レズリーの家を後にしてからというもの、クレイヴはオレを連れて図書館へと足を運んだ。図書館に入った時、この前と同じように受付に同い年くらいの人物が居たのだが、本に視線を落としており目が合うということはなかった。
踏み入れた先は、クレイヴの部屋というよりは正確にいうと仕事部屋のようなもので、作業用の机の前には来客用なのかテーブルと二人掛けのソファーが置いてある。オレとクレイヴは、そのソファーに向かい合うよう腰を落とした。
「さて、まずは君と私が持っている情報の擦り合わせをしないといけないね」
一人部屋というには些か大きく、どうにも落ち着かなくて思わず視線が動いてしまう。だがひとつだけ違うのは、アルセーヌの家に初めて行った時よりも幾らかマシであるということだった。もうすっかり慣れてしまったのだろうかと思うものの、広い部屋に二人だけというのはやはり落ち着くのに少し時間が必要だった。
「……多分そこまでの相違はないと思っているんだけど、ひとつずつ聞いていこうかな」
そう口にしたクレイヴは、早速俺にいくつかの質問を投げた。あくまでもオレの話を聞くという体で、オレが口にしたことに対しては肯定も否定もせず、相槌を打つだけに留めているようだった。
聞かれたことといえば、俺がレズリーに会った時の話から、通り魔事件の犯人と思われる人物と接触したこと。後日アルセーヌの家に行ったこと。そして、アルセーヌと一緒にレズリーの家に行ったことと――。
「十年前の事件の話は……今日は止めにしようか。何度もするような話じゃないからね」
「で、でも……」
「いいさ。アルセーヌが何処まで説明したのかくらい、大体の見当はつく」
無理矢理一息つかせてきたクレイヴによって、情報のすり合わせは一旦終息した。どうやら、ここまでで致命的なほどの大きなすれ違いはなかったらしい。
「先に私からひとつだけ質問があるのだけど、いいかな?」
「う、うん……」
クレイヴの質問が長くなるのか、それとも片手で数えられるものであるから先なのかは分からない。
「君の口から出てこなかったから、恐らく知らないんじゃないかと思うのだけれど……」
しかし、オレの疑問とクレイヴの質問は果たしてどちらが重要で優先されるべきなのかは、考えるまでもなく明白だ。
「逝邪(せいじゃ)という言葉を知っているかい?」
「……逝邪?」
耳馴染みのない単語に、オレは思わず首を傾げた。せい……なんとかという言葉を聞いたのはこれがはじめてだし、記憶にも当たらなかった。
「……次にアルセーヌに会ったら、もうちょっとちゃんと説明しろって怒っておくといいよ」
そうは言うもののクレイヴはアルセーヌの説明不足に呆れているというわけではないらしい。ひたすらに浮かべていた苦笑いを止め、すぐに本題へと入っていく。
「この話は少し難しいから、可能な限り簡単に言うけれど……」
言葉の詮索を数秒したのち、クレイヴが再び口を開いた。
「レズリーが逝邪だと思ってくれれば、差し支えないかな」
知り合いの名前と、今はじめて聞く単語の整合性が取れず、正直ところいまいちピンときていない。幽霊というのとはまた違うということなのだろうか?
「逝邪というのはね、魔法を暴走させて亡くなった際に起こる現象のようなものだ。一般的に言うなら幽霊という解釈に近いけど……一口にそういう扱いに出来ないのは、亡くなっても尚魔法が使えるという点が大きいね」
クレイヴはきっとかなり分かりやすく説明してくれているのだろうが、理解するには少々時間がかかる。今の段階では、分かったような分からないような曖昧な感覚だ。
「幽霊ってわけじゃないってこと……?」
「んー……幽霊という大きな枠の中にいる存在ってところかな。私も余り上手く説明が出来ないから、別に無理して理解しなくてもいいよ。ああでも、出来れば覚えておいて欲しいな」
どうやらこの話は、貴族でも難しい問題らしい。恐らくは、オレが理解するにはまだ早いのだと思う。情報と、それに付随する状況にまだ見舞われてはいないのだろう。
少し安心したのもつかの間。クレイヴはまたしても別の単語を取り出した。
「それともうひとつ。瞑邪(めいじゃ)という存在がいるんだ」
「め、めい……?」
「瞑邪。頑張って覚えてね」
そのほうがきっと役に立つから。そう付け加えて、そのまま更に話を続けた。
「瞑邪っていうのは、亡くなっても尚魔法が使えるというところまでは逝邪と同じだ。ただ、そこに更に条件が追加される」
「条件?」
「どうやって言ったら分かりやすいかな……」
その条件というものを果たしてどう伝えればいいのかと、クレイヴは言葉に迷っているらしかった。それとも、子供にも伝わるように話すには難しい何かが含まれているということなのだろうか?
