44話:ニセモノはいない


2024-08-15 16:29:04
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 ――オレ以外の人物がここに来るという事実を知ったのは、恐らくオレがここに来てから数日後のことだった。

「神崎 拓真という人物を、知っているね?」

 その時はたまたま受付とソファに居たこともあり、受付の後ろにある扉から出てきた支配人が、そんなことを言った。
 なんでそんなことを聞くのか、どうして先輩のことが今ここで出てくるのか、オレはすぐにピンときた。こういう時、何故か人は鋭く勘が働いてしまうものである。

「まさか、ここに来るなんてことはないですよね……?」

 その質問に、支配人は答えなかった。それが答えであるということはすぐに分かり、それと同時に嫌な喪失感を覚えた。

「一応、彼はまだ死んではいないようだけれど。もし会うんだったら――」
「……なんで」

 この時、支配人がなんて言おうとしたのかなんて興味がなかった。支配人の取り繕った言葉なんてどうだってよかったのだ。

「なんで先輩が来るの……?」

 先輩がこんなところにくる理由が、オレには全く思い付かなかった。ただの事故か、それとも人の手が及んだのだろうか? または人の手ではないものによる何かが起きたのか?
 というより、そんな情報をオレに言ってどうなるというのだろう。オレが来たことと何か関係しているのだろうか? いや、関係していないならいいというわけではないのだけど……。

「ここは、死んだからといって誰もがそう簡単にたどり着くところじゃない。条件と言ったらいいか……必ず理由がある。キミには、それが何か分かるかな?」

 支配人の物言いに、少々面倒臭さが募った。そのまで言ったなら最後まで言えばいいのに、どうやらこの男はそれをしたくはないらしい。
 たまたまここに来ただけのオレにどうしてそんな内部情報に当たりそうな話をするのは正直疑問だったが、それよりも気になることのほうが多すぎて、その疑問は頭の片隅に置いておくに留まった。
 この人がオレにこんな問いを投げかけてくるということは、少なからずオレの身の回りで起きたことなどに関わっているのだろう。そうじゃなきゃ問いの意味がない。
 そうなってくると自ずと当てはまりそうなことはすぐに頭に浮かんでくる。例えば、逝邪や瞑邪のような存在に会ったということが挙げられるが……。

「でも先輩は、霊なんて視える人じゃなかったよ……?」

 宇栄原先輩だったらまだ理解が及ぶのだが(だとしても会いたくはないが)、神崎先輩は幽霊が視えないというのはいつ聞いたのだったか、でも確かに先輩はその類いのものは視えない人であるという認識だ。しかし、他に思い当たる節があるわけでもなく。

「彼は何か……それが視えるようになるものを持っていたんじゃないかな。それが何なのかは、流石にワタシにも分からないが」

 独り言だと思って口にした言葉は、いつの間にか支配人に拾われていた。

「……そんなことってあるの?」
「あるか無いかでいうならあるだろうね。モノには念や魂が宿ると言うのと同じように、そういうことが起きないとはワタシは断言出来ないね。理解しろとは言わないけれど、今更不思議な話でもないとは思わないかい?」

 確かに、モノには魂が宿るという話は知っているし、それに驚くようなことはしない。しかしそうなってくると、神崎先輩が幽霊を認識できるような何かトリガーのようなものを持っていたということになるが……。

「条件が揃えば、ここに来ること自体は存外難しくはないということさ」

 オレが先輩に何かをした心当たりはないが、仮定の話でいうのであれば心当たりが全くないわけではない。幽霊に対抗出来る力を持っていて、尚且つ神崎先輩と親しい人物が一人だけ居る。

「先輩は、やっぱり先輩だ……」

 この時、オレは一体どちらのことを口にしようとしたのか、自分でもよく分からなかった。


   ◇


 暇を持て余していたオレは、神崎先輩に会うよりも前に再び屋上に行った。率直に言うと会いたくなかったのだ。
 相谷くんに直接色々と聞こうとするような人だし、もしこんな状況で先輩に会ってしまったら、言わざるを得なくなってしまうのではないかという恐怖心があった。こんなところにまで来て、既に終わった話なんてしたくなかったし、何よりも今誰かに会ってしまったら、自分を保てる気がしなかった。
 静かだった屋上に、扉が開く音が少しだけ響いた。また掃除の人が来たのか……それとも再び案内の人が来たのかとも思ったが、どうやらオレの勘は外れたようである。
 スーツを着た高身長の人物がこちらに向かって歩いてるのを、オレはこっちに来るなと思いながらもひたすら時が過ぎるのを待った。もう二歩ほどで、オレとの距離は目と鼻の先になりそうなところ。

