「今日も静かだな……」
ひとりしかいないのに言葉を溢してしまうのは、寂しいからとかそういうことではなく、きっと誰もいないからこそなのだろう。その言葉は、誰にも認知されることなく消えてしまう。頬に優しく当たる風が、唯一の喧騒にすら聞こえてしまう程、静寂に溢れたこの場所で、私はただひとり、庭でお茶を嗜んでいた。
木漏れ日が舞うのは天気がいい証拠でもあるが、この場所にとっては、ひとりしかいないということへの当て付けのように感じてしまう。白いテーブルに置かれているのは、ティーポットと四つのカップ。それに、淡くも優しい味のする沢山のクッキーだ。ひとりしかいないのに、どうしてこんなに量が多いのか。そう思っていたことは何度もあったが、いつしかこの量にも何も思わなくなってしまっていた。だけど、数日前にこの家に訪れた、とあるひとりの訪問者か発した言葉によって、考えざるを得なくなってしまっている。
『いや、何て言うか……。ティーカップの数多いなあと思って』
やはり、言われるとどうにも気になってしまう。いや違うな。そんなこと、最初から分かっていたことじゃないか。この家はおかしい。そして、そんな家に平然と『生きている』私もまた、おかしいということなんて。
未練というものは、何処までも付きまとう。このテーブルに置かれたもの全てが、もっと言うなら、この家自体が、きっとそれに当てはまるのだろう。だから私は、魔法に呑まれた今もここに留まってしまっているのかも知れない。平たく言うのなら、幽霊という言葉が一番近いだろう。ただ、それとは明らかに違う部分がある。
廃れることもない、現実とは少しかけ離れた場所。魔法の作用なのかなんなのか、一部を除いて全てがあの時のままなのだ。でも、だ。こうやって留まっていたところで、一体なんだと言うんだ? もう戻らない過去に縋ってどうなるんだ? そうやって、私は私に問いかける。もう数え切れないくらいに自問自答したことだが、答えはどんなに探しても見つからない。ここ最近は、最早そんなことなんて考えもしなくなっていたが、彼がここに姿を現してしまったことによって、その疑問は沸々と湧き上がってしまっていた。だからと言って、彼は決して何も悪くない。そう、悪くなんてないのだ。
その結論が、私の中の何かが五月蝿く呻きを上げる。それが少しずつ私を侵食していくのが、手に取るように分かった。いっそのこと、私のよく知るそれに全てを委ねてしまいたくなる。でも、それじゃ駄目なことなんて、痛いほど分かっている。身を任せてしまえば、本当に……。戻れなく、なってしまう?
私は何を言っているのだろうか? だってもう、後戻りなんて出来ないのだろう?
ああそうだ。もう何も戻らないなら、そんなのどう足掻いても同じじゃないか。もう全部壊れたんだ。それならいっそ、また壊してしまえばいい。じわじわと、そんな思考に囚われていく。でも、だ。そもそもこうなったのは一体何故だ? どうしてこうなった?どうしてこんなにもそれらに執着しているんだ? こんなことになったのは、紛れもなく私のせいだというのに。
五月蠅く響く、何かが割れる音。それは酷く騒がしく、自身の耳をつんざいていく。いつしか、テーブルに置かれたそれらものなんて、全て地面に叩きつけられていた。そして私はこう思う。「ああ、粉々に割れたそれらは、まるで私の壊れた心のようで滑稽じゃないか」と。
私はとても不思議でならない。どうして彼は、この場所に足を踏み入れてしまったのか。どうしてまた、私の目の前に現れてしまったのか。だって、彼にとってのここは……。そう、そうなのだ。彼は、ここに来てはいけない。来るべきではない。
「頼むから、もう、来ないで……くれ……?」
口にした言葉に、疑問が残る。
違う。違う違う違う。何を言っているんだ私は。だって、彼を……シント君を呼んだのは、紛れもなくこの私じゃないのか?
「はは、困ったな……」
乾いた笑いが地面に落ちる。それは、諦めと後悔。そして、全てを終らせたい衝動によるものだった。
止めろ、止めてくれ。
頼むから、私を取り巻く全てのもので、これ以上私を壊さないでくれ。
◇
酷く面倒な日というのは、前々から分かっていて、仕方なく心の準備をしなければならない時もあるが、ある日突然やってくる時だってある。今日は、どちらかと言うと後者の方だ。
正直とても行きたくない。そもそも行く必要があるのかとも思う。でも、どんなに行きたくなくたって、時間は無情にも進んでいくというもの。そして唯一分かっているのは、行かないと余計面倒なことになりそうだということだけである。
「あ、ローザおばさん……」
「ん? なあに?」
「えっと……ちょっと人と会う約束してて、今から少し抜けてもいい?」
「いいけど……珍しいね、シントくんから言ってくるなんて。お友だち?」
「友……まあ、うん」
友達だったら、どんなに良かっただろう。そもそも、友達と呼べるような人なんていないし、バレたら確実に心配されてしまう。だけど、「今から貴族の人に会いに行ってきます」なんて絶対に言えない。そんなこと言ったら、余計ややこしくなるのは目に見えている。
「……じゃあ、行ってくるね」
「気をつけてね。いってらっしゃい」
「うん」
おばさんを背に部屋を出て、靴売り場まで足を運ぶ。今日はおじさんとレノン。そしてセリシアがカウンターに集まっているようだった。
「お父さん黄緑でずきん塗るの? 何かダサいよ」
「いいんだよこれで。塗り絵なんてなー、目についた色を適当に置いてけばそれなりになるんだよ。……ってか、お前こそほぼ紺しか使ってねーじゃん?」
「暗闇の中を歩く赤ずきんだから、これでいいのー」
「お前それ、塗り絵の遊び方間違ってるぞ……」
オレは、三人の後ろから顔を覗かせる。どうやら三人で塗り絵をしてるようだ。多分セリシアに合わせてやってるんだろうけど、おじさんとレノンはかなり独創的な塗り方をしている。その反面、セリシアはやっぱり女の子らしくいろんな色を使っていた。多分だけど、おばさんが同じ塗り絵をやったら、綺麗に塗るんだろうな。セリシアが塗ったやつを見ていると、なんとなくそう思う。
「あ、お兄ちゃんも塗り絵やる?」
「いや、今から出掛けるから、また今度ね」
「そっかあ……いってらっしゃーい」
レノンと一緒に、セリシアとおじさんまで手を振ってくれる。オレはそれに答えながらも、出入り口の扉に手をかける。扉を開けた時に鳴るベルの音なんて、今のオレには聞く余裕すら無かった。
時間にはそれなりに余裕をもって出てきたはずだし、市場ではなく、図書館側の道へと足を運ぶ。広場に行くなら、市場を通るのが一番近い。だけど、今日はなんだかあのざわざわしている場所には余り行く気がしない。まあ遠回りと言っても、ほんの少し迂回するだけだし、何より、あそこを通れば絶対エトガーに捕まってしまう。いつもなら別に構わないんだけど、今日は誰かと世間話をする気分にはどうしてもなれなかった。
図書館側の道はお店こそはあるものの、市場に比べると落ち着いている印象がある。ここは普段そんなに通らないから、何となく新鮮な気持ではあるけれど、出来ればもう少し落ち着いた気分で通りたかった。
オレは、図書館に入っていく誰かの後姿を目の隅に写しながら進む。そういえば、今日は金曜日。確か図書館って木曜日が休みだったから、今日はいつもより混んでたりするのだろうか。あの時は、結局何も借りないで帰ってきちゃったし、今度はレノン達と行ってみるのもいいかも知れない。一緒に行ってくれるなら、だけど。
図書館を通り過ぎ少し進むと、二手に分かれた道に差し掛かる。左側の道から微かに見えるのは、広場にある噴水だ。少し行くのを躊躇っている自分もいるが、ここまで来ておいて行かないという選択肢を選ぶのは、流石に自分でもどうかと思うし、重い足を無理矢理動かして広場へと向かった。取りあえず、目印である噴水近くまで向かうと、人混みの中に紛れて見たことのある人物が辺りを見回している。その人は、オレの姿を見つけると一目散に駆け寄ってきた。
「ああ良かった。来ないんじゃないかって、少し心配してたんだ」
この人は、今日オレを呼び出したアルセーヌ本人ではなく、図書館で何故かエトガーと仲良くなっていたもうひとりの貴族の人。……名前なんだっけな。……ああもう、面倒だからそれは後でいいや。
「まあ、行かない方がややこしくなるだけだし……」
「な、何かごめんね……。ああでも、別にきみをどうこうしようって訳じゃないから」
「うん……」
多分、この人の言ってることは本当なのだろう。何となくだけど、そんな気がする。
「じゃあ行こうか。アルセーヌさんの家、あっちだから」
促されるまま、その人の後をついていく。一応、ここからアルセーヌまでの道のりとか覚えておいた方がいいのかな。多分すぐ忘れるけど。
そんなことをボンヤリ考えながら、オレたちは広場を後する。来る前に何度も心配していたあの時の出来事は、どうしてか気にも留めなかった。
◇
特に何かを話す訳でもなく沈黙が続く。これといって話すこともないけれど、この何とも言えない静かな空気を先に破ったのは、紛れもなくオレだった。
「……あのさあ」
「ん?」
「オレってなんで呼ばれたの?」
他にも聞かないといけないことはあるようか気がするけど、今オレが一番気になっているのはそれだ。まあ、この人に呼ばれた訳じゃないから、聞いてもどうにもならないけど。
「えーっと……僕も、詳しいことは聞いてないんだ。聞いてもはぐらかされちゃうし」
「ふーん……」
「ああでも、別に君に何かしようってわけじゃないと思うから、うん」
「いや、疑ってるわけじゃないけど……」
「……多分だけど、聞きたいことは、路地裏の話じゃないと思うんだ」
「え?」
「まあでも、これはただの推測だから。やっぱりアルセーヌさんに聞かないとね」
やっぱり、何となく予想はついていたけど、この人もアルセーヌから詳しいことは聞いていないようだ。でも、路地裏で起きたことの話ではないというのは、一体どういうことだろう?
それにしても、なんというかこの人はアルセーヌに比べると貴族って感じが余りしない。いや、見た目とか喋り方がどうとかいう訳ではないんだけど。雰囲気とでも言えばいいのだろうか。貴族の、というかオレの基準がアルセーヌとあのブレスレットを押し付けてきた人だからかも知れないけど、そのふたりと比べてしまうと、明らかに何かが違う気がする。多分、比較的喋りやすいというのが、それに当てはまるのかも知れない。
「あ、ここだよ。アルセーヌさんの家」
目の前にそびえ立つのは、わりと普通の一軒家。貴族の家と言うには、そんなに大きくはないように見えるというか、大きめの一軒家といった感じだろうか。それでも、市民からすれば余り縁のない大きさだけど。
呼び鈴が家の中で響く音がする。ほんの少しすると、それはドアが開く音へと切り替わった。
「はい……あ、お待ちしてました」
出てきたのは、アルセーヌではなく女の人。一瞬メイドさんかと思ったけど、特別そういう格好をしているわけでもないから、何だかとても不思議な気分に見舞われる。妹、にしては歳が離れているような気がするし……。いや、まさかね?
