12話:深淵を纏わない誰かの声


2024-08-13 00:12:33
文字サイズ
文字組
フォントゴシック体明朝体
 そろそろ日差しも落ちる準備を始める頃、雑踏の蔓延る市場の中で、オレともうひとりは特に何をするでもなく道を行き交う人らを眺めていた。

「お兄ちゃーん」
「んー?」
「暇だね」
「まあ……そうだね」
「トランプでもする?」
「いや、店番中にするものじゃなくない?」
「えー、せっかくお兄ちゃんが来てくれたのに」
「別に来たくて来たわけじゃないっていうか……。オレは通りすぎただけだし」

 市場を歩いていてエトガーに呼び止められてしまったのは、まあいつものことだから別に気にしてはいない。ただ、まさかオレが店の護りをすることになるとは思わなかった。いつもはエトガーのお父さんが必ず店の奥に居るのだけれど、どうやら父親が遠出をしているようで、エトガーのお母さんが出かけることに難色を示していたところにオレが通り過ぎてしまったらしい。十を過ぎたばかりのエトガーをひとり店に残すというのは余り宜しくないからと、戻って来るまでの約二時間ほど、オレが店番をすることになっていたのだ。という理由は一応あるにせよ、簡単に言うならオレがエトガーの圧しに負けた形になる。
 ローザおばさんに頼まれた買い物をした後だったから別によかったけど、唯一の難点は、平日だからというのもあって暇だったということ。

「あ……」

 そんな中、知り合いを誰よりも早く見つけてしまうのは、オレがよっぽど人の行き交う様子を眺めていたからなのか、それとも見慣れてしまったからよく目に付いただけなのか、どっちだったのかは分からない。

「……こんなところで何してるの?」
「店番、の手伝い? みたいな……。なんかそんな感じ」

 その知り合いというのは、アルベルだった。

「あー! この前のお兄さんだ」

 エトガーは、暇だったこの状況を変える状況を待ってましたと言わんばかりに声をあげる。なんかアルベルに対して凄い馴れ馴れしいけど、そういえばこのふたりって図書館で会っていたような気がする。その時も確か馴れ馴れしかったなと思えるくらいの余裕が、いつの間にか出ていたということには、オレ自身が気付くことは無い。

「そっか、ここって君のお店なんだね」
「うん。今日お父さん居なくて僕とお母さんだけなんだけど、お母さんが買い物行くっていうから、丁度通りすぎたお兄ちゃん捕まえて一緒に店番してるの」
「へえ……」

 エトガーが言い終わると、分かっているのかいないのか適当な言葉を口にした。すると、オレとアルベルの視線が交わる。苦笑いを浮かべるオレに合わせてなのか、当たり前のように笑みを返してきた。
 こういう何でもない時に貴族と出会うというのは、なんとも不思議な心持ちだ。図書館で会った時は、当然のことながら貴族と市民という関係図に基づいていたし、そもそもアルベルと話した記憶がない。というより、貴族と話すってこと自体本当なら中々起こらないことのはずなんだけど、いつのまにか、オレの周りは貴族とそれに関係している人たちにまみれている。
 理由が理由だから、ある意味ではそれは当然なのかも知れない。でも、やっぱりそれは非日常なのだ。

「雑貨屋……で、いいのかな?」
「うんっ! あ、これ僕が作ったんだよ」
「君が?」

 市民で溢れた市場の中、どうして貴族がこうして当たり前のように店の前で立ち話をしているのかも、オレにはよく分からない。

「ねえねえ、お兄さんはイヤリングしないの?」

 全然そんなことを思っていなさそうなエトガーが手にしているは、光が射すと黄色に輝くイヤリングだ。

「イヤリングは……僕にはちょっと似合わないかな」
「そう? じゃあピアスは?」
「ピアスもちょっと……」

「似合うと思うんだけどなー」などと、エトガーがかなり無責任なことを言っているけど、アルベル本人が言うように、似合うかどうかと言われたら正直なところちょっと疑問だ。まあ、イヤリングとピアスの違いもよく分からないオレが思うことなんて、あんまり当てにはならないけど。

