「本当に、会わないんですか……?」
「……会わないよ」
神崎さんの言葉はそればかりで、どうやら本当に橋下さんと会う気がないというのが伺えた。そうだというならこれ以上僕が何かを言うのはどうかと思うのだが……。
(いいのかな、それで……)
でも、本当にそれでいいのだろうか心のどこかで引っかかりがあり、こうして何度も同じ質問をしてしまっているわけである。別に神崎さんは橋下さんに会うためにここにいるわけではないのだろうけど、やっぱりあった方がいいんじゃないかと、僕はそう思うのだ。
「橋下さんのところ、行ったらいいじゃないですか」
置いていったはずの案内人さんの声が聞こえたのは、すぐ後のことだった。案内人さんはソファの背に腕を乗せており、心なしかどこか楽しそうに僕の目には映っていた。その姿に少し腹が立ったような気がしたが、原因はよく分からない。
「会ってみて、それでどうするか決めればいいんじゃないですか?」
そんなことを余りにも簡単に言うもんだから、神崎さんは尚、嫌そうな顔をしていた。
「……随分と簡単に言うんだな」どうやら神崎さんも、僕と同じ感想を持ったらしい。
「簡単なことですよ。まあ、会うことで生まれる後悔っていうのも確かにあると思いますけど」
少し、案内人さんの中で何かを思い出すかのような思案の間が生まれたのち。
「皆さんは多分、そうじゃないですよね」
恐らくは、僕らに最適な提案の繰り返しとも取れる発言をした。案内人さんの脳内で一体どういう会議が行われたのかは分からないが、この人が提示したものが正しいのだということが、神崎さんの醸し出す空気から伝わってきたような気がした。
神崎さんは何か言いたそうな顔をしながら、しかしだからと言って何か反論するわけでも肯定するわけでもなく、でも手で頭を触れるなど少々いや……かなり落ち着きがなかった。
「というか、ここでの相谷さんの我が儘を退けるんですか? 意外と人でなしですね」
「……人でなしか」
「そりゃあもう」
人でなし、とまでは僕は決して思っていないのだけれど、やっぱり僕は神崎さんに一緒に来てほしいし、最終的に断られてしまったら多少なりとも気が沈んでしまうだろうということは分かっている。本人が嫌と言うことを無理やり……というのは本意ではないし、これが僕の我が儘だと言われてしまったらそれだけの話なのだけれど。
案内人さんの言葉をうけて神崎さんはちらりと僕の方を見たのだが、すぐに視線を外されてしまった。
「悪いのは俺だな……」
神崎さんが一体何に対してそう思ったのかは、僕にはよく分からなかった。
「どいつもこいつも、我が儘言うのが遅すぎるんだよ」
何かに対して言っているというよりは、本当にただの独り言のようにそんなことを口にすると、神崎さんは再び案内人さんのほうに顔を向けた。
「屋上、そこの階段で行けますよ」
まだ行くとも行かないとも言っていないのに、案内人さんは屋上へ行く道を指し示した。すると神崎さんは、何を言うでもなくその方向へと僕を置いて進んでいく。案内人さんは「いってらっしゃーい」と軽く手を振り、僕には笑顔を向けていた(いつもそういう印象ではあるのだけど)。
神崎さんの姿が見えなくなってしまう前に、僕は案内人さんの前を通り過ぎ、後を追った。僕と神崎さんだけだと、沈黙がとても長く感じた。
案内人さんの姿が見えなくなってすぐ。やっぱり無理矢理だっただろうかなどと考えていると、神崎さんがこんなことを言った。
「あの案内人……一緒に居ると考えてること言い当ててくるから嫌なんだよな」
誰かに何か文句を言う神崎さんを見たのは、なんだか久しぶりな気がする。
◇
まず屋上に来て思ったのは、僕たちが想像していたものとは少し情景が違うということだった。だが橋下さんにとってはそれはもう見飽きたものであるに違いなく、後からきた僕たちは感想をいうことはしなかった。する暇がなかったという方が正しいのかも知れない。
橋下さんが僕たちに気づいたのは、恐らく屋上のドアが聞こえたからだろう。少し驚いているような、きょとんした目でこちらを見ていた。
「お揃いでどうしたんですか?」
その確かに異端な状況で、橋下さんはまるでいつものことであるかのように話を進めるものだから、とてつもない違和感を感じたのをよく覚えている。
橋下さんの質問に最初に答えたのは、神崎さんだ。
「別に……どうもしない」この時、神崎さんは橋下さんの顔を見ることはしなかった。
「ふうん……相谷くんは?」
「ど、どうもしないです……」来たいと言ったのは紛れもなく僕なのに、どういうわけかそんな言葉が口から出た。
「何しに来たんだお前」
「いや、先輩が言える台詞じゃないですよね」
僕たちの会話は、言ってしまえばいつものそれだった。ただし宇栄原さんが居ないことを除けばの話だが。
神崎さんにお願いをしてわざわざここに来ておいてなんだが、何をしに来たのかと言われても正直言い表すことが出来ない。そんなんだから、何しに来たんだと言われても仕方がないだろう。
だけど、それでも何かを言わなければいけないのは紛れもなく僕だ。
