夕暮れの帰り道は、まだ夏の気配があった。学校が終わってから一時間ほど時間が経ったというのにまだ日は落ちていないし、秋の気配はまだ感じ取ることが出来ない。どうせなら早く涼しくなればいいのに、いつまでも夏が入り浸っているようなこの感覚が、僕は少々苦手だった。
通り過ぎていく人々の声や雑音は、僕の耳には入らない。イヤホンをしているから当然といえば当然だが、味気なく日々が過ぎていくことの象徴のような気がしてならなかった。そしてそれは間違ってはいないのだろう。一緒に帰るような人物がいるのなら別にイヤホンをする必要もないだろうし、もしかすると音楽プレイヤーなんてものは持ち歩いていないかもしれない。元々僕はそれを望んでいたし、今でもそれで良いと確かに思っている。しかしどうにも、今の僕は中途半端だ。
最初は橋下さんに連れられて嫌々図書室に行っていたのに、いつからかそうではなく、自ら足を運ぶことが増えた。一体いつからそうなってしまったのかという明確な線引きは、恐らくないだろう。それくらい、ゆっくり浸透してしまっていたのだ。
その過程のことなのか、それとも浸透しきってしまった後のことなのか、宇栄原さんに勉強を教わるという挙行が起きた。何故そんなことになったのかとしらばっくれることが出来ればよかったのかもしれないが、その浸透してしまった日常に一石投じたのは、紛れもなく僕自身であることは紛れもない事実だ。
(……何やってるんだろう)
夏休みが間に入ったからなのか、それとも何か別の要因があったのか、少々冷静になりすぎてしまっているというのはどこかで理解はしていた。しかしだからといって、それを止められる術があるわけでもなく、一気に感情の波が消え途端に足の動きが止まった。まるで最初からそうであったかのような錯覚さえ覚えたが、そこに特別疑問を抱くことはなかった。
……どうにも嫌な気持ちが、沸々と頭を飽和して止まらない。
自分の特殊な状況にかまけて、僕はあの人たちを利用していたのではないだろうか? 否、紛れもなくしていたのだろう。そうじゃなければ、僕はあの時勉強を教えてくれだなんて言わなかったし、噂について聞かれることだってなかったはずだ。
足を止めると、ズボンのポケットから布ではないものが当たってくるのがよく分かる。普段はそれに触れることはないのに、思わず指先を入れそれを確認してしまう。恐らくはポケットの中で擦れている音がしているのだろうが、イヤホン越しではその音は入ってはこない。紙切れと呼ぶには立派な紙質のそれに書いてある文字を、僕は淡々と口にした。
「村田さん……」
入っているのは、村田さんの名刺だ。
どうしてわざわざ制服のズボンのポケットに入れているのかと聞かれたら、答えるのは相当難しい。単純に村田さんが警察だから何かあった時のためであるというのが理由だとしても、別にポケットに入れておく必要はないはずである。
(今更連絡しても……)
別に事件も事故も起きていないのに、この名刺に載っている番号にかけるというのは中々に胆力が必要である。その証拠というわけではないが、高校生活が始まってからというもの、村田さんにはまだ一度も会っていない。勿論、警察になんて会わない方がいいというのはその通りなのだが……。
(……なんか、嫌だな)
流されているのではなく、全ては自分の行動に所以しているということに気づいてしまうと、そこから落ちていくのは比較的早かった。
今の僕には、音楽プレーヤーから流れている曲も聞こえていない。
◇
授業が終わりを告げるチャイムが鳴り響くと同時に、僕はすぐに机に広がっているノートや筆記道具を片付けた。教室に長居する理由は最初からないし別に当然の行為だが、問題はその後のことである。しかし僕の中では、どうするかなんていうのは既に決まっているも同然だった。
どういうわけか、僕はまた一人の放課後の時間が続いた。と言っても、授業が終わればすぐに教室を出て家に帰っているだけなのだが、その時間がどうも、ここ最近の僕にとって居心地がよかったのである。今日もまた、特に意味もなくただ学校に行くだけで一日が終わろうとしていた。
そもそも、これまでがおかしかったのだ。用もないのに空気に流されて図書室に足を運んでいたのが間違いだったのである。それが無くなり、至極当然な流れが生まれただけに過ぎないだろう。それ以上のことは、元から望んでいない。そう、望んでいなかったのだ。
