ぺらり、と静かな店に響く新聞をめくる音は、誰の耳にも止まることなく地面に零れ落ちた。特になにを読んでいるという訳ではないが、今のオレは他にすることが無いのである。
「……暇だ」
そう、簡単にいうと暇なのだ。
オレがいるこの店 『Dear place』は、靴屋であると共に靴の修理とか、オーダーメイドとかも担っている。どちらかというとオーダーメイドの方をメインとしているから、どうしても飛び入りで入って来る人はそんなに多くない。オレはこの店の手伝いとか接客とか、その他雑用っぽいことを一応している。つまり客がいない今、オレはすることが殆どないのだ。
靴屋の店主であるマーティスおじさんが靴を修理する音と、微かに流れている音楽が店内に響く中、オレは特に意味もなく新聞をめくった。今朝届いた新聞には、こんな見出しが書いてある。
『路地裏でまたも遺体発見。やはり連続殺人か』
最近の新聞は、この類の話で持ちきりだ。
路地裏で見つかった遺体は、この二週間で四人。遺体が見つかった場所は全部路地裏ということ。遺体の死亡推定時刻が午前零~三時頃だということ。遺体に複数の刺し傷がある為、通り魔ではなく明らかに殺意を持った人物の犯行っである可能性が高いということが分かっているが、いずれも、犯人の証拠となり得るほどの決定的なものがなにも残っていないことから、詳しいことは分かっておらず、魔法絡みの可能性も考えられるとして、貴族に協力を依頼しているとか何とか。
警察が対応できない事件は、魔法という市民が使えない存在が関係している場合があるとされ、魔法を使える存在である貴族に回されることが多いらしい。
実際はどうなのかは分からないけど、警察の監督不行き届きなだけで、別に魔法なんて関係ないんじゃないかと思うことが多いけど、今回は捜査が難航しているようだから、本当に魔法が関係しているのかも知れない。
魔法は、貴族にしか使うことが許されていないから、魔法絡みの事件である可能性があるだけで大問題なのだろうけど、正直なところ、普通に暮らしていれば余りピンとはこない。
当たり前ではあるが、どうやって魔法を使えるのかなんて、一般市民のオレらが知る術なんてない。つまり、市民が魔法を使えるということはあり得ないのだ。
魔法についてなんて別に考えたくもないけれど、こう毎日貴族だ魔法だといった記事ばかりだと、考えざるを得なくなるというものである。オレは別にどうでもいいんだけど、どういうわけか、貴族を余りよく思っていない市民が多いらしい。
地位が高い存在は、得てしてそういう対象になってしまうのだろうけど、確かに余り関わりたくはないとは思う。なんとなく、面倒ごとに巻き込まれそうだから。という曖昧な理由だけがそこにはあった。
「シントお兄ちゃーん」
奥の扉からオレを呼ぶ声が聞こえてくる。声の主は、この家の長男であるレノンだろう。
「シントお兄ちゃん、お母さんが……って、また新聞読んでるの?」
「うん。ちょっと暇すぎてね……」
「面白い?」
「毎日似たような内容ばっかりだから、あんまり面白くないよ」
「ふーん……」
「……で、おばさんがなんだって?」
「そうそう。お兄ちゃんが暇そうにしてたら呼んできてって」
暇そうにしてたら。ということは、そんなに緊急な用事というわけでは無いのだろか。買い物に行ってほしいと言われることはあるけど、行くにはまだ早いような気がする。暇なことは確かなので、伝えに来てくれたレノンにお礼を言いつつ、オレはおばさんのいるであろう作業場に足を運んだ。
「おばさん、呼んだ?」
「あ、シントくん。ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」
オレが入った時、おばさんは何かと向き合って難しい顔をしていた。多分あれだ、帳簿ってやつだ。
「私ちょっと手が離せなくて……。代わりに買い物行ってくれたら嬉しいなぁって」
「それはいいけど……ちょっと早くない?」
「でもほら、最近お客さんも少ないし……。それに、たまにはそういうのも悪くないでしょ?」
