今日は朝からいつにも増して寒いと思っていたが、まさか雪が降るまで冷え込むなんて思ってはいなかった。朝の天気予報では「雪は降るが積もらない」と言っていたのに、今は子供の足首が隠れるくらいにまで積み重なっている。
マフラーを首に巻き、足を動かすたびに揺れる少し大きな長靴と子供用の小さな傘と一緒に一人で外を歩いているが、夕方になる少し前だからなのか辺りにはさほど人はいない。白銀の街並みは、いつにも増して少し寂しくオレの目には映っていた。雪が降るのは確かに楽しいし好きなのだが、正直「どうして今日に限って」という気持ちがあった。
目的の場所に向かう最中、規則正しい音がオレの耳に入った。
(踏切の音……)
定期的に、ある一定の時間帯に鳴り響くそれは、なんだか居心地が悪い感覚に苛まれてしまう。何も悪いことをしているわけでもないのに、お巡りさんが近くにいるとどうにも落ち着きが無くなってしまう現象によく似ているような気がした。しかし、恐らく今日のそれは少し意味が異なるだろう。
オレがその踏切に辿り着いた時には、既にその音はなくなっていた。車がゆっくりと横断し、歩行者と自転車が交差していくのをただただ眺めている。オレは、その波に乗ることはなかった。
(来るの、はじめてかも……)
ここは、いつだったかに父さんが死んだ場所である。簡単に想像できたものでもないが、オレの父はここで車ごと電車に轢かれて死亡した。亡くなって以降、母はこのことを一切口にしないし、一昨日が父の命日であったということも恐らくは気付かないフリをしていた。オレだって、別に言及はしなかった。父の話をするつもりはもとよりないし、してはいけないような気がしていたのである。
命日といったら、世間一般的には墓参りくらいは流石にあるのではないかと思っていたのだが、次の日も、その次の日も母はオレの前では行動を起こさなかった。もしかしたらオレの知らないところで母は何かをしていた可能性もあるが、余りにも平和的な日常はそれを感じさせなかったのだ。
仮にも身内が死んだような場所に一人で行くと母が知ったら怒るに決まっているだろうから、母には近くの公園に行くと言って家を出た。罪悪感こそ少しはあったものの、父がどういう場所で死んだのかを一度確かめてみたかったのだ。言ってしまえば、好奇心そのものだった。
踏切の音が聞こえてきたのは、すぐ後のことだ。オレは線路を超えることはなく、踏切を通り過ぎた車をただ眺めていた。ここに来たからと言って、オレに出来ることは結局それくらいだった。遠くから、電車がこちらに走ってくる音が耳に入る。
この時に限って、辺りにはまだ車も人影もいなかった。それなのに、なんだか背中の神経が妙にざわついたのをよく覚えている。
「誰もいないのに……」
オレは思わず周囲を見回した。それくらい、すぐ近くに何かが居るようなそんな気がしたのである。
線路のちょうど真ん中辺りだろうか? 視線を戻すと、歩く人々と車と列車に轢かれて雪の積もっていない部分がある。そこから、蜃気楼のようにユラユラと地面が揺れ動いているようにオレの目には映った。
それは恐らく、本来なら視えるはずのないものが地面の底から這って出てくる前触れだったのだろう。そうだと分かったのは、これから少し時間が経ってからの話だが。
到底蜃気楼とはほど遠い現象が起きたのは、オレが気付いてからすぐ後のことだった。空気の波だったものが、少しずつ形を形成し始めたのである。まるで粘土細工かのように誰かに創られているようなのに、自らの意思でそれが行われているかのように視えた。矛盾していると言われても仕方ないことかもしれないが、誰がなんと言おうとも、それは紛れもなく意思を持っていたのである。
大きく鼓舞する靄の中から腕のようなものが微かに読み取れたのは、そう遅くはない出来事だった。しかし、その腕とやらは明らかに人体構造を無視していた。手のひらは外側に曲がり、皮膚と思われるものは爛れて赤黒く染まっている。血と言えば分かりやすいかも知れないが、あれは出来れば靄だと思いたい。だがグロテスクであることには変わりなく、ここに大人が居たならオレは視覚を奪われていたに違いない。本来ならそれくらいの出来事なのだが、オレはそんなことを完全に無視してその事象をまじまじと眺めていた。それは何故か?
