ロビーに戻る時の足取りは、きっと周りが思っているより重くはなかった。僕の歩く速度より橋下さんらのほうが歩くスピードが速いから自然とそうなっているだけなのだが、これがもし一人だったらぐずぐずしていたに違いない。
ロビーにはこれまで通り案内人さんがいたが、それに合わせて支配人さんもいた。掃除の人は居なかったが……きっとどこかで寝ているのかもしれない。
一番最初に言葉を口にしたのは支配人さんだった。
「話は終わったかい?」
「分かんない」それにいの一番に反応したのは橋下さんだ。
「なるほど? それは困ったな」
まあ確かに、何か実のあるような話をしたわけでもないのだけど、だからといって特別それにたいして不満があるわけでもなかった。この人達といる時はそれもいつものことのような気がしていたから余り気にしてもいなかった。だからと言って、ほかの二人がどう思っているのかは分からないけれど。
「でも、満足はしたかな」
少なくとも、橋下さんは僕と似たような感覚のようである。神崎さんは……僕が言うのもなんだがいつものように余り話に入っては来なかった。僕が無理矢理橋下さんのところに連れて行ったということもあり、神崎さんがどう思っているのか気が気じゃなかった。
「な、なんだよ……」僕が神崎さんのことを凝視し過ぎてしまっていたのか、神崎さんは少々変な顔をしながらそんなことを言った。
「えっ!? な、なんでもないです……」
気付かれたことがなんだか恥ずかしく、思わず否定してしまった。こういう時、僕にもう少し突っ込める力があれば神崎さんの話が聞けたのかもしれないけれど、誰かと話す能力が僕には余りにも備わっていなかった。というより、本音を聞くのが怖かったのだと思う。
支配人さんが胸ポケットからペンを取り出すのが見え、橋下さんの興味はそっちに向かわれた。万年筆のフタを取り、またあの時のように空にペンを走らせた。
「そのペン、魔法かなにかで出来てるんですか?」
「どうかな。有り体にいえばそうかもしれないけれど」
ほんの僅かに言葉を濁して含みを持たせる支配人さんに、橋下さんはつまらなさそうに「ふーん」と相槌をうった。その様子に、何故か支配人さんはクスクスと笑いを含めた。
「キミも持っていたはずだよ。この類のものを」
支配人さんの言葉に、まるで時間が止まったかのように橋下さんは動かなくなった。目をぱちぱちとさせると、橋下さんは顎に手を当て何かを考える。
「うーん……そういう冗談はキツいんですけど」
「すまないね。忘れてくれ」
本当に冗談だったのか、支配人さんはすぐに言葉を撤回した。こんな状況でそんな嘘をつくのだろうかと思ったのだが、橋下さんが心当たりがないらしいので(或いは、心当たりがないふりをしたのか)真実はどうだか分からない。
そんな会話をしているうちに、僕達の前に現れたのは一つの扉が現れた。空にほんの僅かにペンを触れさせるだけで出来るそれは、やはり魔法と言っても差し支えないものなのだと感じた。
僅かにインクの掠れが残っているようにも見えるそれを、支配人さんが開ける。扉の向こうに広がっていたのは、僕達が一度見た景色だった。ここの屋上と同じ、画用紙に水を含ませた絵の具を落としたような淡い色で埋まっていた。それも一色ではないというのも同じだった。
白ではなかったというのがどこか安堵感を生んでいたような気もするが、見る人が見たら不気味だときっと思うのだろう。僕はそうではなかったというだけだ。
「さて、二人には今からここに入ってもらうことになる。分かっているね?」
「そこに入ったらどうなるんですか?」
「ここに帰って来られないということは確かだけれど、その先のことは分からない」
「ここに残るって言い出したらどうするんですか?」橋下さんの言葉に、僕は少しだけどきりとした。
「そうだな……」
橋下さんの質問攻めに、支配人さんは初めて顎に手をあてあからさまに考えている素振りを見せた。本当に考えているのかどうなのか、出した答えというのが。
「無理矢理押し込むしかないね」
「怖……」
本当に考える必要があったのだろうかという解で、きっとたいして考えてはいないのだろうなと、僕はそう思った。
「そろそろ時間だよ」
……一体どうやって時間を測っているのか、少しばかり気になったのだけれど。
「あ、中って何か持っててもいいの?」
