寒空の下、息が切れる程に足を動かさないといけない状況というのは限られている。それが例えば約束に遅れそうだとか、そういう理由ならせいぜい相手に怒られるだけで済んだだろう。でも生憎、今のオレにはそんな相手はいない。
「いや、しんど……ってかここ何処……!?」
だったら何故息を切らしているのか? その答えは至極単純で簡単だ。
「な、なんでついてくるのアレ……。オレ何もしてないんだけどっ!」
視える人間にだけは視える、幽霊という存在との追いかけっこというのは、さて一体どれくらいの人間が体験したことがあるのだろう? 最も、本来ならば例え幽霊が視えたとしても起きることなんて無いに等しいはずなのだが。
後ろから物凄い気迫で迫って来るそれから何とか逃れようと必死だからか、こうなってくるともはや相手が幽霊だろうがなんだろうがどうだってよくなってしまう。俗にいう、得体の知れないモノであるという概念がなくなってくるようだ。どうすれば相手を撒くことが出来るのかということだけに思考を巡らせながらとにかく足を動かす、ただそれだけだった。
傍から見たら何かに急いでいるただの高校生に見えているだろうが、寧ろそれが幸せなのかもしれない。目に見えているモノだけが正しいと思うのが常というもので、物事の真理に触れた人物は口を揃えてそれを滑稽だとのたまうが、知らないままの方がいいことはこの世の中では沢山存在する。今の状況だって、恐らくはそれと同等のはずだ。
走っているうちに余り来たことのない方角に来てしまったらしく、ここが何処なのかもイマイチよく分かっていない。知っている場所だったらまだ幾らかマシなのに、全く知らない景観が辺りに蔓延っているとなると、妙案なんて何一つとして思い浮かばないし、流石に焦りが募ってくる。
「ああもう……。何で話しかけたくらいであそこまで怒るかな……」
だがこういう場合、狭い場所ではなくある程度取り合えず辺りが見渡せる比較的広い場所の方が、まだどうにか出来る確率はある。逃げ場にトイレを選んでしまっては後にも先にも行き場が無くなってしまうのと同じだ。ただの住宅街にそんな狭い空間なんてないというのが、まだ救いだったのかも知れない。
よくもまあ、幽霊相手に物理的に逃げられているなと思いながらも、とにかくどこでも良いから体制を立て直せる場所を探していた。
適当に歩いていてもそれなりに見つけることの出来る場所は限られている。ここは住宅街だ。例えば人の出入りするような大きな施設は、見渡す限りだが恐らくない。ともすると、オレが探す場所はおおかた決まってくるというものだ。
(……あそこ、公園か?)
住宅が少し捌けたように見える場所があり、オレはすぐさま進路をそこに変更した。後ろは極力見ないように心がけながらも、微かに感じ取ることが出来る気配を逃すことはしない。
まだ比較的距離が離れているのか、それともさほど強い力を持っている存在ではないからなのか、そこまで色濃く感じることはなかった。そのせいで、本来なら感じていなければならないはずの緊張はとっくに削がれていた。
「つ、疲れた……いや疲れた……」
本来であるならこの時期なら手放せないはずのマフラーが邪魔に感じるくらいに、オレの身体はいつもより発熱していた。だからといって、どうせすぐに寒くなるだろうからマフラーを取ることはしないのだが。
幸いと言うべきか、いまは公園に誰もいない。小学生の一人や二人くらい遊び呆けていても可笑しくない時間だろうに、この時ばかりはそうではなかったらしい。ふと空を視界に入れると、曇天と呼ぶに相応しい程に淀んでいた。きっとそのせいだろうと、オレは無理矢理結論づける。僅かな休憩時間は、もうすぐに終わってしまうらしかったのだ。
公園の隅から漂う、幽霊の持つ残像らしきものはもうとっくに見慣れてしまっている。しかし、それでも思うところは幾つかあった。
(いつ視ても幽霊って気持ち悪いな……)
正直、オレは幽霊に関してはそういった感想を用いていたのである。まずオレの認識からいうと、害のない幽霊というのはそもそも存在しない。幽霊の意思に関わらず、そこに居るだけで何かしらの影響を与えているものだ。
例えば座敷童といった人に幸福を齎すと言われる存在でも、こちらが座敷童を追い出すなどといった行動を取れば態度が一変するように、大かれ少なかれ影響は受けることになるはずだ。幽霊という存在の中で何か差があるとするなら、生きている人間に害を与えるか与えないかの違いくらいだろう。
「急に話しかけたオレもオレかも知れないけど、でもあんなところに居るのは流石にどうなのかなーって思うわけよ」
それなら、このオレのことを追ってくる男は一体どちらなのだろうか? そんなの追われている時点で考えなくても明白と言っても差し支えはないのだろうが、この際なんだって構わないだろう。
「事故の起きやすい交差点の真ん中で突っ立ってるなんて、いくら何でもあからさま過ぎるっていうか」
何故なら、どうしてそんなことをしているのかなんて正直オレの知ったことではないのである。
この時、どちらかと言えばオレの機嫌は良い方ではなかっただろう。聞いているのかいないのか、目の前に居るそれはただゆらゆらと揺れていた。そういうところも、オレが幽霊が嫌いな理由のひとつとして挙げられる。
嫌悪に近いそれを持ち合わせているのだから視えないほうがいいに決まっているのに、今こうして幽霊を認識し、更には話しかけているという事実が馬鹿馬鹿しく感じた。
「っていうか、オレ別に幽霊が視えるだけだから。悪いんだけど成仏したかったら他の人に頼んでくれる? こんなところまで来ちゃってさぁ、知らない場所だし帰り方もよく分からないんだけど。そもそも、人のこと殺しておいて助けてくれとか虫が良すぎじゃない? オレそんなお人好しじゃないし、話しかけたくらいで縋られても困るよ」
例えば、このままオレの余生が終わったとしても別に構わない。それくらいの感覚で、オレはこの類の存在に接触している。だからこうして挑発しているかのような言葉ばかり口から出てきてしまうわけだ。
見つけてくれた人に縋るというのも、まあ分からなくはない。
「それに、あなたが悪いことをしてるからその黒いのが纏わりつくんでしょ? あんまり同情出来ないなあ」
しかしこの前提条件がある以上、そう簡単に相手に慈悲なんて見せられないのである。
この言葉は、自分で口にして置いてなんだか少し違和感を覚えてしまう。目の前にいる幽霊に向かって、というのとはまた違うような気がしてしまった。
「……なんか騒がしいと思ったら、お前何やってるんだよ? 家こっちじゃないだろ」
オレの状況からして運良くというべきか、それとも幽霊側からして運悪くというべきか、虚空から祥吾の声がした。そのすぐ後のことなのかオレが見逃していただけなのか、紫がかった黒い粒が一様に集まりだし、そこから一瞬で人物が形成されていく。
例え知り合いだとしても、それは人間とは形容し難いと言わざるを得ない登場の仕方に違いなかった。
「丁度よかった。この人、成仏したいんだって。オレじゃ出来なくて困っててたんだよね」それでもオレは、出来るだけいつもの調子を装った。
「俺はなんでキョウがこっちに居るのか聞いて……」
「そういうのは後でいいって。ほら早く」
祥吾は少し嫌な顔をしながらも、オレに腕を引っ張られて前へとかり出されていく。今までは「助けてください」と言わんばかりに追いかけてきていた幽霊が、どういうわけか少し後ずさりをしたように見えた。そう見えたというだけで本当は違うのかもしれないが、オレの目にそう映ったのだから決して間違いではないだろう。
祥吾の存在は、お世辞にも良い存在とは言い難い。その認識は、幽霊にとっても同じなのだろう。同族嫌悪と言ってしまっても良いかもしれない。最も、同族と簡単に括ってしまうのは色々と問題がありそうだが。
前からため息が聞こえたのを流し聞きしていると、祥吾が右手を振りかざす。すると、光を帯びた紫がかった黒い粒が大量に噴出されていった。それは祥吾の周りを舞うばかりか、幽霊の周りからも噴出された。それがオレの周りにも多少浮遊しているせいで、思わず腕で口を覆った。大層心地が悪かったのだ。
あっという間に黒く染まり上がった幽霊の姿は、もはや垣間見えることすらない。あれに染められた時、いったいどういう気持ちになるのだろう。吐き気を催したり痛いなどという感情は働いたりするのだろうか? それすらも、全くの見当違いの感覚なのだろうか?
