10話:修復不可


2024-08-13 00:10:04
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 ひと家族が住むにしては大きすぎる家。大きいだけで特に意味を持たないそれの中に、まるで当たり前のように住んでいる人間というのは、ある程度相場は決まっているというもの。だからというわけでもはないけど、世間一般では当然と思われてるであろういわゆるお手伝いという人達も、多くはないがそれなりにいる。
 大げさなほどに装飾が施されている扉の取っ手に手をかけると、それになんの価値もないということがよく分かる。例えば、街の図書館のようなある程度の重要な役割を持っているものであるのならその理由も分からなくはないけど、単純に住むだけの場所なのだから別にどうだっていいのに。それとも、こういう立場をわかりやすく視覚化するという意味では、そうせざるを得ないのだろうか。どちらにしても、僕からしたら過剰装飾に過ぎないのだけれど。

「姉さん」

 訪れたのは、姉さんのいる部屋。僕の声に反応した姉さんが振り向いたと同時にふわりと風をまとうスカートが、やけに目についた。

「あれ……ロエル、どうしたの?」
「いや、元気かなって思って」
「なあに、それ? お医者様だって大丈夫って言ってたじゃない。それに、ただの定期健診よ?」
「……うん、そうだね。そうだよね」

 まるで決まり文句のような姉さんの言葉。言葉には決して出さないけど、正直に言ってしまえば、出来ることなら余り聞きたくはない。定期健診なんて、ある程度健康であるならそもそも起こりえないじゃないか。
 いや、別に怒っている訳ではない。仕方のないことだっていうのは十分分かっている。分かってはいるのだけれど、姉さんと話していると、どうしても頭にチラついて離れないことがあった。

「ねえ、それよりも久しぶりに一緒に出掛けない?暫く外に出てなかったから、体がなまっちゃって」
「ああ、うん。それはいいけど……」
「本当? さっきね、レイナに聞いたんだけど、近くの通りにカフェが出来たらしいの。ロエルは知ってる?」

 レイナというのは、所謂この家のメイドのひとりである。姉さんとよく話しているところを見かけるし、話す機会なら僕だってそれなりにある人物だ。

「カフェ? そんなところあったっけな……」
「やっぱり知らないと思ったわ。相変わらずそういうところに疎いのね。行ったことないなら、わたしそこ行きたいな。ほら、お昼時だし丁度いい時間じゃない?」

 時計を見ると、確かに時間は十一時を過ぎている。そういう話になるとは思ってなかったから一瞬戸惑ったけど、僕はすぐに態勢を整えて承諾した。

「じゃあちょっと待ってて。すぐに準備するから」

 そう言ったかと思うと、姉さんはバタバタと忙しなく足を動かして準備を始めた。そんなに急がなくたっていいのに、なんて言いそうになってしまったけど、姉さんからしたら久しぶりの外出なのだから、そうなるのは当然というのもだろう。
 上着と、簡単な手荷物を手に小さな鞄に入れている途中、姉さんが思い出したかのように口を開いた。

「そういえば、あの通り魔の事件ってまだ解決してないんでしょう?」
「え? ああ、そうだね……証拠がないのもそうだけど、魔法が使われているから尚更なのかな」

 適当に、思いついたことを言葉にする。他の貴族はどういう考えなのかは知らないし興味もないけど、正直なところ、魔法を使える市民なんて放置しておけば勝手に自滅するんだから、殺人はともかくとして、僕からしたら別にそこまで大したことじゃない。
 元々レナール家はそういうことに非協力的ではあったけど、形だけでもいいから参加しておけと父が何度も言うもんだから、協力しているという体で仕方なく付き合っているだけ。ただそれだけだったから、姉さんに何かを言えるほどの情報を僕は持っていないのだ。

「あたしもちゃんと協力出来れば良かったんだけど……」
「だ、駄目だって。そもそも、別に無理してこっち側が協力する必要なんてないんだし」
「それは分かってるけど……。だって、こういうのって人手が多い方がいいんでしょう? ……と、じゃあ行きましょうか。早くしないと混んじゃうものね」

