足元に流れてきた枯れ葉が、僕の周りに数枚集まってくる。もうそんな時期になるかと思いながら、手の指が無機質な機械に触れた。そうすると聞こえてくるのは、僅に耳に入る呼び出し音。僕は、それをいかにして耳に入れないようにするかということに必死だった。
「あ、お待ちしてました」
「……どうも」
ざわざわとした雑音と共に、聞きなれない女性の声が耳を掠める。その事務的なやり取りはすぐに終わりを告げ、その声と思われる人物が玄関から姿を表した。
人の家に足を踏み入れるというのは、心なしか背筋が伸びるというもの。自身が気付いていないところで、本来ならばそれは露見する。だけど、今回ばかりは少し違った。原因は、そもそも僕が誰かの家に行くということが普段ではあり得ないということと、もうひとつ。一番の理由は、僕がここに来るということ自体が乗り気じゃなかったのだ。
「いらっしゃい、キミの方から連絡があるとは思わなかったから、かなり驚いたよ」
「すみませんね。付き合いが悪くて」
「誰もそんなことは言っていないんだけどね?」
僕が訪れたのは、アルセーヌ・ルヴィエというひとりの貴族が住んでいる家。目の前にいるのは、その本人であるアルセーヌさん。そして、僕を向かい入れたとある彼女。
「あの……」
「なんだい?」
それともうひとり、僕が呼んでほしいと頼んでわざわざ来てもらった、アルベル君の姿がそこにはあった。
「やっぱり僕、いない方がいいと思うんですけど」
「……その理由は?」
「かなり居づらいです」
「正直なのは結構なんだけどね、キミがいないと後々面倒だから、黙ってそこに座っててくれたまえよ」
一応といった体で確認しただけなのか、「そ、そうですよね……」と言ったまま視線はテーブルに置かれたカップに注がれる。そう、別に居ないからといってどうというわけでも無いけれど、彼がいないとそれはそれで厄介なのだ。
「……で、アルベル君も呼んで欲しいとまで頼んできて一体なんの用だい? キミが世間話をしに来るとは到底思えないんだ」
それは果たして皮肉なのか何なのか、汲み取るのに少し時間がかかる。この取り巻く空気からして恐らくは大真面目なのだろうけど、普段のこの人の言葉は何処か浮いている節があるから、正直なところ自信はない。
アルセーヌさんの言うとおり、ただの世間話ならアルベル君を呼ぶなんていうことはしないし、それ以前に、僕がそんなものの為に誰かの家に行くなんてことはしない。
「先日の夜、ネイケルとかいう人から皆さんにどうしても伝えて欲しいと言伝を頼まれましてね」
面倒な頼まれごとを律儀に遂行しようとしているだけだで、それ以上でも以下でもない。想像していなかった人物の名前が出たからなのか、僅かに表情に驚嘆する様子が伺える。言葉を口にした後、とある人物を視界に入れた。音を立てることを良しとしていないかのように、ゆっくりと何処かに行こうとする彼女に、僕はわざとらしく話を振る。
「……良ければ、貴女もこちらに来て話しませんか?」
「あ、いや私は……」
「いいですよね? 別に」
彼女には少し悪い気もするけど、どのみち知ることになるのなら早い方がいいだろう。……いや、既に知っているからこそ、この家にいるのだろうか。まあ、そんなことは別にどうでもいいのだけれど。
「……ま、いいんじゃないかい? 好きにしてくれ」
言われると、彼女は一瞬だけ僕を視界に入れた。どうしようかと考えあぐねているようだったが、誰も喋ることをしないこの静寂に負けたのか、空いているアルセーヌさんの隣に、静かに腰を掛けた。
「お、お邪魔しまぁす……」
控えめな声と共に、ソファが僅に埃をたてる。それが合図だった。
「僕が提唱しなくても、皆さんはもうご存知なんじゃないかと思っているんですけど……」
やっとの思いで本題に入ることが出来たと歓喜しているかのように、僕の口は勝手に動き出す。ああもう、折角ここまで来たんだし、後はもうどうとでもなってしまえ。そんな気持ちも少しはあった。
「リオ・マルティアという人物を、知っていますか?」
