「何ここ……」
振り向いた視線の先には、オレを呼んだであろう人物は誰一人としていない。それは、街の人も例外ではなかった。
さっきまでいたはずの子供も、貴族の噂をしていた大人達の姿も、何処にもいない。強いて言うのであれば、噴水がいつまでも空を舞うように動かしているだけ。
そのはずなのだけれど、明らかにおかしい。噴水の音すらも、今のオレには聞こえていない。誰かがいる気配すらも、感じなかった。でも、不思議と恐怖というようなものは感じない。だけれど、この異様な空間に少なからずオレは動揺していた。
駄目だ、落ち着いて考えよう。ここに長居してはいけないのは確かだけれど、多分抜け出せる。オレを取り巻いているのは脅かしい空気ではない。どちらかと言えば、優しい風が流れているようにも感じる。
辺りを見回しても、さっきオレがいた場所との違いと言えば、人の気配が無く、そしてやけに静かであるということくらいだろうか。それ以外は、至って普通の街並みだ。
「靴屋……」
自然と、次に行く先が口から零れる。そうだ、ここにいてもどうしようもない。靴屋に向かったところでどうにかなるとも思っていないけど、とにかくオレは歩き出す。向かった先は、ここに来るときも通った市場だった。
どこか、微妙に違うように感じる景色が周りを飛び交う中、いつもなら人で溢れている市場に辿り着く。そこには、本来の賑わっている市場のなど何処にもなく、全てを残したまま、まるで、オレだけを置いて誰もいなくなってしまったかのような静寂に包まれていた。
少し歩くと、エトガーのいる小物売り屋にたどり着く。だが、そこにはいつもいるはずのエトガーの姿はない。その事実が、ここは別の世界であるという事実に拍車をかけているかのようだった。
「……本当に、誰もいないのかな」
いや大丈夫。そう自分に言い聞かせるように、オレは足早に進む。この先、市場を抜けて少ししたところに行けば、いつもなら靴屋があるはずだ。いつもなら、の話だけれど。しかし靴屋に行って一体どうするのだろう? そんな思考が、オレの足を止めた。
行ったところで、多分誰もいないであろうことは、エトガーがいなかったということが証明している。でも、それでもいい。誰か頼れる人を、オレを知っている人をと、求めるように足はまた動いていた。もういいや。誰かがいたところでどうなるのかも分からないし、その時にまた考えるしかない。他に行く宛なんてないし。ただそれだけの理由で市場を抜ける。
来た道と同じ、ここを左に曲がって暫くしたら店の看板が見えてくるはず。そう、あの『Dear place』の看板。それが見えてきたってことは大丈夫。心臓の音だけが五月蠅くなかで、今まで静けさに溢れていたはすの街に、聞こえるはずのない鈴が響いた。いきなりのことで思わず足を止める。
あと数十メートル先にある靴屋。静かな街に響いたのは、靴屋の扉が開閉するときに鳴るそれだった。
『じゃあ、帰りにまた顔出すよ』
『おう、気を付けてな』
店から出てきたのは、どこか若く見えるマーティスおじさんと、ひとりの子供を連れた夫婦だ。
『ほら、バイバイって』
『またねー』
そう言って店を後にした家族は、オレに気づく気配もなく目の前を通りすぎていく。彼らが歩いていくのを何をするでもなく眺めていると、その人たちが、歩く度に少しずつ薄く透明になっていくのが分かった。
それらは次第に背景と同化していき、空へと消えていく。
「今の……」
呟いた先には、もう誰もいない。オレは、その人たちが消えていった事に驚いている訳では決してなく、ただ、もう何処にもいない夫婦が向かっていった先を呆然と眺めていた。ふと我に返り、靴屋のほうへ体を向けるけど、既におじさんの姿はなかった。それよりも、消えてしまった家族が一体向かっていったのか。それが気になって仕方がない。だって、さっきの人達は……。
もうどこにもいないそれらの向かった先。ふと視線を逸らすと、ひとつのか細い道がオレの視界に入る。それは、普段なら入ることはない路地裏だ。
何となく。そう、本当に何となく、その先に続いているであろう何処かにたどり着けば、何かが分かる。オレの求めていたものだその先にある。だから、オレは嫌でも行かなければならない。そんな気がした。そう思うよりも前に、既に走り出していた。何処に続くかも分からない道を前に、一瞬の迷いが生じる。でも、オレは走り続けた。
不思議なことに、自分の足は最初から全てを知っているかのように勝手に進み、複雑に作られた道を歩んでいく。路地裏の奥の奥。そう、ここだ。多分だけれど、この場所をオレはよく知っている。今考えていることが正しいとするなら、この先にあるものは――
「あった……」
路地裏を抜けた先。そこにあったのは、貴族でも住んでいそうな、大きな屋敷。この一連の流れ、自分が起こした行動に、不思議と違和感なんていうものは感じなかった。
◇
その場所、屋敷には木漏れ日がはらはらと舞っていて、今まで見た場所に比べたら何処となく明るい雰囲気が漂っている。それは、オレの警戒心を解くかのような光景だった。
「こんなところに、屋敷なんてあったっけ……」
そう口にして、オレは初めて自分の言っていることと、ここに来るまでに感じたことが矛盾しているということに気付く。ここに屋敷があるということを、オレは最初から知っていたかのようにここまで来たけれど、そういう訳じゃない。だって路地裏なんて入ったこともないし、屋敷があるなんてそんなの――。
本当に、知らなかったのだろうか?