「気分はどうだい?」支配人にそう聞かれ、オレは反射的に首を振った。
「分かんない」

 そうか。そう一言口にすると、何かを考えるようにして顎に手をあて視線をずらした。その間、オレは少しばかり心の守りが固くなったような気がした。この人に目を付けられたら何かと面倒くさそうだし、何より何故支配人が直々にここに来たのかが疑問でならかなったのだ。もし何かが起きるのであれば、案内の人が言いに来るのでは無いかと思うのだが……。

「相谷 光季くんという人物が、ここに来るようだよ」

 オレがその名前を聞いたのは、ここに来て一体どれ程経った頃なのだろう。少しばかり頭が回らなくなったのを感じ、思わず首を振った。いや、髪の毛が顔にかかって邪魔だったのだ。

「キミとは知り合いのようだから、一応耳に入れておこうかと思ってね。ああ、神崎クンのところには案内人の彼が行っているよ」
「……ふうん」

 思っていたよりも興味が無いといったような声が出てしまったことに、何故か少々後悔した。しかし、実際はどう思っているのか自分でもよく分からなかった。

「興味はないかい?」

 その様子を察してか、支配人はオレが思っていることをそのまま口にした。改めて考えてみたものの、どういうわけか神崎先輩の時に比べると余りにも現実味がなかったのだ。信じたくない故の自己防衛であったのかもしれない。
 まだここに来て数日と経っていないはずなのだが、なんだか相谷くんと喋っていた時がとても昔のことのように感じた。オレはそんなに相谷くんに会いたくないのだろうか? 何か引っかかることがあるからそういう考えが浮かぶのだろうが……。

(……心当たりがありすぎる)

 もういっそ、何も考えないほうが良いのではないかと思うくらいに、彼に関しては思うところがありすぎた。

「ここに来るってことは、死んだってこと? それとも先輩と同じ?」仕方なく、オレはあからさまに話を逸した。
「前者かな、残念だけど」

 支配人は少し躊躇いながらそう言った。どういう経緯でそうなったのかオレには皆目見当がつかなかったが、なぜこの場所に相谷くんが来ることが出来るのかを考えることくらいは可能だった。前に支配人が言っていたことを思い返し、それをそのまま口にした。

「ここに来るのって、条件があるって言ったよね?」
「ああ、確かにそう言ったね」

 それを聞くと、なんだか全身の熱がすっと溶けていくような感覚が走った。その条件というのを正確に知っているわけではないが、幽霊が視えるということと、ここに来るということが関係しているらしいという情報は得ている。ということは、だ。

「相谷くんって、そういう人だったの……?」

 オレは宇栄原先輩と神崎先輩が幽霊の視える人物かどうかというのは知っているが、相谷くんが果たしてどちらだったのかは知らなかった。聞こうと思ったこともなかった。
 決して相谷くんに興味が全くなかったわけじゃなかったし、寧ろ知っておくべきことだった可能性の方が高いのに、どうしてオレはそれを知らなかったのだろうか?
 幽霊が視える特殊な人間が、こんな身近に何人も居るとは思わなかったというのも確かにあるが……。

「……人のことを全て知るというのは、難しいことだよ」

 少しだけ、沈黙の時間が生まれた。支配人は、オレに何かを催促することも、それ以上話をすることもなかった。話が終わったのなら戻ればいいのに、どういうわけかオレが何かを口にするのをずっと待っていたように見えた。

「相谷くんとどうやって喋ってたのか、もう忘れちゃったな……」

 その沈黙に負けたのは、オレの方だった。やっぱり、こういうときの静けさはどうにも苦手だ。
 当然かもしれないが、支配人は少し困った顔をしていた。

「今更、何かを仕立てる必要は無いんじゃないのかな?」
「……そうかな」

 この人がこうしてオレに何かを言ってくるというのは、正直なところ意外だった。もっとドライな人で、従業員と客人というだけの関係だと思っていたのに、どうやら少し思い違いをしていたようである。
 支配人の言いたいことは、まあ何となくだが理解はしていた。どうせオレは死んでいるわけだし、これから先相谷くんという人物に会うこともないだろうし、元いたところに帰れるわけでもない。だったら別に無理をする必要はないと、そう言いたいのだろう。しかし、世の中そうもいかないことは幾つもあるのだ。