「相谷くんいる!?」
後ろから、聞き覚えのある声がする。その声に僕は特別驚きはしなかった。振り向かなくても誰が僕のことを呼んだのかはすぐに分かったが、条件反射と言えばいいのか、気付けば既に後ろを振り向いていた。
「ま、間に合った……」
息を切らしながら突如教室に現れたのは、紛れもなく橋下さんそのものだった。
「な、なんですか……?」
「なんですかっていうか……いや疲れた……」
恐らく、橋下さんは本当に急いで僕の教室にまで来たのだろう。二階から三階にまで上がってきたのだから、当然といえば当然かも知れないが、それにしてはかなり大げさに息を切らしていた。そのお陰で、橋下さんが再び声を発するのには僅かに時間が必要だった。
「最近顔見ないから、昨日も教室来たんだけどその時にはもう居なくてさ。だから今日は昨日よりも急いで来たんだよね」
なんのお構いなしに笑い向けてくるその人が、僕はやはり苦手だったのかもしれない。わざわざ体力を使ってまで僕のもとに訪れる理由が、どんなに考えてもよく分からなかったのだ。
「何かあったの?」
「そういうわけじゃないですけど……」
恐らく深い意味はないのだろう。純粋に、そして単純に、来ないのには何か理由があるんじゃないのかという確認だったはずだ。
「少し、昔のことを思い出しただけです」
「昔のこと……?」
こんな質問、適当にあしらうか答えないなどとすればよかったのに、僕はそれをしなかった。純粋な眼差しを前に適当に言ってしまうのは、少し憚られるものがあったのだ。
橋下さんは、僕の言葉に軒並み疑問符をつけた。橋下さんにとっては分からないことだらけなのだろうからそれはそうなのだろうが、言ってしまえば、正直僕にもよく分からないのである。
「今日も来ないの?」
こうして、橋下さんがわざわざ僕の教室に足を運んでくる理由も分からない。
「……行っても、しょうがないじゃないですか」
否、分かりたくなかったのだ。
「どうして……?」
こんな気の落ちた橋下さんの声を聞くのは、もしかしたらはじめてだったかも知れない。
「し、失礼しますっ……!」
それに気づくよりも前に、僕は机の上に置かれっぱなしの荷物を慌てて手に取り、それ以上橋下さんのことを見ることもせず、すぐさま席を離れた。そんなことをしても追いかけられてしまうのではないかという気がしたが、それは行きすぎた心配だったようである。すぐに下駄箱まではたどり着いたのだ。
(あの人、なんで僕のこと……)
まるで悪いことでもしているかのような居心地の悪さと、心臓の動く早さが比例しているようだった。
意図していなくても浮かんでしまう、さっきの橋下さんの表情を振り切らんとばかりに、僕は頭を振った。周りのことなんて気にすることはなく、そのまま自分の靴が入っている場所まで向かい、さっさと靴を履き替えて校舎を出た。その間、僕は後ろを振り向くことはしない。なるべく無駄な行動はせず、さっさと学校を出てしまいたかったのだ。
(……もしかしたら、変なこと言ったかも)
足早に校門を出てから、ほんの少し落ち着きを取り戻しつつあったのだろう。少々冷静さを取り戻したお陰で生まれた感情は、ほんの少しの後悔だった。口から出てしまったことはもうどうにもならないが、あれではまるで本当は構って欲しい人みたいである。
同じ制服を着ている人は既にそう多くなく、周りを見た範囲では両手で数えても指が余るくらいだろう。
「――待って!」校門を出て数分も経っていないくらいだろうか? 誰かが、声を上げているのがよく耳に入った。その声が少しした後、僕の左腕が捕まった。学校を出て初めて、僕は後ろを振り向いたのである。
「置いてかないで」
この時の橋下さんはやけに真剣で、まるで僕が本当に橋下さんを置いて行ってしまっていたかのような、そんな感覚に陥った。あながち間違いではないと思うのだが、それよりも今までとどこか様子の違う橋下さんに、僕はおもわず首を傾げていた。
「あーいや、うん……なんて言うか……」
何かを言いたげに、しかし出来れば何も言いたくないというような、中途半端に言葉を濁しながら、橋下さんは続く言葉を探しているらしい。
「……きっと、これがオレじゃなくて先輩達だったら逃げてないんだよね」
その言葉は、どういうわけか清々しいくらいに僕の耳に入っていった。
「そ、そんなこと……」
「いいのいいの、そういうのが聞きたいんじゃなくてさ」