ただ、その言葉を口にした瞬間から、先程まで全員を取り巻いていた空気が明らかに一変したのを、僕は見逃すことをしなかった。
◇
「……その人物が、どうかしたのかな?」
僕の質問に一番に反応したのは、言わずもがなアルセーヌさんだった。
「先日の夜、路地裏で横行している通り魔らしい魔法を使える人物に会いましてね。どうやらネイケル君はその人物と知り合いのようで、彼がそのリオという名前をわざとらしく口にしたんですよ」
「へえ……」
「皆さんの見解をお聞きしたいんですが、どうですか?」
「……どう、というのは、そのリオという人物が通り魔であるかどうか、ということで合っているかい?」
「まあ、そういうことですね」
さてどうするか。そういった様子で僅かに視線を逸らし、僅かな沈黙を迎えた後、アルセーヌさんは再び口を開く。
「ネイケル君は確か、隣街に住んでいる貴族という話だったね」
そうして彼の口から出てきたのは、僕が要求しているものとは少し違うものだった。
「一ヶ月ほど前、彼の街で魔法の暴発事件があったのを覚えているかい?」
「ああ……。そういえば、そんな話もありましたね」
何を言うのかと思えば、一ヶ月も前の事件の、しかも隣街の話。僕の記憶には薄いが、貴族が起こした事件だという噂があったことくらいは覚えている。ただ、それが今回のことと何の関係があるのかがまだ見えてこない。いや、答えを求めるのはまだ早計なのだろう。
「聞いたところによると、とあるひとりの貴族が魔法の暴発を起こし、それに巻き込まれたひとりの市民がいたという話らしいが……。その魔法を暴発させた貴族というのが、ネイケル君だと言われているようだよ」
その言葉を聞いて、カップに触れようとした僕の手が空で止まった。
「この事件に巻き込まれた市民というのが、キミが出会ったリオという人物だという話だ。彼、事件以降消息を絶っているらしいね」
アルセーヌさんの言葉に、僅かに目を伏せてしまう。ああ、なるほど。つまりは彼……ネイケル君は、その消息を経ったリオという人物を探しにこの街に来たという訳か。どうやら知り合いのようだったし、そうであるなら、わざわざこんなところにまで足を運ぶ理由も分かる。全く迷惑な話だけれど。
「……それ、信憑性のある話と思っていいんですか?」
「一度ネイケル君に聞いたことがあったんだけれど、詳しいことは教えてくれなくてね。事件があったというのは本当だろうけど、事件を起こしたのが本当に彼なのかというところに関しては、疑問を持たざるを得ないと私は思っているよ。それに――」
話ながら、アルセーヌさんが手を伸ばした先にあるのは角砂糖。それをひとつだけ摘まんだまま、更に言葉を口にする。
「巻き込まれたリオという市民の妹だと名乗るそこの彼女が、それは事実じゃないと言っているから、疑う余地は十分にあるだろうね」
言葉が終わると同時に、四角いそれが紅茶に落ちる音が耳を掠めた。
「ネイケル君から彼女が妹であると聞いたから、わざわざここに居座らせたんだろう?キミも意地が悪いね」
この人に意地が悪いと言われるのはかなり腑に落ちないけど、今日のその件に関しては確かに僕が悪い。別に、ただ話すだけなら彼女に居てもらう必要なんて無かった訳だ。その行動に出た理由は、無いこともない。
「……別に、彼からちゃんと聞いたわけじゃないです。彼の言うリアという女性が本当に彼女かどうか、単に確証が欲しかっただけなので」
我ながら言い訳がましいとは思うけど、事実なのだからしょうがない。彼に聞くのが一番良かったのだろうし、そうじゃないにしても、もう少しマシなやり方は幾らでもあった気はするけれど、そうはならなかった。
「リアさん、で合ってますよね? 不快だったら怒っていいんですよ?」
「あ、いえ! その、ちゃんと説明しないネイケルさんが悪いですし……。分かっててここには居るので、それは全然大丈夫です」
彼女は、僕を罵り立てるでもなくこの場にいない人物に非があると言った。それは確かにそうなのだけれど、気を使ってなのかそれ以上のことを言うことはしない。怒られる方が幾らかマシな気もするけれど、本人がこう言っているのだから、そういうことにしておこう。