「あ、お姉さんだー!」

 落ち着きを見せることのないエトガーの声が、オレの右側から通っていく。エトガーの視線は、アルベルの後ろに向かれている。知り合いであるというのだけは分かるけれど、お姉さんと呼ばれた人物は一体誰なのだろうか?アルベルを避けるようにして顔を向け人の流れを見ると、知らない誰かがこちらに視線を向けていた。

「あら……」
「……ん?」

 その誰かの声に反応したのか、アルベルは後ろを振り向いた。これは多分オレの気のせいだと思うけど、その瞬間、アルベルの取り巻く空気がどこか変わったような、そんな気がした。

「エリス……?」

 疑問を掲げながらアルベルが声に出したのは、女性の名前だ。

「久しぶりね。暫く会ってなかったから、こんなところで会うなんて思わなかった」
「あれ、ふたりって知り合いなの?」
「まあ……そんなところかな」

 エトガーの質問にアルベルが答えると、エリスと呼ばれた人物がなにかを察してか言葉を返す。

「最近ね、たまたまここ通ったら呼び止められちゃって。あ、ねえ見て。その時、彼に勧められて買っちゃったの」

 そう言いながら髪の毛を掻き揚げて見せるのは、ダイヤの形をした青緑に光る装飾が映えるイヤリング。……だと思う。もしかしたらピアスかも知れないけど、そういうのに疎過ぎでオレが見ただけだとよく分からない。

「お姉さん、それ似合ってるよ! やっぱり僕の言った通りだったでしょ?」
「そうね。ここって人通りが多いから余り通らないんだけど、あの時は来てみて正解だったみたい」

 談笑をしながらも、髪の毛の間を縫って揺れ動くのが見て取れる。ああ確かに、青緑のそれが、この人の雰囲気によく合っているかもしれない。あんまりそういうのに興味がないオレでもそうだと分かるということは、きっとそこに何ら違和感がなかったからだろう。

「……どうしたの? アルベルは気に入らなかった?」

 ただ、どうやらアルベルだけは違ったらしい。

「あ、いや……。そういう訳じゃないよ、うん」
「本当? ならいいんだけど」

 このアルベルの言い方が、どうしてか自分に言い聞かせているように聞こえたのは、多分オレの気のせいじゃなかったんだと思う。

「ねえアルベル。この後時間ある? 暫く会ってなかったから、ちょっと付き合って欲しいんだけど」
「え……今から?」
「あー! お兄さんとお姉さんって、もしかしてもしかしたりする?」
「あら、それってどういう意味かしら?」
「えー? それ聞いちゃう?」

 職業柄なのか、よくもまあこうやってエトガーはすぐに人と仲良くなれるなと感心する。オレはといえば、この人とはまだ一言も会話をしていないというのに。
 女の人のすぐ隣にいるアルベルはといえば、中腰になりながらさっきエトガーに差し出されたイヤリングをそっと手に取り、目を伏せる。なにか物思いに更けているようだった。

「……買うの?」
「あ、いや……」

 オレの言葉に顔をあげたアルベルは、どうも歯切れの悪い返事だけを口にし、手にしていたそれを元あった場所にそっと戻していく。僅かに眉を歪ませているのが分かった時、オレはそれ以上のことを言うことが出来なかった。

「そうだ、ねえ? どうせなら、お兄さんの彼女さんのいる喫茶店でも行きましょうよ。あなたと行こうと思って、私ずっと我慢してたんだから」

 エリスと呼ばれた人は、アルベルの顔を少し覗き込みながら腕に手を絡ませていく。いかにも親しげで自然なその行動を見るに、やっぱりそれなりに親交の深い間柄なのだろう。やや不自然なアルベルを除けば、の話だけれど。

「ちょ、ちょっと……!」
「じゃあ、またね」

 その言葉だけを残し、エリスという人とそれに半強制的に引っ張られるアルベルは、すぐに視界から外れていく。じゃあねーと言いながら手を振るエトガーの声に、アルベルこちらを視界に入れはするものの、特にどうということもなく距離はあっという間に離れていった。

「……行っちゃったね。本当に恋人なのかなあ?」
「さあ……。って、ふたりってそういう関係なの?」
「お兄ちゃん聞いてなかったの? お姉さんが言ってたよ」
「へー……」

