オレとリオ、ひいてはリアと知り合ったのは約半年ほど前のことである。貴族と市民なんて話すこともないだろうというある種の固定概念をなくしたのは紛れもなくこの時だったが、この二人意外の市民と会話をするということが起こる訳でもなかった。しかしそれは、当然といっても差支えは無いだろう。そもそも生きている世界が違うのだ。
そうは言っても、オレにとって今までとは少し違う非日常的な状況はそれなりに続いた。長い年月というほどの時間は経っていないものの、ここまでくれば立派な日常だっただろう。だが、それはあくまでも仕事の範囲内であるということは常に念頭にあり、馴れ合う程の中になったつもりは毛頭ない。オレがある程度リオと接触をしていたのは、所謂監視に近かったのだ。
深淵に追われていたとはいえ、それを見ているのがオレだけであるということと、その深淵とリオとの関係性に明確な確証と証拠があるかと言われれば、そうでもなかったのだ。だからせいぜい定期的に状況を把握するということくらいしか、現状こちらが取れる手立てもなかった。
しかし、その非日常的状況がまたしても変化していったのは、正にこの時といっても過言ではない。
「……失踪か」
リオ・マルティアが家に帰ってこないと連絡が来たのは、オレが隣街に行く二か月も前の話だ。
警察を経由しての連絡ではあったものの比較的早くオレの耳に入った理由は、この件に関してハルトと父さんが既に警察との間に介入していたからということと、ある程度の見解が既に固まっていたからだろう。その連絡があった比較的すぐ後、オレはハルトと共にリアの元を訪れた。
彼女から聞いたのは、夜静かに家を出ていったっきり帰ってきた気配がないということと、財布を置いて出ていったということくらいだった。
どうやらリオが夜中一人で何処かに出掛けるということは前からあったらしく、一体何をしているのかと何度か問いかけたことがあったらしいが、一貫して「散歩」としか答えてくれなかったようだ。しかし、どうやらオレと会ってからはその素行がピタリと止まったようで、それ以上の詮索の余地はなかったらしい。
(オレと会ってから夜中に出歩かなくなったってのは、要するにその時間に貴族に会うと都合が悪かったってことか?)
だが、失踪する一週間ほど前からまたしても夜中に出歩いているような気配があったようだ。そこに一体どういう切っ掛けがあったかまでは分からない。ただ、その辺りから確かにオレはリオと会っていなかった。
言う程しょっちゅう会っていたわけでもなく、オレのほうから会いに行くということはまず無かったせいかも知れないが、感覚としては半月くらいは会っていなかっただろう。
(いや、どうだろうな……)
半年前、あの男は深淵に追われていた。あの男が一般人であるのなら、仮に深淵に追われるようなことがあったとしてもそんな事象はまず起こらない。何故なら、それが市民と貴族の違いに等しいからだ。
(仮にアイツを見つけたとしても、問題はその後だな……)
正直なところ、オレは至極冷静だった。この先、どう足掻いても起こり得る状況が分かっているからこその心境なのかもしれない。薄情と言われればそれまでかも知れないが、だからといって考えを改めることが出来るわけでもなかった。
ゆっくりと、歩むスピードを抑えていく。地に足をちゃんとつけた状態で意識を少し外側へと広げていくと、少しずつ見えないものが明瞭に伝わってくる。この感覚は、人に伝えるのはかなり難しい。
(やっぱり居るな……)
そしてこの感覚が身体に伝わってしまった時、無性に嫌な気持ちに晒されてしまうのだ。
辺りの空気を掴むように、オレは視えない何かを追うように足を翻した。行きかう人々を目で追いながらもを、隠れきれていないそれを目に入れようと必死だった。そうしてようやく感じ取れたのは、今この瞬間も探さないといけない人物の気配だ。そうは言っても、到底待ち望んではいない人物である。しかし探してはいた。それが今のオレの仕事だから当然だ。
場所から言ってここから比較的近いようで、オレは自然とその方向へと足を進めた。正確な場所までは分からないが、ある程度の方角は分かる。貴族なら大雑把にでも把握できる類のものだ。
大通りを少し外れた道に行こうと、人の波を少し避けながら歩みを進めていく一番近い小道に差し掛かろうかというその時だった。すれ違いざまに、ひとりの男とぶつかった。その瞬間、お互いにばっちりと目が合った。何かを口にするよりも前に、その人物はすぐに足を翻して立ち去っていく。
その人物は、リオ・マルティアという正しく今探そうとしていた人物だった。
おれがその人物を確かに理解した時には既に視界からその男は消えていたが、小難しいことを考えるよりもオレは既に一歩足を踏み出していた。だがその瞬間、小道からぬっと人の腕が伸びて誰かに引っ張られてしまう。またしても誰かに身体がぶつかった。
「あんまり深追いするな」
振り向くと、そこにはもう見飽きたも同然の父の姿があった。いつも通りの、取っつきにくい父さんの声は耳の奥にまで深く響き渡る。しかしどうして、父さんがオレを呼び止めたのかという理由がいまいち分からなかった。
「……いいの?」
よく見ると、父さんの息は少し上がっていた。
「後で嫌でも見る羽目になる」
それだけ口にすると、一体どこに向かおうというのか、腕を引っ張られるままにオレは父さんの後ろを付いて歩く。恐らくだが父さんはその人物を追っていたのだろうが、それなのに反対方向へとオレを連れて向かっていったのだ。
大通りから外れた人通りの少ない道を比較的早足で歩いてたというのもあり、目的地までまともな会話は生まれなかった。それが余計にオレの居心地を悪くさせたが、自分の中で跳ね返る鼓動がこの少ない運動量の中で起きる速さなのか、それともガラに似合わずこれから視界に入るであろうあらゆる可能性に危惧しているのかもよく分からなかった。後で嫌でも見る羽目になるという言葉の意味くらい聞けばよかったか、そう思った時には既に遅かった。
少し人が捌けた道の、更に隅にある何処かに繋がる細い道がふと目に入ったのは偶然ではない。
「あそこだ」
貴族にしか分からないであろう微量な光を、左目が捉えたのだ。一見誰も居ないただの路地だが、それは表向きに視えている状態だというだけに過ぎない。
路地の入り口、何もない虚空に父さんの手が触れると、その僅かな光が崩れ落ちていくように飛散していく。するとどうだろう。誰も居なかったはずの路地裏に、数人の人間が現れたのだ。これは決して突如として現れたというわけではない。元からそこに居たのだが、魔法の力で誰の姿も認識することが出来なかったのだ。
一番最初にオレの目に入ったのは、従兄弟である年上のハルトという人物と、顔だけは認識している所謂警察数人だ。その次に見えたのは、それらの人間の足元に転がっているあお向けで血を流しっぱなしにしている誰かの姿である。それを見た時、オレはどういうわけか眉間にしわを寄せた。それが一体どういう心象からくるものなのか、自分でもよく分からなかった。
放り出された片方のすぐ手の近くには、細身のナイフが転がっている。腹を執拗に刺されたのかどうなのか、左の腹部から伝う血液の水溜りを見れば致死量を超えているのだろうということは簡単に見て取れた。そうじゃなきゃ、こんなに悠長に誰もがなにもせずにこの人物の周りを囲うようにしているわけがない。つまりは完全に手遅れだったのだ。
ここに転がっている人物というのは一体誰だったのか?
