カラカラと、店の扉が開かれる音がする。客が訪れた合図に、その場にいたオレとおじさんは示し合わせたかのように音のする方へ顔を向けた。
「……こんにちは」
「え……?」
そして、間抜けな声をいの一番に口にしたのはオレだけだった。
「靴、探しに来ました」
もうすっかりと見慣れてしまったアルベルが、ひとりで店を訪れたのだ。
「な、なんで……?」
「前、今度は客として来るって言ったでしょ? 覚えてない?」
「覚えてるけど……」
覚えてはいるけど、本当にそれが目的で来るとは到底思っていたかったのだ。あんなのただの世間話のうちのひとつで、別れ際に「また会おうね」と言うようなものだと思っていた。それも貴族と市民の会話なのだから、オレじゃなくたってそう簡単に鵜呑みになんかしないだろう。
「……あんた、もしかしてノーウェン家の貴族さんか?」
オレとは違い、おじさんはアルベルをすぐに貴族だと認識した。少し驚いた顔を見せたものの、すぐにいつものおじさんへと戻っていく。
「まあ……一応そうなりますね」
「ふーん、そっかそっか……」
オレとアルベルのやりとりを見たおじさんは、何を思ったのか頭をかきながら考えあぐねているらしい。
それを見て、これは少しまずい状況かもしれないと心なしか焦っていた。オレがどうして貴族と知り合いなのか、どうして貴族がオレを訪ねてきたのか、貴族が訪ねてくるほどのことがあったのか。その答えに値することを、オレはおじさん達に一切話していないのだ。もしこの場で問われたら、オレはきっと黙りこくってしまうだろう。
「俺ちょっと用事思い出したわ。ってことで、ふたりで適当にやっててくれ」
「え、ちょっと……おじさん?」
しかし、思いの外あっさりとした口振りに思わず驚きを隠せなかった。言及されては困ると思っていたにも関わらず、思わず呼び止めてしまったのだ。
「じゃ、どうぞごゆっくりー」
オレの声なんてまるで聞こえていないとでもいうように、さっさと持ち場から離れ、レジ奥の扉を開けて去っていってしまう。扉が再び閉じられたのを確認し終わると、再びアルベルと目がばっちりと合った。
「……気、使われちゃったね」
小さく肩を竦めながら、アルベルはオレのいるレジの方へと僅かに距離を詰めた。
「で、靴なんだけど」
「えっと……本当にそれだけの為に来たの?」
「そうだけど?」
靴屋に来たんだから当たり前じゃないか、とでも続きそうなトーンに、オレは更に困惑した。その様子を見たアルベルは「嘘は言わないよ」と付け足し、更にこう口にする。
「僕に合う靴、教えて下さい」
アルベルのその口振りに、オレは思わず息を飲んだ。
「ちょ、ちょっと待って……!」
引き出しの奥の方に縮こまっていたメジャーと、名簿とペンを手に持って、別に誰に急かされているわけでもないのにアルベルの元へと急いでいった。
「……わざわざ測るの?」
「だってご新規さんだし……」
「ご新規……まあそうか。うん、じゃあ任せるよ」
当初の靴を探しに来たという目的の為に、一応はアルベルの靴のサイズを測ることにする。それが例えオーダーメイドでなくても、客のサイズは知っておくと後に楽なのだと、おじさんは良く言っていた。
「アル……アルベル……の、のー……なんだっけ」
「……僕書こうか?」
「うん……」
手に持たれていたペンが、アルベルの手元へ移る。いい加減、貴族の名前くらいは覚えておこうと心に決めた。
◇
「……え、またレズリーさんのところに行ったの?」
「行ったっていうか、行っちゃったっていうか。気付いたら辿り着いてたっていうか……」
メジャーは既に地面に置かれたまま、名簿には幾つかの客人と、一番下にはアルベルの名前が書かれている。名前の隣、枠線のすぐ傍には、二十と半分を超えた数字が書かれていた。
客人用の、靴を履き替える時の背もたれのない椅子にアルベルが座り、オレはというと椅子に座ることはなく、しゃがむだけの行儀の悪い座り方をしている。お尻がついていないだけまだマシだろう。
「……今、父さんと母さんが居たらどうなってたかなぁとか、考えてた」
靴屋という形を辛うじて取り繕ったはいいものの、おじさんの居ない空間の中、知り合いがそこに居るとなると、すっかりと雑談をする空間となってしまっている。
「そうやって考えたことなんて、今まで無かったんだけど……。思い出したのが良くなかったのかな」
行き場の無くなったペンは、オレの手元で弄ばれていた。
「……良くないことは、ないと思うな」
下を向いていたオレは、そう口にしたアルベルを思わず視界に入れる。落ち着きのなかったペンの動きは、自然と止まっていた。
「だってシント君、最初に比べたらかなり変わったよ?」
「そ、そんなことないと思うけど……」
思ってもみなかった言葉に、オレは思わず目を泳がせる。果たしてどうしてアルベルがそんなことを思ったのかもよく分からないし、何より当の本人に自覚なんてあるわけがなかったのだ。
「少し前のシント君だったら、僕にそういうこと言うのかなぁって考えたら、やっぱり変わったんじゃないかな。ああえっと……悪い意味じゃなくてね」
「……よく分かんない」
そういって適当に投げ出してしまうが、しかしアルベルの言っている意味が本当に分からないのか、それともどこかで自覚していながら気付かないフリをしたのか、自分でも全く検討がついていない。
確かに、いくら知り合いの貴族が訪ねてきたからといってペラペラと喋るような話ではなかっただろう。それに、今は客がいないからいいものの、いつ誰が来るかも知れないし、いないフリをしておじさん達が聞き耳を立てているなんてこともあるかも知れない。最も、後者に関してはそんなことがあるとは思っていないのだが。
「アルセーヌさんには、まだ言ってないんだよね?」
「うん……やっぱり、言ったほうがいいかな……」
「言った方がいいんじゃないかなあ……。そうやって迷ってるってことは、何かあったんじゃないの?」
アルベルに答えを求めていたわけではないのだが、結果的に一番気がかりだったことへの問いが返ってくる。更に疑問を問われてしまって、オレはどうしたもんかと答えを考えに詰まっていた。アルベルは無理やり聞き出そうとかつついてきたりはしないけど、それが余計オレの頭を悩ませたのだ。
「……オレ、昔アルセーヌに会ったことあるんだって」
アルベルは、オレとアルセーヌが知り合いであるというのは知っていたのだろうか?
