昔話に花を咲かせるなんていうことがこれから先起こるとして、恐らくこの半年ほど前の話は話題に上がらないだろう。何故なら、全くもって面白みがないうえに当の本人に喋る気が全くないからである。
「お前、いつも暇そうだよなぁ……。羨ましいわ」
地面からはそう遠くない低位置で発せられた言葉は、恐らくは誰の耳にも届いていない。
「んにゃー」
変わりに返ってくるのは、猫の呼び声だけだ。
「あ、おま……。待て動くな爪引っ掛かってるって」
余りにも寝付けなかったせいで、内緒で家を出て散歩をしてみたはいいものの、結局は猫に捕まってしまった。これでは昼の散歩とと大して変わらない。しいて言うなら暗いか明るいかの違いくらだろう。
この辺り、人通りの少ない路地を彷徨いている茶色の野良猫と戯れるのは、これが最初ではない。いつからそうなのかは覚えていないが、オレが通る度に相手をしろとせがんでくるのが日課だった。最もオレに近づいてくる猫はこの茶猫だけではない。公園に広場に行けば名前の知らない猫が数匹寄って来たり、何かにつけて猫につけ回されることが多いのだ。そこらの変な野郎に追いかけ回されるより幾らかはマシだけど、特別何をしているわけでも無いというのに寄られても困るというものだ。
その原因のひとつは、恐らくオレが昼夜問わず辺りをフラついているからだと勝手に解釈をしているけど、それが本当かどうかは定かではない。
「野良って普段ネズミとか食ってんの?」
「にゃ」
「あー……メシくれる奴がいるところを散歩すんのか。頭いいなオマエ」
暗がりの中、誰もいないのを良いことに道のど真ん中で胡座をかき、足の間に出来た窪みに猫をおさめながら適当に言葉を返す。すると、何を思ったのかそいつがオレの身体をよじ登ってきた。
「おいちょっと……登んなって」
大して重くもない猫のされるがままに、オレはそのまま体勢を崩して地面に背をつけた。別に身を任せて寝っ転がる必要は全くなかったのだが、オレは猫の邪魔はしない主義である。
鈍い音と同時に砂煙が僅かに舞い、背に当たる砂利の感触が少々不快に感じるものの、猫を手に納めたままオレは視線に入った暗がりに空を眺めた。酷く暗く、そうであるのにウン億光年先にある星が幾つか散っているのが見える。両側の壁に阻まれ余り多くは見えないが、それでも主張してくる星をただただ見つめていた。猫の声が耳に入る、その時までは。
「あー……。帰ったらまた小言いわれるわ」
もう言われ慣れてしまっているせいで、怒られることに関してはさほど気にしてはいない。母はかなり楽天的で怒るところを余り見たことがなく、どちらかといえば父のほうが睨みつけてきそうだが、強いて言うならそれだけだ。親より従者のほうがやかましいなんていうのは、よくあることである。
しかしそうは言っても、汚れた格好で街を歩いてしまってはヴォルタ家にまで悪評が広がる可能性は否めない。それは避けなければいけないだろう。
貴族の少ないこの街での父の立ち位置はかなり高く、ある程度の信用を勝ち取っているわけだから、可能ならオレがそこに泥を塗るようなことはしたくない。そうは見えないかも知れないが、こう見えてその辺りはちゃんと考えているのだ。
「にゃあ」
「それはどっちの返事だ? オマエも説教すんのか?」
「ふにゃっ」
どうやらオレの言ったことのどれかが不満だったらしく、泥のついた前足でオレの顔を踏んづけようと猫は躍起だった。そうはならないようにとせめて猫の両手を離さないように必死だったが、どうやらそれもまた違うらしい。どうも様子がおかしかったのだ。
「んー……?」
猫の意識が向かっている先は、今オレがいる路地裏に比べればかなり大きな通りだった。仰向けだった体を回転させ、走ってどこかに突っ込んでいかないように猫を地面とオレの間に入れた。相変わらず唸りに近いそれで何かを訴えているようだけれど、あいにく猫語は嗜んでいないから聞こえていないことにする。
街灯の範囲外であるためか、通りの様子自体はそこまでハッキリと見ることは叶わない。それに関しては別にどうでもよく、猫がここまで喧しい原因は比較的早く見つけることが出来た。