 全然聞いてなかったけど、エトガーの言葉を鵜呑みするのなら、どうやらエリスという人の話ではそういうことらしい。でも、アルベルの言動を思い返して見ると、本当にそんな関係なのかちょっと疑問が残る。
 果たして何が本当なのか、気付けばオレは空を見つめながら考えてしまっていた。

「あ、いらっしゃーい! おねーさん見てみて! これ、今週新しく入ったんだよ」

 入れ替わるようにして客が来た途端、エトガーはすぐに切り替えて誰かへと言葉を並べはじめる。名前も知らないふたり組の女の人と、それに合わせて適当に何かを喋っているエトガーの声を聞きながら、既に雑沓の中に消えたふたりの後を、オレは再び眺めていた。


   ◇


 店を離れてからの約数十歩。僕の手を引くエリスという人物は、僕のほうを振り向くことはしなかった。

「エ、エリス……」
「お店の子と一緒にいた彼、あの子もお店の人なのかしら? この前来た時はいなかったと思うんだけど……」
「ちょっと待って、話を聞いて」
「なあに? ああ、もしかしてこれのこと怒ってるのかしら?」

 髪の毛に触れながら、あのお店で買ったというイヤリングを僕に見せてくる。あの時はちゃんと口に出すことはしなかったけど、控えめに言ってもとても似合っている。本当に、そう思ったのだ。

「だって、あのお店で彼に捕まった時、目がキラキラしてたんだもの。買わないのも悪いじゃない?」
「いや、そうじゃなくて――」

 でも、だからこそ言えなかった。あの場所にふたりが居たから、それは尚更だった。

「……どうしたの?」

 雑踏が少しだけ薄れた道。その真ん中で、僕らは立ち止まった。
 人が多少減ったと言っても、今はまだ日が落ちる前というだけあって、僕らを通り過ぎる人はそれなりにいる。それら全ての、僕の周辺を蔓延る音が耳をつんざくように酷く五月蝿くて、騒がしくて煩わしい。どういうわけか、言葉にならない声を発しそうになるのを必死に堪えながら。

「どうして君が、こんなところにいるのかなって」

 僕は、そう言葉を口にした。

「……なんで、そんなこと聞くの?」

 はじめて訪れる沈黙に、ようやく辺りが静寂に包まれたような錯覚に陥ってしまう。
 本当、彼女の言う通りだ。どうしてこんなことを聞かないといけないのだろう? 普通ならこんなことを言えば驚くだろうし、何を言っているんだと思われるはずだ。でも、目の前にいる彼女は至って冷静で、それでいて柔らかな笑みを浮かべている。

「まだ数週間しか経ってないから、よく覚えてるよ」

 こういう時、僕は自分が貴族であるということを恨みそうになってしまうのは、きっとどうしようもないことなのだろう。

「僕の知っている君は、死んだって記憶してる」

 風が僕らふたりの廻りを舞っているのが、唯一ここが現実であるということを表していた。イヤリングが揺れるのを合図に、地上を這うような嗤い声がする。そんな気がした。

「やっぱり、アナタもちゃんと貴族なのね」

 僕を掴んでいた彼女の手が、するりと解けていく。

「あそこで言及しなかったのは、人通りが多かったから? それとも、あのふたりの前だったからなのからしら? 他の貴族より随分と優しいじゃない」

 そう言ったかと思うと、彼女を取り巻く空気が途端に変わっていった。

「……優しいっていうより、甘いわね」

 いや、変わったと言うよりは、わざと変えたというのが正しいのかもしれない。
 目の前にいる彼女の、賎しい笑み。果たして彼女は、こういう笑い方をする人だっただろうか。そうじゃないと思いたいのに、目の前にエリスとして存在している誰かのせいで、思わずそうだったんじゃないかと結論付けてしまいそうになる。