どうやらそれが気になっているのは僕だけのようだ。
「良いんじゃないかな」
もはや橋下さんの質問にちょっと飽きている様子の支配人さんは、これまで以上に雑な受け答えをした。
「非常食、やっぱり大事ですよね」
少しだけ冗談じみたそれは、神崎さんの言葉の復唱だ。さっき神崎さんに貰った該当物は、もしかすると本当の意味で非常食になるのかもしれない。緊張感がまるでない話だが。
橋下さんは自分の荷物はその飴しか持っていないようだったけれど、僕はそうではなかった。制服のポケットに入れたままの音楽プレイヤーが、急に重みを増したような気がしたのは、きっと気のせいではないのだと思う。
「あの、神崎さん……」
おもむろに、僕は神崎さんのことを呼ぶ。
「これ、神崎さんが持っててください」
神崎さんは、少しだけ驚いているように見えた。
別に持って行っても構わないのだろうけれど、父から貰った音楽プレイヤーに縋る必要はきっともうないのだろうと、そういう感覚があった。
きっと神崎さんがこれを持っていたところでなんの意味も無いだろうし、神崎さんのものではないから持って帰るということもないのだろうけど、だからといってこれを持ったままというのは少し違う気がしたのだ(そもそも、何も助けてくれなかった父がくれたものに縋っていたというのが少々歪んでいたと思う)。
「電池切れちゃったので……」
そうして、僕は神崎さんに音楽プレイヤーを差し出した。半ば無理やりだったかもしれないが、神崎さんは何も言わずに受け取ってくれた。
その何も言わずに、というのが少々怖いのだけれど、余り深く聞いてはいけないような気がして、僕もそれ以上のことは何も言えなかった。……それは有り難いようで、同時に不安にもなった。
「じゃあね、先輩!」
ほんの少しして、橋下さんの言葉はいわゆる僕らが想像するいつものそれだ。
名残惜しくないだなんてことは決して言わないけれど、橋下さんがそんなだから、僕もいわゆる誰かが想像する僕のままで居ることにした。
「……さようなら」
手を振るだなんて、きっといつもだったらしないであろう少しの要素を加えながら。
◇
相谷らが居なくなってすぐ、この場所にため息が落ちたのは残された俺のせいに違いなかった。
ずっと気を張っていたのだろう。自然としゃがみ込み、下を向いてばかりだった。
酷い奴だと言われたら俺は受け入れるが、どうしてか心の何処かで安堵しているような気がして、尚更顔を上げることが出来なかった。
「聞きたいことは聞けたかい?」
真上から覆い被さるように聞こえてくる声は、とても流暢だった。
そんなことを聞いてくる支配人とかいう奴は、本当に心底意地が悪くてムカつく。状況が違っていたら文句の一つも言っていただろう。でも、そんなことを言える余裕が今の俺にあるわけがなく。
「……聞けるわけないだろ」
そんな一言だけが、唯一の抵抗となった。
俺がここに来たのは紛れもなく偶然だが、その中で、俺は果たして何か気の利いた言葉一つでも言うことが出来ていただろうか? 別に無理をして何かを繕う必要は無いのだろうが、こういう時でさえ、俺はそういうことができない奴なのだということを見せつけられているような、そんな気がした。
というか、こんな最後とも言える場所で何か踏み込んだ話をしようもんなら、下手をしたら相手の地雷を踏む可能性だってあるし、その結果本当に喧嘩別れをするなんてことにもなりかねない。どちらかと言えば、俺はそうなるほうが嫌だったのだ。だからこうなることは当然の結果で、こうなることを俺が選んだのだけれど、だからこそやるせなかった。
「感傷に浸っているところ悪いんだけれどね、キミの気が変わらないうちに帰ってほしいのだけれど、どうだろうか」
一言帰れと言えば良いのに、どうしてわざわざ質問として聞いてくるのだろうと、今の状況も相まってなんだかむしゃくしゃした。
俺がここに来たときから帰ってほしそうにしていたが、もし俺の気が変わって帰りたくないなどと言った場合、この人はそれを受け入れるのだろうか? さっきあいつらには無理矢理押し込むと言っていたし、到底居座らせてくれるとは思えない。
……まあ、別にここに居る理由ももう無いのだけれど。
「ここで起きたことは、忘れるのか……?」
「そこまではワタシにも分からないな。個人的には、忘れた方が後の人生は生きやすいと思うけれどね」