ギイッ……と、重そうな扉が音を立てて開かれたのは、目の前にそびえ立つ屋敷の玄関。そこから現れたのは、いかにも貴族らしい、この屋敷に似合うような恰好をした男の人だった。
『……そんなところに立っていないで、入ったらどうだい?』
どこかで聞いたことのある声。その声は、ここに来る直前にオレを呼んだ声にとてもよく似ていたが、そんなことはもうどうでもよかった。
『立ち話もなんだから、入って話でもしない?』
「え、でも……」
『そんなに心配しなくても大丈夫だよ。別に、キミをどうこうしようだなんて思っていないからね』
知らない場所で、知らない人に誘われるという異様な事態に、恐怖こそはなかったものの、混乱はしていた。いや、なんで路地裏に住んでいる知らない人と喋っているんだ?ここに来たのは確かにオレの意思だったけど、そんなことをしている場合なんかじゃないということは分かる。
意味不明な空間なんかじゃなくて、本来いた場合に早く帰りたい。ただそれだけなのに、どうしてこんなことになっているのだろうか。それがどうにも分からない。
『……というより、暇なんだよね』
「え?」
『だから、相手してくれると嬉しいな』
思ってもなかった言葉に、思わず呆けた声が出てしまう。……なんていうか、色々と考えているこっちが馬鹿みたいな、そんな気分になった。この人の言っている言葉が、嘘か本当かは分からない。でも、戻ったところで元の場所に帰れるかは分からないし、帰る術が分からないのならば、この人の言うことを信じてみるというのもアリかも知れない。
オレの気持ちなんていざ知らず、その貴族らしい人は玄関からこちらへ歩いてくる。鈍く響いた鉄格子の音が、オレを招き入れる合図だった。
『さ、庭で申し訳ないけれど案内するよ』
「ちょっと待って、その前にひとつだけ!」
一応確認のためにと、その人の言葉を遮る。こうでもしないと、自分の中で、この人に対する信用というものを生み出せなかったのだ。
「……オレ、帰れるよね?」
その問いに、男はにこっと笑みを浮かべるだけ。オレはそれが肯定なのだと無理矢理結論づける。だってオレは、その微笑みを知っているような気がしたから。
だけど、それが一体何を意味するのかなんて、この時は気にする余裕を持ち合わせていなかった。
◇
『ちょうど、庭でお茶でもしようと思っていたんだ』
言われるがまま庭に案内され、足を運ぶ。綺麗に整備されているのがよく分かるけど、ひとつ気になったのは、庭に置かれている噴水だけが酷く汚れていることだ。
庭の中心には、四人がけの白いテーブルふたつにイスがいくつか置かれている。ふわりと、紅茶の匂いが漂ってくるのが分かった。
テーブルの上には、ティーポットにティーカップ。それと、お皿の上に綺麗に並べられたクッキーが用意されている。だけど、用意されているそれらの数は、オレの想像していた量ではなかった。
『……警戒してる?』
「いや、何て言うか……。ティーカップの数多いなあと思って」
ティーカップの数は全部で四。庭には、オレとこの人の姿しか見えない。それに、さっきこの人は「ちょうどお茶をしようとしていた」らしいし、この数はどう見ても不自然だった。
『ああ、これか……』
言いながらティーカップを手に取ったかと思うと、カップは光の粒と化し、跡形もなく消えてしまった。それは、一般市民であるなら関わりたくないであろう存在。
