37話:ニセモノの詭弁


2024-08-15 16:05:41
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 じめりと身体に纏わり付くような空気に、オレはすっかりと気をやられてしまっていた。朝は起きたくないしバイトは面倒だし(この二つに関しては別に雨に限ったことではないが)、傘は荷物になるし差すのも嫌になる。靴はこの際仕方がないとして、ズボンの裾は道を歩けば水が付着するし困ったものだ。
 雨で濡れた窓の外は、少々歪んでいた。朝から降っているそれのせいで所々水たまりが出来ているように見受けられる。これから帰るのに、地面を気にしないといけないのが億劫だ。
 階段を下り、一階のまでたどり着くと、これまでまばらだった人の数が両手でも数え切れないくらいにまで増えた。ざわついた空間に少し嫌気がさしながら自分のクラスの下駄箱に足を向けると、左から見覚えのある人物が視界に入った。お互いに目が合ったのを確認し、オレは挨拶をするでもなく声をかけた。

「雨ばっかりで嫌ですね」

 宇栄原先輩は、「まあね」とだけ言って三年の下駄箱に向かった。その後すぐに自然と合流し、足並みを揃えて校舎を出た。こういう時、知り合いというだけで確認もなく一緒に帰るという状況になるのは不思議なものである。

「今日は帰るんだ?」
「雨の日にバイトとかほんと面倒ですよね。そう思いません?」

 オレがそう口にすると、先輩は「ああ……まあそうだね」と適当に同意をした。興味が無いのにわざわざ返事をしてくれたのは、優しさだろうか?

「先輩も帰るんですか?」
「紙が湿気るから帰るよ」
「ふうん。変な理由」

 確かに雨の日に教科書を触ると心なしか水分を感じるような気はするが、そこまで気にしたことは無かったし、先輩の帰る理由はオレには余りピンとこなかった。
 先輩と二人きりで帰るというのは、オレの記憶が正しければこれが初めてである。ここに神崎先輩か相谷くんがいれば何かと誤魔化せるのに、この状況では積極的に喋る気には余りならなかった。何か、オレにとって都合の悪いことを聞かれてしまうかもしれないという危惧をしていたのかもしれない。

「――この前の花は有効活用してくれた?」

 何だか心を読まれているかのような質問をされ、危うくすぐそばの水溜りを踏みそうになってしまった。……本当はまだ家にあるなんて、口が裂けても言えない。

「心配しなくてもちゃんと渡しましたよ」
「別に心配はしてないよ。ちょっと気になっただけ」
「同じじゃないですか」

 先輩がこうして気にするのは、当然かもしれない。あれから少し時間が経ったが、オレはあの時買った花の話を一度もしていないのだ。本来ならもう一度お礼の一つでも言えれば良かったのかもしれないが、後ろめたさのほうが勝ってしまい、その話題は意図的に避けていた傾向があったのが、この質問のきっかけなのだろう。こればかりは、オレの浅さを痛感する。

「橋下君はさ、いつも肝心なことは教えてくれないよね」
「なんですか急に。肝心なことって何かありましたっけね」オレはあからさまに何も知らないふりをした。
「なんだろう。分からない。でも、分からないから気になるのかもね」

 いつも的確に刺してくる先輩の言葉と比べれば、この時はいつもより少し曖昧だった。他にも何か言いたいことがあったのか、僅かに沈黙が走った。傘に少し隠れた表情が気になり、思わず身体を前に傾ける。口元は笑っていたが、どこか寂しそうにうつったのは、恐らく雨が降っていて憂鬱だったからに違いない。そう思いたくて仕方が無かった。

「まあでも、おれじゃ駄目だから言わないんでしょ? 拓真のほうが何か知ってたりして」

 自嘲気味にそんなことをいう先輩に、どういう訳かオレは不安になった。オレは決して、先輩にそんなことを言わせたいわけではない。

「……そんなことはないですよ」

 道路に溜まった水の塊を避けながら次に言う言葉を探していく。あまり余計なことは言いたくは無いし、これをきっかけに先輩がオレにとって良からぬことをしようと画策するかもしれない。それだけは勘弁して欲しかった。

