「ええー! 深淵に追われてる市民に会った!?」
「うっさ……」
家の中が騒がしくなる時というのは、いつ何時も降って湧いてくるこの男のせいである。少々オーバーに感じる程に声がデカく感じるのは、ことの重大さのわりに家が静まり返っているからだろう。ちょうど飯時だったお陰で、今リビングにはオレと両親と一人の従者。それともう一人だけ、この家の人間ではない従兄弟のハルトという人物がいた。どうしてこの人物がいるのかはイマイチよく分からないが、いつものことだったから誰もそこまで気には留めなかった。
下手したら貴族会議が始まりそうなこの中で尚更こんな話なんてしたくはないが、コイツに来るタイミングが完全に悪いのがいけないのだ。オレのせいじゃない。
「それ、いつの話?」
「別にいつだっていいだろ」
「いや良くないよ。最近?」
続けざまのハルトの質問に、オレはまともに答えなかった。いつと言われれば昨日と今日の狭間のことなのだが、如何せん黙って家を出ていたというのもあって、そう簡単に言うのは少々憚られてしまった。
「……もしかして昨日の夜か?」
「なんで分かんの」
しかしそれは、父さんの介入のせいで比較的すぐ白状するに至った。別にそこまでして秘密にしなければいけなかったことでも無かったから構わないのだが、どうしてオレが夜中に出歩いたのが分かったのかの答えは教えてはくれなかった。親子してまともなやり取りが発生しない辺り、これから先も恐らく改善は不可能だ。
しかしそうは言っても父さんはどうやらどうやら呆れてはいるようで、オレに向けられる視線が度々痛く感じた。母に至っては「あらまぁ……」と感嘆を口にしただけで、それ以上話に介入することはない。
「その人の特徴は? 男? 女?」
「男。特徴っつってもなー……」
この場において、会話を転がせていくのはハルトただ一人だった。
あの街灯の暗がりの中、果たして特徴になり得るものはあっただろうか? 正直なところ、覚えていないというのが本音だった。
「少なくとも、ここらに住んでるヤツじゃなかったけど」
一応過去の記憶を引き出しては見たものの、生憎思い当たる節はなく、強いて言うならこの辺りに住んでいる人物ではないということくらいしか提供することは出来なかった。だが、それでも微々たる記憶中で思い出したことはあった。
「……そーいや、人探してたな」
「人探し……?」
あの男がポケットから出したのは、古い一枚の写真だ。女と一緒に写っていたということと、探していたのはどうやら男であるというのを伝えると、辺りは忽ち静かになっていく。誰もが考え込んでいる証拠だろう。
「……人探しをしてたのなら、警察に何かしらの情報が入ってるかも知れない。その辺りは僕が警察に掛け合ってみますけど、その情報だけじゃすぐに割り出すのは時間がかかります」
六つ歳上の従兄弟の口調が、急に仕事をする時のそれに変わった。徐々に敬語に切り替わっていくのは、恐らくは父さんの意見が必要だったからだろう。
「……再びお前に接触してくる可能性は?」
「あるんじゃねえの? オレの名前聞きたがってたし、答えてねぇから彷徨いてたらまた来るかもな」
別にここまで見込んで名前を言わなかったというわけでもないのだが、この時点でオレを街で見かけた際に相手が寄ってくる口実が既に出来ている。可能性としてはそこまで高くないとは思うが、何もないよりは遥かにマシだろう。
「……思い出した」
記憶が弾けるように、夜の出来事が脳裏に走る。
「名前、リオって言ってたわ」
そう口にすると、ハルトは少々考え込んだ。おおかた記憶を探っているのだろうが、問題はそれに父さんが加わっていたということだった。それはつまりどういうことか?