 姉さんの言葉を合図に、僕は足を翻す。というより、腕を掴まれてしまいそうせざるを得なかったのだけれど。扉が開けば、玄関までの間に無駄に長い廊下が待っている。

「そういえば、カフェって余り行ったことがないんだけど、あたしの思ってる感じでいいのかしら?」
「姉さんの思ってるカフェがどういうものなのか分からないけど……。まあ大体合ってると思うよ、うん」
「なあに? その中途半端な答え。知らないなら知らないって言えばいいのに」
「いや、そういうことじゃないっていうか……。外に出ればそれっぽいお店は見るけど、姉さんが行ったことないなら、僕だって行ったことないし」
「せっかくお仕事で外に出る機会が多いんだから色んなところに行けばいいのに……。その方が、あたしがロエルに案内してもらえるじゃない?」
「はは、そうだね……」

 いつも顔を合わせているはずなのに、どうしてか久しぶりに話をしたような気がする。思えば、それは確かにその通りだ。姉さんの検診が近づく度に、何かと理由をつけて側にはいかないようにしているから。
 だからという訳でもないけど、この長い廊下をひとりで歩いている時よりかは退屈しない。店に着くのはもう少しだけ先になりそうだけど、それも悪くないと思いながら、僕は姉さんの隣で姉さんが発する他愛のない声をただ聞いていた。


   ◇


 僕らの住んでいる家は、市場や広場といったいわゆる市街地からは少し離れている為、比較的人の流れが緩やかだ。

「……あ、あそこじゃない? レイナが言ってたのって」
「本当だ……思ってたより近かったね」

 家を出て五分も経っていない頃だろうか。姉さんが指し示した場所。そこは、確かにそれらしい看板にそれらしい装飾がされたお店があった。こんなに近い場所に出来たというのに気付かなかったというのは、なんというか、自分がどれ程周りに興味がないのかというのが浮き彫りになる。例えば、こういう場所に一緒に行くるほど仲のいい知り合いがいたのなら、もう少し調べてみてもいいのかも知れないという気にもなっただろうに、生憎、そう思える人間が僕の近くにはいない。
 扉が開閉するたびに聞こえる音が、客人を歓迎しているように感じたのがどうにも不思議に感じたのもつかの間、「いらっしゃいませ」なんていう定型文を聞きながら、店内の空いている席へと案内される。お昼を回る前だったからなのか、混むのにはまだ早い時間のようで、人はまばらのようだった。

「んー……」

 姉さんと通路を歩いているその道中、いかにも何を頼むか迷っているといったような声が耳を掠めた。この時、僕がその人物を視界に入れることをしなくても、恐らく向こうから声をかけてきたのだろう。そう思うと余計腹が立ってしまうのは、彼が無理矢理自身の手の内に僕を入れようもしているから、というただそれだけに尽きる。そういうの、僕は一番嫌いなのだ。

「あ、どーも」

 聞き覚えのある嫌な声。どこか鼻につく態度。僕の嫌いなそれに当てはまる、ネイケル・ヴォルタという人物だった。側にいる姉さんは、自分に言われた訳ではないと気づくと僕へと視線を向ける。

「ロエルの知り合い?」
「え? ああ……まあ……」
「ふうん?」

 適当に返事しても良かったんだけど、知り合い、というのは少し……いやかなり語弊があったから、出来るだけ明言を避ける。単に、彼が勝手に僕の周りをうろついているというだけの話ではあるけど、かといってお互いのことを全く知らないかと言われたらそういう訳でもない。
 彼がどこの生まれで、どういう人物なのか。それくらいのことなら言えてしまうのだから、周りから見れば恐らく知り合いという部類には入ってしまうのだろう。