「お父さん……?」
この時、オレは何故居るはずのない人物のことを思わず口にしてしまったのかは自分でもよく分からなかった。もし母さんがここにいたら、一体どんな顔をするのだろうかと考えてしまうくらい、普段は口にすることがない単語である。
その軽率な言葉が合図かのように、オレが父と呼んだ何かがニヤリと笑った気がした。いや、オレが口にした父と呼ばれる物体には、身体はおろか顔のようなものは無かった。なのにそう感じたのだ。すると、オレの周りを取り巻くように靄が散乱し始めていく。形成するほどの力が無いのかどうなのか、特別何かを形取るようなことはしなかったが、どちらにしても気味が悪いことだけは確かだった。
ただ警鐘を鳴らしているだけだった踏切の音に混じって、ようやく電車の音が聞こえてくる。この状況ではそれはただ不安を煽るだけのものでしかなく、電車の音が近づく度に心臓が頭の中で跳ね上がるのを感じた。おかしな話だが、自分がちゃんと息をしているのかもよく分からなかった。
視界の端に電車を捉えた、その時だ。ほんの一瞬、だが恐らくは周りの時間は止まっていたことだろう。
先ほどまでただの靄だったはずの周りのそれが、地面に這いつくばっている人々となって現れたのだ。いや、オレの目にはそう映っていただけで、ここに他の誰かが居たとすればそんなことは思わないかもしれない。
今更と思われても仕方が無いが、明らかに幽霊であるということが分かる程度には、到底人間と呼ぶに相応しくない姿だったのである。それは、踏切の真ん中にいる人物も当然例外ではなかった。
考えている時間があるわけもなく、気付けば電車とそれが今にも衝突しそうになっていた。オレは思わず眉を寄せ、何かを口にしそうになる。だが、それを許さない人物がいた。
「――凄いな、ここ。自殺の名所だったっけ?」
どこからともなく聞こえてきた声に、オレはようやく現実に戻されたような気がした。突如、とある人物が目の前に降ってきたのだ。
光の粒を纏ったそれが地面に足を着地させると、雪に逆らうようにして光がぶわりと舞った。それと同時に、黒く淀んだ空気はとある男が現れたことによって消滅していく。もしかすると浄化されたという方が自然かもしれないが、どちらの表現が適切なのか、こればかりは検討がつかなかった。
「この前のお兄さん……」
その人物とようやく目が合うと、オレはようやく言葉を口にした。さっき何かを言おうとしたものとは全く違うもので、何を言おうとしていたのかもすっかりと忘れてしまった後だった。
突然現れたその人物のことを、オレは知っている。名前は、確か――。
「お兄さんでもいいけど、タカハラって呼んでくれた方が嬉しいかなあ」
声の主は、自身のことをタカハラと呼んだ。
オレの周りは、雪以外に何も残されてはいなかった。父のような人物はもう既にどこにも居ないし、それどころかその他の数十人もの気配は、すっかりと消えてしまっていたのである。踏切の音も、電車の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。強いて言うのであれば、お兄さんから放たれているのであろう光の粒は、まだ僅かにオレの目に映っていたくらいだ。
「さっきの人、きみの知り合い?」
「た、多分……」そう問われ、どういうわけかオレは咄嗟に言葉を濁した。
「そっか」
そんな適当な答えに、タカハラさんは口調と表情を変えることはしなかった。
「今日は帰らない? 家まで送っていくよ」
口調こそ優しいものの、有無を言わせないような威圧感を僅かに感じながら、タカハラさんのことをまじまじと見続けた。この季節特有の纏う空気の色は、この時ばかりはオレの目には余り上手く映ってはいなかった。
しかし、靄の中にいるそれらがハッキリと視えたこの日のことは、どれだけ時間が経っても忘れることはないだろう。
◇
「そういえば、祥吾くんときみは知り合いなんだっけ?」踏切がようやく見えなくなってきた頃合いだろうか? タカハラさんが、ふとそんなことを口にした。
「え? う、うん……。従兄弟なんだって」
「ふぅん」
