもんじゃねーな……」
「今ならノリと勢いでいけるって。ほら、すぐそこだし」
「いや全然ノってねーから。あー、今なら吐けそう……」
「そ、そんなのオレだって同じだよ。オレより歳上でしょ? 頑張ってほら、呼び鈴」
「歳上って言うほど歳も離れてねーだろ。ってかオマエが押せよ」

 呼び鈴を押す押さない、言い換えればここまで来ておいて逃げる逃げないのやり取りを数回ほど繰り返す。一体ここで何分の時間を使ったのだろうか? そう思うくらいだったが、きっと一分も経っていないのだと思う。

「あのー……」

 どこかで聞き覚えのある声の方向は、どうやらオレらへと向いていたらしい。

「そろそろ退いて欲しいかなあ、なんて」

 両手で荷物を抱えたリアの顔は一応笑っていたが、言うまでもなく困っていたのだろう。こんな道のど真ん中で、しかも人の家の前で騒ぎ立ててしまっていることに、声をかけられてようやく気づく。

「というか……」

 少し言い辛そうにしながらも、リアの口は動くことを止めない。

「アルセーヌさん、お二人のことずっと見てたみたいですよ」

 リアの視線が向いた先は、アルセーヌの家の二階の小窓だ。窓の縁に腕を置き体重を任せていたらしいアルセーヌは、オレらが気づいたというのを確認するとひらひらと手を振って見せてきた。

「悪趣味……」

 それを見たネイケルに悪態をつかれているというのを、きっとアルセーヌは知らないだろう。

「……どうします?」

 一応意思を確認してきたリアの言葉に、オレとネイケルは気づけば顔をあわせていた。


   ◇


「いやあ、人の家の前で随分と楽しそうに騒いでいるなと思ってね。いつまでやっているつもりなのかとつい眺めてしまっていたよ」

 アルセーヌの声に紛れて、廊下の上を歩く時の僅かに擦れる音がやけに脳裏に響く。もう何度も見たことのある景観のリビングと、すっかりと見たことのある人達という認識が産まれてしまっている。果たしてそれがいいことなのか悪いことなのか、オレにはよく分からなかった。

「知らない間に、仲良くなったみたいだね」
「な、仲良くはないと思うけど……」
「仲良くはねーよなぁ」

 二人で発したそれに当てはまるであろう言葉は、アルセーヌの認識と一致することはなかった。ネイケルがどう思っているのかは分からないが、仲がいいというのとは少し違う気がしてしまったのだ。

「さて、キミたちが何をしに来たのかが気になるところだけれど、そもそも話す気はあるのかな?」
「オレは全然ねーけど」
「そうか。じゃあ、少なくともキミはホットケーキを食べないで帰るんだね」

 この状況には少しそぐわない「ホットケーキ」という単語に、急に気が緩くなってしまったのがよく分かった。せっかく緊張感を持っていたのに、台無しになってしまったような気がした。

「作ろうかなぁって思って、材料買ってきた帰りだったんですよ」

 沢山の荷物はそのせいだったのかと合点がいったのもつかの間、リアは荷物を持ったまま隣の部屋へと向かった。「ちょっとだけ待っててくださいね」最後にそう付け加えて、あっという間に姿を消してしまった。

「……どうする?」
「食べまーっす」

 問われたネイケルの答えは即答だった。考えたのかどうかも怪しいくらいだ。

「キミは?」

 質問の矛先は、いとも簡単にオレに向かっていった。何も答えることをしないのだから当然といえばそうなのだろう。

「食べる……」

 ここで断るなんていうのは、出来るわけがなかった。

「さて、リア君が準備をして居なくなっている間に言いたいことがあるなら今のうちに言っておいた方がいいんじゃないかな。特にそこのキミ」
「オレ? まあ……」

 さてどうするかとネイケルが視線を反らしたのもつかの間、ここでようやく真面目な面持ちになった。分かってはいたものの、なんとなくネイケルが貴族であるというのを改めて見せつけられたような、そんなそんな感覚だった。