『ほら、これで気にならないだろう?』
明らかに、魔法そのものだった。
「……魔法、使えるんだね」
こんな大きな屋敷に住んでいるのだから、少し考えればそれは当然かもしれない。魔法を使えるということはどういう事かなんて、考えなくても分かる。この人は貴族なのだろう。
『さあ、座ってくれ。余り良いもてなしとは言えないけれど……』
促されるまま、四つあるイスから適当にひとつを選んで座る。普通に暮らしていれば、まず起こらない状況だから、というのもあるけど、こういうのはどうにも落ち着かない。光の舞う屋敷の庭の中で、オレだけが異質な存在のようだった。
屋敷の主は、テーブルを挟んでオレの前に座った。「さて……」と息をつき、優しく微笑むその様子が、何故だかとても懐かしく感じてしまう。この人とははじめて出会ったはずなのに、だ。
『何から話をしようか。君が私に聞きたい事は沢山あるかも知れないけれど、そう長居はさせられないからね』
風のそよぐ音が、沈黙を訪れていることを告げる。どうやら、オレが質問をする番のようだった。
「……ここ、オレがいた世界じゃないよね?」
世界、というのとは少し違う気がするけれど、それ以外に適切な言葉が見付からなかった。
『そうだね……。簡単にいうのなら、ここは時空と時の流れが少しだけ違う、私の家に続くだけの空間かな。限られた人間しか入れないように、私が作り上げたものだよ』
「限られた……?」
『そう。だから、君がここにいるということは一体どういうことか……。分かるよね?』
限られた人間しかここには来れない。という事は、オレはその限られた人間であるらしいのだけれど……。正直、いまいちピンとこない。
「でもオレ、普通に街歩いてただけなんだけど……」
そうは言うものの、ふと思う。ここに来る前、オレは誰かの声を聞いた。その声の主は誰だった?
紛れもなく、目の前にいるこの男の声じゃないか。
「……オレのこと呼んだよね?」
『呼んだ……?』
彼はきょとんとした様子でオレを見つめる。でもそれは本当に一瞬で、その人はすぐに笑みを浮かべて言葉を口にする。
『ああいや……。呼んだら道が通じるかと思ってね。急だったのは申し訳ないと思ってるよ』
何か含みを帯びた言い方だが、つまりオレがここに来たのは意図的では無かったという事なのだろうか。さっきの、オレが「ここに呼んだよね?」という質問をした時の反応からすると、もしかして、オレを呼んだのはこの人じゃないのだろうか……?
『……そういえば、君にはこれを渡さないといけないね』
その人は何かを思い出したかのように、徐に空に手を出す。すると、小さな光の粒が手のひらに集まっていくのが分かった。その様子は、まるで何かが意思を持っているかのようで、その光の粒がひとつに集まると、何かに形成されていくのが分かった。
『はい。これがあれば、いつでもここに来れるから、出来れば大事に持っていて欲しいな』
「え……」
光の粒が型どったのは、ひとつのブレスレットだ。
「いいよ別に……。っていうかいらな……」
『何なら、私が付けてあげようか?』
「い、いいってば……ちょ、ちょっと待っ……分かったよ付けるから待って!」
危うく手首を掴まれそうになり、咄嗟にブレスレットを手に取ってしまう。オレンジとピンク。そして透明な丸い何かで作られたそれは、まるで光をまとっているかのように感じる。魔法から作られたからだろうか?