「先輩と会えたから、ようやく分かったんです」

 しかし時には、少しだけ口にしないとならない状況が訪れる。

「幽霊は、いつも侘しそうなんですよ。だから助けたくなるし、構ってみたくなる。向こうが何を考えているのか、理解してみたくなるんです」

 なんて傲慢な思考なのだろうかと、自らこうして口にしてみるとそう思わざるを得ない。何も出来ないくせに首を突っ込んでいるのだから、祥吾が怒るのも当然だろう。

「オレは本当に助けたいと思っていたのかって、先輩に会ってようやく真剣に考えたんですよね」

 祥吾にとって何がいいのか、この時はもう分からなくなっていた。なんてことを先輩に言ったら、まるで自分のことのように考えてくれるのだろうか? でも、それをしてしまっては先輩は本当に解決してしまうかもしれない。

「もう少しでもオレに解決出来る力があればよかったのにって、そう思うんです」

 もし仮にそうなってしまったら、自分の力の無さをまざまざと見せつけられる絶望感に、オレは恐らく耐えられない。その結果祥吾がいなくなるというのも、余り考えたくはない。

「きみ曰く、おれに力があるって言うんなら、橋下君だってそういうものを持ってるんじゃないの? 幽霊が視えるだけだなんて、考えにくいと思うんだけど……」
「ないですよ」

 ――きっとオレは、心のどこかで最初から諦めていたし、理解していた。

「オレに誰かを救えるだけの力があったのなら、もうとっくに解決してます」

 自分に力がないと決めつけ、このまま何ごともなかったかのように祥吾がいつか消えてしまう日を待つことの方が楽であるということに。

「オレが考えていることは、最初からそれくらいのことなんですよ」

 そしたら、先輩と会うことだってなかったのだ。などと言うことは、流石に口にはしなかった。少し濡れたズボンの裾を見ながら、この日が雨で良かったと思い直す羽目になる。表情が見えにくいということだけが今日の救いだ。
 本当に自分のことを顧みずになんとかしてしまいそうな人物に、本当のことなんて到底言いたくはないというものだ。


   ◇


 四季の中で、よく好き嫌いの引き合いに出されるのは夏と冬だが、オレに限って言うなら夏は余り好きではなかった。
 春から夏に移り変わる時の梅雨はじめじめしていて余りいい気分ではないし、夏になると梅雨に太陽が出ていなかった時間をそのまま取り戻すかのように日差しが肌を射してくる。それに加えて、室内はクーラーが効きすぎていて半袖では寒くて仕方がなかったり、クーラーに頼りすぎだと文句を言いたくなるくらいの温度設定にしている場合もあるだろう。まあ、クーラーがついていなかったらそれはそれで怒るわけだが。

「……寒い」

 今オレがいる図書室はというと、寒くて長居なんて到底出来ないくらいには冷房が効いていた。一学期も終わろうかという頃、いつものようにと言ってしまいたくなるくらいに放課後は図書室にることが増えた。
 オレが図書室で何かをすることは余りなく暇を持て余しているのだが、だからといって帰るということはしなかった。バイトの時は話は別だが、そもそも部活に入っていないのだから図書室に寄ってちょっとダラダラするくらいなら寧ろお釣りが出るというものである。

「先輩、寒いんですけど」余りにも暇だったので、オレは神崎先輩に話を振った。
「お前パーカー持ってるだろ」
「そうですね……」

 隣の席にいる神崎先輩は、いつものように面倒くさそうにオレをいなした。本当に嫌ならもっと苦言を言われるか最悪無視をされるということは知っているから、これくらいはどうということはなかった。あえて不満を言うのであれば、会話がすぐに終わってしまって面白くないということくらいである。

「先輩は寒くないんですか?」だらしなく机に頬をくっつけながら、先輩にそういった。
「いや別に……。お前の席が悪いんじゃないのか?」
「たった数センチしか離れてないのにそんなことあります? この差は一体……」