ただのいち市民の名前が、貴族に何かしら引っかか部分を与えるだなんてことはある訳がないのだ。
「……リオか」
しかし、父さんについてはその限りではなかった。
「知ってるんですか?」
「いや……」
父さんの記憶に引っかかる部分があったのか、思考の時間が僅かに続く。
「……面倒なことになってるかもな」
この時の父さんの言い回しが一体どういうことなのか、この時のオレはそこまで理解が出来ていなかった。辛うじて父が口にした「面倒なことになってる」というのが、その面倒なことになり得るようなことを既に父は把握しているということだけは理解した。そうじゃなきゃ、リオという名前を耳にした途端にここまで考え込むことはなかっただろう。
これが隣街まで巻き込む程の事態に発展するということは、もしかしたらこれよりも前に既に決まっていたことなのかもしれない。
◇
数日の時というのは特に何事もなければ静かに流れていくが、この時ばかりはそうではなかった。どこかの誰かに会って以来、それはよく訪れるようにも感じていた。
「あ、いたいた」
その要因のひとつは、おおかたこんな道のど真ん中で猫に襲われている貴族に話しかけてくるひとりの男のせいだろう。
「こんにちは。久しぶり、でいいのかな」
つい六十時間ほど前に聞いたような声が、突然後ろから聞こえてきた。振り向くべきか僅かに迷ったものの、そこまで薄情なわけでもないお陰で嫌々ながら顔をあげた。
「そ、そんなに嫌な顔されるとは思わなかったよ……」
どうやら自分が思っていたよりも嫌な顔をしていたらしく、それが分かっていたのなら振り向かない方がマシだったんじゃないかとも思ってしまう。しかしオレが貴族であるが故に、そうもいかない状況であることには変わりない。
「……なんか用かよ?」
「いや、用は特にないんだけど」
だが、やっぱり男のほうを向いて後悔したという思いはどうにも拭うことは出来なかった。男の言葉でそれを確信したのもつかの間、男がオレの視線にまで屈んできた。あの時は暗くてよく見えなかった顔が、今日はそれなりによく見える。オレよりも僅かに年上に見えたが、だからといって態度を改めるわけでもなかった。
「名前、まだ聞いてないなって思って」
「……オマエに教える理由ねーし」
「そんなことないよ。何かの縁っていうか」
この前も思ったが、本当に知らないのだろうかというのが頭に過るせいで、馬鹿正直に名前を言う気にはならなかった。貴族が多くない街の中、オレのことを知らないということがあるのだろうか? 一度もあったことない、そもそも街に顔を出すことが少ない、といった特徴があるのならともかく、生憎そこまで引きこもりではない。今の状況がその証拠だ。
「……っていうのは半分嘘。お礼したくて探してたんだよ」
その言葉は、オレからすると少し意外なモノだった。
「礼言われるようなことしてねぇけど」
「そんなことないでしょ。助けてもらったんだし。ああ、大したことは出来ないけど」
男はそう言うと、着ている上着のポケットを音を立てて漁り始めた。衣擦れの音とは少し違う別のモノが混じっているようなそんな耳障りに感じたのは、どうやら気のせいではなかったらしい。
「丁度妹が作ってたから、ちょっと貰ってきちゃったんだよね」
左のそれから出てきたのは、簡素なリボンで縛られている小袋だ。中身には、その袋のサイズに見合った濃い茶色をしたクッキーが数枚入っている。
「……それだけの為に探すとか、オマエ暇だな」
「いや、探すというか……」
言葉を探すような仕草で、男は空いている左手で自身の頭に触れた。
「だって君、あっちこっちでよく猫と遊んでるでしょ? 人に聞いてみたら結構すぐに見つかったよ」
男が見せる笑みに僅かにペースを乱されるこの感じ。どことなくあの夜と似ているようだ。
「で、名前だよ名前。俺まだ聞いてないんだけど」