「余り直接的なことは言いたくないんだけど……例えば魔法を使える人間が、誰かを殺害していた場合なんかは十中八九暝邪になるだろうね」
冷静なクレイヴの口調に、オレは何故かドキリとした。まるで、悪いことをしていないのに警察に遭遇したときのそれのような感覚だった。
「まあどちらにしても、魔法を暴走させるくらいの窮地に陥らないと起こらない現象ってところかな。普通に暮らしていれば、そんなことはまず起こらないからね」
普通に暮らしていれば。その言葉がやけに印象に残ってしまったのは、きっと父さんと母さんが死んだ事件がというのがその普通というのには到底当てはまらないものだからだろう。
レズリーが死んで逝邪になるという現象だって、それこそ普通に暮らしていれば起こることはなかったかも知れない。否、起こることなんてなかったのだろう。そう思うと、自然に視線が落ちていった。
「……あともうひとつだけ、いいかな?」
何かを察したのか、クレイヴは一旦オレの意思を確認した。一言「大丈夫」と口にすると、何故か尚更困った顔をしていたのだが、その理由はよく分からなかった。
「深淵の説明と言いたいところなんだけど、恐らく君は何となく分かっているよね?」
今ここでまた、深淵という単語を聞かなかったら、もしかしたらすっかり忘れていたかもしれない。それくらい片隅に、その単語はまだ辛うじてオレの頭の中に残っていた。
一瞬にして思い出されたのは、レズリーがその単語を口にしたときの状況と、その後にオレの目にしっかりと映っていた黒く微睡む何かだ。
「……あの黒いの、一体なんなの?」
その一言でクレイヴがまたしても難しい顔をする。
「平たく言ってしまうと、魔法かな」
どうやらオレの頭を混乱させる要因は、まだ沢山存在するらしい。
◇
「今日私が使ったもの、光の粒みたいなのがいわゆる貴族が使っている魔法だね」
そんなオレを余所に、落ち着いた声色の説明になんとか耳を傾けていった。魔法というものがなんなのかという認識こそはきっと間違ってはいないのだろう。
「それにひきかえ深淵というのは、黒い粒子が集まって澱みを生んでいる。違うモノのように見えるけど、その実中身は同じのはずだ」
問題はきっと、市民が知り得ない何かが含まれているということだ。
「魔法を暴走させて死亡した瞑邪が纏っているものが、その深淵だからね」
そのクレイヴの言い分に、オレは少し頭を捻った。どうやら頭はちゃんとついていく努力をしていたらしい。
「で、でもレズリーって逝邪なんだよね? なんでその深淵がレズリーのところにあるの……?」
深淵という話になってはじめての質問を投げると、クレイヴは少し難しい顔をした。どうやら言いにくいことが含まれていることらしいというのが、直感ではあるもののすぐに分かった。
「……余り憶測でモノは言いたくないのだけれど、可能性として考えられるのは二つ。瞑邪があの家に居た場合と、瞑邪という存在になり得ることをレズリーがしたかのどちらかだと私は思っているよ。後者は可能性としてはかなり低いが……どちらにしても、彼は事件のこと以外にも何か隠していることがあるんじゃないかな」
あくまでも憶測であるというのを主張しつつ、クレイヴはオレの質問にもしっかりと答えてくれた。ようは、確信がないから余り鵜?みにしてくれるなということなのだろう。
「さて……私の難しい話はこれで終わり。次は君の番」
「オ、オレ?」
「うん。いい加減、難しい話を聞くのも飽きただろう?」
クレイヴはそうやって言うが、特別飽きたという訳でもなかった。確かに難しい話ばかりが続いていて頭の中で上手く処理が出来てはいない。自分に関係のないことだったら、このまま理解しようともせずに匙を投げてしまいそうなくらいだ。正直これと言って聞きたいことがあるわけでもないのだか、一応少しだけ考えてみることにした。
多分この人は、オレが気になったことならなるべく分かりやすく簡潔に口にしてくれるだろう。この機会をそう簡単に逃してしまうのは、流石に少し勿体ないような気がしたのだ。
「……レズリーに通り魔のこと話してたけど、何か関係あるの?」
「ああ……あると言えばあるし、ないと言えばないね」
そう言って、クレイヴは更に言葉を続けた。
「……久しぶりに深淵を見て、ちょっと思い出したことがあってね。通り魔事件の犯人らしい人間が深淵を纏っていたという話を聞いたから聞いてみたんだけど、結局彼は事件のことは知らなかったようだし、直接的な関係はないんじゃないかな」
