13話:仕組まれた不戦勝


2024-08-13 17:30:31
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 ――路地裏での事件、また起きたんだって?
 ――どうやら警察もあまり動いていないらしいし、貴族がらみだっていう話じゃないか。
 ――魔法が使われているなんて、貴族の中に犯人がいるんじゃないの?

 その声が果たして本当に外から聞こえているものなのか、それともただの幻聴なのか、正直なところ今の私には判別がつけられない。
 街に人が溢れかえっていると言うほどの時間でもないが、それなりに街の活気はあると言っていいだろう。私は、それら人々には目を向けることはしない。周りの市民だって、私欲を貪る貴族のことなど心底どうでもいいと思っているだろうし、もっと言うなら関わりなんて持ちたくもないと思っているという推測は容易だ。
 そんな市民の多く集まる場所、市場に赴くことはしなかったが、空がいい加減朱から藍に変わろうとしている頃、私はとある場所へと足を運んだ。私が帰る頃には、この煩わしい人の波も少しは収まっているのだろう。出来ればそうであってほしいという心持の中、目の前には目的地に行くのを塞き止めている扉がある。closeと書かれた札が吊るされているにも関わらず、私が手をかければそれは容易に開かれた。閉園してまだ間もないということと、まだ従業員が中で作業をしているからだろう。
 開かれた時に鳴る、少し軋んだような音が私を歓迎していないように聞こえたのは、気のせいというわけではない。目の前に現れたのは、到底全てを読むことは叶わないであろう無数の本だ。時間外のお陰で、市民の姿は当然何処にもいなかった。

「やあ、ルエード君。あれ以来調子は如何かな?」

 いつものように受付にいる、彼ただひとりを除いては。
 私がそう問いかけると、彼はいつも一瞬だけ視界に入れたかと思うと、すぐに視線を外してしまうのが常だ。しかし、今日はどうやらそれとは少し違うようで、受付に置かれているいつにも増して量が多い本を前に、手に持たれた紙に当てられたペン先の擦れる音が止まることはない。声だけで私と認識しているのか、こちらを振り向くという行為をする気配は一向に見受けられない。

「……別に、普通です」
「そうかい? それは良かった」

 などと適当な言葉を私が述べて数秒の沈黙が訪れた後、まるでしょうがなくといった声が聞こえてきそうな程に小さな吐息が、彼の口から溢れる。

「クレイヴさんなら、まだ二階にいると思いますけど」

 それだけ口にする彼の表情は、先ほどよりも一層歪んでいる。ただ、どうやらそれは、私がここに来たからという理由ではないらしい。
 止まることのないペンの動きと、小さな声で発している独り言。恐らくは本のタイトルと思われる、さして聞き覚えの無いような言葉ばかりだ。どうやら、その目に余るほどの本の選別が行われているらしい。

「そうか、ありがとう」

 これ以上の言葉は不要と判断した私は、簡潔に礼だけを伝え、受付の端のほうに詰まれた大量のそれを気に留めることはせず、彼の言う二階へと足を運ぶ。確かあの辺りは、読んだところで理解するには到底及ばないであろう専門書ばかりだったような気がするのだけれど、果たして何をしているのだろうか?
 階段を上りきろうかというところ、この図書館によく足を運んでいる人物が視界に入った。どうやら、丁度降りようとしていたところだったらしい。

「あ、お久しぶりですっ」
「やあ、サラ君。ご機嫌は如何かな?」
「えっと……元気ですよ! とても!」
「はは、それならよかった」

 クレイヴさんならあっちですよ。そう言いながら先導してくれるサラ君の好意に甘え、私は彼女の少し後ろをついて歩く。皆して察しがいいのは、私がここに足を運ぶ理由が概ねひとつしかないからだ。
 案内されているのは、どうやら二階の奥のほう。控え目に言ってもこんな誰も来ないような場所に連れてこられると、さながら騙されているのではないかという気分になるが、彼女に限ってはそれはあり得ないだろう。
 既に日が落ちている様子が、棚の向かいにある窓から垣間見える。

「……またか」

 少し遠くの方から、誰かが何かを口にしたのが聞こえた。その人物がいたのは、二階の窓側。丁度まん中辺りにあるふたり掛けのテーブルに座っていたのは、私が目的としていたひとりの人物。

