43話:ニセモノは後悔を知らない


2024-08-15 16:28:11
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 人の死というのは存外あっけないものであるというのは知ってはいたが、いざ自分がその立場になってみて驚いたのは、死んだ後も意識は僅かに残されていたということだ。
 金縛りという表現が一番近いだろうか? でもあれはどこか他人事のようで、言うなれば幽体離脱のようでもあった。あの感覚は、死を体験したものの特権だと言えば少しはマシな気持ちになるかもしれない(と思ったが、そんなことはなかった)。
 例えばの話、寿命で人に看取られるような状況であれば多少は意味があったのかもしれないが、オレのあの状況において言うのであれば、正直不要な時間だった。
 オレの死に際は言うまでもない。思い出したくなくても思い出してしまうことは誰にでもあることだろうが、それを死んでも思い出さなければならないだなんて、厄介であることこの上なかった。
 それにしても、オレを殺した人物の最後の顔といったらある意味衝撃的だった。いや、そういうものであるというのは理解していたが、それが本当に当たるとは思っていなかったのだ。
 だからこそ、今はこうも思うのである。

「……やっぱり、ムカつくな」

 全くなんていう顔を見せてくれたのかと、本当は文句を口に出してしまいたかった。今オレのいる場所には、生憎辺りには誰もいなかったし、何もなかった。言ってしまっても何ら問題はないように見えるのだが、それが逆に、オレの冷静さを引き出している要因だった。
 正確には何もないというわけでもなく、地平線のような線は遠くに見えるのだが、そのほか、オレ以外には本当に何も見当たらなかった。というか、死んだ筈なのに人としての意識があるということの方が、今のオレからしたら重要だった。否、別のことを考えていないと何か嫌なものに取り憑かれそうな気がしてならなかったのだ。

「何もないな……」

 しかし、そのおとぎ話のような幻想的な空間は広がってはいない。どちらかと言えば無機質で簡素で、必要のないデッドスペースのようにも見えた。
 人は死んだらそこで終わりであるというのは定説だが、三途の川を渡るなどというおとぎ話が存在するというのだろうか? まあ、幽霊がいるということを知っているせいで、例えば本当に三途の川があったとしてもさほど驚きはしないのだが。
 何気なく後ろを振り向くと、ほんの数メートル先の空間が少し歪んでいるのがすぐに分かった。普段だったら警戒していたかもしれないが、この特殊な状況でそれは余りにもそぐわしかった。
 仕方なく辺りを見回すと、少し遠くで揺れる空間から、何かが露わになっていくのが見えた。じわじわと形どっていくそれは、人一人が収まるくらいの長方形で、その周りに簡単な装飾が鏤められている。ガチャリ……と、その長方形がゆっくりと開かれた。

「――ああ、以外と早く見つかって助かったよ。迷うと大変だからね」

 何もなかった空間から現れたドアから、帽子を被った一人の男が顔を出した。

「橋下 香クンで合っているね?」
「……そうですね」

 男は、名乗ってもいないオレの名前を簡単に口にした。オレの記憶にない人物に名前を呼ばれるというのは、余りいい気はしなかった。

「失礼。ワタシはここの支配人でね。キミを迎えに来たんだ」オレの苛立ちを察したのか、支配人はすぐに役職を名乗った。
「ふうん」

 素性を知ったからといって、相手に興味が湧くことはなかったが。
 その後、ドアの向こうに招かれたオレが見たのは体裁の整った施設のような場所だった。さっきの場所に比べれば比較的物に溢れているものの、白を基調とした場所であることには変わりなかった。正面には受付のような机があり、それを返したところにもう一人の男がいた。右脇にあるソファーに座り、オレはしょうがなく支配人とやらの説明をうけることになった。
 話を聞く限りでは、オレにとって面白いものではなかった。ここは死の停留所だとか、オレはそこに招かれたとか、停留期間はおおよそ七日であるとか、夢の中での話のようなことばかりを聞かされた。一応話は聞いていたものの、そんなことは最早どうでもよく、早く終わって欲しいと思っていた。つまらなかったのだ。だからきっと、想像するまでもなくから返事だったのだろう。