「お、お邪魔しまーす……」
少しだけ長い廊下を、女の人を先頭に歩く。一番後ろで歩くオレは、はじめて入る貴族の家を前に、そわそわせずにはいられなかった。この家が、貴族にとってどれくらいの大きさなのかは分からないけど、外見でも分かったように、貴族の家にしては普通の気はする。
廊下の奥。リビングという言葉が一番しっくりくる部屋に足を踏み入れる。そこには、オレをこの家に呼んだ張本人、アルセーヌが椅子に座っていた。アルセーヌは、オレを視界の隅に入れると、手にしていたティーカップを置く。そして、ふわりと優しい笑顔をオレに向けた。
「やあ、待っていたよ」
ガタ……と、少し音を立てながら席を立つその人は、決してオレから目を離すことをしない。何だか、話す前から全てを知られてしまっているかのような、そんな気分になってしまう。
「さて、改めて自己紹介でもしようじゃないか」
オレとの距離を少し詰め、目の前に立つその人を改めて見つめる。こうやって見ると、やっぱりこの人からは謎の威圧感を感じるというか、何となく話しづらさというものを感じる。……やっぱり貴族は余り好きではないと、改めて思ってしまうほどに。
「私はアルセーヌ・ルヴィエ。この家の主であり、世間で言うところの貴族だ。今日は、わざわざここまで足を運んでくれて、感謝しているよ」
「あ、どうも……」
こうやって、改めて自己紹介をされた時の作法?なんてものをオレは知らないから、こう丁寧に自己紹介をされても、気の抜けた返事しかすることしか出来ない。流石に、もうちょっと言いようはあった気もするけど、そんな余裕は無いに等しかった。
「そして彼は、同じく貴族のアルベル・ノーウェン君だよ」
「えーっと……よ、宜しくね」
ああ、そうだ。この人、ここまで一緒に来た人はアルベルって名前だった。完全に忘れていた。
[それと、彼女はリア君と言ってね。色々とあって、この家に住んでいるんだが……。簡単に言うなら、居候というのが適切かな?]
「で、出来ればお手伝いとかにしておいて欲しいんですけど……。その、宜しくお願いしますね」
アルセーヌは、チラリとオレに目線を向ける。ほんの少しだけ訪れた沈黙なんて、すぐに立ち消えた。
「……で、キミの名前は?」
「え、ああ……シント・クランディオだよ」
「そうか。ではシント君、今日は宜しく頼むよ。余り堅苦しいのは好きではないから、出来るだけ気楽に頼むよ」
気楽に、と言われてもだ。そんなことを言われたところで、そう簡単に出来るものでもない。それ以前に、今日は気楽に出来るような状態で呼ばれた訳でもないから、そう言われるととても困る。
「さて……挨拶も済んだところだし、好きに座ってくれたまえ。ああリア君、適当に頼んだよ」
「あ、はい」
リアは、どうやらお茶を用意してくれるらしく、ティーポットを手に、忙しなく準備をはじめる。オレは促されるまま、適当な椅子に座った。オレの左横にはアルベルが。そして、テーブルを挟んで目の前にアルセーヌが座る。経験したことはないけど、なんか面接のようだ。
紅茶の匂いが少しずつ色濃くなってくるのは、お茶の準備がそろそろ終わるという証拠だ。リアは、手慣れた様子で手にポットの中に入っているそれを、カップに移していく。赤茶のそれがゆらゆらと波打つのを、オレはただただ眺めていた。全員のカップに入れ終わると、ティーポットはテーブルの中央付近に置かれる。リアは、少し言いづらそうに言葉を発した。
「あのー……じゃあ、私はこれで」
「待ちたまえよ。リア君、キミも同席しなさいと私は言わなかったかな?」
「いや、でも……。やっぱりこういうのって、部外者がいたらあんまり良くないんじゃ……」
ちらりと、アルセーヌがリアを視界に入れる。
「う、ううん……。じゃ、じゃあ、お邪魔しますね」
威圧的なそれに、仕方なくといった様子で、リアは椅子に腰掛ける。その様子は、どこか落ち着かない様子だった。
それにしても、だ。テーブルに並べられたティーポッと四つのティーカップ。お皿の上に綺麗に並べられたお菓子達のそれは、いつかに見た光景とよく似ている。ただの偶然だと分かっていても気になってしまうのは、きっと、自分の中で何かが引っかかっているからなのだろう。だからと言って、別にどうもしないけど。
オレは、テーブルに並べられたそれらを壊すようにして、ティーカップを手に取った。
「じゃあ、早速話でもしようじゃないか。……私が、キミに聞きたいことはいくつかあるのだけれど……」
一呼吸おいて、アルセーヌはオレへと目を向ける。笑顔ではあるものの、その鋭い眼光からは決して目を離してはいけないような、そんな錯覚に陥ってしまう。この場の空気は、完全に彼のものになっていた。
「キミはあの日、路地裏で何をしていたんだい?」
これから始まるのは、ただの雑談なんかではない。気楽になんか出来る訳がない。
オレを待ち受けているのは、貴族による尋問なのだ。
◇
さて、一体どうしたものか。
来る前から分かってはいたけど、これはきっと、質問攻めにされる。この人たちに嘘をつくだけなら簡単だけど、今の状況では明らかにオレの方が不利だ。取り巻く空気が、完全に貴族のモノになっているから、嘘をついたとしてもすぐバレる気がする。いや、そもそも嘘をつかなければならないようなことはしてない訳だし、面倒なことになるのなら、素直に言ってしまった方がいいのかも知れない。せめて何をしていたのかくらい考えればよかったと、心底後悔した。
「……キミ、これくらいは聞かれることなんて分かっていただろう?嘘でもいいから、準備くらいしてきたまえよ」
「そ、そうなんだけど……」
「じゃあ質問を変えようか。キミはあの時、路地裏で確か『道に迷った』と言ったね?それは事実と捉えていいかい?」
「あーうん……大体合ってる、気がする」
「大体、ねぇ……」
確かあの時、何となく路地裏に入ったせいでわりと真面目に迷ったから、大体は合ってる。それに、「ブレスレットが光ったから路地裏に入ったら迷いました」なんて言ったところで、正直自分でもよく分かんないし。
「まあ、この際それはどうでもいいんだが……。もうひとつ質問してもいいかな?キミ、魔法は使えるかい?」
「……魔法?」
突然現れたその言葉に、一瞬眉が歪んでしまう。あの時、あの路地裏でブレスレットが光ったのは、一体なんだったのだろう。あの人から貰ってしまったこれは、空中で光が集まって作られたものだ。もしかすると……というか多分、それが魔法というものに当てはまるのかも知れない。だからあの時、何らかの作用によってブレスレットが光ったのだと言われても、特に驚きもしない。
だけど、貴族に「魔法を使えるか?」と聞かれて、素直に答えるような市民はいるのだろうか? その答えは、とても簡単だった。
「……どうだろう」
「ふうん?」
ずっと左手で持っていたカップを、思い出したかのようにソーサーに置く。その時だ。まるで最初からその時を待っていたかのように、アルセーヌは身を乗り出してオレの左手首を捕まえた。
それは、本当に一瞬の出来事だった。
「……じゃあ、この左手に付けているブレスレットから微かに感じる魔法は、一体なんなのだろうね?」
これは完全にやられた。もしかして、あの路地裏で出会った時から、この人は既に気付いていたんじゃないか?そうでなければ、わざわざオレを家に呼ぶだなんて、面倒なことをするだろうか? だとするなら……。特に驚いた様子もなく隣に座ってこの一連の流れを眺めているいるアルベルも、最初から分かっていたのかも知れない。
アルセーヌは、オレから視線を外すことはしない。あくまでも笑顔を保ち、じっと見据えていた。完全に向こうのペースになってしまっていて、正直少々うんざしてしまう。
「も、貰ったんだよ……」
「誰に?」
「……わかんない」
「キミ、誰に貰ったかも分からないようなものを付けて歩いているのかい? 随分と不用心だね」
「い、いや……取りたいんだけど外せなくて……」
そう。そうなのだ。何度か外そうと試みたけど、どうにも外せなかったのだ。それは、決して魔法がどうとかいう話ではない。ただ単に、オレの不器用さが招いただけの問題だった。
「……どうやったら、こんな適当な付け方になるんだい?絡まってるじゃないか」
「いやだって、あの人が無理矢理付けようとするから……」
「はあ……。そういうところは、誰かにそっくりだね」
「そっくり……?」
一体、誰と比べてそう思ったのだろうか。アルセーヌはオレの腕を掴むことを止め、やれやれとでもいった様子で椅子に座り直し、次の質問を提示した。
「まあ、それはそれとして、だ。このブレスレットをくれた人物とは、何処で出会ったのかな?」
「えーっと……。何か、よく分かんない空間の、適当に入った路地裏の奥に住んでる人……」
正直なところ、自分でも何を言っているのかよく分からないけど、こんな感じであるのは間違いない。
「路地裏の奥、ねぇ……」
普通なら、この期に及んで適当なことを言っていると思われるだろう。でも、そうじゃなかった。何故なら、目の前にいるのは貴族という、市民からしたら普通じゃない存在だったからだ。
「……それは恐らく、レズリーという貴族だね」
「え?」
声をあげたのはオレではなく、この話になってから一言も言葉を発していないアルベルだった。
「レズリーって、あのレズリーさんですか?」
「キミの言うレズリーという人物が誰なのかは知らないが、レズリー・スヴァンのことであるなら、その通りだね」
「はー……、そうですか……」
分かったのか分かっていないのか、アルベルはまた黙ってしまう。それが、オレらの話の邪魔をしないようにしているのか、それとも別の何かがあるのかなんて、オレには分かる手立てがなかった。そんなアルベルを、まるで気にもとめていないかのように、アルセーヌは話を続ける。
「昔……と言っても十年ほど前の話だが、レズリー・スヴァンという貴族がいてね。キミの言うような、路地裏の奥に家を構えているんだよ」
「レズリー……」
「……聞き覚えはあるかい?」
「いや……。ない……と、思う」
レズリー・スヴァン。聞き覚えのない単語だが、あの人はオレの名前を知っていた。ということは、オレが覚えていないだけで、何処かで会ったことがあるのかも知れない。でも、貴族に会う機会なんてそうそうない筈だ。……ここ最近はともかくとして。
「……その人、貴族なんだよね?」
「ああ。でも死んだよ。さっきも言ったが、十年ほど前にね」
「……ん?」
紅茶を口にしながら、まるで日常会話のようにさらりとアルセーヌの口から発せられた言葉。その言葉の意味を理解するのに、ほんの少し時間がかかった。
「正確には、行方不明と言った方が正しいかも知れないが……。まあどちらにしても、この世界にはもう存在していないだろうね」
死んだ? 行方不明? この世にはもういない?