軽く返事をすると、会話はすぐに終わった。祥吾はタカハラさんのことを知っているようだったから、てっきり従兄弟であると言うことはもう知っているのだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「タカハラさんは、祥吾と知り合い?」
「知り合いといえばそうかもねぇ」
タカハラさんの答えは、なんだか曖昧だった。
「ボク、祥吾くんに嫌われてるみたいだから」
表情を変えること無く、優しい顔のままそう言った。
「それって、タカハラさんがユーレイだから?」
「うーん、どうだろう」
適当に、当たっていそうなことを言ってみたものの、それは見当が外れていたようだ。
タカハラさんは、少しわざとらしく顎に手を当てて考えるフリを始めた。確かに夏にタカハラさんとあった時、祥吾のタカハラさんに対する態度はオレの時とは少し様子が違っていたのを思い出した。オレにはタカハラさんが悪い人には見えないというのもあり、嫌われているという理由が幽霊だからなのではないかということしか思い浮かばなかった。
「多分、普通に出会っていても嫌われてると思うよ」だが、どうもオレには想像がつかない何か違うものが、二人にはあるらしかった。
「……どうして?」
「どうしてだろうね? ボクにはさっぱり分からないな」
あくまでも嫌われていると明言をしつつ、しかしその理由は分からないだなんてどういうことなのだろうかと、オレは思わず首を傾げた。そのすぐ後のことだ。
「うわっ!」
タカハラさんに気を取られ、雪に埋まっている小さな段差に気がつかずにそのままの勢いで雪に突っ込んでしまったのである。
「冷たぁい……」雪が積もっていたお陰で幸い痛くはなかったが、手は雪にまみれ、顔を上げた拍子に長靴の中に入ってしまった雪はみるみるうちに溶けてなくなった。マフラーと服についたのであろう雪を払いながら、既に繊維に吸収されたシミを気にしていた。
「大丈夫?」そう言って顔を覗かせるタカハラさんに、オレは再び釘付けになった。
「……タカハラさん、寒くないの?」
「え? あぁそうか、これだと雪が降ってるにしては少し薄着かもしれないね」
タカハラさんの服装はこの前会った時と特に変化はなかったが、マフラーをしているオレからしてみたら薄着で、見ているだけでこちらが寒くなってしまいそうだった。ワイシャツの上に白いセータを着てはいるが、制服の上着を着ているだけで到底防寒されているとは思えない。秋や春頃であればその姿も違和感はなかっただろう。
「気張らないと、暑いとか寒いとかそういう感覚忘れちゃうんだよね」
肩をすくめ、困ったような笑みでそんなことを口にするタカハラさんの自身の温度は、なんだかどこにも存在していないような、そんな気がしたのである。
◇
「タカハラさん、今日は何しにきたの?」今度はちゃんと地面に気を配りながら、オレは歩きながらタカハラさんにそんな質問をした。
「別に、何かする為に来たわけじゃないよ。ただの散歩」
「そうなの?」
散歩をするにはやけに長い距離だなと思ったのだが、軽快にそう返してきたこともあり、オレはすぐにタカハラさんに言葉を信用した。そもそもオレは、この人が普段はどこにいるのかを全く知らなかったのだ。
「タカハラさん、いつもはどこにいるの? 駅? それとも神社?」
「どこでもいるよ。地縛霊みたいに決まった場所なんてないし」
「じばくれー……?」
聞き馴染みのない言葉に、オレは思わず単語を反復した。地縛霊という単語そのものは聞いたことはあるのだが、あんな状況を目の前にしてもなお、急にそんなことを言われてもいまいちピンと来なかったのである。
「ボクはね、逝邪(せいじゃ)っていうんだ」そんなオレをよそに、タカハラさんは話を続けた。
「せーじゃ? ……聞いたことないや」この逝邪という言葉は、地縛霊とは違って本当に初めて聞いたものだった。それとも、オレが知らないだけで周りは知っている単語なのかとすら思った。
「せーじゃって何するの? 怖い人?」
「うーん、怖くはないんじゃないかなぁ。ボク怖い人に見える?」
「ぜーんぜん見えない」
言葉の通り、タカハラさんは例えば誰かを襲うなどということをする幽霊には到底見えなかった。人を見た目で判断するなとはよく言うが、さっきのことを鑑みても、怖いだなんて結論には至らなかった。