 晒されている腕がすっかり冷えてしまっているのを確認し、仕方なく鞄のファスナーを開ける。適当にしまい込んだお陰でぐちゃぐちゃになってしまっているパーカーを取り出し、すぐに袖を通した。

「マシにはなった……気がしないでもない……」

 パーカーを着ただけでは当然簡単には暖かくはならないし、正直余り変わった感覚はなかった。
 オレが喋らなくなった途端に再び静かになるこの空間は嫌いではないが、オレが居ない時は一体どういう会話をするのだろうかというのが気になるところである。
 もしかすると本当にオレが喋らなくなったこの感じのままなのかもしれないし、オレの代わりを誰かが務めるのかもしれない。その場合は恐らく宇栄原先輩がその責を負うのだろうが、だからといってオレのように五月蠅くはならないのだろう。そういった想像は容易についた。

「先輩、それ何読んでるんですか?」

 だからこそ、オレは恐ろしかった。

「昨日もその質問してただろ。同じやつだよ」
「そんなこともあったような無いような……もう覚えてないですね」
「お前はそういう奴だよな」

 この空間で、オレは決して必要ではないということが。

「……寒」

 ガラリとドアを開けたと同時に、そんな呟きが漏れたのが聞こえた。聞き覚えのある声の主は宇栄原先輩だった。後ろには、何故か身を隠すようにして相谷君がいる。
 先輩は、図書室の電気のスイッチ付近にあるモニターのようなものを操作し始めた。

「クーラー何度になってました?」オレは宇栄原先輩に問いかけた。
「二十二度とか意味不明な温度設定になってたけど……犯人拓真だよ」
「な、なんでそうなるんだよ……」
「いや……前もそういうことあったでしょ。去年だって何回言ったか」
「いつの話をしてるんだお前は……」

 最初は犯人だと断定されて嫌そうな顔をしていたのに、すぐにばつが悪そうにそっぽを向いた。どうやら心当たりがあったらしい。やっぱり、オレの体感温度は間違ってはいなかったようである。

「危うく先輩に殺されるところだった……」わざとらしく、先輩に向けてそう言った。
「悪かった悪かった。全部オレのせいだよ」

 謝る気なんて全くなさそうに、ため息をつきながら先輩はそう言った。頬杖をついてふて腐れる先輩を見たのは、もしかしたらこれが初めてだったのかもしれない。


   ◇


 この場合、オレが無理矢理三人をここに連れてきたというのが正しいだろう。

「ここは余り五月蠅くなくていいですよねぇ」

 オレたち四人が訪れたのは、学校から一番近い駅から徒歩五分くらいの場所にあるショッピングモールの四階である。一階にはスーパーがあり、上の階には服屋や本屋があるようなよくある作りで、四階には子供向けの服や商品が置いてある。オレ達は、別に親戚の子供の誕生日に送るものを買いに来たわけではない。

「よく来るんだ?」
「別によくは来ないですよ。オレんちからは遠いし」

 一角にあるゲームセンターに足を運ぶのはこれが初めてというわけではないが、プリントシールを撮りに来るというのはしたことがなかった。平日の夕方、この時間はやはり学生服を着ている人が多いように見えた。
 平日にショッピングモールに来ることが殆どないからか(休日だからといって来ることもないが)、少々新鮮さ感じた。ショッピングモールの中ということもあってか、子供連れもそれなりに歩いており比較的穏やかだ。独特のリズムは持ち合わせているものの、少し歩けば気にならない程度のものである。

「先輩これやったことあります? オレ初めてなんですけど」
「なんだ、やったことあるから来たんじゃないの?」宇栄原先輩が言った。
「ないですよ。興味ないし」

 オレがそう答えると、先輩は途端に難しい顔をする。この人は、オレと話をする時にそういう顔をするのが得意だ。

「なのに今日ここに来たの?」
「そうですよ。駄目ですか?」
「いや、別に……まあ、うん」

 何か文句を言いたそうにしていたが、その言葉を聞くことは叶わなかった。どうせなら言ってしまえばいいのに、こういうところは何故か慎重だった。半ば呆れていた、というのが正しい表現のような気もしているが、ここに連れてきたということが既にオレとっては意味のあることであるいう事実は変わらないお陰で、余り深く考えることはしなかった。
 プリントシール機が三機ほどある場所には、流石に男の姿はそう多くは無かった。ショッピングモールの中ということもあってか、その一角はどちらかというと閑散としている印象である。