この暗がりの中を、ひとりの男が息を切らしながら遠くの道を走っていくのが見えたのだ。しかし、ただそれだけだったら特別どうも思わなかっただろう。こんな夜中に、くらいのことは思ったかも知れないがそれだって人のことは言えないし、それ以上首を突っ込むなんてことは普通はしない。そう、普通だったらだ。
「あー……。オマエのせいで余計なもん見ちまったじゃねーかよ。どうしてくれんの?」
「にゃー」
「行けってか? 猫に指図されても行く気ねーけど」
「うなっ、にゃあ」
「何言ってんのか全然わかんねーな……あ、おい暴れんなって」
人間の言うことなんて知らん、とでも言いたげに、無理やり隙間から離れようとするソイツに負けて、オレはすぐさま体を起こした。
手についた砂利を払うオレを、猫は何を思っているのかただ単に眺めている。本当に行かないのか? と念を送っているように感じたのは、恐らくオレが心の何処かでそうしないといけないことを理解していたからだろう。それくらい無理矢理にでも理由をつけなければ、オレがひとりで動くことも難しかったのだ。
「しゃーねえなあ」
いかにもやる気の無さそうな言葉と、ついでにため息を吐きながらやっと足の裏が地面についた。服についた邪魔な塵を払いながら歩くなんて、一体何歳児のすることだろうか? 十五を過ぎているにも拘わらずこんなことをしないといけないだなんて、どうしてオレは成長というものをしらないのかと自分で怒りたくなってしまうほどだ。
「その代わり、長生きしろよな」
返ってくるハズのない返事を少しだけ期待したが、当然言葉なんて返ってくるわけがない。かわりに後ろから聞こえてくる小さな鳴き声に、オレは適当に手を空へと泳がせた。
◇
荒々しく積もる息の羅列が、暗がりの道に落ち続けている。
「クソっ……!」
そんな中、お世辞にも綺麗とは言えない台詞が自分に跳ね返ってきたとも知らず、気付けば路地裏にまで足を進めていた。何か急ぎの用があるわけでもないのだが、そうであるのに俺は足を止めることはしない。寧ろスピードは上がっていた。
「なんなんだよ、あれ……」
何故ならば、俺は今追われているからだ。しかも得体の知れない何かという非現実的要素が含まれているのだから、自分ではどうすることも出来なかった。一体何に追われているのかと聞かれたら、正直俺にもよく分からない。どういうことかと言うと、それは実体を持っていなかったのだ。
至極完結に言うのならば、それは黒紫だった。極小さな粒子、つまりは靄のようなモノが寄って集って俺の身体に向かってきているのだ。あれが身体に当たると、全身が総毛立つような、何か触れてはいけないモノに触れてしまったかのように反射的に身体が後ずさっていく。それがつまり、逃げて追われの状況を作り上げたのだ。
一体何が原因でそうなっているのか、どうして俺が追われているのか、そもそもあれは何なのか。考えようと思えば幾らでも思いつく疑問の数々に、答えてくれるような人物は当然どこにもいない。こんな夜中に、しかも自分でもよく分からない物体の存在を誰かに理解してもらおうだなんておこがましいにも程があるだろう。当然、そんな余裕もなかった。
唯一俺自身が解答出来るものがあるとするなら、どうして俺が追われているのかという部分に関しては、思い当たる節が全くないというところくらいだろうか。それでも確信のようなものはなく、もしかしたらそうかも知れないという憶測にすぎないのだが。
「遠くまで来すぎたか……? 何処だここ……っ」
街灯こそはあるものの、闇雲に走りすぎたのか辺りの景色は気がついた時には既に見覚えのない街路だった。不安と焦りからなのか、迫る何かの気配にふと後ろに視界をやる。その時、風の切るような音が耳を掠めていった。
果たして何が横切ったのか、最初はその靄が俺を捉え損ねただけかと思っていたけど、どうやらそうではなかったらしい。
「……手応えねーな、やっぱ」
突如現れ、小さな声でそう溢した男がその状態を証明した。
――この時に見えた、空に舞った黒い粒子が脆くも綺麗だと思ってしまったのが、恐らく俺がその靄とやらに追われていた原因のひとつだろう。
「こんな時間に市民が散歩、ってか」
それはさながら、闇夜の中を駆け回る死神のようだったと記憶している。