普段は聞くことのないおばさんの言葉に、思わず首を傾げてしまう。もしかして、だけど、おばさんはオレに息抜きをしろと言いたいのだろか。息抜きしてこい、だとオレが行かないから、そういう言い方をしているんじゃないか、子供ながらにそう思ってしまった。
「行くのはいいけど……本当にいいの?」
「良いもなにも、私が良いって言ってるんだから、そこは好意に甘えて欲しいんだけど……」
「わ、分かったよ……。うん、行ってくる」
その言葉で、オレは確信した。
ああ、オレはまた気を使わせてしまっているのか。
いかないって言うと、多分おばさんは少し悲しそうな顔をするのだろう。それが嫌だったオレは、余り気乗りはしなかったけれど、少し早い買い物に出ることにした。
店に戻ると、静かな店にどこかで聴いたことがあるような、ないような。そんな音楽が流れている。それが、より静けさに拍車をかけている気がした。
オレを呼びに来てくれたレノンは、おじさんに構ってくれと言わんばかりに絡みついている。どうやら仕事の邪魔をしているようだった。
オレが出かけることを知ると、レノンは「いってらっしゃーい」といつものように手を降ってくれる。それに応えるようにしてオレも手を振り返し、店の扉に手をかける。開閉時に鳴るベルが店に響き渡り終える前に、オレは店から姿を消した。
◇
「さて、どこ行こうかな……」
こうして外に出たのはいいが、目的のないオレは、行く宛もなく街をフラフラしているしかなかった。いわゆる散歩ってやつだけれど、オレの住んでいる街はそれなりに大きいが、これといって行くところがあるわけでもない。まあ、子供が行くところなんて限られているけど、強いて言うならそれなりに色々と売ってる市場があるのと、貴族持ちの大きな図書館があるってことくらいだろうか。ああ後、市場を抜けた先にある広場かな。市場と広場はともかく、図書館なんて余り興味ないから、オレは滅多に行かないけど。
現在の時刻は十五時過ぎ。夕飯を食べるのは十九時を過ぎた頃だから、そこまで急ぐ必要もない。まあ遅くなるのも悪いし、十七時前には店に着くようにしておかないと。
それしにしても、こういうのはどうにも慣れない。いや、散歩は好きだけれど、特に行きたいところもないし、取りあえず近くの市場に向かっていた。余り早く帰るとまたおばさんを困らせるし、市場に着くまでの間に、この時間をどうやって過ごすかに思考を巡らせていた。
歩いていて思ったけど、何だかここ最近人が少ないような気がする。最近は特に物騒だからだろうけど、昼間は余り関係ないんじゃないだろうか。ああ後、平日のこの時間だからっていうのもあるかもしれない。
「あ、シントお兄ちゃーん」
「ん? ……なんだ、エトガーか……」
「いや、そんなにガッカリしなくても良くない?」
「だってここ通る度に会ってるし……」
市場に着いたオレに声をかけてきたのは、この市場に店を構えている小物売りのエトガーである。ここは買い物するのにたまに通るから、よく顔を合わせている。
最初に話しかけられた時はただの押し売りかと思ったけど、どうやら単に誰かと喋りたいだけらしく、随分前に、何となくエトガーの店の商品を立ち止まって流し見ていた時に、エトガーに「お兄ちゃん暇なの?」と声を掛けられて以来、この道を通る度に話しかけられる羽目になってしまった。
「お兄ちゃん今日はひとり?」
「うん。買い物はするんだけど、何か息抜きしろって言われて……」
「ふーん……。じゃあさー、暇潰しに俺と話してってよ」
「いや、エトガーは仕事した方がいいんじゃないの?」
「だってさー、最近お客さん少ないんだもん。やっぱり、事件多いからかなぁ」
「……まあ、それもあるかもね」
「お兄ちゃんも、息抜きだからってあんまり遅くなっちゃ駄目だよ。あ、あと路地裏とかも入っちゃ駄目だからね」
「エトガーはオレの母さんか何かなの?」
