この時間、午後と呼ぶに相応しい時刻になると、僕の周りには環境音が蔓延り始める。
「……はい。……じゃあ、今日から一週間なので」
今日は、図書館にとっては休みの次の日に当たる為、平日に比べれば多少なりとも人が来るというものだ。図書館というのは、基本的に静かであるのが当たり前だけれど、ここの図書館は、出入り口や受付の近くだとわりと騒がしい。あくまでも、図書館にしてはだけれど。
「こんにちはーっ」
そんな騒がしい空間のあいだを潜り抜けるように、元気な声が僕にむけて放たれる。この声は、いつもと同じあの人。振り向く必要もないくらいに聞き覚えのある声。分かっているにも関わらず、反射的に振り向いてしまうのが、最早当たり前になってしまった。そして、彼女と一緒に必ず訪れるのは、よく知っているもうひとりの人物だ。
「……やあ」
「どうも……」
受付のカウンターを挟んで現れたふたり。普通なら、僕のようなのが相容れる存在ではない人達。つまりは貴族である。まあ、貴族だからといって対応が変わるとか、そういうことは無いけれど。いつも疑問に思うのは、どうして、貴族がわざわざ図書館で本を借りるのかということである。本が買えないなんてことはまずないだろうし、ごく普通のただの町の図書館なんかに来て、一体何が楽しいのだろうか。館長に会いに来たという訳でもなく、この人たちは本当に本を読みに来ているだけのようで、それが、余計僕の目には不思議に映ってしまう。
ただ、この人達とはわりと昔からの知り合いではあるから、その辺りに関しては、そういうものなのだろうという、さながら適当な理由をつけて終わりにしているけど。
「先週の、返しに来ましたあ」
そう言いながら、サラさんはガソゴソと音を立てて可愛らしい鞄から本を取り出す。それは、先週僕がたまたまこの受付で読んでいたもの。
「どうでした? その本」
「えーっと……。凄く面白かったです! 星と神話の繋がりとか、諸説あるところとか……。それと、自分の星座のこと、もう少し知りたくなっちゃいました!」
「僕も、気になってあれ以来、星関連の本ばかり読んでますね」
本を返しに来るたびに行われる、このやりとり。僕が読んでいた本をサラさんが借りて、返すときに彼女から感想を聞く。聞くというか、自然とそういう流れになる。これを、いつもなら隣にいるランベルトさんが茶化しに話に入ってくるのが、何というかお決まりなのだけれど。今日は、どうやらいつもと様子が違うようだった。
「……何か?」
どうしてか、僕のことを複雑な顔をしてじっと見つめているランベルトさんに、わざとらしく問いかける。すると、さっきまで僕が感じたそれを払拭するかのように、いつもとなんら変わらない様子で、僕に言葉を向けた。
「ああいや……。僕には、おすすめの本は教えてはくれないのかと思っただけさ」
「……読む気があるのなら、いくらでもおすすめしますけど」
「そうかい? じゃあ、その時になったらまた聞くとするよ」
本当にそう思っているのかいないのか。それは僕には分からないけど、いつにも増して簡素な言葉を口にしているような気がした。
「……サラ、僕は本を見に行ってくるね」
「あ、はいっ」
ランベルトさんはいつもサラさんと一緒に来るけど、特別本を読みにくるわけでもなく、僕らの見える範囲でぼーっとしていることが多い。一応、本を持ってはくるけど、あれは恐らくただ眺めているだけだと思う。
いつものように、早々にこの場を後にするランベルトさんの後ろ姿を見ながら、僕は考えてしまう。さっき感じた、ランベルトさんの妙な視線。それが僕の思い違いならいいのだけれど、そうではないと断言が出来る。何故なら、僕には心当たりがあるからだ。
心当たりはあるのだけれど……。
「あの……」
「はい?」
当たり前のように、受付のすぐ側にある椅子へと座るサラさんに、疑問を感じざるを得なかった。
「どうして、いつも受付の側で読むんですか?」
「駄目ですか?」
「駄目ではないんですけど……」
「も、もしかしてお邪魔だったり……?」
しょんぼりとした様子を見せる彼女に、僕は戸惑いを隠せない。そ、そんな顔をさせるような質問を僕はしてしまっただろうか?