「でもワタシ、暫くはずっと大人しくしてたでしょう? 動けなかったっていうのもあるけど」

 誉めて欲しいくらい。そう口にしながら目の前にいる彼女の、賎しい笑み。果たして、彼女はこういう笑い方をする人だっただろうか。

「……なら、どうして今になって動き始めたのかな?」
「それは簡単な話よ。抑制するものが無くなったの」
「抑制……?」

 その僕の言葉に、彼女は答えなかった。目の前にエリスとして存在している誰かのせいで、思わずそうだったんじゃないかと結論付けてしまいそうになる。でも、それに付随する数々の言葉を持ってしても、僕は冷静さを失うことはしなかった。していないと思っていた。
 横を抜ける風に負け、髪を撫でる仕草はどう見ても彼女そのものだ。目の前にいる誰かが笑う代わりに、僕の眉が酷く歪んでいく。僕は、全ての邪心を消すように、誰にも気付かれることなく深く息を吐いた。

「それにしても、やっぱりいいわね。人の身体ってよく動くじゃない? 実体が無いのはやっぱり面白くないもの」

 くるりと回ってみせるそれを見るに、どうやら本当にそう思っているらしい。人の身体という表現をする辺りがなんとも嫌らしかったが、そんなことはもう些細なことだった。

「もっとはぐらかされると思ってたんだけど、隠す気はないんだね?」
「こんな話、貴族相手に適当な嘘ついたってしょうがないでしょう? それに、別に隠してなんかいないもの。そういうアナタこそ、余り驚かないのね?」
「……それくらいじゃ、まだ動揺はしないかな」
「そう? ちょっとザンネン」

 僕が問いに答えるごとに増える、まるで茶化しているかのように周りをうろつく黒い靄。

「どうして今日接触してきたの? ただの散歩ならまだいいんだけど」
「まさか」

 果たして、周りの市民には見えているのだろうか? 否、そんなことは考えなくても分かる。

「私ね、落ちた光が反射した時の、あの輝きがずっと忘れられないの」

 これは、貴族にしか分からない嫌な特権だ。

「本当に、虫酸が走る」

 目を細め、眉を顔の中央に寄せながら言うその言葉に、内から冷える感覚を覚えた。
 口にすることはしなかった、何処かの誰か、という存在。考えるまでもなく、とある人物が目に浮かんだのは、恐らくさっきまでその彼が側に居たからだろう。

「ねえアルベル」

 不意に名前を呼ばれ、思わず目を見開いてしまう。

「私、本当に貴方からのプレゼントを楽しみにしてたんだからね?」

 そこに居たのは、正しく彼女そのものだった。
 これは果たして、誰の言葉だったのか? その疑問を抱いたのは、もう少しした後。
 少しずつ増えていく、エリスの周りをうろつく黒い靄。それが一体何を意味するのかなんて、考えなくても分かってしまう。もし僕が貴族じゃなかったら。いや、もしこの世界に魔法なんてものが存在しなかったら、恐らく起こることはなかったであろうこの一連の会話。出来れば、何かの間違いだったらいいなどと思っている中、「そろそろ行くわ」と、誰かがそう口を動かした。

「じゃあね」

 気付けば、目の前には黒いそれだけが蔓延していた。


   ◇


 逃れることの出来ない夕の空は、顔を上げるとさも当然のように光を落としている。今僕がいるこの場所も、正しくそれだった。
 もうそろそろ日が落ちるからなのか、それともこの場所自体がそうなのか。この細く僅かに薄暗い、日常からは少し確立されているかのようなこの空間。ここで事件が起きはじめたのは、今から一ヶ月ほど前のこと。
 犯行が夜中であるということと、路地裏で行われているということ。そして、凶器が刃物であるということ以外に情報を掴めなかった警察が、これは魔法が関連しているんじゃないかと適当な因縁をつけ、半ば強引にこの案件を貴族に押し付けたのだろうと兄さんが言っていたのを覚えている。今回みたいな、犯人の手掛かりが殆ど存在しないという場合、かなりの割合でその事案が貴族に回ってくる。最も、そこまで多く起こることでもないというのは、ちゃんと分かっている上での話だ。
 僕のいるノーウェン家は、古くから警察と貴族の間を取り持っており、父さんと兄さんはほぼそれにかかりっきりで、そうなると必然的に残った僕が現場に赴くことになる。それに関しては、特に不満があるわけではない。長男の兄が父さんの元にいるのは当然だし、そういうの、僕には向いてないってことも知っている。でも、だからといって現場に意気揚々と足を運ぶということはしない。というより、寧ろ逆と言えるだろう。