庭へと落ちてくる太陽の光をブレスレットが反射したかと思うと、オレの左手首に付けられたブレスレットは、先程にも増してキラキラと光を放ち始めた。
「光ってる……?」
『ああ、良かった……。間違っていたらどうしようかと思っていたけど、やっぱり君はシント君なんだね』
「え?」
その様子、目の前の男は何処か安堵したかのような、優しい眼差しをオレに向けている。だけれどその表情は、オレの目にはどこか少し寂しそうに見えた。
「……なんでオレの名前知ってるの?」
『ふふ、さてね』
どうしてオレの名前を知っているのか。その問いを軽くかわされてしまう。だが、彼は口を動かすことを止めなかった。
『今日、君がここに来てしまったのは、ちょっと異常な出来事だから、魔法が警告しているんだよ。ここに長居してはいけないってね』
「魔法、って……ええ?」
魔法。その単語が聞こえると、自然に身構えてしまう。それは市民であるなら当然なのかも知れないけど、自身の行動とは裏腹に、どうしてこんなにもその単語に異常なまでの反応を示してしまうのか。その疑問が、頭にこびりついて離れない。
『そんなに心配することはないさ。そのブレスレットは、キミを導き守ってくれる存在のはずだから』
「……何言ってるのか、よく分かんないよ」
『分からないなら、まだそれを知る時ではないってことじゃないかな?』
ブレスレットから放たれる光は、より一層輝きを増していく。それは、本当にオレへの警告をしているようで、大げさに言うなら、まるで意志を持っているようにも見えた。
『さて、そろそろ君を戻してあげないと危険だね』
そう言うと、男は徐に立ち上がりテーブル越しにオレに向けて手をかざす。その行動に共鳴するかのように、光がオレを包み始めた。
『今日は私が向こうへ戻すけれど、そのブレスレットがあれば、いつでもここに来られるはずだから、話はまた君がここに来た時でもいいかな?ああ、勿論すぐに来てくれても構わないけど』
「え、待ってよ。オレは……!」
『……じゃあ、またね』
彼の言葉が紡がれるその前に、彼の周りで白く染まったそれらは、庭をも全て包み込む。
少しずつ、少しずつ光が消え、先程までいたシントという人物の姿は何処にもいない事が確認できる。庭にひとり取り残された人物は、それに安堵したのか再び席についた。
さらさらとなびく風の音と、カップに注がれる紅茶の音が、静寂をかき消すように響く。男は何かを思い出したかのように、注がれている紅茶と共にカップに言葉を落とす。
『声、か……』
紅茶を何口か飲み、手に持っているそれをテーブルの上に置く。再び訪れた静寂の中、誰に言うでもなく言葉が紡がれた。
『彼をここに呼んだのは、一体誰の仕業だろうね?』
振り向いた視線の先には、オレを呼んだであろう人物は誰一人としていない。それは、街の人も例外ではなかった。
さっきまでいたはずの子供も、貴族の噂をしていた大人達の姿も、何処にもいない。強いて言うのであれば、噴水がいつまでも空を舞うように動かしているだけ。
そのはずなのだけれど、明らかにおかしい。噴水の音すらも、今のオレには聞こえていない。誰かがいる気配すらも、感じなかった。でも、不思議と恐怖というようなものは感じない。だけれど、この異様な空間に少なからずオレは動揺していた。
駄目だ、落ち着いて考えよう。ここに長居してはいけないのは確かだけれど、多分抜け出せる。オレを取り巻いているのは脅かしい空気ではない。どちらかと言えば、優しい風が流れているようにも感じる。
辺りを見回しても、さっきオレがいた場所との違いと言えば、人の気配が無く、そしてやけに静かであるということくらいだろうか。それ以外は、至って普通の街並みだ。
「靴屋……」
自然と、次に行く先が口から零れる。そうだ、ここにいてもどうしようもない。靴屋に向かったところでどうにかなるとも思っていないけど、とにかくオレは歩き出す。向かった先は、ここに来るときも通った市場だった。