「あ、いや……邪魔ではないです。ただ疑問に思っただけなので」
「本当ですか? よかったぁ」
一体なにがよかったのだろうという疑問は残るが、僕はこれ以上の詮索はしない。この人は、いつもとなにも変わらないのだから。それだけのことなのに、妙な満足感があった。
「あの……」
「あ、はい。何でしょう?」
「今日は、何の本読んでるんですか?」
「月の満ち欠けの本ですね。星の本では無いですけど……」
「へぇー……あ、じゃあ帰るときに借りて帰ってもいいですか?」
「まあ、ご自由に……」
このやり取りだって、僕の読んでいる本が違うくらいで、いつもの会話とほぼ同じ。僕が受付にいて、すぐ側にサラさんがいる。本を探してくると言って何処かに行ってしまったランベルトさんのことだって、本当に僕の思い違いだった可能性だって十分にある。……というより、変わったのは僕のほうというか。余り知られたくないことというか、それなりに疚しいことがあったからで。だから、いやに人目が気になるというか、寧ろいつものように話しかけてくるそれに、疑念を抱いてしまうというか。
とにかく僕は、とても落ち着かない気分に苛まれている。
そう思ってしまう出来事が起きたのは、ほんの数日ほど前のこと。僕はいつものように図書館で手伝いをしている……はずだった。
◇
「めんどうだな……」
「まだ開館すらしてませんが」
図書館の開館前というのは、いつもどことなく気怠い空気が流れている。それというのも、大体このやる気のない館長のせいだろう。
図書館というのは、どうも開館時間が早く設定されているが、ここの開館時間は十時~十八時までと、比較的緩やかな勤務体制となっている。それというのも、館長曰く「今時図書館なんて、早く開けて遅くまでやるメリットがないでしょ?」とのことらしいが、本当のところは、館長が朝早くから仕事をしたくないだけなのだろうと勝手に思っている。まあ、早くから開けたところで、片手で数えられるくらいの人数しか来ないのは分かってるから、館長の言うことも分からなくはない。と言っても、昔からこの時間でやっているから、ちゃんとした理由があるのだろうけど。
それでも、準備もあり三十分前には集まる必要があるため、9時には来ていないといけない訳だけれど。
「はいこれ、二階の本。適当なところに入れといて」
ドサッと音を立てて僕の両腕へと放り出されたのは、少し大きめの専門書が数冊。二階には、一般人が余り触れることのないような専門書が多く、貸し出しの頻度自体は余り多くは無いのだが、読まれていく間に、どうしてか一階の本棚に紛れ込んでしまう時があるため、恐らく、それらを然るべきところに戻して来いということなのだろう。
六、七冊ほど積み重なって重くなったそれらをしっかりと持って、二階へと続く階段を進む。もう気にも留めないくらいには何度も持っているはずなのに、どうしてか、いつもよりずしりと乗しかかるのを感じる。その原因は、恐らく何故か一般書に紛れてしまった大きめの図鑑が三冊もあったからだろう。
本棚に入っている書物と手元にある本をを確認し、然るべき場所へと戻していく。必要であれば設置されている脚立を使い、ひとつ、またひとつと手持ちを少なくしていく。次に僕が手にしたのは、星座に関する神話が、星の写真と共に載っている本。天体もののエリアはどの辺りだっただろうか。思考を巡らせて、それらしい場所の本棚を視界に入れると、一冊のとある本が、僕の目に飛び込んできた。
特別、何か変わっているところがあるわけでは無いのだけれど、どうしてか気になってしまった。本が呼んでいるとでも言えば良いだろうか。こういうことは特別珍しいことではないし、僕はいつものように、本棚からそれを取り出す。表紙を見ると、本来そこにあるはずのものが書かれていないことに気付く。
「これは……?」
デザインこそはされているものの、あるはずのタイトルが何処にも書かれていない。それが、なぜだか僕を酷く不安にさせる。不審に思いながらも、感情を押し殺すようにして恐る恐る表紙をめくった。そこに存在していたのは、真っ白な空間が続くだけのただの紙と鬱陶しい程にうるさく響く、魔法の呻き声だった。
何かが僕の周りを蠢く。それが何なのかというのを、僕は嫌になるほど知っている。それでも、頭は理解するのを拒んでいた。だから、それが魔法だと気付くのに、ほんの少しの時間を要していた。
周りを取り巻くそれらは、段々と色濃くなっていくのが痛いほど分かる。気を抜けばそのまま持っていかれそうになる感覚は、魔法が、人間を無理やり何処かへ連れていくかのようなそれによく似ている。いっそ、このまま身を任せてしまったほうがいいのだろうか?そんな馬鹿らしい思考を払拭するかのように、誰かが本にそっと手をかけた。
「館長……」
