14話:甘味に紛れた毒の味


2024-08-13 17:34:32
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「どうすっかなー……」

 とある看板の前。街中でひとり佇んでいるのには、理由があった。
 無難にチョコでもいいけど、ストロベリーも悪くない。いつもは迷えばキャラメル一択なのだが、今この瞬間の気分では少々重たいような気がしてしまう。普段だったら、メニューを見て想像できないようないわゆる変わりモノは頼まないのだけれど、たまにはそういう冒険をしてみてもいいかも知れない。などと考えたところで、結局は差し障りのないところに落ち着いてしまうのはいつものことだ。
 オレには関係のない雑踏の中で、沢山の誰かが後ろで何か声を発している。わりと広々としている場所だし、人の声なんてどこにいても聞こえてくるわけなのだから、別にどうとも思わない。オレがクレープ屋の前でただただメニューを眺めていることだって、別に誰も気には留めないだろう。そういうことだ。例えばオレが誰かと待ち合わせをしていて、特定の人物を待っていたとするのなら、それはただの雑踏というわけでもなかったのかもしれない。

「――ネイケル君っ!」

 すぐ右から乗り出すように聞こえてきた声に、オレはようやく顔をあげた。

「あー……どうも」

 そこにいたのは、最近知り合ったばかりのロエルさんのお姉さんだった。どうやら後ろから聞こえてきたのはこの人の声だったようで、気づけば距離はかなり近く、思わず半歩距離を置いてしまう。まるで、この雑踏の中に混じるのを嫌がっているかのようだ。

「ひとり?」

 どういう訳か、話しかけてきたその彼女は笑顔だった。

「そう、だね。うん」
「買わないの?」
「え? ああ……単に見てただけだよ」
「そうなの?」

 店の前に置いてあるメニュー。クレープ屋の前で何を食べようか迷っていたにも関わらず、どういう訳か口から適当な言葉が飛び出てくる。別に嘘をつく場面でもなかったはずなのだけれど、なんとなく後ろめたい気持ちになってしまったのがいけなかった。

「……なんか用?」
「あ、あのねっ。ひとつ聞きたいことがあって」

 会って間もない人物が、よその街に住んでいるオレに何か疑問を持つようなことなんてそうそうないだろうが、この状況だけで言うと一応心当たりなら持ち合わせていた。

「最近、ロエルには何処かで会った?」

 正しくこの人が口にした人物についてのことが、多少なりとも気がかりだったのだ。というよりは、それくらいしかこの人がオレに話しかけてくる理由がまず存在しないだろう。

「まあ……会ったといえばあったかな」
「……そっか」

 こういう質問をされた時、大抵は何か詮索されていることが多いせいで果たしてどう答えるべきかと困る場合が多いけど、どうやら今回ばかりはその必要はなさそうだった。適当な嘘は、ついたところで後で後悔しか生まないものだ。

「ネイケル君、今から家にいらっしゃいよ」
「……え?」

 但し、オレの答えから言葉に発展するというのは予想していなかった。

「この前新しい紅茶買ったんだけど、それに合わせてレイナがケーキ作ってくれたの。あ、レイナっていうのは私のところのメイドさんなんだけど。言ったことあったかな……?」

 余りにも突然の誘いに、呆けた返事以上の言葉を返すことが出来ないままお姉さんだけが喋り続けている。正直、羅列されていった言葉の数々は右から左へ筒抜けだった。単に一回だけ会っただけの人間をどうしていきなり家に誘うのかというのが、イマイチ理解できなかったのだ。ロエルさんが図った……というのはあり得ないだろうし、家に行ったらどうやってもロエルさんには会うことになる。何というか、今の状況でのそれは色々とよくない。

「いや……遠慮しとく」
「どうして? もしかして、ロエルと会うの嫌?」
「んー、嫌というか……」

 会うのが嫌かどうか。そう聞かれると正直答えに困る。単純に会いにくいというだけではあるのだが、そう言われると確かにこの人の言うように嫌という部類には入ってしまうのかもしれない。少なからず向こうはそう思っているんじゃないだろうかという思いが、オレの返事がことごとく躊躇する理由だった。