どこか、微妙に違うように感じる景色が周りを飛び交う中、いつもなら人で溢れている市場に辿り着く。そこには、本来の賑わっている市場のなど何処にもなく、全てを残したまま、まるで、オレだけを置いて誰もいなくなってしまったかのような静寂に包まれていた。
少し歩くと、エトガーのいる小物売り屋にたどり着く。だが、そこにはいつもいるはずのエトガーの姿はない。その事実が、ここは別の世界であるという事実に拍車をかけているかのようだった。
「……本当に、誰もいないのかな」
いや大丈夫。そう自分に言い聞かせるように、オレは足早に進む。この先、市場を抜けて少ししたところに行けば、いつもなら靴屋があるはずだ。いつもなら、の話だけれど。しかし靴屋に行って一体どうするのだろう? そんな思考が、オレの足を止めた。
行ったところで、多分誰もいないであろうことは、エトガーがいなかったということが証明している。でも、それでもいい。誰か頼れる人を、オレを知っている人をと、求めるように足はまた動いていた。もういいや。誰かがいたところでどうなるのかも分からないし、その時にまた考えるしかない。他に行く宛なんてないし。ただそれだけの理由で市場を抜ける。
来た道と同じ、ここを左に曲がって暫くしたら店の看板が見えてくるはず。そう、あの『Dear place』の看板。それが見えてきたってことは大丈夫。心臓の音だけが五月蠅くなかで、今まで静けさに溢れていたはすの街に、聞こえるはずのない鈴が響いた。いきなりのことで思わず足を止める。
あと数十メートル先にある靴屋。静かな街に響いたのは、靴屋の扉が開閉するときに鳴るそれだった。
『じゃあ、帰りにまた顔出すよ』
『おう、気を付けてな』
店から出てきたのは、どこか若く見えるマーティスおじさんと、ひとりの子供を連れた夫婦だ。
『ほら、バイバイって』
『またねー』
そう言って店を後にした家族は、オレに気づく気配もなく目の前を通りすぎていく。彼らが歩いていくのを何をするでもなく眺めていると、その人たちが、歩く度に少しずつ薄く透明になっていくのが分かった。
それらは次第に背景と同化していき、空へと消えていく。
「今の……」
呟いた先には、もう誰もいない。オレは、その人たちが消えていった事に驚いている訳では決してなく、ただ、もう何処にもいない夫婦が向かっていった先を呆然と眺めていた。ふと我に返り、靴屋のほうへ体を向けるけど、既におじさんの姿はなかった。それよりも、消えてしまった家族が一体向かっていったのか。それが気になって仕方がない。だって、さっきの人達は……。
もうどこにもいないそれらの向かった先。ふと視線を逸らすと、ひとつのか細い道がオレの視界に入る。それは、普段なら入ることはない路地裏だ。
何となく。そう、本当に何となく、その先に続いているであろう何処かにたどり着けば、何かが分かる。オレの求めていたものだその先にある。だから、オレは嫌でも行かなければならない。そんな気がした。そう思うよりも前に、既に走り出していた。何処に続くかも分からない道を前に、一瞬の迷いが生じる。でも、オレは走り続けた。
不思議なことに、自分の足は最初から全てを知っているかのように勝手に進み、複雑に作られた道を歩んでいく。路地裏の奥の奥。そう、ここだ。多分だけれど、この場所をオレはよく知っている。今考えていることが正しいとするなら、この先にあるものは――
「あった……」
路地裏を抜けた先。そこにあったのは、貴族でも住んでいそうな、大きな屋敷。この一連の流れ、自分が起こした行動に、不思議と違和感なんていうものは感じなかった。
◇
その場所、屋敷には木漏れ日がはらはらと舞っていて、今まで見た場所に比べたら何処となく明るい雰囲気が漂っている。それは、オレの警戒心を解くかのような光景だった。
「こんなところに、屋敷なんてあったっけ……」
そう口にして、オレは初めて自分の言っていることと、ここに来るまでに感じたことが矛盾しているということに気付く。ここに屋敷があるということを、オレは最初から知っていたかのようにここまで来たけれど、そういう訳じゃない。だって路地裏なんて入ったこともないし、屋敷があるなんてそんなの――。
本当に、知らなかったのだろうか?