どうしてオレがここに連れられたのか?
その答えを呑み込むには、どうにも胆力が必要だった。
◇
辺りの街並みは、とても整然としていた。人のいない夜中であるということがそれを更に助長しているようだが、それがどうにも腹立たしく感じてしまう。まるで、今から何が起こるのかを分かっていながら静観されているかのようだ。
「――またこんな時間に彷徨いてんのな」
夜の街中を当然のように歩いていたひとりの人物に、オレは声をかけた。知り合いだったからという理由がひとつと、もうひとつは到底見逃すことが出来るわけがなかったからだ。
その人物はオレが声をかけるとすぐに足を止めた。足を翻すサマはとてもねっとりとしており、目が合うと思わず眉間にシワがよった。リオ・マルティアという人物に会うとどうしても機嫌が悪くなってしまうのは、この際仕方のないことだと割り切るほかないだろう。
自ら話しかけておきながら「散歩をしていたら鉢合わせた」だなんて白々しいことは言わないが、かといって特別探していたわけでもなかった。
「……ネイケルから声をかけてくるだなんて珍しいね」
「声かけなくていい状況なら放っておくけど、そりゃ無理な話だろ?」
「どうして?」
オレに言わせようとしているのかどうなのか、回りくどく質問をかわそうとするその男に白々しさには少しばかり呆れてしまう。思いっきりため息をつきたくなってしまうほどだった。
「オマエ、こんな夜中になにしてるわけ?」
しかしそれでも尚、オレはまだ冷静だった。
「なにって言われても困るな……ただの散歩だし」
こんな時間にフードを被っているからか表情こそちゃんと見えてはいないが、その心のこもっていない平淡な口調と、僅かに見える笑みを前にしてもイマイチよく分からなかった。
「ああでも、探し物がひとつあったな。写真無くしちゃったんだよね」
一体何を思ってこの男がここに居るのか全くもって見当がつかないのだが、この際そんなことはどうでもいいのかも知れない。
「ネイケルは、その写真の在り処知ってる?」
わざとらしく口にしてきた写真という単語を、オレは比較的すんなりと受け入れた。
「……これだろ? 探してるの」
今日この男に会ってからずっと上着のポケットに入っていた右手が、ようやく外の空気に触れる。オレの手に持たれているのは、男の言う一枚の写真だ。状況はまるで逆ではあるが、いつかのあの日にコイツがオレに見せてきたものと全く同じものであり、そして恐らくコイツが今探しているものだろう。
「見つけてくれてありがと……って言ったら、返してくれるの?」
「なんでこの男探してんのか次第だな」
実際のところ易々と返すわけがないのだが、仮に返すことになったとして、せめてこの男が何を目的として写真に写っている人物を探しているのかの憶測は立てなければならない。男の回答によっては、過去のとある事象の結論を変える必要が出てくるのだ。
「……その男のことなんて、本気で探すわけないだろ」
どうやらオレの言葉のどれかが癇に触ったようで、目つきが鋭く尖っていく。
「ほんとは何にし来たの? はっきり言いなよ」
回りくどいとでも言いたいのだろう。場合によっては、一種の挑発だと捉えてもよかったかもしれない。そんな安い挑発に乗るわけがないのだが、話が延びたところで良いことは一つもないだろう。しかし、本当はこのまま何事もなく去ってしまいたくて仕方が無かった。
「――オマエ、死んでる自覚あんの?」
写真の左上の端にこびりついて離れない、黒ずんだ付着物は、この男のものである。
「だったら、なに?」
行方が掴めなかったリオ・マルティアという人物が路地裏で死亡していたのは、先日未明のことだ。
現場の状況と、それに付随する男を取り巻く環境から自殺ではないかという見立てがたっている。一応と付け加えておくべきなのか、これはまだ憶測の段階だ。
「死んだ奴のことわざわざ追うのが貴族の仕事なんだ? 凄いな」
独り言のように声を漏らした男の廻りには、既に黒い粒子がまとわり始めている。男からすれば、それはついさっきのことであるという認識かも分からないが、実際はそうではない。オレがその証明者だ。
最初に出会ったとき、その次に包みを渡されたとき、そしての妹と一緒にちょっかいを出しに来たとき。その後も会うことは何度かあった。そして今日、コイツを視界に入れた瞬間もそうだ。
「それだけが理由じゃないくせに」
オレの目には全て、深淵は映っていた。
◇
「死んだ奴にわざわざ接触してくるってことは、素性くらいとっくに調べてあるんでしょ?」
「……別に、そっちはオレの仕事じゃねえし」
目の前の男は、最早特別何かを隠そうとはしなかった。おおかたこっちが既に素性を調べ尽くしていると思っているのだろう。それは確かにそうなのだが、そこに関してもまた問題があった。
市民を相手取りながら、こうも安易に口を滑らせててはいけない状況というのは中々に珍しい。
「まあなんでもいいんだけど、そこ退いてくれる? じゃなかったら写真返して欲しいんだけど」
「んなこと言われて、ハイそうですかって退くわけねぇじゃん?」
「退いてよ」
口調はより一層強く、かつトーンも僅かに落ちた。
「せっかく自分だけで済んだのに、そうもいかなくなるじゃないか」
先程から地を這いずっていた深淵が、何処からともなく競り上がってくる。この男が既に深淵を使いこなしているように見えたのは、オレの気のせいではないだろう。更にコイツは、自分だけで済んだのにとそう口にした。
リオが死亡していた事件現場は、揉み合ったような形跡と凶器の類いが一切無かった。仮に犯人が知り合いで、その人物が刺し逃げをしたという線もあるにはあったが、それにしては何度も腹を刺したような痕があり、何度も刺されている状況で全く抵抗しなかったというのは不自然に等しかった。