僕の声が届いているのかいないのか、館長は僕を見ることはしない。恐らく集中しているのだろう手には力が籠っているように感じる。それが何を意味しているのか、僕はすぐに理解することが出来た。だってそれは、あの時とまるで同じだったから。
本の上に置かれた館長の手からは、少しずつ魔法が溢れてくる。館長自信を取り巻く程に大きくなったそれは、いつしか本から溢れてくるものだけではなく、僕をも取り巻いていった。そして、その力を大きくさせたていったのは、館長のほうだ。力比べで負たかのように、本は風に任せてパラパラと音を立ててページが捲れる。そして、本自身が意思を持っているようにして、自ら背表紙までたどり着き、本は閉じられる。まるで、何事も無かったかのように、取り巻いていた魔法は収束していった。
それと同時に、館長から放たれていた魔法は静かに消えていく。この一連の流れは、最初から既に決まっていたかのようで。僕は、ただ見ていることしか出来なかった。
「はぁ……」
静まり返る図書館に響いたのは、館長が吐いた息だけだった。
今にも崩れ落ちそうな身体をテーブルで支える姿に、言葉をかけることが出来ずにいると、先に口を開いたのは館長の方だ。
「困ったな……」
その館長の言葉が、どれ程重い言葉であるのか。だけど、それよりも。そんなことよりも。
「……まあ取りあえず、これは預かっておくよ。理由は分かるね?」
「あ、はい……。それより館長……」
「……何?」
館長に魔法を使わせてしまったことのほうが、僕にとっては重要だった。だからこそ、僕はかける言葉が思い浮かばなくて。
「……いえ」
そして、結局何も言えないまま沈黙だけが訪れた。
「……きみは引き続き図書館の準備でもしていなさい。いつものように、ね?」
だから、そんな顔をする必要はないんだよ。なんて言いながら、館長は左手を僕の頭に置く。小さな声でポツリと溢れるのは、まるであの時のことを総称する言葉のように聞こえてしまう。その言葉を、どうして館長は寂しそうな顔で言うんですか。なんて、分かりきっているから口にはしないけれど。例の本を手にして去っていく館長の後ろ姿が、全てを物語っているように見えた。
それを眺めることしか出来ない僕は、どうしてこんなにも無力なのだろうか。なんて、自分を責め続けることしか出来なかった。
◇
本を探してくる。そうやって、ルエード君らの元を後にした僕が向かった場所は、本棚が敷き詰められた何処かの場所ではなく、扉で隔てられた向こう側。恐らく、図書館の関係者以外が入ることなんて、まずないであろう場所。廊下を足早に歩くのは、決して急いでいるからではない。
嫌な予感というのは、どうしてかよく当たってしまうものだから、これもきっとそのせいなのだろう。さっきはルエード君に少々怪しまれてしまったかも知れない。だけれど、今はそんなことなんてわりとどうでもいい。とにかく、僕は確かめたくて仕方がなかったのだ。僕ですら分かった、あの何処か異様な気配を、あの人が見過ごすなんて思えない。あるはずがない。その異様な気配というものが一体何を意味するのか。僕は確かめなくてはならないのだ。
目の前に立ち塞がる扉を前に、緊迫感に押し潰されそうな気分になるが、少し荒くなってしまった呼吸をゆっくりと整え落ち着かせる。ノックをする為に上げた右手が、若干躊躇したのが分かる。でも、そんなのは関係ないと自らに言い聞かせるかのように、扉を叩く音を廊下に響かせた。
「……失礼します」
返事を待たずにガチャリと乱雑な音が響いたのは、会わなければならない人がいるであろう部屋の扉。僕が訪れたのは、ここの図書館の館長であるクレイヴさんの元だ。出来るだけ会わないようにと思っていたから、こんなタイミングで訪れることになるとは思っていなかったけど、そんなことはもうどうでもよかった。
定位置のイスに座り、頬杖をついているような体勢でいたクレイヴさんは、扉が開いたことに気づいたのか、顔を上げる。見据えた先に居たのが僕だと分かるや否や、どことなく張り詰めた空気が放たれ始めたのが、嫌なほど伝わってきた。
「……ああ、きみか。こんなところにまで来るなんて珍しいね」
何処かダルそうに答えるクレイヴさんは、いつものそれとよく似ているが、今日は、どちらかというと疲れているという方が正しいような気がする。少し威圧的なそれを跳ね返すように、僕はひと呼吸おいて口を開いた。
「その……。ルエード君から微かに魔法の気配がしたのは、どうしてかなって思ったので」
「へえ……きみ、今もちゃんと分かるんだね?」
「ええ、まあ……。何となく、ですけど」
皮肉めいたその言葉が、重く僕にのし掛かる。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、クレイヴさんは言葉を続けた。