「君ね、今日で何回目だ?」

 そして、恐らくこの中で一番私を歓迎していないであろう人物がそこにはいた。

「まだ三回目じゃないですか。そもそも、怒られる理由がよく分からないですね」
「怒ってはいないよ。そう聞こえるということは、思い当たる節があるんじゃないのかい?」
「別にありませんけど。というより、勝っておきながら僕に文句をつけるのはどうかと」

 ……どうやら、私が来たタイミングはかなり悪かったらしい。一体何を言い合っているのか、最初は疑問を提示せざるを得なかったが、テーブルの上に置かれている盤面と、それに付随する駒のお陰である程度の察しはつけることが出来た。

「どこでひとりチェスをしてようが一向に構わないんだけどね、適当に負けるくらいなら誘わないで欲しいよ」
「適当にやって負けられる程、僕は器用じゃありませんけど」
「冗談は止めてくれ。最初から明らかに手を抜いていたじゃないか」
「気のせいですよ。考えすぎです」

 簡潔に言うなら、サラ君の兄であるランベルト君とクレイヴはチェスをしていたようで、誘った本人が三回適当に負けたとクレイヴが言い張っている。といったところだろうか。
 正直、部外者の私からしたらどうでもいいのだけれど、そうもいかない理由がクレイヴにはあったのだろう。意味もなく難癖をつけるような人じゃないというのは、一応分かっているつもりだ。

「……本当、元気そうで何よりだね」
「あはは……」

 我々に気付いているのかいないのか、ふたりの会話は止まることがない。

「そうやって、適当に言葉を返していればどうにかなると思ってところも、いい加減にして欲しいものだね」
「長い話が早く終わらないかなって思いながら聞いてると、どうしてもそうなりますよ」
「どうして君はそういう言い方しか出来ないんだ? だからまたこうやって――」
「す、ストーップ!」

 話の脱線を期に、大きな身振りで動いたサラ君を前にしたふたりは、ようやく口を止める。

「お客さん! です!」

 やっと、ふたりと私の視線が交わった。こうも一斉に目を向けられると居たたまれない気分になるものの、そんなことに構っている必要はない。

「お楽しみのところ、すみませんね」
「……君か、こんな時間に何のようかな?」
「ああいや、特にどうという訳でもないんですけど……」

 自分から足を運んでおきながらなんだけれど、言葉を選ぶのに、どうしても数秒の時間が必要だった。

「たまには、昔話でもどうかと思いましてね」
「……昔話、ねぇ?」

 昔話、というなんとも便利な言葉を用いると、クレイヴはその一言で全てを理解したように、視線を盤面へと変える。というより、私が彼に用がある時は大抵この類いの話なのだけれど。

「ランベルト、悪いが受付に詰まれている大量の本、ルエード君と然るべきところに戻しておいてくれ」
「嫌ですね。僕は別にここの従業員じゃな――」
「別に、本を戻すくらいは誰だって出来るだろう? あの量を彼ひとりに任せると、後で何を言われるか分かったもんじゃないからね。手分けして頑張ってやっておいてくれ」

 クレイヴの言っているのは、恐らくさっき私がルエード君と共に見た、受付に詰まれていた大量の本のことだろう。ランベルト君の口からわざとらしいため息が溢れるが、それを拾うようにしてサラ君が言葉を口にした。

「あ、あの、わたしも手伝いますから! 皆でやればすぐですよ! すぐ!」
「はは……」
「えっと……ご、ごゆっくりー」

 特に意味をなさない乾いた笑いが二階に蔓延したのもほんの僅か、サラ君に腕を掴まれたランベルト君は、早々にこの場を後にしていく。気を利かせてくれたのか、それとも単に居づらかっただけなのか。どちらにしても、彼女には感謝しなければいけないだろう。
 ふたりの声が聞こえなくなるのを確認すると、クレイヴは盤面に並べられた黒いひとつの駒を手に取った。その駒の名前は一体何だっただろうか? 淡々と、本来一番最初に置かれているべき場所に、それらを戻していく。

「……チェス、やり方は覚えているかい?」
「私が覚えていると、本当に思ってます?」
「失言だったよ。忘れてくれ」

 適当な謝罪を受け流しながら、私はさっきまでランベルト君がいた席に座る。段々と残されつつある白い駒を、適当に手に取った。

「……これは、何処に置くんでしたっけ?」
「あー……。ま、取り合えず白い方だけそっちに集めておいてくれ」

 チェスを見ることすらも久しぶりだった私は、どれがどういう役割をもたらすのかというのもすっかり忘れていた。遥か昔に覚えようと思ったこともなくはないが、相性とでも言えばいいのか、どうにもルールを頭に入れることが出来なかった。比較的覚えやすい、駒の名前さえも、だ。