ギイッ……と、重そうな扉が音を立てて開かれたのは、目の前にそびえ立つ屋敷の玄関。そこから現れたのは、いかにも貴族らしい、この屋敷に似合うような恰好をした男の人だった。
『……そんなところに立っていないで、入ったらどうだい?』
どこかで聞いたことのある声。その声は、ここに来る直前にオレを呼んだ声にとてもよく似ていたが、そんなことはもうどうでもよかった。
『立ち話もなんだから、入って話でもしない?』
「え、でも……」
『そんなに心配しなくても大丈夫だよ。別に、キミをどうこうしようだなんて思っていないからね』
知らない場所で、知らない人に誘われるという異様な事態に、恐怖こそはなかったものの、混乱はしていた。いや、なんで路地裏に住んでいる知らない人と喋っているんだ?ここに来たのは確かにオレの意思だったけど、そんなことをしている場合なんかじゃないということは分かる。
意味不明な空間なんかじゃなくて、本来いた場合に早く帰りたい。ただそれだけなのに、どうしてこんなことになっているのだろうか。それがどうにも分からない。
『……というより、暇なんだよね』
「え?」
『だから、相手してくれると嬉しいな』
思ってもなかった言葉に、思わず呆けた声が出てしまう。……なんていうか、色々と考えているこっちが馬鹿みたいな、そんな気分になった。この人の言っている言葉が、嘘か本当かは分からない。でも、戻ったところで元の場所に帰れるかは分からないし、帰る術が分からないのならば、この人の言うことを信じてみるというのもアリかも知れない。
オレの気持ちなんていざ知らず、その貴族らしい人は玄関からこちらへ歩いてくる。鈍く響いた鉄格子の音が、オレを招き入れる合図だった。
『さ、庭で申し訳ないけれど案内するよ』
「ちょっと待って、その前にひとつだけ!」
一応確認のためにと、その人の言葉を遮る。こうでもしないと、自分の中で、この人に対する信用というものを生み出せなかったのだ。
「……オレ、帰れるよね?」
その問いに、男はにこっと笑みを浮かべるだけ。オレはそれが肯定なのだと無理矢理結論づける。だってオレは、その微笑みを知っているような気がしたから。
だけど、それが一体何を意味するのかなんて、この時は気にする余裕を持ち合わせていなかった。
◇
『ちょうど、庭でお茶でもしようと思っていたんだ』
言われるがまま庭に案内され、足を運ぶ。綺麗に整備されているのがよく分かるけど、ひとつ気になったのは、庭に置かれている噴水だけが酷く汚れていることだ。
庭の中心には、四人がけの白いテーブルふたつにイスがいくつか置かれている。ふわりと、紅茶の匂いが漂ってくるのが分かった。
テーブルの上には、ティーポットにティーカップ。それと、お皿の上に綺麗に並べられたクッキーが用意されている。だけど、用意されているそれらの数は、オレの想像していた量ではなかった。
『……警戒してる?』
「いや、何て言うか……。ティーカップの数多いなあと思って」
ティーカップの数は全部で四。庭には、オレとこの人の姿しか見えない。それに、さっきこの人は「ちょうどお茶をしようとしていた」らしいし、この数はどう見ても不自然だった。
『ああ、これか……』
言いながらティーカップを手に取ったかと思うと、カップは光の粒と化し、跡形もなく消えてしまった。それは、一般市民であるなら関わりたくないであろう存在。
『ほら、これで気にならないだろう?』
明らかに、魔法そのものだった。
「……魔法、使えるんだね」
こんな大きな屋敷に住んでいるのだから、少し考えればそれは当然かもしれない。魔法を使えるということはどういう事かなんて、考えなくても分かる。この人は貴族なのだろう。
『さあ、座ってくれ。余り良いもてなしとは言えないけれど……』
促されるまま、四つあるイスから適当にひとつを選んで座る。普通に暮らしていれば、まず起こらない状況だから、というのもあるけど、こういうのはどうにも落ち着かない。光の舞う屋敷の庭の中で、オレだけが異質な存在のようだった。
屋敷の主は、テーブルを挟んでオレの前に座った。「さて……」と息をつき、優しく微笑むその様子が、何故だかとても懐かしく感じてしまう。この人とははじめて出会ったはずなのに、だ。
『何から話をしようか。君が私に聞きたい事は沢山あるかも知れないけれど、そう長居はさせられないからね』
風のそよぐ音が、沈黙を訪れていることを告げる。どうやら、オレが質問をする番のようだった。
「……ここ、オレがいた世界じゃないよね?」
世界、というのとは少し違う気がするけれど、それ以外に適切な言葉が見付からなかった。
『そうだね……。簡単にいうのなら、ここは時空と時の流れが少しだけ違う、私の家に続くだけの空間かな。限られた人間しか入れないように、私が作り上げたものだよ』
「限られた……?」
『そう。だから、君がここにいるということは一体どういうことか……。分かるよね?』
限られた人間しかここには来れない。という事は、オレはその限られた人間であるらしいのだけれど……。正直、いまいちピンとこない。
「でもオレ、普通に街歩いてただけなんだけど……」
そうは言うものの、ふと思う。ここに来る前、オレは誰かの声を聞いた。その声の主は誰だった?