「僕がお願いしたんです。一緒に来てほしいって……」
「……どうして?」
橋下さんの質問に僕は答えることが出来ず、おまけにこの時ばかりは神崎さんも僕を助けてはくれなかった。
「まあいいや」
その言葉を合図に、沈黙がとても長く続いた。少なくともそう感じたが、本当のところがどうか分からない。誰も何も言わないこの状況に違和感を感じたのは、僕だけではないだろう。こういう時にいつもだったら助けてくれた人がいたはずなのだが、今はそうじゃない。どれほどその人に頼り切っていたのかが、この中身のない会話のなかでとてもよく分かる。
誰もそれをしない今、我が儘を言ってここに来た僕がその役目を負わなければならないはずだ。
「……橋下さんは、ずるいと思います」
だからこそ、こういう時にあの人だったらなんて言うのだろうと、そう思う。きっともう少し気の利いたことを言ってくれるのではないかと思うのだが、僕はその人ではないから気の利いたことなんて到底言えるわけもなく。
「勝手に巻き込んで、勝手にいなくなるのはずるいです……。あと、自分のことは余り教えてくれないのもずるいです。そのくせ、色んなことを知っていそうなのもずるいです」
どうせなら最後まで巻き込んで欲しかった。……などという自分勝手な言葉は、流石に飲み込んだ。僕は何も知らないから、というのも飲み込んだ。この際だから言うべきだっただろうかと思ったが、何かが引っかかって言うには至らなかった。
「……怒ってるの?」
「怒ってません……」
「怒ってますよね?」
「お、俺に聞くなよ……」
二人は僕の物言いに明らかに困っていた。こんな文句を今の状況で言ってしまうのだから当然だろう。怒っているというのとはまた違う気がするのだが、普段ろくに喋らない人間がこんなことを言うのだから周りから見ればそうなってしまうのは当然だということくらいは自分でもよく分かる。
それに、本当ならここで言うべきことではなかっただろう。やっぱり言わない方がよかっただろうかとも少々後悔もしたが、口から出たことを今更取り返せるわけもなく。
「うーん……困った」
だから橋下さんは、この時、僕が今まで余り見たことのないような表情をしていたように思う。考え事をしているだけと言われればそれは確かにそうなのかもしれないが、それとはまた少し、違うものの気がした。
「二人いっぺんに来るのだって、ずるいよ」
このほんの僅かな時間で、僕たちは会話をするという行為をどれだけ宇栄原さんに頼っていたのかを痛感することになる。
◇
相谷くんがいつもより喋っているのを見て、オレは正直相谷くんが何を喋っているのか聞いていなかった。いや、聞いてはいたのだけれど、それよりも相谷くんの様子がいつものそれにとても近かったから、それにばかり気を取られてしまっていたし、何より神崎先輩もすぐそばに居たもんだから、とても落ち着かなかった。
会わないつもりの人がそこに居るという状況に、正直なところ今すぐ走ってどこかに行ってしまいたいくらいだった。別に神崎先輩が嫌いというわけではないのだが……。
「というか、相谷くん記憶戻ったの?」
先輩と一緒にここに来たということは恐らくオレに何か話を聞こうとしているのだろうと思うと、何かを話す気には到底なれなかった。
「だって、オレに怒るってことはそういうことでしょ?」
相谷くんに限って言えば、例えば記憶があるのとないのとで性格が大きく異なるというわけでもなかったから、個人的には記憶が戻っていようがどちらでも構わないと思っていた節がどこかであった。というより、戻らなければこうして変に言及される必要もなかったわけだから、戻ってほしくはなかったのかもしれないという気さえもしている。
「でもオレ、二人に言わないといけないようなことは特に何もないよ?」
思い返してみれば、オレはこの二人に言うことは特にないように思う。どれもこれも自分が招いたことで、別に誰に言ったからといってどうなることでもなかっただろう。それは宇栄原先輩にも当てはまるに違いない。……などと、出来るだけ自分に言い訳をするのが精いっぱいの抵抗だ。
「う、嘘……ですよね、多分……」自信があるのかないのか、相谷くんが言った。
「どうせ詰め寄るならもっと胸ぐらを掴む勢いで来てほしいよ、オレは」
「何言ってんだお前」
この特に進行することのない会話の感覚は、ほんの僅かな昔にあったそれである。決してそう昔の話ではないはずなのに懐かしさを感じてしまうあたり、やっぱりそれはもう終わったことなのだということを痛感した。
「橋下は、なんでここにいるんだよ」
「なんで? なんでかあ……」
神崎先輩に言われ、オレは仕方なく再び考えた。
「ここで言えるんだったら、オレはこんなところに来てないと思うんですよね」
だから絶対に言わない。そう後に言葉を続けてしまおうかとも思ったが、それは少しばかり躊躇した。言ってしまっても構わなかったのだが、そこまで言うと喧嘩のようになってしまいそうな気がしたのだ。こんなところで喧嘩だなんて意味のないことは……それだけは、どうしても避けたい。それと、もし万一何かを口走ってしまったときの予防線のようなものだろう。