「……で、話というのは何だったかな?本当に昔話をしに来たとも思えないのだけれど」
「ここ数週間のことなので、昔と言えば昔かと」
「君の考える昔という定義を覆したくなるね」

 言いながら、クレイヴは早々に残された最後の黒い駒をひとつ手に取った。

「一応、アナタの耳には入れておくべきかと思いまして」
「……ま、アルセーヌがここに来る理由なんて、大体察しがつくけど」
「話が早くて助かります」

 クレイヴの手に持たれている名前の分からない駒は、本来あるべき位置に戻されてく。そうして次に彼が触れたのは、私が集めた白い駒。今日、こうしてチェスを前にすると分かっていれば、ルールくらいはちゃんと思い出してきたし、もっと言うならそれなりに練習だってしてきただろう。

「私はひとりで勝手にやっているから、君は適当に話を進めてくれ」
「……聞く気あります?」
「いいじゃないか、昔の時みたいで。ちゃんと聞いているよ」

 付け焼き刃のようなことをしたところで、この人の相手には到底ならないだろうが、それでも、なんだかんだと言いながら相手になってくれるということを私はちゃんと知っている。次に来る時には、それなりに思い出しておくとしようか。そんな思いは、彼が動かしたひとつの駒によって押しつぶされた。


   ◇


「……で、この大量の本については触れないようにしてたんだけど、一体何処から出てきたの?」
「寄付だそうですが、簡単に言うなら押し付けられんだそうですよ」

 手を止めることをしない僕の隣に現れたランベルトさんの口調は、いつものように何処か空に浮いている。今日は、それに合わせて機嫌が良くないらしかった。
 亡くなった老夫婦の家に処理しきれない本が大量にあったとかなんとか、本当かどうかは分からないけど、クレイヴさんはそう言っていたのを覚えている。

「クレイヴさんもかなり難色示してましたけど、何だかんだでお人好しですからね」

 ランベルトさん曰く、大量の本が受付にあるから僕と一緒になんとかしろと、そうクレイヴさんに言われたらしい。どう見ても乗り気では無さそうだったから、大体は言う通りなのだろう。サラさんはそうでも無いようだけど。

「図書館にあるものと無いものは分けましたけど、ここから更に、区分別に分ける必要がありますね」
「はえー……大変だ」

 僕の言葉と雑に詰まれた本を見て、サラさんはそう口にする。本当なら、この時点でそれが全部分かれていれば一番なのだけれど、なんていうか、余りにも量が多い上に本の種類に整合性がなかったお陰で、それは途中で諦めた。

「別に、おふたりが手伝う必要はないと思いますけど」
「そんなことないですよ!兄さまも、いつまでもそんな顔してたら駄目です!」
「分かった分かった。ちゃんとやるから怒らないでよ」

 口ではそうは言うものの、ランベルトさんから出てくるのはため息ばかりだ。
 手伝ってもらうといっても、空いている棚なんてそう都合よくあるわけがないから、今のところ殆どが倉庫行きになってしまうだろう。単に小説だけだったらここまで苦労することはなかったし、ここに寄贈という名の押し付けがあってもまだマシだったはずだ。問題があったのは、本の種類だといって差し支えない。

「量子力学、数理統計、法学の基礎……。せかいのおもちゃ事典……?」

 サラさんが、積まれている本の名前をあげていく。イマイチ整合性の取れない本のタイトルに、首を傾げていた。

「元々は研究者だったようですが、ただの専門書マニアですね。それと、奥さんの趣味が絵本を集めることだったそうですよ」
「それで、図書館に無理矢理寄付って?」

 単に処理に困っただけだろうから、向こうの職務怠慢だね。僕が思っていることをそのまま口にしながら、ランベルトさんが適当に本を手に取る。

「……今日で終わるとは思ってないよね?」
「当たり前じゃないですか」
「なら、いいんだけど」
「それに、今は二階には行けませんから」
「ああ……」
「取りあえず、絵本からなんとかしていきます。絵本なら、別に二冊あって困ることはないですし。適当に持っていって適当に入れていきましょう」
「……ルエード君って、結構雑だね?」
「この量を前に丁寧にやってたら、永遠に終わりませんが」
「うん、そうだね。僕が悪かったよ」