それを掌握するかのように操っている祥吾は、いったいどんな感覚でそれを行っているのだろうか?
「……掴まったのが瞑邪だなんて、あんたも運が悪いな」
どちらにしても、あんなのに黒く染めらた挙げ句に消えて無くなるだなんて、オレはごめんである。
幽霊は、完全に黒く染め上げられたのだろう。それは竜巻のように渦を巻きながら、祥吾の元へと還っていく。それはまるで、瞑邪である祥吾を宿としているかのようだった。幽霊のいた場所には、もう何も残ってはいない。それを確認し終わったのか、祥吾は後ろを振り向いた。
まだ僅かに残る黒い粒が、祥吾の周りを彷徨いている。到底現実とは容認しがたいその情景に、オレは思わずつばを飲んだ。
「で、キョウはどうしてこんなところに居るの?」祥吾の言葉で、話は振り出しに戻っていった。
「あの人、交差点でずっと悪さしてたヒトだったみたいだね。ど真ん中で何してるのかなって思って聞いてみたら、なんかすっごい怒っちゃってさぁ。なんで幽霊ってあんなに短気なの?」
幽霊の気の短さは知っていたが、今回ばかりは本当に参ってしまった。運が良ければ気絶程度で済んだかも知れないが、祥吾が居なければ、恐らくオレは死んでいてもおかしくなかっただろう。だからこそと言うべきか、祥吾が今現れたのだ。別に放っておいてくれたって構わないのに、祥吾はオレのことを構いたがった。
「……ちょっかい出すなって、何度も言ってるだろ?」祥吾の声は、少々苛立っていた。
「別にちょっかいは出してないよ。ただ声かけただけだし」
「それがちょっかいだって話、何回した?」
「覚えてないよそんなの」
祥吾との言い合いは、こういう関係になってから極端に増えていったように思う。こういう関係というのは、単純な親戚という枠組みではなく、幽霊と人間という到底壊すことの出来ない壁が創られてからのことである。
「っていうか、祥吾には関係ないし」
「関係あるだろ」
「ないよ」
オレの語気は、この時ばかりは少し強かったのだろう。祥吾は言葉を言わなくなった。
「……視えなければ、オレだってこんなことしない」
視えないほうが幸せだと思うことは何度かあった。ごく稀に幽霊が視えるというのをうらやましがる人がいるらしいが、オレには到底理解が出来ない。許されるなら、こんなもん欲しければくれてやる! とぶん投げてしまいたくなるほどだ。
でもそれは、つまり祥吾のことを認識出来なくなるということで。
「そうやってオレのことばっかり責めるけど、じゃあどうしてオレが視える側の人間なのか祥吾は説明出来るの?」
「それは……俺だってそうだよ。視えるのは同じだった」
「同じじゃないよ」
視えてしまうのであれば、ちゃんとオレにも力があれば良かったのにと、最近とても思うのだ。
「オレは、祥吾みたいな力なんて持ってない」
瞑邪は、人を殺したり幽霊や悪霊を取り込むことで自身の力にするのだと、いつだったかに瞑邪の話を聞いたことがある。正しくそれがさっき起きた出来事なのだろうが、それをし続ければいつかは自我を失い、今は普通に話しているが、オレのことも認識しなくなるのではないかと、とある人物は言っていた。
そして、最終的には黒く染まり深淵と共に呑まれて消えるか、それと同等の力をもつ人物を探すかのどちらかしかない。似たような現象を、ボクは幾つか見てきた。とある人物がそう言っていたのをよく覚えている。
「どうせなら、何も視えないほうがよかったよ」
誰に言っても解決するわけもないのに、祥吾にそんなことを言ってしまっていた。その感情が、余計祥吾のことを追い詰めることになるんじゃないかと思ったのは、これから少し時間が経ってからのことである。
「祥吾のこと、何も知らないままのほうがよかった」
どうしても許せないのは、少なくとも周りにいるすれ違うだけの他人よりも祥吾のことを知っているはずなのに、オレは祥吾のことを何も知らなかったということだ。
所詮はただの親戚で、オレが首を突っ込むことではなかったのかもしれない。そんな感情が、ふつふつと。ゆっくりと熱を帯びてきているような、そんな感覚があった。
「だったら――」
ようやく祥吾が口を開いたのは、それから数秒してからのことだ。
「だったら、こうやって誰かが来るであろう状況なんて作るなよ」
まるで深淵が祥吾の正体であるかのように、黒いそれが身体から滲み出ているのが見て取れた。自身の身体を黒で覆わんとしているそれを見て、ようやくオレは、自分が子供のようなことを言ってしまっていたということを理解した。
生前に自分のした行いの結果こうなっているのだから、俺のことは構うなと、少し前に祥吾は言っていた。そうやって言われてしまえば、今祥吾が瞑邪になっているのは自業自得かもしれないと何処かで思ってしまうし、それで消えようがどうなろうが結果は同じなのかもしれない。
「嫌いなら嫌いって、早く消えろって、いっそはっきり言ってくれ」
でもそれが嫌だから、オレはこうして行動を起こしていたはずなのだ。なのにどうして……。
(そんなこと、思ってないよ……)
どうしてか、言葉がのどに引っかかって出てきてはくれなかった。何かを言ったらまた祥吾に起こられるかもしれないし、逆効果かもしれない。オレの言葉は、こうなるよりも前から届いてはいなかったのかもしれない。
オレの行動が本当に迷惑で、何とかしたいと思うのはお節介で、ただの自己満足なのかもしれない。
(だったら、なんで)
なんで祥吾は、会うたびにそんなに眉間にしわを寄せるのだろうか?