「アルベルは知ってた?」
だとしたら、誰もが意図的に言わなかったということになる。どちらかと言えば、寧ろそっちの方が無理矢理納得することも出来た。
「知ってたわけじゃないけど……多分、そうなんだろうなとは思ってた」
しかし、どうやらそれは期待するだけ無駄らしい。
「アルセーヌさんが昔レズリーさんの家によく行っていたっていうのは父から聞いてたし、事件のことは知ってたから。一回くらいは会ったことあるんじゃないかなとは思ってたよ」
「……ふうん」
「疑ってる?」
「あ、いや……そういう訳じゃなくて……」
そう問われてしまったのは、オレの返事がから返事に近かったからだろう。決して適当に聞いていたわけでもなく、疑っている分けでもない。聞いておいてなんだが、例えばこの時アルベルが知ってたと答えてもこんな感じだっただろう。
これに関してはアルベルに落ち度があるわけがなく、これはオレの気持ちの問題だ。まるで自分だけが今まで何にも考えていなかったかのような、酷く居たたまれない気分になったのだ。
「言わなかった理由、きっとオレにあるのかなって思って」
しかしそれはあながち間違いでもないのだから、言い訳も否定も出来はしない。
「……それも、ちゃんと聞いてみたらいいんじゃないかな。気になるんでしょ?」
「でも……」
確かにオレが気になっていることは幾つかあるのだが、果たしてアルセーヌはどこまで答えてくれるだろうか? それにオレは、アルセーヌとの約束をひとつ破ってしまっている。
「レズリーの家、ひとりで行っちゃ駄目って言われてたんだけど、怒られないかな……」
「怒らないよ。アルセーヌさん優しいし」
「そ、そうかな……」
そう尻込みこそするものの、アルセーヌにはちゃんと伝えておくべきだというのは理解している。聞くよりも前から分かっていたつもりだ。
しかしそうは言っても、果たしてどういう顔で会いに行けばいいのか分からないし、レズリーの家にひとりで行ってはいけないと釘を刺してきた人物に、レズリーの家にひとりでいきましたと白状しに行くうえ、更に聞きたいことがあるだなんて押しかけに行くには、それ相応の胆力が必要なのである。
「……ひとつ、聞きたいんだけど」
一通りの話が落ち着いたすぐ後、今度はアルベルが口を開いた。
「君は、レズリーさんが亡くなったと聞いた後で彼を前にした時、どんな気持ちだった?」
「え……?」
突然の、聞かれるとは到底思ってもいなかった質問に、オレは尚更頭を悩ませた。それを例えばアルセーヌに聞かれるのならまだ分かるのだが、相手がアルベルだから余計だった。
「……本当に、もういないのかなあって」
これは考えて出した結論というよりは、最早感覚に等しいものだ。
「だって普通に喋れるし、触れもした。アルセーヌも……クレイヴだって普通に話してたんだよ? レズリーは幽霊とは少し違うっていうのは、クレイヴから聞いたけど、でも……」
どちらにしても、レズリーは十年前にこの世から居なくなった人物であることには変わりない。揺らぐことのない事実なのだ。
「そんなこと言われても、あんまり実感湧かないかな……」
だがそれでも、どういうわけか余り信じたくない気持ちの方が僅かに上回ってしまっているのが本当のところだろう。完全に会うことが出来なくなって、それでようやく理解する類いのものなのかもしれない。
「……そっか」
「それがどうかしたの?」
「いや、ならいいんだ。うん。そうだよなあって思って」
「何かあったの……?」
「……どうして?」
「いや、ないなら良いんだけど……」
「ないよ、何も。それより――」
何処か遠くの、見えない空間をアルベルがふと見据え始めた。なんとなくはぐらかしているように見えたのは、オレの考えすぎだろうか?
「さっきから甘い匂いがするね」
「ああ、多分……」
続く言葉を口にするよりも前に、ガラリと扉の開く音がする。すると、レノンが顔だけ覗かせてきた。
「お兄ちゃんっ」
オレが居るのを確認しこちらへと向かってくる様子は、どこか浮き足立っているように見えた。
「あのね、やっとクッキー焼けたの。出来立てだよ」
「ああ、だからか……いい匂いだよね」
店の中にまで入ってきている匂いに納得しつつ、誰にいうでもなくアルベルは独り言を口にした。
「えっと、えっとね……」
何かその他に言うことがあるようなのだが、どうにも歯切れが悪く、何故かレノンはオレの後ろに身を隠しはじめた。いや、オレはしゃがんでるし全然隠れていないのだが、きっと本人からしたら隠れているつもりなのだろう。
「おにーさんも一緒に食べませんかって、お父さん言ってたよ」
お兄さんというのは、オレのことではなくアルベルであるというのはすぐに理解が出来た。だが、当の本人はあまりピンときていないらしい。
「……え、僕?」
オレとレノンの視線がアルベルに向くと、まるで意外とでも言うように目を丸くした。靴を探しに来た、から始まってクッキーを食べさせられそうになるとは思っていなかったのだろう。
「……いいんじゃない? 行こうよ」
「えぇと……」
頭をかいて少し困っているようだったが、最終的には「じゃあ、お邪魔しようかな」と言ってくれた。恐らくは、オレではなくレノンの視線に耐えられなかったのだろう。
「じゃあ行こっ! 早くしないと冷めちゃうよ」
「そ、そんなすぐには冷めないと思うけど」
オレの手をむんずと掴んでくるレノンは、どういうわけか何だか少し嬉しそうだった。
◇
「ぼく、貴族のひとと話すのはじめてなんだあ」
シントくんの家に足を踏み入れてからというもの、レノンという少年に僕はすっかり捕まってしまっていた。十も離れた年下と話すなんて、身内にいない限り機会はそう多くない。正直上手く立ち回れるか自信はないのだが……。
「ここにあるやつね、ぼくとセリシアが作ったんだよ」
「へえ凄い。上手だね」
そう口にすると、レノン君が照れながら満面の笑みを向けた。どうやら思いのほか良好な関係値を保てているらしい。
「おにーちゃ……これあたしがつくったのっ」
「え? ああ、うん」
シント君の返事は、誰が聞いても完全に上の空だった。適当に話を聞き流すような人ではなかったように記憶しているけど、僕の見当違いだったのかも知れない。それとも、身内に囲まれているから気を抜いているのだろうか? それか、アルセーヌさんについて余計に考えすぎているという可能性もあるだろう。どちらかというと後者ではないだろうか。
シントくんは、小さなセリシアという少女に差し出されたクッキーを適当にひとつ取り、口の中へと放る。目をキラキラさせる少女とは裏腹に、まるでお菓子を食べながら難しい問題を解いているかのように黙ったままだ。
「……美味しくない?」
「いや、そうじゃなくて……」
薄いリアクションに店主の奥さんが問いを投げると、シント君の言葉は尚更ピタリと止まってしまう。クッキーを食べながら、一体何を考えているのかとこちらが悩んでしまうくらいだ。
「母さんの作ったクッキーも、食べたことあったよなあって思って……」
このシント君が口にした言葉で、店主とその奥さんの目の色が途端に変化した。しかし、これは決して悪い意味というわけではないだろう。どちらかというと驚嘆に近いものであるように感じた。
「な、なに?」
「あ……ごめんね、何でもないの。ただ、その――」
店主の奥さんからは、果たして言っていいのだろうかといった類いの間が空いたように感じ取れた。それが例えば、普段はいないはずの僕がこの場にいるから言うに言えないということだったら、そっちの方がまだマシだっただろう。
「シント君の口からそういう話が出るの、はじめてだったから……。だから、驚いた」
でもどうやら、僕が思っているよりも中々に根が深い問題のようだ。
こういう空気になるということは、恐らく本当に普段はその類いの話をしないのだろう。だとするなら、さっき僕と話したようなこともかなり珍しいことだったのかも知れない。
「そ、そうだったかな……」
本人にその自覚はなかったのだろう。我に返ったのか、シント君の顔が急に熱をおび始めあっという間に耳まで真っ赤になった。きっと全員の視線に耐えられなくなったのだろう。まるでこれ以上余計なことは言わないという意思表示のように、小さなクッキーをつまみ上げ口に放り込んだ。
「美味しい?」
「……うん」
ただそうは言っても、レノン君の問いには答えるらしい。はじめて返ってきた肯定の言葉に、レノン君はほくほくと笑みを浮かべた。