路地裏。市民の間では、色々な噂が飛び交っているらしい。詳しくは知らないが、魔法絡みの嫌な噂も当然存在する。なんでも、貴族が魔法の使えない市民を相手に取引をしているのだとか。まあ確かに、路地裏って薄暗いし、余り行こうとは思わないからそういう話が自然と多くなっていくのだろう。
「まあ、路地裏なんて滅多に入らないけど……」
「そうだよねー。路地裏って怖い噂ばっかりだし」
そういう意味じゃないんだけど、まあこの際別になんでもいい。
でも、貴族が市民相手に取引だなんて、余りメリットが無さそうだし、これは噂好きの誰かが作ったんじゃないかと思う。そういいうのって、どこかの噂好きが流している、根拠がないものばかりだし。
「ところでさー、いつ商品買ってくれるの? 僕ずっと待ってるんだけど」
「そ、それはごめん……」
口をとがらせて、明らかに機嫌が悪いといったようにオレに言葉を投げかける。エトガーには悪いけど、これ以上いると本当に何か買わされそうだし、オレは早々に話を切り上げ、足早に店を後にしすることにした。
「あー……オレ用事があるから急がないと。じゃ、じゃあねっ」
「あ、逃げたー! ……相変わらずつれないなぁ」
店に残されたエトガーは、遊び相手がいなくなったためか、寂しそうにため息を付く。頬杖を付き、いかにも暇そうに人が流れる様子をじっと眺めていた。
すると、その人の流れに逆らうようにしてら何かを探しているような素振りを見せる女の人が、エトガーの目に止まる。すると当然のように、彼はその人に声をかけた。
「あ、そこのおねーさん」
辺りをキョロキョロしていた女の人は、エトガーに気づいたのだろう。二人の視線は、人の波に押消されること無く交わっていた。
「あら、私?」とでも言っているかのように、自身を指差す女の人を見て、エトガーは嬉しそうに並んでいる商品のひとつを手に取った。
「おねーさん、暇なら見ていかない?」
◇
「逃げるようにここまで来ちゃったけど……」
よく考えたら、暇なんだし押し売りをされるというところを差し引けば、別に逃げる必要なんて無かったような気がする。まあ、どうせ帰りにまた通らなきゃいけないから別にいいか。
人が行きかう市場を抜けると、少し開けた場所に噴水がある。ここはいわゆる広場だから、それなりに人は多い。噴水近くにあるベンチに腰掛け、オレは特に何かをする訳でもなく、空を眺めていた。
噴水の音と子供の声に混じって、大人が話していることと言えば、路地裏での事件ばかり。子供をひとりで歩かせられないとか、怖くて夜は歩けないとか、警察は何をやっているのかとか。これだから貴族は、とか。何でだろう。その声がどうにも耳障りだった。
貴族についてオレが知っている事といえば、魔法を使えるという事くらいだろうか。街で見かけることは余り多くないし、何をやっているのかとか、そういうことは余り知られていない。というかそこまで興味が無い。
噴水は、そんなオレを他所に水しぶきを散らしていく。水しぶきが太陽の日差しに照らされてキラキラしている様子は、日常が非日常に変わってしまうかのような危うさに色づいている。この様子を、オレは何処かで見たことのあるような、そんな既視感に溺れそうになっていた。
『――やっぱり綺麗ね』
ふと、誰かの声が頭にちらつく。その声は、オレの知らないであろう人。女の人が誰かに何かを言っている声だ。今、オレの目の前に広がっているのは、広場の噴水でも噂話をしている誰かでもないように感じる。
よく見えないけど、ここではない何処か。噴水のある別の場所。その噴水のそばで、女の人が誰かに話しかけている場面。記憶にもやがかかっているようなモノクロの景色が、いつの間にかオレを取り巻いていた。これは別に、噴水を見ると必ずと言っていいほど思い出す場面とかいうわけでは無く、今、単純にそんな誰かか頭を過ったのだ。
(……ここ、何処だったっけな)
よく知っているはず風景の筈なのに、そこが何処なのかなんて分からない。そして、耳を棲ませるほどに、その声は聞こえなくなっていく。そして、ひとつの疑問が渦巻いた。
(噴水なんて、誰かと見たことあったっけ……?)