「そういう二人は、なんでここにいるんですか?」少しあからさまだったか、オレは話を自分以外に向けた。
「え……」
「いや、オレに聞くんなら言ってくださいよ」
そう言うと、相谷君と先輩は顔を見合わせたあと、すぐに顔を逸らして考え始めた。二人が違うタイミングでここに来たのは知っているから別に顔を見合わせなければならないことはそう無いと思うのだが、オレの知らないところで何か言ってはならないことを共有しているのだろうか? 可能性は無くもないだろうけど。
「……なんでお前に言わないといけないんだよ」少し機嫌を損ねてしまったか、先輩がそう言った。
「ほら、そういうことですよ」
何故だか少し誇らし気になったオレを見て、先輩は余計にしかめっ面をした気がした。
やっぱり人間、小さなことを含めれば隠し事は数えきれないほどあるだろうけれど、その中で死因は余り口にしたくないことに含まれ(神崎先輩に限っては単にここに来てしまっただけなのだろうが)、口を噤めば隠し事ということになる。ただそれだけのことだ。
「別に、隠し事くらいあったっていいじゃないですか。ねえ、相谷くん」
「そ……そうですね?」
「簡単に丸め込まれるな」
別に丸め込もうと思った訳では無いのだが、どうやらそう見えてしまったらしい。日頃の行いがそう思わせたのか、いずれにしても少々心外である。
「別に、隠し事はいくつあったっていいけど、だったら散らかしっぱなしにしないでちゃんと片付けていけよ」
何かを少し考えた後、先輩は言葉を続けた。
「……じゃないと、宇栄原が怒るだろ」
本当は、もう少し違うことを言う予定だったかのような間があったのが気になったのだけど、確かに宇栄原先輩は憤っているに違いないだろうと思うと、それに言及するには至らなかった。
勝手に近づいて勝手に居なくなったのだから、きっと怒っているとかではなく呆れも含まれているのかもしれない。いや、嫌われていたってなんらおかしなことではないはずだ。
いっそ嫌われていればいいのにと思いつつ、少しだけ何かが引っかかっているのを感じながら、それには気付かないふりをした。
「先輩、元気かな」
この質問には誰も答えてはくれなかった。嘘でも元気にしてると言ってくれればいいのに、そんなことを言うのは恐らく宇栄原先輩のすることだからか、とても静かな時間が流れた。
案内人さんにここに連れてきてもらった時、あの人は「ここが苦手」だと言った。ここにいると何となくそわそわしてしまうその理由が、今は本当によく分かる。この場に三人いる状況がそうさせているのではなく、この空間がそうさせるのだ。そうに違いない。
「なんか、お腹すいたな……」それを誤魔化すように、思わずそんなことを口にした。余りにもこの状況にそぐわない言葉に、神崎先輩はとても変な顔をしていた。
「お前ほんとそういう……いや、いい」
「そこまで言ったんだったら言えばいいのに……」
先輩はいつも言いたいことを最後の最後まで言ってはくれない。きっとオレにだってもっと文句を言いたいはずなのに、余り余計なことは言わないようにしているのが伺える。それは今回に限ったことではないけれど。
先輩が制服の上着のポケットに手を入れる仕草をした。その時、オレは先輩が何をしているのか既に察しがついていた。
「橋下」
オレの名前を読んだかと思うと、先輩は小さな何かを投げつけた。ちょうど胸辺りに飛んできたそれをキャッチしてみると、やっぱりそれは先輩が何度かオレにくれたことがある牛乳飴だった。
「先輩って、いつもこの飴持ってますよね」
先輩は何かあるたびにこの飴をオレに渡してくれていた。今回もそのうちのひとつだ。隣にいる相谷くんには手渡しでそれを渡しているのには、温度差に思わず文句を言いそうになった(オレとは若干距離があるからそれはそうなのだけど)。
「……非常食は大事だからな」
「それマジで言ってるんですか? ウケる」
嘘か本当か分からないが、要約すると先輩はこの飴が好きということなのだろう。少なくとも、好きではないものをわざわざ持ち歩いたりしないはずだ。
こんな状況で緊張感がないのはオレか先輩かどちらなのだろうと言いたくなるが、そこまで言うのは流石に躊躇した。
「オレ、会ったのが皆でよかったと思ってるんですよ。本当に」
いつもだったら食べていたであろうそれを両手でつまみ、眺めながらふと、そんなことを口にする。オレは先輩から貰ったそれを開けることはしなかった。これを無くしてしまったら、本当に皆との繋がりが無くなってしまうような、そんな気がしてしまったのだ。
「だからそのぶん、隠し事が増えたんです。仕方のないことだったんですよ」
仕方のないことだと言い切ることで、感情の均衡を保っている。そういう自覚はそれなりにあった。
「でも、こんなところがあるなんて知らなかったから」