「ねえ、良かったら私たちとご一緒しない? その様子だとまだ頼んでないんでしょう?」
「え、ちょ……姉さん待って」

 思ってもいなかった展開に、僕の口が姉さんを制止する。それは咄嗟のことだった。

「あら、嫌なの?」
「嫌っていうか……。いや……うーんまあ」
「オレとロエルさんの仲じゃん。なんでンな難色示してんの」
「君と仲良くしたことなんて一度もないんだけど」
「ああーひど……。めっちゃ傷つくわあ」
「傷ついてるようには全然見えないけどね?」

 ほんと、どうしてこんな時間から彼のペースに巻き込まれないといけないのかよく分からない。たまたま居合わせた、というのが余計そう思わせる。

「なんだ良かった。ちゃんと仲良しなんじゃない。わたし安心しちゃった」
「どこをどう見たらそういう解釈になるの?」

 それと、この場所にはいつもと違って姉さんがいる。僕ひとりならともかく、明らかに分が悪かった。「早く早く」なんて言葉を彼が僕らに向けると、姉さんは途端に笑顔を見せた。同時に腕を引かれてしまい、逃げられないようにと考えたのかは知らないけど、あろうことか奥の席へと押し込まれてしまう。

「……ロエルさんって、結構押しに弱いよね」
「だったら何?」
「こっわー……冗談じゃん」

 こうして、どういう訳か一緒に昼食を取るという事態になってしまった僕の気も知らず、メニューが僕らの前に置かれていく。本当、こういうタイプが揃うとどうにも駄目だ。

「ところであの……。気に障ったら申し訳ないんだけど、あなたって貴族で合ってるかしら?」
「まあ、ね。うん、一応そうだよ」
「よかったあ。この辺りじゃ見かけない顔だったし、合ってるかちょっと不安だったの」

 一応、という部分が若干引っかかるが、姉さんがいる手前余り深く突っ込むことも出来ない。ただ、これが例え僕と彼の二人だけだったからといって僕が探りを入れるかといったら、また別の話だけれど。

「あ、自己紹介が遅れちゃったわね。わたしはユリアーネ、ロエルの姉よ。ユリアって呼んで欲しいな」
「へー……」
「あなたの名前は?」
「ネイケルだよ」
「ネイケルくんね。でも良かったあ……ロエルってば、家で全然自分の話してくれないから心配してたの」
「心配って……。あの姉さん、僕もう心配されるような歳じゃないんだけど」
「なあに? そんなにわたしに心配されるのが嫌なら、何があったのかくらい教えてくれたっていいじゃない」
「いや別に、言うほどのことなんて特に無いっていうか……」

 特にない、というのは確かにそうなのだけれど、この目の前にいる人物の前で何かをいうのは少し……いや、かなり憚られる。変に適当なことを言われてしまっては、余計ややこしいことになるだけだ。

「あ、ごめんなさい。わたし達ばかり話しちゃって。やっぱり迷惑だったかしら……?」
「いや? こういうロエルさんって見たことなかったから普通に面白いよ」
「そうなの? ねえ、普段のロエルってどういう感じなのか教えてくれる? 最近何があったのかでもいいんだけど」
「んー……」

 彼は少し考えた後、僕を視界に入れてこう答えた。

「ロエルさんが余計なこと言うなって顔してるから、ナイショかなあ」
「なあにそれ? ふたりしてわたしに言えないようなことでも隠してるみたい」
「まあー……多少はね?」
「君ね、適当なこと言わないでくれるかな?」
「ハイハイすみませんねーっと……。あ、オレパンケーキ食いたいわー。ここってオムライスが旨いらしいけど」
「そうなの? じゃあ、わたしはオムライスにしようかな。ネイケルくんはお昼に甘いものでいいの?」
「いいのいいの。こういうの好きなんだよねぇ」
「ロエルはどうするの? あ、何でもいいは駄目よ?」
「わ、分かったよ。分かったけど……」