「ええっと……深淵を纏ってたってことは、その通り魔っていうのは魔法を使えるってこと?」
「そういうことになるだろうね。私は会ったことがないけど、どうも貴族が犯人ってわけじゃないらしいよ」
貴族が犯人ってわけじゃない。その言葉にやけに引っかかりを覚えてしまった。それは当然だろう。オレの知っている前情報と異なっていたのだ。
「魔法って、貴族じゃなくても使えるの……?」
恐る恐る、オレは疑問を提示した。
「使える素質のある家柄は多く存在するはずだよ。例えば幽霊が視える人っていうのは、その素質は持っていると言っていいんじゃないかな。まあ、それと魔法が使えるようになるかは別問題だけど」
ということは、その幽霊が視える市民の中で更にごく少数の人間が通り魔として存在してしまっているということなのだろうか? 日常事のようにクレイヴは話しているが、それはもしかしてとんでもない事件なのかも知れない。市民が思っているよりも遥かに、だ。
「貴族というのは、一般人の視えないモノが視え、尚且つそれに対する対抗措置を持っている家柄を総称した、ただのオカルト集団さ」
自虐を込めた最後の説明は、きっと間違ってはいないのだろう。しかしどちらにしても、貴族は貴族にしか出来ない方法で、尚且つ市民の見えないところで警察と協力しながら事件の解決策を練っているのだ。警察と協力というのだって、いわゆる一般人ではどうにもならないからやらざるを得ないのだろう。
さてここで、ひとつの疑問がまた頭に浮上した。それはずっと気になっていたことでもあったのだが、いまいち現実味がないせいで言葉にしきれなかったものである。
クレイヴはさっき、幽霊が視える人は魔法を使える素質があると言った。
「……レズリーが視える俺は、なんなの?」
レズリーは、十年も前に死亡している。幽霊という枠の中に逝邪がいるということは、オレがレズリーを認識するなんてことは出来ないはずだ。
オレが持っているブレスレットはレズリーがくれたものだけど、元は父さんのものであるとレズリーは言っていた。そして、そのブレスレットにはどうやら魔法が込められているらしい。それが意味するものは一体なんなのかを気にしないようにしていたのに、気になってしまうような情報を耳にしてしまった。どうも、今日のオレは聞きたがりのようである。
「その答えは、出来ればシント君自身が見つけてほしいな」
しかしクレイヴは、オレの疑問の答えを口に出すことはしなかった。
「ちゃんと自信を持ちなさい。それは、君が君の力で見つけてくれるのを待っているよ」
クレイヴの言葉そのものが答えのような、しかし明確には教えないという意思を感じた。つまりそれは、オレがオレの考えと意思の元、確信が持てる状態になったうえで答えになるということだろう。
曖昧な感情でそれを意識してはいけないと、ある種の警告のようだった。
◇
一通りの話が終わり、手元の紅茶が無くなったのを皮切りに、オレはようやくクレイヴの書斎から解放された。大事な話であるというのはよく分かるのだが、それはそれとして難しい話はどうにも疲れるというものだ。
少し前を歩くクレイヴに着いていき、受付のすぐ近くまではあっという間だった。そこで後ろを振り向いてきたクレイヴに、思わず少し緊張が走ってしまう。
「やっぱり送ろうか?」
「い、いいよ……すぐそこだし」
「シント君のすぐそこというのは、随分と範囲が広いようだね」
「シント……」
クレイヴに揚げ足をとられている最中のこと、出入口付近にある受付の、とある人物がオレの名前を反復した。ここ最近、図書館に来てからようやくお互いがお互いを認識したような感覚だ。
「前から思ってましたけど、昔会ったことありますよね?」
「……え?」
しかしどうやら、それとはまた少し違った状況らしい。
「ああそういえば、カルトさんと一緒に何度か図書館に来たことがあったね」
「僕も言うほど覚えている訳ではないですけど……」
続けてクレイヴから紹介を受けたのは、ルエードという同い年くらいの人物だ。前、エトガーと図書館に来た時にも見たことがあった人物だが、それよりも随分前にオレはこのルエードという人物と既に出会っていたらしい。
それが一体どれくらい前のことなのかはこれだけでは分からないが、ルエードが「余り覚えてないけど」と口にし、クレイヴがそれに同調する辺り、オレが思っているよりももう少し前の話なのかもしれない。
「……オレの父さん、見たことあったりする?」