深淵に呑まれかけている祥吾の目は、オレではなくどこか遠くを見ているような気がした。それにつられ、ふと祥吾から視線を逸らした、その時だ。辺りの深淵を風に任せて大きく乱舞させ、祥吾を飲み込んだかと思ったら一瞬にして塵と化してしまった。
僅かに浮かぶ、残された空白とそれを埋めるようにして未だに漂っている黒い粒子を、オレはどうしても視界から消してしまいたくて仕方がなかった。それらを視界から外した先には、見知らぬ誰かが一体何をしているのかというような目でこちらを眺めている様子が窺える。地面を押し上げ、オレはとある男に近づいていった。
あくまでも、何もなかったというのを装って。
あくまでも、想定していない出来事であるかのように繕って。
「……視える人って、オレ以外にもちゃんといるんですね」
声をかけられると思っていなかったのか、突然現れた高校生は呆けた言葉を返してきた。向こうはコートを着ていて正確なことは分からないが、僅かに見える上着とズボンの色が同じであるという点からして同じ学校の生徒なのだろう。しかし、これまでの記憶を辿ってみるにこの人物に出会った記憶が無い。制服が似ているだけで別の学校の生徒なのか、それともオレより学年が上なのだろうというところまでは容易に推測ができた。今のオレにとってはそんなことは別に重要では無いのだが、後に必要になってくる情報であることは間違いなかった。
「こういうの、オレだけだったらどうしようかなってちょっと思ってたんですけど……。結構安心したかも」
オレはすぐに、この高校生が幽霊などという類いのものが視える人物であると断定した。例えばそこに、身体的な特徴が含まれているわけでもなければ、かといって直感というわけでもない。どちらかというと直感に近いのだろうが、それでもオレは確信をしていた。
――こういう人を、オレはずっと探していたのだ。
「あの人、ここ最近ずっとこの辺りで悪さしてた人なんですけど」
嘘と真実を織り交ぜながら話すというのは詐欺師のようで少々気が引けるが、初対面の人物にいきなりこの状況を詳細に話したところで、どうせろくな会話にはならないだろう。
「知り合いなんですよね、オレの」
しかしどういうわけか、この余計な一言だけは口から飛んで出てきてしまったわけなのだが。
男子高校生は、特別オレに向けて余計な何かを発することはしない。変な奴だと思われているのだろうが、それは些細なことだった。自分の気を落ち着かせるためには、オレが喋ることが最善だったのだ。それと、この気を逃してはいけないと、心のどこかで思っていたのだろう。
「にしても、この時間って公園に人居ないもんなんですか? この天気でだれもいないって、なんか雰囲気悪いですよね」
「……天気予報、雪の予報出てたからだと思うけど」
「そうでしたっけ?」
今日の天気は正しく曇天である。それに加えて、どうやら雪まで降るのだそうだ。なるほど、それなら公園に誰も居ないというのも理解出来る。
「あ、オレは橋下 香って言うんですけど、名前聞いてもいいですか? 多分先輩ですよね?」
周りはとても暗く、今にもそれが降ってしまいそうな雰囲気だ。それなのに、眩しかった。この目の前にいる男子高校生が、オレには眩しく視えた。いや、比喩なんかではなく本当に眩しかったのだ。
ほろほろと落ちていくような、小さな光。それが、怪訝な顔をしている高校生からこぼれ落ちている。それはさっきの祥吾の周りに纏っているものとはまるで正反対で、生きている人からそれを感じることが出来るというのは初めての感覚だった。
「……宇栄原だけど」
後にまた接触することになるひとつ年上の宇栄原 渉という人物は、光を纏う力の持ち主であるということを、オレはこの時に視てしまったのである。
◇
用があると適当なことを言って宇栄原という高校の先輩と思われる人物と別れたが、その後オレは無事に知っている道まで行くことができ、帰路の途中にある小さな公園のベンチに座っていた。
(宇栄原って、多分あの人だよな……)
帰り際に聞いた名前を、心の中で反復する。会ったことは無かったと思うのだが、宇栄原という名前は確かにどこかで聞いたことがあったのだ。否、聞いたというよりは見たと言った方が正しいのかも知れない。テストの点数が廊下に貼り出されるという悪趣味なシステムがなければ、恐らくオレの感じたこの引っかかりはあり得なかっただろう。その名前は、テストの総合順位が職員室の前にある掲示板に貼り出される時に必ず目にしていたものだった。
本来なら同学年の順位だけ見ればいいのだが、オレはそれだけでは飽き足らず、特別関係の無い二年生と三年生のテストの順位をしっかりと把握していた。それだけなら別にオレが特別珍しいというわけではないだろうが、過去に行われた中間テストと期末テスト、それぞれ一位から十位までのテストの総合点と名前を学年ごとに記憶しているというのは流石にそういないだろう。一度見たら忘れないという類いのものではないのだが、こんなことを口にすれば一般的にはおかしなやつだと思われるに違いない。
「力使えそうな人、見つけたんだ?」背中から、最早聞き慣れてしまったタカハラさんの声が伝ってくる。タカハラさんの方を見るまでも無く、オレは声を発した。
「……いつから居たの?」
「ずーっと見てたよ。幽霊に追われる前からね」
本当にそうだとするなら何とも嫌な趣味であるが、今日に限ったことでもなかったからもはやどうとも思わなくなった。しかし、ため息くらいは出ても仕方が無いだろう。本来だったらああなる前に……というか、幽霊に接触するよりも前に来て欲しいものだが、元はといえば「タカハラさんは何もしないでくれ」と頼んだのはオレの方だ。文句の一つも言えたものではない。
「せっかく見つけたのに、頼まなくてよかったの?」
「み、見つけたからって、そんなすぐには無理だよ」
この時、オレは初めてタカハラさんが居ると思われるほうを向いた。ベンチの背に両腕を乗せ、不思議そうな顔をしてこちらの顔を覗いている。どうやら、何故先輩に手伝って欲しいと言わなかったのかが本当に不思議で仕方が無いらしい。
「そうかな? あの彼なら手伝ってくれると思うけど」
「なんでそう思うの? 会ったばっかりなのに」
どういうわけか、オレがさっき出会ったばかりの宇栄原先輩は言えば助けてくれる人物であるとタカハラさんは確信しているようだった。根拠のない自信にも見えたが、それにしては一切の迷いがないのがどうにも引っかかった。
「多分、あの彼のことは今のキミよりも知ってるから」その物言いから察するに、どうやらタカハラさんは宇栄原先輩のことを知っているようだった。
「……会ったことあるの?」
「気になる?」
「べ、別に……」
なんだか何かを試されているような気分になり、オレはすぐにそっぽを向いた。気にさせるようなことを言うのはいつだってそっちだというのに、まるでオレの察しが悪いかような感覚に苛まれたのである。
「別に不思議なことじゃないよ。ボクがキミより長くこの一帯に存在していて、キミよりも多くこの一帯を歩いている。ただそれだけのこと」
素直に会ったことがあるとか知ってるとか言えば良いのに、その解答が余りにも抽象的なのが余計にオレの気力を削いでいく。オレが最初から真面目に聞いたって、似たようなことを返してくるに決まっている。この人はそういう人だ。