「あ、あの……私ネイケルさんのことはそれなりに知ってますけど、魔法使ったところなんて見たことないですし、それにネイケルさんが事件を起こすとか、そういうことをする人だとはどうしても思えなくて。それと……」
言葉を纏めるのに必死なのか、視線を落としながらも彼女は口を動かすことを止めない。
「兄が魔法を使えるっていう噂が、前からあって……。だから、本当は逆なんじゃないかって思ってるんですけど……」
「……逆、というのは、魔法の暴発をさせたのは本当は貴女のお兄さんである。ということですか?」
「は、はい……。あ、でも全部私の憶測なのでっ」
などと付け加え、力無く笑うその姿に嘘はどこにも見当たらない。それは誰が見ても明白だった。
ただ、彼女の言うことが例えば真実だとするなら、それは正直厄介で、どちらかと言えば余り関わりたくない。やっぱり来るんじゃ無かったと、そう思ってしまう程に、だ。
「まあ、ネイケル君とリオ君らしき人物が接触したということは、その真相が分かるのもそう遠くはないだろうさ」
間に入ったアルセーヌさんが、彼女の心中を諭すようにしながらも話を軌道修正をはじめていく。
「その出会った人物が、通り魔だという確証はあるのかい?」
「いえ……。どうやらネイケル君は決めつけている節がありましたけど、その辺りは分かりませんね」
確かに、魔法を使える一般人には会った。でも、だからといってその人物が通り魔であるという部分に関しては、決定的なものが欠けている。今のところ、ネイケル君がこの街にいる理由のひとつが、リオという人物を探していたのだろうということくらいしか、あの場に居合わせた僕ですら分からない。……それも全て憶測に過ぎないとうのも、なんとももどかしかった。
「……この街で通り魔事件が起き始めたのが、その隣街の件があってから一週間も経たない頃だったかね。一応我々の見解としては、隣街で起きた事件に巻き込まれた人物が、この街で通り魔事件を起こしている可能性もあり得るだろう、なんていうただの憶測止まりだったのさ。ご存知の通り、魔法が使われているから明確な証拠がなくてね。周知は避けていたんだけど、気に障ったかい?」
「いや……。そこに関しては別にどうでもいいです」
きっぱりと、僕はそれを否定する。正直な話、警察側に近いこの人たちが僕らに言っていないことなんて、数えきれないほどあるだろうし、周知していなかったとかどうとかいうのはそもそも眼中にはない。僕が引っかかっているのは、そんなことではないのだ。
「……ただちょっと、良いように利用されたなって思っているだけなので」
利用、というのは少し違うかも知れない。でも実質、彼はこの街の貴族に付きまとって通り魔が犯行を行っている夜中に出歩いていた。それはつまり、貴族の周りを彷徨いていれば必ず情報が手に入るだろうと踏んでの行動だったのだろう。
リアさんという知り合いが側にいるアルセーヌさん辺りに付きまとっていなかった理由までは分からないけど、大方、僕みたいにどこにも属さないような人間の方が詮索もされにくいし、都合がよかったのだと考えるのが妥当じゃないだろうか。
「それは、ネイケル君がキミをってことかな?」
「さあ、どうでしょうね」
これ以上僕が彼をどう思っているのかについて詮索されるのも面倒だし、適当な返事でもして終わらせようと思ったその時。
「あ、あの……」
再度、リアさんが口を開いた。
「ネイケルさん、今はこう……ああやって掴み所がないような言動が多いですけど、本当はああいう人じゃないというか……。前はもっと真面目……真面目? でもないですけど……。と、とにかくっ!」
言いづらそうに上手く僕を視界に入れないようにしながらも、彼女の言葉は止まらない。
「あまり、責めないで欲しいなあって……」
彼女の口から出てきた言葉は、僕にとっては少々意外な案件だった。つまりはあれか、僕が彼のことを嫌いなのではないかと危惧しているのか?自身の兄が犯人かも知れないなどと貴族らが口にしている中、自分のことではなく他人のことを心配していると、そういうことなのだろうか?