そう言うと、男はすぐに笑顔を繕った。あの時と状況が似ているような気もしたが、未だに手に纏わりついている僅かに触れる猫の毛並みだけが、少なからずあの時とは状況が全く違うということの表れのようなそんな気がした。
今のこの瞬間にこの男から逃げることは容易だが、同じ街に住んでいる以上隠していたところでいいことは余りない。それこそ、なにか如何わしいことをしているのであれば偽名でも口にしていたかも知れないが、それをしたところでメリットは無いに等しいだろう。
「……ネイケルだよ。ネイケル・ヴォルタ」
それに、生憎オレは不真面目な貴族というほど振り切れる行動を取れる性格ではなかった。オレの名前を聞いて男は一瞬驚いたような視線をオレに向けたが、すぐに笑みを見せた。
「やっぱりあそこの貴族の人かぁ! そうだろうなとは思ってたけど、どうせなら名前ちゃんと聞こうと思ってたんだ」
「んだよ、知ってんじゃん……」
なんだ、やっぱりこの男は知っていたんじゃないか。そんな思いが、ため息に混じって落ちる。よく考えてみれば、猫と遊び歩いているという特徴だけでオレのことを簡単に探せるわけがなかったのだ。既に名前を知っていて人に尋ねたか、その訪ねた人物がオレの名前を口にしたのかどちらかだろう。
この類いの、ズカズカとテリトリーに入ってくるようなタイプはどうにも苦手で煩わしい。何でもいいから早く話が終わって欲しかったのだけれど、どうもそうはいかないらしかった。
「よろしくね、ネイケル」
一体何を宜しくされるのか、理由もよく分からないまま、気付けば手のひらには小袋に入ったクッキーが乗せられていた。どういう訳か、小袋の置かれた右手が酷く重くなったような、そんな気がした。
◇
昼間、午後十四時過ぎの太陽がやけに眩しく感じるのは、恐らくは公園のベンチでぼうっとしているせいだろう。
「にゃ」
左足を軸に足を組み、ベンチの手すりに右肘をつけて挙句には頬杖をついて、いかにも暇そうにしている一見すると貴族になんて見えない怪しい奴にちょっかいを出してくる存在なんて、猫くらいなもんだ。
「んだよ」
「うなっ」
「いちいち来るなって。そっち空いてんだろ」
オレの言うことが猫に届いている気配はまるでなく、ずかずかと膝の上へと上がってくる。まるで自分の椅子がここにあるかのように、猫はわざわざオレの膝の上を陣取ったのだ。
「重……オマエ太っただろ?」
オレの小言が聞こえているのかいないのか、茶猫は大きな欠伸をした。完全にリラックスしているということは、これは身体を動かそうもんなら猫に怒られるだろう。仕方なく、オレは猫の身体の上に空いていた左手を置いた。
一口に本当に暇というわけではないのだが、恐らく周りからはそう見えるのだろう。それは強ち間違ってはいないというのもある意味では事実のひとつだ。
「あ、また猫と戯れてる」
但し、それは所詮何も知らない市民の言い分でしかないということを、話しかけてきたこの男はきっと知らないだろう。気付けばベンチの手すりを返してすぐ右近くにまで迫っていたらしく、ようやく視線を話かけてきた人物のほうへと向けた。
「……またオマエかよ」
「いい加減、名前覚えてくれた?」
「知らね……」
突っかかってくる人間がこういう奴だと非常に厄介で面倒だが、目的は正しくこういうことだと言っていい。
「あ、この前のクッキー食べた? リアが作ったって話したよね?」
この質問にオレは答えなかったが、そんなことはお構いなしに「この人だよ。この前話したネイケルって人」と、後ろに向かってリオは声を発していく。よく見ると、確かに誰かがリオの後ろに着いているのが分かった。リオの背から顔だけ覗かせたのは、ひとりの女である。
「……リアとは、初めましてでいいんだよね?」
その問いにも、オレは答えることをしなかった。
「こ、こんにちは」