支配人の言いたいことは、分からないでもなかった。ここのことを知らない、またはここで知った情報は覚えていないほうが自然であり、知らないほうが良いことだってあるということだろう。
しかし、俺に限ってはどうだろう。少し考えてみたが、どちらが正解なのかよく分からなかった。
「まあ、それは戻ってからのお楽しみということだね」
楽しみもクソもあるかと思ったが、悪態をつく気にはなれなかった。
ふと、相谷が渡してきた音楽プレイヤーに目をやった。まだ充電が残っていたのか、側面のボタンに触れると画面がついた。相谷は電池が無くなったと言っていたが……。
少し躊躇したものの、俺は残されたそれを少しだけ操作した。人の携帯を勝手に操作しているときもこういう気持ちなのかもしれないと思うともう二度とこんなことをする気にはなれないが、今日に限ってはもう手遅れだった。
メニューにある全曲という項目を選択し開いた時に、俺は驚いた。どんなに曲を並べても、そこに日本語は書かれていなかった。洋楽しか入っていなかったのだ。
「好きだったんですかね、異国の曲が」
支配人ではない声が聞こえてきたが、それを気にする余裕はなかった。
もしこのことをもっと早くに知っていれば、また少し別の話が聞けたかもしれないし、ここに書かれている曲や歌手についての話をすることも出来ただろうと思う。これは決して思い上がりなどではなく、俺ならそれが出来たのだ。
(もっと早く知りたかったな……)
ふと、プレイヤーの背面に何かひっかかりがあるのを感じた。これ以上のことはないだろうと思ったのだか、一応ひっくり返してみることにする。――そして俺は、これを見たことを恐らく僅かながらも後悔したのではないかと、そう思う。
それはいつだったか、橋下に強引に連れられた時に四人で撮った……例のあれが、プレイヤーの背面に貼られていたのだ。
「やっぱり、仲良かったんじゃないですか」
誰かが口にしたその言葉は、胸に刺さるものがあった。……あれが仲が良いと言えるものだったのか、正直俺は自信がない。答え合わせが出来ないものを、胸を張ってそうだと口に出来るほど馬鹿にはなれない。
「……忘れるのは、御免だ」
言いながら、やっぱり知らないほうが良かったのだろうかとも思う。何も知らなければ、もう少しどうにか出来ていたかもしれないなどということを端から考えることはなかったはずだ。
でも出来ることなら、ここで起きたことだけではなくこれまでのことも全てを覚えていられれば良いのにと、矛盾が孕んでいることをガラにもなく何かに願ってしまうのだ。
◇
「無重力っていうのは、こういうことを言うのかな」
僕たちがいる場所は、とてもじゃないが現実とは思えない程に奇怪だった。橋下さんは無重力と言ったが、それもなんだか違うような気がした。視えない何かに持ちあげられているような、でも周りを見渡しても何かがある様子はまるでない、そういう感じだった。それが無重力というのものなのかもしれないが、余りにも現実味がなさ過ぎるのでよく分からない、というのは正直なところだ。
辺りは少し色がついていたが、それに障ることはどうやら出来ないらしい。これまで空間に色が余り無い場所に居たからなのか、より鮮明に、でも優しい色が散りばめられていた。
「怖い?」
先輩の質問に僕は答えなかった。別に怖いとか怖くないとか、そういう感覚ではないように感じたのだけれど、どうやら橋下さんにはそう見えたらしい。どちらかと言うと、そう。不安に近い。
「大丈夫だよ」
橋下さんは、僕の手を握ってそう言った。こういう時、いつも僕は何かを言われる側で、どうして気の利いたこと一つ言うことが出来ないのかと、自分を少しだけ恨んだ。
「ここに来る前はどうか分からないけど、今は一人じゃないしさ」
もし僕が、もう少し橋下さんや皆を頼ることが出来ていたなら、どうだろう?
もしかすると、ここに来ることもなく比較的平和に高校生活を送れたなんてこともあったのかもしれない。もしかすると、同学年で話が出来る人だって出来ていたのかもしれない。それが恐らくは、学校生活を送るうえで一番平和だったに違いない。
でもそれは、もう叶うことのない希望的観測だ。
「それに、行かないと先輩に怒られるよ」
……神崎さんは今、僕たちが居なくなった後で一体どういう顔をしているのだろうか? 宇栄原さんは今、一人で何をしているのだろうか?