「はいはい、神崎先輩も嫌な顔しないで入ってください。相谷くんも」
「……諦めろ」
「先輩こそ……」

 オレが声をかけた二人、お互いに視線を合わせることはなく会話のようなものをした。下手したら独り言だとして終わってしまいそうなものに見えた。どうやら、相谷くんと神崎先輩何かお互いにしか分からないような感情の共通認識を持ち合わせているらしい。
 狭い箱の中に男四人が入るというのは、酷く窮屈に他ならなかった。女性四人ならそこまで気にならない程度のもので、オレ達のような訳の分からない目的の奴らが入るような想定では当然ないのだろう。勘定は、言い出しっぺのオレが譲らなかった。少ない財布の中身を見ると少々眉が歪んでしまうが、当然の権利というものだ。
 その後のことは、全て時間が解決してくれた。加工の有り無しの指定などが最初に行われたが、全てに時間制限がかけられており、プリントシール初心者の集まりにとって、その設定は難しいものだった。何がどうなるのか分からないまま、あとは機械の言われるがままに四人が集まって被写体になるだけだった。神崎先輩と相谷くんは最後まで渋っていたが、彼らを諦めさせるには、時間制限というものはちょうど良かったらしい。

「おおーいいじゃないですか。いいと思いません?」
「よく分からん……」終始、神崎先輩はそんなことを言っていた。
「目とか原型なくてウケますね」
「それはいいって言うのか?」

 お世辞くらい言ってくれてもいいのに、神崎先輩は頑なだった。正直言ってしまえば、出来上がったそれはお世辞にも綺麗というわけでもなく、そのもの自体の良さは分からなかった。しかし、どうして女子は定期的にこういうものを撮りにいきたがるのか、何となく分かったようなそんな気がした。今この瞬間の思い出が、形になって切り取られて出てくるというところに面白みがあるのかも知れない。いや、正直よく分からないが多分そんなところだろう。
 手に取ったプリントシールは、隅のほうにある台の上にあるハサミを使って人数分に切り分けるという作業が発生するらしい。曲がらないように切らなければならないというプレッシャーのようなものに勝てず、最終的に神崎先輩が綺麗に切ってくれた。

「あ、ありがとうございます」

 相谷くんは、少し遠慮がちに受け取るとそれをずっと眺めていた。思わず、オレはどうかしたのかと問いかける。どうやら返事に時間がかかっているようだったが、オレは相谷くんが喋るまで口を動かさなかった。

「なんか……不思議ですね」

 そう言うと、何故か相谷くんの頬の色に少し変化が見えた。
 この手のものに対して、相谷くんが感想を口にするとは思っていなかったというのもあるのか、どういうわけかオレの頬までも色が変わっていくのが分かってしまい、変な笑みを零してしまったのである。それを見た先輩達が、少々オレのことを気味悪がっていたのは、この後すぐに抗議した。


   ◇


 この時のオレの機嫌は、あえて言うならとても良かった。相谷くんらと別れてオレは一人で歩いているわけだが、通りすがりの人にそのご機嫌の良さが気付かれないようにするのに必死なくらいだった。
 あんな強引に学校帰りの寄り道に誘ったのはまずかったかもしれないと思ったが、案外そうでもなかったようで安心した。例えばこれで大げんかして、二度と会うことがなくなるなどということがあったらこの世の終わりのような顔をしていたことだろう。
 いっそそうなることを望んでいたような、いないような、そんな気もしたが、都合の悪いことはもう忘れることにする。