簡単に口にされた言葉の羅列をひとつひとつ理解するのに、多少なりとも時間がかかる。つまりオレは、死んだ人間と会って話をした。そして、その人から魔法が使えるらしいブレスレットを貰った。そういうことなのだろうか? その事実を、すぐに理解するだなんて、オレには出来なかった。
「私は、キミが言ったことを信用していない訳ではないが、不思議だとは思わないかい? キミは、謎の空間を経て彼に出会ったと言った」
カタリと音を鳴らしたのは、アルセーヌが手を伸ばした先にあるソーサーの音。その音が何故だかとても耳障りに感じる。何だろう、もうなにも聞く気になれない。いや、正確にいうなら、聞きたくないという方が正しいのかも知れない。
目の前にいる誰かは、そんなオレの気持ちなんて知るよしもなく、笑顔を保ったままだ。その表情からは、何を考えているのかを読み取ることは、オレには出来ない。どうしてこの人は、そんな顔でこの話が出来るのだろう。
その様子は、なんだかオレを試しているかのようにも見える。
「そこで出会った彼というのは、一体誰なのだろうね?」
それが、オレに少しずつ不信感を募らせていた。
「知りたいとは思わないかい? キミが出会ったというレズリーという人物が何者なのか。そして、どうしてキミが、その彼のいる屋敷に足を運ばなければならなかったのか」
アルセーヌは、オレが答えるのを待っているかのように、紅茶を口にする。気にならないかと聞かれれば、そりゃ、出会った人が既に死んでるとか言われてしまえば、気にならない方がおかしいと思う。だけど、だ。知ったからといって一体どうなると言うのだろう。別に、どうでもいいんじゃないか?オレが知る必要なんて、本当にあるのだろうか。
「……余り、興味ないかな」
「ふうん? まあ、キミがそれでいいと言うのならそれで構わないが……。それは本心かい?」
アルセーヌは、今日はじめて笑顔ではない表情をオレに見せる。本心かどうか? この状態で、嘘なんかつくわけないじゃないか。じゃあ、どうしてオレは知らないままの方がいいって思ってるんだろう。ただ面倒だから?知りたくないから?それは確かにそうだけれど、どうしてこんなにも知りたくないと思っているのだろう。
……今のオレは、自分の気持ちさえも分からないというのだろうか。自然と、オレの口からはため息がこぼれ落ちる。何故だか、父さんと母さんのことについて、何も知らないままだということを責められている気がしてならなかった。
知らなくてもいいなら、知らないままの方がいいじゃないか。
「……キミは、我々に聞きたいことはないのかい?」
「聞きたいこと……?」
気になることがないという訳ではない。だけど、聞いたところで、オレは一体どうするのだろう。この感じだと、聞くだけ聞いて「はいそうですか」で終われるような話じゃないことくらいは分かる。今はもう、何かを聞く気になんてなれなかった。
「……特に、ないかな」
「そうかい? じゃあ、今日はもう終わりにしようじゃないか。私は別に、キミに無理強いする気はないからね」
あっさりと引き下がるアルセーヌのその様子は、路地裏や図書館で出会った時の去り際とよく似ていた。今日は、もっと問いただされると思ってたんだけど。
「アルベル君、彼を送ってあげてくれたまえ。キミにはまだ話があるから、ちゃんと戻ってくるんだよ」
「え? あ、はい……」
久しぶりに聞いた気がする、アルセーヌ以外の声。それは、さっきまで漂っていた、重くのし掛かる空気を払拭するかのようで、ほんの少しだけ助かった気がした。
「ああそれと、リア君。見送りを頼むよ」
「わ、わかりました……」
そういえば、この人……リアって人、全然会話に入って来なかったけど、なんでここに居たんだろうか。まあ、この人とは今日はじめて会った訳だし、普通の市民みたいだから、この話に入ってくる余地は無かったけど。でも、それだとアルセーヌがわざわざ呼び止めた理由が、どこにも無いんじゃないだろうか。いやまあ、何でもいいんだけど。
アルベルとリアが席を立つのにつられ、オレも腰を上げる。アルセーヌは、まるで何事も無かったかのように、お茶を嗜んでいた。なんでこの人はこんなに余裕なんだろう。ここに呼ばれた意味も、結局よく分からなかったし。
「じゃあ、またね。シント君?」
「……う、うん」
思わず返事を返してしまったが、またね。その言葉が、これ程嫌だと思うことが今までにあっただろうか。まあ、魔法が放たれているらしいブレスレットを手にしている以上、何処かで出会わざるを得なくなるから、「また」なのだろうけど。
出来れば、もうここにいる人達には会いたくない。そう切に願いながら、オレはアルセーヌを視界から外した。
家に残されたのは、家の主人と、とある居候だけ。人数が減り、静まり返ったかと思われた空間の中、とある居候は、恐る恐るとでもいった様子で主人に話しかけた。
「あのー……」
「なんだい?」
「私、いる意味あったのでしょうか?」
「大アリだよ。我々だけだとちゃんと話してくれないと思って、わざわざ居てもらったんだ。……まあ、余り意味は無かったみたいだけれどね」
「な、なんだかとても責められてる気分……」
落ち込んだ様子で、居なくなったひとりの客人のカップを片付けるそれをよそに、家の主人は、誰に向けるでもなく、心の中でひとつの疑問を提示する。
『彼は、本当に何も覚えていないのだろうか?』と。
◇
「シントくんの家って、どっち?」
「ああ……えっと、市場抜けた先……」
「そっか」
アルセーヌの家を出て、アルベルとふたりで街を歩く。辺りが騒がしいのか、それともオレらが静かなのか。気を抜くと、喧騒に呑まれてしまいそうになる。だけど、それ以外の会話は、広場に着くまでの間交わされることはなかった。
「あー待って、市場はちょっと……」
「え?」
「その……前、図書館で一緒にいた人に捕まるから」
「……嫌なのかい?」
「別に嫌じゃないけど……。そういう気分じゃないっていうか」
「そっか……そうだよね。じゃあ、あっちから行こうか」
オレが来たときと同じ道。図書館側の道を進む。今のこのよく分からない気分のまま、エトガーに会ってしまうのは、流石に止めておきたかった。
結局オレは、何のために呼ばれたのだろう。なんかよく分からない時間だったけど、そういえばアルベルがアルセーヌの家に着く前、「聞きたいことは、路地裏の話じゃないと思う」と言っていた。それはどの話のことを差しているのだろう。あの家で主にした話と言えば、路地裏の話と、ブレスレットの話と、レズリーの話。レズリーについては、今日はじめて話をしたはずだから、恐らく違う。だとするなら、答えを導き出すには簡単だった。
「……アルベルってさあ」
「ん?」
「オレが魔法使えるっぽいってこと、知ってた?」
「あー……まあ、ね。うん」
アルベルは、少しばつが悪そうに肯定した。
「その……僕ら貴族って、魔法の気配みたいなのが分かるんだよ。別に万能って訳でじゃないけどね。僕らより鮮明じゃないかも知れないけど、多分、シントくんも分かるんじゃないかな」
「オレも?」
「ああいや……多分、だけどね」
路地裏にオレが足を運んだ時。アレは確か、ブレスレットが路地裏を示したかのように、光を反射させたから、何となく気になって入ったんだっけ。もしかすると、それがアルベルのいう魔法の気配というものだったのだろうか。
「でも結局、どうしてアルセーヌさんがわざわざきみを家に呼んだのかは、よく分からなかったなあ……」
「あ、そっちの道じゃなくてこっち……」
「え? ああごめん」
別の道を行きそうになるアルベルを引き止め、家へと続く道を歩く。進めば、すぐに靴屋の看板が見えてきた。
「あ……あそこ、あの看板のところ」
余り気は進まないけど、アルベルに家の場所を教える。家のすぐ近くまで来ると、以外だとでもいうような表情を見せた。
「へえ、君の家って靴屋なんだね」
「まあ……うん。家ってわけじゃないけど……」
「ねえ、今度は客として来てもいい?」
「いいけど……貴族が買うような靴はそんなにないと
思うよ。ああでも……」
「ん?」
「いや、なんでもない。なんでもないよ」
危ないところだった。実はオーダーメイドもやってるとか、普通に言ってしまうところだった。そんなこと言ったら、この人は絶対来るような気がする。いやまあ、本当にただの客としてなら、来ても構わないけど。
「じゃあね。また……は、ない方がいいんだけど」
「うん……」
そう言って、アルベルはオレに背を向ける。後ろ姿のアルベルを視界に入れつつ、オレは靴屋の扉を開けた。
「あ、お兄ちゃん帰って来たー」
ベルの音とほぼ同時に聞こえてきたのは、レノンの声だった。
「……ただいま」
「ねえお兄ちゃん、今日はもう家にいる?」
「まあ、外に出る用はもうないけど……」
「じゃあ、ちょっとこっち来て」
「え? うん……」
「早く早くっ!セリシア、お兄ちゃんが帰ってくるのずっと待ってるんだよ」
「待ってた? ……って、ちょっと引っ張らないでって。分かったから」
セリシアがオレを待っているっていうのは、一体どういうことなんだろう。レノンに連れられて、いつもの部屋へとたどり着いた。
「セリシアー、お兄ちゃん帰って来たよー」
セリシアがオレらの方へと振り向く。待っていたとでもいうように、髪の毛がふわりと舞った。
「おにいちゃん……待ってたあ」
な、なんか笑顔がとても眩しい。気がする。オレへと向かって歩いてきたセリシアは、止まりきれなくてぽふっと可愛い音を立ててぶつかってくる。……いや、これは抱きついてるのか?