靴屋の誰かとだったら、一回くらいはあったのかも知れない。でも恐らくそれは違うだろう。靴屋でいう女の人といえば、ローザおばさんとレノンの妹である幼いセリシアだけ。でも、明らかにこの二人ではないと、オレは断言ができた。というよりもそれ以前の話で、オレには噴水を一緒に見にいけるような人なんて、何処にもいない。
だったらなんで、あの女の人の言葉はあんなにも鮮明に聞こえたのだろうか? ひとつの仮定としてなら、当てはまるものが確かにある。それは、これが過去の記憶であるということ。だけど、オレはそう断言できなかった。それはどうしてか? そんなの、簡単だ。
だって、オレの何処かに存在しているはずの昔の記憶なんて、残っていないのだから。
「何も、知らないのに……」
気がつくと、そんな言葉が口から漏れてしまっていた。何だか知りたくもないことを無理矢理知らされているようで、気分は余り良くない。仮に、昔噴水があった何処かの場所であったのだとしても、今のオレにそれを知る術はない。さっきまで目に焼き付いていた風景を振り払うように首を左右へ動かし、思いっきり立った。ちらりと、噴水が視界に入る。
水が落ちていく様子や、水しぶきが舞っているのを眺めていると、どうしてか、ここではない何処かへ連れていかれそうな気になってしまう。気がするってだけで、普通に考えたらそんなことが起こるわけがないんだけど。
ただ、魔法がそういう現象を起こせるのだったら、また別の話かも知れない。
「……帰ろ」
何となく居心地が悪くなったオレは、買い物を済ませて帰ってしまおうと、足を翻した。すると、さっきまでは感じなかったもの。明らかに誰かがオレを見つめているような、そんな感覚に苛まれた。そして、それを裏付けることが起きる。
『おや、もう帰ってしまうのかい?』
何処からか聞こえる男の声。その声は、明らかにオレに向かって放たれた言葉だというのが、どうしてだか分かる。
それは、さっきまでオレを悩ませていた記憶の中の誰かではなく、確かにそこに存在しているであろう声だ。オレは考えるよりも前に、その声のする噴水へと体を向ける。そしてオレは驚愕した。
そこにあったのは、広場の噴水とさっきまでオレが座っていたベンチ。そして、オレだけしかいない空間だったからだ。
「……暇だ」
そう、簡単にいうと暇なのだ。
オレがいるこの店 『Dear place』は、靴屋であると共に靴の修理とか、オーダーメイドとかも担っている。どちらかというとオーダーメイドの方をメインとしているから、どうしても飛び入りで入って来る人はそんなに多くない。オレはこの店の手伝いとか接客とか、その他雑用っぽいことを一応している。つまり客がいない今、オレはすることが殆どないのだ。
靴屋の店主であるマーティスおじさんが靴を修理する音と、微かに流れている音楽が店内に響く中、オレは特に意味もなく新聞をめくった。今朝届いた新聞には、こんな見出しが書いてある。
『路地裏でまたも遺体発見。やはり連続殺人か』
最近の新聞は、この類の話で持ちきりだ。
路地裏で見つかった遺体は、この二週間で四人。遺体が見つかった場所は全部路地裏ということ。遺体の死亡推定時刻が午前零~三時頃だということ。遺体に複数の刺し傷がある為、通り魔ではなく明らかに殺意を持った人物の犯行っである可能性が高いということが分かっているが、いずれも、犯人の証拠となり得るほどの決定的なものがなにも残っていないことから、詳しいことは分かっておらず、魔法絡みの可能性も考えられるとして、貴族に協力を依頼しているとか何とか。
警察が対応できない事件は、魔法という市民が使えない存在が関係している場合があるとされ、魔法を使える存在である貴族に回されることが多いらしい。
実際はどうなのかは分からないけど、警察の監督不行き届きなだけで、別に魔法なんて関係ないんじゃないかと思うことが多いけど、今回は捜査が難航しているようだから、本当に魔法が関係しているのかも知れない。
魔法は、貴族にしか使うことが許されていないから、魔法絡みの事件である可能性があるだけで大問題なのだろうけど、正直なところ、普通に暮らしていれば余りピンとはこない。