こうしてもう会うことがないであろう人のことを思ってしまうのは、僕が出来ていたのかもしれない学校生活が、ほんの僅かだけれど送れていたということなのかもしれないという感覚が、それも少し嫌だなと感じてしまうのは、完全に僕の我が儘だ。矛盾しているのだ、何もかもが。
「……そうですね」
一人でいたならきっと、今の状況で行きたくないなんて思うことは無かったはずなのだから。
「相谷くん」
改めて僕のことを呼ぶ橋下さんは、僅かに透けて奥の色が身体に映っていた。少しずつ、本当に消えていくのだという現実を突きつけられているような気がして、それを見るのがとても嫌だったけれど、橋下さんはそんなのは関係なさそうに話を進めた。
「オレ、相谷くんに会うのは高校が最初じゃなかったんだよ」
「……え?」
唐突に、なんの前触れもなくそんなことを言うもんだから、変な沈黙が訪れた。
少し記憶を遡る。僕が橋下さんと会ったのは高校に入ってすぐのことだったけれど、それよりも前に会っていた? 本当に?
正直なところ、小中でも余り人と関わることをして来なかったお陰で全く分からなかった。こんな特徴的な人、会っていたのなら覚えていそうなものなのに記憶にないとなると、中学校ではないのだろうか? それも憶測の域でしかないのだが……。
「それは嘘、ではない……?」
「こんな状況で嘘つかないよ」
橋下さんの言いぶりは、本当に嘘を付いていないときのそれだ。いや、本当は嘘なのかもしれないけど流石にここで疑うなんて、逆に僕の人格が問われてしまうだろう。
ふと思ったのは、小学校低学年の時に引っ越しをして高校でまたこっちに戻ってきたのだが、曖昧な記憶となると恐らくその辺り。小学校低学年の時のことになる。あの時も確か、引っ越すことが決まるよりも前から友達なんて作ろうと思っていなかった時で――。
『でも、また会えるかもしれないよ』
小学校低学年の時、家に帰りたくなかった僕は学校にある砂場で夕方まで一人時間を潰していたことがある。それは一度や二度ではないのだけれど。
『だからおれのことは覚えててよ。あ、でも忘れててもおれが見つけに行くから。大丈夫大丈夫!』
確かに一度、誰かが僕のところに来た。……ような、そんな気がする。橋下さんにそう言われたからそういう気になっているだけだと言われれば、それで納得するような余りにも小さなものだ。
思い出したいような、でもこんなタイミングで思い出したくないような、そんな変な感情が僕の中を走った。今思い出したら、尚更……。
「な、なんで今そんなこと言うんですか……っ!」言いようのない感情に、僕はどうやら少し怒ってしまっていたようだ。
「いや、うん。別に言うつもりなかったからずっと黙ってたんだけどさ」
へへと、いつもは見せないような笑みを橋下さんは浮かべた。それに合わせて、少しずつ橋下さんの気配が消えていくような、そんな感覚がした。
「だからきっと、また会えるよ。先輩たちに会うには結構かかりそうだけど」
寿命というか、死ぬタイミングがどこかで合わないとちょっと難しいよね。などと、本気で言っているのかいないのか、冗談のようなものを交わせたかと思うと、橋下さんの手の感覚が急に無くなり思わず繋がれていた手を視界に入れた。橋下さんに限らず、僕の手もいつの間にか認識するのも難しくなっていた。それは向こうも同じだったのだろうか? 少し、本当に僅かに橋下さんが手に力を入れたのが伝わった。まるで僕の考えを全て読んでいるかのように優しく、そこには確かに確かに温もりを感じた。
「相谷くんはさ、雪好き?」
「な、なんですか急に……」
「いいからいいから」
その質問は本当に急で、どうしてこの人はなんの脈絡も無くそんなことを言うのだろうかと文句が出そうになった。こんな今すぐにでも消えそうなタイミングで何でそんなことを考えなければならないのかとも思ったが、雪は別に嫌いではない。寒いのは好きではないけど、夏の方がもっと好きではない。どちらも特別思い入れも無いから、正直どちらでもいいのだけれど。
「嫌いじゃないと思います。多分……」
こんな中途半端な答えなのに、どうしてか橋下さんは満足げに「そっか」と口にした。
「だったら見れたら良かったよね。一緒にさ」
きっと橋下さんは分かっていない。その言葉が発せられるということは、少し、いやもしかしたら何か思い残していることがあるのではないかということに。