魔が差した、とでも言えばいいのだろうか。気付けばそんなことを口走ってしまっていた。しかしそこに後悔というほどの感情はなく、単純に興味本位だったんだと思う。自分でもよく分からなかった。
少し考えた後、ルエードと呼ばれた人物はこう答えた。
「似てますよね、あなたと」
その言葉を聞いた瞬間、全身の体温が顔に上っていくような感覚に苛まれた。オレの質問の答えというわけでもないはずのに、どこか的確に痛い部分を突かれたような気分だった。
「……何かマズいことでも言いました?」
「はは、彼は意外と照れ屋なようだよ」
「そ、そんなんじゃないっ……!」
反射的に否定の言葉が出てしまい、更に居たたまれなくなったオレは勢いにまかせて身体を動かした。図書館というある程度静かであることが約束されている空間に、扉の開閉音が混じっていくのなんて今のオレの耳には入らなかった。
走り去るには十分なくらいに、図書館のある通りはそこまで人が多くない。市場の状態を知っている身としては少々物足りないと感じるくらいだが、今はこれが丁度よかった。
ルエードと名乗る人物は、オレと父さんが似てると言った。これでも父さんの顔はちゃんと思い出せるようにはなり、今は父さんの顔が頭から離れてくれなくて仕方がない。
(そんなこと……ない)
しかしどうにも、ルエードという人物の言葉を信じたくない自分がいた。
目頭に何かが溜まりかけているのを払拭するように、俺は思わず首を振った。横を通る風で身体の熱が飛んでいくのには、もう少し時間がかかりそうである。
踏み入れた先は、クレイヴの部屋というよりは正確にいうと仕事部屋のようなもので、作業用の机の前には来客用なのかテーブルと二人掛けのソファーが置いてある。オレとクレイヴは、そのソファーに向かい合うよう腰を落とした。
「さて、まずは君と私が持っている情報の擦り合わせをしないといけないね」
一人部屋というには些か大きく、どうにも落ち着かなくて思わず視線が動いてしまう。だがひとつだけ違うのは、アルセーヌの家に初めて行った時よりも幾らかマシであるということだった。もうすっかり慣れてしまったのだろうかと思うものの、広い部屋に二人だけというのはやはり落ち着くのに少し時間が必要だった。
「……多分そこまでの相違はないと思っているんだけど、ひとつずつ聞いていこうかな」
そう口にしたクレイヴは、早速俺にいくつかの質問を投げた。あくまでもオレの話を聞くという体で、オレが口にしたことに対しては肯定も否定もせず、相槌を打つだけに留めているようだった。
聞かれたことといえば、俺がレズリーに会った時の話から、通り魔事件の犯人と思われる人物と接触したこと。後日アルセーヌの家に行ったこと。そして、アルセーヌと一緒にレズリーの家に行ったことと――。
「十年前の事件の話は……今日は止めにしようか。何度もするような話じゃないからね」
「で、でも……」
「いいさ。アルセーヌが何処まで説明したのかくらい、大体の見当はつく」
無理矢理一息つかせてきたクレイヴによって、情報のすり合わせは一旦終息した。どうやら、ここまでで致命的なほどの大きなすれ違いはなかったらしい。
「先に私からひとつだけ質問があるのだけど、いいかな?」
「う、うん……」
クレイヴの質問が長くなるのか、それとも片手で数えられるものであるから先なのかは分からない。
「君の口から出てこなかったから、恐らく知らないんじゃないかと思うのだけれど……」
しかし、オレの疑問とクレイヴの質問は果たしてどちらが重要で優先されるべきなのかは、考えるまでもなく明白だ。
「逝邪(せいじゃ)という言葉を知っているかい?」
「……逝邪?」
耳馴染みのない単語に、オレは思わず首を傾げた。せい……なんとかという言葉を聞いたのはこれがはじめてだし、記憶にも当たらなかった。
「……次にアルセーヌに会ったら、もうちょっとちゃんと説明しろって怒っておくといいよ」
そうは言うもののクレイヴはアルセーヌの説明不足に呆れているというわけではないらしい。ひたすらに浮かべていた苦笑いを止め、すぐに本題へと入っていく。
「この話は少し難しいから、可能な限り簡単に言うけれど……」
言葉の詮索を数秒したのち、クレイヴが再び口を開いた。
「レズリーが逝邪だと思ってくれれば、差し支えないかな」
知り合いの名前と、今はじめて聞く単語の整合性が取れず、正直ところいまいちピンときていない。幽霊というのとはまた違うということなのだろうか?