「やるならもうちょっと真面目にやれってロエルさんに怒られた、ってことだけ言っとくわ」
「彼が……? ということは、ここに来た後に会ったんだね」
「ほんとにアルセーヌさんのところに言いに行くとは思わなくてさ」
「それはキミの失態だね。思っているよりも律儀で怖いよ、彼は」

 聞き覚えのないロエルという名前が、よく耳についた。オレがまだ会ったことのない貴族の名前なのだろうか? そうだとするなら、もしかしたらどこかのタイミングでばったりと出会うことがあるのかも知れないと思うと、会ったこともないのに少しばかり背筋が伸びる。どうやら気難しい人であるというのだけは伝わってきたのだ。

「まあ、今はこれ以上聞かないことにするよ。今長い話をされても困るからね。……キミはどうする?」

 アルセーヌの標的が、するりとオレに移り変わった。なんだか貴族にしか分からないような話だったような気がするのだけど、ものの数分で終わらせて本当に良かったのだろうか?
 見慣れているはずなのに、やはりアルセーヌの視線がこちらに向くと少々言葉に詰まる。成り行きで来たとはいえ、今日は聞かないといけないことがあるからここまで足を運んだのだ。いい加減、腹を括らないといけない。それなのに、やはりオレの口は閉じていたくて仕方がないようだ。

「……オレ、ちょっとリアちゃんのとこ行ってくるわぁ」

 いそいそと、さっきリアが向かった先へと足を進めていく。電光石火とまではいかないが、その行動は呼び止める隙もないものだった。

「気の使い方が分かりやすいね」肩をすくめ、アルセーヌは苦笑いをした。

 さてここからが本番、という声が聞こえてきそうなくらいに、アルセーヌはオレのことを見つめている。

「今日は、一体何しに来たんだい?」

 そこに威圧感のようなものはなく、どちらかというと優しさすら感じてしまう。そう思ってしまうのは、オレがこの状況に少なからず慣れてしまったからなのか、それともアルセーヌが本当にそういう振る舞いをシテイルのか、もはや見当がつかなかった。

「……アルセーヌってさ」

 だが、それが余計にオレの口を開かせた。もう今さら逃げる余地なんてないと、そう思ったのだ。

「オレとの始めましては、路地裏のあの時じゃないよね?」

 今度は、オレがアルセーヌのことをしっかりと見据える番だ。

「……それを聞くということは、何か思うことがあったのかな?」

 オレの質問を聞いてもなお、アルセーヌは表情一つ返ることをしなかった。
 ごく僅かな沈黙の中で何を思ったのかは計り知れないが、オレはといえば内心気が気じゃなかった。アルセーヌにはバレているのかも知れないが、そんなことはもうどうだって構わないだろう。

「オレ、アルセーヌとの約束破ってこの前またレズリーの家に行った。……ごめん」

 その前にひとつ、オレはまず言わなければならないことを口にした。押しかけるだけ押しかけて自分の否は後回し、というのは余りにも自分勝手で嫌だったのだ。

「そこでその……なんていうか、昔あの家で起きたことが見えて……」

 しかし、あの家でオレが見たということをどうやって伝えればいいのかが分からなかった。あの時のことを思い出したというだけだったらそれでいいのに、この場合はそうじゃない。せっかくここまできて言わなきゃいけない状況に晒されたのに、言葉がちゃんと掴まってくれなかった。

「……起きたこと、隠さないで全部言ってごらん? 考えるのはその後にしよう」
「で、でもオレ……あんまり上手く言えないっていうか……」
「別に上手く言わなくていいよ」

 はっきりとした口調に、おれは思わず驚いてしまった。説明しないといけない側が上手く説明出来無いだなんて、ただの時間の無駄なはずだ。

「私は、キミの言葉で何があったのかを聞きたいな」

 それなのに、アルセーヌはそんなこと知ったことではないと言い切ったのだ。それが、僅かにオレの緊張を落ち着かせる要因となった。こっちにおいでとオレを招き、アルセーヌがソファーに座る。オレは当然のようにアルセーヌの向かいに座ろうとした。

