矛盾していると思われるかもしれないが、それは黒くありつつも光を帯びているようだった。例えるなら、まるでファンタジー世界にでも来てしまったかのようで、現代社会に生きているだけなら、まず目にすることはない景観だ。
地面には黒い霧のようなものが這いつくばっており、足に何かがまとわりついているような、生ぬるい感覚が身体に伝ってくる。気を確かに持たないと、簡単に何かに意識を持っていかれそうな、そんな感覚さえも覚えてしまう。これが初めてではないはずなのに、不思議とそんなことを思った。
目の前にいる男の身体は、段々と黒いそれをまとっている体積が増えていく。身体の左半分は、既にどうなっていたかよく思い出せないほどだ。
もし、今この瞬間に通りすがりの人物や近所の住人に見つかってしまえば、一体何をしているのかと思われるのは明白だが、不思議なことにそれは一度も起こらなかった。まるで誰かが人払いをしているかのような、そんな気色悪さを感じるほどである。
それくらいこの公園は静かで、おれすらも本当はいないのではないかと錯覚してしまう。しかし、それは所詮この男が取り巻く気におれが感化されてしまっているだけに過ぎないはずだ。
「……消えるのは勝手だけど、どうせなら教えてくださいよ」
ここでおれが言う消えるというのは、自我が消えることを意味している。完全に実体が消えてしまうというのもあるのだが、それならそれで勝手に自滅してしまえば良いと思ってしまうのだ。
なるべく平常心を保てるように、おれは一度つばを飲んだ。例えばそれが悪手だったとしても、おれはここで騒ぎ立てたり激高することはなるべくしたくない。
話の通じるかどうかもよく分からない相手にそれはナンセンスだし、何よりもおれの性格上それはとても難しい。
「本当に、あなたが橋下君を殺したんですか?」
こんなこと、本当は口にしたくないのだが……。
例え目の前に居るのが知り合いを殺した人物だとしても、おれがおれである為には、感情を殺さないといけないときもあるだろう。この感情の類は、探偵が自身の知り合いを殺された時のそれに近いのかもしれない。最も、そんな格好良い物ではないが。
「……同じこと何度も聞かないでよ。面倒くさい」
少々苛立ちながら、目の前の誰かはそう言った。同じことを何度も、と言われるほど口にはしていないはずだが、本当にと最初に付け加えたことで、恐らくそういう風に聞こえてしまったのだろう。それとも、過去にそうやって言われたことが既にあったのだろうか? どちらにしても、この男とは初対面のおれにとって、そんなことはどちらでも構わなかった。
「そうじゃなきゃ、死んでもなお俺はこんな形で存在してない」
だが、この男のその台詞は聞き捨てならないものである。
「瞑邪(めいじゃ)っていうのは、そういうモノだ」
名前すら知らない目の前の男は、またおれの知らない単語を口にする。それがどうにも腹立たしく、おれは自然と自身の拳を握りつぶしていた。
「……もしかして、接触しておいて俺が一体何なのかは知らないってことは無いよな?」
もはや人間とは言い難い容姿だが、一応まだ自我はあるようで、不思議な話だが普通にその辺にいるような幽霊よりは会話が成り立っていた。
男の声は、あえて言うとするなら決して煽っているなどという品のないそれではなかった。確かにおれは、この男がどういった存在なのかはおろか、名前や素性すら知らないのである。その情報が、おれにとってそこまで重要なものであるとは思ってなかったというのも当然ある。それと、あえて言うならもう一つ。
確かにおれは幽霊が視えるし、そういうことに関しては少々お節介なところは否めない。一応、その自覚が全くないわけではない。
「……ずっと、タチの悪い悪霊だと思ってました」
だが、この後に及んでそのタチの悪い悪霊とやらのことを理解したいというほど、おれには慈悲と余裕がないのである。
「まあ……間違ってはいないさ。でも、一緒にするには違いが余りにも大きすぎる」
男は頬に伝う汗と周りの黒いそれ、どちらを気にしているのか、おれのことは余り視界に入れていない。少々苛立っているのか、顔にかかっている靄を手で払う。さっきまで黒く朧気だった顔が、またしても垣間見えた。
「悪霊っていうのはさ、強い残留思念だけで存在してるようなやつらのことを言うだろ? つまり、それが本体の意志であると見せ掛けているだけだ。でも俺は違う。これでも一応意思は持ち合わせている。もっと簡単に言うなら、瞑邪というのは悪霊の上位互換ってところだろうな」
恐らくは、それもそう長くは持たないのだろうが、男はとても悠長だった。本当にこんな人が橋下君を……いや、人は見かけに寄らないとはよく言うし、感覚にばかり頼らないようにより注意を深めた。
逝邪っていうのは知ってる? 男はそう問いかけた。 どうやら、男が持っている固有名詞というのは本当らしい。男の口から逝邪という単語が出てきたことにより、何故か信憑性が異常に上がったのである。確かに少し、聞き馴染みのある語感だとは思っていたが……。