「なあちょっと、お前さん」
皆とは少し離れたところにいた、この店の店主であろう人物が僕を手招きしている。正直余り乗り気ではないのだが、ここで断るわけにもいかず少々足取りを重くしながら店主が座っている場所へと足を動かした。輪に入ることをしない店主も、これまた何か思い馳せているらしい。
「お前さん、アルセーヌから聞いてんのか? シントのこと」
一体なんの話かと思っていたが、まさか間髪入れずに単刀直入に聞いてくるとは思っていなかった。それに、店主からアルセーヌという名前が出たことも驚きのひとつに加算される。店主の口ぶりからして会ったことがあるのだろう。その理屈は分かるのだが、市民の口から貴族の名前が出てくるという状況に、少々緊張が身体を走る。
「多少は、ですかね。そんなに多くのことは……」
「ふーん……。今日はなんだ? 偵察か?」
「ち、違いますよ。そんなことしたらアルセーヌさんに怒られます」
この人から敵意のようなものは余り感じないが、僕が本当は何をしにここに来たのかが気になって仕方がないらしい。確かにこの状況、貴族が市民に会いに来るなんて偵察でもしに来たんじゃないかと見られても不思議ではないだろう。
「単純に、僕が気になっただけです」
「……ま、何でもいいんだけどよ」
僕の言葉を信用しているのかいないのか、店主は適当に返事を返し、改めてシント君を視界に入れているようだった。
偵察ではないということくらい断じて否定しておけば良かったかも知れないが、しかし今の状況でそんなことをしたら一層疑われるかも知れないということを考えると、それ以上の言及は出来なかった。
「別に偵察だろうがなんでもいいんだけどよ、ひとつ教えてくれよ」
再度、店主は偵察か否かはどうでといいと前置きをした。どうやらここからが本題らしい。
「最近になってシントがわりと出歩くようになったのは、カルト達のやつと関係あるのか?」
そして、さっきから薄々勘づいていたことが確信に変わったのは、この店主の言葉である。
「……何も聞いてないんですか?」
「気使ってるんだろうな。本人にそのつもりはないんだろうけど。ここに来てからずっとそうだよ、あいつは」
細かいところは置いておくとして、貴族と会ったという話くらいはしているのかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。だとするなら、ここで変に嘘をつくのは余り得策ではない。
「全く関係無いっていうのは……嘘になると思います」
「だろうなぁ……。ああいや、それは別にいいんだけど」
自分に言い聞かせるように、店主は一度口にしたことを否定した。
「いつかそうなるってのは分かってたし、あいつがカルト達のことについて調べるってのは当然だと思う。ただ、何も言われないってのもちょっとな。だからと言って無理に聞くことはしないけどよ」
続けて口にしていく言葉の数々に、僕は思わず今までとは比べ物にならない程に耳を傾けてしまう。
「……その辺り、どうやっても血の繋がった家族っていう枠にはなってやれないんだよなって、痛感するよ」
そう口にしながら、恐らくはシント君のことを視界に入れ、かつ過去に起きた出来事と、これから起こり得る未来を見据えているような眼差に、思わず僕の思考にも影響が及ぶ。
ここまで考えてくれている人が周りに一人でも居るというのに、当の本人がそれに気づいていないらしいというのは些か問題だろう。境遇を考慮したとしても、この状況がこれから先も続いてしまっては余りいい結果にはならないはずだ。
「さっきのも、きっと何かあったから口にしたんだろ? ……いや、お前さんがいるからかもな」
「ぼ、僕は別に何も……。アルセーヌさんについて歩いてるだけで」
「そんなことも無いだろ? 関係無いヤツの前であんなこと口にするような奴でもないし」
店主はそうやって言うが、僕自身彼に何かをしたわけでもなければ、シント君に信用されるようなことをした覚えはない。きっと、シント君がレズリーさんの家に行って間もない時にたまたま僕が店に来たから、丁度悩んでいて都合がよかったからというだけの話だろう。それ以外の理由なんて、あるわけがない。
それが一層、僕の機嫌を損ねる原因となった。
「貴族とかそういうの関係無しに、仲良くしてやってくれな」
それなのに、この店主は僕にとんでもない役目を突き付けてくる。そんな役が果たして僕に勤まるのだろうかという疑問は、最早浮かぶことは無い。
僕にはそんなの、似合うわけがないのだ。
◇
焼かれたクッキーが三分の一程度減ったくらいの時、アルベルがそろそろ帰ると言って店を後にした。レノンは少しばかり駄々をこねていたけど、アルベルが「また来るよ」と口にしたことでそれは比較的早く収束した。
アルベルが帰る少し前にマーティスおじさんと何かを話していたのが多少なりとも気になっていたのだけど、一体なんの話をしていたのだろうか? そもそもはおじさんがアルベルを招いたわけだし何か話したいことがあったのかも知れないが、少し考えたくらいではその答えに辿り着くことはなかった。
カラン、と少し遠くのほうから店の開閉音が聞こえてくる。
「ま……待って!」
その音を聞いたのを皮切りに、どういうわけかオレはアルベルの後を追ってしまっていた。
オレの声なんて既に聞こえてはいないだろうが、それでも思わず声は大きくなった。既に誰もいない店の中を通りすぎ、思い切り扉を開ける。それに気づいたアルベルが少し驚いた様子でこちらを見ている様を見て、ようやく落ち着く準備が出来た。
「どうしたの? 忘れ物……はしてないと思うけど」
「いや、そうじゃなくて……」
考えなしに呼び止めてしまい、ここでようやくどうしてオレがアルベルを呼び止めるに至ったのかを考えた。
「えっと……やっぱり、何かあったんじゃないの?」
「……どうして?」
「だ、だって……」
確信があるわけではないし、否定されてしまえばそれまでなのだが、本当に靴を探しに来たというにはアルベルの行動が余りにも不確定で違和感だらけだったのだ。
だってこの人は、あの店に来てから自分の靴以外の靴に触れていない。本当に靴を探しに来たというのなら、並べられている靴に多少なりとも興味も示してもいいはずなのに、それは一度も起こらなかった。目的の靴が無かったにせよ、一度くらいは店にある靴を目で追うくらいのことをしてもおかしくないのに、それすらもしなかったのだ。
オレが変な話をしたからそれが出来なかったというのならそれこそオレが悪いのだが、それが本当だったとしても、一言くらい言及があっても良さそうなのにそれがなかった。そしてこれだけでは飽き足らず、もうひとつ気になったことがある。それは、アルベルが口にした「死んだと言われているレズリーに会ってどう思ったか」ということだ。
話の流れからしていう程おかしなことではなかったかもしれないが、その質問をアルベルの口から聞くというのがどうしても不思議で仕方がなかった。
「大丈夫。僕は大丈夫なんだ」
いつものような笑顔を振りまくアルベルは、本当にこれまでとなんら変わらなくオレの目に映っている。だからこそ、アルベルほど何を考えているのかが見えにくい貴族は居ないかもしれないと、この時初めて思った。
「というより、自分の心配したほうがいいんじゃないかなぁ」
「で、でも……」
余り詮索をされたくないのか、アルベルは自分のこととなるとすぐに話を別の方向に切り替えようとする。それを誰よりも自然とやってのけてくるせいで、一瞬で振り出しに戻されてしまった。
「店主の人、心配してたよ」
「え……?」
アルベルのこの一言のせいで、それ以上何を聞くことも許されなくなってしまった。
店主、というのは恐らくおじさんのことだろう。それは分かるのだが、心配という言葉に理解が追いつくのに時間がかかった。
「アルセーヌさんにっていうのもそうだけど、お世話になってるんならちゃんと説明しておかないと。別に全部言えってわけじゃないけど、何処に行くかくらいはさ」
一体どうしてアルベルにそんな話が降ってきたのか、どうしてアルベルがオレにそんなことを言うのか、実の正直混乱していてアルベルの話が余り頭に入ってこない。つまり、アルベルがさっきおじさんと話していたのは大方オレについてのことで、おじさんはそれを聞きたくて偶然居合わせたアルベルを呼んだということなのだろうか?