僕が何かを言おうとすると、橋下さんはすぐさま言葉を被せていく。一体何がこの人をそうさせているのか、僕には全く分からない。
「やっぱり、迷惑だった?」
何故なら、僕は橋下さんのことを何も解っていなかったからだ。
困ったように眉を曲げ、しかしいつまでもこうして笑みを繕ったまま口にした橋下さんの言葉を前に、僕はみるみるうちに不機嫌になった。その様は、最初から僕にそう言わせたいが為だけの言動に見えたのである。
「な、なんで……」
しかし僕は、これまでで一度も迷惑だなんてことは口にしたことはない。
「なんで橋下さんがそんなこと言うんですか……っ!」
それなのに、橋下さんにそんなことを言われてしまってはどうにも堪らなかった。気付けば僕は、橋下さんの手を簡単に振りほどいて背を向けて走り出してしまっていた。この時、あの人がどういう顔をしていたのかは分からない。もし、これ程にもないくらいに見たことのない顔をしていたとするなら、尚更後ろなんてもう金輪際見たくなかった。
恐らくは、今度こそ本当に橋下さんが追ってくることはないだろう。僕だったら、もう二度と今までと同じように接することは出来ないだろうし、なんなら今日を境に会うこともなくなってしまうはずだ。その証拠に、この橋下さんとのやり取りが、僕が僕として存在している時間の中の一番最後の出来事である。
◇
無機質に揺れる僕の身体は、いつにも増して微睡んでいた。
バスの中は空気が籠るからなのか、もう九月も終わりに近づいているというのに節操なく冷房が効いている。人の行きかうバスの中、たまに外の空気が流れてくるのがちょうど良かった。
僕が向かっている先は、今僕が住んでいる伯父さんの家ではない。しかし、一体どこに向かっているのかと問われたら、僕は口を閉ざすだろう。通学でバスは確かに使っているのだが、今日はいつもとは行き先の違うバスに乗っているのである。
余り聞き馴染みのないバス停の名前を、一番後ろの席で長し聞きしているうちに、段々ともう見たことのない景観に変わっていくのが分かる。かなりの数のバス停留所を通りすぎたが、まだ目的地には程遠い。
(……眠くなってきたな)
学校の帰り、こうして家に帰らず一人で寄り道をするということがあっただろうか? 思い返してみる必要は余りなく、特別用がなければすぐに帰宅していたし、帰り際に誰かと一緒にどこかに行くということはしたことがない。全く、高校生にもなってつまらない時間を過ごしてしまっていたものだ。と言っても、それが本当に全くそういうことがなかったかと言えばそうでもないのだが、何もなかったと結論をつけてしまいたくて仕方がなかったのである。
出来ることならこれまでのことを全部忘れてしまえればいいのにと、手にしていた音楽プレイヤーを思わず強く握りつぶしてしまいたくなった。
揺れる身体に意識を向けすぎたのか、僕は知らない間に眠り呆けてしまっていたようで、気付けばバスの停留所も残り三つほどになってしまっていた。最初は行きすぎてしまったかと焦ったが、窓の外の景観は概ね見たことのある街並みに変わっていたということが、僕の心を僅かに落ち着かせた。見たことがあると言っても、ここ半年ほどは目にしていない。実に、久しぶりという言葉が相応しいだろう。
次に停まるバス停の名前が、バスの中に轟いた。唯一、僕が乗っているこのバスの行き先の中で知っている名前である。そのバス停の名前が繰り返されるよりも前に、僕は席の近くの停車ボタンを押した。終点近くだからなのか人はバスに乗っている人は数えられる程度で、どうやらここで降りるのは僕だけのようだった。
バスが停留所に停まったのを確認して、長かった道のりも終わりを告げた。もう夕方の色がつき始めているくらいに、町並みはオレンジに染まっている。夏が終わり、秋の始まりを予見しているようなそんな感覚だ。
地に足を付けてから、僕は思わず辺りを見回した。そこから見える景色は、あの頃とはさほど変化はない。実は変わっていると言われても、例えば簡単な間違い探しのように、劇的に変わった場所は恐らくはないのだろう。それくらい、僕の記憶の景色と合致していたのである。
今僕が居る場所は、伯父さんの家に来る前、つまり約一年ほど前まで住んでいた街だ。数十年住んでいたこの街は、ごくごく当然のように佇んでいる。一家ひとつ無くなったくらいではびくともしないだろうから、当然と言えば当然だ。しかしそれがどういうわけか少し寂しく、まるで僕を置いてけぼりにして何処かに行ってしまったかのような気持ちに晒された。置いていったのは、僕のほうだというのに。