「逝邪っていうのはね、悪い存在を消すために在るんだって」
「悪い存在……?」
「うん。例えばほら、さっきの……ああいや、えーっと、どうしようかな……」
急に歯切れが悪くなったかと思うと、すぐに仕切り直して話を続けた。
「生きてる人に悪いことをする幽霊っていうのはまあ居るんだけど、それとは別に厄介な存在がいてね。ボクみたいなのは、その幽霊よりももっと面倒なやつを相手にするんだ。……これで伝わる?」
「うーん……」
「ああ、別に分かったところで全く役に立たないから。大丈夫」
タカハラさんの説明は、オレには少々難解で思わず腕を組んで唸った。恐らくはかなり噛み砕いて説明してくれているのだろうが、如何せんその厄介な存在というものには会ったことがないし、タカハラさんがそういう存在を消すという状況に出会ったこともない。さっきの踏切での出来事を例え話として提示するのを敢えて避けたということは、あれは多分、その説明には当てはまらないからなのだろう。
どちらにしても、オレが抱いた感想は至極単純なものだった。
「ってことは、タカハラさんは格好いい人だ」
「格好いい……?」タカハラさんは目を丸くした。
「だって、悪い人のこと倒すんでしょ?」
「倒……すといえばまあ、そうかもしれないけど……」
「じゃあ、やっぱり格好いいと思う!」
「そ、そんな格好いいものじゃないよ」
オレがそんなことを口にすると、タカハラさんはどういうわけか苦笑いで誤魔化した。格好いいでは不服だっただろうか? かといっても、小学生のオレにはそれ以上の褒め言葉は出てこなかった。
「ボクは、悪いものを退治する真面目な逝邪じゃないからね」少し寂しそうに、タカハラさんは言った。
「そうなの?」
しかし、オレにとってその言葉は意外なものだった。いかにも不良といった雰囲気ではないし、例えば知り合いを見捨てるような人にも思えなかった。本当にそんな人だったのなら、こうしてオレと話をしてるということは、恐らく起こり得ないだろう。
「……昔、とある人にきつく言われたんだ。力なんて使うなって。だから、そういうことは余りやらないんだよね」
そう口にしたタカハラさんの目は、まるでオレには見えていない別の何かを見ているかのように遠くを見つめている。そんなタカハラさんのことを、オレはじっと見つめることしか出来なかった。
◇
それから数日が経ったとある日のことである。雪はすっかり止んでしまい、行きかう人や車に押しつぶされ、土と混ざりぐちゃぐちゃになって隅に追いやられていた。その姿にどうにもやるせなさを覚えたが、スニーカーで走るのにはちょうど良かった。
今オレは、凝りもせず再び父が死んだ踏切へと足を進めている。
あの時はタカハラさんに邪魔をされてしまい、最終的にあれは一体なんだったのかがよく分からなかったし、何より分からないままで気持ちが悪かった。恐らく幽霊だったのだろうというのは分かる。あの状況なら、例えオレ以外の誰が見ても明白だろう。しかし確証が欲しかったのだ。あれが幽霊であったという確証と、踏切の真ん中に居た人物が何者だったのかというのを。
踏切がもうすぐそこまでのところまで来ているが、あの不安を煽るような音は未だに聞こえない。人も車も普通に行き交っており、いたって普通の踏切がそこにはあった。まるでオレが視たもの体験したものを、完全に否定するかのようである。
オレが踏切の前にたどり着いたタイミングだろうか? 踏切が音を立て始め、人々の不安を煽った。当然オレは足を止めたままだが、代わりに辺りを漠然と見回した。先日の、タカハラさんのとある言葉を思い出す。
『……昔、とある人にきつく言われたんだ。力なんて使うなって。だから、そういうことは余りやらないんだよね』
とある人にきつく言われたから力は余り使いたくない。タカハラさんはそう言っていた。なのに、実際はどうだろう? オレが初めてここに来たときに感じた嫌な気配も、黒い靄のようなものもどこにも見当たらない。オレと同じく立ち止まっている人もいる。車も当然止まっており、時が過ぎるのをじっと待っている。そのなんの変哲も無い情景に、オレは途端に嫌な顔をした。
「あの人、うそつきだ……」