「もしさっきの彼が駄目なら、やっぱりボクがやるしかないね」
「だ、駄目だよっ!」
焚きつけられたというのは分かっていたものの、思わず声を荒げてしまう。少し過剰に反応しすぎてしまっただろうかと、焦って再びタカハラさんから視線を外してしまう。
「オレ、タカハラさんのあんなところもう見たくないから。それに、力は使わないって誰かと約束してるんでしょ? 駄目なら駄目で、こういうことはもうやらないよ」
「……それはつまり、祥吾くんのことを見捨てるってこと?」
この人の聞き方は、いつも嫌らしくて参ってしまう。そう思ったが、オレが諦めるということはつまりそういうことであるというのは誰が聞いても明白であるせいで、とてもじゃないが弁明することが出来なかった。タカハラさんに力を使わないでとお願いしているのは紛れもなく自分であり、オレがそんなことを言わなければことは既に解決していたに違いないのだ。
一体どうやって答えるのがいいのかと考えあぐねていると、タカハラさん自らオレの顔を覗き込んできた。まるでオレが何を考えているのかを透視するかのように、眼鏡を介してもなお視線が離れてくれない。
「な、なに?」まるでその行動を取っているタカハラさんが悪いかのように、怪訝な声を出してしまう。
「うーん。いや、本当にそれでいいならボクも何もしないけど、もう少しちゃんと考えてね」
せっかく橋下くんが掴まえた有限の時間なんだからさ。そう口にすると、タカハラさんはいつもの笑みを繕った。我が儘なオレのことなんて呆れられていたっておかしくないのに、どうしてタカハラさんはそんな顔が出来るのだろうか? 単純に乗りかかった船だから? 祥吾と知り合いだから? 祥吾が瞑邪と成り果てたから? オレに向けているそれはただの同情なのだろうか?
もしかしたらこの人は、これから起こること全てを最初から知っているのではないかと思わせるような憂いが含まれたそれを、オレはずっと見つめてしまっていた。
◇
高校も二年生になったというのに、一階の図書室には片手で数えても指が余るくらいしか足を運んだことは無い。何故ならそもそも小説というものにさほど興味はないし、何か知識を得ようという意欲もない。そのオレが向かっている場所は、正しくその興味のない図書室だった。
一体何に急いでいるのか、自然と足早となってしまっていたのが自分でもよく分かった。気が競っている時というのは余りいい状態ではないだろうから、図書室の扉が近づく度に意図的に歩くスピードを落としていった。今日は居るかどうかも分からないというのに、扉の前で一度深呼吸を挟んだ。扉を開け、図書室の中を見渡していく。
「あ、先輩みーっけ」
いわゆるいつもの調子というのを、この時ばかりはよく意識をした。
「その人、知り合いですか?」宇栄原先輩の正面に座っている人物を視界に入れながらオレは言った。
「知り合い……まあうん、そうかもね」
この時、あたかも神崎先輩のことを全く知らないといった体で話を進めていたが、実のところそういうわけでもなかった。確かに会ったことは無かったのだが、ここに神崎先輩が居るということも最初から想定の内だったのだ。
この二人のことを見つけるのは比較的容易だった。この前、宇栄原という名前を聞いたときオレはすぐにピンときていた。この学校では、テストの順位と成績が張り出されるということが毎回行われる。オレが一年生の時から、二人の名前は必ずと言っていいほど目にしていたのである。クラスもついでに書かれていたお陰で、特別探す必要性は無かったのだ。
しかし幾ら名前を知っていたからと言っても、いきなり上級生の教室に足を踏み入れる勇気は流石にない。どうしようかと考えていたのだが、担任の先生が図書委員の担当であったお陰でその悩みも簡単に収束を迎えた。
この二人は、どういうわけか仲良く図書委員だったのだ。そして、係でもないのによく図書室に居るという話も聞いた。急にふたりの話を聞くもんだから少々不審がられたが、特に神崎さんは成績がいいことで有名ということもあってよく聞かれることがあるらしく、聞いてもいないのに「よく宇栄原と一緒にいる」などという情報を手に入れてしまった。結果その通りになったわけだが、今回ばかりは少々それがネックとなったのである。
「……で、君何しに来たの? わざわざおれのこと探してさ」宇栄原先輩はため息をこぼし、半分呆れたような素振りを見せた。
「えー、別に何だっていいじゃないですか。たまたま来たら見つけちゃったのは、もうどうしようもないですよ」
「たまたま、ねぇ」
「疑ってます?」
今まで図書室に余り来たことの無い人物が急に現れたというのもあってか、流石に誤魔化しがきかなかったようで先輩はすぐにオレの嘘を見破った。これ以上変に疑われるような発言をしても立場が悪くなるだけだろうし、オレもそれ以上ややこしくなるようなことは口にしなかった。と、思うのだが。
「ああオレ、幽霊とか視えちゃうんですけど、この前幽霊と話してるところ宇栄原先輩に見られちゃったんですよねぇ」神崎先輩に向けてそう簡単に説明をしたところ、感情の見えにくい先輩の目は宇栄原先輩をばっちりと掴んでいた。
「まあうん……そういう感じだから。一応言って置くけど、偶然ね」
この時点では、神崎先輩がどういう立ち位置なのかというのがまだよく分からないのだが、どうやら神崎先輩は、幽霊が視えるという事象を余りよく思ってはいないらしいということが、何となくではあるがつかみ取ることが出来た。となるとやっぱり、神崎先輩は本来なら幽霊という存在に無縁な人なのかもしれない。
この二人が果たしてどれほどの付き合いなのかは分からないが、幽霊が視えるということを知っているということは、少なくとも友達という枠は逸脱しているのだろう。オレは必要だから今こうしていとも簡単に幽霊が視えるということを開示したが、親しいからといって幽霊が視えるということを共有する必要はまず起こることはない。相手が幽霊が視えないのであれば尚更、そもそもこういう話に発展することがないだろう。
理由はともあれ、神崎先輩は宇栄原先輩が幽霊が視えるということを知っているらしかったのだが、それが余計オレの頭を悩ませた。やっぱり出直すべきだろうかというのも考えにはあった。
「……ところで、ちょっと聞いてもいいですか?」
しかし、情報を得るなら早いほうがいいと、この時はそう判断したのである。
「逝邪っていう存在、知ってます?」
結局これが善良な判断だったのかどうなのかは、今もよく分かってはいない。
「いや、しんど……ってかここ何処……!?」
だったら何故息を切らしているのか? その答えは至極単純で簡単だ。
「な、なんでついてくるのアレ……。オレ何もしてないんだけどっ!」
視える人間にだけは視える、幽霊という存在との追いかけっこというのは、さて一体どれくらいの人間が体験したことがあるのだろう? 最も、本来ならば例え幽霊が視えたとしても起きることなんて無いに等しいはずなのだが。
後ろから物凄い気迫で迫って来るそれから何とか逃れようと必死だからか、こうなってくるともはや相手が幽霊だろうがなんだろうがどうだってよくなってしまう。俗にいう、得体の知れないモノであるという概念がなくなってくるようだ。どうすれば相手を撒くことが出来るのかということだけに思考を巡らせながらとにかく足を動かす、ただそれだけだった。