「逝邪というのはね、魔法を暴走させて亡くなった際に起こる現象のようなものだ。一般的に言うなら幽霊という解釈に近いけど……一口にそういう扱いに出来ないのは、亡くなっても尚魔法が使えるという点が大きいね」
クレイヴはきっとかなり分かりやすく説明してくれているのだろうが、理解するには少々時間がかかる。今の段階では、分かったような分からないような曖昧な感覚だ。
「幽霊ってわけじゃないってこと……?」
「んー……幽霊という大きな枠の中にいる存在ってところかな。私も余り上手く説明が出来ないから、別に無理して理解しなくてもいいよ。ああでも、出来れば覚えておいて欲しいな」
どうやらこの話は、貴族でも難しい問題らしい。恐らくは、オレが理解するにはまだ早いのだと思う。情報と、それに付随する状況にまだ見舞われてはいないのだろう。
少し安心したのもつかの間。クレイヴはまたしても別の単語を取り出した。
「それともうひとつ。瞑邪(めいじゃ)という存在がいるんだ」
「め、めい……?」
「瞑邪。頑張って覚えてね」
そのほうがきっと役に立つから。そう付け加えて、そのまま更に話を続けた。
「瞑邪っていうのは、亡くなっても尚魔法が使えるというところまでは逝邪と同じだ。ただ、そこに更に条件が追加される」
「条件?」
「どうやって言ったら分かりやすいかな……」
その条件というものを果たしてどう伝えればいいのかと、クレイヴは言葉に迷っているらしかった。それとも、子供にも伝わるように話すには難しい何かが含まれているということなのだろうか?
「余り直接的なことは言いたくないんだけど……例えば魔法を使える人間が、誰かを殺害していた場合なんかは十中八九暝邪になるだろうね」
冷静なクレイヴの口調に、オレは何故かドキリとした。まるで、悪いことをしていないのに警察に遭遇したときのそれのような感覚だった。
「まあどちらにしても、魔法を暴走させるくらいの窮地に陥らないと起こらない現象ってところかな。普通に暮らしていれば、そんなことはまず起こらないからね」
普通に暮らしていれば。その言葉がやけに印象に残ってしまったのは、きっと父さんと母さんが死んだ事件がというのがその普通というのには到底当てはまらないものだからだろう。
レズリーが死んで逝邪になるという現象だって、それこそ普通に暮らしていれば起こることはなかったかも知れない。否、起こることなんてなかったのだろう。そう思うと、自然に視線が落ちていった。
「……あともうひとつだけ、いいかな?」
何かを察したのか、クレイヴは一旦オレの意思を確認した。一言「大丈夫」と口にすると、何故か尚更困った顔をしていたのだが、その理由はよく分からなかった。
「深淵の説明と言いたいところなんだけど、恐らく君は何となく分かっているよね?」
今ここでまた、深淵という単語を聞かなかったら、もしかしたらすっかり忘れていたかもしれない。それくらい片隅に、その単語はまだ辛うじてオレの頭の中に残っていた。
一瞬にして思い出されたのは、レズリーがその単語を口にしたときの状況と、その後にオレの目にしっかりと映っていた黒く微睡む何かだ。
「……あの黒いの、一体なんなの?」
その一言でクレイヴがまたしても難しい顔をする。
「平たく言ってしまうと、魔法かな」
どうやらオレの頭を混乱させる要因は、まだ沢山存在するらしい。
◇
「今日私が使ったもの、光の粒みたいなのがいわゆる貴族が使っている魔法だね」
そんなオレを余所に、落ち着いた声色の説明になんとか耳を傾けていった。魔法というものがなんなのかという認識こそはきっと間違ってはいないのだろう。
「それにひきかえ深淵というのは、黒い粒子が集まって澱みを生んでいる。違うモノのように見えるけど、その実中身は同じのはずだ」
問題はきっと、市民が知り得ない何かが含まれているということだ。
「魔法を暴走させて死亡した瞑邪が纏っているものが、その深淵だからね」
そのクレイヴの言い分に、オレは少し頭を捻った。どうやら頭はちゃんとついていく努力をしていたらしい。