俺が一言そう呟くと、踏切の音を切るようにして電車が通っていく。それと同時に風は髪の毛を躍らせてすぐに何処かに行ってしまった。まるで、オレが再びここに来ることを知っていたかのように。
マフラーを首に巻き、足を動かすたびに揺れる少し大きな長靴と子供用の小さな傘と一緒に一人で外を歩いているが、夕方になる少し前だからなのか辺りにはさほど人はいない。白銀の街並みは、いつにも増して少し寂しくオレの目には映っていた。雪が降るのは確かに楽しいし好きなのだが、正直「どうして今日に限って」という気持ちがあった。
目的の場所に向かう最中、規則正しい音がオレの耳に入った。
(踏切の音……)
定期的に、ある一定の時間帯に鳴り響くそれは、なんだか居心地が悪い感覚に苛まれてしまう。何も悪いことをしているわけでもないのに、お巡りさんが近くにいるとどうにも落ち着きが無くなってしまう現象によく似ているような気がした。しかし、恐らく今日のそれは少し意味が異なるだろう。
オレがその踏切に辿り着いた時には、既にその音はなくなっていた。車がゆっくりと横断し、歩行者と自転車が交差していくのをただただ眺めている。オレは、その波に乗ることはなかった。
(来るの、はじめてかも……)
ここは、いつだったかに父さんが死んだ場所である。簡単に想像できたものでもないが、オレの父はここで車ごと電車に轢かれて死亡した。亡くなって以降、母はこのことを一切口にしないし、一昨日が父の命日であったということも恐らくは気付かないフリをしていた。オレだって、別に言及はしなかった。父の話をするつもりはもとよりないし、してはいけないような気がしていたのである。
命日といったら、世間一般的には墓参りくらいは流石にあるのではないかと思っていたのだが、次の日も、その次の日も母はオレの前では行動を起こさなかった。もしかしたらオレの知らないところで母は何かをしていた可能性もあるが、余りにも平和的な日常はそれを感じさせなかったのだ。
仮にも身内が死んだような場所に一人で行くと母が知ったら怒るに決まっているだろうから、母には近くの公園に行くと言って家を出た。罪悪感こそ少しはあったものの、父がどういう場所で死んだのかを一度確かめてみたかったのだ。言ってしまえば、好奇心そのものだった。
踏切の音が聞こえてきたのは、すぐ後のことだ。オレは線路を超えることはなく、踏切を通り過ぎた車をただ眺めていた。ここに来たからと言って、オレに出来ることは結局それくらいだった。遠くから、電車がこちらに走ってくる音が耳に入る。
この時に限って、辺りにはまだ車も人影もいなかった。それなのに、なんだか背中の神経が妙にざわついたのをよく覚えている。
「誰もいないのに……」
オレは思わず周囲を見回した。それくらい、すぐ近くに何かが居るようなそんな気がしたのである。
線路のちょうど真ん中辺りだろうか? 視線を戻すと、歩く人々と車と列車に轢かれて雪の積もっていない部分がある。そこから、蜃気楼のようにユラユラと地面が揺れ動いているようにオレの目には映った。
それは恐らく、本来なら視えるはずのないものが地面の底から這って出てくる前触れだったのだろう。そうだと分かったのは、これから少し時間が経ってからの話だが。
到底蜃気楼とはほど遠い現象が起きたのは、オレが気付いてからすぐ後のことだった。空気の波だったものが、少しずつ形を形成し始めたのである。まるで粘土細工かのように誰かに創られているようなのに、自らの意思でそれが行われているかのように視えた。矛盾していると言われても仕方ないことかもしれないが、誰がなんと言おうとも、それは紛れもなく意思を持っていたのである。
大きく鼓舞する靄の中から腕のようなものが微かに読み取れたのは、そう遅くはない出来事だった。しかし、その腕とやらは明らかに人体構造を無視していた。手のひらは外側に曲がり、皮膚と思われるものは爛れて赤黒く染まっている。血と言えば分かりやすいかも知れないが、あれは出来れば靄だと思いたい。だがグロテスクであることには変わりなく、ここに大人が居たならオレは視覚を奪われていたに違いない。本来ならそれくらいの出来事なのだが、オレはそんなことを完全に無視してその事象をまじまじと眺めていた。それは何故か?