傍から見たら何かに急いでいるただの高校生に見えているだろうが、寧ろそれが幸せなのかもしれない。目に見えているモノだけが正しいと思うのが常というもので、物事の真理に触れた人物は口を揃えてそれを滑稽だとのたまうが、知らないままの方がいいことはこの世の中では沢山存在する。今の状況だって、恐らくはそれと同等のはずだ。
走っているうちに余り来たことのない方角に来てしまったらしく、ここが何処なのかもイマイチよく分かっていない。知っている場所だったらまだ幾らかマシなのに、全く知らない景観が辺りに蔓延っているとなると、妙案なんて何一つとして思い浮かばないし、流石に焦りが募ってくる。
「ああもう……。何で話しかけたくらいであそこまで怒るかな……」
だがこういう場合、狭い場所ではなくある程度取り合えず辺りが見渡せる比較的広い場所の方が、まだどうにか出来る確率はある。逃げ場にトイレを選んでしまっては後にも先にも行き場が無くなってしまうのと同じだ。ただの住宅街にそんな狭い空間なんてないというのが、まだ救いだったのかも知れない。
よくもまあ、幽霊相手に物理的に逃げられているなと思いながらも、とにかくどこでも良いから体制を立て直せる場所を探していた。
適当に歩いていてもそれなりに見つけることの出来る場所は限られている。ここは住宅街だ。例えば人の出入りするような大きな施設は、見渡す限りだが恐らくない。ともすると、オレが探す場所はおおかた決まってくるというものだ。
(……あそこ、公園か?)
住宅が少し捌けたように見える場所があり、オレはすぐさま進路をそこに変更した。後ろは極力見ないように心がけながらも、微かに感じ取ることが出来る気配を逃すことはしない。
まだ比較的距離が離れているのか、それともさほど強い力を持っている存在ではないからなのか、そこまで色濃く感じることはなかった。そのせいで、本来なら感じていなければならないはずの緊張はとっくに削がれていた。
「つ、疲れた……いや疲れた……」
本来であるならこの時期なら手放せないはずのマフラーが邪魔に感じるくらいに、オレの身体はいつもより発熱していた。だからといって、どうせすぐに寒くなるだろうからマフラーを取ることはしないのだが。
幸いと言うべきか、いまは公園に誰もいない。小学生の一人や二人くらい遊び呆けていても可笑しくない時間だろうに、この時ばかりはそうではなかったらしい。ふと空を視界に入れると、曇天と呼ぶに相応しい程に淀んでいた。きっとそのせいだろうと、オレは無理矢理結論づける。僅かな休憩時間は、もうすぐに終わってしまうらしかったのだ。
公園の隅から漂う、幽霊の持つ残像らしきものはもうとっくに見慣れてしまっている。しかし、それでも思うところは幾つかあった。
(いつ視ても幽霊って気持ち悪いな……)
正直、オレは幽霊に関してはそういった感想を用いていたのである。まずオレの認識からいうと、害のない幽霊というのはそもそも存在しない。幽霊の意思に関わらず、そこに居るだけで何かしらの影響を与えているものだ。
例えば座敷童といった人に幸福を齎すと言われる存在でも、こちらが座敷童を追い出すなどといった行動を取れば態度が一変するように、大かれ少なかれ影響は受けることになるはずだ。幽霊という存在の中で何か差があるとするなら、生きている人間に害を与えるか与えないかの違いくらいだろう。
「急に話しかけたオレもオレかも知れないけど、でもあんなところに居るのは流石にどうなのかなーって思うわけよ」
それなら、このオレのことを追ってくる男は一体どちらなのだろうか? そんなの追われている時点で考えなくても明白と言っても差し支えはないのだろうが、この際なんだって構わないだろう。
「事故の起きやすい交差点の真ん中で突っ立ってるなんて、いくら何でもあからさま過ぎるっていうか」
何故なら、どうしてそんなことをしているのかなんて正直オレの知ったことではないのである。
この時、どちらかと言えばオレの機嫌は良い方ではなかっただろう。聞いているのかいないのか、目の前に居るそれはただゆらゆらと揺れていた。そういうところも、オレが幽霊が嫌いな理由のひとつとして挙げられる。
嫌悪に近いそれを持ち合わせているのだから視えないほうがいいに決まっているのに、今こうして幽霊を認識し、更には話しかけているという事実が馬鹿馬鹿しく感じた。
「っていうか、オレ別に幽霊が視えるだけだから。悪いんだけど成仏したかったら他の人に頼んでくれる? こんなところまで来ちゃってさぁ、知らない場所だし帰り方もよく分からないんだけど。そもそも、人のこと殺しておいて助けてくれとか虫が良すぎじゃない? オレそんなお人好しじゃないし、話しかけたくらいで縋られても困るよ」
例えば、このままオレの余生が終わったとしても別に構わない。それくらいの感覚で、オレはこの類の存在に接触している。だからこうして挑発しているかのような言葉ばかり口から出てきてしまうわけだ。
見つけてくれた人に縋るというのも、まあ分からなくはない。
「それに、あなたが悪いことをしてるからその黒いのが纏わりつくんでしょ? あんまり同情出来ないなあ」
しかしこの前提条件がある以上、そう簡単に相手に慈悲なんて見せられないのである。
この言葉は、自分で口にして置いてなんだか少し違和感を覚えてしまう。目の前にいる幽霊に向かって、というのとはまた違うような気がしてしまった。
「……なんか騒がしいと思ったら、お前何やってるんだよ? 家こっちじゃないだろ」
オレの状況からして運良くというべきか、それとも幽霊側からして運悪くというべきか、虚空から祥吾の声がした。そのすぐ後のことなのかオレが見逃していただけなのか、紫がかった黒い粒が一様に集まりだし、そこから一瞬で人物が形成されていく。
例え知り合いだとしても、それは人間とは形容し難いと言わざるを得ない登場の仕方に違いなかった。
「丁度よかった。この人、成仏したいんだって。オレじゃ出来なくて困っててたんだよね」それでもオレは、出来るだけいつもの調子を装った。
「俺はなんでキョウがこっちに居るのか聞いて……」
「そういうのは後でいいって。ほら早く」
祥吾は少し嫌な顔をしながらも、オレに腕を引っ張られて前へとかり出されていく。今までは「助けてください」と言わんばかりに追いかけてきていた幽霊が、どういうわけか少し後ずさりをしたように見えた。そう見えたというだけで本当は違うのかもしれないが、オレの目にそう映ったのだから決して間違いではないだろう。
祥吾の存在は、お世辞にも良い存在とは言い難い。その認識は、幽霊にとっても同じなのだろう。同族嫌悪と言ってしまっても良いかもしれない。最も、同族と簡単に括ってしまうのは色々と問題がありそうだが。
前からため息が聞こえたのを流し聞きしていると、祥吾が右手を振りかざす。すると、光を帯びた紫がかった黒い粒が大量に噴出されていった。それは祥吾の周りを舞うばかりか、幽霊の周りからも噴出された。それがオレの周りにも多少浮遊しているせいで、思わず腕で口を覆った。大層心地が悪かったのだ。
あっという間に黒く染まり上がった幽霊の姿は、もはや垣間見えることすらない。あれに染められた時、いったいどういう気持ちになるのだろう。吐き気を催したり痛いなどという感情は働いたりするのだろうか? それすらも、全くの見当違いの感覚なのだろうか?