「元気だな……」

 脇の道から、とある女子学生が慌てて走っていくのを横目に、自分のことを棚に上げてそんなことを思わず口にした。昨今、走っている人を見かけることの方が珍しいのだからしょうがない。
 同じ制服を着ているということもあり学校が同じであるということまでは分かるが、だからといって呼び止めるなどということはしない。それが知り合いだったら、話は別だったかもしれないが。
 ひとつ気になったのは、その女子高生の身体に僅かに黒い粒がくっついていたことくらいだが、それもすぐに記憶の端に置いた。全く気にならないというのは嘘だが、見ず知らずの人がそれを連れて歩いていたからといって普通はそう簡単に声なんてかけないし、追うなんてこともまずしないだろう。

 少し歩いた先の大通りの信号は赤だった。いっそ歩道橋を使おうかと顔を上げると、とあるものが視界に入る。そのせいで、思わず足を止めてしまった。

「……祥吾?」

 見覚えのある人物が、何をするでも無くそこに立ち尽くしていたのである。
 黒く染まった無数の粒が、足下を揺らしていた。どういうわけかオレは行くのを少し躊躇ったが、信号の色は暫く変わる気配がなく、仕方なく歩道橋を使うに至った。段を一つずつ、少し足早に上がっていき、オレは祥吾のことを視界に入れ続けた。
 祥吾の周りを漂うそれは、風に煽られ揺れ動く。その様は何度か視たことがあるにも関わらず、どういうわけか異質に感じてしまった。それは正しく、祥吾ではなく瞑邪と呼んでしまいたくなるほどに。

「キョウか……なんだよ」

 オレと祥吾の地面の高さが同じになった頃、ようやく祥吾と目が合った。この時の祥吾は、いつにも増してオレのことを突き放した。あからさまな態度に不信感が募るものの、なるべく平常心を保った。ちゃんと意識しないと、祥吾とはまともに話せないような気がしてしまったのである。

「オレは帰り途中なだけだけど……祥吾こそ何してたの?」
「俺は別に……」

 珍しく、祥吾は言い淀んだ。どうして祥吾はいつもみたいに嘘でもいいから何か言ってくれないのだろうかと、わけの分からない感情に陥った。適当に何かしら言ってくれさえすれば、オレがここで話を終わらせることだって出来たのだ。それをしないということは……。

「さっき、深淵がついた女子高生とすれ違ったんだけど、何か関係あるの?」

 本当に関係があるなんて思ってはいない。適当なことを言って、そんなわけないだろと言ってくれることを期待した。

「何だっていいだろ。少なくとも、キョウには関係ないよ」
「そ、それはそうかもしれないけど……」

 祥吾は、ここで肯定も否定もしなかった。高校生とすれ違った時はそこまで気にも留めていなかったのだが、祥吾がここで嘘でも知らないと言わないせいで、何かがあったのではないかという気がより強くなってしまった。祥吾は何かしらの理由でさっきの人物と接触したのだろうか? それを聞いたら、祥吾はもっと機嫌を損ねる状況になってしまうだろうか?
 祥吾が強気に出るとどうしても一歩引いてしまいたくなるのだが、明らかに今日の祥吾は様子が違うというのは明白だ。出来れば、その理由を知りたいと思った。そうじゃなきゃ、祥吾をどうにかしたいという気持ちをこれ以上保つことが出来ないような、そんな気がしたのである。

「た、タカハラさんも言ってたよ? ここから先は何もしなくても深淵が蝕んでいくだけだって……。力を使えばその分進行は早くなるって」

 いつだったかに、タカハラさんの言っていたことを思い出す。本当は信じたくなんてないし、こんな説教みたいなことを言いたくはないが、現に祥吾を纏っているのは深淵そのものであるということは紛れもない事実だ。

「……アイツの言ってること、信じるのか?」

 オレがタカハラさんのことを口にする度に、祥吾はいつも嫌な顔をする。その理由すらも、オレはよく分からない。祥吾が何に怒っていて、何を考えているのか、分からないままここまで来てしまっている。それが恐らく、駄目だったのだ。