 断じて怒っている訳ではないけど、絵本だけで百を超えてしまいそうな量に思わず目を瞑りたくなるのは確かだ。どうしてこう、収集癖のある人はこうも見境無しにモノを集めたがるのだろうか? 僕には到底理解が出来ない。
 それらの中から持てるだけの本を持ち、僕ら三人は児童書のある棚へと向かう。児童と言うには少し語弊があるような気がするけど、同じ場所にあるのだから仕方がない。三人なら、まあもう一度往復するくらいでいいだろう。絵本に関しては、だけど。
 受付近くのテーブルを抜けて比較的近い場所にある、子供向けに形成された場所。ここだけは、平均的な子供の背丈に合わせて作られているぶん棚も大きくないし、テーブルも心なしか低くなっている。
 本が床に置かれる重い音が、何重にもなって響き渡った。一応、作者ごとのあいうえお順には並べられてはいるものの、この場所においては、きちんとこちらの想定通りに並べられているというのは期待できないだろう。特に絵本なんて、恐らくは無法地帯だ。順に並べ直す時間が全くないというのが惜しいけど、並べ直したところで明日の夜には元に戻っているだろうから、この際それは気にしないでおくことにする。

「あ、兄さまこれ」

 ふと、サラさんがひとつの絵本を手に声をあげた。

「よく読んでましたよね。私覚えてますよ」

 見てくださいと言ったように、表紙をこちらに向けてくる。見る限りはごく一般的な絵本のようだけれど、記憶にない辺り僕は読んだことは無いらしい。最も、子供の頃の記憶なんて殆んどないというのが正しいのだけれど。

「ああ……。読みすぎてボロボロになって捨てたやつか」
「やっぱり、捨てちゃうのは勿体なかったですよー」

 少ししゅんとした顔をするサラさんを前に、僕はこう言った。

「別に、貰っても良いんじゃないですか? クレイヴさんも何も言わないと思いますけど」
「だ、駄目ですよ。それならちゃんと買って読みます」
「……ちょっと待って、買うの?」
「駄目ですか?」
「いや駄目じゃないけど……。今それ買ってもなあ」
「兄さまは本買っても読まないじゃないですかっ。私は読みますもん」

 誰も買うとは言っていないような気がするけど、買う前提で話が進んでいるせいで少しややこしいことになってしまっている気がする。まあ、だからといって口を出すだなんて野暮なことはしない。
 一体何をしに来ているのか、ランベルトさんはここに来ても本を読んでいるフリをしているだけ、ということが多く、大抵の場合は本の内容を聞いても答えてはくれない。……というよりも、この人に質問を提示したところでまともに答えが返ってくることは余りないのだけれど。
 すっかり手が止まっているふたりをよそに、僕は目の前にある小さな棚の隙間を埋めていく。ひょっとしてひとりの方がマシだったのではないかという些かの後悔と、僕の周りの人たちの話は何度聞いても飽きないなという思いを他所に、僅かに蔓延る虚無に犯されていたというのはここだけの話だ。


   ◇


「そうか……」

 何かに納得するようなクレイヴの声と同時に、盤面に無機質な音が落ちた。

「余り悠長にもしていられないね」

 ひとり淡々と、白と黒の駒を交互に動かしながら、クレイヴは私の言葉を逃すことなく言葉を返した。今回の件、私がクレイヴの元を訪れた大きな理由というのが、レズリーと対峙したというのがそれに当たる。
 彼に不自然な点が多かったということと、果たしてどこまで関係しているのかは知らないが、ネイケル君が隣街で行方の分からなくなっている人物と接触したらしいということを、簡潔に伝えた。だが……。

「でも、君がシント君にちゃんと事件の説明をするとは思わなかったな。まだ迷っているのかと思っていたんだけれど」

 ただ単純に、誰かに今の自分の心持ちを聞いてほしかっただけなのかも知れない。

「……言わなくてもいいのなら、そっちの方がよかったですよ」

 そう思えるくらいに、その言葉は簡単に口から溢れ落ちた。

「でも、そんな悠長なことは言えないという状況なのは分かってます」

 それは恐らく、自分に言い聞かせていたのと同義だろう。大丈夫、分かっている。でなければ、わざわざこうしてクレイヴの元になんて来ないじゃないか。もう何度も、そんなことを唱えている。分かっているからこそ思うことが沢山あるのも事実だが、だからといって何もせずにただ時間が過ぎていくというのは、完全に悪手だ。
 私の感情ひとつで、事件の真相が分かるかも知れないという糸口を消してはいけない。それを理解する時間は、十分過ぎるほどに与えられた。