おじさん達に何も話していないという罪悪感と、それについて提言されたことで初めてことの重大さに気付いてしまう。そうだ、オレは自分が外で何をしているのかはおろか、誰と会うのかも行き先もなるべく濁していた。
出来ることなら知られたくないと、そう思っていたのだ。
「実はこうだった、ああだったにいい思いはしないってこと、シント君はもう知ってるでしょ?」
優しい言い方は相変わらず、それでもどこか怒っているように見えたのは、きっとオレが気付いていないところで心当たりがあったからなのだろう。
「じゃあね」
夕暮れ時の、茜の空が街に落ちてくるのを感じながら、オレはそれ以上アルベルに近づくことが出来ずにぼうっとしてた。
なにか、いつもと違うアルベルが確かにここに居るような気がするのだが、その原因がわからない。その理由を突き止めないといけないような気がするのに、今のオレがそれをやってしまってはただの駄々をこねるだけの子供になってしまう。
「……ま、また来るんだよね?」
それでもひとつ、レノンがアルベルに言った、また来るという言葉を思わず反復した。一番最初、アルベルが「今度は客として来る」と言った時は正直嫌だったけど、今日こうして足を運んでからその類の感情に苛まれることもなく、更には次も来るのかと返事を催促してしまった。しかし、その返事が返ってくることはなくアルベルは笑顔だけを置いて再び足を翻していく。
少し赤みを帯びた影の中、そのさまは言い訳の余地がない程にオレの目には綺麗に映っていた。
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店の開閉音は、オレの耳に入ってくるということはなかった。考え事をしていると、どうしても周りの音への意識が低くなる。こういうの、貴族だともっと上手く周りを把握出来たりするのだろうか? それとも単純に、オレの意識が低いだけなのかもしれないが。
「……帰ってきて早々に浮かない顔してるな」
皆のところに戻ると、いの一番に声をかけてきたのはおじさんだった。
「……ちょっと、怒られただけ」
「怒られた? 怒るっていうようなタイプにも見えなかったけど」
「怒られたっていうか……」
アルベルに言われたことを、もう一度思い返す。そう、アルベルは確かに怒ってはいなかった。怒ってはいなかったのだが、余り物事に口出しをしてこないアルベルがあそこまで言うということは、少なくとも機嫌がいいわけではなかったはずだ。
ああやって言われるようなことをしてしまっているというのは、流石にもう自覚している。
「ちゃんと説明しておけって言われた」
だが、それにしても遅すぎたのだ。
「世話になってるんだから、そこはちゃんと言わないと駄目だって」
おじさんとおばさんの少し驚いた顔は目に映ってはいたものの、それを余所にオレは更に言葉を進めていった。
「でも、何をどうやって言ったらいいか分からなくて……」
こんな説明で何がどう伝わっているのかは分からない。どちらかと言うと、頭の中を整頓するための独り言に近かっただろう。突然訪れたちゃんと話をしないといけない機会に、頭がついていかなかったのだ。
自分で作り上げた沈黙に逃げ出してしまいそうになるのを必死に堪え、オレは次の言葉を探している。
「……シント君が言いたくないなら、それで構わないんだよ?」
そんなオレを前に口を開いたのは、ローザおばさんだった。
「私たちじゃ、シント君の考えてることの助けにはなってあげられないから……」
「そ、そんなことないよ!」
オレにしては珍しく、と自分でも思う程に、この時ばかりは全力で否定をした。
「沢山、助けてもらってるよ」
驚くほどにすんなりと、しかし正確に発せられた言葉は、紛れもなくオレ自身の正確な感情だった。
オレがこの家にいるのは、きっと両親が二人の知り合いだったからというある意味での慈悲がそこにはあったのかも知れない。しかし、例えそうだったとしてもこの家じゃない場所でオレが暮らしていたらどうなっていたか、まるで想像がつかないのだから、そんなことは些細なことではないだろうか?
それくらい、オレにとっては最早切っても切れない場所なのだ。
「さっき、シント君が言いたくないなら言わなくても良いっていったけど……やっぱり嘘」
ついさっきおばさん自身が口にした言葉は、すぐに訂正された。
「何も話してくれないっていうのは、寂しいな」
寂しいという言葉に、とどめを刺された気がした。
オレが今何をしていて何を考えているのか、ちゃんと口にして向き合わないといけないと、そう思った。
「十年前の……父さんと母さんのこと、アルセーヌって貴族が教えてくれた」
なるべく簡潔に、しかしそれだけで全てが理解出来るような言葉の数々に身を任せた。
「事件があった家にも行って……少しだけど、思い出した」
その上で、レズリーに会ったということだけは伏せるしかなかった。いくら説明をしないといけないといっても、到底言うことは出来なかった。
それともう一つ、裏路地で犯人らしい人物に会ったことも口にはしなかった。口にしなかったというよりは、そこまで頭が回らなかったという方が正しいかも知れない。
「でも、まだ足りないって思ってる」
父さんと母さんの事件については、ある程度理解はした。理解したくないという駄々は今更こねない。何故なら、そうするには余りにも時間が立ちすぎているからだ。
「あそこで何があったかまで分からないと、オレ……」
そこから先の言葉が、どうにも上手く捕まらない。一体何を言おうとしてたのかも、最早よく分からなかった。
考えあぐねてしまっている間の沈黙の間、すぐそばにいたローザおばさんがオレの手を取った。
「……あのね、私たちはシント君のことを止める気は無いの」
オレが言葉を探している時、一番に動いて見せるのはいつもおばさんだ。
「シント君のやりたいようにやっていいんだよ」
それはまるで、笑顔を絶やさないおばさんに全てを見透かされているような感覚だった。
オレの目的が、説明をすることではなくいつの間にか承諾を得ることになっていたことも、それを分かったうえでオレに進言していることも、全部想定内だと言われた方が寧ろ納得がいくような、そんな気分だ。
しかしそれが嫌という訳では毛頭なく、どちらかと言うと来るべき時へ向かって後押しされているようだった。それが余計に、この家の人たちが哀しむようなことはしてはいけないという気持ちにさせていく。オレだって、別に危ないことをしようだとかそれに乗じて何かを企てようだとかは思っていない。
ただ単純に、過去に生きていた世界に触れたいだけなのだ。
「……難しいお話終わった?」
奥のほうに引っ込んでいたレノンは、答えを待つことなく僕のほうへと歩んでいく。パタパタと、少し世話しない音が部屋に響いた。
「お兄ちゃん、僕が作ったやつまだ食べてないでしょ」
「え? ああ……そうだったかな」
「だってセリシアのしか食べてないもん。僕見てたよ」
「ご、ごめん……」