状況証拠とコイツの言葉を合わせれば、自ら命を絶ったというのはおおよそ正しいのだろう。どういう経緯でその行動に至ったのかまでは流石にまだ分からないが、だったら尚更、何とかしなければならないと思うのが道理というものではないだろうか? しかしそうは言っても、オレは自分の力を過信出きるほど魔法とは別に仲良くもない。
「そういえば、ヴォルタ家のご子息様は魔法を使わないって噂、本当だったらネイケルはこの後死ぬよね?」
「そうそう使わねーよ。あんなクソダルいもん」
「ふぅん」
深淵が地面を黒く染める。大きく鼓舞して見せたそれは、何かを形成しようとしているのか渦を巻きながら集まっていった。
「じゃあ、今なら貴族の本気が見れたりするのかな?」
男の手の内に集約していくそれは一体何を形成しようとしているのか、想像は容易かった。コイツが自らを刺した凶器は、まだ見つかっていない。犯人がいるならまた話は変わってくるが、今回ばかりはそうではないだろう。
「この黒いやつ、どうして俺がここまで使えるようになったのかがイマイチ分かってないんだけど、貴族に聞いたら答えを教えてくれるの?」
本当はこの類いの質問なんて答える必要なんてないのだが、そうは言っても揺さぶりはかけておかなければならないだろう。それに、コイツにはまだ消えてもらっては困るのだ。
「生前に道理から外れる行為をすると起こり得るんだってよ。オマエ心当たりあんの?」
回答と同時に出したオレの質問に、男の動きがピタリと止まる。
「分かってるくせに聞かないでよ」
笑みを無くしたこの男を手には、いつの間にかしっかりと中型のナイフが握られていた。
「本当、これだから貴族は嫌いだ」
「お互い様じゃねぇか。オレも別に市民は好きじゃねぇし」
「あ、そう。じゃあ退かないんだったらさ――」
ちゃんと殺しに来てね。目の前にいるソイツが、そう口にしたすぐ後のことだ。形成が完了したブツをくるりと回転させると、尖端がキラリとオレを捉え男と共に此方へと突っ込んでくる。それはごく普通の一般人の動きと言うには素早く、しかし貴族のそれと呼ぶにはやはり少々物足りない。避けるのは比較的容易だった。
男が足を翻し、そのままの勢いで再び眼を見開いて刃物を振り回す。地面を踏みしめる音と角度で次に男がどう動くのかはすぐにわかったが、だからといって特別動くことはしなかった。
そのまま突っ込んでくる男が刃物を振りかざすのを合図に、男の右腕をむんずと掴みナイフを取り零そうとするが、そこを軸に男は更に思いっきり右脚を振り回す。オレにそれを止める術はなく、仕方なく男と距離をとった。外したことへの苛立ちか、男は小さく舌打ちを打った。ゆらりと卑しく舞う深淵は、どこまでも男の側をついて離れることはない。正直近づきたくも触れたくもないのだが、こればっかりは回避の仕様がなかった。
どうやら男は相当腹が立っているらしいが、それが果たしてコイツの本性なのかは計り知ることが困難だ。しかしまあ、深淵に晒された人間の本性なんて、知るに値するほどのモノでもない。
「……なんで魔法使おうとしないかな」
低く訴えるようなそれは、どこか魔法を使ってくれという懇願にすら聞こえてしまう。
「一応聞いておくけど、まさか貴族が死にたがりなわけじゃないよね? そういうの冷めるから止めてよ」
「そんなに見たいかよ? 変わってんな」
挑発とおぼしき発言を適当に交わしながら、一応考えてみることにした。魔法を使うか否かで言うなら明らかに使うべき状況なのは確かなのは理解できるのだが……。
「……どうなっても知らね」
こんなことになる度にそれ相応の覚悟をしないといけないというのも馬鹿らしいし、なにより貴族としてそれはどうなのか疑問を提示せざるを得ないだろう。それくらいのリスクを、オレは持ちあわせていた。
「オマエが見たいって言ったんだ。ちゃんと責任とる覚悟はあるんだよなぁ?」
仕方なく、どこか遠くの見えない心象へ向かって思いっきり息を吐く。静かに注力されていくそれは、目の前にいる男のモノとは性質も色も異なるものと言って差支えは無いだろう。月明かりよりも明るく、それでいて全く嫌な明るさではないと感じる辺り、ようやくオレが貴族であるという結論に落ち着いていく。
だんまりとその形象を見続けている目の前の男からしてみれば、恐らくは嫌で嫌で堪らないものでしかないのだろうが。
「……ネイケルってさ、右目いつも隠してるよね? どうして?」
まるで、子供が疑問を投げかけるかのように男は首を傾げて疑問を投げた。しかしその行動とは裏腹に、鼓舞を広げる深淵が右頬を掠めていった。
「別に隠す必要ないのにさ」
長く伸びた前髪は、通り過ぎた深淵により空を舞い隠れたオレの右目を露にさせる。その様子をまじまじと見つめる男の顔は、今までと同じ笑みというにはほど遠く、オレの知り得る限りのリオという人物が向けたもののように見えた。但しそれは、一瞬の出来事に過ぎなかった。
「貴族の本気見せてよ。まあどうせ――」
ネイケルは俺を消さないんだろうけど。そう口にして嫌らしく口角をあげた男のまわりに、黒々しくも僅かに光を帯びているようにも見えるそれらが集約する。
そのサマを見る度に、お互いが纏うそれの根本的な部分というのは同じであるということを思い知らされるのだ。
◇
――地面から、誰かが此方へと走ってくるような感覚が全身を伝う。
「……ネイケル!」
聞きなれた声ではあったものの、オレは特別振り向くことをしない。というよりも出来なかったのだ。何故なら、砂利にまみれた地面に背中をピッタリとつけて寝っ転がっていたからである。
「声でか……」
重く綴じていた目をようやく開くと、さっきまでは視界に入らなかった月はただただ街を傍観しているのがよく分かる。しかしそんなものをただひたすら見ている場合でもなく、次第に誰かの足音がゆっくりになるのを感じ、オレはようやく上半身を起こし始めた。
息を切らしたハルトは、オレが動いたことに安堵したのか僅かに落ち着きを見せ始める。幾ばくかの沈黙は、相手が言葉を選んでいることの合図だったのだろうか?