それを僕が気付いてしまうくらいだというのに、どうしてかこれで本当に終わってしまうという気を起こさせないくらい、先輩はいつも通りのそれにも見えた。だって橋下さんは本当にいつもそういう人だったから。
「またね! 光季くん!」
橋下さんが僕を見つけてくれていたように、橋下さんが最後に僕のことをそう呼んだことを、きっと僕はあの時と同じようになんの悪びれもなく忘れてしまうことだろう。
ロビーにはこれまで通り案内人さんがいたが、それに合わせて支配人さんもいた。掃除の人は居なかったが……きっとどこかで寝ているのかもしれない。
一番最初に言葉を口にしたのは支配人さんだった。
「話は終わったかい?」
「分かんない」それにいの一番に反応したのは橋下さんだ。
「なるほど? それは困ったな」
まあ確かに、何か実のあるような話をしたわけでもないのだけど、だからといって特別それにたいして不満があるわけでもなかった。この人達といる時はそれもいつものことのような気がしていたから余り気にしてもいなかった。だからと言って、ほかの二人がどう思っているのかは分からないけれど。
「でも、満足はしたかな」
少なくとも、橋下さんは僕と似たような感覚のようである。神崎さんは……僕が言うのもなんだがいつものように余り話に入っては来なかった。僕が無理矢理橋下さんのところに連れて行ったということもあり、神崎さんがどう思っているのか気が気じゃなかった。
「な、なんだよ……」僕が神崎さんのことを凝視し過ぎてしまっていたのか、神崎さんは少々変な顔をしながらそんなことを言った。
「えっ!? な、なんでもないです……」
気付かれたことがなんだか恥ずかしく、思わず否定してしまった。こういう時、僕にもう少し突っ込める力があれば神崎さんの話が聞けたのかもしれないけれど、誰かと話す能力が僕には余りにも備わっていなかった。というより、本音を聞くのが怖かったのだと思う。
支配人さんが胸ポケットからペンを取り出すのが見え、橋下さんの興味はそっちに向かわれた。万年筆のフタを取り、またあの時のように空にペンを走らせた。
「そのペン、魔法かなにかで出来てるんですか?」
「どうかな。有り体にいえばそうかもしれないけれど」
ほんの僅かに言葉を濁して含みを持たせる支配人さんに、橋下さんはつまらなさそうに「ふーん」と相槌をうった。その様子に、何故か支配人さんはクスクスと笑いを含めた。
「キミも持っていたはずだよ。この類のものを」
支配人さんの言葉に、まるで時間が止まったかのように橋下さんは動かなくなった。目をぱちぱちとさせると、橋下さんは顎に手を当て何かを考える。
「うーん……そういう冗談はキツいんですけど」
「すまないね。忘れてくれ」
本当に冗談だったのか、支配人さんはすぐに言葉を撤回した。こんな状況でそんな嘘をつくのだろうかと思ったのだが、橋下さんが心当たりがないらしいので(或いは、心当たりがないふりをしたのか)真実はどうだか分からない。
そんな会話をしているうちに、僕達の前に現れたのは一つの扉が現れた。空にほんの僅かにペンを触れさせるだけで出来るそれは、やはり魔法と言っても差し支えないものなのだと感じた。
僅かにインクの掠れが残っているようにも見えるそれを、支配人さんが開ける。扉の向こうに広がっていたのは、僕達が一度見た景色だった。ここの屋上と同じ、画用紙に水を含ませた絵の具を落としたような淡い色で埋まっていた。それも一色ではないというのも同じだった。
白ではなかったというのがどこか安堵感を生んでいたような気もするが、見る人が見たら不気味だときっと思うのだろう。僕はそうではなかったというだけだ。
「さて、二人には今からここに入ってもらうことになる。分かっているね?」
「そこに入ったらどうなるんですか?」
「ここに帰って来られないということは確かだけれど、その先のことは分からない」
「ここに残るって言い出したらどうするんですか?」橋下さんの言葉に、僕は少しだけどきりとした。
「そうだな……」
橋下さんの質問攻めに、支配人さんは初めて顎に手をあてあからさまに考えている素振りを見せた。本当に考えているのかどうなのか、出した答えというのが。
「無理矢理押し込むしかないね」
「怖……」
本当に考える必要があったのだろうかという解で、きっとたいして考えてはいないのだろうなと、僕はそう思った。
「そろそろ時間だよ」