「……あれ以来、ネイケル君と始めて会って暫くした後だったかな。ロエルってばずっと不機嫌なの。こう、雰囲気が不機嫌? っていうのかしら」

 そういうオーラがね、と言いながら身振りを加えていくのをまじまじと見ながら、一応想像力を働かせてみる。……元々が話しかけにくい空気を纏っている分、それってわりといつもなんじゃないかと思ったのだけれど、家ではそうでもないのかもしれない。
 一番懸念しているのが、ロエルさんがアルセーヌさんの家に行ったのかどうというところだ。行ったからこそ不機嫌なのではないかという考察は、比較的簡単だった。オレに原因があったとして、それくらいしか思い当たる節がなかったのだ。最もそれが決定だとなっただけなのだろうが、いずれにしても原因はそこにあるのだろう。
 そんな状態で、しかもその原因がオレに違いないという分かり切った状況下でオレから会いに行くほどの度胸は、残念なことに周りが思っているほど持ち合わせていない。元々仲がいいとも言えないし、会わないなら別に構わないのだが、それはそれで今後の動き方にも支障が出る。なるべく穏便にしたいはずなのに、自分の行動理念の矛盾さがそれを許さないのだ。

「あの……違ってたら申し訳ないんだけど、何かあったの? ロエルってば、そういうこと全然話してくれないから」

 ただ、それが原因でこの人まで悲しそうな顔をするというのは少し頂けない。

「多分っていうか、オレに怒ってるんじゃないかなぁ」
「……喧嘩?」
「喧嘩だったらいいんだけどね」

 分かんないや。そう言って分かっていないフリをしてしまったのは、出来ることなら何事もなかったかのようにこのまま去ってしまいたかったからだ。

「だったら尚更家に来ない? あ、用があるなら無理強いはしないけど……」

 でも、そうすることをオレはしなかった。

「駄目?」

 だって、こういう聞き方はとてもズルかったのだ。

「……ケーキって、何味?」

 気付けばオレは、そんなことを口にしていた。

「あ、あのねっ、レイナが二種類も作ってくれたの。クランベリーのタルトとキャラメルナッツのケーキなんだけど……」

 そう口にするお姉さんの声は、一気に昂りを見せた。オレがケーキに興味を示したことがそんなに嬉しかったのだろうか? 極めつけは「ネイケル君の口に合うかしら?」という言葉だった。
 オレからすれば、その種類の味は比較的想像に容易かった。紅く照りつく甘酸っぱいそれと、食感重視の香ばしく香る甘いそれ。しかも、どちらも旬を彩るものじゃないか。そうなってしまえば答えは既に決まっているというもので、さながら軽い男だなと自嘲したくなってしまう。

「……どっちも好きかな」
「本当? それならよかった」

 ふわりと舞って魅せる笑みに、どうにも調子が狂った。こういう顔をオレに向けてくる人をここ最近見ていなかったような気がしていたから、きっと余計だったのだろう。しかし、こうなってしまってはもう駄目だったのだ。

「じゃあ行こっ」

 オレの言葉を肯定と取ったのか、手を掴んだかと思うとそのまま足を動かしていく。服の上から優しく伝わる温度に、オレは尚更居たたまれない気持ちになってしまった。その理由がどうしてなのか、今のオレはそれを知る術を知らないでいる。


   ◇


 市場からはちょっと離れているの。お姉さんがそう口にしたように、気付けばこの街に来てから数える程も来ていない所まで足を運んでいた。どことなく高貴な店に纏われているように感じるのはあながち間違いではないらしく、看板や並べられたそれらに付けられている値段を流し見るに、恐らくごく一般的な人間が住むような場所では無いのだろうというのが容易に想像出来た。貴族が住んでいる場所だからと言われればそうなのだろうけど、住宅街に紛れて住んでいるような何処かのアルセーヌさんとかいう貴族もいるわけだし、一概に一括りには出来ないのが難しいところで、言い換えるなら面白いところでもある。
 歩いて数分といったところだろうか。目の前に現れた、口は悪いがバカでかいそれを前に特別感嘆の意を示すことなく、オレは二人の住んでいる家にお邪魔した。