「……随分と淡泊に受け答えをするんだね」

 一通り話し終わった後、支配人がそんなことを口にした。

「今更何かを気にしてもしょうがないので」
「なるほど。確かにそうかもしれないね」

 話をちゃんと聞いていたのかと説教でもされるのかと思っていたが、存外すぐにこの話は終わった。正直早く終わって欲しいと思っていたので助かったのだが……。

「一つだけ、いいですか?」
「勿論」
「ここって具体的に何なんですか? ああいや、話はちゃんと聞いてましたし言いたいことは分かるんですけど、お節介甚だしいですよね。オレ頼んでないですし」
「結構正直に言うんだね。言いたいことは解るよ、とても」

 話を聞く限りではオレはもう死んでいているのに、どうしてこんな話を聞かされなければならないのかという苛立ちがオレに余計なことを言わせたのだ。向かいに座っている支配人は、顎に手を当て少し考える素振りをみせた。
 本来なら辿り着かないはずの停留所……以上の説明をするのは難しいな。小さな声で支配人が言った。

「でも残念ながら、ワタシもそれを知らないんだ」

 その口ぶりが、少々疑問だった。オレに知る権利がないのならそう言えばいいだけの話なのに、支配人という役職でありながら、ここが一体何なのか説明が出来ないというのだろうか? そんなに難しい質問をしたとは思っていないのだが……。

「だからここに居るんだ。少なくともワタシはね」

 ここにいる従業員という存在というのは、一体どこから来たのだろうか? ……まあ、それを知ったからといってなんだという話だが。

「ここが無かったら、オレは既に消えてるってことですよね?」
「そういうことになるね」
「だったら、さっさと終わりでいいんですけど」

 そう言うと、支配人は更に難しい顔をした。

「……ここに来る記憶持ちのニンゲンは、一律して似たようなことを言うよ」

 どうぜ行くところは同じなのだから、少しゆっくりしていったらどうかな? そう言った支配人に、オレは思わず嫌な顔をしてしまう。

(面倒くさいな、この人……)

 ちゃんと心の中で言ったと思ったのだが、支配人は苦笑いをした。


   ◇


「ここが橋下さんの部屋になります」

 名前の通り、案内人という人物を先導にオレの部屋へと案内された。どういう理屈か、この空間は色が限定されているらしく、人が停泊するようなところには到底見えない。余りにも簡素な情景で特に見るところもないのだが……。

「どこにも時計がないのは、そういうものなんですか?」

 ある程度この空間の意味を理解したオレは、そういう聞き方をした。恐らくは、既に死んでいるのだから時間をこちら側が気にしたとことで仕方が無いということなのだろう。しかし、これまでの日常生活で普通にあったものがここに来て見当たらないというのは、少々落ち着かないというものである。

「まあ、そうですね」案内の人は、もうその台詞は聞き飽きたというように適当に返事をした。
「不便じゃないですか?」
「最初は確かにそう思いましたけど、余り気にしても意味が無いですからねぇ。ああ、皆さんの期間はちゃんと確認しますけど。それだけですかね」

 ここに居る人達はその期間をどうやって調べているのだろうかと疑問に思ったが、きっと従業員にのみ手渡されている何かがあるのだろう。それか本当に感覚のみでそれを行っているのかも知れないが、どちらにしてもオレにはもう余り関係のないことである。
 案内の人が、とある扉の前で足を止める。どうやらここがオレの部屋のようだ。開けますね、と前置きをして、言葉の通りことを行った。扉の先にある一室は、オレの想像していたモノとはかなり違った空間だった。

「……ここ、使わないといけないんですかね?」
「嫌ですか? まあ、私もお断りですが」

 だったら端からそんなことろに案内して欲しくはないのだが、そういう役職であり仕事の一環なのだと思うことで、文句は口には出なかった。
 部屋の中の色は、これまでの白と灰で創られた空間とは打って変わって色がついていた。
 ここに来てはじめて色味のある空間というのもあるのだか、客室にしては少々……いや、かなり派手で落ち着かない空間だった。一体何がどうなったらこういう作りになるのか、多少なりとも色の変化はあるものの、赤で統一された部屋に思わず目が動き回ってしまう。