……一体どうやって時間を測っているのか、少しばかり気になったのだけれど。
「あ、中って何か持っててもいいの?」
どうやらそれが気になっているのは僕だけのようだ。
「良いんじゃないかな」
もはや橋下さんの質問にちょっと飽きている様子の支配人さんは、これまで以上に雑な受け答えをした。
「非常食、やっぱり大事ですよね」
少しだけ冗談じみたそれは、神崎さんの言葉の復唱だ。さっき神崎さんに貰った該当物は、もしかすると本当の意味で非常食になるのかもしれない。緊張感がまるでない話だが。
橋下さんは自分の荷物はその飴しか持っていないようだったけれど、僕はそうではなかった。制服のポケットに入れたままの音楽プレイヤーが、急に重みを増したような気がしたのは、きっと気のせいではないのだと思う。
「あの、神崎さん……」
おもむろに、僕は神崎さんのことを呼ぶ。
「これ、神崎さんが持っててください」
神崎さんは、少しだけ驚いているように見えた。
別に持って行っても構わないのだろうけれど、父から貰った音楽プレイヤーに縋る必要はきっともうないのだろうと、そういう感覚があった。
きっと神崎さんがこれを持っていたところでなんの意味も無いだろうし、神崎さんのものではないから持って帰るということもないのだろうけど、だからといってこれを持ったままというのは少し違う気がしたのだ(そもそも、何も助けてくれなかった父がくれたものに縋っていたというのが少々歪んでいたと思う)。
「電池切れちゃったので……」
そうして、僕は神崎さんに音楽プレイヤーを差し出した。半ば無理やりだったかもしれないが、神崎さんは何も言わずに受け取ってくれた。
その何も言わずに、というのが少々怖いのだけれど、余り深く聞いてはいけないような気がして、僕もそれ以上のことは何も言えなかった。……それは有り難いようで、同時に不安にもなった。
「じゃあね、先輩!」
ほんの少しして、橋下さんの言葉はいわゆる僕らが想像するいつものそれだ。
名残惜しくないだなんてことは決して言わないけれど、橋下さんがそんなだから、僕もいわゆる誰かが想像する僕のままで居ることにした。
「……さようなら」
手を振るだなんて、きっといつもだったらしないであろう少しの要素を加えながら。
◇
相谷らが居なくなってすぐ、この場所にため息が落ちたのは残された俺のせいに違いなかった。
ずっと気を張っていたのだろう。自然としゃがみ込み、下を向いてばかりだった。
酷い奴だと言われたら俺は受け入れるが、どうしてか心の何処かで安堵しているような気がして、尚更顔を上げることが出来なかった。
「聞きたいことは聞けたかい?」
真上から覆い被さるように聞こえてくる声は、とても流暢だった。
そんなことを聞いてくる支配人とかいう奴は、本当に心底意地が悪くてムカつく。状況が違っていたら文句の一つも言っていただろう。でも、そんなことを言える余裕が今の俺にあるわけがなく。
「……聞けるわけないだろ」
そんな一言だけが、唯一の抵抗となった。
俺がここに来たのは紛れもなく偶然だが、その中で、俺は果たして何か気の利いた言葉一つでも言うことが出来ていただろうか? 別に無理をして何かを繕う必要は無いのだろうが、こういう時でさえ、俺はそういうことができない奴なのだということを見せつけられているような、そんな気がした。
というか、こんな最後とも言える場所で何か踏み込んだ話をしようもんなら、下手をしたら相手の地雷を踏む可能性だってあるし、その結果本当に喧嘩別れをするなんてことにもなりかねない。どちらかと言えば、俺はそうなるほうが嫌だったのだ。だからこうなることは当然の結果で、こうなることを俺が選んだのだけれど、だからこそやるせなかった。
「感傷に浸っているところ悪いんだけれどね、キミの気が変わらないうちに帰ってほしいのだけれど、どうだろうか」
一言帰れと言えば良いのに、どうしてわざわざ質問として聞いてくるのだろうと、今の状況も相まってなんだかむしゃくしゃした。
俺がここに来たときから帰ってほしそうにしていたが、もし俺の気が変わって帰りたくないなどと言った場合、この人はそれを受け入れるのだろうか? さっきあいつらには無理矢理押し込むと言っていたし、到底居座らせてくれるとは思えない。
……まあ、別にここに居る理由ももう無いのだけれど。
「ここで起きたことは、忘れるのか……?」
「そこまではワタシにも分からないな。個人的には、忘れた方が後の人生は生きやすいと思うけれどね」