「……彼のことが嫌いとは、僕は一言も言っていない筈ですけど」
その言葉を聞いて、彼がこの家に居ない理由が少しだけ分かった気がした。
確かに僕は、彼のことが気にくわない。気にくわないというか、思い返せば色々と腹が立つ。でも、嫌いなどという単純な言葉で表せるようなものでもないから、出来るだけその言葉は避けていた。恐らく、言葉の端々からそれが滲み出てしまっていたからそうやって言われてしまったのだろう。だけど、それは恐らく違うんじゃないだろうか。自分が彼に対して思っていることのくせして、まるで他人事のようではあるけれど。
「協力してほしいのなら、最初からそう言えばいいだけの話だとは思いませんか?」
彼女のその様子から、随分とネイケル君が信用されているということが伺える。それさえにも、無性に腹立たしく感じたのがどうしてなのか、僕には分からないまま。
「僕が彼に言われたのは、先日あったことを伝えてほしいということだけなので、今日はこれで失礼します」
先日あったこと。それをまともに伝えたかどうかはさておいて、まるで逃げ出すかのように僕は席を立つ。
「ああキミ。帰るのは構わないけど、今日は来るのかい?」
「……気が向いたら、行くかも知れませんね」
そんな適当な言葉を口にして、僕は早々に彼らを視界から外す。それ以上のことを聞かれたらたまったもんじゃない。会っている人が人なら、恐らくそう口にしてしまっていただろう。廊下を歩く無機質な音が、どういう訳か妙に耳について離れなかった。
◇
家から、ひとりの客人が姿を消していったのはほんの数分前のこと。容易に訪れる安堵にも似た空気に、今までどれほどの緊張感が漂っていたのかが伺える。残された我々は、自然とすっかり冷めてしまった紅茶を口に含んだ。カップがソーサーへと戻された時の微かな音は、私の口を開かせるのには十分だった。
「……いやあ、こういう話に非協力的な彼から話しがあると連絡が来た時は何事かと思ったが、まあ許容範囲内で安心したよ」
わざわざ家に来るというから、どんな緊急な話かと思っていたのだけれど、正直思っていた程のことではなかった。それはもう、果たして彼は、一体何が目的だったのだろうかとすら思ってしまう程に。
「何というか、ああいうことはちゃんと伝えてくれるんですね。家に足を運んでくれるような人だとは僕も思ってなかったんですけど……」
アルベル君の口から、正直な感想が漏れてくる。そう、そうなのだ。今まで全ての事柄に非協力的だった人物がわざわざ会いに来るということは、それ相応な理由が必要になる筈なのだけれど、今までの話を聞く限り、どうも決定打に欠ける。
「ネイケル君に言われて仕方なく、と言っていたけど、果たしてどうだろうね」
「……と、言いますと?」
「いや、あれだけのことをわざわざ言いに来るとも思えなくてね。かといって、他に思い当たる節もないけれど」
それとも単純に、出会ったリオという人物が、ここにいるリアという人物の兄であるということを確かめにきたというだけで、我々が思っているよりも義理人情に厚い人間だったのだろうか。
『協力してほしいのなら、最初からそう言えばいいだけの話だとは思いませんか?』
まあ、それに値する発言は確かに幾つかあったけれど。だとするなら、少々不器用が過ぎるのではないだろうか。それはそれで、彼らしいといえばそうかも知れない。
「それよりもすまなかったね、二人まで巻き込んでしまって。特にリア君には申し訳ないことをしたよ」
「ああいや……。元々そのつもりでこの街に来たんですし、あの……ちゃんと分かってますから」
リア君はそう言うものの、やっぱり彼女に家に居てもらったこと自体、完全に悪手だったとかなり反省している。
彼が私に話があると言ってきたことと、アルベル君も呼んでほしいということを電話越しで聞いた時から妙な予感はしていたけれど、彼の口から通り魔の話を聞くとは思っていなかったのだ。これは完全に私の見通しが甘かったし、本来なら責められてもおかしくない。というより、責めてほしいというのが本当のところだけれど、ロエル君をも気遣う彼女の優しさからか、そうはならなかった。
「あの、ふたりが出会ったというその人……本当に通り魔だったんですかね? あ、別にロエルさんが嘘をついてるとは思ってないですけど」
「さてねぇ……。一番関係のある人物が直接こちらに出向いてくれない以上は、正直信憑性の欠片もないとは思うが……」
アルベル君の言う通り、わざわざ家に来てまでつくような嘘でもないし、そんなことをしたところでロエル君にはメリットなんて何処にもないというのは、容易に判断が出来る。私がいない夜中に、ふたりがリオという魔法を使える人物に出会った。という部分は正しいと思っていいだろう。ただ、それが本当に通り魔なのかどうかという部分に関しては、実際に見ていない我々からしたら、判断の出来る状態はない。