「ただいまぁ」

 玄関の扉を開けると同時に、お姉さんの声が響く。僅かに体が縮まったような気がしながらも、すぐに玄関外の空気が遮断された。この類の家は一応見慣れてはいるのだが、人様の家というのもあって落ち着くには時間が必要だった。
 これはあくまでも噂の限りだが、聞いたところによるとレナール家はどうも魔法の事件ごとには非協力的らしい。今回のことは、大事になったから重い腰を上げざるを得なかったんじゃないだろうかと勝手に推察しているが、本当に非協力的であるのなら理由は限られてくる。確かに、魔法の関連事は余り深入りし過ぎると後々になって痛い目を見るし、一家の存続だって難しくなる場合も否定は出来ない。オレはその事象を知らないが、そのまま没落なんていうこともあるのだろう。
 これだけ貴族が多い街だから、どの家が中心となって動くのかというのが恐らく決まっているだろうが、それにしたって面と向かって拒むなんてことは簡単に出来ることではない。相当当主の肝が据わっているのか、そうせざるを得ないことが過去にあったのか、それとも単純に存続を優先しているだけなのか。はたまた別の理由があるのかどうなのか、いずれにしてもどれを取っても保守的だと言えるだろう。

「ああ姉さん、どこ行って――」

 ただ、これからその家の舵を取るのであろう人物らは、周りや本人が思っているよりも保守的とは言い難いのではないかと感じている。これはまだ憶測にすぎないが。

「……なんでいるの?」

 ロエルさんの言葉が止まるのが早いか否か、明らかな嫌悪のオーラを放つのが見て取れた。それは誰が見ても明白だったけれど、どうやらそれを気にしていたのはオレだけだったらしい。

「さっきね、偶然会っちゃって。ほら、レイナがケーキ作ってくれたでしょ? だから丁度いいかなって」

 無理やり連れてきちゃったと、少しばつが悪そうにしながらもお姉さんの声はまるで軽快だった。

「……邪魔していい?」
「もう邪魔されてるんだけど」
「その通りだわ……」

 ピシャリと遮断してくるロエルさんのその一言を前に、オレはこれ以上余計なことは言わないと心に決めた。ただ、今発せられたロエルさんのため息は、オレに向けてということではないようなそんな気がした。

「こ、こんなところじゃあれよね。ちゃんとした部屋、案内するわ」

 ようやく何かを察したお姉さんは一歩踏み出したかと思うと、その流れでロエルさんの腕をむんずと掴んだ。

「ちょ、ちょっと姉さん。僕は関係ないって」
「はいはい、そういうのはいいの!」
「よくないんだけど……」

 そう言いながら、ロエルさんの身体は動いていく。但しそれは自身の意思ではないようで、お姉さんの足取りに比べれば少々重そうに見えた。やっぱり来なければよかっただろうかと正直思ったが、そんな後悔は後回しに、オレは左手を髪の毛に埋めながら歩を進めた。勿論、案内されているらしい方向にである。
 大層な家の景観の通り、壁から床から装飾までいかにも大金持ちの貴族といった感じで、まだこの空気感には慣れる余地がない。確かに一般的に考えられている貴族というのはこういうイメージで、オレの家だって普通の家と比べればそれなりだろうし、その自覚は一応ある。ただ、ここまで堂々とした造りのモノはそうは無いだろう。せいぜい、図書館と所縁がある血筋くらいじゃないだろうか。
 玄関から続く、二人並んでも余裕がある廊下を進んでいく。こういう場合、一人や二人のメイドや執事がくっ付いてくるものだけれど、今はその人影さえも視界に入らない。これだけ広いと遭遇する確率も低いのか、それとも予め人払いがされている状態なのかまでは、流石によく分からなかった。
 お姉さんを船頭に、ひとつの扉の前にたどり着いた。無機質的な音と同時に視界に入ったのは、少人数用のテーブルと机。それにソファーが置いてある部屋だ。ロエルさんとオレが部屋に入ったのを確認すると、扉が閉じるよりも前にお姉さんが口を開いた。

「えーっと……。私、レイナのところ行ってくるから。ロエル、後は宜しくね」
「姉さん。連れてきておいて人に任せるのは流石にどうかと思……」
「ケーキ、持ってくるから。待ってて!」