「……にしても、次から次に疑問が出てきて困ったね。まだ私たちが知らない情報がいくつもあるということの裏返しだろうけど、余りにも情報が散乱していて良くない」

 路地裏でシント君と会ったということも、その後家に呼んだとき躊躇して全てを話さなかったことも、この人は全部知っている。深淵が再び姿を見せていることも、だ。

「誰かが嘘をついている、或いは話すべきことを共有していないとするなら、さてそれは誰だと思う?」

 突然放たれたその言葉に、心臓が掴まれたような気分だった。

「情報が錯綜しているということは、ある一定の嘘と誰にも共有していない何かがまかり通っているということに等しい。そこを知り得ることが出来ない限り、この一連の事件全てに終止符を打つのは無理だ」

 心当たりがあったのだ。

「私は、君の意見を聞きたいね」

 全てを見透かされているような、そんな錯覚である。当然そんなことはあるはずがないのだが、目を伏せる切っ掛けではあった。

「……関連している人間全員、じゃないでしょうか」

 勘、と言われればそれまでだ。

「それは、君と私も含むのかな?」

 私は、その質問には答えない。クレイヴさんがそうだとは言っていないつもりだったら、だが恐らくはそうなのだろう。現に私がそうなのだから。

「なら、シント君はどうだい?」
「彼が嘘ですか? 私にはそうは見え……」

 そう言いかけるも、続く言葉に少し躊躇した。彼が嘘をついている? そんなことをするメリットがあるとは到底思えないが、その可能性だって大いにある。だが、出来ればそんなことは考えたくない。
 ……これじゃあ、ただの願望だ。立場上、余りにも軽率な言動は控えたいものではあるが、それはどうやら難しいらしい。

「いいよ、真面目に答えなくて。少し意地悪な質問だった。反省するよ」

 苦笑交じりにそう口にしたクレイヴは、白い駒を動かした。私には、今の状況が白と黒どちらが劣勢なのかが分からない。聞いたら教えてもらえるだろうか? 今の状況でその質問は、少々場に則していない。

「まあ、一番の近道はレズリーがまともに取り合ってくれる状況を作ることだろうね。それが出来れば、の話だけれど」

 少々、骨が折れそうだ。そうクレイヴが口にすると言うことは、やはり一筋縄ではいかないのだろう。それは分かっているのだが、特に我々だけでは解決には導くことが出来ないというのが惜しい。

「……シント君に協力してもらう他に、方法は無いのでしょうか?」

 本当に、自分の力の無さというものを痛感する。それとこれとは話が別だというのも理解はしているが、そういうことではない。

「余りいい状況とは言えないけれど、彼がいないとレズリーはまともに取り合ってはくれないよ。それに、彼には知る権利があるからね。知りたいと言うのであれば、止めるのは野暮だよ」
「……そうですね」

 今更何を迷っているのか、と言われてしまえば返す言葉もない。一番酷な状況下に置かれているのは私じゃないというのに、どうしてこうも不安が尽きないのだろうか? その理由が分かる頃には、何かしらことが進んでしまっているのだろうか?
 それが本当にいいことなのか、私はもう、よく分からない。

「……君の優柔不断っぷりには困ったね」

 私が返した返事に若干の間が生まれたことを、この人は見逃すことをしない。

「君がしっかりしないでどうするんだ」

 クレイヴが、身を乗り出して私の額に白い駒を当てる。この時まで、私はずっと目を伏せていたということに気付かなかった。

「彼が困った時、側に居てあげないといけないのは君じゃないかと私は思うけどね?」

 クレイヴの視線が、痛いくらいに私を刺した。

「……とてもそうとは思えません」
「それはどうして?」
「どうしてと言われても……」

 言葉に詰まる私に向けてため息が放たれたのは、そう遠くない出来事だった。

「君は馬鹿だね」
「……馬鹿?」
「馬鹿だよ。この街にいる貴族の中で、誰が一番シント君のことを知っていると思っているんだ?」
「そ、それとこれとは話が別では……」
「別じゃない」