それを掌握するかのように操っている祥吾は、いったいどんな感覚でそれを行っているのだろうか?
「……掴まったのが瞑邪だなんて、あんたも運が悪いな」
どちらにしても、あんなのに黒く染めらた挙げ句に消えて無くなるだなんて、オレはごめんである。
幽霊は、完全に黒く染め上げられたのだろう。それは竜巻のように渦を巻きながら、祥吾の元へと還っていく。それはまるで、瞑邪である祥吾を宿としているかのようだった。幽霊のいた場所には、もう何も残ってはいない。それを確認し終わったのか、祥吾は後ろを振り向いた。
まだ僅かに残る黒い粒が、祥吾の周りを彷徨いている。到底現実とは容認しがたいその情景に、オレは思わずつばを飲んだ。
「で、キョウはどうしてこんなところに居るの?」祥吾の言葉で、話は振り出しに戻っていった。
「あの人、交差点でずっと悪さしてたヒトだったみたいだね。ど真ん中で何してるのかなって思って聞いてみたら、なんかすっごい怒っちゃってさぁ。なんで幽霊ってあんなに短気なの?」
幽霊の気の短さは知っていたが、今回ばかりは本当に参ってしまった。運が良ければ気絶程度で済んだかも知れないが、祥吾が居なければ、恐らくオレは死んでいてもおかしくなかっただろう。だからこそと言うべきか、祥吾が今現れたのだ。別に放っておいてくれたって構わないのに、祥吾はオレのことを構いたがった。
「……ちょっかい出すなって、何度も言ってるだろ?」祥吾の声は、少々苛立っていた。
「別にちょっかいは出してないよ。ただ声かけただけだし」
「それがちょっかいだって話、何回した?」
「覚えてないよそんなの」
祥吾との言い合いは、こういう関係になってから極端に増えていったように思う。こういう関係というのは、単純な親戚という枠組みではなく、幽霊と人間という到底壊すことの出来ない壁が創られてからのことである。
「っていうか、祥吾には関係ないし」
「関係あるだろ」
「ないよ」
オレの語気は、この時ばかりは少し強かったのだろう。祥吾は言葉を言わなくなった。
「……視えなければ、オレだってこんなことしない」
視えないほうが幸せだと思うことは何度かあった。ごく稀に幽霊が視えるというのをうらやましがる人がいるらしいが、オレには到底理解が出来ない。許されるなら、こんなもん欲しければくれてやる! とぶん投げてしまいたくなるほどだ。
でもそれは、つまり祥吾のことを認識出来なくなるということで。
「そうやってオレのことばっかり責めるけど、じゃあどうしてオレが視える側の人間なのか祥吾は説明出来るの?」
「それは……俺だってそうだよ。視えるのは同じだった」
「同じじゃないよ」
視えてしまうのであれば、ちゃんとオレにも力があれば良かったのにと、最近とても思うのだ。
「オレは、祥吾みたいな力なんて持ってない」
瞑邪は、人を殺したり幽霊や悪霊を取り込むことで自身の力にするのだと、いつだったかに瞑邪の話を聞いたことがある。正しくそれがさっき起きた出来事なのだろうが、それをし続ければいつかは自我を失い、今は普通に話しているが、オレのことも認識しなくなるのではないかと、とある人物は言っていた。
そして、最終的には黒く染まり深淵と共に呑まれて消えるか、それと同等の力をもつ人物を探すかのどちらかしかない。似たような現象を、ボクは幾つか見てきた。とある人物がそう言っていたのをよく覚えている。
「どうせなら、何も視えないほうがよかったよ」
誰に言っても解決するわけもないのに、祥吾にそんなことを言ってしまっていた。その感情が、余計祥吾のことを追い詰めることになるんじゃないかと思ったのは、これから少し時間が経ってからのことである。
「祥吾のこと、何も知らないままのほうがよかった」
どうしても許せないのは、少なくとも周りにいるすれ違うだけの他人よりも祥吾のことを知っているはずなのに、オレは祥吾のことを何も知らなかったということだ。
所詮はただの親戚で、オレが首を突っ込むことではなかったのかもしれない。そんな感情が、ふつふつと。ゆっくりと熱を帯びてきているような、そんな感覚があった。
「だったら――」
ようやく祥吾が口を開いたのは、それから数秒してからのことだ。
「だったら、こうやって誰かが来るであろう状況なんて作るなよ」
まるで深淵が祥吾の正体であるかのように、黒いそれが身体から滲み出ているのが見て取れた。自身の身体を黒で覆わんとしているそれを見て、ようやくオレは、自分が子供のようなことを言ってしまっていたということを理解した。
生前に自分のした行いの結果こうなっているのだから、俺のことは構うなと、少し前に祥吾は言っていた。そうやって言われてしまえば、今祥吾が瞑邪になっているのは自業自得かもしれないと何処かで思ってしまうし、それで消えようがどうなろうが結果は同じなのかもしれない。
「嫌いなら嫌いって、早く消えろって、いっそはっきり言ってくれ」
でもそれが嫌だから、オレはこうして行動を起こしていたはずなのだ。なのにどうして……。
(そんなこと、思ってないよ……)
どうしてか、言葉がのどに引っかかって出てきてはくれなかった。何かを言ったらまた祥吾に起こられるかもしれないし、逆効果かもしれない。オレの言葉は、こうなるよりも前から届いてはいなかったのかもしれない。
オレの行動が本当に迷惑で、何とかしたいと思うのはお節介で、ただの自己満足なのかもしれない。
(だったら、なんで)
なんで祥吾は、会うたびにそんなに眉間にしわを寄せるのだろうか?