 バタバタと音を響かせて去っていくお姉さんの後ろ姿に、追うようにして視線が左右に揺れる。扉の閉じる音が聞こえたのは、その数秒後のことだった。置いてきぼりにされたオレの体はそこに留まったままで、それはロエルさんも同じである。ただ一つ違うことがあるとするなら、ロエルさんは再びため息をついたというところだろうか。
 申し訳程度の「座れば?」という声と共に発せられた足音によって沈黙は比較的すぐに終わりを告げたが、そう口にしたロエルさんは座ることは無く、窓のすぐ近くに身体を預け腕を組んだままそっぽを向いた。

「……ロエルさんさぁ」

 いっそお姉さんが帰ってくるまで黙っていようかとも思ったのだが、どうやらオレの口は動きたくて仕方がないらしかった。

「やっぱ怒ってる?」

 その言葉はただの独り言になっているようで、ロエルさんはこちらを見ようとはしない。しかし、目が僅かに動いたのをオレは見逃さなかった。

「……アルセーヌさんも大変だよね。隣街の人のことまで考えなきゃいけなくてさ」

 ほんの僅か、唾を呑むことだけが許された短い時間はすぐに終わりを告げた。それはオレの聞いた質問の直接的な答えではなかったが、おおかたオレの考えていることが正解だったと捉えて差し支えないものとみて間違いは無いだろう。ここでアルセーヌさんの名前が出てくるのだから、恐らくはアルセーヌさんの家で色々と聞いたんじゃないだろうか。じゃなきゃ、その名前が今ここで出てくる必要性がない。

「君のせいで、レナール家は関係ないとか言えなくなったから言うけど――」

 しかしそうはいっても、その名前が出てきたことには少し驚いた。

「何のためにこの街に来たの?」

 オレは近づく人間を間違えたのかも知れないと、そう思ってしまうほどだった。

「まさかじゃないけど、こんなところで油売ってる時間があるなんて本当に思ってる訳じゃないよね?」

 この言葉が、本当に非協力的な人間の口から出てくるのだろうか? 到底そうは思えない。

「そりゃまあ、多少はね?」

 やんわりと、そうであるということはそれなりに理解しているくらいのニュアンスで言葉を口にする。こういう真面目な話の時ですらオレの言葉は比較的に軽く、そして適当だった。こればっかりは性格上しょうがない。そう取り繕うことで自我が保たれているところは、多少なりともあっただろう。
 今日だけで一体何回目のことか、ロエルさんはまたしてもため息をついた。

「見た感じだと、持ってあと二週間ってところだと思う。……いや、こっちも大して何も出来てないから、もう少し早まるかもね」

 刺すような視線というのは、どちらかと言うと語弊があるだろう。

「僕には、君が何とかしようと思ってるようには到底見えないんだけど、その前に何とかする気があるの?」

 どこかオレの本心を探しているかのような真面目な瞳は、やはり非協力的な人間のそれではなかった。

「……じゃなきゃ、わざわざここまで来ないでしょ」

 気づけばそれ相応の言葉が口から零れていたが、その言葉に対して、ロエルさんの返事は返ってくることがなかった。

「……彼女、あの彼の妹さん? 君のこと、かなり心配していたみたいだったけど」

 一体どこに納得する節があったというのか、突然話題が切り替わり頭がついていかなくなる。彼の妹、と明確に名前を口にしない辺り、恐らくはリアちゃんのだろう。

「あー……。やっぱり、アルセーヌさんのところ行ってくれたんだ?」
「後で騒がれるよりはマシかと思ってたけど、余計面倒なことになったから行かない方が良かったと心底後悔してるところ」

 その言葉に、手持ち無沙汰のオレは思わず頭を掻いた。ばつが悪かったのだ。一体どこまで知っているのかは分からないが、おおかたこの街に来る前にあった事件のことは耳に入っているのだろう。

「アルセーヌさんの話が何処まで本当かは知らないけど、君のことだからどうせ誰にもまともな説明してないんでしょ?」
「いやだって、説明って言ったってなあ……」

 ロエルさんがこうして伝えてくる辺り、オレが思っているよりも相当心配されてしまっていると捉えるのが普通かも知れないが、オレに向けての心配などではないのだろう。というよりも、正直なところ心配されても困る。誰もかれも心配性で飽き飽きしているのだ。