三途の川だとか花畑が死後の世界にはあるという話は有名だが、だからといってそれを信じているようなタイプではなかった。宗教の違いはあれど、死ねばそれで終わりだと思っている人だってそれなりに居るだろう。オレもそのうちの一人であったに違いなかった。だからこそ、この時間がとても嫌いだ。
「本当に仕方のないことだったのかなあって、そう思うんですよね」
故に、このほんの僅かな本音が精いっぱいだ。
◇
「上手くやってますかね、あの人たち」
案内人と呼ばれる私が何故こうしてあの人達のことが気になっているのかと言うと、単純に答え合わせがしたいからというだけの話だった。
ロビーのソファーに腰掛けている私は、とても暇をしていた。客人がいない状況で私が出来ることはなく、ただ客人が戻ってくるのを待つだけになってしまうのはいつものことだが。
「気になるなら、見に行ったらどうかな」どこからともなく、支配人が言った。
「なんでそんな野暮な提案するんですか」
本来会うことは無いはずの人たちが会って話をしているのに、そこにずかずかと入っていったらどうかなんていう提案をしてくる支配人は、全く人が悪い。私が本当に屋上に行ったらどうするのだろうか。それでも別に構わないと思っていそうなところがなお怖い。
「暇でどうにかなりそうなんですけど。チェスやりません? トランプでもいいですけど」
「どうせキミが勝つんだからやらないよ」
支配人はあからさまに嫌そうな顔をした。確かにそれらのテーブルゲームは得意ではあるが、別に必ず私が勝つという訳ではないのだし、たまには付き合ってほしいものである。
「支配人が弱すぎるんですよ。出来そうな顔してるのに」
「悪かったね、弱くて……」
支配人がチェスもトランプも驚くほど出来ないというのはここでは有名な話である(数えないと分からないくらいには僅差だが、あの掃除士さんよりも、である)。この場合、決着が早くつくという利点があるのだから今くらいはやってくれたって構わないのに、この人は本当に色んなことに頑なだ。
「というか、掃除士さんはどこですか?」いつものことではあるのだが、そろそろ客人が帰る頃合いであるというのに一人の従業員はどこかに行っているようである。
「暇なら探しに行ったらどうだい。客人の帰る邪魔になっても困るだろう」
「なん毎回でいい歳した人をわざわざ探さないといけないんですかね……」
などと言いつつ、私は仕方なく掃除士さんのことを探しに行った。相谷さん達は恐らくそう時間をかけずに戻ってくるだろうけど、そうだと分かっている状態で待たないといけないというのは何とも手持ち無沙汰で落ち着かないものである。
探しに行くと言っても、彼のいる場所は概ね決まっている。真っ先に思い浮かぶのは屋上だが、客人が帰る頃であるということを加味するに、恐らく今はそこにはいないだろう。以外にもそういうことは配慮する人だ。候補からはすぐに外した。
私が向かった先は、橋下さんの部屋番号が書かれている一室だ。どうせ客人は居ないというのもあり、適当にノックをしてすぐに扉を開けた。
「……相変わらず律儀というかなんというか」
この時の言葉は独り言だと言える程度には小さなものだった。この人が律儀だと言うなら廊下で寝るというのは若干そぐわない気がするが、事実なのだから仕方がない。
「多分、橋下さん戻ってこないですよ」
聞いているのかいないのか、彼から返事は返ってこない。いつものことだからそこまで気にするには至らないし、どうせ聞いていないフリをしているだけだということを私は知っている。
掃除士さんは、淡々と床にモップを滑らせて部屋に塗りたくられている塗料のようなそれを剥がしている。モップを一度動かすだけで消えていくそれは塗料とは到底言い難く、有り体に言えば魔法のようだ。
元の僅かに灰色かかったようにも見える白い床には、塗料の汚れひとつついてはいなかった。
「モップ、オレも使っていいですか?」余りにもすることがないせいで、私はつい、そんなことを口にする。
「汚れますよ……」
言いながら、掃除士さんは私のことを見もしない。本当に汚れるのかどうなのかは、やったことがないので正直よく分からないが、掃除士さんに汚れ一つないところを見るに彼だから汚れないということなのだろう。この人が塗料まみれになっているところを、ここでは一度も見たことがない。
「汚れてなんぼじゃないですか、こういうの。ああでも、急に呼び出されたら困るなあ」
掃除士さんが行っているそれは、端的に言えば仕事ではなく趣味そのものだ。そんなことを言ったら私のそれも趣味みたいなものだから、別にどうとは言わない。仕方なく、私は既に色の消えているソファーに腰を掛けた。
(……人でなしなんて、まさか自分の口から出るとは思わなかったな)
床が擦れる音を聞きながら、神崎さんに言ってしまった言葉を頭の中で繰り返す。
もし仮に私が血の通っている人間だったのなら、今の相谷さんらの状況だって何か情のようなものを抱いてもおかしくはないのかもしれないが、生憎そういったことはない。そう、決してだ。
そのはずなのに、することのない私は理由もなく掃除士さんの動かしているモップを目で追いながら、そんなことを思うのだ。