雲に薄隠れた月に映える知らない誰か。ただそれだけのことなのに、一体何がそう助長させたのか皆目検討がつかなかった。そう思うことによって、俺は目の前の人物が誰であるのかを認識しないように必死だったのだ。
「……オマエに言ってんだけど」
「え、あ……俺?」
「他にいねぇだろ」
それでも俺は、この時呆けてしまうほどにこの男を見つめてしまっていた。
◇
一体何処から流れ出てきたのか、紫がかった黒いそれはとある男に執着していた。といっても、人ひとりがただ突っ込んで手で払っただけで靄は形成を保てなくなったようで、辺りの空気に混じるように飛散した後はすぐに姿を消した。消したというよりはオレが消したのだが、まあこの際その違いは余り意味が無いだろう。貴族だからそれが出来るという、ただそれだけの話だ。
しかしそれを見ていると、自然と小さなため息が溢れていく。やっぱり、真面目にやるからには魔法じゃないと駄目らしい。それは当然だろう。その為の貴族なのだ。そうは言っても、余り乗り気じゃないオレの口からは思わず愚痴が零れそうになる。それを何とか抑えながら、オレは黒いそれに追いかけられていた男へと視線をやった。ウザいくらいに視線が突き刺さる理由を聞きたいくらいには、物珍しさも含まれているそれに少々腹が立った。
「……た、助かったよ。追われていてどうしようかと思ってたんだ」
へらりと苦笑いを浮かべるところを見て、オレは余計苛立ちが募った。こんな時間に歩いている野郎のことだ。やっぱり、あのまま見えなかったふりでもしていれば良かっただろうかとさえ思った。例えば、どうして貴族が存在しているのかということに市民が理解を示していればオレだってここまでのことは思わないかも知れないが、生憎そうではない。貴族の活動を理解している市民なんて、全体の一割にも満たないだろう。決して密かに事を行わなければいけない訳でもないが、間にある壁というのは中々崩れることはないのだ。
「あ、そうだ。キミこの人見なかった? ……って言っても、昔の写真だからアテにはならないかも知れないけど」
どうしてアレに追われていたのかという疑問は、男の続けざまの質問のせいで抑制された。一歩と近付きながら差し出してきたとある誰かの写真。乗り気ではなかったのだが、差し出されてしまったからには視界に入れざるを得なくなってしまった為に仕方なく確認することにした。
オレの目に映ったのは、三十代くらいの男だ。夫婦で写っているのか、しかし女の顔はソイツの親指で強く潰れていた。頭の中にある一通りの記憶をそれとなく辿ってはみるものの、思い当たる節はどこにもなかった。昔の写真ということは、年齢を鑑みても覚えている可能性はかなり低いだろう。
「……さあ」
「なら良いんだ、うん。ありがとう」
自分のことを棚に上げた前提で話をすると、率直に言えばこんな夜中に街を彷徨いて襲われた挙句それを気にもしないで探し人の情報を得ようとするなんて随分と勝手なヤツだ、というのがオレの最初の印象で、このやりとりも正直面倒で堪らなかった。
少し考えれば分かることではあるが、恐らくコイツはその写真の人物を探していたのだろう。だからこんな時間に街を彷徨っていたと思えば、一応それなりに理解は出来る。だが、どうしてわざわざこんな人の少ない夜中に人探しをしてるのかと考えると、疑問は募るばかりだった。
「ああ、俺はリオって言うんだ。よろしく」
そして人探しという行動が、最初から最後までいかに消えた人間の勝手な行為によるものであるいうことが分かったのは、ここから随分と先の話だ。
「君は……貴族だよね?」
自分が貴族様だとは思っていないが、こうも馴れ馴れしく話しかけてくる市民なんてせいぜいなんにも知らない無垢な子供くらいで、その質問はどうも現実味に欠けていた。というよりも、オレのことを貴族であるということは認識しているにも関わらず、本当に名前を知らないのかが疑問だった。
これ以上何か会話を交わす気が無くなって、気付けば足を翻していた。
「ちょっ、ちょっと待って! せめて名前くらい教えてよ」
「うざ……」
お世辞にも元々素行が良いとは言えないだろうが、これ以上コイツの言葉に耳を傾けると更に捕まってしまいそうで嫌だったのだ。仮にこの後男がまた襲われたとしても、知り合いではないのだからそこまで肩入れする必要も義理もなく、自分の足は止まることはなかった。