「これ、おにいちゃんにあげようって思って……」
セリシアがオレに差し出したのは、オレンジ色をした折り紙。よく見ると、どうやらそれはハートの形をしているようだった。
「おかあさんに教えてもらったの……」
「へえ……セリシアが作ったの?」
「うん。皆おそろい」
「僕はね、青なんだよ」
レノンは、何処に隠し持っていたのか、いつの間にか手に持っていた、青いハートをオレに見せる。セリシアが持っているのは黄緑のハート。どういう基準でその色になってるのかは、正直よく分からない。相変わらずというか、ニコニコと笑顔を振りまくセリシアに、若干おされてしまう。どうして、オレにそんな笑顔を向けてくれるのだろうか。小さい子っていうのは、よく分からない。
「あ、ありがとう……」
少し不格好に作られたそれを手に取る。何だろう、この申し訳ないような嬉しいような、何ともよく分からない気持ちは。ただ単に、作ってくれたハートを渡してくれただけなのに、どうしてここまで複雑な気持ちになってしまうのだろう。
「ねえねえお兄ちゃん。一緒に塗り絵やろうよ」
「え、オレが出掛ける前もやってなかった?」
「あれは赤ずきんでしょ? 次はね、オオカミさん塗ろうと思って」
「ふーん……」
オレがいなくなった後、どうやらおじさんに追い出されたらしく、カウンターではなくここに移動して遊んでいたようで、辺りにはクレヨンと折り紙が散乱している。……誰が片付けるんだろう、これ。
「はい、これお兄ちゃんのね」
渡されたのは、さっきレノンが言っていたオオカミの描いてある塗り絵。なんだけど、どうみても塗り途中に見える。
「お兄ちゃんはこの家塗ってね。僕がおおかみで、セリシアがお花なの」
「ああ、そういうことか……。分担ね」
ふたりは、早速小さなテーブルと向き合って塗り絵をはじめる。オレもそれにならって、空いている場所に座った。……二ページに跨がっているとは言え、同じ塗り絵を一緒に塗るっていうのは、何かすんごい窮屈だ。まあ、この人数でやるもんじゃないしね、塗り絵って。いや、そもそもこんな事してないで、色々考えようと思ってたんだけど。流れでやることになってしまったものは、まあしょうがない。塗り絵をしながらでも、考えることくらいは出来るだろう。
適当に手にしたのはオレンジのクレヨン。セリシアから貰った、ハートと同じ色だった。あくまでも塗り絵をしながら、今日言われたことを思い返す。何だっけ?ブレスレットをくれた人が、実は既に死んでて、そのブレスレットにはやっぱり魔法が込められてた……みたいな感じだったっけ。わりと適当に聞いてたから、思い返す程のことは覚えてないけど。
そういえば、市民って魔法は使ったらいけないんじゃ無かったっけ? そのことについては、特に何も言われなかったような気がする。……まあ、別に使おうとも思わないし、そもそも使い方なんて分からない。でも、もし本当にそうだとするなら……。
あの時の、路地裏で誰かに襲われた時。ブレスレットが光を放ったのは、一体なんだったんだろう。あれはオレの意思じゃなくて、ブレスレットが勝手にそうしたんだと思ってたけど、違うのかな……。
「お兄ちゃん、それどこ塗ってるの?」
「え? ……あ、ごめん」
レノンに指摘されてはじめて気付く。分担的には、確か家を塗るはずだったんだけど、家から思いっきりはみ出てる。いや、はみ出てるというか、狙ってやったとしか思えないくらい、それはもう綺麗に空へと突き出していた。
「じゃあ、ここもオレンジにしようよ」
「そんな適当でいいの?何か、既に凄い色になってるけど……」
考え事をしてたから全然気付かなかったけど、セリシアが塗ってる花の色はともかくとして、レノンはオオカミを紫で塗っている。何だこれ。オレは今何をやらされているんだ?
「……なんでオオカミ紫なの?」
「あのね、呪われたおおかみが、その家に入っていくんだよ」
「へえ……」
ちょっと何を言ってるのかよく分からないけど、レノンは何か壮大な話を、塗り絵の中で作り上げているらしい。
「その家の中に何かあるから、オオカミが来たってこと?」
「呪いをとくやつがね、その家の中にあるんだけど。何だかんだでおおかみは、そこに住んでる人に実験台にされるの」
「……せめて、もうちょっと明るい話作って欲しいんだけど」
どうやら、オレが想像していたよりもレノンは重い話を考えていたようだ。
……なんか、なんて言えばいいんだろう。さっきまでの出来事なんて、何もなかったかのように、いつもの日常がそこにはある。皆の知らないところで、いつの間にか魔法の使えるブレスレットを貰ったり、それが原因で、貴族に何度も会う羽目になったりしているというのに。いや、だからこそだったりするのかな……。
そういえば、こうなった切っ掛けのひとつ。あの噴水にいた時に聞こえた声だって、まだ何も分かっていないじゃないか。だけど、とてもじゃないけど、オレを取り巻くそれらを、ひとつひとつ紐解いていく気になんて、今は到底なれない。でも、オレが一番気になっていることは、多分そこじゃない。一体なにがオレにブレーキをかけているのか。どうしてこうも知りたくないのか。
オレ自身のことのはずなのに、それに関しては、自分でもよく分かっていないというのが、不思議でならなかった。
◇
僕がアルセーヌさんの家に戻ってきたのは、シントくんの家へ足を運んでから、十分ほど経った頃だった。
「ああ、戻ってきたんだね」
「ええ……」
アルセーヌさんは、さっき座っていた場所ではなく、ソファへと移動してお茶を嗜んでいる。アルセーヌさんの向かいに置かれている空のカップが、僕の座る場所であるというのはすぐに理解できた。リアさんは、僕が座るよりも前に紅茶を空のカップに注いだかと思うと、気を使ってなのか早々に何処かへと行ってしまう。いや、逃げただなのかも知れないけど。
そもそも、彼女は使用人というわけではないようだし、手伝っていることの方が不思議だけれど。その様子も、やっと慣れてきたところではある。
リアさんが視界から外れ、今ここには僕とアルセーヌさんしかいない。それはつまり、貴族同士のやり取りが行われるということの表れだ。
「今日はすまなかったね。わざわざ足を運んでもらって」
「いえ……」
それは別に構わないのだけれど、どうして僕が今日呼ばれたのか、というのは結局のところわからないままだ。……やっぱり、このまま聞かないでおくというのは、僕には少々難しくて。気付けば、口は勝手に言葉を紡いでいた。
「……ところで、どうして僕は今日呼ばれたんですか?」
「私相手だと、彼はきっと話してくれないだろうと思ってね。それに、あの場に居合わせたキミを呼ぶことは、そこまで不思議なことではないだろう?」
「ま、まあ……そうですね」
確かに、アルセーヌさん相手にああいう話をするのは、どうしてか尋問されている気分になるのはとても分かる。分かるんだけど、何というか、それをアルセーヌさんの口から聞けるとは思わなかったというか。……自覚はあったのか、と思ってしまった。
「シントくんが言っていることは、普通なら信用するには値しないものだと判断するだろうけど、少なくとも、あの話の中に嘘は無いだろうね」
いとも簡単に彼を信用するその言葉が、どうしても僕に不信感を抱かせる。それは、シントくんがどうとかいう話ではなく、その確証は一体どこから来るのだろうという、疑問から来るものだ。
「……どうして、そう思うんですか?」
「さてね?」
アルセーヌさんは、そのたった一言で僕の問いを一蹴りしてしまう。こうなってしまっては、僕の入る余地なんてどこにも存在しないということを、嫌になるくらいには体験しているから、もう何も聞かないけど。そうして、こういう場合は必ずと言っていいくらいに、話が切り替わるのだ。
「それよりも私が問題視しているのは、路地裏にいたもうひとりの人物が、未だに見つかっていないということだ」
……なんというか、どうしたって僕には、この人の考えていることがよく分からない。本当のところ、「私相手だと、彼はきっと話してくれないだろうと思った」のではなく、この話のために僕は呼ばれたのだろうかなんて、そんなことすら思ってしまう。まあ、それはあながち間違いではないのだろうけど。
「……そうですね。あの、その人が既に消えた可能性はあるのでしょうか?」
「無いこともないが、消えた気配に誰も気づかないなんてことはまずないから、可能性としては低いだろうね」
消えた。飛び交うその単語なんてもう聞きなれたも同然だけど、余りいい気はしない。路地裏でシントくんを襲っていたあの人は、貴族が見れば誰でも分かるくらい、明らかに手遅れだった。
魔法を使う資格を持たない市民が、魔法を使うとどうなるか?という問いがあったとするなら、模範的な症状だったように見える。
「まあ、あの人物が犯人かどうかはまた別の話だけれど。……どのみち、あの様子じゃそう長くは持たないだろうさ」
アルセーヌさんのいう人物とは、恐らく路地裏で起きている連続殺人事件のことだろう。犯行が夜中であることと、手掛かりがまるで見つからないという点から、魔法を使える誰かの犯行ではないかという結論に至り、警察の要望によって、僕らは夜中に街を徘徊することになったわけなのだけれど。いい加減進展がないと、犯人が貴族の中にいるだなんて疑われることにもなりかねない。
実際、市民の間ではそういう噂がじわじわと広まっているようで、元から評判は良くない貴族という存在が、噂の種としては丁度よかったのだろう。興味があるのかないのか、アルセーヌさんは手に持っていたカップをテーブルに置き、ソファの背もたれに寄りかかる。
「ま、我々が探さなくてもそろそろ動き出すんじゃないかな? その、路地裏で横行している通り魔の犯人が」
「……そうですね」
僕ら貴族は、ある程度魔法の気配が分かるとはいえ、街を隅から隅までしらみ潰しに当たるというのは、幾らなんでも限界がある。やっぱり、犯行時間を考えても夜中に街を徘徊すると手段が、一番確実なのだろうか。
アルセーヌさんは、この話に飽きたとでもいうように息を吐く。そして次に紡がれた言葉は、案の定今までとは違うものだった。
「……それはそうと、キミはシント君のことに関しては、特になにも聞かないんだね?」
「……はい?」
「いや、もう少し何か聞かれるかと思っていたからね」
そういえば、確かにシントくんに関してのことは余り聞いていなかったかも知れない。図書館でシントくんに出会った後、一度だけアルセーヌさんに「どうしてわざわざ家に呼ぶんですか?」と聞いたくらいで、確かにそれ以外はほぼふたりの会話をなんとなく聞いていただけだ。
正直なところ、そこに関する興味は余りないというか。不可抗力なのか、魔法を使えるようになってしまったというのには、同情に近い感情はあれど、そもそもアルセーヌさんが教えてくれないのだから、どうしようもないような気もするが。
「……いやだって、普通の市民ですよね? 魔法に全然興味なさそうでしたし。寧ろ嫌ってたというか……」
多分、魔法を使えるけど使わないでいる市民なんて、僕らが知らないだけで一定数は存在していると思う。僕からすれば、彼はそれだけの存在に過ぎないのではないかというのが、正直な感想だった。
「……たかが市民だと、本当にそう思うかい?」
「え?」
ああ、まただ。この含みのある言い方。これに僕は何度も翻弄されてきたし、ある意味では騙されてきたとも言えるかも知れない。今の段階だと、僕の持っている情報が少な過ぎてどうとも言えないけど、唯一、これだけは確信が持てた。
僕は、知らない間に面倒なことに首を突っ込んでしまっているのだということ。
「彼をわざわざここまで呼んだのは、彼が事件に関わっていないかどうかを確かめたかったというのは勿論あるが……」
そして、何かを見据えていたような瞳。それが、この人は僕が知らない何かを知っていると、そう確信づけるのには十分だった。
「不思議には思わなかったのかな?キミの言うたかが市民という存在を、わざわざ家に招待するだなんて普通はしないさ。……普通は、ね?」
こういう言い方。この人と話していればよく耳にするけど、端的に言えばアルセーヌさんはとてもずるい。そんな言い方をされたら、嫌でも気になってしまうじゃないか。そんな言葉を飲み込むようにして、僕はすっかり冷めてしまった紅茶を口に含んだ。
ひとりしかいないのに言葉を溢してしまうのは、寂しいからとかそういうことではなく、きっと誰もいないからこそなのだろう。その言葉は、誰にも認知されることなく消えてしまう。頬に優しく当たる風が、唯一の喧騒にすら聞こえてしまう程、静寂に溢れたこの場所で、私はただひとり、庭でお茶を嗜んでいた。
木漏れ日が舞うのは天気がいい証拠でもあるが、この場所にとっては、ひとりしかいないということへの当て付けのように感じてしまう。白いテーブルに置かれているのは、ティーポットと四つのカップ。それに、淡くも優しい味のする沢山のクッキーだ。ひとりしかいないのに、どうしてこんなに量が多いのか。そう思っていたことは何度もあったが、いつしかこの量にも何も思わなくなってしまっていた。だけど、数日前にこの家に訪れた、とあるひとりの訪問者か発した言葉によって、考えざるを得なくなってしまっている。
『いや、何て言うか……。ティーカップの数多いなあと思って』
やはり、言われるとどうにも気になってしまう。いや違うな。そんなこと、最初から分かっていたことじゃないか。この家はおかしい。そして、そんな家に平然と『生きている』私もまた、おかしいということなんて。
未練というものは、何処までも付きまとう。このテーブルに置かれたもの全てが、もっと言うなら、この家自体が、きっとそれに当てはまるのだろう。だから私は、魔法に呑まれた今もここに留まってしまっているのかも知れない。平たく言うのなら、幽霊という言葉が一番近いだろう。ただ、それとは明らかに違う部分がある。
廃れることもない、現実とは少しかけ離れた場所。魔法の作用なのかなんなのか、一部を除いて全てがあの時のままなのだ。でも、だ。こうやって留まっていたところで、一体なんだと言うんだ? もう戻らない過去に縋ってどうなるんだ? そうやって、私は私に問いかける。もう数え切れないくらいに自問自答したことだが、答えはどんなに探しても見つからない。ここ最近は、最早そんなことなんて考えもしなくなっていたが、彼がここに姿を現してしまったことによって、その疑問は沸々と湧き上がってしまっていた。だからと言って、彼は決して何も悪くない。そう、悪くなんてないのだ。
その結論が、私の中の何かが五月蝿く呻きを上げる。それが少しずつ私を侵食していくのが、手に取るように分かった。いっそのこと、私のよく知るそれに全てを委ねてしまいたくなる。でも、それじゃ駄目なことなんて、痛いほど分かっている。身を任せてしまえば、本当に……。戻れなく、なってしまう?