オレがリア・マルティアという人物に会ったのは、これが最初のことだと記憶している。もしそうじゃなかったとするのなら、オレはとんだ薄情者だと言われても弁解は無理だろう。
そうじゃなければいいと切に願ったのは、どちらかと言えばまだ記憶に新しい。
「うっさ……」
家の中が騒がしくなる時というのは、いつ何時も降って湧いてくるこの男のせいである。少々オーバーに感じる程に声がデカく感じるのは、ことの重大さのわりに家が静まり返っているからだろう。ちょうど飯時だったお陰で、今リビングにはオレと両親と一人の従者。それともう一人だけ、この家の人間ではない従兄弟のハルトという人物がいた。どうしてこの人物がいるのかはイマイチよく分からないが、いつものことだったから誰もそこまで気には留めなかった。
下手したら貴族会議が始まりそうなこの中で尚更こんな話なんてしたくはないが、コイツに来るタイミングが完全に悪いのがいけないのだ。オレのせいじゃない。
「それ、いつの話?」
「別にいつだっていいだろ」
「いや良くないよ。最近?」
続けざまのハルトの質問に、オレはまともに答えなかった。いつと言われれば昨日と今日の狭間のことなのだが、如何せん黙って家を出ていたというのもあって、そう簡単に言うのは少々憚られてしまった。
「……もしかして昨日の夜か?」
「なんで分かんの」
しかしそれは、父さんの介入のせいで比較的すぐ白状するに至った。別にそこまでして秘密にしなければいけなかったことでも無かったから構わないのだが、どうしてオレが夜中に出歩いたのが分かったのかの答えは教えてはくれなかった。親子してまともなやり取りが発生しない辺り、これから先も恐らく改善は不可能だ。
しかしそうは言っても父さんはどうやらどうやら呆れてはいるようで、オレに向けられる視線が度々痛く感じた。母に至っては「あらまぁ……」と感嘆を口にしただけで、それ以上話に介入することはない。
「その人の特徴は? 男? 女?」
「男。特徴っつってもなー……」
この場において、会話を転がせていくのはハルトただ一人だった。
あの街灯の暗がりの中、果たして特徴になり得るものはあっただろうか? 正直なところ、覚えていないというのが本音だった。
「少なくとも、ここらに住んでるヤツじゃなかったけど」
一応過去の記憶を引き出しては見たものの、生憎思い当たる節はなく、強いて言うならこの辺りに住んでいる人物ではないということくらいしか提供することは出来なかった。だが、それでも微々たる記憶中で思い出したことはあった。
「……そーいや、人探してたな」
「人探し……?」
あの男がポケットから出したのは、古い一枚の写真だ。女と一緒に写っていたということと、探していたのはどうやら男であるというのを伝えると、辺りは忽ち静かになっていく。誰もが考え込んでいる証拠だろう。
「……人探しをしてたのなら、警察に何かしらの情報が入ってるかも知れない。その辺りは僕が警察に掛け合ってみますけど、その情報だけじゃすぐに割り出すのは時間がかかります」
六つ歳上の従兄弟の口調が、急に仕事をする時のそれに変わった。徐々に敬語に切り替わっていくのは、恐らくは父さんの意見が必要だったからだろう。
「……再びお前に接触してくる可能性は?」
「あるんじゃねえの? オレの名前聞きたがってたし、答えてねぇから彷徨いてたらまた来るかもな」
別にここまで見込んで名前を言わなかったというわけでもないのだが、この時点でオレを街で見かけた際に相手が寄ってくる口実が既に出来ている。可能性としてはそこまで高くないとは思うが、何もないよりは遥かにマシだろう。
「……思い出した」
記憶が弾けるように、夜の出来事が脳裏に走る。
「名前、リオって言ってたわ」
そう口にすると、ハルトは少々考え込んだ。おおかた記憶を探っているのだろうが、問題はそれに父さんが加わっていたということだった。それはつまりどういうことか?