「そっちじゃなくて、隣においで」
「と、隣?」
「うん。嫌?」
「嫌じゃないけど……なんで?」
「なんで、か。そうだな……」

 アルセーヌは顎に手を当て、考えるフリをした。

「私がそうしたいからっていうのじゃ、理由にはならないかな?」

 答えになっていないね。そういって笑みを見せるアルセーヌに、もはや緊張感のようなものは全く感じられない。その様子にいつかの既視感を覚え始めたのが気のせいでなければいいなと思ったというのは、内緒にしておくことにした。


   ◇


「失礼しまーっす」

 そそくさとアルセーヌさんとシントの前から姿を消したのは、決してあれ以上何か余計なことを言いたくなかったからとかいうそういう話ではない。

「ど、どうしたんですか? 向こうで待ってればいいのに……」
「居ない方がよさげだったから逃げてきた」

 一応、気を遣うという概念は持ち合わせているのだ。
 彼女がさっき両手で抱えるようにして持っていた紙袋は、既に小さなテーブルの上に置かれている。テーブルの上にはその袋の中から買ってきたモノが幾つか置かれているようだったが、どういうわけか色とりどりのジャムばかりが陳列されていた。

「シント君と一緒に来るだなんてだ思ってませんでした」
「……アイツに会わなきゃ来なかったよ」

 確かにオレはアルセーヌさんの家に行くかどうか迷ってはいたものの、誰にも会わなければ行くことはしなかっただろう。それが悪手だと分かっているからこそ、行く気も更々無かった。

「アルセーヌさんとお話出来ました?」
「まあ……多少は?」
「本当ですか? 怪しい」

 どちらかというと、相手がシントだったから来たというのが説明としては正しいかも知れない。アイツも色々言ってはいたが、アルセーヌさんの家に一人では行きにくかったのだろう。あそこで突き放してしまっても別にオレにはなんのデメリットはなかったのだが、なんというか、少々魔が差したのだ。
 通り魔だ事件だと言ってはいるが、アルセーヌさんが一番気にかけているのは、どうせ十年前の事件だけなのだから。

「……ロエルさんって方、堂々と兄の話持ち出してくるから驚いたんですよ?」
「マジ……?」

 ロエルさんがここに来たというのは知ってはいたが、まさかリアちゃんの方からその話を持ち出してくるとは思っていなかった。しかもそんなことを口にするということは、恐らくその場に彼女も居たのだろう。それは流石に予想外だった。

「……ごめん」
「ど、どうしてネイケルさんが謝るんですか?」

 おかしな人、と笑って見せる彼女は、まるでオレに喋る隙を与えないかのように続けざまに話を始めた。

「兄が事件を起こしたのは事実だから、別にいいんです。それに、ロエルさんはネイケルさんが思ってるよりもいい人だと思いますよ」

 一体どうしてそこまでロエルさんに対する賛歌の言葉が出てくるのか、正直なところ全く分からない。肉親が殺人を犯したという類いの話があっただろうに、どういうわけか表情を落とすことをしないのが不自然極まりないのだが、それを不自然と思わせてこないのは、恐らくオレを目を合わせることをしなかったからだろう。
 これだから貴族は、なんて思われそうな状況だっただろうに、しかしロエルさんが考えなしに彼女にその話をするとも思えない。その行動理由がどこにあるのかまでは知らないが、ロエルさんは事件とオレのことを考えたうえで発言をしている人であるということは、ここに来るまでの間によく理解した。そう思うくらいに、オレはあの人に怒られた。怒られた、というのは言い過ぎな気もするが、多少の私念が混じるのは致し方ないだろう。

「全部、ちゃんと解決してくれればいいなぁ」

 いつかの未来、たったひとつの結末をこの人物は今か今かと待ち構えている。それはどちらかというと懇願に近かったのだろう。オレだって、出来れば最悪な状況で終わらせたくはないし、早く終わらせてしまいたいとは思っている。しかし、そうもいかない現実がこの世界には存在するというのも事実だろう。
 貴族が介入する事件の解決という概念が一体どういうものなのか、この女人は恐らく知らない。

いいね!