おれは肯定も否定もしなかったが、果たしてそれをどう捉えたのか、男は聞いておきながらまともな説明まではしなかった。
「俺のことも、特別誰だかは知らないんだろ? あいつが言ってたら、これはもう終わってたことだろうし」
なんとなく……と、また感覚的なことになってしまうが、もしかすると橋下君は、全部知っていたのではないかと、このとき初めて思った。この目の前にいる、黒をまとった正体のことも。逝邪というものの他に、瞑邪というものがいるということも。それをおれにほのめかした理由まではまだ分からないが……おれに知ってもらう必要があったのだろう。
「従兄弟なんだよね、俺とキョウは」
そうじゃなければ、おれはきっとまだこの事実を知らないままだったに違いない。
「馬鹿だよなぁ、どいつもこいつも」
今更、俺のことなんてどうだってよかったのにさ。そう男は言った。男の言葉を借りるわけではないが、この時おれは、本当に馬鹿じゃないのかと思った。男が一体誰のことを指して言っているのかは分からないが、本当に馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
理不尽に何かに怒ってやりたいのに、その相手がいない。もしこの場に橋下君がいたら、きっとヘラヘラしならが適当にオレの言葉を躱すんじゃないだろうか。そんな想像が容易いということがどうにも憎らしいのに、その相手がいないのではどうしようもない。それともこんなのは所詮オレの想像で、もしかしたらちゃんと彼の意向を聞けていたのだろうか? 果たしてどちらが正解だったのか、その答えを知る人は、もうどこにもいない。誰も教えてはくれない。
(おれが気付くべきだった……のか?)
誰かに何かを言いたいわけでもなく、決して怒りたいわけではなく、本当は自分一人に憤っている。しかしそれも傲慢だし、本当におれが解決出来るものだったのかは怪しいもんだし、誰かにこの責任を擦り付けてやりたい気持ちでいっぱいだ。
……いやそれも違うかもしれない。分かっている、分かってはいるのだ。これから先、彼らに発せる言葉なんてありはしないというのは、既に理解はしているはずで、おれが今何かに怒ったところでどうにもならないということも知っている。
ただそれを、到底容認できないというだけで。
◇
――酷く散々な人生を送ってきた。そうやって軽快に言えるような性格だったら、まだマシな世界が見えていたのかもしれない。そう思うことが幾度かあった。
大抵の人たちは自分が送ってきた人生の尺度でモノを見ているわけだが、オレの過去を知った人物は、一体どういう感情をオレに持ち合わせるだろうか? それを考えるだけで、胸に何かが溜まっていくような感覚に苛まれて嫌な気持ちになる。だから金輪際思い出すことはないだろうし、思い出したくも無い話である。
……最も、思い出せる頭はもうなくなっているのだから、今後はもうそういったことも起こるはずがないのだが。
オレがまだ小学生の低学年の頃の話だ。母はたいそう素敵な人だったが、父はそれとは真逆で、働いているにも関わらずとにかく金がない人間だった。
それだけならまだしも、母が「お金は渡せない」と口にすると、暴力こそしない人だったが、途端に機嫌が悪くなりモノに当たるような人だった。辛うじてというのが適切かどうかは分からないが、その矛先が人に向かなかったことだけが幸いだったのだろう。あくまでも、マシというだけのことではあるが。
だが、その生活はそう長くは無かった。父が人身事故を起こして死亡したのだ。それは夜中の終電間際のことで、酔っ払った父が踏切を無視して渡ったところに電車がそのまま突っ込んだのである。
どうやら父は、自分の甲斐性のなさをアルコールで発散していたようで、飲み屋でどれほど自分が駄目な男であるかを喋り尽くし、迷惑をかけていること自体は自覚しているようだった。
しかしそれもおかしな話で、つまりは母にせびったそれを酒に使っていたわけだ。迷惑をかけているという自覚があったのか無いのか、それとも中毒と呼ばれるものの所以なのかは専門家ではないから分からないが、結局は酔っ払って人身事故を起こしてしまったのだから、とてもじゃないが同情する気が起きることではなかった。
どちらにしても父の死は、幼いながらに思い描いていたものとはかけ離れていた。あっけなかったのだ。散々迷惑をかけておきながらこうも簡単に死んでしまうのだから、どうせなら人に恨まれない生き方をすればいいのにと、そう思った。
父の葬儀は執り行われなかった。こんなことを言うのもどうかと思うが、父がお金をせびってくるような家庭にそれを出来るお金があるわけがなく、母もそれをするつもりが毛頭なく、オレに至っては亡骸を見ることすらなかった(時を経て知ったが、轢かれたサマは見れたものではなかったらしい)。
警察の調べが終わってから数日後、すぐに火葬するに至った。身内のみで行われたというのもあってか、その身内も両手で数を数えても指が余ってしまうほどだった。