支配人の言いたいことは、分からないでもなかった。ここのことを知らない、またはここで知った情報は覚えていないほうが自然であり、知らないほうが良いことだってあるということだろう。
しかし、俺に限ってはどうだろう。少し考えてみたが、どちらが正解なのかよく分からなかった。
「まあ、それは戻ってからのお楽しみということだね」
楽しみもクソもあるかと思ったが、悪態をつく気にはなれなかった。
ふと、相谷が渡してきた音楽プレイヤーに目をやった。まだ充電が残っていたのか、側面のボタンに触れると画面がついた。相谷は電池が無くなったと言っていたが……。
少し躊躇したものの、俺は残されたそれを少しだけ操作した。人の携帯を勝手に操作しているときもこういう気持ちなのかもしれないと思うともう二度とこんなことをする気にはなれないが、今日に限ってはもう手遅れだった。
メニューにある全曲という項目を選択し開いた時に、俺は驚いた。どんなに曲を並べても、そこに日本語は書かれていなかった。洋楽しか入っていなかったのだ。
「好きだったんですかね、異国の曲が」
支配人ではない声が聞こえてきたが、それを気にする余裕はなかった。
もしこのことをもっと早くに知っていれば、また少し別の話が聞けたかもしれないし、ここに書かれている曲や歌手についての話をすることも出来ただろうと思う。これは決して思い上がりなどではなく、俺ならそれが出来たのだ。
(もっと早く知りたかったな……)
ふと、プレイヤーの背面に何かひっかかりがあるのを感じた。これ以上のことはないだろうと思ったのだか、一応ひっくり返してみることにする。――そして俺は、これを見たことを恐らく僅かながらも後悔したのではないかと、そう思う。
それはいつだったか、橋下に強引に連れられた時に四人で撮った……例のあれが、プレイヤーの背面に貼られていたのだ。
「やっぱり、仲良かったんじゃないですか」
誰かが口にしたその言葉は、胸に刺さるものがあった。……あれが仲が良いと言えるものだったのか、正直俺は自信がない。答え合わせが出来ないものを、胸を張ってそうだと口に出来るほど馬鹿にはなれない。
「……忘れるのは、御免だ」
言いながら、やっぱり知らないほうが良かったのだろうかとも思う。何も知らなければ、もう少しどうにか出来ていたかもしれないなどということを端から考えることはなかったはずだ。
でも出来ることなら、ここで起きたことだけではなくこれまでのことも全てを覚えていられれば良いのにと、矛盾が孕んでいることをガラにもなく何かに願ってしまうのだ。
◇
「無重力っていうのは、こういうことを言うのかな」
僕たちがいる場所は、とてもじゃないが現実とは思えない程に奇怪だった。橋下さんは無重力と言ったが、それもなんだか違うような気がした。視えない何かに持ちあげられているような、でも周りを見渡しても何かがある様子はまるでない、そういう感じだった。それが無重力というのものなのかもしれないが、余りにも現実味がなさ過ぎるのでよく分からない、というのは正直なところだ。
辺りは少し色がついていたが、それに障ることはどうやら出来ないらしい。これまで空間に色が余り無い場所に居たからなのか、より鮮明に、でも優しい色が散りばめられていた。
「怖い?」
先輩の質問に僕は答えなかった。別に怖いとか怖くないとか、そういう感覚ではないように感じたのだけれど、どうやら橋下さんにはそう見えたらしい。どちらかと言うと、そう。不安に近い。
「大丈夫だよ」
橋下さんは、僕の手を握ってそう言った。こういう時、いつも僕は何かを言われる側で、どうして気の利いたこと一つ言うことが出来ないのかと、自分を少しだけ恨んだ。
「ここに来る前はどうか分からないけど、今は一人じゃないしさ」
もし僕が、もう少し橋下さんや皆を頼ることが出来ていたなら、どうだろう?
もしかすると、ここに来ることもなく比較的平和に高校生活を送れたなんてこともあったのかもしれない。もしかすると、同学年で話が出来る人だって出来ていたのかもしれない。それが恐らくは、学校生活を送るうえで一番平和だったに違いない。
でもそれは、もう叶うことのない希望的観測だ。
「それに、行かないと先輩に怒られるよ」
……神崎さんは今、僕たちが居なくなった後で一体どういう顔をしているのだろうか? 宇栄原さんは今、一人で何をしているのだろうか?