「あいつの言ってることは確かに正しいよ。逝邪なんて名称がつけられてるくらいだからな」

 一体祥吾がなんの話をしているのか、よく分からなかった。

「でも、そういうところが俺は嫌いなんだ」

 結局のところ、オレは祥吾のことを何も知らないのだと知らしめられているような感覚だ。

「例えキョウがいい奴だって思ってても、俺はあんな奴に助けられるなんて御免だ。キョウや他の奴らに助けてもらおうなんてことも別に思ってない。というか頼んでない」

 やるならもっと前から、それこそ宇栄原先輩に会うよりも前に何とかしないといけなかったのだ。

「キョウだって、本当は助けたいとか思ってないんだろ?」

 でもその選択を、オレが自ら蹴り飛ばした。

「……なんで、そんなこと言うの」
「そりゃ思いもするだろ。本当だったら今頃――いや、いい」

 祥吾がいくら嫌と言っても、オレがどんなに嫌でも、タカハラさんにどうにかしてもらうのが最善であったことは明白だった。それなのに、オレはあの時タカハラさんのことを止めた。
 今となっては唯一のチャンスだったとも言えた現実を、オレは自分の感情一つで消してしまった。

「俺のことは放っておいてくれ」

 それだけ言って、祥吾は風と共に黒いそれらを纏わせて景色の中に消えてしまった。

(ああ、やっぱりそうだ……)

 祥吾のことを一番分かっていないのは、あの時からずっとオレだけだったのかもしれない。


   ◇


 こんな気持ちでバイトはしないといけないのは、さながら最悪だった。当然祥吾が悪いわけではないし、バイト先が悪いわけでも無い。強いて言うなら、中途半端な気持ちでここまできたオレが悪い。
 もうそろそろ夜の十時を過ぎようとしている頃だろうか? オレはバイト先から一番近い公園のベンチに座っていた。特に何をするでも無く、ただただ時間が過ぎるのを待っているようなこの時間は、人からしてみれば時間の無駄かもしれないが、状況に関わらずオレにとっては大事なものだった。
 バイトがこの時間まであるというのは稀にあることでもう慣れてしまっているが、そろそろ帰らないと警察がいたら声をかけられてしまうだろうか? しかしどうせ母もまだ帰ってこないし、帰る気分にはほど遠かった。こんなところでぼうっとしていたところで、何かが解決するわけでもないというのに。

「……こんな時間にどうしたの?」

 いつものことだが、声を聞くよりも前に、タカハラさんがすぐ近くにまで来ているということは分かっていた。
 こういう時、声をかけてくれるのがこの人であるというのが、申し訳ないが何だか空しく感じた。どんなに親しくたって、タカハラさんはもう人ではない。それは元から分かっているのだが……。

「オレ、何やってんだろうなって思って」

 この人は一体、どういう意図でオレの前に現れ、オレに話しかけてきているのだろうか? 単に祥吾の知り合いだからなのだろうか? それともただ面白がっているだけなのだろうか?
 しかしもう、そんなことを聞けるタイミングは既に逃してしまっており。

「祥吾にあんなこと言わせたいわけじゃないのに。なのに……」

 もはや、一体誰に向かって喋っているのかもよく分かったもんじゃ無かった。風の音すらも、もう何も聞こえない。聞きたくないとすら思った。自暴自棄、とまでは言わないが。

「タカハラさんは、どうすれば良かったと思う?」

 こういう時ですら、誰にも頼れない自分が一番嫌いだ。


   ◇


 祥吾のことを誰かに言いたい。そんなことを思っていたわけではないのだが、誰かに会うことで気を紛らわすということが出来ないだろうかということを今日ずっと考えていた。そしてこの場合、家族やただのクラスメイトでは駄目ということも、何となく分かっていた。別に家族やクラスメイトのことをとやかく言うつもりな無いのだが、なんというか、関係値と信頼度にそれは基づいているように思う。
 シャツの中を汗が滴っていくのを感じながら廊下を歩く。廊下にもクーラーがついていればいいのにと思わざるを得ないが、飽きっぱなしの教室のドアから漏れてくる冷気で、多少なりとも気は紛れていたことだろう。
 図書室のドアはしっかりと閉まっていた。元々閉鎖的な空間だからというのもあるが、毎回意味もなくガラス越しに中を覗いてしまう。オレが今日会えるかどうか期待している人達との関係は不思議なもので、今日は誰がいるのかとか明日はどうとかいうことを全く知らない。
 神崎先輩と宇栄原先輩が図書委員で定期的に係として図書室にいるという理由だけでここに集まっているのだが、どうやら係じゃなくても図書室にいるということを知ってからというもの、予定を聞くまでも無いというのが実情である。相谷くんは、どういうわけかいつも一番最後に来ようとしているから、覗いていなかったとしてもそういうものだという理解だ。