「……どうして、全部路地裏なんだろうね?」
ふと、私が前から気になっていたことが口から漏れた。
「通り魔の事件も、シント君の件だってそうだ。因果関係があるとも思えないけれど、どちらも事象は路地裏で起きているね」
「まあ、確かに……」
「……心当たりは無いかい?」
「心当たりですか?」
問われたアルベル君は、少し考えた後に答えを提示した。
「ない、と思いますけど……。ここ最近を除けば、事件も特になかったですよね?」
ここ最近、というのは恐らくは通り魔の件だろうけど、確かにそれ以外に該当する事件は公にはされていない。この中で警察と一番繋がりのあるノーウェン家なら、私が知りえないようなことも知っているのではないかと思い訪ねてはみたものの、やはりその可能性は低いようで、苦い顔をされてしまった。
「私の考えすぎならそれでいいんだ。忘れてくれ」
しかし、最近起きていることが余りにも路地裏に偏り過ぎているというのも事実。
「これからどう動くのが最適なのか、判断に少々困ってしまうね……」
紅茶の下に溜まっている砂糖に、私は思わず眉をひそめた。
「あ、お待ちしてました」
「……どうも」
ざわざわとした雑音と共に、聞きなれない女性の声が耳を掠める。その事務的なやり取りはすぐに終わりを告げ、その声と思われる人物が玄関から姿を表した。
人の家に足を踏み入れるというのは、心なしか背筋が伸びるというもの。自身が気付いていないところで、本来ならばそれは露見する。だけど、今回ばかりは少し違った。原因は、そもそも僕が誰かの家に行くということが普段ではあり得ないということと、もうひとつ。一番の理由は、僕がここに来るということ自体が乗り気じゃなかったのだ。
「いらっしゃい、キミの方から連絡があるとは思わなかったから、かなり驚いたよ」
「すみませんね。付き合いが悪くて」
「誰もそんなことは言っていないんだけどね?」
僕が訪れたのは、アルセーヌ・ルヴィエというひとりの貴族が住んでいる家。目の前にいるのは、その本人であるアルセーヌさん。そして、僕を向かい入れたとある彼女。
「あの……」
「なんだい?」
それともうひとり、僕が呼んでほしいと頼んでわざわざ来てもらった、アルベル君の姿がそこにはあった。
「やっぱり僕、いない方がいいと思うんですけど」
「……その理由は?」
「かなり居づらいです」
「正直なのは結構なんだけどね、キミがいないと後々面倒だから、黙ってそこに座っててくれたまえよ」
一応といった体で確認しただけなのか、「そ、そうですよね……」と言ったまま視線はテーブルに置かれたカップに注がれる。そう、別に居ないからといってどうというわけでも無いけれど、彼がいないとそれはそれで厄介なのだ。
「……で、アルベル君も呼んで欲しいとまで頼んできて一体なんの用だい? キミが世間話をしに来るとは到底思えないんだ」
それは果たして皮肉なのか何なのか、汲み取るのに少し時間がかかる。この取り巻く空気からして恐らくは大真面目なのだろうけど、普段のこの人の言葉は何処か浮いている節があるから、正直なところ自信はない。
アルセーヌさんの言うとおり、ただの世間話ならアルベル君を呼ぶなんていうことはしないし、それ以前に、僕がそんなものの為に誰かの家に行くなんてことはしない。
「先日の夜、ネイケルとかいう人から皆さんにどうしても伝えて欲しいと言伝を頼まれましてね」
面倒な頼まれごとを律儀に遂行しようとしているだけだで、それ以上でも以下でもない。想像していなかった人物の名前が出たからなのか、僅かに表情に驚嘆する様子が伺える。言葉を口にした後、とある人物を視界に入れた。音を立てることを良しとしていないかのように、ゆっくりと何処かに行こうとする彼女に、僕はわざとらしく話を振る。
「……良ければ、貴女もこちらに来て話しませんか?」
「あ、いや私は……」
「いいですよね? 別に」
彼女には少し悪い気もするけど、どのみち知ることになるのなら早い方がいいだろう。……いや、既に知っているからこそ、この家にいるのだろうか。まあ、そんなことは別にどうでもいいのだけれど。
「……ま、いいんじゃないかい? 好きにしてくれ」
言われると、彼女は一瞬だけ僕を視界に入れた。どうしようかと考えあぐねているようだったが、誰も喋ることをしないこの静寂に負けたのか、空いているアルセーヌさんの隣に、静かに腰を掛けた。
「お、お邪魔しまぁす……」
控えめな声と共に、ソファが僅に埃をたてる。それが合図だった。
「僕が提唱しなくても、皆さんはもうご存知なんじゃないかと思っているんですけど……」
やっとの思いで本題に入ることが出来たと歓喜しているかのように、僕の口は勝手に動き出す。ああもう、折角ここまで来たんだし、後はもうどうとでもなってしまえ。そんな気持ちも少しはあった。