「で、でもレズリーって逝邪なんだよね? なんでその深淵がレズリーのところにあるの……?」
深淵という話になってはじめての質問を投げると、クレイヴは少し難しい顔をした。どうやら言いにくいことが含まれていることらしいというのが、直感ではあるもののすぐに分かった。
「……余り憶測でモノは言いたくないのだけれど、可能性として考えられるのは二つ。瞑邪があの家に居た場合と、瞑邪という存在になり得ることをレズリーがしたかのどちらかだと私は思っているよ。後者は可能性としてはかなり低いが……どちらにしても、彼は事件のこと以外にも何か隠していることがあるんじゃないかな」
あくまでも憶測であるというのを主張しつつ、クレイヴはオレの質問にもしっかりと答えてくれた。ようは、確信がないから余り鵜?みにしてくれるなということなのだろう。
「さて……私の難しい話はこれで終わり。次は君の番」
「オ、オレ?」
「うん。いい加減、難しい話を聞くのも飽きただろう?」
クレイヴはそうやって言うが、特別飽きたという訳でもなかった。確かに難しい話ばかりが続いていて頭の中で上手く処理が出来てはいない。自分に関係のないことだったら、このまま理解しようともせずに匙を投げてしまいそうなくらいだ。正直これと言って聞きたいことがあるわけでもないのだか、一応少しだけ考えてみることにした。
多分この人は、オレが気になったことならなるべく分かりやすく簡潔に口にしてくれるだろう。この機会をそう簡単に逃してしまうのは、流石に少し勿体ないような気がしたのだ。
「……レズリーに通り魔のこと話してたけど、何か関係あるの?」
「ああ……あると言えばあるし、ないと言えばないね」
そう言って、クレイヴは更に言葉を続けた。
「……久しぶりに深淵を見て、ちょっと思い出したことがあってね。通り魔事件の犯人らしい人間が深淵を纏っていたという話を聞いたから聞いてみたんだけど、結局彼は事件のことは知らなかったようだし、直接的な関係はないんじゃないかな」
「ええっと……深淵を纏ってたってことは、その通り魔っていうのは魔法を使えるってこと?」
「そういうことになるだろうね。私は会ったことがないけど、どうも貴族が犯人ってわけじゃないらしいよ」
貴族が犯人ってわけじゃない。その言葉にやけに引っかかりを覚えてしまった。それは当然だろう。オレの知っている前情報と異なっていたのだ。
「魔法って、貴族じゃなくても使えるの……?」
恐る恐る、オレは疑問を提示した。
「使える素質のある家柄は多く存在するはずだよ。例えば幽霊が視える人っていうのは、その素質は持っていると言っていいんじゃないかな。まあ、それと魔法が使えるようになるかは別問題だけど」
ということは、その幽霊が視える市民の中で更にごく少数の人間が通り魔として存在してしまっているということなのだろうか? 日常事のようにクレイヴは話しているが、それはもしかしてとんでもない事件なのかも知れない。市民が思っているよりも遥かに、だ。
「貴族というのは、一般人の視えないモノが視え、尚且つそれに対する対抗措置を持っている家柄を総称した、ただのオカルト集団さ」
自虐を込めた最後の説明は、きっと間違ってはいないのだろう。しかしどちらにしても、貴族は貴族にしか出来ない方法で、尚且つ市民の見えないところで警察と協力しながら事件の解決策を練っているのだ。警察と協力というのだって、いわゆる一般人ではどうにもならないからやらざるを得ないのだろう。
さてここで、ひとつの疑問がまた頭に浮上した。それはずっと気になっていたことでもあったのだが、いまいち現実味がないせいで言葉にしきれなかったものである。
クレイヴはさっき、幽霊が視える人は魔法を使える素質があると言った。
「……レズリーが視える俺は、なんなの?」
レズリーは、十年も前に死亡している。幽霊という枠の中に逝邪がいるということは、オレがレズリーを認識するなんてことは出来ないはずだ。