 ピシャリと、何かを言いかけた私の声を跳ね返す。

「それはとても大事なことだよ」

 真っ直ぐに私のことを貫くその瞳が、私には美しく見えた。
 柔らかな笑みを浮かべる彼を前にすると、本当にそうなのではないかという気持ちになる。彼の言葉は、それくらい私にとって重いものなのだ。

「……何かしら思うことがあると、必ず私の元を訪ねてくるところは相変わらずだね」

 これら疑問全てはきっと、誰かに答えを求めたところで解決するものでは無いのだろう。だからこそ、私はこうやって難色を示してしまう。

「それはそうですよ。伝えるところはちゃんとしておかないと」

 そういう意味じゃないんだけれど。そう言った直後、長らく私の額に留まっていた白い駒が、盤面に置かれていく。

「……勝ち続きっていうのは、余り面白くないんだ」

 それが動いた数秒後に取られたのは、黒の王冠をあしらった大きい駒。手に持たれたそれを盤面の外に置き、言葉を続ける。

「次に私とやる時には、あの負け癖を何とかして欲しいものだね。ああ、君には期待していないから、安心しなさい」
「それは結構ですけど……。そこまでキッパリ言われると、またやりたくなってきますね」
「そういうのは、駒の名前くらい覚えてから言って欲しいものだよ」

 そうでしたね。と、やれもしないものを対象にこうやって言えるようになったのは、私が大人になった所以だろうか。

「……この時間に長居するのは、余り良くないですね」

 視界に入った時計の針は、既に一時間を越えそうになっていた。

「また、来てもいいですか?」

 私の言葉に勿論と返したクレイヴは、散らばった駒をいつものケースに入れていく。その様子を、私はただ単に眺めていることしか出来ないでいた。


   ◇


 ドタドタと、誰かが廊下を騒がしく歩く音がする。その音を掻き立てているのは自分自身であるということに、当の本人は気付いていない。というより、そんなことを気にしていられる余裕なんてどこにもなかったのだ。足を動かすたびに靡く髪の毛に気を取られることもなく、少し息を切らしながら険しい面持ちで目的の場所を目指す。ああ早く、一刻も早くこの状況を何とかしないと。
 このままだと自分がどうにかなってしまいそうで、気付いたら家を飛び出してここに来てしまっていた。

「クレイヴっ! 助けてください今日――」

 勢いよく開いた扉の向こうにいるのは、図書館の館長の息子であるクレイヴ。何かにつけて、僕……私がいつも助けを求める人物だ。

「……アルセーヌ。来るのは構わないけど、ノックくらいはして欲しいな」
「す、すみません……」

 クレイヴを前にしたということと、いつものように苦言を提示されてしまったことで若干の落ち着きを取り戻しはしたものの、焦りが収まることは無い。彼は、少し困ったような面持ちで手にしていた本を閉じ、悠長に言葉を続けた。

「で、何の用? その様子だと、もしかしてまた逃げてきたんじゃないだろうね?」
「だって、社交ダンスなんて僕は好きじゃ……! じゃなくて、えーっと私……? ああもうっ! とにかく匿ってください!」

 別にいいけど、多分すぐに見つかるよ。その声を聞きながら、私はクレイヴとの距離を足早に詰めた。溜め息の次に出てきた言葉に近づいて、当時の私はクレイヴの座っているテーブルを視界に入れた。
 置いてあるのは、いつものチェスの盤面。それに、なんだかよく分からない難しそうな本。唯一違ったのは、カップに入っていたであろう紅茶が飲み干されていたということと、チェスの駒がしまわれていたということ。

「今日はチェスじゃないの?」
「私だって、別にいつもやってる訳じゃないからね? 本が読みたい時だってあるさ」
「そっかぁ……」

 私がこの時からチェスを覚えることが出来なかった理由は、主にふたつ。

「……やる? ま、アルセーヌとはまともな対戦が出来るとは思えないけど」
「そんなこと! ……ある、けど」

 まずひとつ目は、比較的簡単であるルールを覚えることが出来なかったということ。これに関して言うなら、チェスとの相性というのもあったのだろうし、単純にそこまで興味がなかったのかも知れない。