「リオ・マルティアという人物を、知っていますか?」
ただ、その言葉を口にした瞬間から、先程まで全員を取り巻いていた空気が明らかに一変したのを、僕は見逃すことをしなかった。
◇
「……その人物が、どうかしたのかな?」
僕の質問に一番に反応したのは、言わずもがなアルセーヌさんだった。
「先日の夜、路地裏で横行している通り魔らしい魔法を使える人物に会いましてね。どうやらネイケル君はその人物と知り合いのようで、彼がそのリオという名前をわざとらしく口にしたんですよ」
「へえ……」
「皆さんの見解をお聞きしたいんですが、どうですか?」
「……どう、というのは、そのリオという人物が通り魔であるかどうか、ということで合っているかい?」
「まあ、そういうことですね」
さてどうするか。そういった様子で僅かに視線を逸らし、僅かな沈黙を迎えた後、アルセーヌさんは再び口を開く。
「ネイケル君は確か、隣街に住んでいる貴族という話だったね」
そうして彼の口から出てきたのは、僕が要求しているものとは少し違うものだった。
「一ヶ月ほど前、彼の街で魔法の暴発事件があったのを覚えているかい?」
「ああ……。そういえば、そんな話もありましたね」
何を言うのかと思えば、一ヶ月も前の事件の、しかも隣街の話。僕の記憶には薄いが、貴族が起こした事件だという噂があったことくらいは覚えている。ただ、それが今回のことと何の関係があるのかがまだ見えてこない。いや、答えを求めるのはまだ早計なのだろう。
「聞いたところによると、とあるひとりの貴族が魔法の暴発を起こし、それに巻き込まれたひとりの市民がいたという話らしいが……。その魔法を暴発させた貴族というのが、ネイケル君だと言われているようだよ」
その言葉を聞いて、カップに触れようとした僕の手が空で止まった。
「この事件に巻き込まれた市民というのが、キミが出会ったリオという人物だという話だ。彼、事件以降消息を絶っているらしいね」
アルセーヌさんの言葉に、僅かに目を伏せてしまう。ああ、なるほど。つまりは彼……ネイケル君は、その消息を経ったリオという人物を探しにこの街に来たという訳か。どうやら知り合いのようだったし、そうであるなら、わざわざこんなところにまで足を運ぶ理由も分かる。全く迷惑な話だけれど。
「……それ、信憑性のある話と思っていいんですか?」
「一度ネイケル君に聞いたことがあったんだけれど、詳しいことは教えてくれなくてね。事件があったというのは本当だろうけど、事件を起こしたのが本当に彼なのかというところに関しては、疑問を持たざるを得ないと私は思っているよ。それに――」
話ながら、アルセーヌさんが手を伸ばした先にあるのは角砂糖。それをひとつだけ摘まんだまま、更に言葉を口にする。
「巻き込まれたリオという市民の妹だと名乗るそこの彼女が、それは事実じゃないと言っているから、疑う余地は十分にあるだろうね」
言葉が終わると同時に、四角いそれが紅茶に落ちる音が耳を掠めた。
「ネイケル君から彼女が妹であると聞いたから、わざわざここに居座らせたんだろう?キミも意地が悪いね」
この人に意地が悪いと言われるのはかなり腑に落ちないけど、今日のその件に関しては確かに僕が悪い。別に、ただ話すだけなら彼女に居てもらう必要なんて無かった訳だ。その行動に出た理由は、無いこともない。
「……別に、彼からちゃんと聞いたわけじゃないです。彼の言うリアという女性が本当に彼女かどうか、単に確証が欲しかっただけなので」
我ながら言い訳がましいとは思うけど、事実なのだからしょうがない。彼に聞くのが一番良かったのだろうし、そうじゃないにしても、もう少しマシなやり方は幾らでもあった気はするけれど、そうはならなかった。
「リアさん、で合ってますよね? 不快だったら怒っていいんですよ?」
「あ、いえ! その、ちゃんと説明しないネイケルさんが悪いですし……。分かっててここには居るので、それは全然大丈夫です」
彼女は、僕を罵り立てるでもなくこの場にいない人物に非があると言った。それは確かにそうなのだけれど、気を使ってなのかそれ以上のことを言うことはしない。怒られる方が幾らかマシな気もするけれど、本人がこう言っているのだから、そういうことにしておこう。
「あ、あの……私ネイケルさんのことはそれなりに知ってますけど、魔法使ったところなんて見たことないですし、それにネイケルさんが事件を起こすとか、そういうことをする人だとはどうしても思えなくて。それと……」
言葉を纏めるのに必死なのか、視線を落としながらも彼女は口を動かすことを止めない。
「兄が魔法を使えるっていう噂が、前からあって……。だから、本当は逆なんじゃないかって思ってるんですけど……」