「ここかい? 一番最初の事件があったというのは」
「そうみたい、ですね」

 その日は、貴族の中で言うのなら、こういうことにはまだ協力的な部類に含まれるであろうアルセーヌさんと一緒だった。昼間だというのに薄暗く、空の光さえ届かない事件の起きた路地裏には、消しきれていない血の後がまだ辺りに散らばっている。床や壁に付着しているそれを見る限り、それなりに抵抗したというのは容易に分かった。

「……確かに、ただの人間の仕業じゃなさそうだ」

 僅かに残る、魔法と同等の気配。一般人が一般人を襲うのとはわけが違うのだから、抵抗したところでどうにかなるとも思えないけど、こういうのは本能的に抗うように出来ているのだろうか?

「こうなる前に僕らが誰も気付かなかったってことは、ここの街の人じゃないんですかね?」

 結果的には、警察が僕らに押し付けてきたのが正解ということになるだろうけど、何となく腑に落ちないというのも本音だろう。

「そうだねぇ……。まあ、心当たりが無いとも言えないが」
「そうなんですか?」
「つい最近隣街で起きた魔法の暴発事件、まだ記憶に新しいだろう?」
「ああ……。巻き込まれたらしい市民が見つかってないっていう、あれですか?」
「例えばそれが、貴族が市民に対して何らかの対処をしようとしてそうなった。という可能性もあると思ってね」
「……まあ、可能性としては十分にあると思いますけど」

 魔法というのは、貴族しか使えないというのは確かに大前提として存在するものの、とある条件を満たしている場合に限り、魔法を使えない市民がごく稀にその力を有す場合がある。ただ、市民が魔法を使える権限なんてものがあるわけではなく、かなりの確率で暴徒化するのが常だ。
 その現象の一つとしてあげられるのが、あの実態のない黒い靄。僅かにここに残されてているのは、紛れもなくそれだった。

「どちらにしても、今の段階では憶測の域を出ないから、この話はここまでにしようじゃないか」

 それよりも、だ。そう前置きをしつつ、アルセーヌさんの口は止まらない。

「いくら魔法と関係があるからと言って、そう簡単にどうこう出来る訳でもないから、正直なところ警察から話が来ても困ってしまうね」
「そ、そうですね……」

 つまりは、警察から要請が来てしまったのが面倒だと言いたいのだろう。こうなってしまっては、それなりの成果と、納得の出来る終わらせ方をしなければならないから、そう思うのもよく分かる。そうなる前にどうにかすることが出来たならもしかしたら助けることが出来たかも知れないけど、こういう事件が起きてしまったということは、恐らくはもうその結末を終えることは無理に等しいだろう。

「特に言うこともないが、取りあえず、キミの父君に報告しに行こうじゃないか」
「ああ、はい……」

 だからこの事件も、正直なところ、魂を喰らい尽くされてそのまま消滅してしまえば楽なのに、などと思っていた。それくらい無関心で、無頓着だった。例えそれが、『エリス・ロッソ』という知り合いの死だったとしても。
 それは決して、面倒だという感情から来た訳ではない。ただ、そう思われてもおかしくないくらいには、この時の僕はいつもと何ら変わらなかった。……そういう風に、していたのだ。

『そういえば、今日はピアスしてないんだね?』

 この通り魔事件の一番最初の被害者というのが、彼女だったというのも、さして問題ではないだろうと思っていた。

「ああ……。この前、ちょっと落としちゃったみたいで。何度も探しに行ったんだけど、見つからなくて……」

 あの時は確か、いつもの喫茶店のいつもの席でいつものメニューの中から僕が頼んだのは、なんてことないストレートの紅茶。エリスの前に置いてあるそれは、確か……。

「何もそこまでして探さなくても……。それに、イヤリングだったら幾つか持ってるんじゃ……」
「駄目。折角アルベルに貰ったのに、別のやつ付けてあなたに会ったら、意味がないじゃない?」

 そう。確か、香り立つアップルティーだった。

「え、ああ……。無くしたのって、もしかして僕があげたやつ?」

 紅茶の入ったカップが、空で止まる。そういえばエリスは、僕に会うときに随分前にあげたピアスを必ず付けていたのを思い出す。だから今日はしてなかったのかと、妙に納得してしまうのが不思議だった。