そういえば、確かにオレが口にしたのは小さいものばかりで、それがきっと全部セリシアが作ったものだったのだろう。無意識だったのだが、そんなのはレノンからしたら関係なく、面白くなかったのだろう。そう思ったのだが、レノンの顔は特に嫌だとかいう感じでもないように見えた。
「……僕ねぇ、お兄ちゃんが好きなんだよ」
なんの脈絡もなく口にされた言葉に、思わず目を丸くしてしまう。まるでいつもの日常会話のようで、しかしいつもは行われることのない非日常的なものだ。
「お兄ちゃんは、僕のこと好き?」
なにか、レノンなりに思うことがあったのだろう。オレよりも年下の、まだ十にもなっていないレノンにそんな気を遣わせたのは紛れもなくオレだ。
「……うん」
レノンの質問には、無駄に考える時間なんて必要がなかった。
「ほんと?」
レノンの視線が、酷くオレに刺さっていく。
「ほんとだよ」
それに応えるには、オレもちゃんとレノンのことをしっかりと目に焼き付けなければいけないと、そう思った。
「……こんにちは」
「え……?」
そして、間抜けな声をいの一番に口にしたのはオレだけだった。
「靴、探しに来ました」
もうすっかりと見慣れてしまったアルベルが、ひとりで店を訪れたのだ。
「な、なんで……?」
「前、今度は客として来るって言ったでしょ? 覚えてない?」
「覚えてるけど……」
覚えてはいるけど、本当にそれが目的で来るとは到底思っていたかったのだ。あんなのただの世間話のうちのひとつで、別れ際に「また会おうね」と言うようなものだと思っていた。それも貴族と市民の会話なのだから、オレじゃなくたってそう簡単に鵜呑みになんかしないだろう。
「……あんた、もしかしてノーウェン家の貴族さんか?」
オレとは違い、おじさんはアルベルをすぐに貴族だと認識した。少し驚いた顔を見せたものの、すぐにいつものおじさんへと戻っていく。
「まあ……一応そうなりますね」
「ふーん、そっかそっか……」
オレとアルベルのやりとりを見たおじさんは、何を思ったのか頭をかきながら考えあぐねているらしい。
それを見て、これは少しまずい状況かもしれないと心なしか焦っていた。オレがどうして貴族と知り合いなのか、どうして貴族がオレを訪ねてきたのか、貴族が訪ねてくるほどのことがあったのか。その答えに値することを、オレはおじさん達に一切話していないのだ。もしこの場で問われたら、オレはきっと黙りこくってしまうだろう。
「俺ちょっと用事思い出したわ。ってことで、ふたりで適当にやっててくれ」
「え、ちょっと……おじさん?」
しかし、思いの外あっさりとした口振りに思わず驚きを隠せなかった。言及されては困ると思っていたにも関わらず、思わず呼び止めてしまったのだ。
「じゃ、どうぞごゆっくりー」
オレの声なんてまるで聞こえていないとでもいうように、さっさと持ち場から離れ、レジ奥の扉を開けて去っていってしまう。扉が再び閉じられたのを確認し終わると、再びアルベルと目がばっちりと合った。
「……気、使われちゃったね」
小さく肩を竦めながら、アルベルはオレのいるレジの方へと僅かに距離を詰めた。
「で、靴なんだけど」
「えっと……本当にそれだけの為に来たの?」
「そうだけど?」
靴屋に来たんだから当たり前じゃないか、とでも続きそうなトーンに、オレは更に困惑した。その様子を見たアルベルは「嘘は言わないよ」と付け足し、更にこう口にする。
「僕に合う靴、教えて下さい」
アルベルのその口振りに、オレは思わず息を飲んだ。
「ちょ、ちょっと待って……!」
引き出しの奥の方に縮こまっていたメジャーと、名簿とペンを手に持って、別に誰に急かされているわけでもないのにアルベルの元へと急いでいった。
「……わざわざ測るの?」
「だってご新規さんだし……」
「ご新規……まあそうか。うん、じゃあ任せるよ」
当初の靴を探しに来たという目的の為に、一応はアルベルの靴のサイズを測ることにする。それが例えオーダーメイドでなくても、客のサイズは知っておくと後に楽なのだと、おじさんは良く言っていた。
「アル……アルベル……の、のー……なんだっけ」
「……僕書こうか?」
「うん……」
手に持たれていたペンが、アルベルの手元へ移る。いい加減、貴族の名前くらいは覚えておこうと心に決めた。
◇
「……え、またレズリーさんのところに行ったの?」
「行ったっていうか、行っちゃったっていうか。気付いたら辿り着いてたっていうか……」
メジャーは既に地面に置かれたまま、名簿には幾つかの客人と、一番下にはアルベルの名前が書かれている。名前の隣、枠線のすぐ傍には、二十と半分を超えた数字が書かれていた。
客人用の、靴を履き替える時の背もたれのない椅子にアルベルが座り、オレはというと椅子に座ることはなく、しゃがむだけの行儀の悪い座り方をしている。お尻がついていないだけまだマシだろう。
「……今、父さんと母さんが居たらどうなってたかなぁとか、考えてた」
靴屋という形を辛うじて取り繕ったはいいものの、おじさんの居ない空間の中、知り合いがそこに居るとなると、すっかりと雑談をする空間となってしまっている。
「そうやって考えたことなんて、今まで無かったんだけど……。思い出したのが良くなかったのかな」
行き場の無くなったペンは、オレの手元で弄ばれていた。
「……良くないことは、ないと思うな」
下を向いていたオレは、そう口にしたアルベルを思わず視界に入れる。落ち着きのなかったペンの動きは、自然と止まっていた。
「だってシント君、最初に比べたらかなり変わったよ?」
「そ、そんなことないと思うけど……」
思ってもみなかった言葉に、オレは思わず目を泳がせる。果たしてどうしてアルベルがそんなことを思ったのかもよく分からないし、何より当の本人に自覚なんてあるわけがなかったのだ。
「少し前のシント君だったら、僕にそういうこと言うのかなぁって考えたら、やっぱり変わったんじゃないかな。ああえっと……悪い意味じゃなくてね」
「……よく分かんない」
そういって適当に投げ出してしまうが、しかしアルベルの言っている意味が本当に分からないのか、それともどこかで自覚していながら気付かないフリをしたのか、自分でも全く検討がついていない。
確かに、いくら知り合いの貴族が訪ねてきたからといってペラペラと喋るような話ではなかっただろう。それに、今は客がいないからいいものの、いつ誰が来るかも知れないし、いないフリをしておじさん達が聞き耳を立てているなんてこともあるかも知れない。最も、後者に関してはそんなことがあるとは思っていないのだが。
「アルセーヌさんには、まだ言ってないんだよね?」
「うん……やっぱり、言ったほうがいいかな……」
「言った方がいいんじゃないかなあ……。そうやって迷ってるってことは、何かあったんじゃないの?」
アルベルに答えを求めていたわけではないのだが、結果的に一番気がかりだったことへの問いが返ってくる。更に疑問を問われてしまって、オレはどうしたもんかと答えを考えに詰まっていた。アルベルは無理やり聞き出そうとかつついてきたりはしないけど、それが余計オレの頭を悩ませたのだ。
「……オレ、昔アルセーヌに会ったことあるんだって」
アルベルは、オレとアルセーヌが知り合いであるというのは知っていたのだろうか?