「僕は探すことくらいしかしないけど、面倒なことになるのは御免だからね」

 ごもっともなロエルさんの言い分の中に混じるその言い方に、ほんの僅かではあるものの違和感を覚えた。

「……手伝ってくれるの?」

 そう問われたロエルさんは、チラリとオレを視界に入れたかと思うと質問の答えを探すようにしてすぐに目を伏せた。単純な疑問に過ぎなかったのだが、どうやらそこを突っ込まれるのとは余り思っていなかったらしい。

「少し、気が変わった」

 窓から射す陽の光と、まるで魔法が具現化したかのような明るい小さな粒がロエルさんを映し出す。
 これは決して比喩などではなく、そのまま消えてしまうのではないかと思う程にサマになっていた。この時、オレは恐らく息をすることすらも忘れていたのだろう。

「……ただそれだけ」

 至極単純な言葉とそれでいて真っ直ぐな瞳は伏せられるばかりで、オレのことを捉えることはない。まるでその光が、ロエルさん自身に浸透していくようで、オレはもう何も言う気にもなれなかった。一体何がこの人をそう言わせたのか、オレには分かる術が全くな見当たらない。アルセーヌさんに何か言われたのか、それともリアちゃんが原因なのか、はたまた別のところに原因があったのか。考えればそれなりに思い当たる節はあれど、どれも確信的とは言い難かった。
 別に特別知りたいとは思っていないけれど、もしその要因を知ることが出来るとして、オレは知る権利を持ち合わせているのだろうか?

「……ロエルさんって、やっぱりいい人だよね」

 仮に権利を持っていたとしても、聞けるその時が来るとは到底思えない。出来ればそうなるよりも前に、全てを終わらせてしまいたいものだ。

「お世辞なら、もうちょっとまともなこと言って欲しいね」
「いやホントだって。バレるようなお世辞なら言わねーし」
「君の言葉は信用に欠ける」
「オレそんなに適当なこと言ってないけど」
「自覚がないなら、尚更だね」
「ロエルさんってオレに滅茶苦茶厳しいよね? もうちょっと優しくしてくれてもよくない?」
「優しくして欲しいなら、もう少し考えを改めてから来て欲しいね」

 喋っているだけなのに煩わしそうに顔をしかめるロエルさんは、正しくいつものそれだった。このすぐ数秒後に聞こえてきたのは、この部屋にいる誰かが発したものではなく、外からのノック音である。遠慮気味に、三分の一ほどだけ開かれた扉の先から覗くようにして顔だけ見せたのは、ロエルさんのお姉さんだ。

「……お話、終わった?」
「んー、まあそれなりに? お姉さんのお陰で」
「ほ、本当?」
「ホントだよ。ねえ?」
「さあね」
「ロエルさんがそうやって言うとまたややこしくなるじゃん」
「そもそもは君が元凶なの。ちゃんと分かってる?」
「分かってる、分かってます。だから怒らないでよ」
「別に誰も怒ってない」
「……やっぱり仲良しなのね。よかった」

 体半分がまだ扉で隠れたまま、小さく笑みを零したお姉さんの口にしたその言葉にどうも納得がいっていないらしいロエルさんは、分かりやすいくらいに話をすぐにすり替えた。

「で、姉さんは今日何しに外に出たの?」
「え? あー……えーっと、なんだったかしら……」
「まさかじゃないけど、この人を探――」
「ちょ、ちょっと! ロエルってば適当なこと言わないの! 怒るわよ!」
「もう怒られてるけど……」

 お姉さんの言葉で簡単に静止された、とあるロエルさんの言葉。一体その後には何が続いていたのか、危うく答えを導いてしまいそうになったけれど、これ以上は何も考えないことにする。……いや、流石にそれは買い被り過ぎというか、まああり得ないだろう。
 片手で数えても余る程しかまだ会っていないのだ。そんなことあるわけがない。そう自分に向けて思うことだけが、この状況で出来るオレにとって精一杯の抵抗だった。