「お父さん……?」
この時、オレは何故居るはずのない人物のことを思わず口にしてしまったのかは自分でもよく分からなかった。もし母さんがここにいたら、一体どんな顔をするのだろうかと考えてしまうくらい、普段は口にすることがない単語である。
その軽率な言葉が合図かのように、オレが父と呼んだ何かがニヤリと笑った気がした。いや、オレが口にした父と呼ばれる物体には、身体はおろか顔のようなものは無かった。なのにそう感じたのだ。すると、オレの周りを取り巻くように靄が散乱し始めていく。形成するほどの力が無いのかどうなのか、特別何かを形取るようなことはしなかったが、どちらにしても気味が悪いことだけは確かだった。
ただ警鐘を鳴らしているだけだった踏切の音に混じって、ようやく電車の音が聞こえてくる。この状況ではそれはただ不安を煽るだけのものでしかなく、電車の音が近づく度に心臓が頭の中で跳ね上がるのを感じた。おかしな話だが、自分がちゃんと息をしているのかもよく分からなかった。
視界の端に電車を捉えた、その時だ。ほんの一瞬、だが恐らくは周りの時間は止まっていたことだろう。
先ほどまでただの靄だったはずの周りのそれが、地面に這いつくばっている人々となって現れたのだ。いや、オレの目にはそう映っていただけで、ここに他の誰かが居たとすればそんなことは思わないかもしれない。
今更と思われても仕方が無いが、明らかに幽霊であるということが分かる程度には、到底人間と呼ぶに相応しくない姿だったのである。それは、踏切の真ん中にいる人物も当然例外ではなかった。
考えている時間があるわけもなく、気付けば電車とそれが今にも衝突しそうになっていた。オレは思わず眉を寄せ、何かを口にしそうになる。だが、それを許さない人物がいた。
「――凄いな、ここ。自殺の名所だったっけ?」
どこからともなく聞こえてきた声に、オレはようやく現実に戻されたような気がした。突如、とある人物が目の前に降ってきたのだ。
光の粒を纏ったそれが地面に足を着地させると、雪に逆らうようにして光がぶわりと舞った。それと同時に、黒く淀んだ空気はとある男が現れたことによって消滅していく。もしかすると浄化されたという方が自然かもしれないが、どちらの表現が適切なのか、こればかりは検討がつかなかった。
「この前のお兄さん……」
その人物とようやく目が合うと、オレはようやく言葉を口にした。さっき何かを言おうとしたものとは全く違うもので、何を言おうとしていたのかもすっかりと忘れてしまった後だった。
突然現れたその人物のことを、オレは知っている。名前は、確か――。
「お兄さんでもいいけど、タカハラって呼んでくれた方が嬉しいかなあ」
声の主は、自身のことをタカハラと呼んだ。
オレの周りは、雪以外に何も残されてはいなかった。父のような人物はもう既にどこにも居ないし、それどころかその他の数十人もの気配は、すっかりと消えてしまっていたのである。踏切の音も、電車の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。強いて言うのであれば、お兄さんから放たれているのであろう光の粒は、まだ僅かにオレの目に映っていたくらいだ。
「さっきの人、きみの知り合い?」
「た、多分……」そう問われ、どういうわけかオレは咄嗟に言葉を濁した。
「そっか」
そんな適当な答えに、タカハラさんは口調と表情を変えることはしなかった。
「今日は帰らない? 家まで送っていくよ」
口調こそ優しいものの、有無を言わせないような威圧感を僅かに感じながら、タカハラさんのことをまじまじと見続けた。この季節特有の纏う空気の色は、この時ばかりはオレの目には余り上手く映ってはいなかった。
しかし、靄の中にいるそれらがハッキリと視えたこの日のことは、どれだけ時間が経っても忘れることはないだろう。
◇
「そういえば、祥吾くんときみは知り合いなんだっけ?」踏切がようやく見えなくなってきた頃合いだろうか? タカハラさんが、ふとそんなことを口にした。
「え? う、うん……。従兄弟なんだって」
「ふぅん」
軽く返事をすると、会話はすぐに終わった。祥吾はタカハラさんのことを知っているようだったから、てっきり従兄弟であると言うことはもう知っているのだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「タカハラさんは、祥吾と知り合い?」