 やっと、といったところだろうか。はじめて店のメニューが視界に入る。当たり前ではあるけれど、軽食からランチメニューまでそれなりに豊富なようだ。それとなく眺めてみた限りでは、例えばサラダやパスタ。誰かがおススメだと言っていたオムライスにグラタンだったりと、内容自体はよくあるそれではあった。だけど、この中から選ぶのは僕には難易度が高い。
 姉さんに「分かった」とは言ったものの、本当は別に何でもよかった。その言葉を制止されてしまっては、この中から僕が選ぶのに苦労するというのは必然だった。


   ◇


 時計の針がようやく十二時半を過ぎたころだろうか。僕と姉さんは、彼ネイケルという人物と別れ店の外を歩いていた。思いの外長居してしまったような気がするけど、その要因のひとつとして上げられるのは、どうやら彼は甘いものが好きらしく、それに加えてよく食べるようで、パンケーキを食べた後に大きめのパフェを頼んでいて、よくもまあそんなに甘いものばかり口に出来るなと不覚にも感心してしまった。
 最後のほうなんかは、僕と姉さんがただただ彼の食べる姿を見ながら姉さんが口を開いたり、それに僕が何かを言ったりしていただけだったような気がする。……いや、もしかしたら逆かも知れない。彼は話を振られるその時まで、特に何かを話すでもなくただ僕らの話を聞いていただけだったのだ。

「ネイケルくんって、面白い子だったわね」

 店を出て少しした後、一番最初に口を開いたのは姉さんだった。その次に続いた言葉が「それによく食べるし……」というところを見るに、おおかた考えていることは僕と変わらないのだろう。

「ロエルも、隠してないでもっと早く教えてくれれば良かったのに」
「まあ、うん……。あったのは最近なんだけどね」
「そうなの? あの感じだと、やっぱり別の街の貴族さんなのかしら?」
「そうみたいだね。用があってこの街に来てるらしいけど」
「ふうん……」

 姉さんの表情は、至極穏やかで優しい。それが、何となくいつもと違う気がして、気付けば僕は、姉さんのことをずっと視界に入れていた。

「……なあに?」
「いや? いつもより姉さんが楽しそうだなって思って」
「当たり前じゃない! 久しぶりに外でご飯食べて、それにロエルの知り合いにも会えて。それに……」

 一瞬、姉さんの言葉が詰まる。

「ねえ、今度ネイケルくんを家に呼びましょうよ。甘いものが好きって言ってたでしょう? レイナの作ったクッキーとか喜ぶんじゃないかしら」
「え、わざわざ呼ぶの?」
「だって、折角仲良くなったんですもの。それに、用事があってこの街に来てるのならそのうち帰っちゃうってことでしょう? 別に一度くらい家に呼んだっていいと思わない?」

 なんだかよく分からないけど、面倒そうなことがはじまってしまった。こういうことを言い出す時って、大体僕が言いくるめられてしまうのだけれど、今回ばかりは適当に聞き流して終わりにしたい。なんて思ったのがいけなかった。

「……適当に聞き流して終わりにしようとしてるでしょ?」
「な、なんでそうやって人の心を読んじゃうかな……」
「もう。そういうことするんなら、わたしがロエルに内緒で勝手に招待しても文句は言わないでよね?」
「わ、分かったよ……。分かったからそれだけは止めて」

 じゃあ決まりね。なんて笑顔で言ってる姉さんの楽しそうな顔。どうやら、姉さんは大層彼のことを気に入ったらようだけれど、その要因があの人物であるというのだけが少々腑に落ちない。嫌い、というのとは少し違うのだけれど、それが何なのかを言葉にするのは容易じゃなかった。

「……どうしたの?」
「あ、ううん」

 でもまあ、姉さんがこうして楽しそうにしているのならそれはまた別の話だから。
 もし……というか、恐らく近いうちにまた会うだろうけど、次にどこかで彼と出会ったのなら、しょうがないから誘うという行為をしてもいいのかも知れない。姉さんの要望に応えられるなら、その方が断然良いだろうから。