「二、三日前のことだよ。図書館が開く少し前で、しかもノーウェン家のご子息殿とアルセーヌとかいう人まで嗅ぎつけてきて、ホント面倒だったねぇ……」
敢えてノーウェン家のご子息とか、アルセーヌとかいう人とか、そういういう言い方をするのがいかにもこの人らしい。ひょっとして、クレイヴさんが疲れているのはそのせいなのだろうか。いや二、三日前のことだと言っていたから、その可能性はそんなに高くないだろう。それよりも可能性の高いものがあるとするならば、もしかして魔法を使ったのかも知れないということ。あり得ないことではないけど、もう使わないものだと思っていたから、いまいちピンと来ない。
答えの出ない疑問は、僕の思考を一瞬鈍くさせるものの、ここに来た本当の意味を忘れてはいない。聞きたいことは、それではない別のことだ。浮かび上がった疑問を払拭するように、僕は口を開く。
「……クレイヴさんは、これからどうなさるおつもりですか?」
「……どう、とは?」
「彼を、そのまま放っておくんですか?」
その質問の意図が分かったのか、彼はほんの僅かに視線をそらす。僕が聞きたいのは、よく足を運んでいる図書館にいる親しい人物の身に、これから起こるであろうそれについて気にかかっているということも、勿論あるが……。
物思いに更けているような表情をしたのもつかの間。クレイヴさんが僕に向けたその瞳が、僕を射ぬいた。
「……別に、魔法を使えないきみには関係がないことだろう?」
その言葉は、まるで鋭利なもので突き刺されたかのように僕の心に鈍い音を立てる。
やっぱり、というかクレイヴさんは、魔法に関することの話は、いつもこうやって僕を突き放す。仕方のないことだと分かってはいるものの、どうしても頭は理解を拒む。これは、どうやっても埋めることのみ出来ない溝。
僕とサラは……エフォード家は、ある時から魔法を使うことが出来なくなっているのだ。
「……ごもっともですね」
「まあ、彼自体が使いたくないと思っているなら、可能性はそんなに高くないだろうし……」
突き放すかのように頭に響く台詞ではあるものの、次に放たれる言葉は、それらとはほんの少し違うものだった。
「それを何とかするのが、貴族の役目だろう? 別に、それは魔法がなくても出来るじゃないか」
「な、なんて無茶なことを言うんですか……」
「無茶? 昔からだけど、どうしてきみはやってもいないのにそうやって言うのかな」
いやいや、クレイヴさんはそうはやって簡単に言うけれど、実際問題、魔法相手に力を持たない人間がどうこう出来るとは到底思えない。
目の前にいるこの人は、いざとなれば魔法が使えるから。だからそうやって言えるんじゃないだろうか。
「まあ、何とかなるだろう。ルエードだって、魔法が危険であることは知っているはずだ」
「な、なんとかって……なんでそう楽観的なんですか?」
「きみが心配し過ぎなんだよ。気持ちは分かるが、わざわざ部屋にまで押しかけて来なくてたっていいだろう?」
ああもう、やっぱりこうなる。口論、というよりはまるで子供の喧嘩。だから僕は、この人とこういう話はしたくないんだ。
そう思ったとほぼ同時。突然、クレイヴさんが席を立つ。そして、僕のネクタイは彼の手に掴まれた。
「だから、そうやって魔法に憑けこまれるんだよ」
言い放つとその様子に、僕はただただ動揺していた。僕らの間にある机に倒れこんでしまいそうになるのを、自らの手で何とか押し堪えた。
「少しは自分のことも考えなさい。魔法が使えなくなった、というのは、あくまでもそういう風になっているというだけだ。別に、完全に使えなくなったというわけじゃない」
「な、何を言って……」
クレイヴさんの余った左手が、僕のおでこを捉える。
「い、痛っ……!」
おでこに衝撃が走る。この歳になって、まさかデコピンされるとは思ってなかった。
「まさか、この私が気付かないとでも思ったか?」
クレイヴさんの瞳は、完全に怒っている。
一瞬、何に対して怒っているのかが理解出来なかったが、いや、そういえば僕は、会えばこの指摘をされるだろうというのが分かっていたから、出来るだけ会わないようにしていたんだった。
表情が、次第に苦悩に満ちていくのが、僕の目に映る。
「……きみ達まで失ってしまっては、私は生きている意味がなくなってしまうよ」
静かに落ちていく言葉が、酷く痛々しく聞こえた。
「わ、分かりましたっ……! 分かりましたから! あの、近い……」
言い終わると、ネクタイから右手が離れていく。
それらの言葉は、僕自身よく理解している。分かってはいる。でも、今の僕には耳に入ることはなく、ただただ耳障りだった。
ああもう、腹が立つ。それは、目の前にいる彼に対するものでは決してなく、何か別のものに対する苛立ち。なんだこの言い様のない感情は?こんな思いをしなければならないのなら……。
いっそあの時、何もかもが無くなれば良かったのか?