「知り合いといえばそうかもねぇ」
タカハラさんの答えは、なんだか曖昧だった。
「ボク、祥吾くんに嫌われてるみたいだから」
表情を変えること無く、優しい顔のままそう言った。
「それって、タカハラさんがユーレイだから?」
「うーん、どうだろう」
適当に、当たっていそうなことを言ってみたものの、それは見当が外れていたようだ。
タカハラさんは、少しわざとらしく顎に手を当てて考えるフリを始めた。確かに夏にタカハラさんとあった時、祥吾のタカハラさんに対する態度はオレの時とは少し様子が違っていたのを思い出した。オレにはタカハラさんが悪い人には見えないというのもあり、嫌われているという理由が幽霊だからなのではないかということしか思い浮かばなかった。
「多分、普通に出会っていても嫌われてると思うよ」だが、どうもオレには想像がつかない何か違うものが、二人にはあるらしかった。
「……どうして?」
「どうしてだろうね? ボクにはさっぱり分からないな」
あくまでも嫌われていると明言をしつつ、しかしその理由は分からないだなんてどういうことなのだろうかと、オレは思わず首を傾げた。そのすぐ後のことだ。
「うわっ!」
タカハラさんに気を取られ、雪に埋まっている小さな段差に気がつかずにそのままの勢いで雪に突っ込んでしまったのである。
「冷たぁい……」雪が積もっていたお陰で幸い痛くはなかったが、手は雪にまみれ、顔を上げた拍子に長靴の中に入ってしまった雪はみるみるうちに溶けてなくなった。マフラーと服についたのであろう雪を払いながら、既に繊維に吸収されたシミを気にしていた。
「大丈夫?」そう言って顔を覗かせるタカハラさんに、オレは再び釘付けになった。
「……タカハラさん、寒くないの?」
「え? あぁそうか、これだと雪が降ってるにしては少し薄着かもしれないね」
タカハラさんの服装はこの前会った時と特に変化はなかったが、マフラーをしているオレからしてみたら薄着で、見ているだけでこちらが寒くなってしまいそうだった。ワイシャツの上に白いセータを着てはいるが、制服の上着を着ているだけで到底防寒されているとは思えない。秋や春頃であればその姿も違和感はなかっただろう。
「気張らないと、暑いとか寒いとかそういう感覚忘れちゃうんだよね」
肩をすくめ、困ったような笑みでそんなことを口にするタカハラさんの自身の温度は、なんだかどこにも存在していないような、そんな気がしたのである。
◇
「タカハラさん、今日は何しにきたの?」今度はちゃんと地面に気を配りながら、オレは歩きながらタカハラさんにそんな質問をした。
「別に、何かする為に来たわけじゃないよ。ただの散歩」
「そうなの?」
散歩をするにはやけに長い距離だなと思ったのだが、軽快にそう返してきたこともあり、オレはすぐにタカハラさんに言葉を信用した。そもそもオレは、この人が普段はどこにいるのかを全く知らなかったのだ。
「タカハラさん、いつもはどこにいるの? 駅? それとも神社?」
「どこでもいるよ。地縛霊みたいに決まった場所なんてないし」
「じばくれー……?」
聞き馴染みのない言葉に、オレは思わず単語を反復した。地縛霊という単語そのものは聞いたことはあるのだが、あんな状況を目の前にしてもなお、急にそんなことを言われてもいまいちピンと来なかったのである。
「ボクはね、逝邪(せいじゃ)っていうんだ」そんなオレをよそに、タカハラさんは話を続けた。
「せーじゃ? ……聞いたことないや」この逝邪という言葉は、地縛霊とは違って本当に初めて聞いたものだった。それとも、オレが知らないだけで周りは知っている単語なのかとすら思った。
「せーじゃって何するの? 怖い人?」
「うーん、怖くはないんじゃないかなぁ。ボク怖い人に見える?」
「ぜーんぜん見えない」
言葉の通り、タカハラさんは例えば誰かを襲うなどということをする幽霊には到底見えなかった。人を見た目で判断するなとはよく言うが、さっきのことを鑑みても、怖いだなんて結論には至らなかった。
「逝邪っていうのはね、悪い存在を消すために在るんだって」
「悪い存在……?」