母の旧姓である柳家の人たちは来ていたものの、父側の身内はそう多くはなく、葬儀場と違って火葬場はとても辺鄙なところにあって来るだけで疲れてしまい、正直なんの為にオレが居るのかもよく分からなかった。
いかにも形式的なそれに飽き飽きしたオレは、一旦ロビーに集まってそれが燃やし終わるのを待っている間、気付けば一人外に出ていた。その行動理由は、今でもよく分からない。つまらなかったと言えばそれはそうだし、勝手にやっててくれとも思っていたし……一言でいうのなら面倒臭かったのだ。形式的なことをしている時に投げ出さなかっただけマシだと思う。
そこがどこだかはよく分からなかったが、火葬場の敷地内の庭のような場所だったのだろう。この時はオレだけしかいなかった。それが寂しいかと言われればそうでも無く、どちらかと言うと有り難かった。何故か鼻水が落ちてきそうになり、仕方がなく鼻をすする。喉の奥に違和感が残るのだけが嫌だったが、今はそうするしかなかった。
寒空の下にあてられて思い出したが、そういえば今日は雪が降っていた。何も考えずに上着も着ずに外に出てしまったのを少々悔やんだが、だからといって戻ろうとは思わなかった。
「……なにしてるの?」
恐らくその数分後、一人の人物がオレに声をかけてきたのをよく覚えている。せっかく一人になれそうだったのに、この人物はそれは台無しにしたのだ。
「別に、なにもしてないよ……」
突然現れたとある人物の手には、どういうわけかオレの上着が持たれている。 柳 祥吾(やなぎ しょうご)というオレより三つ上の従兄弟は、オレに頭にその上着を雑に被せた。
「ここじゃ寒いし……戻ろうよ」
「戻ったって、面白くないもん」オレの声はみるみるうちに小さくなっていく。視線も地面に向かい、一体誰に向かって喋っているかもよく分からなかった。
「まあ確かに……面白くはないけどさ」
本当、こんな状況には全く合わない会話であるという自覚はあった。まるで親戚が集まっている中馴染めなくて外に出てきた子供のようだ。まあ似たようなものだが。
冷たい塊が鼻を掠めていく。オレは思わず、被せられた上着を手に取り袖を通した。
「キョウはさ、悲しくないの?」
誰かと喋りたいわけでもないのに、祥吾はそれを許してはくれない。
「分かんない」
分からない、というのはある意味嘘で、本当は悲しいという感情が湧いていないというのが正しいだろう。
淡白で薄情と言われてしまうだろうが、父は散々人に迷惑をかけて勝手に死んでいった。それなのに、外面だけは良かったせいで「好い人だったのにね」と言っているのを近所の人が言っているのが耳に入ったことがある。周りは騙されているということに気付いていないのがどうにもムカついて、その時思わず「なんだそれ……」と口にしてしまった程だ。
祥吾は「そっか」と言うだけで、それ以上のことは聞いてこなかった。何か言われたら文句を口にしてしまいそうだったから、会話が続かなくて安心してしまっていた。
既に始まっていることだが、家に帰っても父はどこにも居ない。母にお金をせびることも、機嫌が悪くなってモノに当たることもしない。家の中はとても静かだ。家の中が平和で嬉しいという感情と、いなくなって悲しいという感情を嘘でも見いだせない自分に呆れており、今もその最中だった。
「じゃあ、俺も暫くここに居よ。別に今すぐ戻らないといけないわけじゃないし。……寒いけど」
ドサリと音を立てて、どういうわけかこの人物は隣に座った。オレの視線に合わせ、こんなことを言う。
「キョウのお父さん、あんまり好い人じゃなかった?」その話は既に終わったと思っていたから、いつも以上に心臓が跳ねたような気がした。
「……分かんない」
いなくなって良かったと思っているにも関わらず、何故かふと、涙が出そうになる時がある。
でももう会わなくていいのかと思うと、清々しい気持ちがあったのは事実だ。
それは余り伝えてはいけない感情であるというのを、幼いながらに分かっている自分も、なんだか嫌だった。
「早く、家帰りたいな……」
「あと二時間後くらいには帰れるよ」
「長いよ……」
その後、この柳 祥吾という人物は、オレを無理矢理連れ戻すでもなく気の利いたことを言うでもなく、ただただ横について座っていた。オレから何かを話すんじゃないかと期待していたのかもしれないが、当時にオレには何か言えるようなことが思いつくはずもなかった。最も、成長した今何かを聞かれても、オレは答えないだろう。
静かに落ちていく雪は、まだ止む気配がない。予報なんて覚えていないが、どうせこの雪もいずれは溶けて消えて無くなってしまうのだろう。頬に落ちてきたそれが、すぐに消えていってしまうのと同じだ。
(なんであんな人の為に、こんなに時間を使わないといけないんだろう……)
あとどれだけの時間、こんな気持ちでいないといけないのだろう。そんなことばかりを考えていた。
◇