「アルベルは知ってた?」
だとしたら、誰もが意図的に言わなかったということになる。どちらかと言えば、寧ろそっちの方が無理矢理納得することも出来た。
「知ってたわけじゃないけど……多分、そうなんだろうなとは思ってた」
しかし、どうやらそれは期待するだけ無駄らしい。
「アルセーヌさんが昔レズリーさんの家によく行っていたっていうのは父から聞いてたし、事件のことは知ってたから。一回くらいは会ったことあるんじゃないかなとは思ってたよ」
「……ふうん」
「疑ってる?」
「あ、いや……そういう訳じゃなくて……」
そう問われてしまったのは、オレの返事がから返事に近かったからだろう。決して適当に聞いていたわけでもなく、疑っている分けでもない。聞いておいてなんだが、例えばこの時アルベルが知ってたと答えてもこんな感じだっただろう。
これに関してはアルベルに落ち度があるわけがなく、これはオレの気持ちの問題だ。まるで自分だけが今まで何にも考えていなかったかのような、酷く居たたまれない気分になったのだ。
「言わなかった理由、きっとオレにあるのかなって思って」
しかしそれはあながち間違いでもないのだから、言い訳も否定も出来はしない。
「……それも、ちゃんと聞いてみたらいいんじゃないかな。気になるんでしょ?」
「でも……」
確かにオレが気になっていることは幾つかあるのだが、果たしてアルセーヌはどこまで答えてくれるだろうか? それにオレは、アルセーヌとの約束をひとつ破ってしまっている。
「レズリーの家、ひとりで行っちゃ駄目って言われてたんだけど、怒られないかな……」
「怒らないよ。アルセーヌさん優しいし」
「そ、そうかな……」
そう尻込みこそするものの、アルセーヌにはちゃんと伝えておくべきだというのは理解している。聞くよりも前から分かっていたつもりだ。
しかしそうは言っても、果たしてどういう顔で会いに行けばいいのか分からないし、レズリーの家にひとりで行ってはいけないと釘を刺してきた人物に、レズリーの家にひとりでいきましたと白状しに行くうえ、更に聞きたいことがあるだなんて押しかけに行くには、それ相応の胆力が必要なのである。
「……ひとつ、聞きたいんだけど」
一通りの話が落ち着いたすぐ後、今度はアルベルが口を開いた。
「君は、レズリーさんが亡くなったと聞いた後で彼を前にした時、どんな気持ちだった?」
「え……?」
突然の、聞かれるとは到底思ってもいなかった質問に、オレは尚更頭を悩ませた。それを例えばアルセーヌに聞かれるのならまだ分かるのだが、相手がアルベルだから余計だった。
「……本当に、もういないのかなあって」
これは考えて出した結論というよりは、最早感覚に等しいものだ。
「だって普通に喋れるし、触れもした。アルセーヌも……クレイヴだって普通に話してたんだよ? レズリーは幽霊とは少し違うっていうのは、クレイヴから聞いたけど、でも……」
どちらにしても、レズリーは十年前にこの世から居なくなった人物であることには変わりない。揺らぐことのない事実なのだ。
「そんなこと言われても、あんまり実感湧かないかな……」
だがそれでも、どういうわけか余り信じたくない気持ちの方が僅かに上回ってしまっているのが本当のところだろう。完全に会うことが出来なくなって、それでようやく理解する類いのものなのかもしれない。
「……そっか」
「それがどうかしたの?」
「いや、ならいいんだ。うん。そうだよなあって思って」
「何かあったの……?」
「……どうして?」
「いや、ないなら良いんだけど……」
「ないよ、何も。それより――」
何処か遠くの、見えない空間をアルベルがふと見据え始めた。なんとなくはぐらかしているように見えたのは、オレの考えすぎだろうか?
「さっきから甘い匂いがするね」
「ああ、多分……」
続く言葉を口にするよりも前に、ガラリと扉の開く音がする。すると、レノンが顔だけ覗かせてきた。
「お兄ちゃんっ」
オレが居るのを確認しこちらへと向かってくる様子は、どこか浮き足立っているように見えた。
「あのね、やっとクッキー焼けたの。出来立てだよ」
「ああ、だからか……いい匂いだよね」
店の中にまで入ってきている匂いに納得しつつ、誰にいうでもなくアルベルは独り言を口にした。
「えっと、えっとね……」
何かその他に言うことがあるようなのだが、どうにも歯切れが悪く、何故かレノンはオレの後ろに身を隠しはじめた。いや、オレはしゃがんでるし全然隠れていないのだが、きっと本人からしたら隠れているつもりなのだろう。
「おにーさんも一緒に食べませんかって、お父さん言ってたよ」
お兄さんというのは、オレのことではなくアルベルであるというのはすぐに理解が出来た。だが、当の本人はあまりピンときていないらしい。
「……え、僕?」
オレとレノンの視線がアルベルに向くと、まるで意外とでも言うように目を丸くした。靴を探しに来た、から始まってクッキーを食べさせられそうになるとは思っていなかったのだろう。
「……いいんじゃない? 行こうよ」
「えぇと……」
頭をかいて少し困っているようだったが、最終的には「じゃあ、お邪魔しようかな」と言ってくれた。恐らくは、オレではなくレノンの視線に耐えられなかったのだろう。
「じゃあ行こっ! 早くしないと冷めちゃうよ」
「そ、そんなすぐには冷めないと思うけど」
オレの手をむんずと掴んでくるレノンは、どういうわけか何だか少し嬉しそうだった。
◇
「ぼく、貴族のひとと話すのはじめてなんだあ」
シントくんの家に足を踏み入れてからというもの、レノンという少年に僕はすっかり捕まってしまっていた。十も離れた年下と話すなんて、身内にいない限り機会はそう多くない。正直上手く立ち回れるか自信はないのだが……。
「ここにあるやつね、ぼくとセリシアが作ったんだよ」
「へえ凄い。上手だね」
そう口にすると、レノン君が照れながら満面の笑みを向けた。どうやら思いのほか良好な関係値を保てているらしい。
「おにーちゃ……これあたしがつくったのっ」
「え? ああ、うん」
シント君の返事は、誰が聞いても完全に上の空だった。適当に話を聞き流すような人ではなかったように記憶しているけど、僕の見当違いだったのかも知れない。それとも、身内に囲まれているから気を抜いているのだろうか? それか、アルセーヌさんについて余計に考えすぎているという可能性もあるだろう。どちらかというと後者ではないだろうか。
シントくんは、小さなセリシアという少女に差し出されたクッキーを適当にひとつ取り、口の中へと放る。目をキラキラさせる少女とは裏腹に、まるでお菓子を食べながら難しい問題を解いているかのように黙ったままだ。
「……美味しくない?」
「いや、そうじゃなくて……」
薄いリアクションに店主の奥さんが問いを投げると、シント君の言葉は尚更ピタリと止まってしまう。クッキーを食べながら、一体何を考えているのかとこちらが悩んでしまうくらいだ。
「母さんの作ったクッキーも、食べたことあったよなあって思って……」
このシント君が口にした言葉で、店主とその奥さんの目の色が途端に変化した。しかし、これは決して悪い意味というわけではないだろう。どちらかというと驚嘆に近いものであるように感じた。
「な、なに?」
「あ……ごめんね、何でもないの。ただ、その――」
店主の奥さんからは、果たして言っていいのだろうかといった類いの間が空いたように感じ取れた。それが例えば、普段はいないはずの僕がこの場にいるから言うに言えないということだったら、そっちの方がまだマシだっただろう。
「シント君の口からそういう話が出るの、はじめてだったから……。だから、驚いた」
でもどうやら、僕が思っているよりも中々に根が深い問題のようだ。
こういう空気になるということは、恐らく本当に普段はその類いの話をしないのだろう。だとするなら、さっき僕と話したようなこともかなり珍しいことだったのかも知れない。
「そ、そうだったかな……」
本人にその自覚はなかったのだろう。我に返ったのか、シント君の顔が急に熱をおび始めあっという間に耳まで真っ赤になった。きっと全員の視線に耐えられなくなったのだろう。まるでこれ以上余計なことは言わないという意思表示のように、小さなクッキーをつまみ上げ口に放り込んだ。
「美味しい?」
「……うん」
ただそうは言っても、レノン君の問いには答えるらしい。はじめて返ってきた肯定の言葉に、レノン君はほくほくと笑みを浮かべた。