私は何を言っているのだろうか? だってもう、後戻りなんて出来ないのだろう?
ああそうだ。もう何も戻らないなら、そんなのどう足掻いても同じじゃないか。もう全部壊れたんだ。それならいっそ、また壊してしまえばいい。じわじわと、そんな思考に囚われていく。でも、だ。そもそもこうなったのは一体何故だ? どうしてこうなった?どうしてこんなにもそれらに執着しているんだ? こんなことになったのは、紛れもなく私のせいだというのに。
五月蠅く響く、何かが割れる音。それは酷く騒がしく、自身の耳をつんざいていく。いつしか、テーブルに置かれたそれらものなんて、全て地面に叩きつけられていた。そして私はこう思う。「ああ、粉々に割れたそれらは、まるで私の壊れた心のようで滑稽じゃないか」と。
私はとても不思議でならない。どうして彼は、この場所に足を踏み入れてしまったのか。どうしてまた、私の目の前に現れてしまったのか。だって、彼にとってのここは……。そう、そうなのだ。彼は、ここに来てはいけない。来るべきではない。
「頼むから、もう、来ないで……くれ……?」
口にした言葉に、疑問が残る。
違う。違う違う違う。何を言っているんだ私は。だって、彼を……シント君を呼んだのは、紛れもなくこの私じゃないのか?
「はは、困ったな……」
乾いた笑いが地面に落ちる。それは、諦めと後悔。そして、全てを終らせたい衝動によるものだった。
止めろ、止めてくれ。
頼むから、私を取り巻く全てのもので、これ以上私を壊さないでくれ。
◇
酷く面倒な日というのは、前々から分かっていて、仕方なく心の準備をしなければならない時もあるが、ある日突然やってくる時だってある。今日は、どちらかと言うと後者の方だ。
正直とても行きたくない。そもそも行く必要があるのかとも思う。でも、どんなに行きたくなくたって、時間は無情にも進んでいくというもの。そして唯一分かっているのは、行かないと余計面倒なことになりそうだということだけである。
「あ、ローザおばさん……」
「ん? なあに?」
「えっと……ちょっと人と会う約束してて、今から少し抜けてもいい?」
「いいけど……珍しいね、シントくんから言ってくるなんて。お友だち?」
「友……まあ、うん」
友達だったら、どんなに良かっただろう。そもそも、友達と呼べるような人なんていないし、バレたら確実に心配されてしまう。だけど、「今から貴族の人に会いに行ってきます」なんて絶対に言えない。そんなこと言ったら、余計ややこしくなるのは目に見えている。
「……じゃあ、行ってくるね」
「気をつけてね。いってらっしゃい」
「うん」
おばさんを背に部屋を出て、靴売り場まで足を運ぶ。今日はおじさんとレノン。そしてセリシアがカウンターに集まっているようだった。
「お父さん黄緑でずきん塗るの? 何かダサいよ」
「いいんだよこれで。塗り絵なんてなー、目についた色を適当に置いてけばそれなりになるんだよ。……ってか、お前こそほぼ紺しか使ってねーじゃん?」
「暗闇の中を歩く赤ずきんだから、これでいいのー」
「お前それ、塗り絵の遊び方間違ってるぞ……」
オレは、三人の後ろから顔を覗かせる。どうやら三人で塗り絵をしてるようだ。多分セリシアに合わせてやってるんだろうけど、おじさんとレノンはかなり独創的な塗り方をしている。その反面、セリシアはやっぱり女の子らしくいろんな色を使っていた。多分だけど、おばさんが同じ塗り絵をやったら、綺麗に塗るんだろうな。セリシアが塗ったやつを見ていると、なんとなくそう思う。
「あ、お兄ちゃんも塗り絵やる?」
「いや、今から出掛けるから、また今度ね」
「そっかあ……いってらっしゃーい」
レノンと一緒に、セリシアとおじさんまで手を振ってくれる。オレはそれに答えながらも、出入り口の扉に手をかける。扉を開けた時に鳴るベルの音なんて、今のオレには聞く余裕すら無かった。
時間にはそれなりに余裕をもって出てきたはずだし、市場ではなく、図書館側の道へと足を運ぶ。広場に行くなら、市場を通るのが一番近い。だけど、今日はなんだかあのざわざわしている場所には余り行く気がしない。まあ遠回りと言っても、ほんの少し迂回するだけだし、何より、あそこを通れば絶対エトガーに捕まってしまう。いつもなら別に構わないんだけど、今日は誰かと世間話をする気分にはどうしてもなれなかった。
図書館側の道はお店こそはあるものの、市場に比べると落ち着いている印象がある。ここは普段そんなに通らないから、何となく新鮮な気持ではあるけれど、出来ればもう少し落ち着いた気分で通りたかった。
オレは、図書館に入っていく誰かの後姿を目の隅に写しながら進む。そういえば、今日は金曜日。確か図書館って木曜日が休みだったから、今日はいつもより混んでたりするのだろうか。あの時は、結局何も借りないで帰ってきちゃったし、今度はレノン達と行ってみるのもいいかも知れない。一緒に行ってくれるなら、だけど。
図書館を通り過ぎ少し進むと、二手に分かれた道に差し掛かる。左側の道から微かに見えるのは、広場にある噴水だ。少し行くのを躊躇っている自分もいるが、ここまで来ておいて行かないという選択肢を選ぶのは、流石に自分でもどうかと思うし、重い足を無理矢理動かして広場へと向かった。取りあえず、目印である噴水近くまで向かうと、人混みの中に紛れて見たことのある人物が辺りを見回している。その人は、オレの姿を見つけると一目散に駆け寄ってきた。
「ああ良かった。来ないんじゃないかって、少し心配してたんだ」
この人は、今日オレを呼び出したアルセーヌ本人ではなく、図書館で何故かエトガーと仲良くなっていたもうひとりの貴族の人。……名前なんだっけな。……ああもう、面倒だからそれは後でいいや。
「まあ、行かない方がややこしくなるだけだし……」
「な、何かごめんね……。ああでも、別にきみをどうこうしようって訳じゃないから」
「うん……」
多分、この人の言ってることは本当なのだろう。何となくだけど、そんな気がする。
「じゃあ行こうか。アルセーヌさんの家、あっちだから」
促されるまま、その人の後をついていく。一応、ここからアルセーヌまでの道のりとか覚えておいた方がいいのかな。多分すぐ忘れるけど。
そんなことをボンヤリ考えながら、オレたちは広場を後する。来る前に何度も心配していたあの時の出来事は、どうしてか気にも留めなかった。
◇
特に何かを話す訳でもなく沈黙が続く。これといって話すこともないけれど、この何とも言えない静かな空気を先に破ったのは、紛れもなくオレだった。
「……あのさあ」
「ん?」
「オレってなんで呼ばれたの?」
他にも聞かないといけないことはあるようか気がするけど、今オレが一番気になっているのはそれだ。まあ、この人に呼ばれた訳じゃないから、聞いてもどうにもならないけど。
「えーっと……僕も、詳しいことは聞いてないんだ。聞いてもはぐらかされちゃうし」
「ふーん……」
「ああでも、別に君に何かしようってわけじゃないと思うから、うん」
「いや、疑ってるわけじゃないけど……」
「……多分だけど、聞きたいことは、路地裏の話じゃないと思うんだ」
「え?」
「まあでも、これはただの推測だから。やっぱりアルセーヌさんに聞かないとね」
やっぱり、何となく予想はついていたけど、この人もアルセーヌから詳しいことは聞いていないようだ。でも、路地裏で起きたことの話ではないというのは、一体どういうことだろう?
それにしても、なんというかこの人はアルセーヌに比べると貴族って感じが余りしない。いや、見た目とか喋り方がどうとかいう訳ではないんだけど。雰囲気とでも言えばいいのだろうか。貴族の、というかオレの基準がアルセーヌとあのブレスレットを押し付けてきた人だからかも知れないけど、そのふたりと比べてしまうと、明らかに何かが違う気がする。多分、比較的喋りやすいというのが、それに当てはまるのかも知れない。
「あ、ここだよ。アルセーヌさんの家」
目の前にそびえ立つのは、わりと普通の一軒家。貴族の家と言うには、そんなに大きくはないように見えるというか、大きめの一軒家といった感じだろうか。それでも、市民からすれば余り縁のない大きさだけど。
呼び鈴が家の中で響く音がする。ほんの少しすると、それはドアが開く音へと切り替わった。
「はい……あ、お待ちしてました」
出てきたのは、アルセーヌではなく女の人。一瞬メイドさんかと思ったけど、特別そういう格好をしているわけでもないから、何だかとても不思議な気分に見舞われる。妹、にしては歳が離れているような気がするし……。いや、まさかね?