   ◇


 噴水の音だけが響く広場。いつもなら人がいるこの場所も、深夜のこの時間になれば必然的に人がいなくなるというものだ。

「はー……しんど」

 言いながらベンチに腰をかけるとミシッと何かが音を上げたような気がしたが、いとも簡単に水飛沫にかき消されていく。一通り街を周ったオレは、誰も見つけられなかったという事実にすっかり疲れ果ててしまっていた。
 アルセーヌさんは昨日死んでたから今日も会わないだろうとは思ってたし、そうなって来るとアルベルさんと出会う確率も低くなる。彼に関してはどこかにいるのかも知れないが、別に探してるからといって用事があるわけでもないし、なんというか、完全に馬鹿らしくなっていたのだ。

「あの感じだと、ロエルさん今日来ないだろうしなー……」

 今日の昼、カフェで出会った人物を思い出す。あの時のロエルさん、オレに会ったからなのか滅茶苦茶機嫌が悪かったし、夜に出歩いたらオレに掴まるってことも十分分かっているだろうから、わざわざそうなるような状況に来ることはしないだろう。
 ほかの貴族もいるにはいるが、こういう案件に関しては余り期待は出来ないし、やっぱり今日は出歩くべきじゃなかったかも知れない。

「別にひとりでもいいっちゃいいんだけど……」

 オレはこの街の人間じゃないからあんまり好き勝手に調べることも出来ないし、何より一番の問題はそこではない。魔法相手じゃ、確実に不利なのだ。

「……ん?」

 だけど、それはオレの都合を無視して突然現れるというものだ。ほんの一瞬だけ発せられたとある人物の気配。何処かからオレを見据えているかのような何かを感じ、辺りを見回す。この時間、たとえ遅い時間だからといっても決して人がいない訳じゃない。それは分かる。
 だけど、例えば人それぞれ気配が違うように、魔法にだってそれぞれ気配というものがある。つまりオレが感じたそれというのは、ただ市民が出歩いているとった類のものではなく、それとは明らかに違うもの。考えられるとするのなら、今この街で横行している路地裏での事件の犯人のものだと考えるのが当然だった。
 この気配が貴族のものであるというのも考えられはするが、可能性としてそれは高くない。家柄によって魔法の雰囲気が違うとでも言えばいいだろうか。例えるなら、オレにはオレの、ロエルさんにはロエルさんにしか使えない魔法があるのと同じ。暴走した魔法や、使えるはずがないとされる市民の持つ異端的なものと、貴族が持つそれというのは、圧倒的に取り巻くモノが違う。それに、貴族のものであれば魔法の気配だけでも誰のものなのかというのはわりと簡単に分かる。

「どうすっかな……」

 さっきの気配が本当にその通り魔によるものだとするなら、向かって右にある路地裏に行くのが正しい選択だろう。少し考えたのち、オレは重い腰を上げた。街灯のない広場から外れた暗い道。世間一般の認識から言うなら、路地裏。
 夜の街を徘徊するというのは、まるで悪いことをしているかのような錯覚に陥ってしまう。そう思うということは、ある程度自分が真面目であるということの現れではあるけれど、日頃の態度を見られていればその可能性を真っ先に否定されてしまいそうだ。

 わざとらしく地面を踏みしめていたが、それを止めると途端に静寂が訪れる。
 最近この街で横行している通り魔の特徴というのは、一般公開されている情報としてはまず若い男であるということ。フードのようなものを被っていたらしいということくらいだろうか。あとオレが知っているもうひとつの情報と言えば、恐らく関係各位しか知らない情報だけ。

「……なんだ、殺す気マンマンか? 結構元気じゃん」

 殺意というのとは少し違う、禍々しいものと言った方が分かりやすいだろうか。隠しきれていないそれが、正面の突き当りから漂っている。いや、恐らく隠す気なんていうものはないのだろう。
 オレは、視界には入っていない誰かに向かってわざとらしく声を出す。