「魔法使った……?」
「分かってるなら聞くなっての」
そうだとするなら、この男は明らかに言葉のチョイスを間違えている。こんなド直球で口にするなら、考える必要なんてなかったはずなのだ。思わず髪の毛に手をやると、パラパラと小さな砂利が音をたてて地面へと落ちていく。
「んなぁー」
すると、今まで大人しくオレの腕の中で小さく収まっていたらしい猫が鳴いてみせた。
「なんだよ。もう居なくなったんだから帰れって」
「にゃあ」
「あ、馬鹿舐めんなよ」
「……猫?」
何で、と続きそうなハルトの疑問に答える人物は、この場においては誰もいなかった。擦れた手の甲に猫の唾液が染みて仕方がないのだが、手で払ってもなおついてきて離れてはくれなかった。もしかして同情されているのかとも思ったのだが、それは余りにも自分の情けなさを突き付けられるのでもう考えるのは止めることにする。
猫がオレの目の前に現れたのは、ハルトが来るよりも少し前の話だ。
家の影に隠れるようにしていたのは一応分かってはいたものの、かといってあの状況で構えるわけもなく放っておいたのだが、男がその猫に気付いていなかったのが頂けなかった。男が放った深淵が猫のすぐ近くで飛び散り、それに驚いた猫が急にこちらに飛び出してきたのだ。慌てて飛び込んできた猫を腕で抱きかかえた時、オレの動きが止まったのをいいことに、男の周りの深淵が膨張を始めたのだ。その間僅か数秒のことである。
まるで光と闇が反発しあうかのように、激しい爆発音と共に男とオレの間に目が開けられない程の光が割り込んできたのだ。
……その後のことは、余り覚えていない。気づけば地面に倒れこんでいたし、辺りは猫を覗くなら既に誰も居なかった。まるでそう、最初からそこには誰も居なかったかのようにである。それは辺りに堕ちていた深淵すらも例外ではなく、男の姿を捉えることはなかった。
そのことに気付いたのは、ハルトがここに訪れるほんの数秒前のことだ。
「……成長しねぇよなぁ、ほんと」
辺りは既に、すっかりといつもの夜長の姿を取り戻している。その中に落ちたオレの声は、何処か異端に響きを見せているように感じた。
少し前、いつだったかは思い出したくもないが、過去に起きたとあることが頭に過る。それを思い出しかけた瞬間、どうにも居心地が悪くなったオレは思いっきり頭を掻いた。
こんな真夜中に突然大きな光が瞬いたとなると、誰に見られていてもおかしくない。事件が起きたばかりで全員気が立っている状態だ。いつもと違うことが起きれば、大抵の場合は警察か貴族に矛先が行く。貴族が介入している事件となれば尚更、どうせ誰もが貴族に疑いを向けるはずだ。
市民からしてみれば、貴族が持つ魔法というのは自身が持つことの出来ないとされる不気味な存在で、貴族が市民の為に動いているだとかなんだとかいうのは最早関係ない。幾ら地位が高いとはいえ、貴族というだけで嫌悪感を持つ人間の声が大きくなれば相当立場は悪くなる。そんな難しいことを考えると、余計気がおかしくなりそうだった。
「ごめん……もっと早く来れれば俺が――」
「いや、そういうのマジでいいから。別にオマエに謝られることじゃねぇし」
どっちかと言うと謝らないといけないのはオレの方なんだけど。そう口にしてもよかったのだが、それよりも言わなければいけないことがあった。
「……それより、やっぱり父さんの見解当たってるわ」
「え……?」
と言っても、これはあくまでもまだ可能性の段階だ。ここからまた、父さんとの嫌な話し合いが始まることになる。そこで最終的にどういった方針の元動かなければならないのかを改めて決めないとならないだろう。どちらにしてもアイツは既に死亡しており、端的にいうなら幽霊ということになる。それに加えて深淵を既に操っていて、そしてついさっきの話だが、貴族に襲いかかってきたというおまけ付きだ。
こうなってしまっては余りいい結果にならないということだけは、最早揺るぎない未来の結末だろう。
◇
先日未明のことである。リオ・マルティアという人物の死体が、路地裏で発見された。ネイケルよりも早く現場についた俺は、地面に横たわっているその男の生死を確認した後急ぎ、路地裏に見えない魔法の壁を貼った。これをすることにより、市民から見てこの場所は誰も居ないただの路地にしか見えなくなるし、おまけに市民が近づかなくなる。人払いにはうってつけだった。
大事にならない為というのも勿論あるが、市民に知られないようにするというのが一番の理由である。
死亡していたリオの腹部には刃物で何度も刺した後があったものの、辺りや衣服が荒らされたような痕跡は殆どなく、尚且つ刃物が見つからなかった。この情報だけでいうのなら、比較的仲のいい知り合いに刺された後その知り合いが刃物を持って逃げたというのが一番有力な推理かもしれない。だがこの場合はそうではなかった。
何故なら、この男が深淵と既に触れているという時点で常識は既に通用しないものになってしまっているからである。
この事件の半年ほど前、ネイケル・ヴォルタというひとりの貴族がリオ・マルティアと接触した際、深淵に触れていたということは聞いている。どうしていち市民が深淵と接触するという事態が起こったのかについては、マルティア家は過去にひとつの事件を起こしていたというところに付随されるものだろう。その過去の事件というのは十二年ほど前の話になるが、どうやらその事件自体が根が深い事柄らしく、その事件について再び慎重に洗い出しを行いながらも、接触したネイケルがリオの動向を把握するということになった。
しかし、リオが死亡したのは正しくその最中だった。
リオの死亡理由はあくまでも仮設ではあったが、微かに深淵の粒子が残っていたこともあり、リオが深淵で武器を形成し自ら刺したのではないかというのが貴族の見解だった。そしてその見解が正解だったというのが分かるのは、ネイケルが実体の持たないリオと接触した際、リオが発したという「せっかく自分だけで済んだのに」言葉によるものだった。
ネイケルがリオと接触して以降、リオの気配が全くと言っていい程途切れてしまい、この街だけで処理をすることが困難になった矢先に、隣街で通り魔事件が起きたという話が耳に入った。どうやら一般人の犯行ではないらしいということもあり、ヴォルタ家の誰かが調査と銘打って隣街にまで足を運ぶという事態にまで陥った。
「……本当に行くの?」
「そりゃあな。流石に丸投げってわけにもいかねえだろ」
「それはそうかも知れないけど……」
あれだけ時間をかけて話し合った後だというのに、まだ俺はネイケルが隣街にいくことを渋っていた。心配だったというのは勿論、仮にリオが隣街に居た場合の処遇はネイケルに委ねられることとなるから余計だった。
これは信用していないという話ではなく、ネイケルがどういった判断をするのかが隣街に行く寸前になっても把握できなかったのだ。本人もどうするべきかと考えあぐねているのか、それとも本当に何も考えていないのかは分からないが、出来れば後者であって欲しいと思った。前者の場合、仮に情のようなものが含まれているのなら、それは余りにも荷が重く伸し掛かるものになってしまうからだ。
本人はそれを全くと言っていいほど口にはしないが、それが余計に迷いを見せているような気がしてならなかった。
「……無言の帰宅だけはしてくれるなよ」
「んー……」
この期に及んでそんな縁起の悪いことをわざわざ口にしなくてもいいのにと、普通ならそう噛みつくような言葉かもしれない。
「考えとくわ」
だが、ネイケルはそれでもまともな返事を返してこない。ネイケルもそうだが、その父であるナタリオさんも妙に口が悪いというか、随分と誤解されそうな言葉を選ぶものだ。こういう時に思わず小言を口にしたくなってしまいそうになるが、それを何とか抑え口は出さないように努めた。親子のやり取りに首を突っ込むほどオレは自己主張は強くない。
「ま、なるべく早く帰ってくるわぁ」
それだけ言ってすぐ、ネイケルは家を後にして行ってしまった。重要な仕事だっていうのに本人の言動は至って軽く、いつもの通りだった。それが余計に俺に難しい顔をさせていることに、恐らく本人は気付いていない。
そうは言っても、オレにとって今までとは少し違う非日常的な状況はそれなりに続いた。長い年月というほどの時間は経っていないものの、ここまでくれば立派な日常だっただろう。だが、それはあくまでも仕事の範囲内であるということは常に念頭にあり、馴れ合う程の中になったつもりは毛頭ない。オレがある程度リオと接触をしていたのは、所謂監視に近かったのだ。
深淵に追われていたとはいえ、それを見ているのがオレだけであるということと、その深淵とリオとの関係性に明確な確証と証拠があるかと言われれば、そうでもなかったのだ。だからせいぜい定期的に状況を把握するということくらいしか、現状こちらが取れる手立てもなかった。
しかし、その非日常的状況がまたしても変化していったのは、正にこの時といっても過言ではない。
「……失踪か」
リオ・マルティアが家に帰ってこないと連絡が来たのは、オレが隣街に行く二か月も前の話だ。
警察を経由しての連絡ではあったものの比較的早くオレの耳に入った理由は、この件に関してハルトと父さんが既に警察との間に介入していたからということと、ある程度の見解が既に固まっていたからだろう。その連絡があった比較的すぐ後、オレはハルトと共にリアの元を訪れた。
彼女から聞いたのは、夜静かに家を出ていったっきり帰ってきた気配がないということと、財布を置いて出ていったということくらいだった。
どうやらリオが夜中一人で何処かに出掛けるということは前からあったらしく、一体何をしているのかと何度か問いかけたことがあったらしいが、一貫して「散歩」としか答えてくれなかったようだ。しかし、どうやらオレと会ってからはその素行がピタリと止まったようで、それ以上の詮索の余地はなかったらしい。
(オレと会ってから夜中に出歩かなくなったってのは、要するにその時間に貴族に会うと都合が悪かったってことか?)