「うん。例えばほら、さっきの……ああいや、えーっと、どうしようかな……」
急に歯切れが悪くなったかと思うと、すぐに仕切り直して話を続けた。
「生きてる人に悪いことをする幽霊っていうのはまあ居るんだけど、それとは別に厄介な存在がいてね。ボクみたいなのは、その幽霊よりももっと面倒なやつを相手にするんだ。……これで伝わる?」
「うーん……」
「ああ、別に分かったところで全く役に立たないから。大丈夫」
タカハラさんの説明は、オレには少々難解で思わず腕を組んで唸った。恐らくはかなり噛み砕いて説明してくれているのだろうが、如何せんその厄介な存在というものには会ったことがないし、タカハラさんがそういう存在を消すという状況に出会ったこともない。さっきの踏切での出来事を例え話として提示するのを敢えて避けたということは、あれは多分、その説明には当てはまらないからなのだろう。
どちらにしても、オレが抱いた感想は至極単純なものだった。
「ってことは、タカハラさんは格好いい人だ」
「格好いい……?」タカハラさんは目を丸くした。
「だって、悪い人のこと倒すんでしょ?」
「倒……すといえばまあ、そうかもしれないけど……」
「じゃあ、やっぱり格好いいと思う!」
「そ、そんな格好いいものじゃないよ」
オレがそんなことを口にすると、タカハラさんはどういうわけか苦笑いで誤魔化した。格好いいでは不服だっただろうか? かといっても、小学生のオレにはそれ以上の褒め言葉は出てこなかった。
「ボクは、悪いものを退治する真面目な逝邪じゃないからね」少し寂しそうに、タカハラさんは言った。
「そうなの?」
しかし、オレにとってその言葉は意外なものだった。いかにも不良といった雰囲気ではないし、例えば知り合いを見捨てるような人にも思えなかった。本当にそんな人だったのなら、こうしてオレと話をしてるということは、恐らく起こり得ないだろう。
「……昔、とある人にきつく言われたんだ。力なんて使うなって。だから、そういうことは余りやらないんだよね」
そう口にしたタカハラさんの目は、まるでオレには見えていない別の何かを見ているかのように遠くを見つめている。そんなタカハラさんのことを、オレはじっと見つめることしか出来なかった。
◇
それから数日が経ったとある日のことである。雪はすっかり止んでしまい、行きかう人や車に押しつぶされ、土と混ざりぐちゃぐちゃになって隅に追いやられていた。その姿にどうにもやるせなさを覚えたが、スニーカーで走るのにはちょうど良かった。
今オレは、凝りもせず再び父が死んだ踏切へと足を進めている。
あの時はタカハラさんに邪魔をされてしまい、最終的にあれは一体なんだったのかがよく分からなかったし、何より分からないままで気持ちが悪かった。恐らく幽霊だったのだろうというのは分かる。あの状況なら、例えオレ以外の誰が見ても明白だろう。しかし確証が欲しかったのだ。あれが幽霊であったという確証と、踏切の真ん中に居た人物が何者だったのかというのを。
踏切がもうすぐそこまでのところまで来ているが、あの不安を煽るような音は未だに聞こえない。人も車も普通に行き交っており、いたって普通の踏切がそこにはあった。まるでオレが視たもの体験したものを、完全に否定するかのようである。
オレが踏切の前にたどり着いたタイミングだろうか? 踏切が音を立て始め、人々の不安を煽った。当然オレは足を止めたままだが、代わりに辺りを漠然と見回した。先日の、タカハラさんのとある言葉を思い出す。
『……昔、とある人にきつく言われたんだ。力なんて使うなって。だから、そういうことは余りやらないんだよね』
とある人にきつく言われたから力は余り使いたくない。タカハラさんはそう言っていた。なのに、実際はどうだろう? オレが初めてここに来たときに感じた嫌な気配も、黒い靄のようなものもどこにも見当たらない。オレと同じく立ち止まっている人もいる。車も当然止まっており、時が過ぎるのをじっと待っている。そのなんの変哲も無い情景に、オレは途端に嫌な顔をした。
「あの人、うそつきだ……」
俺が一言そう呟くと、踏切の音を切るようにして電車が通っていく。それと同時に風は髪の毛を躍らせてすぐに何処かに行ってしまった。まるで、オレが再びここに来ることを知っていたかのように。