(もう来てる……)

 辛うじて見える範囲に、見覚えのある横顔が見えた。相谷くんの姿だった。今でも偶然を装って相谷くんのクラスを覗きに行くのだが、今日は掴まえることが出来なかったというのもあり、もう帰ったのだとばかり思っていたのだが、どうやら違ったらしい。もしかしたら誰かに用があって早く来たのだろうかと思いながら、オレはドアを開けた。
 図書室に入るとすぐ、神崎先輩が向かいの席に座っているのが分かった。その様子は到底和気藹々としたものとは言い難く、思わず足を止めた。いや、正直この二人が和気藹々としている姿は想像が出来ないが、そう思ってしまう程余りにも変な空気感だったのである。

「なんか密会してる……」

 思わず軽口を叩くと、相谷くんが肩をビクつかせてこちらに向いた。視線を泳がせ、思いきり動揺している様子が窺えた。もしかして、なにか邪魔をしてしまったのだろうか?

「し、失礼します……!」

 相谷くんは、それだけ言うとすぐに図書室を出て行ってしまった。掴まえようという気さえ思わないくらいに早く、いつもの相谷くんではないように見えた。先輩はため息をつきながら、珍しく机に突っ伏した。

「あんなに慌てて出ていくとか、相谷くんとなに話してたんですか?」

 言いながら、オレは相谷くんの代わりに席に向かった。

「先輩が死んでる……」

 声をかけても、先輩から何か言葉が返ってくることはなく、ため息が代わり聞こえてくる。先輩のため息は何度か聞いたことはあるが、今回はその中のどれよりも深く、もはや深呼吸といっても差支えのないくらいだった。

「な、何があったんですか……?」荷物を置きながらオレは言った。
「何もない……」
「何もないのにそんなうな垂れることあります? あ、もしかしてオレのせいですか?」
「……半分くらいはそうかもしれない」
「いやー、それは悪いことしちゃったなぁ」

 正直悪いとは別に思っていないが、先輩の余りの項垂れようにそう言わざるを得なかった。邪魔をしないように、オレは席につき頬杖をついて先輩の頭をじっと見た。一体いつその顔を拝めるのか、気になって仕方がなかった。

「……寧ろ助かった」

 先輩は、机に向かってそう言った。これまでのオレに対する言動を簡単にひっくり返したのである。

「聞こうと思ったことがあったけど、やっぱり無理だった……」

 そう言うと、先輩はようやく顔を上げた。とはいえ、視線は机に向かったままだったが。

「一体何を話すつもりだったんですか?」

 相谷くんと神崎先輩が話をしているところを、オレはそこまで多く見たことがない。話の流れで会話を交わすということはあっただろうが、お互い自分から話をするタイプではないということはよく理解している。そんな二人が話す必要があったということは、もしかしたらよっぽど大切な何かがあったのかもしれない。
 ……残念なことに、少し思考を巡らせたら心当たりが見つかった。

「……もしかして、相谷くんの噂のことですか?」

 余り言いたくはないが、最も先輩の耳に入りそうなことを提示した。これで間違っていたら、また先輩の頭を悩ませる要因になってしまうことだろう。

「お前、知ってたのか?」

 幸か不幸か、その予想は当たってしまっていたらしい。

「一応知ってましたよ。にしても、上級生にまでその噂がいくってよっぽどですね。最近は流石に収まってきたと思ったんだけどなぁ」

 皆してそういうの好きですよねと、他人事のような言葉を付け加えながらオレは腕を組んだ。他人の不幸は蜜の味とは言うが、だからといってそういう噂が立つだなんて、この学校に居る人の人間性を疑っても仕方が無いというものだ。最も、それが本当に噂なのかどうかは、流石にオレにも知る術は無いが。