だが、失踪する一週間ほど前からまたしても夜中に出歩いているような気配があったようだ。そこに一体どういう切っ掛けがあったかまでは分からない。ただ、その辺りから確かにオレはリオと会っていなかった。
言う程しょっちゅう会っていたわけでもなく、オレのほうから会いに行くということはまず無かったせいかも知れないが、感覚としては半月くらいは会っていなかっただろう。
(いや、どうだろうな……)
半年前、あの男は深淵に追われていた。あの男が一般人であるのなら、仮に深淵に追われるようなことがあったとしてもそんな事象はまず起こらない。何故なら、それが市民と貴族の違いに等しいからだ。
(仮にアイツを見つけたとしても、問題はその後だな……)
正直なところ、オレは至極冷静だった。この先、どう足掻いても起こり得る状況が分かっているからこその心境なのかもしれない。薄情と言われればそれまでかも知れないが、だからといって考えを改めることが出来るわけでもなかった。
ゆっくりと、歩むスピードを抑えていく。地に足をちゃんとつけた状態で意識を少し外側へと広げていくと、少しずつ見えないものが明瞭に伝わってくる。この感覚は、人に伝えるのはかなり難しい。
(やっぱり居るな……)
そしてこの感覚が身体に伝わってしまった時、無性に嫌な気持ちに晒されてしまうのだ。
辺りの空気を掴むように、オレは視えない何かを追うように足を翻した。行きかう人々を目で追いながらもを、隠れきれていないそれを目に入れようと必死だった。そうしてようやく感じ取れたのは、今この瞬間も探さないといけない人物の気配だ。そうは言っても、到底待ち望んではいない人物である。しかし探してはいた。それが今のオレの仕事だから当然だ。
場所から言ってここから比較的近いようで、オレは自然とその方向へと足を進めた。正確な場所までは分からないが、ある程度の方角は分かる。貴族なら大雑把にでも把握できる類のものだ。
大通りを少し外れた道に行こうと、人の波を少し避けながら歩みを進めていく一番近い小道に差し掛かろうかというその時だった。すれ違いざまに、ひとりの男とぶつかった。その瞬間、お互いにばっちりと目が合った。何かを口にするよりも前に、その人物はすぐに足を翻して立ち去っていく。
その人物は、リオ・マルティアという正しく今探そうとしていた人物だった。
おれがその人物を確かに理解した時には既に視界からその男は消えていたが、小難しいことを考えるよりもオレは既に一歩足を踏み出していた。だがその瞬間、小道からぬっと人の腕が伸びて誰かに引っ張られてしまう。またしても誰かに身体がぶつかった。
「あんまり深追いするな」
振り向くと、そこにはもう見飽きたも同然の父の姿があった。いつも通りの、取っつきにくい父さんの声は耳の奥にまで深く響き渡る。しかしどうして、父さんがオレを呼び止めたのかという理由がいまいち分からなかった。
「……いいの?」
よく見ると、父さんの息は少し上がっていた。
「後で嫌でも見る羽目になる」
それだけ口にすると、一体どこに向かおうというのか、腕を引っ張られるままにオレは父さんの後ろを付いて歩く。恐らくだが父さんはその人物を追っていたのだろうが、それなのに反対方向へとオレを連れて向かっていったのだ。
大通りから外れた人通りの少ない道を比較的早足で歩いてたというのもあり、目的地までまともな会話は生まれなかった。それが余計にオレの居心地を悪くさせたが、自分の中で跳ね返る鼓動がこの少ない運動量の中で起きる速さなのか、それともガラに似合わずこれから視界に入るであろうあらゆる可能性に危惧しているのかもよく分からなかった。後で嫌でも見る羽目になるという言葉の意味くらい聞けばよかったか、そう思った時には既に遅かった。
少し人が捌けた道の、更に隅にある何処かに繋がる細い道がふと目に入ったのは偶然ではない。
「あそこだ」
貴族にしか分からないであろう微量な光を、左目が捉えたのだ。一見誰も居ないただの路地だが、それは表向きに視えている状態だというだけに過ぎない。
路地の入り口、何もない虚空に父さんの手が触れると、その僅かな光が崩れ落ちていくように飛散していく。するとどうだろう。誰も居なかったはずの路地裏に、数人の人間が現れたのだ。これは決して突如として現れたというわけではない。元からそこに居たのだが、魔法の力で誰の姿も認識することが出来なかったのだ。
一番最初にオレの目に入ったのは、従兄弟である年上のハルトという人物と、顔だけは認識している所謂警察数人だ。その次に見えたのは、それらの人間の足元に転がっているあお向けで血を流しっぱなしにしている誰かの姿である。それを見た時、オレはどういうわけか眉間にしわを寄せた。それが一体どういう心象からくるものなのか、自分でもよく分からなかった。
放り出された片方のすぐ手の近くには、細身のナイフが転がっている。腹を執拗に刺されたのかどうなのか、左の腹部から伝う血液の水溜りを見れば致死量を超えているのだろうということは簡単に見て取れた。そうじゃなきゃ、こんなに悠長に誰もがなにもせずにこの人物の周りを囲うようにしているわけがない。つまりは完全に手遅れだったのだ。
ここに転がっている人物というのは一体誰だったのか?