どういうわけか、これまで思い出すことなんて殆どなかった昔のことを少しだけ思い出してしまったのは、きっと今の状況が誰にでも起きることではないという特殊下であるからに違いない。
屋上からの景色は、周りを囲う淡い色のせいで、どんなに下を覗いても地面が見えることは無い。恐らくは想像のできないくらいに遠く、果てのない地面には一体何があるのだろうか。例えばオレらの居た世界に辿り着くのか、それとも、もっと最下部にまで堕ちてしまうのか。それを確かめる程の勇気は、今更あるわけがなかった。
何処から吹いているのかも分からない僅かな風に合わせて髪が揺れ動くのは、さながら自分の乱れた心のようで少しだけ煩わしく、今の自分の髪型に恨みを抱いてしまいそうだ。
特に何をするでもなく、タイムアウトと呼ばれている場所の屋上にひとりで居る理由は、単純に自分の部屋に居るのがどうにも躊躇われたからである。赤だけの色にまみれた部屋になんてとてもじゃないけどすっとなんて居られないし、それが自分の魂の色とか言われたら尚更だ。
あんな場所、見ているだけで目がおかしくなってしまうし、それくらいの理由がなければ、こんなところになんてわざわざ足を運ばない。
そういえば、オレは相谷くんに「いつでも来ていいよ」と言ったような気がするけど、もしオレの部屋に訪れていたとするなら、いつでも来ていいよと言ったくせして居ないのかと思われてしまうのだろうか? まあそれはそうなので弁解の余地は無いのだが。
今の彼にその余地があるかは流石に分からないし、この期に及んでどう思われていようが特別なんとも思わないけど、それでも、僅かではあるものの罪悪感というのはつきまとう。そう思うくらいなら、そんなこと言わなければ良かったのに。そんな声が何処からか聞こえてきそうで、オレは苦笑を浮かべた。
『色々と隠してるの、結構お互い様だと思うんですけどね』
本当に、言わなければこんな感情にはならなかったかも知れない。
「……先輩、やっぱり怒ってるかな」
ここには居ない先輩のことだから、きっとオレのことを怒ってるんじゃないだろうか。怒る相手がいなくて、悶々として。でもそれを誰かにいうことはきっとしない。
ああいや、もしかしたらあの人になら言うのかもしれないな。そんなことを考えていると、自然と頬が緩む。但しそれは、どうやっても苦笑いの類いだ。
「やっぱり、敵わないや」
想像すればするほど虚に溺れるだけなのに、どういう訳か止まることは無い思考に、言葉をもって無理矢理終止符を打つ。ああ本当に、面倒な記憶なんて持ってくるからこういうことになるんだ。面倒な記憶というよりも、それを起こした自身ごとさっさと消えてしまえば良かったのに、どうもそう簡単にはいかないようだ。
死んでも尚、不条理を味わうとは思わなかったし、かつ知り合いに会うなんて普通は思わないだろう。話の中ではそういうこともあるだろうが、現実にそんなことが起きると信じていないオレのような人間からしてみたら、今の状況はとても煩わしかった。
特に、神崎先輩がここにいるというのは本当によく分からなかった。本来ここに縁なんてない人だろうに、こんなところに来てしまうだなんてと不憫に感じた。事故にあったというのは聞いたし、どういう経緯でそういうことが起きたのかという見解も聞いたけど、実際にそれを見ていないオレからしてみれば、そんなことを言われたところで信用するというほうが難しい。
だが、先輩がこんなところに来られるというのは、なんというか……先輩ならそれもあるかもしれないと、どういうわけか思ってしまう自分もいた。
支配人とかいう人は「ごく稀にそういうことも起こる」とは言っていたけど、それってつまり確率としてはかなり低いということで、普段ならあり得ないことなのだろう。
「……考えたところで今更か」
何度も何度も、本当に飽きもせず似たようなことを考えては打ち消して。誰にも会いたくないからって、わざわざこんなところに足を運んで。
見上げると視界に入る、空に浮かんでいるのは恐らくは雲なのだろうけど、とにかく淡くいろんな色に染まっているのがよく分かる。果たして、オレの本当の色はどこにあるのだろう。そう思ってしまうほどに、だ。
魂の色がどうとか、部屋の色がそれを現しているんだとか、果たしてどこまでが本当なのだろう。こういう異端的な場所に来れば、そう簡単には信じられないというものだが、こういう場所だからこそ嘘は落ちてはいないのだろうか? ……まあどちらにしても、オレには関係のないことなのだが。
「早く終わらないかなぁ、こんな時間」
ここに来るまでの道を思い返すかのように、手すりに寄りかかりそのまま地面へと体重を落としていく。その時ふと一瞬見えた、色のついていない景観。あの時、相谷君と出会った時の空は、果たして何色だっただろう。青かったというのは分かる。それは当然だ。でも、オレの言いたいことはそういうことじゃない。
オレの思い描くあの景色が、果たして本当に正しいのかという答えが知りたいのだ。この場所において、それが分からないのが何とももどかしいと思える程に、オレは――。