「嫌なら別に使わなくてもいいですよ。趣味みたいなものなので」
「はあ……」

 案内の人が口にした「趣味みたいなもの」という言葉はイマイチよく分からなかった。というか、趣味でこんな訳の分からない部屋に通されるだなんて、まっぴら御免である。

「受付のソファーに居て頂いても構わないですけど、あとはそうですね……書庫室と、屋上ならありますよ」
「屋上?」こんなどこにあるのかも分からない閉鎖的な場所に屋上なんてあるのかと、オレは思わず聞き返した。
「一人になるなら中々にうってつけの場所だと思うんですけど、一度行ってみますか?」

 オレはその案内の人の提案に、はいともいいえとも答えなかった。しかし、案内の人はそれを肯定ととったらしく、「こちらです」と移動を促した。オレの部屋は二階にあるため、さっき使った階段に向かいそのまま上っていった。
 屋上の扉を案内の人が開ける。足を踏み入れると、そこは余りにも現実味のないと言って等しい空間だった。思わず辺りのことを忘れてしまうくらいに、オレは空を視界に入れ続けた。

「ここ、本当に屋上ですか……?」不思議でしょう? 案内人は、そう前置きをして話を続けた。
「ここは、全ての色が空に乗って現れる場所です。どこよりも複雑で、人の過去や感情を揺らしてきます」

 そう言い終わったかと思うと、案内の人は空から目を外して僅かに眉の形を歪めた。

「だから私は、どうもここが苦手なんですよね」

 笑顔が崩れかけたのはほんの一瞬で、すぐに取り繕った姿を見せた。どうやら、この人も何かワケありのようである。
 確かここに来るには、特定の状況下でなければいけないなどと支配人が言っていたが、この人達もそういった条件のもとここに来たのだろうか? 例えばこういう空間専門の職業がオレの知らないところで存在しているのであれば、それこそもう少し人が居たっていいと思うのだが……。

「私は戻りますけど、どうしますか?」

 その質問に答えるには、ほんの僅かだが時間がかかった。正直なところ別に受付のところでも構わなかったからだ。

「……少しだけ、ここに居ようかな」
「そうですか」

 一人で何か考えたいことがあるわけでもないし、一人でいたらそれこそ余計なことばかり考えてしまいそうだ。と言っても、受付に戻ろうが考えてしまうことは同じに違いないだろうが、だったら尚更、誰かと一緒にいる必要も無いだろうとそう思ったのだ。

「飽きたら一度、受付に来てくださいね」

 それだけ言うと、案内の人はすぐに足を翻し屋上の扉を閉めた。――と思ったら、再び扉の開く音が聞こえてくる。

「ああそうだ」

 再び顔だけを出して話を始めた案内の人は、どうやら何か言い忘れたことがあったらしい。

「掃除士って人がここに来るかもしれないですけど、別に気にしなくて大丈夫ですから」

 ホテルのような場所だと言うわりにそれに値する従業員が少ないとは思っていたが、どうやらもう一人はいるらしい。それにしたって少ないことには変わりないが。
 じゃあまた後で。そう言って扉が再度閉まる音が聞こえなくなると、この場はとても静かだった。再再度案内の人が顔を出すことも無かった。どこから流れているのかよく分からない風が、髪の毛を動かした。少し邪魔に感じ、思わず手で押さえて空を仰ぐ。

「……掃除士って、なんだろう」

 口にして思ったが、その疑問はオレにとってはさして重要なことではなかった。


   ◇


 恐らく掃除士という人物が屋上に訪れたのは、オレがここに来てからかなり時間が経ってからのように思う。
 しかし、その人物は来て早々に脇に座って寝入ってしまっているらしかった。案内人さんが「気にしなくていい」と言ったのは、恐らくこういうことなのだろう。
 あの人物が掃除士だろうという結論に至った理由はひとつ。モップとバケツを持っていたからである。その仕事道具は、今は適当な場所にほっぽいてあるが。