「クレイヴがやってるのを見てるくらいが丁度いいから、今日は大丈夫」

 そしてふたつ目。これはあくまでも推察に過ぎないけれど、恐らく私は、単にクレイヴがひとりで淡々と駒を動かしているその様子を、見ていたかっただけなのだ。相手がいないのに、白と黒の駒を巧みに使い分けながら「今回は接戦だった」とか、「黒の調子が良くなかったらしい」とかいう適当な設定をつけて楽しんでいるその横で、特に何をするでもなく駒が動く様子を見ながら、クレイヴと雑談をする。ただそれだけでよかった。
 確かに、私がルールや駒の名前を覚えることが出来ていたら対戦も出来ていたかも知れないし、その方が楽しいこともあったのかも知れない。でも、そういうことじゃ無かったのだ。

「じゃあ、何をして暇を潰そうか? どうせ君の父君が近いうちにやってくるだろうし、雑談をするっていうあれでも……」
「どうして見つかる前提なんですか!」
「君が来る場所なんて大体決まっているじゃないか。ここなんて、真っ先に来て見つかりそうだけど」
「だ、だって、他に行くところなんてないし……」
「ああもう……。分かったから、そんな顔しないでくれよ。そうだな、確か……」

 こうやって簡単に気を落とした私を前にしてそう言うと、徐に席を立ち棚のある方へと足を向ける。控え目な足音が向けられたその先にあったのは、四角いひとつの缶だ。

「この前に人から貰ったマドレーヌ、まだ残ってるんだ」

 そう言ってクレイヴは、幾つかのうちのひとつを私に差し出した。

「……いいんですか?」
「こうやって人が来ることもそうないから、かなり余らせていてね。どうしようかと思っていたところだったから、貰ってくれると嬉しいんだけど」

 手渡されたそれは、確かこの街のものではなくて、どこかの有名店のもの。柔らかな笑みに誘われ、私は無意識的に手にしてしまっていた。

「あ、ありがとうございます……!」
「父君が来てしまう前に、一緒に食べようか?」
「父さんに怒られないかな……」
「今更そこを気にするのかい?」

 内緒にしてしまえばいいさ。そう言いながら包みを開けるクレイヴに急き立てられるように、私も同じ動作をする。開けた途端に広がるバターの芳しい香りに、少しずつ口の中が潤いはじめていく。優しい甘さが口に広がっていくのが、なんとも心地よかった。
 その僅か数十分後のことだっただろうか。慌ただしい足音と共に、いかにも怒っているといった形相で父が私の前に現れたのは。クレイヴの後ろに隠れ、せめて怒られるのだけは逃れようとしたのも意味がなく、かなりこっぴどくしかられた記憶がある。
 アーネット家とルヴィエ家は元々親交があったというのもあり、父は彼の前で大っぴらに怒っていたし、なんならクレイヴは笑っていた。これくらいのことは、当時わりと頻繁にあったのだ。

「酷い目にあいました……」

 あれから約二時間ほどした後。半強制的にそれの指導を受けた私は、気付けばまたクレイヴの元を訪れていた。マドレーヌを食べたということだけはお互いに口にすることはしないまま、一日が過ぎようとしている。

「今時社交ダンスなんて流行らないだろうに、君の父君は随分と熱心だね」
「ピアノだってそうです! 僕の素行が悪いからどうにかしたいとか何とか、適当なことばかり言うんですよ!」
「間違ってはいない気はするけど」

 口を開けば、ほぼ毎回こんなことばかりを声にしていたのをよく覚えている。よくもまあ、クレイヴは毎回こんなことに付き合ってくれていたものだ。

「僕、貴族の生まれじゃない方が良かったかな……」

 半強制的にやらされるそれらにすっかりと生気を吸いとられてしまった私は、気づけばこんな言葉を放っていた。

「……どうして?」
「だって、今でも言葉も丁寧に話せないし、社交ダンスだってピアノだってろくに出来ないし……。僕は別に、って、僕じゃないってば! あーもうっ!」
「はは、その歳で全部を完璧にするっていうのは、流石に無理があるんじゃないかな」
「でもっ! クレイヴはいつも完璧じゃないですか!」
「私は別に、ピアノもダンスも出来ないけど」
「オーラが出来るって言ってます!」
「あ、そう……」