「いやあ、こういうの待ち伏せっていうの? まさかオマエの方から来るとは思ってなかったわ」

 というのは、嘘。

「でもまあ、探す手間が省けたっていうか? そういう意味ではラッキー的な?」

 これは一応本当だ。

「ほら、オマエの嫌いな奴がすぐ側まで来てるんだからさ」

 オレの方から直接仕掛けることはしない。

「面倒だから来るなら来いよ」

 何故なら、そこにいる人物が本当にオレの知る奴なのかという確証が欲しかったからだ。
 風が止む。一瞬にしてオレを捉えたのは、恐らく魔法が変異したのであろう黒い何か。所謂、魔法に人間がのまれた時に起こる現象……魔法に憑かれたというのが、貴族の中での共通認識だろう。この状況においても、オレは魔法を使うことはしない。明らかにマズいということは誰が見ても明らかだけれど、それとこれとは話が別だ。
 その黒い何か。この前まではまだ人の身体を保っていたようだったけど、今となってはそれが誰なのかまで分からないくらいに、もやのようなものに覆われている。一応人の形はしているようだったけど、恐らくもう手遅れだろうというのは、誰が見ても明白だった。
 腕のような細いそれの先に存在するナイフだけが唯一実体を持っているのが、酷く目につく。黒いそれが揺らめいたのが、勢いよくオレの元へと向かってくることの合図だった。避けようと体を後ろへ動かしたはいいものの、もやの動きが不鮮明で明確に捉えることが出来ない。

「あーめんどくせ……」

 近くにあった細道へと入り、とにかく走った。想定内ではあったものの、後ろを気にする度に手にされているそのナイフと、ソイツを取り巻いている黒いそれが視界に入ると、冷静な判断が出来なくなる。嫌ならしなければいいのに、それを止めることはしない。というより、どうしてオレはこんなに必死に逃げているのだろうか? 一瞬の思考が、オレの動きを妨げていた。
 黒いもやが初めて実体を持つ。腕を掴まれ、勢いよく体が後ろに倒れそうになりながらも、そうなることを必死に堪えた。恐らく、気を抜いたらこの勢いのまま殺されるんじゃないだろうか?そう思うくらい、それの力は強かったのだ。
 体が路地裏から抜けていく。それと同時に、オレは意図的に抵抗することを止めた。すると途端に体が地面から近くなり、視界に入ったのは今の状況に似つかわしくない少し雲がかった月だ。重力によって地面に叩きつけられた後、やっと動きが止まる。ただし、ナイフはオレの首に当たったままである。
 視線だけを動かすと、目に付いたのは広場にある噴水だった。

「……なんで、お前がここにいるんだ?」

 久しぶりに聞いたその声。それに反応したかのように、黒いそれはゆっくりと目の前にいる誰かの元へと集まっていく。だけど、別にそんなことはこの際どうでもいい。

「はあ? オレがお前を探すってことくらい普通に予想出来ただろ?」

 ナイフを中心に、手、腕、肩……ゆっくりともやが消えていく。服装は、恐らく市民に公開されているそれと同じだろう。

「でもま、ちょっと時間かかっちゃったなー……。ああほら、オレってオマエと違ってむやみやたらに魔法使わないじゃん? どうすっかなーってずっと考えてたんだけどさー」

 体は地面に押し付けられたまま。掴まれていた左腕の痛みが、僅かだけど引いていく。

「面倒だから、そういうのは止めたわ」

 ソイツの後ろから見える月が、いつにも増してとても綺麗だった。

「今この状況がオマエにとっては一番有利っしょ?遠慮しないでその手にしてるヤツ早く刺せよ。それとも何だ? この期に及んで尻込みでもしてんの?」

 あの時、オマエが逃げなければ助かったかも知れない。なんてことは今更言わない。

「わざわざ隣街まで逃げて、人殺して、嫌いな嫌いな貴族サマに追われて。自分から状況悪化させるとかオマエ馬鹿か?」

 だけど、言いたいことは沢山ある。

「あーそれと、この前昼間に路地裏にいたガキ襲ったんだって?」

 ガキと言っても、オレとそんなに歳は変わらない。一応未遂で終わったみたいだけど、よりによって面倒になりそうな人間襲いやがった。お陰で変にややこしいことになっているような気がするのは、気のせいではないだろう。