「……早く、こんな時間終わらないかなあ」

 余りにもその場にいないのではないかと思ってしまうくらいには空気のような人で、どうしても一人でいるときのように余計なことを口にしてしまった。
 意図しない時間を無理矢理作られるというのはいい気分ではないのは明白だが、せめてこの暇な時間の潰し方を教えて欲しいものである。
 空を見上げると、見慣れない色味が目に飛び込んでくる。グラデーションがかった色に、微かにかかっている雲だけが白く漂っている。違和感こそあるものの、それが嫌というわけではないのだが、慣れるのに少し時間がかかりそうだ。……まあ、慣れるよりも前にここから出て行くことにはなるのだろうが。

(あの時の相谷くんは、どんな気持ちだったんだろう)

 ここに透されたのは別にそういう意図は無いのだろうが、屋上という場所にいるとつい思い出してしまうことがある。高校に入って相谷くんと出会ったのは学校の校舎の屋上だが、具体的に何があったかと聞かれても答えに困るあの件だ。

「聞いてみればよかったかな……」

 いかにもワケありなあの状況の中、流石にどうして授業中に屋上に居たのか、どうして自ら命を絶つようなことを仄めかしたのかを聞くことはしなかったが、別の機会にでもちゃんと聞いておいた方がよかったのだろうかと、この時ふとそう思った。
 いや、いくらオレだって馬鹿なふりをして聞けるものには限度というものがある。それに、そんなことを軽率に聞いてもし嫌われたら――。

『なんで、先輩がそんなこと言うんですか……っ!』

 相谷くんと最後にあった時のことが、ふと頭をよぎる。オレは、あそこまで声をあげた相谷くんを見たことが無かった。あの時相谷くんに言われなければ気がつかなかった。どうせオレはと、自分で自分を責めることでなるべく傷つかないようにと予防線を張ろうとしたことに。

(……嫌われたんだよな)

 思わず深いため息を吐き、地面に視線を落とす。こんなところに居なければ考えることなんてなかったのにと、僅かに苛立ちも混じっていた。
 地面を辿ると、掃除の人がいつの間にか身体を起こして何かをしているのが目に映った。地面に何か……絵のようなものを描いているように見え、オレは思わず身体を左右に揺らして確認しようとする。
 一見適当に地面に擦りつけているだけのようにも見えたのだが、それにしては体よく整えられた見えない四角の中にそれらが描かれているような気がして、尚更気になってしまった。
 まるで小さな子供のように、地面に手をつけて掃除の人の側に向かう。掃除の人は、そんなオレのことなんて眼中にはないようだった。すぐ近くまで来ても目に映っていないのか、オレはそのまま描かれているものを上から見下ろした。

「わあ、すごい……」

 床をキャンバスにチョークで書かれたそれは、一体どこの場所なのか、それとも頭の中で作り上げた幻想を形にしているのか、白いチョーク一色だけで創られた風景絵だった。
 自然の多い公園といったところだろうか? 白一色だけなのに陰があることが分かるし、逆にどこに光が当たっているのか素人のオレでも見て取れることができた。難しいことはよく分からないが、オレからしてみれば何にも劣らないものだった。

「上手いんですね」

 そのオレの言葉に、掃除の人ははじめて手を動かすのを止めた。顔を覗くと、なんだか少し居たたまれなさそうな表情をしていた。なにか変なことを言っただろうか?
 掃除の人は、それを隠すようにズボンのポケットに手を入れて何かを探し始めた。

「……どぞ」

 手に取ったのは、先が少しすり減った黄色いチョークだった。差し出され思わずそれを手に取ると、掃除の人は少し身体を動かしまっさらな地面を正面にし、再び地面に向き合った。オレと話したくないのか、それとも単純にそういう人なのか、とにかく無口な人だった。例えば神崎先輩や相谷くんですら、もう少し会話が続くのにと、そう思った。
 余り邪魔をしては悪いかと、掃除の人とは少し距離をおいて座り直す。せっかく貰ったチョークを持ち直し、一体何を描けばいいのかと考え倦ねた。急に手渡されても、描きたいものすぐに浮かぶほど芸術に長けているわけではないのだが……。