口から出そうになる言葉を押し殺すかのように、僕は自身の手を強く握りつぶしている。思考をすることを止めたかのような唐突に起こるこの言動は、まさしく『魔法に憑かれた時』のそれだった。
「……はい。……じゃあ、今日から一週間なので」
今日は、図書館にとっては休みの次の日に当たる為、平日に比べれば多少なりとも人が来るというものだ。図書館というのは、基本的に静かであるのが当たり前だけれど、ここの図書館は、出入り口や受付の近くだとわりと騒がしい。あくまでも、図書館にしてはだけれど。
「こんにちはーっ」
そんな騒がしい空間のあいだを潜り抜けるように、元気な声が僕にむけて放たれる。この声は、いつもと同じあの人。振り向く必要もないくらいに聞き覚えのある声。分かっているにも関わらず、反射的に振り向いてしまうのが、最早当たり前になってしまった。そして、彼女と一緒に必ず訪れるのは、よく知っているもうひとりの人物だ。
「……やあ」
「どうも……」
受付のカウンターを挟んで現れたふたり。普通なら、僕のようなのが相容れる存在ではない人達。つまりは貴族である。まあ、貴族だからといって対応が変わるとか、そういうことは無いけれど。いつも疑問に思うのは、どうして、貴族がわざわざ図書館で本を借りるのかということである。本が買えないなんてことはまずないだろうし、ごく普通のただの町の図書館なんかに来て、一体何が楽しいのだろうか。館長に会いに来たという訳でもなく、この人たちは本当に本を読みに来ているだけのようで、それが、余計僕の目には不思議に映ってしまう。
ただ、この人達とはわりと昔からの知り合いではあるから、その辺りに関しては、そういうものなのだろうという、さながら適当な理由をつけて終わりにしているけど。
「先週の、返しに来ましたあ」
そう言いながら、サラさんはガソゴソと音を立てて可愛らしい鞄から本を取り出す。それは、先週僕がたまたまこの受付で読んでいたもの。
「どうでした? その本」
「えーっと……。凄く面白かったです! 星と神話の繋がりとか、諸説あるところとか……。それと、自分の星座のこと、もう少し知りたくなっちゃいました!」
「僕も、気になってあれ以来、星関連の本ばかり読んでますね」
本を返しに来るたびに行われる、このやりとり。僕が読んでいた本をサラさんが借りて、返すときに彼女から感想を聞く。聞くというか、自然とそういう流れになる。これを、いつもなら隣にいるランベルトさんが茶化しに話に入ってくるのが、何というかお決まりなのだけれど。今日は、どうやらいつもと様子が違うようだった。
「……何か?」
どうしてか、僕のことを複雑な顔をしてじっと見つめているランベルトさんに、わざとらしく問いかける。すると、さっきまで僕が感じたそれを払拭するかのように、いつもとなんら変わらない様子で、僕に言葉を向けた。
「ああいや……。僕には、おすすめの本は教えてはくれないのかと思っただけさ」
「……読む気があるのなら、いくらでもおすすめしますけど」
「そうかい? じゃあ、その時になったらまた聞くとするよ」
本当にそう思っているのかいないのか。それは僕には分からないけど、いつにも増して簡素な言葉を口にしているような気がした。
「……サラ、僕は本を見に行ってくるね」
「あ、はいっ」
ランベルトさんはいつもサラさんと一緒に来るけど、特別本を読みにくるわけでもなく、僕らの見える範囲でぼーっとしていることが多い。一応、本を持ってはくるけど、あれは恐らくただ眺めているだけだと思う。
いつものように、早々にこの場を後にするランベルトさんの後ろ姿を見ながら、僕は考えてしまう。さっき感じた、ランベルトさんの妙な視線。それが僕の思い違いならいいのだけれど、そうではないと断言が出来る。何故なら、僕には心当たりがあるからだ。
心当たりはあるのだけれど……。
「あの……」
「はい?」
当たり前のように、受付のすぐ側にある椅子へと座るサラさんに、疑問を感じざるを得なかった。
「どうして、いつも受付の側で読むんですか?」
「駄目ですか?」
「駄目ではないんですけど……」
「も、もしかしてお邪魔だったり……?」
しょんぼりとした様子を見せる彼女に、僕は戸惑いを隠せない。そ、そんな顔をさせるような質問を僕はしてしまっただろうか?