「そうやって手当たり次第に手出してっと、オレ以外の貴族に殺られんだろ? だから……」

 首に当てられたナイフを、自身の左手で更に深く。動かせば恐らく血が出るというどころの話ではないであろうくらいにまで押し付ける。それに驚いたのか、奴は目を見開いた。

「オマエは大人しく、オレのことだけ視界に入れてろっての」

 コイツが、どれだけオレの挑発に乗るか。
 コイツが、どれだけオレに目を向けてくるか。
 そうでもしないと、被害が増えるだけだから。……一番最後のは今考えたけど。

「じゃなきゃ、オレがオマエを殺れないだろ?」

 これが、オレがここに来た理由の中のひとつ。取り巻いていた黒いもやなんていうのは、もうどこにもない。ハッキリと見える目の前にいる人物。口に出したくもないソイツの名前を口にする為に、しょうがなく唇を動かす。

「なあ? リオ・マルティアさんよ?」

 広場から微かに聞こえる水の音が、どうしてか酷く騒がしい。
 いつもなら髪の毛に隠れているオレの右目。自身のモノであるのも関わらず、左とは少し色の違うそれが嫌らしいほどに目の前にいるソイツを捉えていたのは、恐らくこうなったことへの戒めなのだ。


   ◇


 静かに響く水飛沫の音。よく見える月。死ぬなら十分すぎるこの状況。だけど、とある人物はそれを良しとしなかったらしい。
 左から割って入ってくる風。それが捉えているのは、オレではなくリオのほうだった。気付いたらしいリオが咄嗟に避ける。それと同時に、刃物どうしがぶつかった音が耳についた。近かったナイフと体が完全に離れ、やっと自由になったからか小さなため息が漏れる。体を起こすよりも前に、近づいてきた人物がオレを見下ろしていた。

「わー、さっすがロエルさん」
「……馬鹿にするんなら黙っててよ」
「してないしてない。すぐそういうこと言うんだからー」

 上半身を起こし、その場で胡坐をかいたような姿勢で首を右に動かす。よろめいたらしいリオの体からは、またしてももやが揺らめいていた。

「……いやー、まさかロエルさんがいるとは思わなかったなあ。誰もいないと思ってたんだけど」
「そういうところ、本当に白々しいね」
「マジだって。結構探したんだよ?」

 探したというのは本当だけど、この噴水に来た時にリオ以外の気配があったのは分かっていたから、結果的には嘘ということになる。それがロエルさんのものだというのも、まあ分かってはいた。

「……魔法の使える通り魔と知り合い、か」

 小さな声でそう呟いたロエルさんの目は、明らかにリオを見据えている。右手に持たれている細身の剣が、よく似合っていた。一歩、ロエルさんが足を出した時、リオは二歩ほど後ろへ引く。

「……来るなよ」
「どうして? ああ、僕に殺されるのは嫌? それとも……」

 ロエルさんの表情はここからだとよく見えない。変わりに分かるのは、明らかに苛立っているのであろういつもとは系統が違う、オレの前では余り見せない優しい口調。

「まだ殺したりないとか意味不明なことでも言うつもり?」
「違う」

 少し荒ぶった様子でハッキリと違うと言い放ったリオによって、一瞬にして辺りは静かになる。しかし、その次に続く弁明の言葉は一向に紡がれることはなかった。変わりに、色濃く発せられた黒いそれらがリオを素早く取り巻いた。そうなってしまえば、ソイツが目の前から消えてしまうというのはある種当然だ。だってそれは、あの時と同じだったのだ。
 ロエルさんはそれを追うことはせず、手にしていた剣が光を纏う。それは、ロエルさんが魔法を使うことを止めた合図。少しの沈黙が襲った後、それを遮ったのはロエルさんだった。