深淵に呑まれかけている祥吾の目は、オレではなくどこか遠くを見ているような気がした。それにつられ、ふと祥吾から視線を逸らした、その時だ。辺りの深淵を風に任せて大きく乱舞させ、祥吾を飲み込んだかと思ったら一瞬にして塵と化してしまった。
僅かに浮かぶ、残された空白とそれを埋めるようにして未だに漂っている黒い粒子を、オレはどうしても視界から消してしまいたくて仕方がなかった。それらを視界から外した先には、見知らぬ誰かが一体何をしているのかというような目でこちらを眺めている様子が窺える。地面を押し上げ、オレはとある男に近づいていった。
あくまでも、何もなかったというのを装って。
あくまでも、想定していない出来事であるかのように繕って。
「……視える人って、オレ以外にもちゃんといるんですね」
声をかけられると思っていなかったのか、突然現れた高校生は呆けた言葉を返してきた。向こうはコートを着ていて正確なことは分からないが、僅かに見える上着とズボンの色が同じであるという点からして同じ学校の生徒なのだろう。しかし、これまでの記憶を辿ってみるにこの人物に出会った記憶が無い。制服が似ているだけで別の学校の生徒なのか、それともオレより学年が上なのだろうというところまでは容易に推測ができた。今のオレにとってはそんなことは別に重要では無いのだが、後に必要になってくる情報であることは間違いなかった。
「こういうの、オレだけだったらどうしようかなってちょっと思ってたんですけど……。結構安心したかも」
オレはすぐに、この高校生が幽霊などという類いのものが視える人物であると断定した。例えばそこに、身体的な特徴が含まれているわけでもなければ、かといって直感というわけでもない。どちらかというと直感に近いのだろうが、それでもオレは確信をしていた。
――こういう人を、オレはずっと探していたのだ。
「あの人、ここ最近ずっとこの辺りで悪さしてた人なんですけど」
嘘と真実を織り交ぜながら話すというのは詐欺師のようで少々気が引けるが、初対面の人物にいきなりこの状況を詳細に話したところで、どうせろくな会話にはならないだろう。
「知り合いなんですよね、オレの」
しかしどういうわけか、この余計な一言だけは口から飛んで出てきてしまったわけなのだが。
男子高校生は、特別オレに向けて余計な何かを発することはしない。変な奴だと思われているのだろうが、それは些細なことだった。自分の気を落ち着かせるためには、オレが喋ることが最善だったのだ。それと、この気を逃してはいけないと、心のどこかで思っていたのだろう。
「にしても、この時間って公園に人居ないもんなんですか? この天気でだれもいないって、なんか雰囲気悪いですよね」
「……天気予報、雪の予報出てたからだと思うけど」
「そうでしたっけ?」
今日の天気は正しく曇天である。それに加えて、どうやら雪まで降るのだそうだ。なるほど、それなら公園に誰も居ないというのも理解出来る。
「あ、オレは橋下 香って言うんですけど、名前聞いてもいいですか? 多分先輩ですよね?」
周りはとても暗く、今にもそれが降ってしまいそうな雰囲気だ。それなのに、眩しかった。この目の前にいる男子高校生が、オレには眩しく視えた。いや、比喩なんかではなく本当に眩しかったのだ。
ほろほろと落ちていくような、小さな光。それが、怪訝な顔をしている高校生からこぼれ落ちている。それはさっきの祥吾の周りに纏っているものとはまるで正反対で、生きている人からそれを感じることが出来るというのは初めての感覚だった。
「……宇栄原だけど」
後にまた接触することになるひとつ年上の宇栄原 渉という人物は、光を纏う力の持ち主であるということを、オレはこの時に視てしまったのである。
◇
用があると適当なことを言って宇栄原という高校の先輩と思われる人物と別れたが、その後オレは無事に知っている道まで行くことができ、帰路の途中にある小さな公園のベンチに座っていた。
(宇栄原って、多分あの人だよな……)
帰り際に聞いた名前を、心の中で反復する。会ったことは無かったと思うのだが、宇栄原という名前は確かにどこかで聞いたことがあったのだ。否、聞いたというよりは見たと言った方が正しいのかも知れない。テストの点数が廊下に貼り出されるという悪趣味なシステムがなければ、恐らくオレの感じたこの引っかかりはあり得なかっただろう。その名前は、テストの総合順位が職員室の前にある掲示板に貼り出される時に必ず目にしていたものだった。
本来なら同学年の順位だけ見ればいいのだが、オレはそれだけでは飽き足らず、特別関係の無い二年生と三年生のテストの順位をしっかりと把握していた。それだけなら別にオレが特別珍しいというわけではないだろうが、過去に行われた中間テストと期末テスト、それぞれ一位から十位までのテストの総合点と名前を学年ごとに記憶しているというのは流石にそういないだろう。一度見たら忘れないという類いのものではないのだが、こんなことを口にすれば一般的にはおかしなやつだと思われるに違いない。
「力使えそうな人、見つけたんだ?」背中から、最早聞き慣れてしまったタカハラさんの声が伝ってくる。タカハラさんの方を見るまでも無く、オレは声を発した。
「……いつから居たの?」
「ずーっと見てたよ。幽霊に追われる前からね」
本当にそうだとするなら何とも嫌な趣味であるが、今日に限ったことでもなかったからもはやどうとも思わなくなった。しかし、ため息くらいは出ても仕方が無いだろう。本来だったらああなる前に……というか、幽霊に接触するよりも前に来て欲しいものだが、元はといえば「タカハラさんは何もしないでくれ」と頼んだのはオレの方だ。文句の一つも言えたものではない。
「せっかく見つけたのに、頼まなくてよかったの?」
「み、見つけたからって、そんなすぐには無理だよ」
この時、オレは初めてタカハラさんが居ると思われるほうを向いた。ベンチの背に両腕を乗せ、不思議そうな顔をしてこちらの顔を覗いている。どうやら、何故先輩に手伝って欲しいと言わなかったのかが本当に不思議で仕方が無いらしい。
「そうかな? あの彼なら手伝ってくれると思うけど」
「なんでそう思うの? 会ったばっかりなのに」
どういうわけか、オレがさっき出会ったばかりの宇栄原先輩は言えば助けてくれる人物であるとタカハラさんは確信しているようだった。根拠のない自信にも見えたが、それにしては一切の迷いがないのがどうにも引っかかった。
「多分、あの彼のことは今のキミよりも知ってるから」その物言いから察するに、どうやらタカハラさんは宇栄原先輩のことを知っているようだった。
「……会ったことあるの?」
「気になる?」
「べ、別に……」
なんだか何かを試されているような気分になり、オレはすぐにそっぽを向いた。気にさせるようなことを言うのはいつだってそっちだというのに、まるでオレの察しが悪いかような感覚に苛まれたのである。