   ◇


「紅茶、いい匂いじゃない? いつものと違うっていうのも新鮮でいいね」

 程なくして訪れたのは、紅茶の匂いが鼻に伝う、忘れかけていた本来の目的である時間だ。いつもと種類が違うらしい紅茶に、お姉さんが意気揚々と笑みを浮かべるところを見るに、どうやら相当それを楽しみにしていたらしい。
 大きめなお皿の上で、既に切り分けられているケーキが綺麗に重鎮している。果たして誰がこの量を食べるのか、正直なところ見ているだけで胃が埋まりそうな程だった。手際よくお皿に取り分けていくのは当然従者で、どうやらこの人がこの前名前だけ聞いたレイナという人らしい。貴族と従者、というには少々距離が近いようで、服装を気にしなければ友達に近いようにも見えた。
 すっかり客人となってしまったオレは、ロエルさんの隣の椅子に腰掛けていた。さっきまではそれなりに騒いでいたせいか、こういう扱いをされるとなんとも居心地が悪くなってくるのを感じながら、ただひたすらオレは客人に徹していた。決してぼうっとしていたわけではないが、ようやく聞こえたカタリという控えめな音に思わずはっとした。目の前には、要望通りのクランベリーのケーキが置かれた。砂糖の蜜で艶やかな朱は、どこからともなく落ちる光を反射して一層輝きを増している。正しく旬と呼ぶにピッタリだろう。
 食べて食べて、とお姉さんにそう急き立てられたオレは、適当な返事を返しつつ添えられたフォークを手に取った。どこか期待に近い視線が痛いほど刺さってくるが、出来るだけそれを視界に入れないようにしながらケーキの先端に注力する。抵抗を感じる柔なそれに、少しだけ力を込めた。
 誰かに見られながら何かを食す、という状況なんてそうは起こらないからか視線が気になってしょうがないが、それよりも勝つのが食欲というものだ。

「うまっ」
「甘……」

 同じタイミングで発せられた、違う言葉。無意識的に左隣に座るロエルさんを見ると、僅かながらに眉を歪ませているのが分かった。
 ロエルさんの手元にあるのは、ナッツが沢山散りばめられているいかにも香ばしさと共に食感が楽しそうなタルトだ。

「ロエルさんって、甘いの好きじゃないの?」
「……別に、甘いってだけで嫌いとは言ってない」
「ふーん?」

 それだけ言うと、ロエルさんは手にしているフォークをタルトに刺した。よくよく見ると、タルトとナッツ特有の食べにくさに苦戦しているだけだったようで、これに関してはオレの考えすぎだったらしい。それなら紛らわしい感想を言わないで欲しいものだけれど、その様子をオレは思わずフォークを噛みしめたまま眺めていた。

「……なに?」
「いや、うん。面白いなって思って」
「は?」
「それにしても来てよかったわー。あれ以来食ってなかったからなぁ」
「あれ以来……?」

 首を傾げながらそう口にするお姉さんに、オレはさも当然というように答えを提示した。

「甘いモン好きって言ったって、流石に毎日は食べないっしょ」
「そうなの? ちょっと意外かも」

 意外と言われるほど甘いものの前ではしゃいだ記憶は無いが、もしかして自覚がないだけで、誰が見ても分かるくらいに意気揚々としていたのだろうか? もしそうだとするなら次からは気を付けないといけないかも知れないが、そうは言っても既に手遅れだし、恐らくは到底無理だろう。

「あ、そうだ。ネイケル君にひとつ、聞いてもいい?」

 ふと、何かを思い出したかのように、ロエルさんのお姉さんが改めてといった様子でオレの顔をまじまじとオレの顔を見つめてくる。交わる視線に、どうにも息を詰まらせてしまった。

「ネイケル君って前髪長いけど、邪魔にならない?」
「あー……これ? 邪魔っちゃ邪魔だけど、もう慣れたっていうか」
「見にくくないの? それによく言うじゃない。目も悪くなるって」
「んー……」

 純粋な疑問なのか、それとも他の意図があってなのか。どちらにしても答えに困る質問だった。別にお洒落でやっている訳でも、この髪型が好きなわけでもない。目が悪くなるというのは確かに聞いたことがあるけれど、それは別に些細なことで、もっと言うなら別にどうだって構わない。

「あんまり、変わんないかな?」

 だから、こういう中途半端な答えしか言うことが出来なかった。
 何かを誤魔化すようにして笑みを浮かべたオレに少し疑問を持ったのか、お姉さんは僅かに思案しているらしい。お姉さんが考えていることは流石に分からない。変に勘繰られなければいいのだが、何かマズいことでも言っただろうか?