「お、お邪魔しまーす……」
少しだけ長い廊下を、女の人を先頭に歩く。一番後ろで歩くオレは、はじめて入る貴族の家を前に、そわそわせずにはいられなかった。この家が、貴族にとってどれくらいの大きさなのかは分からないけど、外見でも分かったように、貴族の家にしては普通の気はする。
廊下の奥。リビングという言葉が一番しっくりくる部屋に足を踏み入れる。そこには、オレをこの家に呼んだ張本人、アルセーヌが椅子に座っていた。アルセーヌは、オレを視界の隅に入れると、手にしていたティーカップを置く。そして、ふわりと優しい笑顔をオレに向けた。
「やあ、待っていたよ」
ガタ……と、少し音を立てながら席を立つその人は、決してオレから目を離すことをしない。何だか、話す前から全てを知られてしまっているかのような、そんな気分になってしまう。
「さて、改めて自己紹介でもしようじゃないか」
オレとの距離を少し詰め、目の前に立つその人を改めて見つめる。こうやって見ると、やっぱりこの人からは謎の威圧感を感じるというか、何となく話しづらさというものを感じる。……やっぱり貴族は余り好きではないと、改めて思ってしまうほどに。
「私はアルセーヌ・ルヴィエ。この家の主であり、世間で言うところの貴族だ。今日は、わざわざここまで足を運んでくれて、感謝しているよ」
「あ、どうも……」
こうやって、改めて自己紹介をされた時の作法?なんてものをオレは知らないから、こう丁寧に自己紹介をされても、気の抜けた返事しかすることしか出来ない。流石に、もうちょっと言いようはあった気もするけど、そんな余裕は無いに等しかった。
「そして彼は、同じく貴族のアルベル・ノーウェン君だよ」
「えーっと……よ、宜しくね」
ああ、そうだ。この人、ここまで一緒に来た人はアルベルって名前だった。完全に忘れていた。
[それと、彼女はリア君と言ってね。色々とあって、この家に住んでいるんだが……。簡単に言うなら、居候というのが適切かな?]
「で、出来ればお手伝いとかにしておいて欲しいんですけど……。その、宜しくお願いしますね」
アルセーヌは、チラリとオレに目線を向ける。ほんの少しだけ訪れた沈黙なんて、すぐに立ち消えた。
「……で、キミの名前は?」
「え、ああ……シント・クランディオだよ」
「そうか。ではシント君、今日は宜しく頼むよ。余り堅苦しいのは好きではないから、出来るだけ気楽に頼むよ」
気楽に、と言われてもだ。そんなことを言われたところで、そう簡単に出来るものでもない。それ以前に、今日は気楽に出来るような状態で呼ばれた訳でもないから、そう言われるととても困る。
「さて……挨拶も済んだところだし、好きに座ってくれたまえ。ああリア君、適当に頼んだよ」
「あ、はい」
リアは、どうやらお茶を用意してくれるらしく、ティーポットを手に、忙しなく準備をはじめる。オレは促されるまま、適当な椅子に座った。オレの左横にはアルベルが。そして、テーブルを挟んで目の前にアルセーヌが座る。経験したことはないけど、なんか面接のようだ。
紅茶の匂いが少しずつ色濃くなってくるのは、お茶の準備がそろそろ終わるという証拠だ。リアは、手慣れた様子で手にポットの中に入っているそれを、カップに移していく。赤茶のそれがゆらゆらと波打つのを、オレはただただ眺めていた。全員のカップに入れ終わると、ティーポットはテーブルの中央付近に置かれる。リアは、少し言いづらそうに言葉を発した。
「あのー……じゃあ、私はこれで」
「待ちたまえよ。リア君、キミも同席しなさいと私は言わなかったかな?」
「いや、でも……。やっぱりこういうのって、部外者がいたらあんまり良くないんじゃ……」
ちらりと、アルセーヌがリアを視界に入れる。
「う、ううん……。じゃ、じゃあ、お邪魔しますね」
威圧的なそれに、仕方なくといった様子で、リアは椅子に腰掛ける。その様子は、どこか落ち着かない様子だった。
それにしても、だ。テーブルに並べられたティーポッと四つのティーカップ。お皿の上に綺麗に並べられたお菓子達のそれは、いつかに見た光景とよく似ている。ただの偶然だと分かっていても気になってしまうのは、きっと、自分の中で何かが引っかかっているからなのだろう。だからと言って、別にどうもしないけど。
オレは、テーブルに並べられたそれらを壊すようにして、ティーカップを手に取った。
「じゃあ、早速話でもしようじゃないか。……私が、キミに聞きたいことはいくつかあるのだけれど……」
一呼吸おいて、アルセーヌはオレへと目を向ける。笑顔ではあるものの、その鋭い眼光からは決して目を離してはいけないような、そんな錯覚に陥ってしまう。この場の空気は、完全に彼のものになっていた。
「キミはあの日、路地裏で何をしていたんだい?」
これから始まるのは、ただの雑談なんかではない。気楽になんか出来る訳がない。
オレを待ち受けているのは、貴族による尋問なのだ。
◇
さて、一体どうしたものか。
来る前から分かってはいたけど、これはきっと、質問攻めにされる。この人たちに嘘をつくだけなら簡単だけど、今の状況では明らかにオレの方が不利だ。取り巻く空気が、完全に貴族のモノになっているから、嘘をついたとしてもすぐバレる気がする。いや、そもそも嘘をつかなければならないようなことはしてない訳だし、面倒なことになるのなら、素直に言ってしまった方がいいのかも知れない。せめて何をしていたのかくらい考えればよかったと、心底後悔した。
「……キミ、これくらいは聞かれることなんて分かっていただろう?嘘でもいいから、準備くらいしてきたまえよ」
「そ、そうなんだけど……」
「じゃあ質問を変えようか。キミはあの時、路地裏で確か『道に迷った』と言ったね?それは事実と捉えていいかい?」
「あーうん……大体合ってる、気がする」
「大体、ねぇ……」
確かあの時、何となく路地裏に入ったせいでわりと真面目に迷ったから、大体は合ってる。それに、「ブレスレットが光ったから路地裏に入ったら迷いました」なんて言ったところで、正直自分でもよく分かんないし。
「まあ、この際それはどうでもいいんだが……。もうひとつ質問してもいいかな?キミ、魔法は使えるかい?」
「……魔法?」
突然現れたその言葉に、一瞬眉が歪んでしまう。あの時、あの路地裏でブレスレットが光ったのは、一体なんだったのだろう。あの人から貰ってしまったこれは、空中で光が集まって作られたものだ。もしかすると……というか多分、それが魔法というものに当てはまるのかも知れない。だからあの時、何らかの作用によってブレスレットが光ったのだと言われても、特に驚きもしない。
だけど、貴族に「魔法を使えるか?」と聞かれて、素直に答えるような市民はいるのだろうか? その答えは、とても簡単だった。
「……どうだろう」
「ふうん?」
ずっと左手で持っていたカップを、思い出したかのようにソーサーに置く。その時だ。まるで最初からその時を待っていたかのように、アルセーヌは身を乗り出してオレの左手首を捕まえた。
それは、本当に一瞬の出来事だった。
「……じゃあ、この左手に付けているブレスレットから微かに感じる魔法は、一体なんなのだろうね?」
これは完全にやられた。もしかして、あの路地裏で出会った時から、この人は既に気付いていたんじゃないか?そうでなければ、わざわざオレを家に呼ぶだなんて、面倒なことをするだろうか? だとするなら……。特に驚いた様子もなく隣に座ってこの一連の流れを眺めているいるアルベルも、最初から分かっていたのかも知れない。
アルセーヌは、オレから視線を外すことはしない。あくまでも笑顔を保ち、じっと見据えていた。完全に向こうのペースになってしまっていて、正直少々うんざしてしまう。
「も、貰ったんだよ……」
「誰に?」
「……わかんない」
「キミ、誰に貰ったかも分からないようなものを付けて歩いているのかい? 随分と不用心だね」
「い、いや……取りたいんだけど外せなくて……」
そう。そうなのだ。何度か外そうと試みたけど、どうにも外せなかったのだ。それは、決して魔法がどうとかいう話ではない。ただ単に、オレの不器用さが招いただけの問題だった。
「……どうやったら、こんな適当な付け方になるんだい?絡まってるじゃないか」
「いやだって、あの人が無理矢理付けようとするから……」
「はあ……。そういうところは、誰かにそっくりだね」
「そっくり……?」
一体、誰と比べてそう思ったのだろうか。アルセーヌはオレの腕を掴むことを止め、やれやれとでもいった様子で椅子に座り直し、次の質問を提示した。
「まあ、それはそれとして、だ。このブレスレットをくれた人物とは、何処で出会ったのかな?」
「えーっと……。何か、よく分かんない空間の、適当に入った路地裏の奥に住んでる人……」
正直なところ、自分でも何を言っているのかよく分からないけど、こんな感じであるのは間違いない。
「路地裏の奥、ねぇ……」
普通なら、この期に及んで適当なことを言っていると思われるだろう。でも、そうじゃなかった。何故なら、目の前にいるのは貴族という、市民からしたら普通じゃない存在だったからだ。
「……それは恐らく、レズリーという貴族だね」
「え?」
声をあげたのはオレではなく、この話になってから一言も言葉を発していないアルベルだった。
「レズリーって、あのレズリーさんですか?」
「キミの言うレズリーという人物が誰なのかは知らないが、レズリー・スヴァンのことであるなら、その通りだね」
「はー……、そうですか……」
分かったのか分かっていないのか、アルベルはまた黙ってしまう。それが、オレらの話の邪魔をしないようにしているのか、それとも別の何かがあるのかなんて、オレには分かる手立てがなかった。そんなアルベルを、まるで気にもとめていないかのように、アルセーヌは話を続ける。
「昔……と言っても十年ほど前の話だが、レズリー・スヴァンという貴族がいてね。キミの言うような、路地裏の奥に家を構えているんだよ」
「レズリー……」
「……聞き覚えはあるかい?」
「いや……。ない……と、思う」
レズリー・スヴァン。聞き覚えのない単語だが、あの人はオレの名前を知っていた。ということは、オレが覚えていないだけで、何処かで会ったことがあるのかも知れない。でも、貴族に会う機会なんてそうそうない筈だ。……ここ最近はともかくとして。
「……その人、貴族なんだよね?」
「ああ。でも死んだよ。さっきも言ったが、十年ほど前にね」
「……ん?」
紅茶を口にしながら、まるで日常会話のようにさらりとアルセーヌの口から発せられた言葉。その言葉の意味を理解するのに、ほんの少し時間がかかった。
「正確には、行方不明と言った方が正しいかも知れないが……。まあどちらにしても、この世界にはもう存在していないだろうね」
死んだ? 行方不明? この世にはもういない?