オレが持っているブレスレットはレズリーがくれたものだけど、元は父さんのものであるとレズリーは言っていた。そして、そのブレスレットにはどうやら魔法が込められているらしい。それが意味するものは一体なんなのかを気にしないようにしていたのに、気になってしまうような情報を耳にしてしまった。どうも、今日のオレは聞きたがりのようである。
「その答えは、出来ればシント君自身が見つけてほしいな」
しかしクレイヴは、オレの疑問の答えを口に出すことはしなかった。
「ちゃんと自信を持ちなさい。それは、君が君の力で見つけてくれるのを待っているよ」
クレイヴの言葉そのものが答えのような、しかし明確には教えないという意思を感じた。つまりそれは、オレがオレの考えと意思の元、確信が持てる状態になったうえで答えになるということだろう。
曖昧な感情でそれを意識してはいけないと、ある種の警告のようだった。
◇
一通りの話が終わり、手元の紅茶が無くなったのを皮切りに、オレはようやくクレイヴの書斎から解放された。大事な話であるというのはよく分かるのだが、それはそれとして難しい話はどうにも疲れるというものだ。
少し前を歩くクレイヴに着いていき、受付のすぐ近くまではあっという間だった。そこで後ろを振り向いてきたクレイヴに、思わず少し緊張が走ってしまう。
「やっぱり送ろうか?」
「い、いいよ……すぐそこだし」
「シント君のすぐそこというのは、随分と範囲が広いようだね」
「シント……」
クレイヴに揚げ足をとられている最中のこと、出入口付近にある受付の、とある人物がオレの名前を反復した。ここ最近、図書館に来てからようやくお互いがお互いを認識したような感覚だ。
「前から思ってましたけど、昔会ったことありますよね?」
「……え?」
しかしどうやら、それとはまた少し違った状況らしい。
「ああそういえば、カルトさんと一緒に何度か図書館に来たことがあったね」
「僕も言うほど覚えている訳ではないですけど……」
続けてクレイヴから紹介を受けたのは、ルエードという同い年くらいの人物だ。前、エトガーと図書館に来た時にも見たことがあった人物だが、それよりも随分前にオレはこのルエードという人物と既に出会っていたらしい。
それが一体どれくらい前のことなのかはこれだけでは分からないが、ルエードが「余り覚えてないけど」と口にし、クレイヴがそれに同調する辺り、オレが思っているよりももう少し前の話なのかもしれない。
「……オレの父さん、見たことあったりする?」
魔が差した、とでも言えばいいのだろうか。気付けばそんなことを口走ってしまっていた。しかしそこに後悔というほどの感情はなく、単純に興味本位だったんだと思う。自分でもよく分からなかった。
少し考えた後、ルエードと呼ばれた人物はこう答えた。
「似てますよね、あなたと」
その言葉を聞いた瞬間、全身の体温が顔に上っていくような感覚に苛まれた。オレの質問の答えというわけでもないはずのに、どこか的確に痛い部分を突かれたような気分だった。
「……何かマズいことでも言いました?」
「はは、彼は意外と照れ屋なようだよ」
「そ、そんなんじゃないっ……!」
反射的に否定の言葉が出てしまい、更に居たたまれなくなったオレは勢いにまかせて身体を動かした。図書館というある程度静かであることが約束されている空間に、扉の開閉音が混じっていくのなんて今のオレの耳には入らなかった。
走り去るには十分なくらいに、図書館のある通りはそこまで人が多くない。市場の状態を知っている身としては少々物足りないと感じるくらいだが、今はこれが丁度よかった。
ルエードと名乗る人物は、オレと父さんが似てると言った。これでも父さんの顔はちゃんと思い出せるようにはなり、今は父さんの顔が頭から離れてくれなくて仕方がない。
(そんなこと……ない)
しかしどうにも、ルエードという人物の言葉を信じたくない自分がいた。
目頭に何かが溜まりかけているのを払拭するように、俺は思わず首を振った。横を通る風で身体の熱が飛んでいくのには、もう少し時間がかかりそうである。