「……案内人さんが言ってた意味、何となく分かったかも」
オレは恐らく、優しく香る春の陽気が好きだったのかもしれない。
地面には黒い霧のようなものが這いつくばっており、足に何かがまとわりついているような、生ぬるい感覚が身体に伝ってくる。気を確かに持たないと、簡単に何かに意識を持っていかれそうな、そんな感覚さえも覚えてしまう。これが初めてではないはずなのに、不思議とそんなことを思った。
目の前にいる男の身体は、段々と黒いそれをまとっている体積が増えていく。身体の左半分は、既にどうなっていたかよく思い出せないほどだ。
もし、今この瞬間に通りすがりの人物や近所の住人に見つかってしまえば、一体何をしているのかと思われるのは明白だが、不思議なことにそれは一度も起こらなかった。まるで誰かが人払いをしているかのような、そんな気色悪さを感じるほどである。
それくらいこの公園は静かで、おれすらも本当はいないのではないかと錯覚してしまう。しかし、それは所詮この男が取り巻く気におれが感化されてしまっているだけに過ぎないはずだ。
「……消えるのは勝手だけど、どうせなら教えてくださいよ」
ここでおれが言う消えるというのは、自我が消えることを意味している。完全に実体が消えてしまうというのもあるのだが、それならそれで勝手に自滅してしまえば良いと思ってしまうのだ。
なるべく平常心を保てるように、おれは一度つばを飲んだ。例えばそれが悪手だったとしても、おれはここで騒ぎ立てたり激高することはなるべくしたくない。
話の通じるかどうかもよく分からない相手にそれはナンセンスだし、何よりもおれの性格上それはとても難しい。
「本当に、あなたが橋下君を殺したんですか?」
こんなこと、本当は口にしたくないのだが……。
例え目の前に居るのが知り合いを殺した人物だとしても、おれがおれである為には、感情を殺さないといけないときもあるだろう。この感情の類は、探偵が自身の知り合いを殺された時のそれに近いのかもしれない。最も、そんな格好良い物ではないが。
「……同じこと何度も聞かないでよ。面倒くさい」
少々苛立ちながら、目の前の誰かはそう言った。同じことを何度も、と言われるほど口にはしていないはずだが、本当にと最初に付け加えたことで、恐らくそういう風に聞こえてしまったのだろう。それとも、過去にそうやって言われたことが既にあったのだろうか? どちらにしても、この男とは初対面のおれにとって、そんなことはどちらでも構わなかった。
「そうじゃなきゃ、死んでもなお俺はこんな形で存在してない」
だが、この男のその台詞は聞き捨てならないものである。
「瞑邪(めいじゃ)っていうのは、そういうモノだ」
名前すら知らない目の前の男は、またおれの知らない単語を口にする。それがどうにも腹立たしく、おれは自然と自身の拳を握りつぶしていた。
「……もしかして、接触しておいて俺が一体何なのかは知らないってことは無いよな?」
もはや人間とは言い難い容姿だが、一応まだ自我はあるようで、不思議な話だが普通にその辺にいるような幽霊よりは会話が成り立っていた。
男の声は、あえて言うとするなら決して煽っているなどという品のないそれではなかった。確かにおれは、この男がどういった存在なのかはおろか、名前や素性すら知らないのである。その情報が、おれにとってそこまで重要なものであるとは思ってなかったというのも当然ある。それと、あえて言うならもう一つ。
確かにおれは幽霊が視えるし、そういうことに関しては少々お節介なところは否めない。一応、その自覚が全くないわけではない。
「……ずっと、タチの悪い悪霊だと思ってました」
だが、この後に及んでそのタチの悪い悪霊とやらのことを理解したいというほど、おれには慈悲と余裕がないのである。
「まあ……間違ってはいないさ。でも、一緒にするには違いが余りにも大きすぎる」
男は頬に伝う汗と周りの黒いそれ、どちらを気にしているのか、おれのことは余り視界に入れていない。少々苛立っているのか、顔にかかっている靄を手で払う。さっきまで黒く朧気だった顔が、またしても垣間見えた。
「悪霊っていうのはさ、強い残留思念だけで存在してるようなやつらのことを言うだろ? つまり、それが本体の意志であると見せ掛けているだけだ。でも俺は違う。これでも一応意思は持ち合わせている。もっと簡単に言うなら、瞑邪というのは悪霊の上位互換ってところだろうな」
恐らくは、それもそう長くは持たないのだろうが、男はとても悠長だった。本当にこんな人が橋下君を……いや、人は見かけに寄らないとはよく言うし、感覚にばかり頼らないようにより注意を深めた。
逝邪っていうのは知ってる? 男はそう問いかけた。 どうやら、男が持っている固有名詞というのは本当らしい。男の口から逝邪という単語が出てきたことにより、何故か信憑性が異常に上がったのである。確かに少し、聞き馴染みのある語感だとは思っていたが……。
おれは肯定も否定もしなかったが、果たしてそれをどう捉えたのか、男は聞いておきながらまともな説明まではしなかった。