「お前、いつも暇そうだよなぁ……。羨ましいわ」
地面からはそう遠くない低位置で発せられた言葉は、恐らくは誰の耳にも届いていない。
「んにゃー」
変わりに返ってくるのは、猫の呼び声だけだ。
「あ、おま……。待て動くな爪引っ掛かってるって」
余りにも寝付けなかったせいで、内緒で家を出て散歩をしてみたはいいものの、結局は猫に捕まってしまった。これでは昼の散歩とと大して変わらない。しいて言うなら暗いか明るいかの違いくらだろう。
この辺り、人通りの少ない路地を彷徨いている茶色の野良猫と戯れるのは、これが最初ではない。いつからそうなのかは覚えていないが、オレが通る度に相手をしろとせがんでくるのが日課だった。最もオレに近づいてくる猫はこの茶猫だけではない。公園に広場に行けば名前の知らない猫が数匹寄って来たり、何かにつけて猫につけ回されることが多いのだ。そこらの変な野郎に追いかけ回されるより幾らかはマシだけど、特別何をしているわけでも無いというのに寄られても困るというものだ。
その原因のひとつは、恐らくオレが昼夜問わず辺りをフラついているからだと勝手に解釈をしているけど、それが本当かどうかは定かではない。
「野良って普段ネズミとか食ってんの?」
「にゃ」
「あー……メシくれる奴がいるところを散歩すんのか。頭いいなオマエ」
暗がりの中、誰もいないのを良いことに道のど真ん中で胡座をかき、足の間に出来た窪みに猫をおさめながら適当に言葉を返す。すると、何を思ったのかそいつがオレの身体をよじ登ってきた。
「おいちょっと……登んなって」
大して重くもない猫のされるがままに、オレはそのまま体勢を崩して地面に背をつけた。別に身を任せて寝っ転がる必要は全くなかったのだが、オレは猫の邪魔はしない主義である。
鈍い音と同時に砂煙が僅かに舞い、背に当たる砂利の感触が少々不快に感じるものの、猫を手に納めたままオレは視線に入った暗がりに空を眺めた。酷く暗く、そうであるのにウン億光年先にある星が幾つか散っているのが見える。両側の壁に阻まれ余り多くは見えないが、それでも主張してくる星をただただ見つめていた。猫の声が耳に入る、その時までは。
「あー……。帰ったらまた小言いわれるわ」
もう言われ慣れてしまっているせいで、怒られることに関してはさほど気にしてはいない。母はかなり楽天的で怒るところを余り見たことがなく、どちらかといえば父のほうが睨みつけてきそうだが、強いて言うならそれだけだ。親より従者のほうがやかましいなんていうのは、よくあることである。
しかしそうは言っても、汚れた格好で街を歩いてしまってはヴォルタ家にまで悪評が広がる可能性は否めない。それは避けなければいけないだろう。
貴族の少ないこの街での父の立ち位置はかなり高く、ある程度の信用を勝ち取っているわけだから、可能ならオレがそこに泥を塗るようなことはしたくない。そうは見えないかも知れないが、こう見えてその辺りはちゃんと考えているのだ。
「にゃあ」
「それはどっちの返事だ? オマエも説教すんのか?」
「ふにゃっ」
どうやらオレの言ったことのどれかが不満だったらしく、泥のついた前足でオレの顔を踏んづけようと猫は躍起だった。そうはならないようにとせめて猫の両手を離さないように必死だったが、どうやらそれもまた違うらしい。どうも様子がおかしかったのだ。
「んー……?」
猫の意識が向かっている先は、今オレがいる路地裏に比べればかなり大きな通りだった。仰向けだった体を回転させ、走ってどこかに突っ込んでいかないように猫を地面とオレの間に入れた。相変わらず唸りに近いそれで何かを訴えているようだけれど、あいにく猫語は嗜んでいないから聞こえていないことにする。
街灯の範囲外であるためか、通りの様子自体はそこまでハッキリと見ることは叶わない。それに関しては別にどうでもよく、猫がここまで喧しい原因は比較的早く見つけることが出来た。
この暗がりの中を、ひとりの男が息を切らしながら遠くの道を走っていくのが見えたのだ。しかし、ただそれだけだったら特別どうも思わなかっただろう。こんな夜中に、くらいのことは思ったかも知れないがそれだって人のことは言えないし、それ以上首を突っ込むなんてことは普通はしない。そう、普通だったらだ。