「だからって別に探さなくても……。また買ったっていいんだし」

 そういうことじゃないの。と、何が納得いかないのか彼女は口を尖らせる。

「……あ、そうだ。ねえ、本当に新しいの買ってくれるの?」
「別にいいけど……。急にどうしたの?」
「それなら、私の誕生日はイヤリング買うって決めておいてね」
「誕生日って……。まだ二ヶ月以上も先じゃないか」
「いいじゃない。これで、誕生日に何を買うかって決めなくて済むでしょ?」
「それはそうだけど……」
「駄目?」

 そうやって言われてしまっては、断るなんて出来るわけが無く、僕は苦笑いを浮かべながら承諾した。誕生日だからという理由であるのなら尚更、断る理由もない。

「じゃあ決まりね。私、自分で買わないで楽しみにしてるから」

 曇りひとつない笑顔で言葉を返すエリスとこの話をしたのは、一体いつのことだっただろうか。そんなことも思い出せない僕は、やっぱり冷静じゃなかったんだと思う。決して、何も気にしていなかったわけじゃない。でも、そこまでして探す必要があるとも正直思えなかったのだ。僕からしたら、たかがピアスという認識でしかなかったから。
 だって、この街の何処かでエリスがピアスを落としたという話を聞いたときは、何ら普通だった。それ以上のことは何もなかった。なんてことないただの日常のひとつで、この事件だって、稀に起こる事件に彼女が巻き込まれたというだけ。だた、それだけだ。それだけだったら尚更、僕は冷静でいなければならない。そうでもしないと駄目なのだ。
 などという狂いかけた思考を踏まえた上で、薄暗い景観の中僕は考える。今日出会ったエリスという人物はいわゆる幽霊に近いもので、僅かに蔓延している黒いそれが、何らかの形で残っていた思念に影響を及ぼしたのではないだろうか?
 エリスが魔法を使えるというのは、端的に言うとあり得ない。だが、そのあり得ないというのは、とある条件を満たせは可能だ。最も、余り考えたくはないことであるのは違いないけれど。
 その条件というのを前提にすると、どうして、その事件に巻き込まれたの一番最初の人物がエリスだったのか、という部分に関してはある程度説明がつく。恐らくは、なるべくして起きた出来事だったのだろう。ただ、それでも分からないことは存在する。それは、どうして彼女は路地裏に二度も足を踏み入れたのか、という部分についてだ。僕から貰ったと謳う、落としたピアスを探していた?いや、まさかそんなことがあるのだろうか?ただのひとりの人間が渡しただけの贈り物を、そんな必死になって探すだなんて、僕には意味が分からない。本当に、分からなかった。
 その中でもどういう訳か思い出してしまうのは、最後に会った、あの喫茶店で見た彼女の笑顔。いつもの少しからかっているかのようなそれではなく、本当に嬉しそうだったのをよく覚えている。
 時が経った今でも、どうしてそれが僕の頭から離れないのかが、何一つとして分からない。それなりの時間をそれなりに一緒に過ごしていたはずなのに、それだけがどうしても分からないのだ。
 それを知る術は、もう何処にも存在しないというのに。


   ◇


 街頭の僅かな光と空から降る月の存在は、暗闇の中ではさして役に立つことはない。何故なら、僕がこの時間に外に出ているということとそれは、全くの別問題であるからだ。
 正し、逃げるという意味においてだけ言うのなら、無いよりもあった方がマシなのかも知れない。そう思えば、幾らかは存在意味を見出だせる。それなら、今の僕は果たしてどうなのだろう?