どうしてオレがここに連れられたのか?
その答えを呑み込むには、どうにも胆力が必要だった。
◇
辺りの街並みは、とても整然としていた。人のいない夜中であるということがそれを更に助長しているようだが、それがどうにも腹立たしく感じてしまう。まるで、今から何が起こるのかを分かっていながら静観されているかのようだ。
「――またこんな時間に彷徨いてんのな」
夜の街中を当然のように歩いていたひとりの人物に、オレは声をかけた。知り合いだったからという理由がひとつと、もうひとつは到底見逃すことが出来るわけがなかったからだ。
その人物はオレが声をかけるとすぐに足を止めた。足を翻すサマはとてもねっとりとしており、目が合うと思わず眉間にシワがよった。リオ・マルティアという人物に会うとどうしても機嫌が悪くなってしまうのは、この際仕方のないことだと割り切るほかないだろう。
自ら話しかけておきながら「散歩をしていたら鉢合わせた」だなんて白々しいことは言わないが、かといって特別探していたわけでもなかった。
「……ネイケルから声をかけてくるだなんて珍しいね」
「声かけなくていい状況なら放っておくけど、そりゃ無理な話だろ?」
「どうして?」
オレに言わせようとしているのかどうなのか、回りくどく質問をかわそうとするその男に白々しさには少しばかり呆れてしまう。思いっきりため息をつきたくなってしまうほどだった。
「オマエ、こんな夜中になにしてるわけ?」
しかしそれでも尚、オレはまだ冷静だった。
「なにって言われても困るな……ただの散歩だし」
こんな時間にフードを被っているからか表情こそちゃんと見えてはいないが、その心のこもっていない平淡な口調と、僅かに見える笑みを前にしてもイマイチよく分からなかった。
「ああでも、探し物がひとつあったな。写真無くしちゃったんだよね」
一体何を思ってこの男がここに居るのか全くもって見当がつかないのだが、この際そんなことはどうでもいいのかも知れない。
「ネイケルは、その写真の在り処知ってる?」
わざとらしく口にしてきた写真という単語を、オレは比較的すんなりと受け入れた。
「……これだろ? 探してるの」
今日この男に会ってからずっと上着のポケットに入っていた右手が、ようやく外の空気に触れる。オレの手に持たれているのは、男の言う一枚の写真だ。状況はまるで逆ではあるが、いつかのあの日にコイツがオレに見せてきたものと全く同じものであり、そして恐らくコイツが今探しているものだろう。
「見つけてくれてありがと……って言ったら、返してくれるの?」
「なんでこの男探してんのか次第だな」
実際のところ易々と返すわけがないのだが、仮に返すことになったとして、せめてこの男が何を目的として写真に写っている人物を探しているのかの憶測は立てなければならない。男の回答によっては、過去のとある事象の結論を変える必要が出てくるのだ。
「……その男のことなんて、本気で探すわけないだろ」
どうやらオレの言葉のどれかが癇に触ったようで、目つきが鋭く尖っていく。
「ほんとは何にし来たの? はっきり言いなよ」
回りくどいとでも言いたいのだろう。場合によっては、一種の挑発だと捉えてもよかったかもしれない。そんな安い挑発に乗るわけがないのだが、話が延びたところで良いことは一つもないだろう。しかし、本当はこのまま何事もなく去ってしまいたくて仕方が無かった。
「――オマエ、死んでる自覚あんの?」
写真の左上の端にこびりついて離れない、黒ずんだ付着物は、この男のものである。
「だったら、なに?」
行方が掴めなかったリオ・マルティアという人物が路地裏で死亡していたのは、先日未明のことだ。
現場の状況と、それに付随する男を取り巻く環境から自殺ではないかという見立てがたっている。一応と付け加えておくべきなのか、これはまだ憶測の段階だ。
「死んだ奴のことわざわざ追うのが貴族の仕事なんだ? 凄いな」
独り言のように声を漏らした男の廻りには、既に黒い粒子がまとわり始めている。男からすれば、それはついさっきのことであるという認識かも分からないが、実際はそうではない。オレがその証明者だ。
最初に出会ったとき、その次に包みを渡されたとき、そしての妹と一緒にちょっかいを出しに来たとき。その後も会うことは何度かあった。そして今日、コイツを視界に入れた瞬間もそうだ。
「それだけが理由じゃないくせに」
オレの目には全て、深淵は映っていた。
◇
「死んだ奴にわざわざ接触してくるってことは、素性くらいとっくに調べてあるんでしょ?」
「……別に、そっちはオレの仕事じゃねえし」
目の前の男は、最早特別何かを隠そうとはしなかった。おおかたこっちが既に素性を調べ尽くしていると思っているのだろう。それは確かにそうなのだが、そこに関してもまた問題があった。
市民を相手取りながら、こうも安易に口を滑らせててはいけない状況というのは中々に珍しい。
「まあなんでもいいんだけど、そこ退いてくれる? じゃなかったら写真返して欲しいんだけど」
「んなこと言われて、ハイそうですかって退くわけねぇじゃん?」
「退いてよ」
口調はより一層強く、かつトーンも僅かに落ちた。
「せっかく自分だけで済んだのに、そうもいかなくなるじゃないか」
先程から地を這いずっていた深淵が、何処からともなく競り上がってくる。この男が既に深淵を使いこなしているように見えたのは、オレの気のせいではないだろう。更にコイツは、自分だけで済んだのにとそう口にした。
リオが死亡していた事件現場は、揉み合ったような形跡と凶器の類いが一切無かった。仮に犯人が知り合いで、その人物が刺し逃げをしたという線もあるにはあったが、それにしては何度も腹を刺したような痕があり、何度も刺されている状況で全く抵抗しなかったというのは不自然に等しかった。