「でもオレは、誰かの思う橋下 香でいないといけないんだよ」

 何かを偽らなければ、オレはオレじゃなくなってしまうような、そんな気がしてしまうのである。


   ◇


 宇栄原先輩は、とてもずるいと思った。わたしが気になっていることを、まるで自分だけのことのように話を進めるし、簡単に栞を捨てろと言ってくるし、とにかく先輩はずるい。

(そりゃあ、わたしが先輩の役に立てるとは思ってないけど……)

 何故かはよく分からないが、時間が経てば経つほど腹が立ってきてしまっていた。その理由はよく分からない。お腹が空くと機嫌が悪くなるというそれのような気もするが、それとは別に、言いようのない不安にも駆られていた。
 もしかすると、先輩は何か誰かに言えないようなことをしようとしているのだろうかとさえ思ってしまう。そしてそれは、存外見当違いではないのではないのかもしれないとも思った。

(ちゃんと聞いてみればよかったかな……)

 わたしが先輩に何か質問をしても答えが返ってくるかは分からないが、こんなに悩んでしまうなら思い切って聞いてしまえばよかったのかもしれない。それか、いっそ栞を捨ててしまえば、わたしがこうして先輩のことを考えることもなくなるのだろうか?
 ――違和感を覚えたのは、そんなことを考えている途中のことだった。わたしのすぐ側を、白く光る粒が浮遊していたのだ。その様に、わたしはすぐにピンときた。前にも似たようなことがあったのをよく覚えていたからだ。
 綺麗に整えられている鞄の中身をがさつに漁り、一冊の文庫本から急いで該当するそれを手に取った。

「なんで……?」

 先輩から貰った栞からこぼれ落ちてくる綺麗な光は、わたしは何度か見たことがある。そういう時は大抵、黒い粒子をまとったヒトではない変な人がいるのだが、辺りを見てみてもそのような姿は目には映らなかった。それでも栞は、光を生んでは消えを繰り返していく。

(先輩に何かあった、とか……? でもそれで光るなんてこと、あるのかな……。それに、先輩が持ってるなら分かるけど、どうしてこれが……)

 周りに誰もいないとなると、原因はわたしか先輩くらいしか思い浮かばないが、帰路を歩いていただけのわたしの身に何かが起きたわけでもない。そうなると必然的に先輩が原因ということになるだろうか、だとしても、わたしの手元にある栞が反応を示すというのは少々理解に苦しんだ。

(何かあったとしても、先輩がどこにいるか知らないし……で、でもこのまま放っておいて何かあったら……)

 このまま何も気付かなかったことにして家に帰ってしまっては絶対に後悔するに決まっているが、先輩がどこにいるのかも分からないのに下手に探し回っても余り意味がないし、そもそも私が行ったところで何かが出来るわけでもない。
 そんなことを何度もぐるぐる考えていたら、わたしは自然と道を行ったり来たりしてしまっていた。端から見たら完全に不審者であるに違いないが、その場で立ち尽くしていることも出来ず、どうしたらいいのかとぐずぐずしていた。

「わわっ……」

 脇の道に繋がるちょうど分岐点で、誰かにぶつかりそうになり思わず間抜けな声が出てしまった。相手は、わたしと同じ制服を着た黒縁の眼鏡をかけた男子学生だった。見たことがない人だったということと、余りにも不審な動きをしていた自分が恥ずかしくなり、謝りがてら立ち去ってしまおうかと思っていたその時である。

「宇栄原くんを探してるの?」

 突然そんなことを質問され、わたしの動きはピタリと止まった。わたしの知りたいことを会っただけで言い当てられ、息をするのも忘れてしまったような気がした。心臓の動きが速くなるのがようやく分かると、わたしはどうにか口を動かした。

「あ、あの……どちらさま?」
「ここから走って十分くらいのところの公園にいるよ、宇栄原くん」

 その人は、わたしの質問にあからさまに答えなかった。宇栄原先輩の同級生なのだろうか? しかしそうだとして、どうして私が宇栄原先輩を探そうとしていることを知っているのだろうか? 疑問は募るばかりである。