「ああもう、やっぱり誰も捕まらないしやるしかないか……」

 現状、卑下することしか出来ない僕がそれを考えたところで、答えは決まっていた。
 僕を後ろから追ってくるとある存在は、人ならざるモノのであるにも関わらず同じような形成を繕い、到底あり得ない程に黒く染まっている。発せられる異様な靄は、確立された実体が無いにも関わらず何かを求めているかのようで、気味が悪い。

「使っても怒られる歳でもないし、別にいいか」

 それを唯一弾くことが出来るのは、魔法だけだ。
 いつから手にしていたのか、見慣れない大振りの刃物は、どうも僕の手には馴染まない。魔法を使わない方が身軽に動けるのは確かだけど、それだと確実に逃げられないというのはよく分かっている。この、不規則な動きをするそれからは。

「えっと……どうやるんだっけ」

 走りつつ普段使うことをしないモノを手にし、かつ後ろをけん制しながら、というのは中々に無理がある。やっぱり、魔法なんて使わないで早々に逃げてしまった方が良かったのだろうか。いや、それは駄目だ。本当にそれが出来るんだったら、貴族なんている意味がない。人ひとりの力で逃げられるのなら、魔法絡みの事件なんてまず起こらない。
 最も、それが貴族によるものではないというのが大前提だけれど。

「あ、こうか……?」

 息が少し上がっていることなんてこの際問題でもなく、急停止したことにより上着の裾が空を舞う。それがすぐ側まで迫っているのを確認するよりも前に、手にしていた刃物がようやく役目を果たす時が来た。
 身体の奥から湧き出てくるのは、僕が僕であるために使えてしまう魔法の源。恐らくは遺伝子レベルから形成された、僕にしか使えないモノ。それを自身の意思でコントロールし、刃物を振り動かす勢いに任せるようにして、一瞬で手元にそれを注力させる。何か、燃えるような音と共にほんの数ミリ程まで迫ってきていたそれが靄となって消えていく。深淵が燃える、というはさながらよく分からないけれど、感覚的にはそんな感じだろう。

「うわあ、魔法っぽい……」

 まるで他人事のような、緊張感の欠片もない言葉が口から落ちる。ノーウェン家の使う魔法。刃物が纏いしそれは、光にも似た炎だ。
 宙を這うモノはまだ僕の視界から消えることはなく、視認出来るはずがないのに僕のことを確実に捉えていく。僕もそれから目を離すことは無く、次に来るであろうモノに備えて一歩後退した。それを合図に、深淵が先制する。どうやらさっきのが挑発行為と捉えられてしまったようで、迫ってくる速さが打って変わった。が、正直まだ焦る段階じゃない。速いといえば確かにそうだけれど、防ぐ余裕があり、かつ防ぐと同時に靄となって消えていくということは、これが相手の本気ではないのだろう。最も、その本気というのを僕は見たことがないけれど。
 こうして魔法を使ったのは、果たしていつのことだっただろうか。なんてことを考えていられる余裕が、普通にあったのだ。
 言ってしまえば、こんなもの使わなければ力の持ち腐れで、貴族である意味なんて何処にも存在しない。周りが色々と五月蝿いから、今まで使うことは避けてきた。でももし、エリスが路地裏に足を運んだ時に僕が居たとしたら、どうだっただろう?慣れないモノの扱いに困りながらも、逃げることくらいは容易だったかも知れない。
 あの時とは状況が違うのだから、それだって十分に可能だった。でも、その猶予すら与えられることはなかった。
 いっそ僕が普通の市民で、なんの力も使えないただの人間だったらそうは思わなかっただろうに。そう考えてしまうのは、恐らくは僕が貴族であるにも関わらず、魔法を滅多に使わないからだろう。でも仮に、本当にただの市民だったとしても、多分「どうして貴族じゃないんだろう」などと思っていたんじゃないだろうか。

「慣れないことはするものじゃないよ」

 聞き覚えのある誰かの声が、風と共に空を舞った。
 巻き起こる風によって舞う、光の粒。思わず見惚れてしまう程に艶めいて見えるのは、恐らくは今が夜だから、余計そう見えるだけなのだろう。風が少しずつ消えていき、彼の身体から漏れる、隠すことを許さない魔法の光が、腕を伝う。光を深淵に向けて払うかのように、指先からそれらの粒が離れていく。それが、始まりの合図だった。
 深淵の真下から突如放たれたのは、またしても風。邪魔だからちょっと退いてくれないか、とでも聞こえてきそうな程にアルセーヌさんが容易に深淵を消滅させるところを見てしまえば、貴族の方が幾らかはマシだと、そう思えた気がした。