「……なに?」

 そして、お姉さんの他にも隣にもうひとりオレを横目で見ている自分物が居た。

「いや……。腹立つなって思って」
「え、酷くない? オレなんかした?」
「さあね」

 適当な返事が返ってきたかと思うと、ロエルさんはやっとフォークを手に取ってタルトを口に含む。ようやく訪れた二回目の行為によって生まれた隙が、オレの手までも動かした。

「あ……」

 フォークが持たれているオレの手は、ロエルさんの前に置いてあるケーキへと素早く向かう。オレの口に運ばれるまでの流れは、ロエルさんが苦戦していた時よりも比較的スムーズだった。

「なんだ、美味いじゃん」

 ナッツとタルト生地を口に含んだまま、オレはニヤけざまにそう言った。


   ◇


 僕と姉さんが真面目に会話を交わしたのは二日ほど前の話である。ケーキの下準備と銘打って、何故か僕まで駆り出されたことに疑問を抱いていた中、ひたすらにヘラで生地を練っている時のことだった。

「ねえ、今日珍しくアルセーヌさんの家に行ったんでしょ? 何話したの?」

 姉さんが口にしたのは、アルセーヌさんの家に行ったという事実を確認するためのものだ。一般的な考えとして、どうして貴族が腕を捲ってまでこんなことをしているのかなどと思われそうだが、そんなのは僕が理由を聞きたいくらいだった。

「路地裏の事件の話、かな……」
「ああ、結構大きな事件なんででしょう?」
「余り証拠が無いみたいだからね。普通の事件じゃないみたいだから、それもしょうがないけど」
「ふぅん……」

 しかしそうは言っても、どちらかの部屋に行って何かを話すという行為は、正直なところ余りしたくはない。それは別に姉さんが嫌いということでは毛頭なく、姉さんに質問責めにされた時、それを上手く交わせる自信が僕にはない。何かしら作業をしながら適当に会話をしているくらいが、僕にとっては丁度よかったのだ。

「やっぱり、そういうのって人手が多い方がいいの?」
「まあ、少ないよりはマシだけど……」

 確かに少ないよりはマシだが、多ければいいというわけでもない。大勢で動けば市民にとってあまり心象がいいものにはならないだろうし、大きな動きがそう簡単に出来ないというのが正直なところである。
 それに、ことの発端が隣街であるということも大きいだろう。

「……行くとか言い出さないよね?」
「そこまで無鉄砲じゃありません」

 わたしが行ったって、迷惑かかっちゃうし。続けてそう口にする姉さんの表情は、諦めとも寂寥とも違う、感得に近いほど明瞭だった。

「そういえば、ずっと気になってることがあったんだけど……」

 話ながらも、強力粉とベーキングパウダー、それに溶き卵が入ったボウルの中身を泡立て器で混ぜていた姉さんの手は止まることはない。

「ネイケルくんって、ただこの街に遊びに来たって訳でもないのよね?」

 しかし、出来れば余り聞きたくない名前が耳を掠めたせいで、僕の手は僅かに遅れをとった。

「……どうして?」
「だって、ロエルがネイケルくんみたいな人と知り合いって聞いたとき、ちょっと驚いたのよ? いくら貴族同士でそれなりの切っ掛けがあっても、話す程の仲になるのかなぁって」

 二人の組み合わせ、凄く不思議よ? そう付け加え、姉さんは僕の答えを少しだけ待った。話す程の仲、というか向こうが勝手に付きまとっているだけなのだけれど、そこをわざわざ違うと口にするのは止めておくことにする。変に突っかかって拗ねられたらたまったものではない。