当たり前ではあるが、どうやって魔法を使えるのかなんて、一般市民のオレらが知る術なんてない。つまり、市民が魔法を使えるということはあり得ないのだ。
魔法についてなんて別に考えたくもないけれど、こう毎日貴族だ魔法だといった記事ばかりだと、考えざるを得なくなるというものである。オレは別にどうでもいいんだけど、どういうわけか、貴族を余りよく思っていない市民が多いらしい。
地位が高い存在は、得てしてそういう対象になってしまうのだろうけど、確かに余り関わりたくはないとは思う。なんとなく、面倒ごとに巻き込まれそうだから。という曖昧な理由だけがそこにはあった。
「シントお兄ちゃーん」
奥の扉からオレを呼ぶ声が聞こえてくる。声の主は、この家の長男であるレノンだろう。
「シントお兄ちゃん、お母さんが……って、また新聞読んでるの?」
「うん。ちょっと暇すぎてね……」
「面白い?」
「毎日似たような内容ばっかりだから、あんまり面白くないよ」
「ふーん……」
「……で、おばさんがなんだって?」
「そうそう。お兄ちゃんが暇そうにしてたら呼んできてって」
暇そうにしてたら。ということは、そんなに緊急な用事というわけでは無いのだろか。買い物に行ってほしいと言われることはあるけど、行くにはまだ早いような気がする。暇なことは確かなので、伝えに来てくれたレノンにお礼を言いつつ、オレはおばさんのいるであろう作業場に足を運んだ。
「おばさん、呼んだ?」
「あ、シントくん。ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」
オレが入った時、おばさんは何かと向き合って難しい顔をしていた。多分あれだ、帳簿ってやつだ。
「私ちょっと手が離せなくて……。代わりに買い物行ってくれたら嬉しいなぁって」
「それはいいけど……ちょっと早くない?」
「でもほら、最近お客さんも少ないし……。それに、たまにはそういうのも悪くないでしょ?」
普段は聞くことのないおばさんの言葉に、思わず首を傾げてしまう。もしかして、だけど、おばさんはオレに息抜きをしろと言いたいのだろか。息抜きしてこい、だとオレが行かないから、そういう言い方をしているんじゃないか、子供ながらにそう思ってしまった。
「行くのはいいけど……本当にいいの?」
「良いもなにも、私が良いって言ってるんだから、そこは好意に甘えて欲しいんだけど……」
「わ、分かったよ……。うん、行ってくる」
その言葉で、オレは確信した。
ああ、オレはまた気を使わせてしまっているのか。
いかないって言うと、多分おばさんは少し悲しそうな顔をするのだろう。それが嫌だったオレは、余り気乗りはしなかったけれど、少し早い買い物に出ることにした。
店に戻ると、静かな店にどこかで聴いたことがあるような、ないような。そんな音楽が流れている。それが、より静けさに拍車をかけている気がした。
オレを呼びに来てくれたレノンは、おじさんに構ってくれと言わんばかりに絡みついている。どうやら仕事の邪魔をしているようだった。
オレが出かけることを知ると、レノンは「いってらっしゃーい」といつものように手を降ってくれる。それに応えるようにしてオレも手を振り返し、店の扉に手をかける。開閉時に鳴るベルが店に響き渡り終える前に、オレは店から姿を消した。
◇
「さて、どこ行こうかな……」
こうして外に出たのはいいが、目的のないオレは、行く宛もなく街をフラフラしているしかなかった。いわゆる散歩ってやつだけれど、オレの住んでいる街はそれなりに大きいが、これといって行くところがあるわけでもない。まあ、子供が行くところなんて限られているけど、強いて言うならそれなりに色々と売ってる市場があるのと、貴族持ちの大きな図書館があるってことくらいだろうか。ああ後、市場を抜けた先にある広場かな。市場と広場はともかく、図書館なんて余り興味ないから、オレは滅多に行かないけど。
現在の時刻は十五時過ぎ。夕飯を食べるのは十九時を過ぎた頃だから、そこまで急ぐ必要もない。まあ遅くなるのも悪いし、十七時前には店に着くようにしておかないと。