「……逆、というのは、魔法の暴発をさせたのは本当は貴女のお兄さんである。ということですか?」
「は、はい……。あ、でも全部私の憶測なのでっ」
などと付け加え、力無く笑うその姿に嘘はどこにも見当たらない。それは誰が見ても明白だった。
ただ、彼女の言うことが例えば真実だとするなら、それは正直厄介で、どちらかと言えば余り関わりたくない。やっぱり来るんじゃ無かったと、そう思ってしまう程に、だ。
「まあ、ネイケル君とリオ君らしき人物が接触したということは、その真相が分かるのもそう遠くはないだろうさ」
間に入ったアルセーヌさんが、彼女の心中を諭すようにしながらも話を軌道修正をはじめていく。
「その出会った人物が、通り魔だという確証はあるのかい?」
「いえ……。どうやらネイケル君は決めつけている節がありましたけど、その辺りは分かりませんね」
確かに、魔法を使える一般人には会った。でも、だからといってその人物が通り魔であるという部分に関しては、決定的なものが欠けている。今のところ、ネイケル君がこの街にいる理由のひとつが、リオという人物を探していたのだろうということくらいしか、あの場に居合わせた僕ですら分からない。……それも全て憶測に過ぎないとうのも、なんとももどかしかった。
「……この街で通り魔事件が起き始めたのが、その隣街の件があってから一週間も経たない頃だったかね。一応我々の見解としては、隣街で起きた事件に巻き込まれた人物が、この街で通り魔事件を起こしている可能性もあり得るだろう、なんていうただの憶測止まりだったのさ。ご存知の通り、魔法が使われているから明確な証拠がなくてね。周知は避けていたんだけど、気に障ったかい?」
「いや……。そこに関しては別にどうでもいいです」
きっぱりと、僕はそれを否定する。正直な話、警察側に近いこの人たちが僕らに言っていないことなんて、数えきれないほどあるだろうし、周知していなかったとかどうとかいうのはそもそも眼中にはない。僕が引っかかっているのは、そんなことではないのだ。
「……ただちょっと、良いように利用されたなって思っているだけなので」
利用、というのは少し違うかも知れない。でも実質、彼はこの街の貴族に付きまとって通り魔が犯行を行っている夜中に出歩いていた。それはつまり、貴族の周りを彷徨いていれば必ず情報が手に入るだろうと踏んでの行動だったのだろう。
リアさんという知り合いが側にいるアルセーヌさん辺りに付きまとっていなかった理由までは分からないけど、大方、僕みたいにどこにも属さないような人間の方が詮索もされにくいし、都合がよかったのだと考えるのが妥当じゃないだろうか。
「それは、ネイケル君がキミをってことかな?」
「さあ、どうでしょうね」
これ以上僕が彼をどう思っているのかについて詮索されるのも面倒だし、適当な返事でもして終わらせようと思ったその時。
「あ、あの……」
再度、リアさんが口を開いた。
「ネイケルさん、今はこう……ああやって掴み所がないような言動が多いですけど、本当はああいう人じゃないというか……。前はもっと真面目……真面目? でもないですけど……。と、とにかくっ!」
言いづらそうに上手く僕を視界に入れないようにしながらも、彼女の言葉は止まらない。
「あまり、責めないで欲しいなあって……」
彼女の口から出てきた言葉は、僕にとっては少々意外な案件だった。つまりはあれか、僕が彼のことを嫌いなのではないかと危惧しているのか?自身の兄が犯人かも知れないなどと貴族らが口にしている中、自分のことではなく他人のことを心配していると、そういうことなのだろうか?
「……彼のことが嫌いとは、僕は一言も言っていない筈ですけど」
その言葉を聞いて、彼がこの家に居ない理由が少しだけ分かった気がした。
確かに僕は、彼のことが気にくわない。気にくわないというか、思い返せば色々と腹が立つ。でも、嫌いなどという単純な言葉で表せるようなものでもないから、出来るだけその言葉は避けていた。恐らく、言葉の端々からそれが滲み出てしまっていたからそうやって言われてしまったのだろう。だけど、それは恐らく違うんじゃないだろうか。自分が彼に対して思っていることのくせして、まるで他人事のようではあるけれど。
「協力してほしいのなら、最初からそう言えばいいだけの話だとは思いませんか?」
彼女のその様子から、随分とネイケル君が信用されているということが伺える。それさえにも、無性に腹立たしく感じたのがどうしてなのか、僕には分からないまま。
「僕が彼に言われたのは、先日あったことを伝えてほしいということだけなので、今日はこれで失礼します」
先日あったこと。それをまともに伝えたかどうかはさておいて、まるで逃げ出すかのように僕は席を立つ。
「ああキミ。帰るのは構わないけど、今日は来るのかい?」