「俺のことも、特別誰だかは知らないんだろ? あいつが言ってたら、これはもう終わってたことだろうし」
なんとなく……と、また感覚的なことになってしまうが、もしかすると橋下君は、全部知っていたのではないかと、このとき初めて思った。この目の前にいる、黒をまとった正体のことも。逝邪というものの他に、瞑邪というものがいるということも。それをおれにほのめかした理由まではまだ分からないが……おれに知ってもらう必要があったのだろう。
「従兄弟なんだよね、俺とキョウは」
そうじゃなければ、おれはきっとまだこの事実を知らないままだったに違いない。
「馬鹿だよなぁ、どいつもこいつも」
今更、俺のことなんてどうだってよかったのにさ。そう男は言った。男の言葉を借りるわけではないが、この時おれは、本当に馬鹿じゃないのかと思った。男が一体誰のことを指して言っているのかは分からないが、本当に馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
理不尽に何かに怒ってやりたいのに、その相手がいない。もしこの場に橋下君がいたら、きっとヘラヘラしならが適当にオレの言葉を躱すんじゃないだろうか。そんな想像が容易いということがどうにも憎らしいのに、その相手がいないのではどうしようもない。それともこんなのは所詮オレの想像で、もしかしたらちゃんと彼の意向を聞けていたのだろうか? 果たしてどちらが正解だったのか、その答えを知る人は、もうどこにもいない。誰も教えてはくれない。
(おれが気付くべきだった……のか?)
誰かに何かを言いたいわけでもなく、決して怒りたいわけではなく、本当は自分一人に憤っている。しかしそれも傲慢だし、本当におれが解決出来るものだったのかは怪しいもんだし、誰かにこの責任を擦り付けてやりたい気持ちでいっぱいだ。
……いやそれも違うかもしれない。分かっている、分かってはいるのだ。これから先、彼らに発せる言葉なんてありはしないというのは、既に理解はしているはずで、おれが今何かに怒ったところでどうにもならないということも知っている。
ただそれを、到底容認できないというだけで。
◇
――酷く散々な人生を送ってきた。そうやって軽快に言えるような性格だったら、まだマシな世界が見えていたのかもしれない。そう思うことが幾度かあった。
大抵の人たちは自分が送ってきた人生の尺度でモノを見ているわけだが、オレの過去を知った人物は、一体どういう感情をオレに持ち合わせるだろうか? それを考えるだけで、胸に何かが溜まっていくような感覚に苛まれて嫌な気持ちになる。だから金輪際思い出すことはないだろうし、思い出したくも無い話である。
……最も、思い出せる頭はもうなくなっているのだから、今後はもうそういったことも起こるはずがないのだが。
オレがまだ小学生の低学年の頃の話だ。母はたいそう素敵な人だったが、父はそれとは真逆で、働いているにも関わらずとにかく金がない人間だった。
それだけならまだしも、母が「お金は渡せない」と口にすると、暴力こそしない人だったが、途端に機嫌が悪くなりモノに当たるような人だった。辛うじてというのが適切かどうかは分からないが、その矛先が人に向かなかったことだけが幸いだったのだろう。あくまでも、マシというだけのことではあるが。
だが、その生活はそう長くは無かった。父が人身事故を起こして死亡したのだ。それは夜中の終電間際のことで、酔っ払った父が踏切を無視して渡ったところに電車がそのまま突っ込んだのである。
どうやら父は、自分の甲斐性のなさをアルコールで発散していたようで、飲み屋でどれほど自分が駄目な男であるかを喋り尽くし、迷惑をかけていること自体は自覚しているようだった。
しかしそれもおかしな話で、つまりは母にせびったそれを酒に使っていたわけだ。迷惑をかけているという自覚があったのか無いのか、それとも中毒と呼ばれるものの所以なのかは専門家ではないから分からないが、結局は酔っ払って人身事故を起こしてしまったのだから、とてもじゃないが同情する気が起きることではなかった。
どちらにしても父の死は、幼いながらに思い描いていたものとはかけ離れていた。あっけなかったのだ。散々迷惑をかけておきながらこうも簡単に死んでしまうのだから、どうせなら人に恨まれない生き方をすればいいのにと、そう思った。
父の葬儀は執り行われなかった。こんなことを言うのもどうかと思うが、父がお金をせびってくるような家庭にそれを出来るお金があるわけがなく、母もそれをするつもりが毛頭なく、オレに至っては亡骸を見ることすらなかった(時を経て知ったが、轢かれたサマは見れたものではなかったらしい)。
警察の調べが終わってから数日後、すぐに火葬するに至った。身内のみで行われたというのもあってか、その身内も両手で数を数えても指が余ってしまうほどだった。