ただのいち市民の名前が、貴族に何かしら引っかか部分を与えるだなんてことはある訳がないのだ。
「……リオか」
しかし、父さんについてはその限りではなかった。
「知ってるんですか?」
「いや……」
父さんの記憶に引っかかる部分があったのか、思考の時間が僅かに続く。
「……面倒なことになってるかもな」
この時の父さんの言い回しが一体どういうことなのか、この時のオレはそこまで理解が出来ていなかった。辛うじて父が口にした「面倒なことになってる」というのが、その面倒なことになり得るようなことを既に父は把握しているということだけは理解した。そうじゃなきゃ、リオという名前を耳にした途端にここまで考え込むことはなかっただろう。
これが隣街まで巻き込む程の事態に発展するということは、もしかしたらこれよりも前に既に決まっていたことなのかもしれない。
◇
数日の時というのは特に何事もなければ静かに流れていくが、この時ばかりはそうではなかった。どこかの誰かに会って以来、それはよく訪れるようにも感じていた。
「あ、いたいた」
その要因のひとつは、おおかたこんな道のど真ん中で猫に襲われている貴族に話しかけてくるひとりの男のせいだろう。
「こんにちは。久しぶり、でいいのかな」
つい六十時間ほど前に聞いたような声が、突然後ろから聞こえてきた。振り向くべきか僅かに迷ったものの、そこまで薄情なわけでもないお陰で嫌々ながら顔をあげた。
「そ、そんなに嫌な顔されるとは思わなかったよ……」
どうやら自分が思っていたよりも嫌な顔をしていたらしく、それが分かっていたのなら振り向かない方がマシだったんじゃないかとも思ってしまう。しかしオレが貴族であるが故に、そうもいかない状況であることには変わりない。
「……なんか用かよ?」
「いや、用は特にないんだけど」
だが、やっぱり男のほうを向いて後悔したという思いはどうにも拭うことは出来なかった。男の言葉でそれを確信したのもつかの間、男がオレの視線にまで屈んできた。あの時は暗くてよく見えなかった顔が、今日はそれなりによく見える。オレよりも僅かに年上に見えたが、だからといって態度を改めるわけでもなかった。
「名前、まだ聞いてないなって思って」
「……オマエに教える理由ねーし」
「そんなことないよ。何かの縁っていうか」
この前も思ったが、本当に知らないのだろうかというのが頭に過るせいで、馬鹿正直に名前を言う気にはならなかった。貴族が多くない街の中、オレのことを知らないということがあるのだろうか? 一度もあったことない、そもそも街に顔を出すことが少ない、といった特徴があるのならともかく、生憎そこまで引きこもりではない。今の状況がその証拠だ。
「……っていうのは半分嘘。お礼したくて探してたんだよ」
その言葉は、オレからすると少し意外なモノだった。
「礼言われるようなことしてねぇけど」
「そんなことないでしょ。助けてもらったんだし。ああ、大したことは出来ないけど」
男はそう言うと、着ている上着のポケットを音を立てて漁り始めた。衣擦れの音とは少し違う別のモノが混じっているようなそんな耳障りに感じたのは、どうやら気のせいではなかったらしい。
「丁度妹が作ってたから、ちょっと貰ってきちゃったんだよね」
左のそれから出てきたのは、簡素なリボンで縛られている小袋だ。中身には、その袋のサイズに見合った濃い茶色をしたクッキーが数枚入っている。
「……それだけの為に探すとか、オマエ暇だな」
「いや、探すというか……」
言葉を探すような仕草で、男は空いている左手で自身の頭に触れた。
「だって君、あっちこっちでよく猫と遊んでるでしょ? 人に聞いてみたら結構すぐに見つかったよ」
男が見せる笑みに僅かにペースを乱されるこの感じ。どことなくあの夜と似ているようだ。
「で、名前だよ名前。俺まだ聞いてないんだけど」
そう言うと、男はすぐに笑顔を繕った。あの時と状況が似ているような気もしたが、未だに手に纏わりついている僅かに触れる猫の毛並みだけが、少なからずあの時とは状況が全く違うということの表れのようなそんな気がした。