こうしてもう会うことがないであろう人のことを思ってしまうのは、僕が出来ていたのかもしれない学校生活が、ほんの僅かだけれど送れていたということなのかもしれないという感覚が、それも少し嫌だなと感じてしまうのは、完全に僕の我が儘だ。矛盾しているのだ、何もかもが。
「……そうですね」
一人でいたならきっと、今の状況で行きたくないなんて思うことは無かったはずなのだから。
「相谷くん」
改めて僕のことを呼ぶ橋下さんは、僅かに透けて奥の色が身体に映っていた。少しずつ、本当に消えていくのだという現実を突きつけられているような気がして、それを見るのがとても嫌だったけれど、橋下さんはそんなのは関係なさそうに話を進めた。
「オレ、相谷くんに会うのは高校が最初じゃなかったんだよ」
「……え?」
唐突に、なんの前触れもなくそんなことを言うもんだから、変な沈黙が訪れた。
少し記憶を遡る。僕が橋下さんと会ったのは高校に入ってすぐのことだったけれど、それよりも前に会っていた? 本当に?
正直なところ、小中でも余り人と関わることをして来なかったお陰で全く分からなかった。こんな特徴的な人、会っていたのなら覚えていそうなものなのに記憶にないとなると、中学校ではないのだろうか? それも憶測の域でしかないのだが……。
「それは嘘、ではない……?」
「こんな状況で嘘つかないよ」
橋下さんの言いぶりは、本当に嘘を付いていないときのそれだ。いや、本当は嘘なのかもしれないけど流石にここで疑うなんて、逆に僕の人格が問われてしまうだろう。
ふと思ったのは、小学校低学年の時に引っ越しをして高校でまたこっちに戻ってきたのだが、曖昧な記憶となると恐らくその辺り。小学校低学年の時のことになる。あの時も確か、引っ越すことが決まるよりも前から友達なんて作ろうと思っていなかった時で――。
『でも、また会えるかもしれないよ』
小学校低学年の時、家に帰りたくなかった僕は学校にある砂場で夕方まで一人時間を潰していたことがある。それは一度や二度ではないのだけれど。
『だからおれのことは覚えててよ。あ、でも忘れててもおれが見つけに行くから。大丈夫大丈夫!』
確かに一度、誰かが僕のところに来た。……ような、そんな気がする。橋下さんにそう言われたからそういう気になっているだけだと言われれば、それで納得するような余りにも小さなものだ。
思い出したいような、でもこんなタイミングで思い出したくないような、そんな変な感情が僕の中を走った。今思い出したら、尚更……。
「な、なんで今そんなこと言うんですか……っ!」言いようのない感情に、僕はどうやら少し怒ってしまっていたようだ。
「いや、うん。別に言うつもりなかったからずっと黙ってたんだけどさ」
へへと、いつもは見せないような笑みを橋下さんは浮かべた。それに合わせて、少しずつ橋下さんの気配が消えていくような、そんな感覚がした。
「だからきっと、また会えるよ。先輩たちに会うには結構かかりそうだけど」
寿命というか、死ぬタイミングがどこかで合わないとちょっと難しいよね。などと、本気で言っているのかいないのか、冗談のようなものを交わせたかと思うと、橋下さんの手の感覚が急に無くなり思わず繋がれていた手を視界に入れた。橋下さんに限らず、僕の手もいつの間にか認識するのも難しくなっていた。それは向こうも同じだったのだろうか? 少し、本当に僅かに橋下さんが手に力を入れたのが伝わった。まるで僕の考えを全て読んでいるかのように優しく、そこには確かに確かに温もりを感じた。
「相谷くんはさ、雪好き?」
「な、なんですか急に……」
「いいからいいから」
その質問は本当に急で、どうしてこの人はなんの脈絡も無くそんなことを言うのだろうかと文句が出そうになった。こんな今すぐにでも消えそうなタイミングで何でそんなことを考えなければならないのかとも思ったが、雪は別に嫌いではない。寒いのは好きではないけど、夏の方がもっと好きではない。どちらも特別思い入れも無いから、正直どちらでもいいのだけれど。
「嫌いじゃないと思います。多分……」
こんな中途半端な答えなのに、どうしてか橋下さんは満足げに「そっか」と口にした。
「だったら見れたら良かったよね。一緒にさ」
きっと橋下さんは分かっていない。その言葉が発せられるということは、少し、いやもしかしたら何か思い残していることがあるのではないかということに。
それを僕が気付いてしまうくらいだというのに、どうしてかこれで本当に終わってしまうという気を起こさせないくらい、先輩はいつも通りのそれにも見えた。だって橋下さんは本当にいつもそういう人だったから。
「またね! 光季くん!」
橋下さんが僕を見つけてくれていたように、橋下さんが最後に僕のことをそう呼んだことを、きっと僕はあの時と同じようになんの悪びれもなく忘れてしまうことだろう。