母の旧姓である柳家の人たちは来ていたものの、父側の身内はそう多くはなく、葬儀場と違って火葬場はとても辺鄙なところにあって来るだけで疲れてしまい、正直なんの為にオレが居るのかもよく分からなかった。
いかにも形式的なそれに飽き飽きしたオレは、一旦ロビーに集まってそれが燃やし終わるのを待っている間、気付けば一人外に出ていた。その行動理由は、今でもよく分からない。つまらなかったと言えばそれはそうだし、勝手にやっててくれとも思っていたし……一言でいうのなら面倒臭かったのだ。形式的なことをしている時に投げ出さなかっただけマシだと思う。
そこがどこだかはよく分からなかったが、火葬場の敷地内の庭のような場所だったのだろう。この時はオレだけしかいなかった。それが寂しいかと言われればそうでも無く、どちらかと言うと有り難かった。何故か鼻水が落ちてきそうになり、仕方がなく鼻をすする。喉の奥に違和感が残るのだけが嫌だったが、今はそうするしかなかった。
寒空の下にあてられて思い出したが、そういえば今日は雪が降っていた。何も考えずに上着も着ずに外に出てしまったのを少々悔やんだが、だからといって戻ろうとは思わなかった。
「……なにしてるの?」
恐らくその数分後、一人の人物がオレに声をかけてきたのをよく覚えている。せっかく一人になれそうだったのに、この人物はそれは台無しにしたのだ。
「別に、なにもしてないよ……」
突然現れたとある人物の手には、どういうわけかオレの上着が持たれている。 柳 祥吾(やなぎ しょうご)というオレより三つ上の従兄弟は、オレに頭にその上着を雑に被せた。
「ここじゃ寒いし……戻ろうよ」
「戻ったって、面白くないもん」オレの声はみるみるうちに小さくなっていく。視線も地面に向かい、一体誰に向かって喋っているかもよく分からなかった。
「まあ確かに……面白くはないけどさ」
本当、こんな状況には全く合わない会話であるという自覚はあった。まるで親戚が集まっている中馴染めなくて外に出てきた子供のようだ。まあ似たようなものだが。
冷たい塊が鼻を掠めていく。オレは思わず、被せられた上着を手に取り袖を通した。
「キョウはさ、悲しくないの?」
誰かと喋りたいわけでもないのに、祥吾はそれを許してはくれない。
「分かんない」
分からない、というのはある意味嘘で、本当は悲しいという感情が湧いていないというのが正しいだろう。
淡白で薄情と言われてしまうだろうが、父は散々人に迷惑をかけて勝手に死んでいった。それなのに、外面だけは良かったせいで「好い人だったのにね」と言っているのを近所の人が言っているのが耳に入ったことがある。周りは騙されているということに気付いていないのがどうにもムカついて、その時思わず「なんだそれ……」と口にしてしまった程だ。
祥吾は「そっか」と言うだけで、それ以上のことは聞いてこなかった。何か言われたら文句を口にしてしまいそうだったから、会話が続かなくて安心してしまっていた。
既に始まっていることだが、家に帰っても父はどこにも居ない。母にお金をせびることも、機嫌が悪くなってモノに当たることもしない。家の中はとても静かだ。家の中が平和で嬉しいという感情と、いなくなって悲しいという感情を嘘でも見いだせない自分に呆れており、今もその最中だった。
「じゃあ、俺も暫くここに居よ。別に今すぐ戻らないといけないわけじゃないし。……寒いけど」
ドサリと音を立てて、どういうわけかこの人物は隣に座った。オレの視線に合わせ、こんなことを言う。
「キョウのお父さん、あんまり好い人じゃなかった?」その話は既に終わったと思っていたから、いつも以上に心臓が跳ねたような気がした。
「……分かんない」
いなくなって良かったと思っているにも関わらず、何故かふと、涙が出そうになる時がある。
でももう会わなくていいのかと思うと、清々しい気持ちがあったのは事実だ。
それは余り伝えてはいけない感情であるというのを、幼いながらに分かっている自分も、なんだか嫌だった。
「早く、家帰りたいな……」
「あと二時間後くらいには帰れるよ」
「長いよ……」
その後、この柳 祥吾という人物は、オレを無理矢理連れ戻すでもなく気の利いたことを言うでもなく、ただただ横について座っていた。オレから何かを話すんじゃないかと期待していたのかもしれないが、当時にオレには何か言えるようなことが思いつくはずもなかった。最も、成長した今何かを聞かれても、オレは答えないだろう。
静かに落ちていく雪は、まだ止む気配がない。予報なんて覚えていないが、どうせこの雪もいずれは溶けて消えて無くなってしまうのだろう。頬に落ちてきたそれが、すぐに消えていってしまうのと同じだ。
(なんであんな人の為に、こんなに時間を使わないといけないんだろう……)
あとどれだけの時間、こんな気持ちでいないといけないのだろう。そんなことばかりを考えていた。
◇
どういうわけか、これまで思い出すことなんて殆どなかった昔のことを少しだけ思い出してしまったのは、きっと今の状況が誰にでも起きることではないという特殊下であるからに違いない。