「すぐに行った方がいいんじゃないかなあ」
「どうしてですか……?」

 わたしの質問に、男の人はようやく少しだけ考える素振りを見せ、こう言った。

「彼、いなくなっちゃうかもしれないよ」

 その回答は、わたしがいま一番考えたくないことそのものだった。軽々しい口調が、余計に私の不安をかき立てていく。そんな私をよそに、男性は話を続けた。

「自分を犠牲に出来るくらいの大きな力を、宇栄原くんは持ってるよね。きみも何となく分かってるでしょ?」

 それなんかが、いい例だよね。男の人は栞を見ながらそういった。ということはやはり、この栞から光莉出ているのは先輩に何かがあったということなのだろう。しかも、この人の言いぶりからしてどうやら余りいい状況ではないらしい。

「でも、わたしが行って力になれるかどうか……」
「なれるよ」一秒も考えることもせず、男の人はそういった。
「ど、どうしてそう言い切れるんですか?」

 この人は先輩と知り合いなのか、どうしてわたしが先輩について考えていたことを知っているのか、他にも聞きたいことは沢山あったが、とりあえず目の前の疑問を処理することにした。
 詳しいことは余り教えてはくれそうにないというのも要因だが、ここにそこまで時間をかけていられないのではないかという気がしたのだ。

「きみも持ってるでしょ? そういう力。結局さ、そういう人同士じゃないと駄目なんだよね」

 しかし、この人の解は余りにも抽象的なものだった。わたしがそういう力を持っているというのもよく分からなかったし、疑問が疑問を呼ぶような、そんな感じだった。

「まあ、難しい話は今は置いておこうよ。宇栄原くんがいなくなってもいいなら別に構わないけど」

 その言葉に、わたしは思わず息を止めた。わたしが先輩のところに行って何かが出来るとは全く思っていないが、それでもいかなければいけないという気持ちがようやく上回り、これ以上の質問は必死に抑えた。……ただひとつの質問を除いては。

「せ、せめてお名前を……」
「そういうのはまた今度ね。ぼくは掃除してくるから」

 終始わたしの質問を一蹴りして、掃除という不可解な言葉を残し男性は横を通り過ぎていく。私は首を横に動かし男性の動きを追おうとした。しかし、後ろを振り向いたときには既にその男性の姿は跡形もなくなっていたのだ。
 ――但し、白く光る粒を数個残しながら。


   ◇


「あんた、こういう状況でも俺を殺すのは躊躇するんだな」

 既に死んでいるはずの存在が、そんな不可思議なことを口にした。
 ようするにの男が言いたいのは、「俺が憎らしいならさっさと消せ」ということなのだろう。しかしそこに違和感があった。確かに状況だけで言うのなら、既にこの男を消してしまっていてもおかしくはないのだろう。それくらいの状況であることは間違いない。だからこそ、とでも言えばいいのだろうか?

「おれがその行動をしたら、満足なんですか?」

 それがどこか、お膳立てされているような感じがしていたのである。

「俺がそれに答える必要はないよ」
「おれだって、知る権利くらいはあるはずです。じゃなきゃ、こんなところには来ない。あなたはまだ、おれにどうして今こういう状況になっているのかの説明を全くしていないじゃないですか。その説明があって初めて、おれがどうしたいかが決まるんです」

 自分で言っておいてなんだが、馬鹿らしいなと思った。何故なら昔、幽霊相手に消したことは何度かあったが、その時は確かに余り何も考えていなかったからだ。拓真に言われるまではそれに気付かなかったおれがそんなことを言うというのは、自分自身余りいい気がしなかった。
 言ってしまえば今もその気が全くないわけではなかった。例えば相手が、全く話が出来る状態ではなかったのだとしたら、善し悪しはともかくとしてもうことは終わっていたことだろう。しかしそうではないのだから、おれはもう少し冷静にことを運ばなければならない。
 おれは、この男が橋下君を殺したという事実意外のことはまだ何も知らないし、それも果たして本当なのかも信用が出来ない。それなのに、そう簡単に消すなんていうことをおれがするはずがない。この人はそれを全く分かっていないのだ。
 男は、頭痛でも起きているのか額にそっと指先を当てた。

「……分からないな」

 一体何に対して言っているのか、男はそう口にする。

「ここまでやって、どうして誰も俺を責めないんだ」

 男のまわりを漂っていた黒い粒子が、一気に数を増やし大きな動きを作り始めた。静かな男の感情が、深く地面の底にまで墜ちていったような、そんな気がした。
 この男がまた一線を越えてしまうような何かをしてしまうのではないかという危惧と、それはおれに向けられているということを一瞬で理解すると、ことは自然に発生した。
 ズボンに入っていた栞から発生した光は、おれの意思とは関係なく無数の粒を創りおれの前を覆い隠した。意思とは関係なく、というのはおれの勘違いで、もしかしたらそれは感覚的なもので自分ですらも分からないところでそれは起きているものだと思ったほうがいいのかもしれない。何かの意思がそこに働いていない限りは、それが目に視えない事柄だろうが、現実では起こり得ないことであろうが、物事は勝手に動きはしないのだ。