「……会わないよ」
神崎さんの言葉はそればかりで、どうやら本当に橋下さんと会う気がないというのが伺えた。そうだというならこれ以上僕が何かを言うのはどうかと思うのだが……。
(いいのかな、それで……)
でも、本当にそれでいいのだろうか心のどこかで引っかかりがあり、こうして何度も同じ質問をしてしまっているわけである。別に神崎さんは橋下さんに会うためにここにいるわけではないのだろうけど、やっぱりあった方がいいんじゃないかと、僕はそう思うのだ。
「橋下さんのところ、行ったらいいじゃないですか」
置いていったはずの案内人さんの声が聞こえたのは、すぐ後のことだった。案内人さんはソファの背に腕を乗せており、心なしかどこか楽しそうに僕の目には映っていた。その姿に少し腹が立ったような気がしたが、原因はよく分からない。
「会ってみて、それでどうするか決めればいいんじゃないですか?」
そんなことを余りにも簡単に言うもんだから、神崎さんは尚、嫌そうな顔をしていた。
「……随分と簡単に言うんだな」どうやら神崎さんも、僕と同じ感想を持ったらしい。
「簡単なことですよ。まあ、会うことで生まれる後悔っていうのも確かにあると思いますけど」
少し、案内人さんの中で何かを思い出すかのような思案の間が生まれたのち。
「皆さんは多分、そうじゃないですよね」
恐らくは、僕らに最適な提案の繰り返しとも取れる発言をした。案内人さんの脳内で一体どういう会議が行われたのかは分からないが、この人が提示したものが正しいのだということが、神崎さんの醸し出す空気から伝わってきたような気がした。
神崎さんは何か言いたそうな顔をしながら、しかしだからと言って何か反論するわけでも肯定するわけでもなく、でも手で頭を触れるなど少々いや……かなり落ち着きがなかった。
「というか、ここでの相谷さんの我が儘を退けるんですか? 意外と人でなしですね」
「……人でなしか」
「そりゃあもう」
人でなし、とまでは僕は決して思っていないのだけれど、やっぱり僕は神崎さんに一緒に来てほしいし、最終的に断られてしまったら多少なりとも気が沈んでしまうだろうということは分かっている。本人が嫌と言うことを無理やり……というのは本意ではないし、これが僕の我が儘だと言われてしまったらそれだけの話なのだけれど。
案内人さんの言葉をうけて神崎さんはちらりと僕の方を見たのだが、すぐに視線を外されてしまった。
「悪いのは俺だな……」
神崎さんが一体何に対してそう思ったのかは、僕にはよく分からなかった。
「どいつもこいつも、我が儘言うのが遅すぎるんだよ」
何かに対して言っているというよりは、本当にただの独り言のようにそんなことを口にすると、神崎さんは再び案内人さんのほうに顔を向けた。
「屋上、そこの階段で行けますよ」
まだ行くとも行かないとも言っていないのに、案内人さんは屋上へ行く道を指し示した。すると神崎さんは、何を言うでもなくその方向へと僕を置いて進んでいく。案内人さんは「いってらっしゃーい」と軽く手を振り、僕には笑顔を向けていた(いつもそういう印象ではあるのだけど)。
神崎さんの姿が見えなくなってしまう前に、僕は案内人さんの前を通り過ぎ、後を追った。僕と神崎さんだけだと、沈黙がとても長く感じた。
案内人さんの姿が見えなくなってすぐ。やっぱり無理矢理だっただろうかなどと考えていると、神崎さんがこんなことを言った。
「あの案内人……一緒に居ると考えてること言い当ててくるから嫌なんだよな」
誰かに何か文句を言う神崎さんを見たのは、なんだか久しぶりな気がする。
◇
まず屋上に来て思ったのは、僕たちが想像していたものとは少し情景が違うということだった。だが橋下さんにとってはそれはもう見飽きたものであるに違いなく、後からきた僕たちは感想をいうことはしなかった。する暇がなかったという方が正しいのかも知れない。
橋下さんが僕たちに気づいたのは、恐らく屋上のドアが聞こえたからだろう。少し驚いているような、きょとんした目でこちらを見ていた。
「お揃いでどうしたんですか?」
その確かに異端な状況で、橋下さんはまるでいつものことであるかのように話を進めるものだから、とてつもない違和感を感じたのをよく覚えている。
橋下さんの質問に最初に答えたのは、神崎さんだ。
「別に……どうもしない」この時、神崎さんは橋下さんの顔を見ることはしなかった。
「ふうん……相谷くんは?」
「ど、どうもしないです……」来たいと言ったのは紛れもなく僕なのに、どういうわけかそんな言葉が口から出た。
「何しに来たんだお前」
「いや、先輩が言える台詞じゃないですよね」
僕たちの会話は、言ってしまえばいつものそれだった。ただし宇栄原さんが居ないことを除けばの話だが。
神崎さんにお願いをしてわざわざここに来ておいてなんだが、何をしに来たのかと言われても正直言い表すことが出来ない。そんなんだから、何しに来たんだと言われても仕方がないだろう。
だけど、それでも何かを言わなければいけないのは紛れもなく僕だ。