紛れもなく、目の前にいるこの男の声じゃないか。
「……オレのこと呼んだよね?」
『呼んだ……?』
彼はきょとんとした様子でオレを見つめる。でもそれは本当に一瞬で、その人はすぐに笑みを浮かべて言葉を口にする。
『ああいや……。呼んだら道が通じるかと思ってね。急だったのは申し訳ないと思ってるよ』
何か含みを帯びた言い方だが、つまりオレがここに来たのは意図的では無かったという事なのだろうか。さっきの、オレが「ここに呼んだよね?」という質問をした時の反応からすると、もしかして、オレを呼んだのはこの人じゃないのだろうか……?
『……そういえば、君にはこれを渡さないといけないね』
その人は何かを思い出したかのように、徐に空に手を出す。すると、小さな光の粒が手のひらに集まっていくのが分かった。その様子は、まるで何かが意思を持っているかのようで、その光の粒がひとつに集まると、何かに形成されていくのが分かった。
『はい。これがあれば、いつでもここに来れるから、出来れば大事に持っていて欲しいな』
「え……」
光の粒が型どったのは、ひとつのブレスレットだ。
「いいよ別に……。っていうかいらな……」
『何なら、私が付けてあげようか?』
「い、いいってば……ちょ、ちょっと待っ……分かったよ付けるから待って!」
危うく手首を掴まれそうになり、咄嗟にブレスレットを手に取ってしまう。オレンジとピンク。そして透明な丸い何かで作られたそれは、まるで光をまとっているかのように感じる。魔法から作られたからだろうか?
庭へと落ちてくる太陽の光をブレスレットが反射したかと思うと、オレの左手首に付けられたブレスレットは、先程にも増してキラキラと光を放ち始めた。
「光ってる……?」
『ああ、良かった……。間違っていたらどうしようかと思っていたけど、やっぱり君はシント君なんだね』
「え?」
その様子、目の前の男は何処か安堵したかのような、優しい眼差しをオレに向けている。だけれどその表情は、オレの目にはどこか少し寂しそうに見えた。
「……なんでオレの名前知ってるの?」
『ふふ、さてね』
どうしてオレの名前を知っているのか。その問いを軽くかわされてしまう。だが、彼は口を動かすことを止めなかった。
『今日、君がここに来てしまったのは、ちょっと異常な出来事だから、魔法が警告しているんだよ。ここに長居してはいけないってね』
「魔法、って……ええ?」
魔法。その単語が聞こえると、自然に身構えてしまう。それは市民であるなら当然なのかも知れないけど、自身の行動とは裏腹に、どうしてこんなにもその単語に異常なまでの反応を示してしまうのか。その疑問が、頭にこびりついて離れない。
『そんなに心配することはないさ。そのブレスレットは、キミを導き守ってくれる存在のはずだから』
「……何言ってるのか、よく分かんないよ」
『分からないなら、まだそれを知る時ではないってことじゃないかな?』
ブレスレットから放たれる光は、より一層輝きを増していく。それは、本当にオレへの警告をしているようで、大げさに言うなら、まるで意志を持っているようにも見えた。
『さて、そろそろ君を戻してあげないと危険だね』
そう言うと、男は徐に立ち上がりテーブル越しにオレに向けて手をかざす。その行動に共鳴するかのように、光がオレを包み始めた。
『今日は私が向こうへ戻すけれど、そのブレスレットがあれば、いつでもここに来られるはずだから、話はまた君がここに来た時でもいいかな?ああ、勿論すぐに来てくれても構わないけど』
「え、待ってよ。オレは……!」
『……じゃあ、またね』
彼の言葉が紡がれるその前に、彼の周りで白く染まったそれらは、庭をも全て包み込む。
少しずつ、少しずつ光が消え、先程までいたシントという人物の姿は何処にもいない事が確認できる。庭にひとり取り残された人物は、それに安堵したのか再び席についた。
さらさらとなびく風の音と、カップに注がれる紅茶の音が、静寂をかき消すように響く。男は何かを思い出したかのように、注がれている紅茶と共にカップに言葉を落とす。
『声、か……』
紅茶を何口か飲み、手に持っているそれをテーブルの上に置く。再び訪れた静寂の中、誰に言うでもなく言葉が紡がれた。
『彼をここに呼んだのは、一体誰の仕業だろうね?』