「……気が向いたら、行くかも知れませんね」
そんな適当な言葉を口にして、僕は早々に彼らを視界から外す。それ以上のことを聞かれたらたまったもんじゃない。会っている人が人なら、恐らくそう口にしてしまっていただろう。廊下を歩く無機質な音が、どういう訳か妙に耳について離れなかった。
◇
家から、ひとりの客人が姿を消していったのはほんの数分前のこと。容易に訪れる安堵にも似た空気に、今までどれほどの緊張感が漂っていたのかが伺える。残された我々は、自然とすっかり冷めてしまった紅茶を口に含んだ。カップがソーサーへと戻された時の微かな音は、私の口を開かせるのには十分だった。
「……いやあ、こういう話に非協力的な彼から話しがあると連絡が来た時は何事かと思ったが、まあ許容範囲内で安心したよ」
わざわざ家に来るというから、どんな緊急な話かと思っていたのだけれど、正直思っていた程のことではなかった。それはもう、果たして彼は、一体何が目的だったのだろうかとすら思ってしまう程に。
「何というか、ああいうことはちゃんと伝えてくれるんですね。家に足を運んでくれるような人だとは僕も思ってなかったんですけど……」
アルベル君の口から、正直な感想が漏れてくる。そう、そうなのだ。今まで全ての事柄に非協力的だった人物がわざわざ会いに来るということは、それ相応な理由が必要になる筈なのだけれど、今までの話を聞く限り、どうも決定打に欠ける。
「ネイケル君に言われて仕方なく、と言っていたけど、果たしてどうだろうね」
「……と、言いますと?」
「いや、あれだけのことをわざわざ言いに来るとも思えなくてね。かといって、他に思い当たる節もないけれど」
それとも単純に、出会ったリオという人物が、ここにいるリアという人物の兄であるということを確かめにきたというだけで、我々が思っているよりも義理人情に厚い人間だったのだろうか。
『協力してほしいのなら、最初からそう言えばいいだけの話だとは思いませんか?』
まあ、それに値する発言は確かに幾つかあったけれど。だとするなら、少々不器用が過ぎるのではないだろうか。それはそれで、彼らしいといえばそうかも知れない。
「それよりもすまなかったね、二人まで巻き込んでしまって。特にリア君には申し訳ないことをしたよ」
「ああいや……。元々そのつもりでこの街に来たんですし、あの……ちゃんと分かってますから」
リア君はそう言うものの、やっぱり彼女に家に居てもらったこと自体、完全に悪手だったとかなり反省している。
彼が私に話があると言ってきたことと、アルベル君も呼んでほしいということを電話越しで聞いた時から妙な予感はしていたけれど、彼の口から通り魔の話を聞くとは思っていなかったのだ。これは完全に私の見通しが甘かったし、本来なら責められてもおかしくない。というより、責めてほしいというのが本当のところだけれど、ロエル君をも気遣う彼女の優しさからか、そうはならなかった。
「あの、ふたりが出会ったというその人……本当に通り魔だったんですかね? あ、別にロエルさんが嘘をついてるとは思ってないですけど」
「さてねぇ……。一番関係のある人物が直接こちらに出向いてくれない以上は、正直信憑性の欠片もないとは思うが……」
アルベル君の言う通り、わざわざ家に来てまでつくような嘘でもないし、そんなことをしたところでロエル君にはメリットなんて何処にもないというのは、容易に判断が出来る。私がいない夜中に、ふたりがリオという魔法を使える人物に出会った。という部分は正しいと思っていいだろう。ただ、それが本当に通り魔なのかどうかという部分に関しては、実際に見ていない我々からしたら、判断の出来る状態はない。
「……どうして、全部路地裏なんだろうね?」
ふと、私が前から気になっていたことが口から漏れた。
「通り魔の事件も、シント君の件だってそうだ。因果関係があるとも思えないけれど、どちらも事象は路地裏で起きているね」
「まあ、確かに……」
「……心当たりは無いかい?」
「心当たりですか?」
問われたアルベル君は、少し考えた後に答えを提示した。
「ない、と思いますけど……。ここ最近を除けば、事件も特になかったですよね?」
ここ最近、というのは恐らくは通り魔の件だろうけど、確かにそれ以外に該当する事件は公にはされていない。この中で警察と一番繋がりのあるノーウェン家なら、私が知りえないようなことも知っているのではないかと思い訪ねてはみたものの、やはりその可能性は低いようで、苦い顔をされてしまった。
「私の考えすぎならそれでいいんだ。忘れてくれ」
しかし、最近起きていることが余りにも路地裏に偏り過ぎているというのも事実。
「これからどう動くのが最適なのか、判断に少々困ってしまうね……」
紅茶の下に溜まっている砂糖に、私は思わず眉をひそめた。