それしにしても、こういうのはどうにも慣れない。いや、散歩は好きだけれど、特に行きたいところもないし、取りあえず近くの市場に向かっていた。余り早く帰るとまたおばさんを困らせるし、市場に着くまでの間に、この時間をどうやって過ごすかに思考を巡らせていた。
歩いていて思ったけど、何だかここ最近人が少ないような気がする。最近は特に物騒だからだろうけど、昼間は余り関係ないんじゃないだろうか。ああ後、平日のこの時間だからっていうのもあるかもしれない。
「あ、シントお兄ちゃーん」
「ん? ……なんだ、エトガーか……」
「いや、そんなにガッカリしなくても良くない?」
「だってここ通る度に会ってるし……」
市場に着いたオレに声をかけてきたのは、この市場に店を構えている小物売りのエトガーである。ここは買い物するのにたまに通るから、よく顔を合わせている。
最初に話しかけられた時はただの押し売りかと思ったけど、どうやら単に誰かと喋りたいだけらしく、随分前に、何となくエトガーの店の商品を立ち止まって流し見ていた時に、エトガーに「お兄ちゃん暇なの?」と声を掛けられて以来、この道を通る度に話しかけられる羽目になってしまった。
「お兄ちゃん今日はひとり?」
「うん。買い物はするんだけど、何か息抜きしろって言われて……」
「ふーん……。じゃあさー、暇潰しに俺と話してってよ」
「いや、エトガーは仕事した方がいいんじゃないの?」
「だってさー、最近お客さん少ないんだもん。やっぱり、事件多いからかなぁ」
「……まあ、それもあるかもね」
「お兄ちゃんも、息抜きだからってあんまり遅くなっちゃ駄目だよ。あ、あと路地裏とかも入っちゃ駄目だからね」
「エトガーはオレの母さんか何かなの?」
路地裏。市民の間では、色々な噂が飛び交っているらしい。詳しくは知らないが、魔法絡みの嫌な噂も当然存在する。なんでも、貴族が魔法の使えない市民を相手に取引をしているのだとか。まあ確かに、路地裏って薄暗いし、余り行こうとは思わないからそういう話が自然と多くなっていくのだろう。
「まあ、路地裏なんて滅多に入らないけど……」
「そうだよねー。路地裏って怖い噂ばっかりだし」
そういう意味じゃないんだけど、まあこの際別になんでもいい。
でも、貴族が市民相手に取引だなんて、余りメリットが無さそうだし、これは噂好きの誰かが作ったんじゃないかと思う。そういいうのって、どこかの噂好きが流している、根拠がないものばかりだし。
「ところでさー、いつ商品買ってくれるの? 僕ずっと待ってるんだけど」
「そ、それはごめん……」
口をとがらせて、明らかに機嫌が悪いといったようにオレに言葉を投げかける。エトガーには悪いけど、これ以上いると本当に何か買わされそうだし、オレは早々に話を切り上げ、足早に店を後にしすることにした。
「あー……オレ用事があるから急がないと。じゃ、じゃあねっ」
「あ、逃げたー! ……相変わらずつれないなぁ」
店に残されたエトガーは、遊び相手がいなくなったためか、寂しそうにため息を付く。頬杖を付き、いかにも暇そうに人が流れる様子をじっと眺めていた。
すると、その人の流れに逆らうようにしてら何かを探しているような素振りを見せる女の人が、エトガーの目に止まる。すると当然のように、彼はその人に声をかけた。
「あ、そこのおねーさん」
辺りをキョロキョロしていた女の人は、エトガーに気づいたのだろう。二人の視線は、人の波に押消されること無く交わっていた。
「あら、私?」とでも言っているかのように、自身を指差す女の人を見て、エトガーは嬉しそうに並んでいる商品のひとつを手に取った。
「おねーさん、暇なら見ていかない?」
◇
「逃げるようにここまで来ちゃったけど……」
よく考えたら、暇なんだし押し売りをされるというところを差し引けば、別に逃げる必要なんて無かったような気がする。まあ、どうせ帰りにまた通らなきゃいけないから別にいいか。
人が行きかう市場を抜けると、少し開けた場所に噴水がある。ここはいわゆる広場だから、それなりに人は多い。噴水近くにあるベンチに腰掛け、オレは特に何かをする訳でもなく、空を眺めていた。