屋上からの景色は、周りを囲う淡い色のせいで、どんなに下を覗いても地面が見えることは無い。恐らくは想像のできないくらいに遠く、果てのない地面には一体何があるのだろうか。例えばオレらの居た世界に辿り着くのか、それとも、もっと最下部にまで堕ちてしまうのか。それを確かめる程の勇気は、今更あるわけがなかった。
何処から吹いているのかも分からない僅かな風に合わせて髪が揺れ動くのは、さながら自分の乱れた心のようで少しだけ煩わしく、今の自分の髪型に恨みを抱いてしまいそうだ。
特に何をするでもなく、タイムアウトと呼ばれている場所の屋上にひとりで居る理由は、単純に自分の部屋に居るのがどうにも躊躇われたからである。赤だけの色にまみれた部屋になんてとてもじゃないけどすっとなんて居られないし、それが自分の魂の色とか言われたら尚更だ。
あんな場所、見ているだけで目がおかしくなってしまうし、それくらいの理由がなければ、こんなところになんてわざわざ足を運ばない。
そういえば、オレは相谷くんに「いつでも来ていいよ」と言ったような気がするけど、もしオレの部屋に訪れていたとするなら、いつでも来ていいよと言ったくせして居ないのかと思われてしまうのだろうか? まあそれはそうなので弁解の余地は無いのだが。
今の彼にその余地があるかは流石に分からないし、この期に及んでどう思われていようが特別なんとも思わないけど、それでも、僅かではあるものの罪悪感というのはつきまとう。そう思うくらいなら、そんなこと言わなければ良かったのに。そんな声が何処からか聞こえてきそうで、オレは苦笑を浮かべた。
『色々と隠してるの、結構お互い様だと思うんですけどね』
本当に、言わなければこんな感情にはならなかったかも知れない。
「……先輩、やっぱり怒ってるかな」
ここには居ない先輩のことだから、きっとオレのことを怒ってるんじゃないだろうか。怒る相手がいなくて、悶々として。でもそれを誰かにいうことはきっとしない。
ああいや、もしかしたらあの人になら言うのかもしれないな。そんなことを考えていると、自然と頬が緩む。但しそれは、どうやっても苦笑いの類いだ。
「やっぱり、敵わないや」
想像すればするほど虚に溺れるだけなのに、どういう訳か止まることは無い思考に、言葉をもって無理矢理終止符を打つ。ああ本当に、面倒な記憶なんて持ってくるからこういうことになるんだ。面倒な記憶というよりも、それを起こした自身ごとさっさと消えてしまえば良かったのに、どうもそう簡単にはいかないようだ。
死んでも尚、不条理を味わうとは思わなかったし、かつ知り合いに会うなんて普通は思わないだろう。話の中ではそういうこともあるだろうが、現実にそんなことが起きると信じていないオレのような人間からしてみたら、今の状況はとても煩わしかった。
特に、神崎先輩がここにいるというのは本当によく分からなかった。本来ここに縁なんてない人だろうに、こんなところに来てしまうだなんてと不憫に感じた。事故にあったというのは聞いたし、どういう経緯でそういうことが起きたのかという見解も聞いたけど、実際にそれを見ていないオレからしてみれば、そんなことを言われたところで信用するというほうが難しい。
だが、先輩がこんなところに来られるというのは、なんというか……先輩ならそれもあるかもしれないと、どういうわけか思ってしまう自分もいた。
支配人とかいう人は「ごく稀にそういうことも起こる」とは言っていたけど、それってつまり確率としてはかなり低いということで、普段ならあり得ないことなのだろう。
「……考えたところで今更か」
何度も何度も、本当に飽きもせず似たようなことを考えては打ち消して。誰にも会いたくないからって、わざわざこんなところに足を運んで。
見上げると視界に入る、空に浮かんでいるのは恐らくは雲なのだろうけど、とにかく淡くいろんな色に染まっているのがよく分かる。果たして、オレの本当の色はどこにあるのだろう。そう思ってしまうほどに、だ。
魂の色がどうとか、部屋の色がそれを現しているんだとか、果たしてどこまでが本当なのだろう。こういう異端的な場所に来れば、そう簡単には信じられないというものだが、こういう場所だからこそ嘘は落ちてはいないのだろうか? ……まあどちらにしても、オレには関係のないことなのだが。
「早く終わらないかなぁ、こんな時間」
ここに来るまでの道を思い返すかのように、手すりに寄りかかりそのまま地面へと体重を落としていく。その時ふと一瞬見えた、色のついていない景観。あの時、相谷君と出会った時の空は、果たして何色だっただろう。青かったというのは分かる。それは当然だ。でも、オレの言いたいことはそういうことじゃない。
オレの思い描くあの景色が、果たして本当に正しいのかという答えが知りたいのだ。この場所において、それが分からないのが何とももどかしいと思える程に、オレは――。
「……案内人さんが言ってた意味、何となく分かったかも」
オレは恐らく、優しく香る春の陽気が好きだったのかもしれない。