「僕がお願いしたんです。一緒に来てほしいって……」
「……どうして?」
橋下さんの質問に僕は答えることが出来ず、おまけにこの時ばかりは神崎さんも僕を助けてはくれなかった。
「まあいいや」
その言葉を合図に、沈黙がとても長く続いた。少なくともそう感じたが、本当のところがどうか分からない。誰も何も言わないこの状況に違和感を感じたのは、僕だけではないだろう。こういう時にいつもだったら助けてくれた人がいたはずなのだが、今はそうじゃない。どれほどその人に頼り切っていたのかが、この中身のない会話のなかでとてもよく分かる。
誰もそれをしない今、我が儘を言ってここに来た僕がその役目を負わなければならないはずだ。
「……橋下さんは、ずるいと思います」
だからこそ、こういう時にあの人だったらなんて言うのだろうと、そう思う。きっともう少し気の利いたことを言ってくれるのではないかと思うのだが、僕はその人ではないから気の利いたことなんて到底言えるわけもなく。
「勝手に巻き込んで、勝手にいなくなるのはずるいです……。あと、自分のことは余り教えてくれないのもずるいです。そのくせ、色んなことを知っていそうなのもずるいです」
どうせなら最後まで巻き込んで欲しかった。……などという自分勝手な言葉は、流石に飲み込んだ。僕は何も知らないから、というのも飲み込んだ。この際だから言うべきだっただろうかと思ったが、何かが引っかかって言うには至らなかった。
「……怒ってるの?」
「怒ってません……」
「怒ってますよね?」
「お、俺に聞くなよ……」
二人は僕の物言いに明らかに困っていた。こんな文句を今の状況で言ってしまうのだから当然だろう。怒っているというのとはまた違う気がするのだが、普段ろくに喋らない人間がこんなことを言うのだから周りから見ればそうなってしまうのは当然だということくらいは自分でもよく分かる。
それに、本当ならここで言うべきことではなかっただろう。やっぱり言わない方がよかっただろうかとも少々後悔もしたが、口から出たことを今更取り返せるわけもなく。
「うーん……困った」
だから橋下さんは、この時、僕が今まで余り見たことのないような表情をしていたように思う。考え事をしているだけと言われればそれは確かにそうなのかもしれないが、それとはまた少し、違うものの気がした。
「二人いっぺんに来るのだって、ずるいよ」
このほんの僅かな時間で、僕たちは会話をするという行為をどれだけ宇栄原さんに頼っていたのかを痛感することになる。
◇
相谷くんがいつもより喋っているのを見て、オレは正直相谷くんが何を喋っているのか聞いていなかった。いや、聞いてはいたのだけれど、それよりも相谷くんの様子がいつものそれにとても近かったから、それにばかり気を取られてしまっていたし、何より神崎先輩もすぐそばに居たもんだから、とても落ち着かなかった。
会わないつもりの人がそこに居るという状況に、正直なところ今すぐ走ってどこかに行ってしまいたいくらいだった。別に神崎先輩が嫌いというわけではないのだが……。
「というか、相谷くん記憶戻ったの?」
先輩と一緒にここに来たということは恐らくオレに何か話を聞こうとしているのだろうと思うと、何かを話す気には到底なれなかった。
「だって、オレに怒るってことはそういうことでしょ?」
相谷くんに限って言えば、例えば記憶があるのとないのとで性格が大きく異なるというわけでもなかったから、個人的には記憶が戻っていようがどちらでも構わないと思っていた節がどこかであった。というより、戻らなければこうして変に言及される必要もなかったわけだから、戻ってほしくはなかったのかもしれないという気さえもしている。
「でもオレ、二人に言わないといけないようなことは特に何もないよ?」
思い返してみれば、オレはこの二人に言うことは特にないように思う。どれもこれも自分が招いたことで、別に誰に言ったからといってどうなることでもなかっただろう。それは宇栄原先輩にも当てはまるに違いない。……などと、出来るだけ自分に言い訳をするのが精いっぱいの抵抗だ。
「う、嘘……ですよね、多分……」自信があるのかないのか、相谷くんが言った。
「どうせ詰め寄るならもっと胸ぐらを掴む勢いで来てほしいよ、オレは」
「何言ってんだお前」
この特に進行することのない会話の感覚は、ほんの僅かな昔にあったそれである。決してそう昔の話ではないはずなのに懐かしさを感じてしまうあたり、やっぱりそれはもう終わったことなのだということを痛感した。
「橋下は、なんでここにいるんだよ」
「なんで? なんでかあ……」
神崎先輩に言われ、オレは仕方なく再び考えた。
「ここで言えるんだったら、オレはこんなところに来てないと思うんですよね」
だから絶対に言わない。そう後に言葉を続けてしまおうかとも思ったが、それは少しばかり躊躇した。言ってしまっても構わなかったのだが、そこまで言うと喧嘩のようになってしまいそうな気がしたのだ。こんなところで喧嘩だなんて意味のないことは……それだけは、どうしても避けたい。それと、もし万一何かを口走ってしまったときの予防線のようなものだろう。