簡単に口にされた言葉の羅列をひとつひとつ理解するのに、多少なりとも時間がかかる。つまりオレは、死んだ人間と会って話をした。そして、その人から魔法が使えるらしいブレスレットを貰った。そういうことなのだろうか? その事実を、すぐに理解するだなんて、オレには出来なかった。
「私は、キミが言ったことを信用していない訳ではないが、不思議だとは思わないかい? キミは、謎の空間を経て彼に出会ったと言った」
カタリと音を鳴らしたのは、アルセーヌが手を伸ばした先にあるソーサーの音。その音が何故だかとても耳障りに感じる。何だろう、もうなにも聞く気になれない。いや、正確にいうなら、聞きたくないという方が正しいのかも知れない。
目の前にいる誰かは、そんなオレの気持ちなんて知るよしもなく、笑顔を保ったままだ。その表情からは、何を考えているのかを読み取ることは、オレには出来ない。どうしてこの人は、そんな顔でこの話が出来るのだろう。
その様子は、なんだかオレを試しているかのようにも見える。
「そこで出会った彼というのは、一体誰なのだろうね?」
それが、オレに少しずつ不信感を募らせていた。
「知りたいとは思わないかい? キミが出会ったというレズリーという人物が何者なのか。そして、どうしてキミが、その彼のいる屋敷に足を運ばなければならなかったのか」
アルセーヌは、オレが答えるのを待っているかのように、紅茶を口にする。気にならないかと聞かれれば、そりゃ、出会った人が既に死んでるとか言われてしまえば、気にならない方がおかしいと思う。だけど、だ。知ったからといって一体どうなると言うのだろう。別に、どうでもいいんじゃないか?オレが知る必要なんて、本当にあるのだろうか。
「……余り、興味ないかな」
「ふうん? まあ、キミがそれでいいと言うのならそれで構わないが……。それは本心かい?」
アルセーヌは、今日はじめて笑顔ではない表情をオレに見せる。本心かどうか? この状態で、嘘なんかつくわけないじゃないか。じゃあ、どうしてオレは知らないままの方がいいって思ってるんだろう。ただ面倒だから?知りたくないから?それは確かにそうだけれど、どうしてこんなにも知りたくないと思っているのだろう。
……今のオレは、自分の気持ちさえも分からないというのだろうか。自然と、オレの口からはため息がこぼれ落ちる。何故だか、父さんと母さんのことについて、何も知らないままだということを責められている気がしてならなかった。
知らなくてもいいなら、知らないままの方がいいじゃないか。
「……キミは、我々に聞きたいことはないのかい?」
「聞きたいこと……?」
気になることがないという訳ではない。だけど、聞いたところで、オレは一体どうするのだろう。この感じだと、聞くだけ聞いて「はいそうですか」で終われるような話じゃないことくらいは分かる。今はもう、何かを聞く気になんてなれなかった。
「……特に、ないかな」
「そうかい? じゃあ、今日はもう終わりにしようじゃないか。私は別に、キミに無理強いする気はないからね」
あっさりと引き下がるアルセーヌのその様子は、路地裏や図書館で出会った時の去り際とよく似ていた。今日は、もっと問いただされると思ってたんだけど。
「アルベル君、彼を送ってあげてくれたまえ。キミにはまだ話があるから、ちゃんと戻ってくるんだよ」
「え? あ、はい……」
久しぶりに聞いた気がする、アルセーヌ以外の声。それは、さっきまで漂っていた、重くのし掛かる空気を払拭するかのようで、ほんの少しだけ助かった気がした。
「ああそれと、リア君。見送りを頼むよ」
「わ、わかりました……」
そういえば、この人……リアって人、全然会話に入って来なかったけど、なんでここに居たんだろうか。まあ、この人とは今日はじめて会った訳だし、普通の市民みたいだから、この話に入ってくる余地は無かったけど。でも、それだとアルセーヌがわざわざ呼び止めた理由が、どこにも無いんじゃないだろうか。いやまあ、何でもいいんだけど。
アルベルとリアが席を立つのにつられ、オレも腰を上げる。アルセーヌは、まるで何事も無かったかのように、お茶を嗜んでいた。なんでこの人はこんなに余裕なんだろう。ここに呼ばれた意味も、結局よく分からなかったし。
「じゃあ、またね。シント君?」
「……う、うん」
思わず返事を返してしまったが、またね。その言葉が、これ程嫌だと思うことが今までにあっただろうか。まあ、魔法が放たれているらしいブレスレットを手にしている以上、何処かで出会わざるを得なくなるから、「また」なのだろうけど。
出来れば、もうここにいる人達には会いたくない。そう切に願いながら、オレはアルセーヌを視界から外した。
家に残されたのは、家の主人と、とある居候だけ。人数が減り、静まり返ったかと思われた空間の中、とある居候は、恐る恐るとでもいった様子で主人に話しかけた。
「あのー……」
「なんだい?」
「私、いる意味あったのでしょうか?」
「大アリだよ。我々だけだとちゃんと話してくれないと思って、わざわざ居てもらったんだ。……まあ、余り意味は無かったみたいだけれどね」
「な、なんだかとても責められてる気分……」
落ち込んだ様子で、居なくなったひとりの客人のカップを片付けるそれをよそに、家の主人は、誰に向けるでもなく、心の中でひとつの疑問を提示する。
『彼は、本当に何も覚えていないのだろうか?』と。
◇
「シントくんの家って、どっち?」
「ああ……えっと、市場抜けた先……」
「そっか」
アルセーヌの家を出て、アルベルとふたりで街を歩く。辺りが騒がしいのか、それともオレらが静かなのか。気を抜くと、喧騒に呑まれてしまいそうになる。だけど、それ以外の会話は、広場に着くまでの間交わされることはなかった。
「あー待って、市場はちょっと……」
「え?」
「その……前、図書館で一緒にいた人に捕まるから」
「……嫌なのかい?」
「別に嫌じゃないけど……。そういう気分じゃないっていうか」
「そっか……そうだよね。じゃあ、あっちから行こうか」
オレが来たときと同じ道。図書館側の道を進む。今のこのよく分からない気分のまま、エトガーに会ってしまうのは、流石に止めておきたかった。
結局オレは、何のために呼ばれたのだろう。なんかよく分からない時間だったけど、そういえばアルベルがアルセーヌの家に着く前、「聞きたいことは、路地裏の話じゃないと思う」と言っていた。それはどの話のことを差しているのだろう。あの家で主にした話と言えば、路地裏の話と、ブレスレットの話と、レズリーの話。レズリーについては、今日はじめて話をしたはずだから、恐らく違う。だとするなら、答えを導き出すには簡単だった。
「……アルベルってさあ」
「ん?」
「オレが魔法使えるっぽいってこと、知ってた?」
「あー……まあ、ね。うん」
アルベルは、少しばつが悪そうに肯定した。
「その……僕ら貴族って、魔法の気配みたいなのが分かるんだよ。別に万能って訳でじゃないけどね。僕らより鮮明じゃないかも知れないけど、多分、シントくんも分かるんじゃないかな」
「オレも?」
「ああいや……多分、だけどね」
路地裏にオレが足を運んだ時。アレは確か、ブレスレットが路地裏を示したかのように、光を反射させたから、何となく気になって入ったんだっけ。もしかすると、それがアルベルのいう魔法の気配というものだったのだろうか。
「でも結局、どうしてアルセーヌさんがわざわざきみを家に呼んだのかは、よく分からなかったなあ……」
「あ、そっちの道じゃなくてこっち……」
「え? ああごめん」
別の道を行きそうになるアルベルを引き止め、家へと続く道を歩く。進めば、すぐに靴屋の看板が見えてきた。
「あ……あそこ、あの看板のところ」
余り気は進まないけど、アルベルに家の場所を教える。家のすぐ近くまで来ると、以外だとでもいうような表情を見せた。
「へえ、君の家って靴屋なんだね」
「まあ……うん。家ってわけじゃないけど……」
「ねえ、今度は客として来てもいい?」
「いいけど……貴族が買うような靴はそんなにないと
思うよ。ああでも……」
「ん?」
「いや、なんでもない。なんでもないよ」
危ないところだった。実はオーダーメイドもやってるとか、普通に言ってしまうところだった。そんなこと言ったら、この人は絶対来るような気がする。いやまあ、本当にただの客としてなら、来ても構わないけど。
「じゃあね。また……は、ない方がいいんだけど」
「うん……」
そう言って、アルベルはオレに背を向ける。後ろ姿のアルベルを視界に入れつつ、オレは靴屋の扉を開けた。
「あ、お兄ちゃん帰って来たー」
ベルの音とほぼ同時に聞こえてきたのは、レノンの声だった。
「……ただいま」
「ねえお兄ちゃん、今日はもう家にいる?」
「まあ、外に出る用はもうないけど……」
「じゃあ、ちょっとこっち来て」
「え? うん……」
「早く早くっ!セリシア、お兄ちゃんが帰ってくるのずっと待ってるんだよ」
「待ってた? ……って、ちょっと引っ張らないでって。分かったから」
セリシアがオレを待っているっていうのは、一体どういうことなんだろう。レノンに連れられて、いつもの部屋へとたどり着いた。
「セリシアー、お兄ちゃん帰って来たよー」
セリシアがオレらの方へと振り向く。待っていたとでもいうように、髪の毛がふわりと舞った。
「おにいちゃん……待ってたあ」
な、なんか笑顔がとても眩しい。気がする。オレへと向かって歩いてきたセリシアは、止まりきれなくてぽふっと可愛い音を立ててぶつかってくる。……いや、これは抱きついてるのか?