「……おれだって別に、やりたくてこういうことをしてるわけじゃない」

 恐らくはずっと、幽霊が視えていた時からそうだった。おれはそう言ってやりたくて仕方がなかったのだ。拓真には言ったことがあったかもしれないが、少なくとも、それ以外の状況でそんなことを口にしたことは一度も無い。
 今、男の顔はおれには見えない。黒い靄と白い粒が無数に合わさり、果たして今どういう状況になっているのかもよく分からない。強いて言うのであれば、少し気を抜いてしまえば何か大きな力が起きてしまうような感覚があるということくらいだろうか? それを許してしまえば、自分の想定を超えるようなことが起きるような予感はあった。意識というよりは自我を保たなければどうにかなってしまうのではないかという、恐怖心のようなものも感じた。
 それと同時に、苛立ちも感じていたように思う。
 どうして幽霊なんてものが視えなければならないのかと、そう思った。
 本当はもう何も視たくないと、そう何度も思った。
 それを、「視えるということはそういうものだ」と思い込むことで耐えていた節は確かにあった。
 今回のことも、言ってしまえばおれには直接関係のない話で、幽霊さえ視えなければおれがこんな苦労を負うことも無かっただろう。橋下くんはおろか、拓真と会うことも恐らく無かった。それは必然的に、相谷くんと出会うこともほぼほぼ無くなるということだ。
 そうなってしまうというのは、おれにとって果たしていいこととなり得るのだろうか?
 ……考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。箍が外れる感覚というのはこういうことなのだろうかと、どこか冷静な自分もいた。
 本当は、全てを切り捨ててしまうのがよっぽど楽であるというのに。

「――!」

 どうして聞き覚えのある声が、後ろから聞こえてくるのだろうか?

「先輩……っ!」

 それがとある君であると認識する前に、左腕に衝撃が走った。両腕が左腕に纏い、横から見え隠れする顔を見て、何故だがどこか遠くにあった意識が連れ戻されたような、そんな気がした。

「な、中条さん……なんで……?」
「だ、だって……」

 驚いたのは確かだったが、どちらかと言えば煩わしいと感じた。ここに来るはずのない人が、何故かおれにしがみついているという事実を飲み込むのに時間がかかりそうだったが、誰もが皆、おれの波長に合わせてくれるわけでもない。

「先輩が、いなくなっちゃうような気がしたから……」

 あとで後悔しそうな気がしたから。続けて彼女はそう言った。後悔という言葉に、おれは何か引っかかりを覚えた。おれが居なくなることが、彼女とって後悔になり得るということなのだろうか?
 出来ればこの時、もう少し考える時間があればと思った。なんせ今のおれには時間がない。今を逃せば、それこそおれも後悔するかもしれない状況であることに変わりはない。感情に身を任せるなんていう品の無いことはしたくはないが、今ならそれが出来る条件が揃っているのだ。

(……本当に、そうなのか?)

 目の前にいるこの男の言ってることが本当に正しいのかを、おれはまだ知らないでいる。
 ……少し、冷静さが戻ってきたような、そんな気がした。

「いなくならないよ」

 中条さんの手が少しばかり震えていたのに気付いたのは、この時である。
 それは明らかに、おれの意思によって反応し動く光と化した。目の前にあった黒いそれは、男の足下をちらつくそれを除いては光によって弾き飛ばされ空へと消えた。そしてこれまでと違うのは、その光は栞から発生されたものではなかったということだ。

「そう簡単に、おれは消えない」

 今ここに、おれが居なくなることを良しとしない人物がいるとするのなら。
 消えることが、誰かの後悔に繋がるのだとするのであれば。
 それを簡単に切り捨ててはいけないのだと、自分に言い聞かせるようにおれはそう口にした。
 ……どういう訳か誰かにも言ってやりたい気持ちが湧いたが、それは忘れることにする。