「路地裏の事件と何か関係あったりするの?」

 僕の返事を待たずしてまた質問が飛んできた時、これはどうやら何かを言わないと話が終わらないのだろうという直感が働いた。

「……知らないよ」

 但し、だからと言ってそれ相応の答えを返すというわけでもない。

「本当? はぐらかしてばっかりでなんにも教えてくれないのね」

 意図的にはぐらかしたつもりはなかったのだけれど、普段の素行からそう思われるのは至極当然だった。しかしそう口にする姉さんの顔は怒っているというわけでもなく、どちらかと言えば楽しそうにも見えた。いつもなら気にも止めないその言葉が、どういう訳か今の僕には凄く重いものに感じる。

「……僕には、あの人たちが何を考えてるのかよく分からない」

 気付けば、僕の手は完全に止まっていた。

「アルセーヌさんから聞いたことも、あの彼の言葉も、目の前で起きたことすらも信用が出来ない」

 目の前で起きたことすらも信用が出来ない、というのは本当だ。

「それくらい、僕は何も知らないから」

 レナール家の特徴は、かなり閉鎖的なコミュニティの中で過ごしているというところだろう。
 そうは言っても、大きな事件じゃなければ貴族がこぞって街を徘徊しなければならない事件なんてそう起こらないのだから、大抵はノーウェン家だけで片付いてしまうし、それでも駄目ならルヴィエ家に話が来る程度のものばかりだろう。つまりは、レナール家に事件の話が来るということ自体が酷く稀なのだ。それくらい、あの男はこの街に面倒なものを持ち込んだということである。

「……だったら尚更、ちゃんと協力しないと駄目ね」

 そう何度も大きな事件が起きてしまっては困るというものだが、言うなれば今回はその大きな事件というものに値するものだということである。
 例えば偶然鉢合わせて片付ける羽目になったり、全く関係ない状態のモノをどうにかするとるというのは確率的に存在はするものの、それでも余り表に出ることがないお陰で世間では非協力的な貴族として映っている。それは強ち間違いではないから別に否定も肯定もしないが、勝手な想像でモノを言われるのは余りいい気はしないというものだ。

「お父さんとあれだけ大喧嘩して勝ち取ったお仕事なんだから、大丈夫よ」
「……そうかな」

 レナール家が精力的に表に出てこない根本的な理由を、市民は誰も知らないのだから。

「次期当主がそんな弱気でどうするの?」
「と、当主は姉さんでしょ」
「私じゃ駄目。就任してすぐ倒れたら目も当てられないじゃない?」
「なんでそんな縁起の悪いこと言うかな……」

 当主がどうというのはこの際別にどうだって構わないのだが、姉さんが倒れるだなんて縁起の悪い話だけは本当にやめて欲しい。完全に否定できないところが本当に怖いところだ。

「あ、あのね――」

 少しだけ姉さんの声色が落ち、少し距離を詰めてきた姉さんの行動に僕は思わず顔をあげた。二人して手の止まったキッチンには、音量を少し落とした姉さんの言葉だけが淡々と落ちていく。その次、そしてまた次に発せられた言葉に、自身の耳を疑いかけた。何故なら、この時点ではまだ一回しか会っていない人物についての見解を述べられたからだ。
 しかしそれは全く見当外れというわけではなく、これまでのアルセーヌさんの話と該当する人物の言動を思い返せば、僅かながらに感じるモノは確かにあったと言えるだろう。

「あ、本当にそうなのかは分からないけど……。でも、そうだとしたら私は嫌だなあって思って」

 ただの戯言だと片付けられればそれが一番良かったのかも知れないが、それが姉さんの言葉によって確信に変わってしまったのがいけなかった。
 魔法というのは、何も武力を行使することが全てではない。姉さんが口にする言葉というのはそういうことだ。

「ロエルは、ネイケルくんのこと嫌い?」

 唐突に、純粋無垢に聞いてくる姉さんの顔を、僕はちゃんと見ることが出来なかった。いつだったかに似たようなニュアンスのことを誰かが口にしていたような気がするが、僕はそんなに彼のことを毛嫌いしているように見えるのだろうか? 自覚が全くないというわけではないが、それとこれとは話が別であるというのに、姉さんを除いて誰もそれを分かっていない。

「……どうかな」

 あの馬鹿にかける言葉なんて、これくらいが丁度いいというだけに過ぎないのだ。

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