「あ、いや……邪魔ではないです。ただ疑問に思っただけなので」
「本当ですか? よかったぁ」
一体なにがよかったのだろうという疑問は残るが、僕はこれ以上の詮索はしない。この人は、いつもとなにも変わらないのだから。それだけのことなのに、妙な満足感があった。
「あの……」
「あ、はい。何でしょう?」
「今日は、何の本読んでるんですか?」
「月の満ち欠けの本ですね。星の本では無いですけど……」
「へぇー……あ、じゃあ帰るときに借りて帰ってもいいですか?」
「まあ、ご自由に……」
このやり取りだって、僕の読んでいる本が違うくらいで、いつもの会話とほぼ同じ。僕が受付にいて、すぐ側にサラさんがいる。本を探してくると言って何処かに行ってしまったランベルトさんのことだって、本当に僕の思い違いだった可能性だって十分にある。……というより、変わったのは僕のほうというか。余り知られたくないことというか、それなりに疚しいことがあったからで。だから、いやに人目が気になるというか、寧ろいつものように話しかけてくるそれに、疑念を抱いてしまうというか。
とにかく僕は、とても落ち着かない気分に苛まれている。
そう思ってしまう出来事が起きたのは、ほんの数日ほど前のこと。僕はいつものように図書館で手伝いをしている……はずだった。
◇
「めんどうだな……」
「まだ開館すらしてませんが」
図書館の開館前というのは、いつもどことなく気怠い空気が流れている。それというのも、大体このやる気のない館長のせいだろう。
図書館というのは、どうも開館時間が早く設定されているが、ここの開館時間は十時~十八時までと、比較的緩やかな勤務体制となっている。それというのも、館長曰く「今時図書館なんて、早く開けて遅くまでやるメリットがないでしょ?」とのことらしいが、本当のところは、館長が朝早くから仕事をしたくないだけなのだろうと勝手に思っている。まあ、早くから開けたところで、片手で数えられるくらいの人数しか来ないのは分かってるから、館長の言うことも分からなくはない。と言っても、昔からこの時間でやっているから、ちゃんとした理由があるのだろうけど。
それでも、準備もあり三十分前には集まる必要があるため、9時には来ていないといけない訳だけれど。
「はいこれ、二階の本。適当なところに入れといて」
ドサッと音を立てて僕の両腕へと放り出されたのは、少し大きめの専門書が数冊。二階には、一般人が余り触れることのないような専門書が多く、貸し出しの頻度自体は余り多くは無いのだが、読まれていく間に、どうしてか一階の本棚に紛れ込んでしまう時があるため、恐らく、それらを然るべきところに戻して来いということなのだろう。
六、七冊ほど積み重なって重くなったそれらをしっかりと持って、二階へと続く階段を進む。もう気にも留めないくらいには何度も持っているはずなのに、どうしてか、いつもよりずしりと乗しかかるのを感じる。その原因は、恐らく何故か一般書に紛れてしまった大きめの図鑑が三冊もあったからだろう。
本棚に入っている書物と手元にある本をを確認し、然るべき場所へと戻していく。必要であれば設置されている脚立を使い、ひとつ、またひとつと手持ちを少なくしていく。次に僕が手にしたのは、星座に関する神話が、星の写真と共に載っている本。天体もののエリアはどの辺りだっただろうか。思考を巡らせて、それらしい場所の本棚を視界に入れると、一冊のとある本が、僕の目に飛び込んできた。
特別、何か変わっているところがあるわけでは無いのだけれど、どうしてか気になってしまった。本が呼んでいるとでも言えば良いだろうか。こういうことは特別珍しいことではないし、僕はいつものように、本棚からそれを取り出す。表紙を見ると、本来そこにあるはずのものが書かれていないことに気付く。
「これは……?」
デザインこそはされているものの、あるはずのタイトルが何処にも書かれていない。それが、なぜだか僕を酷く不安にさせる。不審に思いながらも、感情を押し殺すようにして恐る恐る表紙をめくった。そこに存在していたのは、真っ白な空間が続くだけのただの紙と鬱陶しい程にうるさく響く、魔法の呻き声だった。
何かが僕の周りを蠢く。それが何なのかというのを、僕は嫌になるほど知っている。それでも、頭は理解するのを拒んでいた。だから、それが魔法だと気付くのに、ほんの少しの時間を要していた。
周りを取り巻くそれらは、段々と色濃くなっていくのが痛いほど分かる。気を抜けばそのまま持っていかれそうになる感覚は、魔法が、人間を無理やり何処かへ連れていくかのようなそれによく似ている。いっそ、このまま身を任せてしまったほうがいいのだろうか?そんな馬鹿らしい思考を払拭するかのように、誰かが本にそっと手をかけた。
「館長……」