「なあちょっと、お前さん」
皆とは少し離れたところにいた、この店の店主であろう人物が僕を手招きしている。正直余り乗り気ではないのだが、ここで断るわけにもいかず少々足取りを重くしながら店主が座っている場所へと足を動かした。輪に入ることをしない店主も、これまた何か思い馳せているらしい。
「お前さん、アルセーヌから聞いてんのか? シントのこと」
一体なんの話かと思っていたが、まさか間髪入れずに単刀直入に聞いてくるとは思っていなかった。それに、店主からアルセーヌという名前が出たことも驚きのひとつに加算される。店主の口ぶりからして会ったことがあるのだろう。その理屈は分かるのだが、市民の口から貴族の名前が出てくるという状況に、少々緊張が身体を走る。
「多少は、ですかね。そんなに多くのことは……」
「ふーん……。今日はなんだ? 偵察か?」
「ち、違いますよ。そんなことしたらアルセーヌさんに怒られます」
この人から敵意のようなものは余り感じないが、僕が本当は何をしにここに来たのかが気になって仕方がないらしい。確かにこの状況、貴族が市民に会いに来るなんて偵察でもしに来たんじゃないかと見られても不思議ではないだろう。
「単純に、僕が気になっただけです」
「……ま、何でもいいんだけどよ」
僕の言葉を信用しているのかいないのか、店主は適当に返事を返し、改めてシント君を視界に入れているようだった。
偵察ではないということくらい断じて否定しておけば良かったかも知れないが、しかし今の状況でそんなことをしたら一層疑われるかも知れないということを考えると、それ以上の言及は出来なかった。
「別に偵察だろうがなんでもいいんだけどよ、ひとつ教えてくれよ」
再度、店主は偵察か否かはどうでといいと前置きをした。どうやらここからが本題らしい。
「最近になってシントがわりと出歩くようになったのは、カルト達のやつと関係あるのか?」
そして、さっきから薄々勘づいていたことが確信に変わったのは、この店主の言葉である。
「……何も聞いてないんですか?」
「気使ってるんだろうな。本人にそのつもりはないんだろうけど。ここに来てからずっとそうだよ、あいつは」
細かいところは置いておくとして、貴族と会ったという話くらいはしているのかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。だとするなら、ここで変に嘘をつくのは余り得策ではない。
「全く関係無いっていうのは……嘘になると思います」
「だろうなぁ……。ああいや、それは別にいいんだけど」
自分に言い聞かせるように、店主は一度口にしたことを否定した。
「いつかそうなるってのは分かってたし、あいつがカルト達のことについて調べるってのは当然だと思う。ただ、何も言われないってのもちょっとな。だからと言って無理に聞くことはしないけどよ」
続けて口にしていく言葉の数々に、僕は思わず今までとは比べ物にならない程に耳を傾けてしまう。
「……その辺り、どうやっても血の繋がった家族っていう枠にはなってやれないんだよなって、痛感するよ」
そう口にしながら、恐らくはシント君のことを視界に入れ、かつ過去に起きた出来事と、これから起こり得る未来を見据えているような眼差に、思わず僕の思考にも影響が及ぶ。
ここまで考えてくれている人が周りに一人でも居るというのに、当の本人がそれに気づいていないらしいというのは些か問題だろう。境遇を考慮したとしても、この状況がこれから先も続いてしまっては余りいい結果にはならないはずだ。
「さっきのも、きっと何かあったから口にしたんだろ? ……いや、お前さんがいるからかもな」
「ぼ、僕は別に何も……。アルセーヌさんについて歩いてるだけで」
「そんなことも無いだろ? 関係無いヤツの前であんなこと口にするような奴でもないし」
店主はそうやって言うが、僕自身彼に何かをしたわけでもなければ、シント君に信用されるようなことをした覚えはない。きっと、シント君がレズリーさんの家に行って間もない時にたまたま僕が店に来たから、丁度悩んでいて都合がよかったからというだけの話だろう。それ以外の理由なんて、あるわけがない。
それが一層、僕の機嫌を損ねる原因となった。
「貴族とかそういうの関係無しに、仲良くしてやってくれな」
それなのに、この店主は僕にとんでもない役目を突き付けてくる。そんな役が果たして僕に勤まるのだろうかという疑問は、最早浮かぶことは無い。
僕にはそんなの、似合うわけがないのだ。
◇
焼かれたクッキーが三分の一程度減ったくらいの時、アルベルがそろそろ帰ると言って店を後にした。レノンは少しばかり駄々をこねていたけど、アルベルが「また来るよ」と口にしたことでそれは比較的早く収束した。
アルベルが帰る少し前にマーティスおじさんと何かを話していたのが多少なりとも気になっていたのだけど、一体なんの話をしていたのだろうか? そもそもはおじさんがアルベルを招いたわけだし何か話したいことがあったのかも知れないが、少し考えたくらいではその答えに辿り着くことはなかった。
カラン、と少し遠くのほうから店の開閉音が聞こえてくる。
「ま……待って!」
その音を聞いたのを皮切りに、どういうわけかオレはアルベルの後を追ってしまっていた。
オレの声なんて既に聞こえてはいないだろうが、それでも思わず声は大きくなった。既に誰もいない店の中を通りすぎ、思い切り扉を開ける。それに気づいたアルベルが少し驚いた様子でこちらを見ている様を見て、ようやく落ち着く準備が出来た。
「どうしたの? 忘れ物……はしてないと思うけど」
「いや、そうじゃなくて……」
考えなしに呼び止めてしまい、ここでようやくどうしてオレがアルベルを呼び止めるに至ったのかを考えた。
「えっと……やっぱり、何かあったんじゃないの?」
「……どうして?」
「だ、だって……」
確信があるわけではないし、否定されてしまえばそれまでなのだが、本当に靴を探しに来たというにはアルベルの行動が余りにも不確定で違和感だらけだったのだ。
だってこの人は、あの店に来てから自分の靴以外の靴に触れていない。本当に靴を探しに来たというのなら、並べられている靴に多少なりとも興味も示してもいいはずなのに、それは一度も起こらなかった。目的の靴が無かったにせよ、一度くらいは店にある靴を目で追うくらいのことをしてもおかしくないのに、それすらもしなかったのだ。
オレが変な話をしたからそれが出来なかったというのならそれこそオレが悪いのだが、それが本当だったとしても、一言くらい言及があっても良さそうなのにそれがなかった。そしてこれだけでは飽き足らず、もうひとつ気になったことがある。それは、アルベルが口にした「死んだと言われているレズリーに会ってどう思ったか」ということだ。
話の流れからしていう程おかしなことではなかったかもしれないが、その質問をアルベルの口から聞くというのがどうしても不思議で仕方がなかった。
「大丈夫。僕は大丈夫なんだ」
いつものような笑顔を振りまくアルベルは、本当にこれまでとなんら変わらなくオレの目に映っている。だからこそ、アルベルほど何を考えているのかが見えにくい貴族は居ないかもしれないと、この時初めて思った。
「というより、自分の心配したほうがいいんじゃないかなぁ」
「で、でも……」
余り詮索をされたくないのか、アルベルは自分のこととなるとすぐに話を別の方向に切り替えようとする。それを誰よりも自然とやってのけてくるせいで、一瞬で振り出しに戻されてしまった。
「店主の人、心配してたよ」
「え……?」
アルベルのこの一言のせいで、それ以上何を聞くことも許されなくなってしまった。
店主、というのは恐らくおじさんのことだろう。それは分かるのだが、心配という言葉に理解が追いつくのに時間がかかった。
「アルセーヌさんにっていうのもそうだけど、お世話になってるんならちゃんと説明しておかないと。別に全部言えってわけじゃないけど、何処に行くかくらいはさ」
一体どうしてアルベルにそんな話が降ってきたのか、どうしてアルベルがオレにそんなことを言うのか、実の正直混乱していてアルベルの話が余り頭に入ってこない。つまり、アルベルがさっきおじさんと話していたのは大方オレについてのことで、おじさんはそれを聞きたくて偶然居合わせたアルベルを呼んだということなのだろうか?