状況証拠とコイツの言葉を合わせれば、自ら命を絶ったというのはおおよそ正しいのだろう。どういう経緯でその行動に至ったのかまでは流石にまだ分からないが、だったら尚更、何とかしなければならないと思うのが道理というものではないだろうか? しかしそうは言っても、オレは自分の力を過信出きるほど魔法とは別に仲良くもない。
「そういえば、ヴォルタ家のご子息様は魔法を使わないって噂、本当だったらネイケルはこの後死ぬよね?」
「そうそう使わねーよ。あんなクソダルいもん」
「ふぅん」
深淵が地面を黒く染める。大きく鼓舞して見せたそれは、何かを形成しようとしているのか渦を巻きながら集まっていった。
「じゃあ、今なら貴族の本気が見れたりするのかな?」
男の手の内に集約していくそれは一体何を形成しようとしているのか、想像は容易かった。コイツが自らを刺した凶器は、まだ見つかっていない。犯人がいるならまた話は変わってくるが、今回ばかりはそうではないだろう。
「この黒いやつ、どうして俺がここまで使えるようになったのかがイマイチ分かってないんだけど、貴族に聞いたら答えを教えてくれるの?」
本当はこの類いの質問なんて答える必要なんてないのだが、そうは言っても揺さぶりはかけておかなければならないだろう。それに、コイツにはまだ消えてもらっては困るのだ。
「生前に道理から外れる行為をすると起こり得るんだってよ。オマエ心当たりあんの?」
回答と同時に出したオレの質問に、男の動きがピタリと止まる。
「分かってるくせに聞かないでよ」
笑みを無くしたこの男を手には、いつの間にかしっかりと中型のナイフが握られていた。
「本当、これだから貴族は嫌いだ」
「お互い様じゃねぇか。オレも別に市民は好きじゃねぇし」
「あ、そう。じゃあ退かないんだったらさ――」
ちゃんと殺しに来てね。目の前にいるソイツが、そう口にしたすぐ後のことだ。形成が完了したブツをくるりと回転させると、尖端がキラリとオレを捉え男と共に此方へと突っ込んでくる。それはごく普通の一般人の動きと言うには素早く、しかし貴族のそれと呼ぶにはやはり少々物足りない。避けるのは比較的容易だった。
男が足を翻し、そのままの勢いで再び眼を見開いて刃物を振り回す。地面を踏みしめる音と角度で次に男がどう動くのかはすぐにわかったが、だからといって特別動くことはしなかった。
そのまま突っ込んでくる男が刃物を振りかざすのを合図に、男の右腕をむんずと掴みナイフを取り零そうとするが、そこを軸に男は更に思いっきり右脚を振り回す。オレにそれを止める術はなく、仕方なく男と距離をとった。外したことへの苛立ちか、男は小さく舌打ちを打った。ゆらりと卑しく舞う深淵は、どこまでも男の側をついて離れることはない。正直近づきたくも触れたくもないのだが、こればっかりは回避の仕様がなかった。
どうやら男は相当腹が立っているらしいが、それが果たしてコイツの本性なのかは計り知ることが困難だ。しかしまあ、深淵に晒された人間の本性なんて、知るに値するほどのモノでもない。
「……なんで魔法使おうとしないかな」
低く訴えるようなそれは、どこか魔法を使ってくれという懇願にすら聞こえてしまう。
「一応聞いておくけど、まさか貴族が死にたがりなわけじゃないよね? そういうの冷めるから止めてよ」
「そんなに見たいかよ? 変わってんな」
挑発とおぼしき発言を適当に交わしながら、一応考えてみることにした。魔法を使うか否かで言うなら明らかに使うべき状況なのは確かなのは理解できるのだが……。
「……どうなっても知らね」
こんなことになる度にそれ相応の覚悟をしないといけないというのも馬鹿らしいし、なにより貴族としてそれはどうなのか疑問を提示せざるを得ないだろう。それくらいのリスクを、オレは持ちあわせていた。
「オマエが見たいって言ったんだ。ちゃんと責任とる覚悟はあるんだよなぁ?」
仕方なく、どこか遠くの見えない心象へ向かって思いっきり息を吐く。静かに注力されていくそれは、目の前にいる男のモノとは性質も色も異なるものと言って差支えは無いだろう。月明かりよりも明るく、それでいて全く嫌な明るさではないと感じる辺り、ようやくオレが貴族であるという結論に落ち着いていく。
だんまりとその形象を見続けている目の前の男からしてみれば、恐らくは嫌で嫌で堪らないものでしかないのだろうが。
「……ネイケルってさ、右目いつも隠してるよね? どうして?」
まるで、子供が疑問を投げかけるかのように男は首を傾げて疑問を投げた。しかしその行動とは裏腹に、鼓舞を広げる深淵が右頬を掠めていった。
「別に隠す必要ないのにさ」
長く伸びた前髪は、通り過ぎた深淵により空を舞い隠れたオレの右目を露にさせる。その様子をまじまじと見つめる男の顔は、今までと同じ笑みというにはほど遠く、オレの知り得る限りのリオという人物が向けたもののように見えた。但しそれは、一瞬の出来事に過ぎなかった。
「貴族の本気見せてよ。まあどうせ――」
ネイケルは俺を消さないんだろうけど。そう口にして嫌らしく口角をあげた男のまわりに、黒々しくも僅かに光を帯びているようにも見えるそれらが集約する。
そのサマを見る度に、お互いが纏うそれの根本的な部分というのは同じであるということを思い知らされるのだ。
◇
――地面から、誰かが此方へと走ってくるような感覚が全身を伝う。
「……ネイケル!」
聞きなれた声ではあったものの、オレは特別振り向くことをしない。というよりも出来なかったのだ。何故なら、砂利にまみれた地面に背中をピッタリとつけて寝っ転がっていたからである。
「声でか……」
重く綴じていた目をようやく開くと、さっきまでは視界に入らなかった月はただただ街を傍観しているのがよく分かる。しかしそんなものをただひたすら見ている場合でもなく、次第に誰かの足音がゆっくりになるのを感じ、オレはようやく上半身を起こし始めた。
息を切らしたハルトは、オレが動いたことに安堵したのか僅かに落ち着きを見せ始める。幾ばくかの沈黙は、相手が言葉を選んでいることの合図だったのだろうか?