僕の声が届いているのかいないのか、館長は僕を見ることはしない。恐らく集中しているのだろう手には力が籠っているように感じる。それが何を意味しているのか、僕はすぐに理解することが出来た。だってそれは、あの時とまるで同じだったから。
本の上に置かれた館長の手からは、少しずつ魔法が溢れてくる。館長自信を取り巻く程に大きくなったそれは、いつしか本から溢れてくるものだけではなく、僕をも取り巻いていった。そして、その力を大きくさせたていったのは、館長のほうだ。力比べで負たかのように、本は風に任せてパラパラと音を立ててページが捲れる。そして、本自身が意思を持っているようにして、自ら背表紙までたどり着き、本は閉じられる。まるで、何事も無かったかのように、取り巻いていた魔法は収束していった。
それと同時に、館長から放たれていた魔法は静かに消えていく。この一連の流れは、最初から既に決まっていたかのようで。僕は、ただ見ていることしか出来なかった。
「はぁ……」
静まり返る図書館に響いたのは、館長が吐いた息だけだった。
今にも崩れ落ちそうな身体をテーブルで支える姿に、言葉をかけることが出来ずにいると、先に口を開いたのは館長の方だ。
「困ったな……」
その館長の言葉が、どれ程重い言葉であるのか。だけど、それよりも。そんなことよりも。
「……まあ取りあえず、これは預かっておくよ。理由は分かるね?」
「あ、はい……。それより館長……」
「……何?」
館長に魔法を使わせてしまったことのほうが、僕にとっては重要だった。だからこそ、僕はかける言葉が思い浮かばなくて。
「……いえ」
そして、結局何も言えないまま沈黙だけが訪れた。
「……きみは引き続き図書館の準備でもしていなさい。いつものように、ね?」
だから、そんな顔をする必要はないんだよ。なんて言いながら、館長は左手を僕の頭に置く。小さな声でポツリと溢れるのは、まるであの時のことを総称する言葉のように聞こえてしまう。その言葉を、どうして館長は寂しそうな顔で言うんですか。なんて、分かりきっているから口にはしないけれど。例の本を手にして去っていく館長の後ろ姿が、全てを物語っているように見えた。
それを眺めることしか出来ない僕は、どうしてこんなにも無力なのだろうか。なんて、自分を責め続けることしか出来なかった。
◇
本を探してくる。そうやって、ルエード君らの元を後にした僕が向かった場所は、本棚が敷き詰められた何処かの場所ではなく、扉で隔てられた向こう側。恐らく、図書館の関係者以外が入ることなんて、まずないであろう場所。廊下を足早に歩くのは、決して急いでいるからではない。
嫌な予感というのは、どうしてかよく当たってしまうものだから、これもきっとそのせいなのだろう。さっきはルエード君に少々怪しまれてしまったかも知れない。だけれど、今はそんなことなんてわりとどうでもいい。とにかく、僕は確かめたくて仕方がなかったのだ。僕ですら分かった、あの何処か異様な気配を、あの人が見過ごすなんて思えない。あるはずがない。その異様な気配というものが一体何を意味するのか。僕は確かめなくてはならないのだ。
目の前に立ち塞がる扉を前に、緊迫感に押し潰されそうな気分になるが、少し荒くなってしまった呼吸をゆっくりと整え落ち着かせる。ノックをする為に上げた右手が、若干躊躇したのが分かる。でも、そんなのは関係ないと自らに言い聞かせるかのように、扉を叩く音を廊下に響かせた。
「……失礼します」
返事を待たずにガチャリと乱雑な音が響いたのは、会わなければならない人がいるであろう部屋の扉。僕が訪れたのは、ここの図書館の館長であるクレイヴさんの元だ。出来るだけ会わないようにと思っていたから、こんなタイミングで訪れることになるとは思っていなかったけど、そんなことはもうどうでもよかった。
定位置のイスに座り、頬杖をついているような体勢でいたクレイヴさんは、扉が開いたことに気づいたのか、顔を上げる。見据えた先に居たのが僕だと分かるや否や、どことなく張り詰めた空気が放たれ始めたのが、嫌なほど伝わってきた。
「……ああ、きみか。こんなところにまで来るなんて珍しいね」
何処かダルそうに答えるクレイヴさんは、いつものそれとよく似ているが、今日は、どちらかというと疲れているという方が正しいような気がする。少し威圧的なそれを跳ね返すように、僕はひと呼吸おいて口を開いた。
「その……。ルエード君から微かに魔法の気配がしたのは、どうしてかなって思ったので」
「へえ……きみ、今もちゃんと分かるんだね?」
「ええ、まあ……。何となく、ですけど」
皮肉めいたその言葉が、重く僕にのし掛かる。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、クレイヴさんは言葉を続けた。
「二、三日前のことだよ。図書館が開く少し前で、しかもノーウェン家のご子息殿とアルセーヌとかいう人まで嗅ぎつけてきて、ホント面倒だったねぇ……」