「そういう二人は、なんでここにいるんですか?」少しあからさまだったか、オレは話を自分以外に向けた。
「え……」
「いや、オレに聞くんなら言ってくださいよ」
そう言うと、相谷君と先輩は顔を見合わせたあと、すぐに顔を逸らして考え始めた。二人が違うタイミングでここに来たのは知っているから別に顔を見合わせなければならないことはそう無いと思うのだが、オレの知らないところで何か言ってはならないことを共有しているのだろうか? 可能性は無くもないだろうけど。
「……なんでお前に言わないといけないんだよ」少し機嫌を損ねてしまったか、先輩がそう言った。
「ほら、そういうことですよ」
何故だか少し誇らし気になったオレを見て、先輩は余計にしかめっ面をした気がした。
やっぱり人間、小さなことを含めれば隠し事は数えきれないほどあるだろうけれど、その中で死因は余り口にしたくないことに含まれ(神崎先輩に限っては単にここに来てしまっただけなのだろうが)、口を噤めば隠し事ということになる。ただそれだけのことだ。
「別に、隠し事くらいあったっていいじゃないですか。ねえ、相谷くん」
「そ……そうですね?」
「簡単に丸め込まれるな」
別に丸め込もうと思った訳では無いのだが、どうやらそう見えてしまったらしい。日頃の行いがそう思わせたのか、いずれにしても少々心外である。
「別に、隠し事はいくつあったっていいけど、だったら散らかしっぱなしにしないでちゃんと片付けていけよ」
何かを少し考えた後、先輩は言葉を続けた。
「……じゃないと、宇栄原が怒るだろ」
本当は、もう少し違うことを言う予定だったかのような間があったのが気になったのだけど、確かに宇栄原先輩は憤っているに違いないだろうと思うと、それに言及するには至らなかった。
勝手に近づいて勝手に居なくなったのだから、きっと怒っているとかではなく呆れも含まれているのかもしれない。いや、嫌われていたってなんらおかしなことではないはずだ。
いっそ嫌われていればいいのにと思いつつ、少しだけ何かが引っかかっているのを感じながら、それには気付かないふりをした。
「先輩、元気かな」
この質問には誰も答えてはくれなかった。嘘でも元気にしてると言ってくれればいいのに、そんなことを言うのは恐らく宇栄原先輩のすることだからか、とても静かな時間が流れた。
案内人さんにここに連れてきてもらった時、あの人は「ここが苦手」だと言った。ここにいると何となくそわそわしてしまうその理由が、今は本当によく分かる。この場に三人いる状況がそうさせているのではなく、この空間がそうさせるのだ。そうに違いない。
「なんか、お腹すいたな……」それを誤魔化すように、思わずそんなことを口にした。余りにもこの状況にそぐわない言葉に、神崎先輩はとても変な顔をしていた。
「お前ほんとそういう……いや、いい」
「そこまで言ったんだったら言えばいいのに……」
先輩はいつも言いたいことを最後の最後まで言ってはくれない。きっとオレにだってもっと文句を言いたいはずなのに、余り余計なことは言わないようにしているのが伺える。それは今回に限ったことではないけれど。
先輩が制服の上着のポケットに手を入れる仕草をした。その時、オレは先輩が何をしているのか既に察しがついていた。
「橋下」
オレの名前を読んだかと思うと、先輩は小さな何かを投げつけた。ちょうど胸辺りに飛んできたそれをキャッチしてみると、やっぱりそれは先輩が何度かオレにくれたことがある牛乳飴だった。
「先輩って、いつもこの飴持ってますよね」
先輩は何かあるたびにこの飴をオレに渡してくれていた。今回もそのうちのひとつだ。隣にいる相谷くんには手渡しでそれを渡しているのには、温度差に思わず文句を言いそうになった(オレとは若干距離があるからそれはそうなのだけど)。
「……非常食は大事だからな」
「それマジで言ってるんですか? ウケる」
嘘か本当か分からないが、要約すると先輩はこの飴が好きということなのだろう。少なくとも、好きではないものをわざわざ持ち歩いたりしないはずだ。
こんな状況で緊張感がないのはオレか先輩かどちらなのだろうと言いたくなるが、そこまで言うのは流石に躊躇した。
「オレ、会ったのが皆でよかったと思ってるんですよ。本当に」
いつもだったら食べていたであろうそれを両手でつまみ、眺めながらふと、そんなことを口にする。オレは先輩から貰ったそれを開けることはしなかった。これを無くしてしまったら、本当に皆との繋がりが無くなってしまうような、そんな気がしてしまったのだ。
「だからそのぶん、隠し事が増えたんです。仕方のないことだったんですよ」
仕方のないことだと言い切ることで、感情の均衡を保っている。そういう自覚はそれなりにあった。
「でも、こんなところがあるなんて知らなかったから」