「別に不思議なことじゃないよ。ボクがキミより長くこの一帯に存在していて、キミよりも多くこの一帯を歩いている。ただそれだけのこと」
素直に会ったことがあるとか知ってるとか言えば良いのに、その解答が余りにも抽象的なのが余計にオレの気力を削いでいく。オレが最初から真面目に聞いたって、似たようなことを返してくるに決まっている。この人はそういう人だ。
「もしさっきの彼が駄目なら、やっぱりボクがやるしかないね」
「だ、駄目だよっ!」
焚きつけられたというのは分かっていたものの、思わず声を荒げてしまう。少し過剰に反応しすぎてしまっただろうかと、焦って再びタカハラさんから視線を外してしまう。
「オレ、タカハラさんのあんなところもう見たくないから。それに、力は使わないって誰かと約束してるんでしょ? 駄目なら駄目で、こういうことはもうやらないよ」
「……それはつまり、祥吾くんのことを見捨てるってこと?」
この人の聞き方は、いつも嫌らしくて参ってしまう。そう思ったが、オレが諦めるということはつまりそういうことであるというのは誰が聞いても明白であるせいで、とてもじゃないが弁明することが出来なかった。タカハラさんに力を使わないでとお願いしているのは紛れもなく自分であり、オレがそんなことを言わなければことは既に解決していたに違いないのだ。
一体どうやって答えるのがいいのかと考えあぐねていると、タカハラさん自らオレの顔を覗き込んできた。まるでオレが何を考えているのかを透視するかのように、眼鏡を介してもなお視線が離れてくれない。
「な、なに?」まるでその行動を取っているタカハラさんが悪いかのように、怪訝な声を出してしまう。
「うーん。いや、本当にそれでいいならボクも何もしないけど、もう少しちゃんと考えてね」
せっかく橋下くんが掴まえた有限の時間なんだからさ。そう口にすると、タカハラさんはいつもの笑みを繕った。我が儘なオレのことなんて呆れられていたっておかしくないのに、どうしてタカハラさんはそんな顔が出来るのだろうか? 単純に乗りかかった船だから? 祥吾と知り合いだから? 祥吾が瞑邪と成り果てたから? オレに向けているそれはただの同情なのだろうか?
もしかしたらこの人は、これから起こること全てを最初から知っているのではないかと思わせるような憂いが含まれたそれを、オレはずっと見つめてしまっていた。
◇
高校も二年生になったというのに、一階の図書室には片手で数えても指が余るくらいしか足を運んだことは無い。何故ならそもそも小説というものにさほど興味はないし、何か知識を得ようという意欲もない。そのオレが向かっている場所は、正しくその興味のない図書室だった。
一体何に急いでいるのか、自然と足早となってしまっていたのが自分でもよく分かった。気が競っている時というのは余りいい状態ではないだろうから、図書室の扉が近づく度に意図的に歩くスピードを落としていった。今日は居るかどうかも分からないというのに、扉の前で一度深呼吸を挟んだ。扉を開け、図書室の中を見渡していく。
「あ、先輩みーっけ」
いわゆるいつもの調子というのを、この時ばかりはよく意識をした。
「その人、知り合いですか?」宇栄原先輩の正面に座っている人物を視界に入れながらオレは言った。
「知り合い……まあうん、そうかもね」
この時、あたかも神崎先輩のことを全く知らないといった体で話を進めていたが、実のところそういうわけでもなかった。確かに会ったことは無かったのだが、ここに神崎先輩が居るということも最初から想定の内だったのだ。
この二人のことを見つけるのは比較的容易だった。この前、宇栄原という名前を聞いたときオレはすぐにピンときていた。この学校では、テストの順位と成績が張り出されるということが毎回行われる。オレが一年生の時から、二人の名前は必ずと言っていいほど目にしていたのである。クラスもついでに書かれていたお陰で、特別探す必要性は無かったのだ。
しかし幾ら名前を知っていたからと言っても、いきなり上級生の教室に足を踏み入れる勇気は流石にない。どうしようかと考えていたのだが、担任の先生が図書委員の担当であったお陰でその悩みも簡単に収束を迎えた。
この二人は、どういうわけか仲良く図書委員だったのだ。そして、係でもないのによく図書室に居るという話も聞いた。急にふたりの話を聞くもんだから少々不審がられたが、特に神崎さんは成績がいいことで有名ということもあってよく聞かれることがあるらしく、聞いてもいないのに「よく宇栄原と一緒にいる」などという情報を手に入れてしまった。結果その通りになったわけだが、今回ばかりは少々それがネックとなったのである。
「……で、君何しに来たの? わざわざおれのこと探してさ」宇栄原先輩はため息をこぼし、半分呆れたような素振りを見せた。
「えー、別に何だっていいじゃないですか。たまたま来たら見つけちゃったのは、もうどうしようもないですよ」
「たまたま、ねぇ」
「疑ってます?」
今まで図書室に余り来たことの無い人物が急に現れたというのもあってか、流石に誤魔化しがきかなかったようで先輩はすぐにオレの嘘を見破った。これ以上変に疑われるような発言をしても立場が悪くなるだけだろうし、オレもそれ以上ややこしくなるようなことは口にしなかった。と、思うのだが。
「ああオレ、幽霊とか視えちゃうんですけど、この前幽霊と話してるところ宇栄原先輩に見られちゃったんですよねぇ」神崎先輩に向けてそう簡単に説明をしたところ、感情の見えにくい先輩の目は宇栄原先輩をばっちりと掴んでいた。
「まあうん……そういう感じだから。一応言って置くけど、偶然ね」
この時点では、神崎先輩がどういう立ち位置なのかというのがまだよく分からないのだが、どうやら神崎先輩は、幽霊が視えるという事象を余りよく思ってはいないらしいということが、何となくではあるがつかみ取ることが出来た。となるとやっぱり、神崎先輩は本来なら幽霊という存在に無縁な人なのかもしれない。
この二人が果たしてどれほどの付き合いなのかは分からないが、幽霊が視えるということを知っているということは、少なくとも友達という枠は逸脱しているのだろう。オレは必要だから今こうしていとも簡単に幽霊が視えるということを開示したが、親しいからといって幽霊が視えるということを共有する必要はまず起こることはない。相手が幽霊が視えないのであれば尚更、そもそもこういう話に発展することがないだろう。
理由はともあれ、神崎先輩は宇栄原先輩が幽霊が視えるということを知っているらしかったのだが、それが余計オレの頭を悩ませた。やっぱり出直すべきだろうかというのも考えにはあった。
「……ところで、ちょっと聞いてもいいですか?」
しかし、情報を得るなら早いほうがいいと、この時はそう判断したのである。
「逝邪っていう存在、知ってます?」
結局これが善良な判断だったのかどうなのかは、今もよく分かってはいない。