「あー……。オマエのせいで余計なもん見ちまったじゃねーかよ。どうしてくれんの?」
「にゃー」
「行けってか? 猫に指図されても行く気ねーけど」
「うなっ、にゃあ」
「何言ってんのか全然わかんねーな……あ、おい暴れんなって」
人間の言うことなんて知らん、とでも言いたげに、無理やり隙間から離れようとするソイツに負けて、オレはすぐさま体を起こした。
手についた砂利を払うオレを、猫は何を思っているのかただ単に眺めている。本当に行かないのか? と念を送っているように感じたのは、恐らくオレが心の何処かでそうしないといけないことを理解していたからだろう。それくらい無理矢理にでも理由をつけなければ、オレがひとりで動くことも難しかったのだ。
「しゃーねえなあ」
いかにもやる気の無さそうな言葉と、ついでにため息を吐きながらやっと足の裏が地面についた。服についた邪魔な塵を払いながら歩くなんて、一体何歳児のすることだろうか? 十五を過ぎているにも拘わらずこんなことをしないといけないだなんて、どうしてオレは成長というものをしらないのかと自分で怒りたくなってしまうほどだ。
「その代わり、長生きしろよな」
返ってくるハズのない返事を少しだけ期待したが、当然言葉なんて返ってくるわけがない。かわりに後ろから聞こえてくる小さな鳴き声に、オレは適当に手を空へと泳がせた。
◇
荒々しく積もる息の羅列が、暗がりの道に落ち続けている。
「クソっ……!」
そんな中、お世辞にも綺麗とは言えない台詞が自分に跳ね返ってきたとも知らず、気付けば路地裏にまで足を進めていた。何か急ぎの用があるわけでもないのだが、そうであるのに俺は足を止めることはしない。寧ろスピードは上がっていた。
「なんなんだよ、あれ……」
何故ならば、俺は今追われているからだ。しかも得体の知れない何かという非現実的要素が含まれているのだから、自分ではどうすることも出来なかった。一体何に追われているのかと聞かれたら、正直俺にもよく分からない。どういうことかと言うと、それは実体を持っていなかったのだ。
至極完結に言うのならば、それは黒紫だった。極小さな粒子、つまりは靄のようなモノが寄って集って俺の身体に向かってきているのだ。あれが身体に当たると、全身が総毛立つような、何か触れてはいけないモノに触れてしまったかのように反射的に身体が後ずさっていく。それがつまり、逃げて追われの状況を作り上げたのだ。
一体何が原因でそうなっているのか、どうして俺が追われているのか、そもそもあれは何なのか。考えようと思えば幾らでも思いつく疑問の数々に、答えてくれるような人物は当然どこにもいない。こんな夜中に、しかも自分でもよく分からない物体の存在を誰かに理解してもらおうだなんておこがましいにも程があるだろう。当然、そんな余裕もなかった。
唯一俺自身が解答出来るものがあるとするなら、どうして俺が追われているのかという部分に関しては、思い当たる節が全くないというところくらいだろうか。それでも確信のようなものはなく、もしかしたらそうかも知れないという憶測にすぎないのだが。
「遠くまで来すぎたか……? 何処だここ……っ」
街灯こそはあるものの、闇雲に走りすぎたのか辺りの景色は気がついた時には既に見覚えのない街路だった。不安と焦りからなのか、迫る何かの気配にふと後ろに視界をやる。その時、風の切るような音が耳を掠めていった。
果たして何が横切ったのか、最初はその靄が俺を捉え損ねただけかと思っていたけど、どうやらそうではなかったらしい。
「……手応えねーな、やっぱ」
突如現れ、小さな声でそう溢した男がその状態を証明した。
――この時に見えた、空に舞った黒い粒子が脆くも綺麗だと思ってしまったのが、恐らく俺がその靄とやらに追われていた原因のひとつだろう。
「こんな時間に市民が散歩、ってか」
それはさながら、闇夜の中を駆け回る死神のようだったと記憶している。
雲に薄隠れた月に映える知らない誰か。ただそれだけのことなのに、一体何がそう助長させたのか皆目検討がつかなかった。そう思うことによって、俺は目の前の人物が誰であるのかを認識しないように必死だったのだ。