三途の川だとか花畑が死後の世界にはあるという話は有名だが、だからといってそれを信じているようなタイプではなかった。宗教の違いはあれど、死ねばそれで終わりだと思っている人だってそれなりに居るだろう。オレもそのうちの一人であったに違いなかった。だからこそ、この時間がとても嫌いだ。
「本当に仕方のないことだったのかなあって、そう思うんですよね」
故に、このほんの僅かな本音が精いっぱいだ。
◇
「上手くやってますかね、あの人たち」
案内人と呼ばれる私が何故こうしてあの人達のことが気になっているのかと言うと、単純に答え合わせがしたいからというだけの話だった。
ロビーのソファーに腰掛けている私は、とても暇をしていた。客人がいない状況で私が出来ることはなく、ただ客人が戻ってくるのを待つだけになってしまうのはいつものことだが。
「気になるなら、見に行ったらどうかな」どこからともなく、支配人が言った。
「なんでそんな野暮な提案するんですか」
本来会うことは無いはずの人たちが会って話をしているのに、そこにずかずかと入っていったらどうかなんていう提案をしてくる支配人は、全く人が悪い。私が本当に屋上に行ったらどうするのだろうか。それでも別に構わないと思っていそうなところがなお怖い。
「暇でどうにかなりそうなんですけど。チェスやりません? トランプでもいいですけど」
「どうせキミが勝つんだからやらないよ」
支配人はあからさまに嫌そうな顔をした。確かにそれらのテーブルゲームは得意ではあるが、別に必ず私が勝つという訳ではないのだし、たまには付き合ってほしいものである。
「支配人が弱すぎるんですよ。出来そうな顔してるのに」
「悪かったね、弱くて……」
支配人がチェスもトランプも驚くほど出来ないというのはここでは有名な話である(数えないと分からないくらいには僅差だが、あの掃除士さんよりも、である)。この場合、決着が早くつくという利点があるのだから今くらいはやってくれたって構わないのに、この人は本当に色んなことに頑なだ。
「というか、掃除士さんはどこですか?」いつものことではあるのだが、そろそろ客人が帰る頃合いであるというのに一人の従業員はどこかに行っているようである。
「暇なら探しに行ったらどうだい。客人の帰る邪魔になっても困るだろう」
「なん毎回でいい歳した人をわざわざ探さないといけないんですかね……」
などと言いつつ、私は仕方なく掃除士さんのことを探しに行った。相谷さん達は恐らくそう時間をかけずに戻ってくるだろうけど、そうだと分かっている状態で待たないといけないというのは何とも手持ち無沙汰で落ち着かないものである。
探しに行くと言っても、彼のいる場所は概ね決まっている。真っ先に思い浮かぶのは屋上だが、客人が帰る頃であるということを加味するに、恐らく今はそこにはいないだろう。以外にもそういうことは配慮する人だ。候補からはすぐに外した。
私が向かった先は、橋下さんの部屋番号が書かれている一室だ。どうせ客人は居ないというのもあり、適当にノックをしてすぐに扉を開けた。
「……相変わらず律儀というかなんというか」
この時の言葉は独り言だと言える程度には小さなものだった。この人が律儀だと言うなら廊下で寝るというのは若干そぐわない気がするが、事実なのだから仕方がない。
「多分、橋下さん戻ってこないですよ」
聞いているのかいないのか、彼から返事は返ってこない。いつものことだからそこまで気にするには至らないし、どうせ聞いていないフリをしているだけだということを私は知っている。
掃除士さんは、淡々と床にモップを滑らせて部屋に塗りたくられている塗料のようなそれを剥がしている。モップを一度動かすだけで消えていくそれは塗料とは到底言い難く、有り体に言えば魔法のようだ。
元の僅かに灰色かかったようにも見える白い床には、塗料の汚れひとつついてはいなかった。
「モップ、オレも使っていいですか?」余りにもすることがないせいで、私はつい、そんなことを口にする。
「汚れますよ……」
言いながら、掃除士さんは私のことを見もしない。本当に汚れるのかどうなのかは、やったことがないので正直よく分からないが、掃除士さんに汚れ一つないところを見るに彼だから汚れないということなのだろう。この人が塗料まみれになっているところを、ここでは一度も見たことがない。
「汚れてなんぼじゃないですか、こういうの。ああでも、急に呼び出されたら困るなあ」
掃除士さんが行っているそれは、端的に言えば仕事ではなく趣味そのものだ。そんなことを言ったら私のそれも趣味みたいなものだから、別にどうとは言わない。仕方なく、私は既に色の消えているソファーに腰を掛けた。
(……人でなしなんて、まさか自分の口から出るとは思わなかったな)
床が擦れる音を聞きながら、神崎さんに言ってしまった言葉を頭の中で繰り返す。
もし仮に私が血の通っている人間だったのなら、今の相谷さんらの状況だって何か情のようなものを抱いてもおかしくはないのかもしれないが、生憎そういったことはない。そう、決してだ。
そのはずなのに、することのない私は理由もなく掃除士さんの動かしているモップを目で追いながら、そんなことを思うのだ。