噴水の音と子供の声に混じって、大人が話していることと言えば、路地裏での事件ばかり。子供をひとりで歩かせられないとか、怖くて夜は歩けないとか、警察は何をやっているのかとか。これだから貴族は、とか。何でだろう。その声がどうにも耳障りだった。
貴族についてオレが知っている事といえば、魔法を使えるという事くらいだろうか。街で見かけることは余り多くないし、何をやっているのかとか、そういうことは余り知られていない。というかそこまで興味が無い。
噴水は、そんなオレを他所に水しぶきを散らしていく。水しぶきが太陽の日差しに照らされてキラキラしている様子は、日常が非日常に変わってしまうかのような危うさに色づいている。この様子を、オレは何処かで見たことのあるような、そんな既視感に溺れそうになっていた。
『――やっぱり綺麗ね』
ふと、誰かの声が頭にちらつく。その声は、オレの知らないであろう人。女の人が誰かに何かを言っている声だ。今、オレの目の前に広がっているのは、広場の噴水でも噂話をしている誰かでもないように感じる。
よく見えないけど、ここではない何処か。噴水のある別の場所。その噴水のそばで、女の人が誰かに話しかけている場面。記憶にもやがかかっているようなモノクロの景色が、いつの間にかオレを取り巻いていた。これは別に、噴水を見ると必ずと言っていいほど思い出す場面とかいうわけでは無く、今、単純にそんな誰かか頭を過ったのだ。
(……ここ、何処だったっけな)
よく知っているはず風景の筈なのに、そこが何処なのかなんて分からない。そして、耳を棲ませるほどに、その声は聞こえなくなっていく。そして、ひとつの疑問が渦巻いた。
(噴水なんて、誰かと見たことあったっけ……?)
靴屋の誰かとだったら、一回くらいはあったのかも知れない。でも恐らくそれは違うだろう。靴屋でいう女の人といえば、ローザおばさんとレノンの妹である幼いセリシアだけ。でも、明らかにこの二人ではないと、オレは断言ができた。というよりもそれ以前の話で、オレには噴水を一緒に見にいけるような人なんて、何処にもいない。
だったらなんで、あの女の人の言葉はあんなにも鮮明に聞こえたのだろうか? ひとつの仮定としてなら、当てはまるものが確かにある。それは、これが過去の記憶であるということ。だけど、オレはそう断言できなかった。それはどうしてか? そんなの、簡単だ。
だって、オレの何処かに存在しているはずの昔の記憶なんて、残っていないのだから。
「何も、知らないのに……」
気がつくと、そんな言葉が口から漏れてしまっていた。何だか知りたくもないことを無理矢理知らされているようで、気分は余り良くない。仮に、昔噴水があった何処かの場所であったのだとしても、今のオレにそれを知る術はない。さっきまで目に焼き付いていた風景を振り払うように首を左右へ動かし、思いっきり立った。ちらりと、噴水が視界に入る。
水が落ちていく様子や、水しぶきが舞っているのを眺めていると、どうしてか、ここではない何処かへ連れていかれそうな気になってしまう。気がするってだけで、普通に考えたらそんなことが起こるわけがないんだけど。
ただ、魔法がそういう現象を起こせるのだったら、また別の話かも知れない。
「……帰ろ」
何となく居心地が悪くなったオレは、買い物を済ませて帰ってしまおうと、足を翻した。すると、さっきまでは感じなかったもの。明らかに誰かがオレを見つめているような、そんな感覚に苛まれた。そして、それを裏付けることが起きる。
『おや、もう帰ってしまうのかい?』
何処からか聞こえる男の声。その声は、明らかにオレに向かって放たれた言葉だというのが、どうしてだか分かる。
それは、さっきまでオレを悩ませていた記憶の中の誰かではなく、確かにそこに存在しているであろう声だ。オレは考えるよりも前に、その声のする噴水へと体を向ける。そしてオレは驚愕した。
そこにあったのは、広場の噴水とさっきまでオレが座っていたベンチ。そして、オレだけしかいない空間だったからだ。