おじさん達に何も話していないという罪悪感と、それについて提言されたことで初めてことの重大さに気付いてしまう。そうだ、オレは自分が外で何をしているのかはおろか、誰と会うのかも行き先もなるべく濁していた。
出来ることなら知られたくないと、そう思っていたのだ。
「実はこうだった、ああだったにいい思いはしないってこと、シント君はもう知ってるでしょ?」
優しい言い方は相変わらず、それでもどこか怒っているように見えたのは、きっとオレが気付いていないところで心当たりがあったからなのだろう。
「じゃあね」
夕暮れ時の、茜の空が街に落ちてくるのを感じながら、オレはそれ以上アルベルに近づくことが出来ずにぼうっとしてた。
なにか、いつもと違うアルベルが確かにここに居るような気がするのだが、その原因がわからない。その理由を突き止めないといけないような気がするのに、今のオレがそれをやってしまってはただの駄々をこねるだけの子供になってしまう。
「……ま、また来るんだよね?」
それでもひとつ、レノンがアルベルに言った、また来るという言葉を思わず反復した。一番最初、アルベルが「今度は客として来る」と言った時は正直嫌だったけど、今日こうして足を運んでからその類の感情に苛まれることもなく、更には次も来るのかと返事を催促してしまった。しかし、その返事が返ってくることはなくアルベルは笑顔だけを置いて再び足を翻していく。
少し赤みを帯びた影の中、そのさまは言い訳の余地がない程にオレの目には綺麗に映っていた。
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店の開閉音は、オレの耳に入ってくるということはなかった。考え事をしていると、どうしても周りの音への意識が低くなる。こういうの、貴族だともっと上手く周りを把握出来たりするのだろうか? それとも単純に、オレの意識が低いだけなのかもしれないが。
「……帰ってきて早々に浮かない顔してるな」
皆のところに戻ると、いの一番に声をかけてきたのはおじさんだった。
「……ちょっと、怒られただけ」
「怒られた? 怒るっていうようなタイプにも見えなかったけど」
「怒られたっていうか……」
アルベルに言われたことを、もう一度思い返す。そう、アルベルは確かに怒ってはいなかった。怒ってはいなかったのだが、余り物事に口出しをしてこないアルベルがあそこまで言うということは、少なくとも機嫌がいいわけではなかったはずだ。
ああやって言われるようなことをしてしまっているというのは、流石にもう自覚している。
「ちゃんと説明しておけって言われた」
だが、それにしても遅すぎたのだ。
「世話になってるんだから、そこはちゃんと言わないと駄目だって」
おじさんとおばさんの少し驚いた顔は目に映ってはいたものの、それを余所にオレは更に言葉を進めていった。
「でも、何をどうやって言ったらいいか分からなくて……」
こんな説明で何がどう伝わっているのかは分からない。どちらかと言うと、頭の中を整頓するための独り言に近かっただろう。突然訪れたちゃんと話をしないといけない機会に、頭がついていかなかったのだ。
自分で作り上げた沈黙に逃げ出してしまいそうになるのを必死に堪え、オレは次の言葉を探している。
「……シント君が言いたくないなら、それで構わないんだよ?」
そんなオレを前に口を開いたのは、ローザおばさんだった。
「私たちじゃ、シント君の考えてることの助けにはなってあげられないから……」
「そ、そんなことないよ!」
オレにしては珍しく、と自分でも思う程に、この時ばかりは全力で否定をした。
「沢山、助けてもらってるよ」
驚くほどにすんなりと、しかし正確に発せられた言葉は、紛れもなくオレ自身の正確な感情だった。
オレがこの家にいるのは、きっと両親が二人の知り合いだったからというある意味での慈悲がそこにはあったのかも知れない。しかし、例えそうだったとしてもこの家じゃない場所でオレが暮らしていたらどうなっていたか、まるで想像がつかないのだから、そんなことは些細なことではないだろうか?
それくらい、オレにとっては最早切っても切れない場所なのだ。
「さっき、シント君が言いたくないなら言わなくても良いっていったけど……やっぱり嘘」
ついさっきおばさん自身が口にした言葉は、すぐに訂正された。
「何も話してくれないっていうのは、寂しいな」
寂しいという言葉に、とどめを刺された気がした。
オレが今何をしていて何を考えているのか、ちゃんと口にして向き合わないといけないと、そう思った。
「十年前の……父さんと母さんのこと、アルセーヌって貴族が教えてくれた」
なるべく簡潔に、しかしそれだけで全てが理解出来るような言葉の数々に身を任せた。
「事件があった家にも行って……少しだけど、思い出した」
その上で、レズリーに会ったということだけは伏せるしかなかった。いくら説明をしないといけないといっても、到底言うことは出来なかった。
それともう一つ、裏路地で犯人らしい人物に会ったことも口にはしなかった。口にしなかったというよりは、そこまで頭が回らなかったという方が正しいかも知れない。
「でも、まだ足りないって思ってる」
父さんと母さんの事件については、ある程度理解はした。理解したくないという駄々は今更こねない。何故なら、そうするには余りにも時間が立ちすぎているからだ。
「あそこで何があったかまで分からないと、オレ……」
そこから先の言葉が、どうにも上手く捕まらない。一体何を言おうとしてたのかも、最早よく分からなかった。
考えあぐねてしまっている間の沈黙の間、すぐそばにいたローザおばさんがオレの手を取った。
「……あのね、私たちはシント君のことを止める気は無いの」
オレが言葉を探している時、一番に動いて見せるのはいつもおばさんだ。
「シント君のやりたいようにやっていいんだよ」
それはまるで、笑顔を絶やさないおばさんに全てを見透かされているような感覚だった。
オレの目的が、説明をすることではなくいつの間にか承諾を得ることになっていたことも、それを分かったうえでオレに進言していることも、全部想定内だと言われた方が寧ろ納得がいくような、そんな気分だ。
しかしそれが嫌という訳では毛頭なく、どちらかと言うと来るべき時へ向かって後押しされているようだった。それが余計に、この家の人たちが哀しむようなことはしてはいけないという気持ちにさせていく。オレだって、別に危ないことをしようだとかそれに乗じて何かを企てようだとかは思っていない。
ただ単純に、過去に生きていた世界に触れたいだけなのだ。
「……難しいお話終わった?」
奥のほうに引っ込んでいたレノンは、答えを待つことなく僕のほうへと歩んでいく。パタパタと、少し世話しない音が部屋に響いた。
「お兄ちゃん、僕が作ったやつまだ食べてないでしょ」
「え? ああ……そうだったかな」
「だってセリシアのしか食べてないもん。僕見てたよ」
「ご、ごめん……」
そういえば、確かにオレが口にしたのは小さいものばかりで、それがきっと全部セリシアが作ったものだったのだろう。無意識だったのだが、そんなのはレノンからしたら関係なく、面白くなかったのだろう。そう思ったのだが、レノンの顔は特に嫌だとかいう感じでもないように見えた。
「……僕ねぇ、お兄ちゃんが好きなんだよ」
なんの脈絡もなく口にされた言葉に、思わず目を丸くしてしまう。まるでいつもの日常会話のようで、しかしいつもは行われることのない非日常的なものだ。
「お兄ちゃんは、僕のこと好き?」
なにか、レノンなりに思うことがあったのだろう。オレよりも年下の、まだ十にもなっていないレノンにそんな気を遣わせたのは紛れもなくオレだ。
「……うん」
レノンの質問には、無駄に考える時間なんて必要がなかった。
「ほんと?」
レノンの視線が、酷くオレに刺さっていく。
「ほんとだよ」
それに応えるには、オレもちゃんとレノンのことをしっかりと目に焼き付けなければいけないと、そう思った。