「先輩はその話で相谷くんのなにを知りたかったんですか? ただの好奇心?」
「そんなわけないだろ……」
「じゃあ、どうしたかったんですか?」

 オレの質問に、先輩は答えなかった。別に先輩がそのうちの一人だとは思っていない。だがもしオレの言ったとおり好奇心からの行動だったとするのなら、正直余りいい気はしないし、何より先輩に幻滅してしまうだろう。この質問には、そうであって欲しくは無いというオレのエゴが少なからず混じっていた。

「ただの噂って言ったって、犯人呼ばわりされてるような話を本人が全く気にしていないってことはないだろ」先輩は、まるで独り言を喋るかのようにそう言った。「あいつ、ただでさえ口数が少ないし、何考えてるかを俺は知らないけど、気にしてないフリしてるだけじゃないかって思っただけだ」

 この時の先輩は、いつもよりよく喋っている印象だった。らしくない、といったら失礼になるだろうが、こんな先輩は見たことがなかったかもしれない。それくらい、変な噂が立っていることに動揺したのだろうか?

「つまり、心配だったってことであってます?」

 そうなのだとしたら、この人は少々優しすぎるかも知れない。

「あぁ……それで結局聞けなかったんですね? 先輩ってば不器用……」
「話しかけんな」

 この時、その優しさを決してオレには向けないで欲しいと、そう思った。

「まあでも、気にしてないフリっていうのはそうかもしれないですね」

 何となくそう思ったのは、オレが相谷くんと屋上で出会った時のことに由来している。オレだって相谷くんの本心は知らないが、全く気にして居ないのであれば、わざわざ授業をサボってあんなところに行くとは到底思えない。
 オレは相谷くんと普通に話が出来ればそれで構わないのに、未だにそれがまともに出来ていないということが、なんだか相谷くんの状況をそのものを表しているような、そんな気がしてならなかった。

「流石に毎日は無理ですけど、お昼休みにたまに相谷くんのところ行くんですよ。あ、いや、本当にたまーにですけど」
「お前、そんなことしてたのか……?」

 先輩は、どうやらオレの行動に少々引いているらしかった。言わんとしていることは分からなくはないが、そうすることくらいしか、オレには出来ることがなく。

「そんなことって言っても階段上ればいいだけですし。最初は相谷くんも逃げてましたけど、あれは途中から諦めてましたね」
「だからたまに相谷に嫌な顔されてるんだな……」そこまで嫌な顔をされている覚えはないが、そんなことは最早オレからしてみたら些細なことだった。
「別に、それでもいいですよ」

 自分の保身のためには、動くことはしない。

「何かあるよりマシです」

 少なくとも、相谷くんに会った時はそう思っていた。

「……お前、相谷のことも他に何か隠してるだろ?」
「別に何もないですよ。神には誓いませんけど」
「あのなぁ……」
「まあまあ、なんだっていいじゃないですか。っていうか、宇栄原先輩って相谷くんの噂のこと知ってるんですかね?」
「あいつなら、知ってても黙ってそうだけどな……」
「……それはそうかもしれない」

 先輩の言うように、果たして宇栄原先輩は、噂のことを知っているのだろうか? 本人に聞くのが一番手っ取り早いだろうが、本当に何も知らなかった時のほうが面倒ことになるのは考えなくても分かることだし、そんなことを聞いたところで噂がなくなるわけでもない。神崎先輩が言うならともかく、オレの口からこの話を宇栄原先輩にするということは恐らくないだろう。

「どうせ、人を嫌な気持ちにさせるような趣味の悪い噂なんて、夏休みが挟まれば皆忘れますよ」

 どちらかというと、これは懇願に近かった。先輩がどうかはしらないが、少なからずオレは相谷くんに関しての噂に耳を貸すつもりは毛頭ない。夏休みが挟まればなんて悠長なことを言っていないで、今すぐでにも噂が無くなればいいと思っている。

「だといいけどな……」

 最も、噂をされていた本人までがその噂を忘れるとは到底思ってはいないが。

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