「――ああ、通りであいつが頼まないわけだ」

 男が一言だけ口にすると、これまでの卑しい空気が一変した。周りにあった深淵は光もあってか大幅に軟化し、同時にこれまで目の前にいた人間とは全く別人であるかのような雰囲気だった。

「あんたの力は借りない」

 最初ここに来たときのそれと似たような雰囲気にも感じたが、それよりも何か、覆い被さっていたものがなくなったような印象を受けた。
 元の正確が黒いそれによって誇張されるということなのかもしれない。どちらにしても、恐らくはこれが本当の彼であるのだということはすぐに理解した。

「今の俺なら、自分で自分を消すことが出来る。そうなるのを、俺はずっと待ってたんだ。今更誰かに頼るなんて虫がいいことは選ばない」

 しかし、ここまでのことをしておきながら、まるで自分だけしか関係がないかのような物言いに、少しばかりこの男の勝手さが垣間見えたような気がした。これまでも自分中心に話を広げていた辺り、本質的にそういう人間だったのかもしれない。

「ここまでのことをしておいて、随分と勝手ですね」
「これは俺の意思じゃない。……いや、違うな。本質的な部分でそれをずっと求めていたから、こうなったんだと思う。ああ別に、分からなくていいさ」

 こんな感情、分からない方がいいに決まってる。男がそう付け加えると、大人しかった黒い靄が徐々に色濃くなっていくのを感じた。実際にそう視えているわけではなかったが、おれの感覚がそう言っていたのだ。

「……お二人さん、逝邪って存在はもう知ってる?」

 だと言うのに、この男はどうやらまだ話し足りないようである。そしてこのタイミングで、おれが一番聞きたかったと言っても過言ではない情報を、男は口にしようとしていた。名前と情報だけは知っている、逝邪という視たことの無い存在についてのことだ。

「別に俺の話を鵜呑みにしろとは言わないし、お二人さんがどうしたいかを優先してくれればそれで構わない。ただ、頭の中には入れておいて欲しいことがある」

 男は言った。逝邪は、特性上消える理由がないから消えるのが何よりも難しいものだと。でもそれは、言ってみれば拷問に近いものだと見てて思ったと。

「そいつはお二人さんと同じ制服を着てて眼鏡をかけてて――まあ、お二人さんなら会えばすぐに分かると思う。もしそいつに会う機会があったらでいい。別に無理して探せなんて言わない。ただ……」

 そいつを、逝邪という業から救ってやってはくれないか。
 男の声は確かに聞こえたものの、そのすぐ後に大きく巻き起こった黒い粒を纏う風がおれの行動の邪魔をした。
 それを皮切りに、男の身体の至る所が黒い粒に変化していく。今ここでおれが触れてしまえばすぐにでも全てが崩れ落ちそうな程に脆く、力なく地面に墜ちていっているように見えた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。おれはまだ聞きたいことが――」
「俺が話すことはもう何もない」

 強い語気は、おれの言葉を一瞬で遮断させた。どうやら男は、本当にこれ以上情報を伝える気は欠片もないらしい。そして、本当に自身で姿を消そうとしているのだ。

「待ちすぎたんだ。俺も、あんたも……あいつだってそうだ」

 あいつ、というのが一体誰のことを指しているのかは何となく理解したが、ここまで来たのなら名前を口にしてくれればいいのにと、思わず文句を言ってしまうそうになった。それに、その中におれも含まれているというのもよく分からなかった。いや、分からないふりをした。

「最初から全部、俺のせいにしてくれればよかったんだよ」

 目を伏せながらも、男は少しだけ笑みを浮かべていた。どういう人生を送ったらこの状況でその表情をすることが出来るのか、疑問で仕方が無かった。瞑邪になるくらいだから、恐らくは、余り人には言えないことがこれまでに幾つもあったのだろう。今回のことが、まさにそれに当てはまるに違いない。
 ……小さな声で「大丈夫、俺なら出来る」と、男はそう言っていた。
 微かな風が吹いたのを合図にするように、男はまだ僅かに残っている左手に力を込めた。すると、それまで周りを漂っていただけのただの粒が、急に男の周りを円を描くように動き出す。その隙間から僅かに見えた男の顔は、おれや中条さんのことを見ているわけでもなく、どこか遠くをこれまでとはまるで違う険しい顔で何かを見つめていた。
 その様が余りにも不審に感じ、思わず男が見ているであろう後ろを向いた。

「……」

 おれ達と同じ制服を着た眼鏡をかけている男が、公園の外からとってこちらをじっと眺めていたのである。

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