敢えてノーウェン家のご子息とか、アルセーヌとかいう人とか、そういういう言い方をするのがいかにもこの人らしい。ひょっとして、クレイヴさんが疲れているのはそのせいなのだろうか。いや二、三日前のことだと言っていたから、その可能性はそんなに高くないだろう。それよりも可能性の高いものがあるとするならば、もしかして魔法を使ったのかも知れないということ。あり得ないことではないけど、もう使わないものだと思っていたから、いまいちピンと来ない。
答えの出ない疑問は、僕の思考を一瞬鈍くさせるものの、ここに来た本当の意味を忘れてはいない。聞きたいことは、それではない別のことだ。浮かび上がった疑問を払拭するように、僕は口を開く。
「……クレイヴさんは、これからどうなさるおつもりですか?」
「……どう、とは?」
「彼を、そのまま放っておくんですか?」
その質問の意図が分かったのか、彼はほんの僅かに視線をそらす。僕が聞きたいのは、よく足を運んでいる図書館にいる親しい人物の身に、これから起こるであろうそれについて気にかかっているということも、勿論あるが……。
物思いに更けているような表情をしたのもつかの間。クレイヴさんが僕に向けたその瞳が、僕を射ぬいた。
「……別に、魔法を使えないきみには関係がないことだろう?」
その言葉は、まるで鋭利なもので突き刺されたかのように僕の心に鈍い音を立てる。
やっぱり、というかクレイヴさんは、魔法に関することの話は、いつもこうやって僕を突き放す。仕方のないことだと分かってはいるものの、どうしても頭は理解を拒む。これは、どうやっても埋めることのみ出来ない溝。
僕とサラは……エフォード家は、ある時から魔法を使うことが出来なくなっているのだ。
「……ごもっともですね」
「まあ、彼自体が使いたくないと思っているなら、可能性はそんなに高くないだろうし……」
突き放すかのように頭に響く台詞ではあるものの、次に放たれる言葉は、それらとはほんの少し違うものだった。
「それを何とかするのが、貴族の役目だろう? 別に、それは魔法がなくても出来るじゃないか」
「な、なんて無茶なことを言うんですか……」
「無茶? 昔からだけど、どうしてきみはやってもいないのにそうやって言うのかな」
いやいや、クレイヴさんはそうはやって簡単に言うけれど、実際問題、魔法相手に力を持たない人間がどうこう出来るとは到底思えない。
目の前にいるこの人は、いざとなれば魔法が使えるから。だからそうやって言えるんじゃないだろうか。
「まあ、何とかなるだろう。ルエードだって、魔法が危険であることは知っているはずだ」
「な、なんとかって……なんでそう楽観的なんですか?」
「きみが心配し過ぎなんだよ。気持ちは分かるが、わざわざ部屋にまで押しかけて来なくてたっていいだろう?」
ああもう、やっぱりこうなる。口論、というよりはまるで子供の喧嘩。だから僕は、この人とこういう話はしたくないんだ。
そう思ったとほぼ同時。突然、クレイヴさんが席を立つ。そして、僕のネクタイは彼の手に掴まれた。
「だから、そうやって魔法に憑けこまれるんだよ」
言い放つとその様子に、僕はただただ動揺していた。僕らの間にある机に倒れこんでしまいそうになるのを、自らの手で何とか押し堪えた。
「少しは自分のことも考えなさい。魔法が使えなくなった、というのは、あくまでもそういう風になっているというだけだ。別に、完全に使えなくなったというわけじゃない」
「な、何を言って……」
クレイヴさんの余った左手が、僕のおでこを捉える。
「い、痛っ……!」
おでこに衝撃が走る。この歳になって、まさかデコピンされるとは思ってなかった。
「まさか、この私が気付かないとでも思ったか?」
クレイヴさんの瞳は、完全に怒っている。
一瞬、何に対して怒っているのかが理解出来なかったが、いや、そういえば僕は、会えばこの指摘をされるだろうというのが分かっていたから、出来るだけ会わないようにしていたんだった。
表情が、次第に苦悩に満ちていくのが、僕の目に映る。
「……きみ達まで失ってしまっては、私は生きている意味がなくなってしまうよ」
静かに落ちていく言葉が、酷く痛々しく聞こえた。
「わ、分かりましたっ……! 分かりましたから! あの、近い……」
言い終わると、ネクタイから右手が離れていく。
それらの言葉は、僕自身よく理解している。分かってはいる。でも、今の僕には耳に入ることはなく、ただただ耳障りだった。
ああもう、腹が立つ。それは、目の前にいる彼に対するものでは決してなく、何か別のものに対する苛立ち。なんだこの言い様のない感情は?こんな思いをしなければならないのなら……。
いっそあの時、何もかもが無くなれば良かったのか?
口から出そうになる言葉を押し殺すかのように、僕は自身の手を強く握りつぶしている。思考をすることを止めたかのような唐突に起こるこの言動は、まさしく『魔法に憑かれた時』のそれだった。