「……君さ、この街で魔法使ってるところ見たこと無いんだけど、一体どういうつもりなの?」
「んー、別に使う必要がないから使わないだけっていうか。だって疲れるし」

 そう言うと、ロエルさんの口からため息がこぼれる。多分、オレから聞きたいことはそういうことじゃないんだろうけど、嘘はついてないからこの際それはどうだっていい。地べたに座っていたのをいい加減止めようと体を動かす。心なしか背中が削れた気がするけど、まあそれくらいで済んだのだからあの時よりは幾らかマシだろう。

「それより、さっきの話ずっと聞いてたんでしょ?」

 服についた砂を手で弾きながら質問を投げかけるが、ロエルさんは答えることをしない。だけどオレは、それを肯定と取った。

「だったらさ、ロエルさんにちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「……なに」

 オレからの頼みごとだからなのか、いかにも聞きたくないといった様子でチラリと視界にオレを入れたのが分かる。

「アルセーヌさんに今日起きたこと言っといてくんない?いるかなーと思って一応一周はしたんだけど、昨日の今日だしまだ死んでるっぽくて。こういうのって、やっぱり言っておかないとマズいじゃん?」

 最もらしいことを口にしながら、少しだけロエルさんとの距離を縮める。すると、途端にロエルさんはオレの方へと顔を向けた。

「はあ? そう思うなら自分で言いに行きなよ。僕は関係ないし」
「いやさー、いくらオレでもリアちゃんがいるところにこういう話をしには行きたくないなーっていうか」
「知らないよそんなの……。というより、僕はそもそもリアって人知らな……」
「頼むよー。オレとロエルさんの仲じゃん」
「だから別に仲良くないでしょ。巻き込まないで欲しいんだけど」

 お礼はちゃんとするからと、最後の一押しとして手を合わせて懇願する。一見ふざけているように見えるかも知れないが、オレは至って真面目だ。それが相手にちゃんと伝わるかどうかは、また別の話だけれど。

「……やっぱり止めた」
「え? なんて?」

 ロエルさんが何かを呟いているのは分かったけど、静寂にかき消されてしまうくらいに小さな声だったから、残念なことにその前後をよく聞き取ることが出来なかった。もう一度聞く気満々だったのだけれど、次に起こされた行動によって上乗せされてしまう。聞き返せないように敢えてこういう対応をしたのかも知れないというのは、果たしてオレの考え過ぎなのだろうか。
 ばさりと、何か布のようなものがオレの肩に向かって投げられる。辛うじてそれを手に取り、それがハンカチであると認識して数秒後、投げられたハンカチに少しだけ血が滲んでいるのが分かった。何となく自分の首に触れると、ナイフに触れた時に切れたのか血が流れていた。

「僕に頼んだこと後悔しても責任取らないからね」
「うわぁなにそれ怖……」
「それが嫌なら自分で行って」
「ごめんなさい無理ですいやマジでお願いします」

 優しいのか何なのか、やっぱりこういうのをこの人に頼むのは悪手だったかも知れないと後悔はしたものの、ロエルさんは文句を言いながらちゃんとやってくれるというのは、この街で数日過ごしてきて何となく分かったから、まあ何とかしてくれるだろう。それと、押しに弱いってところも。

「ってか体イテーわ……もう少し早く助けてくれても良くない?」
「本当、そういうところ腹立つよね」
「少しは労わってよー」
「ちょ……掴まないでよ重い」

 だから、その点に関しては別に余り心配してはいない。ただ、それに付随するオレへの苛立ちまで考慮出来る程の時間と余裕なんてものは、この期に及んで存在なんてしていなかった。
 何か宛てがあるわけでもないが、オレらの足は何処かへと向かう。誰かのことを追うというようなことは、今はしない。何故なら、今行動を起こしても恐らくこうしてまた助けられてしまうから。ただそれだけだった。

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