「魔法使った……?」
「分かってるなら聞くなっての」
そうだとするなら、この男は明らかに言葉のチョイスを間違えている。こんなド直球で口にするなら、考える必要なんてなかったはずなのだ。思わず髪の毛に手をやると、パラパラと小さな砂利が音をたてて地面へと落ちていく。
「んなぁー」
すると、今まで大人しくオレの腕の中で小さく収まっていたらしい猫が鳴いてみせた。
「なんだよ。もう居なくなったんだから帰れって」
「にゃあ」
「あ、馬鹿舐めんなよ」
「……猫?」
何で、と続きそうなハルトの疑問に答える人物は、この場においては誰もいなかった。擦れた手の甲に猫の唾液が染みて仕方がないのだが、手で払ってもなおついてきて離れてはくれなかった。もしかして同情されているのかとも思ったのだが、それは余りにも自分の情けなさを突き付けられるのでもう考えるのは止めることにする。
猫がオレの目の前に現れたのは、ハルトが来るよりも少し前の話だ。
家の影に隠れるようにしていたのは一応分かってはいたものの、かといってあの状況で構えるわけもなく放っておいたのだが、男がその猫に気付いていなかったのが頂けなかった。男が放った深淵が猫のすぐ近くで飛び散り、それに驚いた猫が急にこちらに飛び出してきたのだ。慌てて飛び込んできた猫を腕で抱きかかえた時、オレの動きが止まったのをいいことに、男の周りの深淵が膨張を始めたのだ。その間僅か数秒のことである。
まるで光と闇が反発しあうかのように、激しい爆発音と共に男とオレの間に目が開けられない程の光が割り込んできたのだ。
……その後のことは、余り覚えていない。気づけば地面に倒れこんでいたし、辺りは猫を覗くなら既に誰も居なかった。まるでそう、最初からそこには誰も居なかったかのようにである。それは辺りに堕ちていた深淵すらも例外ではなく、男の姿を捉えることはなかった。
そのことに気付いたのは、ハルトがここに訪れるほんの数秒前のことだ。
「……成長しねぇよなぁ、ほんと」
辺りは既に、すっかりといつもの夜長の姿を取り戻している。その中に落ちたオレの声は、何処か異端に響きを見せているように感じた。
少し前、いつだったかは思い出したくもないが、過去に起きたとあることが頭に過る。それを思い出しかけた瞬間、どうにも居心地が悪くなったオレは思いっきり頭を掻いた。
こんな真夜中に突然大きな光が瞬いたとなると、誰に見られていてもおかしくない。事件が起きたばかりで全員気が立っている状態だ。いつもと違うことが起きれば、大抵の場合は警察か貴族に矛先が行く。貴族が介入している事件となれば尚更、どうせ誰もが貴族に疑いを向けるはずだ。
市民からしてみれば、貴族が持つ魔法というのは自身が持つことの出来ないとされる不気味な存在で、貴族が市民の為に動いているだとかなんだとかいうのは最早関係ない。幾ら地位が高いとはいえ、貴族というだけで嫌悪感を持つ人間の声が大きくなれば相当立場は悪くなる。そんな難しいことを考えると、余計気がおかしくなりそうだった。
「ごめん……もっと早く来れれば俺が――」
「いや、そういうのマジでいいから。別にオマエに謝られることじゃねぇし」
どっちかと言うと謝らないといけないのはオレの方なんだけど。そう口にしてもよかったのだが、それよりも言わなければいけないことがあった。
「……それより、やっぱり父さんの見解当たってるわ」
「え……?」
と言っても、これはあくまでもまだ可能性の段階だ。ここからまた、父さんとの嫌な話し合いが始まることになる。そこで最終的にどういった方針の元動かなければならないのかを改めて決めないとならないだろう。どちらにしてもアイツは既に死亡しており、端的にいうなら幽霊ということになる。それに加えて深淵を既に操っていて、そしてついさっきの話だが、貴族に襲いかかってきたというおまけ付きだ。
こうなってしまっては余りいい結果にならないということだけは、最早揺るぎない未来の結末だろう。
◇
先日未明のことである。リオ・マルティアという人物の死体が、路地裏で発見された。ネイケルよりも早く現場についた俺は、地面に横たわっているその男の生死を確認した後急ぎ、路地裏に見えない魔法の壁を貼った。これをすることにより、市民から見てこの場所は誰も居ないただの路地にしか見えなくなるし、おまけに市民が近づかなくなる。人払いにはうってつけだった。
大事にならない為というのも勿論あるが、市民に知られないようにするというのが一番の理由である。
死亡していたリオの腹部には刃物で何度も刺した後があったものの、辺りや衣服が荒らされたような痕跡は殆どなく、尚且つ刃物が見つからなかった。この情報だけでいうのなら、比較的仲のいい知り合いに刺された後その知り合いが刃物を持って逃げたというのが一番有力な推理かもしれない。だがこの場合はそうではなかった。
何故なら、この男が深淵と既に触れているという時点で常識は既に通用しないものになってしまっているからである。
この事件の半年ほど前、ネイケル・ヴォルタというひとりの貴族がリオ・マルティアと接触した際、深淵に触れていたということは聞いている。どうしていち市民が深淵と接触するという事態が起こったのかについては、マルティア家は過去にひとつの事件を起こしていたというところに付随されるものだろう。その過去の事件というのは十二年ほど前の話になるが、どうやらその事件自体が根が深い事柄らしく、その事件について再び慎重に洗い出しを行いながらも、接触したネイケルがリオの動向を把握するということになった。
しかし、リオが死亡したのは正しくその最中だった。
リオの死亡理由はあくまでも仮設ではあったが、微かに深淵の粒子が残っていたこともあり、リオが深淵で武器を形成し自ら刺したのではないかというのが貴族の見解だった。そしてその見解が正解だったというのが分かるのは、ネイケルが実体の持たないリオと接触した際、リオが発したという「せっかく自分だけで済んだのに」言葉によるものだった。
ネイケルがリオと接触して以降、リオの気配が全くと言っていい程途切れてしまい、この街だけで処理をすることが困難になった矢先に、隣街で通り魔事件が起きたという話が耳に入った。どうやら一般人の犯行ではないらしいということもあり、ヴォルタ家の誰かが調査と銘打って隣街にまで足を運ぶという事態にまで陥った。
「……本当に行くの?」
「そりゃあな。流石に丸投げってわけにもいかねえだろ」
「それはそうかも知れないけど……」
あれだけ時間をかけて話し合った後だというのに、まだ俺はネイケルが隣街にいくことを渋っていた。心配だったというのは勿論、仮にリオが隣街に居た場合の処遇はネイケルに委ねられることとなるから余計だった。
これは信用していないという話ではなく、ネイケルがどういった判断をするのかが隣街に行く寸前になっても把握できなかったのだ。本人もどうするべきかと考えあぐねているのか、それとも本当に何も考えていないのかは分からないが、出来れば後者であって欲しいと思った。前者の場合、仮に情のようなものが含まれているのなら、それは余りにも荷が重く伸し掛かるものになってしまうからだ。
本人はそれを全くと言っていいほど口にはしないが、それが余計に迷いを見せているような気がしてならなかった。
「……無言の帰宅だけはしてくれるなよ」
「んー……」
この期に及んでそんな縁起の悪いことをわざわざ口にしなくてもいいのにと、普通ならそう噛みつくような言葉かもしれない。
「考えとくわ」
だが、ネイケルはそれでもまともな返事を返してこない。ネイケルもそうだが、その父であるナタリオさんも妙に口が悪いというか、随分と誤解されそうな言葉を選ぶものだ。こういう時に思わず小言を口にしたくなってしまいそうになるが、それを何とか抑え口は出さないように努めた。親子のやり取りに首を突っ込むほどオレは自己主張は強くない。
「ま、なるべく早く帰ってくるわぁ」
それだけ言ってすぐ、ネイケルは家を後にして行ってしまった。重要な仕事だっていうのに本人の言動は至って軽く、いつもの通りだった。それが余計に俺に難しい顔をさせていることに、恐らく本人は気付いていない。