今のこの瞬間にこの男から逃げることは容易だが、同じ街に住んでいる以上隠していたところでいいことは余りない。それこそ、なにか如何わしいことをしているのであれば偽名でも口にしていたかも知れないが、それをしたところでメリットは無いに等しいだろう。
「……ネイケルだよ。ネイケル・ヴォルタ」
それに、生憎オレは不真面目な貴族というほど振り切れる行動を取れる性格ではなかった。オレの名前を聞いて男は一瞬驚いたような視線をオレに向けたが、すぐに笑みを見せた。
「やっぱりあそこの貴族の人かぁ! そうだろうなとは思ってたけど、どうせなら名前ちゃんと聞こうと思ってたんだ」
「んだよ、知ってんじゃん……」
なんだ、やっぱりこの男は知っていたんじゃないか。そんな思いが、ため息に混じって落ちる。よく考えてみれば、猫と遊び歩いているという特徴だけでオレのことを簡単に探せるわけがなかったのだ。既に名前を知っていて人に尋ねたか、その訪ねた人物がオレの名前を口にしたのかどちらかだろう。
この類いの、ズカズカとテリトリーに入ってくるようなタイプはどうにも苦手で煩わしい。何でもいいから早く話が終わって欲しかったのだけれど、どうもそうはいかないらしかった。
「よろしくね、ネイケル」
一体何を宜しくされるのか、理由もよく分からないまま、気付けば手のひらには小袋に入ったクッキーが乗せられていた。どういう訳か、小袋の置かれた右手が酷く重くなったような、そんな気がした。
◇
昼間、午後十四時過ぎの太陽がやけに眩しく感じるのは、恐らくは公園のベンチでぼうっとしているせいだろう。
「にゃ」
左足を軸に足を組み、ベンチの手すりに右肘をつけて挙句には頬杖をついて、いかにも暇そうにしている一見すると貴族になんて見えない怪しい奴にちょっかいを出してくる存在なんて、猫くらいなもんだ。
「んだよ」
「うなっ」
「いちいち来るなって。そっち空いてんだろ」
オレの言うことが猫に届いている気配はまるでなく、ずかずかと膝の上へと上がってくる。まるで自分の椅子がここにあるかのように、猫はわざわざオレの膝の上を陣取ったのだ。
「重……オマエ太っただろ?」
オレの小言が聞こえているのかいないのか、茶猫は大きな欠伸をした。完全にリラックスしているということは、これは身体を動かそうもんなら猫に怒られるだろう。仕方なく、オレは猫の身体の上に空いていた左手を置いた。
一口に本当に暇というわけではないのだが、恐らく周りからはそう見えるのだろう。それは強ち間違ってはいないというのもある意味では事実のひとつだ。
「あ、また猫と戯れてる」
但し、それは所詮何も知らない市民の言い分でしかないということを、話しかけてきたこの男はきっと知らないだろう。気付けばベンチの手すりを返してすぐ右近くにまで迫っていたらしく、ようやく視線を話かけてきた人物のほうへと向けた。
「……またオマエかよ」
「いい加減、名前覚えてくれた?」
「知らね……」
突っかかってくる人間がこういう奴だと非常に厄介で面倒だが、目的は正しくこういうことだと言っていい。
「あ、この前のクッキー食べた? リアが作ったって話したよね?」
この質問にオレは答えなかったが、そんなことはお構いなしに「この人だよ。この前話したネイケルって人」と、後ろに向かってリオは声を発していく。よく見ると、確かに誰かがリオの後ろに着いているのが分かった。リオの背から顔だけ覗かせたのは、ひとりの女である。
「……リアとは、初めましてでいいんだよね?」
その問いにも、オレは答えることをしなかった。
「こ、こんにちは」
オレがリア・マルティアという人物に会ったのは、これが最初のことだと記憶している。もしそうじゃなかったとするのなら、オレはとんだ薄情者だと言われても弁解は無理だろう。
そうじゃなければいいと切に願ったのは、どちらかと言えばまだ記憶に新しい。