「随分と精力的だね?」
「……そんなことはないと思いますけど」

 一度魔法を使っただけで精力的と言われてしまう程に、僕は普段魔法を使わない。それには一応理由はあるし、多分アルセーヌさんも知っている。だからこそ精力的という言葉が出てきたのだろう。

「キミに魔法を使われるのは、少し困るんだけどね?」
「いやぁだって、普通に逃げても逃げられないですし」

 ただ、今の僕からしたら、そんなことは別にどうだってよかった。

「さっきの、最近多いですね」
「本当、急に増えると参ってしまうよ」

 溜め息をつき、手を払う仕草だけで武器が消えていく姿は、とても手慣れていた。

「過去に一度、あれが暴動した事件があったみたいだね」
「そうでしたっけ?」
「丁度その時じゃないか。キミが死にかけたのは」
「あー……」

 自ら地雷を飛ばしてしまったお陰で、僕は言葉に詰まる。そうだ、そうだった。あの時は殆んど時間を家で過ごしていたから、完全に抜けていた。言われたのが兄だったら、呆れて溜め息をつかれていたかも知れない。

「……あれが、犯人の可能性はあるんですかね?」
「可能性だったらいくらでもあるさ。それより……」

 細身の剣が光の粒になりながら、風と共に何処かへ去っていく。

「キミの父君に言うつもりは無いけれど、知られたら怒られるのは私だからね。程々に頼むよ」
「はは……。父は、アルセーヌさんには怒りませんよ」

 次に口にした僕の声は、自分のことながらも酷く淡々としていた。

「別に次男なんて、居ても居なくても大して変わらないですし」

 向こう、まだ見てないので行ってきますね。そう口にしながら、いつの間にか消えてしまった刃物を再び形成させようと、力が手に向かう感覚が走る。その時だった。

「ちょっと待ちなさい」

 アルセーヌさんが、僕の腕を掴んでそれを制止させる。創られかけたそれは、光の粒となって夜の街に飛散した。

「キミがどういう考えに基づいて動いているのか、という部分に関しては別にどうでも構わないのだけれど……」

 ひとつ、呼吸をおいてアルセーヌさんは言葉を続けた。

「少なくとも、私は怒るよ?」

 そう口にする彼の意図がよく分からなくて、ほんの僅かではあるが、時が止まった気がする。その言葉に、僕は疑問を隠せなかったの。

「アルセーヌさんか怒ってるところ、僕は見たこと無いですけど」
「なら結構じゃないか。これからもそうであって欲しいね」

 言い終わると、柔和な笑みを浮かべる中にも、掴まれた腕が僅かに軋む。これは完全に釘を刺されてしまった。つまりは、変な気は起こすなということなのだろう。
 周りが思っているよりもアルセーヌさんは優しい人だから、怒るという行為を想像するのは容易じゃない。この人が怒るということは、それ相応の理由があるはずなのだ。僕は、どうしてアルセーヌさんがそれを口にしたのかということがイマイチ理解が出来ないまま、腕に絡みつくそれから逃れるために歩を進めた。


   ◇


 これは、殆どの市民には到底関係はなく、かつ理解の及ばない言葉であり事象と言えるだろう。
 魔法を使えることの出来る人間が、一定の条件下において魔法に憑かれたことによって、目に見えるほどに黒い靄を発生させることがある。それが果たして、どういう条件下においてそうなるのか、という部分については未だに不明な点が多い。ただ、ひとつだけ分かることがあるとするのなら、本来魔法を使うことの許されていない市民が魔法を使えてしまった場合に限り、その現象が起きてしまうということだ。
 普通に生活していれば、恐らくはそれを見ることも無いだろうし、市民がそれを認識することはまず無いだろう。だが、貴族においてはそうもいかない。……いや、最初からそれを纏っていると言ってもいいのではないだろうか。これは個人的な解釈ではあるけれど、そう思っている。何故なら、魔法とそれの何が違うのかと問われたら、答えることはそう容易いことではないからだ。

 ――選ばれた貴族と、選ばれなかったごく少数の市民。そして、そのふたつに関連する魔法と、黒い靄。とある靄のことを、貴族らは『深淵(しんえん)』と呼んだ。

いいね!