「……オマエに言ってんだけど」
「え、あ……俺?」
「他にいねぇだろ」
それでも俺は、この時呆けてしまうほどにこの男を見つめてしまっていた。
◇
一体何処から流れ出てきたのか、紫がかった黒いそれはとある男に執着していた。といっても、人ひとりがただ突っ込んで手で払っただけで靄は形成を保てなくなったようで、辺りの空気に混じるように飛散した後はすぐに姿を消した。消したというよりはオレが消したのだが、まあこの際その違いは余り意味が無いだろう。貴族だからそれが出来るという、ただそれだけの話だ。
しかしそれを見ていると、自然と小さなため息が溢れていく。やっぱり、真面目にやるからには魔法じゃないと駄目らしい。それは当然だろう。その為の貴族なのだ。そうは言っても、余り乗り気じゃないオレの口からは思わず愚痴が零れそうになる。それを何とか抑えながら、オレは黒いそれに追いかけられていた男へと視線をやった。ウザいくらいに視線が突き刺さる理由を聞きたいくらいには、物珍しさも含まれているそれに少々腹が立った。
「……た、助かったよ。追われていてどうしようかと思ってたんだ」
へらりと苦笑いを浮かべるところを見て、オレは余計苛立ちが募った。こんな時間に歩いている野郎のことだ。やっぱり、あのまま見えなかったふりでもしていれば良かっただろうかとさえ思った。例えば、どうして貴族が存在しているのかということに市民が理解を示していればオレだってここまでのことは思わないかも知れないが、生憎そうではない。貴族の活動を理解している市民なんて、全体の一割にも満たないだろう。決して密かに事を行わなければいけない訳でもないが、間にある壁というのは中々崩れることはないのだ。
「あ、そうだ。キミこの人見なかった? ……って言っても、昔の写真だからアテにはならないかも知れないけど」
どうしてアレに追われていたのかという疑問は、男の続けざまの質問のせいで抑制された。一歩と近付きながら差し出してきたとある誰かの写真。乗り気ではなかったのだが、差し出されてしまったからには視界に入れざるを得なくなってしまった為に仕方なく確認することにした。
オレの目に映ったのは、三十代くらいの男だ。夫婦で写っているのか、しかし女の顔はソイツの親指で強く潰れていた。頭の中にある一通りの記憶をそれとなく辿ってはみるものの、思い当たる節はどこにもなかった。昔の写真ということは、年齢を鑑みても覚えている可能性はかなり低いだろう。
「……さあ」
「なら良いんだ、うん。ありがとう」
自分のことを棚に上げた前提で話をすると、率直に言えばこんな夜中に街を彷徨いて襲われた挙句それを気にもしないで探し人の情報を得ようとするなんて随分と勝手なヤツだ、というのがオレの最初の印象で、このやりとりも正直面倒で堪らなかった。
少し考えれば分かることではあるが、恐らくコイツはその写真の人物を探していたのだろう。だからこんな時間に街を彷徨っていたと思えば、一応それなりに理解は出来る。だが、どうしてわざわざこんな人の少ない夜中に人探しをしてるのかと考えると、疑問は募るばかりだった。
「ああ、俺はリオって言うんだ。よろしく」
そして人探しという行動が、最初から最後までいかに消えた人間の勝手な行為によるものであるいうことが分かったのは、ここから随分と先の話だ。
「君は……貴族だよね?」
自分が貴族様だとは思っていないが、こうも馴れ馴れしく話しかけてくる市民なんてせいぜいなんにも知らない無垢な子供くらいで、その質問はどうも現実味に欠けていた。というよりも、オレのことを貴族であるということは認識しているにも関わらず、本当に名前を知らないのかが疑問だった。
これ以上何か会話を交わす気が無くなって、気付けば足を翻していた。
「ちょっ、ちょっと待って! せめて名前くらい教えてよ」
「うざ……」
お世辞にも元々素行が良いとは言えないだろうが、これ以上コイツの言葉に耳を傾けると更に捕まってしまいそうで嫌だったのだ。仮にこの後男がまた襲われたとしても、知り合いではないのだからそこまで肩入れする必要も義理もなく、自分の足は止まることはなかった。