「これ、おにいちゃんにあげようって思って……」
セリシアがオレに差し出したのは、オレンジ色をした折り紙。よく見ると、どうやらそれはハートの形をしているようだった。
「おかあさんに教えてもらったの……」
「へえ……セリシアが作ったの?」
「うん。皆おそろい」
「僕はね、青なんだよ」
レノンは、何処に隠し持っていたのか、いつの間にか手に持っていた、青いハートをオレに見せる。セリシアが持っているのは黄緑のハート。どういう基準でその色になってるのかは、正直よく分からない。相変わらずというか、ニコニコと笑顔を振りまくセリシアに、若干おされてしまう。どうして、オレにそんな笑顔を向けてくれるのだろうか。小さい子っていうのは、よく分からない。
「あ、ありがとう……」
少し不格好に作られたそれを手に取る。何だろう、この申し訳ないような嬉しいような、何ともよく分からない気持ちは。ただ単に、作ってくれたハートを渡してくれただけなのに、どうしてここまで複雑な気持ちになってしまうのだろう。
「ねえねえお兄ちゃん。一緒に塗り絵やろうよ」
「え、オレが出掛ける前もやってなかった?」
「あれは赤ずきんでしょ? 次はね、オオカミさん塗ろうと思って」
「ふーん……」
オレがいなくなった後、どうやらおじさんに追い出されたらしく、カウンターではなくここに移動して遊んでいたようで、辺りにはクレヨンと折り紙が散乱している。……誰が片付けるんだろう、これ。
「はい、これお兄ちゃんのね」
渡されたのは、さっきレノンが言っていたオオカミの描いてある塗り絵。なんだけど、どうみても塗り途中に見える。
「お兄ちゃんはこの家塗ってね。僕がおおかみで、セリシアがお花なの」
「ああ、そういうことか……。分担ね」
ふたりは、早速小さなテーブルと向き合って塗り絵をはじめる。オレもそれにならって、空いている場所に座った。……二ページに跨がっているとは言え、同じ塗り絵を一緒に塗るっていうのは、何かすんごい窮屈だ。まあ、この人数でやるもんじゃないしね、塗り絵って。いや、そもそもこんな事してないで、色々考えようと思ってたんだけど。流れでやることになってしまったものは、まあしょうがない。塗り絵をしながらでも、考えることくらいは出来るだろう。
適当に手にしたのはオレンジのクレヨン。セリシアから貰った、ハートと同じ色だった。あくまでも塗り絵をしながら、今日言われたことを思い返す。何だっけ?ブレスレットをくれた人が、実は既に死んでて、そのブレスレットにはやっぱり魔法が込められてた……みたいな感じだったっけ。わりと適当に聞いてたから、思い返す程のことは覚えてないけど。
そういえば、市民って魔法は使ったらいけないんじゃ無かったっけ? そのことについては、特に何も言われなかったような気がする。……まあ、別に使おうとも思わないし、そもそも使い方なんて分からない。でも、もし本当にそうだとするなら……。
あの時の、路地裏で誰かに襲われた時。ブレスレットが光を放ったのは、一体なんだったんだろう。あれはオレの意思じゃなくて、ブレスレットが勝手にそうしたんだと思ってたけど、違うのかな……。
「お兄ちゃん、それどこ塗ってるの?」
「え? ……あ、ごめん」
レノンに指摘されてはじめて気付く。分担的には、確か家を塗るはずだったんだけど、家から思いっきりはみ出てる。いや、はみ出てるというか、狙ってやったとしか思えないくらい、それはもう綺麗に空へと突き出していた。
「じゃあ、ここもオレンジにしようよ」
「そんな適当でいいの?何か、既に凄い色になってるけど……」
考え事をしてたから全然気付かなかったけど、セリシアが塗ってる花の色はともかくとして、レノンはオオカミを紫で塗っている。何だこれ。オレは今何をやらされているんだ?
「……なんでオオカミ紫なの?」
「あのね、呪われたおおかみが、その家に入っていくんだよ」
「へえ……」
ちょっと何を言ってるのかよく分からないけど、レノンは何か壮大な話を、塗り絵の中で作り上げているらしい。
「その家の中に何かあるから、オオカミが来たってこと?」
「呪いをとくやつがね、その家の中にあるんだけど。何だかんだでおおかみは、そこに住んでる人に実験台にされるの」
「……せめて、もうちょっと明るい話作って欲しいんだけど」
どうやら、オレが想像していたよりもレノンは重い話を考えていたようだ。
……なんか、なんて言えばいいんだろう。さっきまでの出来事なんて、何もなかったかのように、いつもの日常がそこにはある。皆の知らないところで、いつの間にか魔法の使えるブレスレットを貰ったり、それが原因で、貴族に何度も会う羽目になったりしているというのに。いや、だからこそだったりするのかな……。
そういえば、こうなった切っ掛けのひとつ。あの噴水にいた時に聞こえた声だって、まだ何も分かっていないじゃないか。だけど、とてもじゃないけど、オレを取り巻くそれらを、ひとつひとつ紐解いていく気になんて、今は到底なれない。でも、オレが一番気になっていることは、多分そこじゃない。一体なにがオレにブレーキをかけているのか。どうしてこうも知りたくないのか。
オレ自身のことのはずなのに、それに関しては、自分でもよく分かっていないというのが、不思議でならなかった。
◇
僕がアルセーヌさんの家に戻ってきたのは、シントくんの家へ足を運んでから、十分ほど経った頃だった。
「ああ、戻ってきたんだね」
「ええ……」
アルセーヌさんは、さっき座っていた場所ではなく、ソファへと移動してお茶を嗜んでいる。アルセーヌさんの向かいに置かれている空のカップが、僕の座る場所であるというのはすぐに理解できた。リアさんは、僕が座るよりも前に紅茶を空のカップに注いだかと思うと、気を使ってなのか早々に何処かへと行ってしまう。いや、逃げただなのかも知れないけど。
そもそも、彼女は使用人というわけではないようだし、手伝っていることの方が不思議だけれど。その様子も、やっと慣れてきたところではある。
リアさんが視界から外れ、今ここには僕とアルセーヌさんしかいない。それはつまり、貴族同士のやり取りが行われるということの表れだ。
「今日はすまなかったね。わざわざ足を運んでもらって」
「いえ……」
それは別に構わないのだけれど、どうして僕が今日呼ばれたのか、というのは結局のところわからないままだ。……やっぱり、このまま聞かないでおくというのは、僕には少々難しくて。気付けば、口は勝手に言葉を紡いでいた。
「……ところで、どうして僕は今日呼ばれたんですか?」
「私相手だと、彼はきっと話してくれないだろうと思ってね。それに、あの場に居合わせたキミを呼ぶことは、そこまで不思議なことではないだろう?」
「ま、まあ……そうですね」
確かに、アルセーヌさん相手にああいう話をするのは、どうしてか尋問されている気分になるのはとても分かる。分かるんだけど、何というか、それをアルセーヌさんの口から聞けるとは思わなかったというか。……自覚はあったのか、と思ってしまった。
「シントくんが言っていることは、普通なら信用するには値しないものだと判断するだろうけど、少なくとも、あの話の中に嘘は無いだろうね」
いとも簡単に彼を信用するその言葉が、どうしても僕に不信感を抱かせる。それは、シントくんがどうとかいう話ではなく、その確証は一体どこから来るのだろうという、疑問から来るものだ。
「……どうして、そう思うんですか?」
「さてね?」
アルセーヌさんは、そのたった一言で僕の問いを一蹴りしてしまう。こうなってしまっては、僕の入る余地なんてどこにも存在しないということを、嫌になるくらいには体験しているから、もう何も聞かないけど。そうして、こういう場合は必ずと言っていいくらいに、話が切り替わるのだ。
「それよりも私が問題視しているのは、路地裏にいたもうひとりの人物が、未だに見つかっていないということだ」
……なんというか、どうしたって僕には、この人の考えていることがよく分からない。本当のところ、「私相手だと、彼はきっと話してくれないだろうと思った」のではなく、この話のために僕は呼ばれたのだろうかなんて、そんなことすら思ってしまう。まあ、それはあながち間違いではないのだろうけど。
「……そうですね。あの、その人が既に消えた可能性はあるのでしょうか?」
「無いこともないが、消えた気配に誰も気づかないなんてことはまずないから、可能性としては低いだろうね」
消えた。飛び交うその単語なんてもう聞きなれたも同然だけど、余りいい気はしない。路地裏でシントくんを襲っていたあの人は、貴族が見れば誰でも分かるくらい、明らかに手遅れだった。
魔法を使う資格を持たない市民が、魔法を使うとどうなるか?という問いがあったとするなら、模範的な症状だったように見える。
「まあ、あの人物が犯人かどうかはまた別の話だけれど。……どのみち、あの様子じゃそう長くは持たないだろうさ」
アルセーヌさんのいう人物とは、恐らく路地裏で起きている連続殺人事件のことだろう。犯行が夜中であることと、手掛かりがまるで見つからないという点から、魔法を使える誰かの犯行ではないかという結論に至り、警察の要望によって、僕らは夜中に街を徘徊することになったわけなのだけれど。いい加減進展がないと、犯人が貴族の中にいるだなんて疑われることにもなりかねない。
実際、市民の間ではそういう噂がじわじわと広まっているようで、元から評判は良くない貴族という存在が、噂の種としては丁度よかったのだろう。興味があるのかないのか、アルセーヌさんは手に持っていたカップをテーブルに置き、ソファの背もたれに寄りかかる。
「ま、我々が探さなくてもそろそろ動き出すんじゃないかな? その、路地裏で横行している通り魔の犯人が」
「……そうですね」
僕ら貴族は、ある程度魔法の気配が分かるとはいえ、街を隅から隅までしらみ潰しに当たるというのは、幾らなんでも限界がある。やっぱり、犯行時間を考えても夜中に街を徘徊すると手段が、一番確実なのだろうか。
アルセーヌさんは、この話に飽きたとでもいうように息を吐く。そして次に紡がれた言葉は、案の定今までとは違うものだった。
「……それはそうと、キミはシント君のことに関しては、特になにも聞かないんだね?」
「……はい?」
「いや、もう少し何か聞かれるかと思っていたからね」
そういえば、確かにシントくんに関してのことは余り聞いていなかったかも知れない。図書館でシントくんに出会った後、一度だけアルセーヌさんに「どうしてわざわざ家に呼ぶんですか?」と聞いたくらいで、確かにそれ以外はほぼふたりの会話をなんとなく聞いていただけだ。
正直なところ、そこに関する興味は余りないというか。不可抗力なのか、魔法を使えるようになってしまったというのには、同情に近い感情はあれど、そもそもアルセーヌさんが教えてくれないのだから、どうしようもないような気もするが。
「……いやだって、普通の市民ですよね? 魔法に全然興味なさそうでしたし。寧ろ嫌ってたというか……」
多分、魔法を使えるけど使わないでいる市民なんて、僕らが知らないだけで一定数は存在していると思う。僕からすれば、彼はそれだけの存在に過ぎないのではないかというのが、正直な感想だった。
「……たかが市民だと、本当にそう思うかい?」
「え?」
ああ、まただ。この含みのある言い方。これに僕は何度も翻弄されてきたし、ある意味では騙されてきたとも言えるかも知れない。今の段階だと、僕の持っている情報が少な過ぎてどうとも言えないけど、唯一、これだけは確信が持てた。
僕は、知らない間に面倒なことに首を突っ込んでしまっているのだということ。
「彼をわざわざここまで呼んだのは、彼が事件に関わっていないかどうかを確かめたかったというのは勿論あるが……」
そして、何かを見据えていたような瞳。それが、この人は僕が知らない何かを知っていると、そう確信づけるのには十分だった。
「不思議には思わなかったのかな?キミの言うたかが市民という存在を、わざわざ家に招待するだなんて普通はしないさ。……普通は、ね?」
こういう言い方。この人と話していればよく耳にするけど、端的に言えばアルセーヌさんはとてもずるい。そんな言い方をされたら、嫌でも気になってしまうじゃないか。そんな言葉を飲み込むようにして、僕はすっかり冷めてしまった紅茶を口に含んだ。