「んー……」

 少し考えて、オレはチョークを地面に擦り付けた。ふと思い出したことだから合っているかどうかは自信がない。それでも、この時間を埋めるにはそういうことをするしかなかった。
 コンクリートのような地面にチョークを擦りつけるなんてこと余りしたことがないから、少々悪いことをしているような気持ちになった。学校に必ずある黒板にすらそんなに多く触れることはないし、もしかするとここで一生分チョークでモノを描くのではないかという気がした。
 ――出来上がったそれと、過去の記憶を思い浮かべて比較をする。

「やっぱり、オレの方が上手いと思うんだよなぁ」

 あれは夏休みに入る前のことだったか、することがなさ過ぎて図書室でウシを描いていた時のことだ。宇栄原先輩にオレが描いたウシを見せたところ、「ウシはもっとこうだろう」と先輩が描いてくれたウシがまあ酷かったのだ。宇栄原先輩は自分の方が上手いとか何とか言っていたが、オレの方が上手く描けたと思うのだ。
 まあ、今更オレの方が上手いだなんだと言ったところで先輩に届くことは無いし、余計虚しくなるだけなのだが。
 ふと顔を上げると、掃除の人がこちらをじっと見ているのが分かった。

「あ、何でもないです。ここに来る前の話なので」

 掃除の人がこちらのことを一瞬見たのが少し居心地が悪くて、思わず変な弁解をしてしまう。しかし掃除の人は、オレの話を聞いているのかいないのか、すぐにそっぽを向いた。

「掃除士さんは、なんでここに居るんですか?」

 この人が居るのに静かな感じがどうにも居心地の悪さを倍増させていて、思わず聞く気のないことを口にしてしまった。と言っても、気になっていたことには違いないのだが。
 案内の人や支配人と話したときも思っていたのだが、ここに従業員として居る人というのは一体どういう人間なのだろうか? そもそも人間だったかどうかも怪しいところではあるが、今はどうあれ元は人間であって欲しいというのが、オレの願望である。

「……どうしてですかね」

 まるで他人事のように、掃除の人は言った。

「ここに来る前のことは、余り覚えてないので」

 もしかすると、聞いてはいけないことを聞いてしまったかも知れない。率直にそう思った。

「そうなんですね」

 少し後ろめたさを感じてしまい、いつものように何も考えていないふりをした。少しだけ、余り好きではない沈黙が走る。こういうのが一番嫌いだ。
 ここに来る前のことということは、オレと同じような境遇でここに来たということなのだろうか? それとも、想像の出来るようなものではない、もっと違うベクトルの世界のことなのかもしれない。
 案内人や支配人といった人物らもそうだが、例えばこの場所のために創られたにしては、人間味がありすぎると感じるのである。といっても、あくまでもオレの感覚の話で信憑性も欠片もないが。
 いずれにしても、これ以上この人に何かを聞いても情報を得ることは出来なさそうだ。

「そうやって考えられる人がいるっていうの、俺は羨ましいと思いますよ」

 この話はここで終わりだと思っていたところ、掃除の人がそんなことを口にした。余り喋りたくない人だとばかり思っていたのに、その発言は少し意外に映った。
 なにか気の利いたことでも言うべきかと考えようとしてすぐ、掃除の人は腰を上げた。バケツとモップを持ったかと思うと、掃除の人は自分の描いたそれを一瞥した。
 何も入っていなさそうなバケツにモップをつけ、一見乾いているように見えるそれを地面の絵に押しつけると、微かに見える白いチョークがモップに吸い込まれていく様が見えた。それは正しく、俺の人生で一度も見たことが無い事象だった。
 地面に押しつけていたモップを引き上げると、オレに向かって小さく会釈をしてそのまま去って行った。屋上のドアが開き、掃除の人が中に吸い込まれるのを最後まで見てから、オレは再び地面をまじまじと見つめる。

「……ほんとに掃除の人だ」

 あの人が地面に描いていたものは、跡形もなく綺麗さっぱり無くなっていた。

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