 屁理屈を並べただけの、特に意味のないやり取りは、次のクレイヴの言葉で終わりを告げる。彼が何かを口にすれば、それは本当に簡単だった。

「……まあ、それが本当にアルセーヌの為にならないというのであれば、無理にやる必要なんてどこにもないよ。本当にやりたくないのなら、ね」

 そう言いながら、彼は私の目を見てこう問いかける。

「君はどっちだい?」

 問われた私は、ほんの僅かながらも冷静さを取り戻す。周りの人は、さも当然のように私に色んなことをやらせようとしていた中、そんなことを聞かれたのは、もしかするとこれがはじめてだったのかも知れない。

「そりゃ、出来ないよりも出来た方がいいとは思いますけど……。でも……」
「でも?」
「人には向き不向きがあるというか……。あの、本当に出来なくて……」

 すっかりと悄気る私を前に、僅かな沈黙が走る。例えばの話、頑張って覚えようと努力をして、その過程の中で楽しさを覚えながら出来れば、私だってこんな駄々のこねかたはしなかったはずだ。……というのは、紛れもなく自分を正当化させようとする為の嘘だと言えるだろう。
 それは、クレイヴが口にした次の言葉に対して当時の私が口にした数々が物語っているはずだ。

「……そういえば、それらを始めたのはいつ頃のことだったかな?」
「えーっと……。一週間前、くらい?」
「それは君が悪いよ。気が早すぎだ」
「でも僕っ、やりたいなんて一言も言ってないです!」
「君の言うオーラというのが、父君に出来ると言ってくれたのかもね?」
「オーラなんてあるわけないじゃん!」
「君が言ったんじゃないか。言葉には責任を持ってくれないと困るね」

 その様子は、端から見たら貴族とは程遠いものであるというのは間違いないが、これら全ての出来事をいつになっても忘れられないというのは、誰が思うよりも有意義な時間だったということの表れなのかも知れない。
 但し、そう思えるようになるまでの時間と、公の場において発生するそれ相応の貴族の理想像というものを身に付けるのには、沢山の時間が必要だった。昔と比べて、果たして今はどうなのかという部分について問われたら、きっと答えることは出来ないだろう。

「私の前なら、別にどうでも構わないのだけれどね。ああでも、ノックくらいはしてくれると嬉しいかな」
「努力する……します……」

 ほんの僅かでしかないけれど、あの時よりは幾らかマシにはなった。それくらいだったら、言っても許されるだろうか?

「明日、また来るといいよ。私も、もう少しマシなもてなしくらいは出来るようにならないといけないからね」
「……いいの?」
「私が良いって言ってるんだから、そこを疑われると困るよ。それに、いつも予告なしに勝手に来るじゃないか」

 そうだったら良いと思う反面、恐らくは何も変わっていないのだろうという狭間というのには、もうすっかり慣れてしまっている。だからきっと、私はいつまで経っても駄目なのだろう。
 早くしないと、また父君にどやされるよ。その言葉に、私はようやく我を取り戻した気がした。そういえば、稽古が終わってすぐ、父さんの小言に聞き飽きて図書館に行くと言って逃げてきたのをすっかりと忘れていた。

「じゃ、じゃあまた来ますねっ」

 そう口にすると、クレイヴの口が綻んでいった。もう日没時間だから送っていこうか? そう聞かれたけれど、考えるまでもなく二つ返事で大丈夫と答えていた。一応、罪悪感というものは持ち合わせていたというのが大きかっただろう。今更慌てたところで既に遅いのだが、日没間際ということもあって、これ以上の長居は流石に出来ないというのは流石によく分かる。私は、一刻も早くとクレイヴの部屋から姿を消した。……そのはずだった。

「明日っ! また来るから!」
「分かった分かった。また明日」

 この時の私は、彼と約束を取り付けたことが嬉しくてかなり上機嫌だった。それは、今となっても何ら変わらない。

 ――図書館の外。扉を開ける音が、私を現実に引き戻したようなそんな気がしたのは、恐らく気のせいではなかっただろう。
 もうすっかり日中の明かりが消えてしまった街路には、まだ沢山の市民が出歩いている。それは、ほんの僅かではあるものの私の心を曇らせた。向こう、つまり市民側がどう思っているかなんていうことは別にどうでもよく、単に夜くらいは静かに歩いて帰りたかったのだけれど、どうやらそうなるには少し早かったらしい。もう少しくらい図書館に居ればよかっただろうか。そんな考えを払拭する為、私は自身の意思で足を動かした。

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