日が完全に暮れてしまう前にと、僕は徐に足を動かした。目的地までは、ここからだと確か十分を超えるだろう。その道中、僕は何かを考えているようで考えてはいなかった。
(……そうだ、おばさんには連絡しておかないと)
今日僕は、誰に何をいうでもなくここに赴いた。身体が勝手に動いた、とでも言えば聞こえはいいだろうが、しかしその実、ただ単純に一人になりたかっただけなのだろう。何かを考えたいとかそういうことではなく、何もかもが最初からになってしまったかのような喪失感が、逆に僕を動かしたのだ。
(学校、やけに騒がしかったな……)
ここ数日のことだ。学校が騒がしいというのはいつものことだが、それにしてはいつもとは様子が違ったのである。生徒は何か厭らしい話題を話すかのように声量を落とし集まってひそひそと話をしていたし、先生もやけに廊下を行き来していた。その矛先はどうやら僕ではないらしいということと、何か大きなことがあったらしいということは分かったのだが、しかし僕には、何一つとしてその原因は分かっていない。授業以外はおおかたイヤホンを耳に入れている人物のなれの果てがこれである。どうせ話しかけてくる人はいないし、誰かと話したところでどうせろくなことはない。それは僕が一番よく分かっていたし、一学期からそうなのだからもうどうすることも出来なかった。
(また、ひとりか……)
しかし、一学期とは違う状況は既に起きている。
(……橋下さん、怒ってるかな)
怒っている、というのとはまた違うのかもしれないが、もうそう簡単に会える雰囲気でもないだろう。宇栄原さんや神崎さんはその限りではないだろうが、それにしても図書室にまで足を運ぶには至れない。図書室に行くようになったのも、行かないようになったのも、きっかけはいつも橋下さんだ。
(あれじゃ、ただの八つ当たりだし……)
あの時の橋下さんは、僕をどうしたかったのだろう? 例えば、無理矢理図書室に連れて行ってやろうということではなかっただろうし、ましてや何かを聞き出そうという感じでもなかったのではないだろうか?
例えば、来なくなった僕のことを心配していたと考えることもできるだろうが、それは余りにも思い上がりすぎていることだと解釈し、できれば余り考えたくない。そんなことはあるはずがないのである。
(でも……)
あの時は、というよりは、僕は今もこれからもああいう言い方しか出来ないだろう。それに、自分でもよく分かっていないのに、これ以上誰かに何かを言うなんてことは僕には出来なかった。そうなってしまう原因が分かれば少しくらいは何かが変わるかもしれないし、こんな気持ちになる必要なんて本当はないのかもしれない。しかし要するに、それをこれまでの間、ちゃんと自分で理解して咀嚼することを躊躇っていたのだろう。
(……着いちゃった)
だからこそ、僕は今日ここに来たのかも知れない。
目の前には、前住んでいた家がまだ佇んでいる。この家を出て一年が経とうとしているのにも関わらず、まだこの家と土地は売れていないらしい。例えばそれが立地の問題で売れにくいなどという話だったらまだ良かったのかもしれないが、そうではなかった。取り壊されるかどうかまでは僕には分からないが、いわゆる事故物件になってしまったというのもあり、やはり買い手を探すのは中々難しいらしい。家を取り壊すにもお金がかかるというのもあり、家の景観はほぼあの時とは変わらない。流石に勝手に入るわけにもいかないが、あの時と全く違うことがあるとするなら、覗いた限りでは庭が荒れ放題であるというところくらいではないだろうか?
今のところ誰ともすれ違ってはいないが、誰もいないからこそなのか、あの時のことが頭を埋め尽くし始めていく。それと同時に、僕は段々と落ち着きを無くしていた。あの日はもう少し明るい時間だったはずだが、状況はさほど変わらないかもしれない。
(誰かいる……?)
玄関から見える、リビングの窓から何か黒いものが横切ったのだ。そう見えただけ、という解釈も当然可能だったが、明らかに人の形をしているものが通ったように見えたのである。……それも気のせいだと言われてしまえば、それまでなのだが。
僕は、思わず家の敷地に足を踏み入れた。この時の僕には、勝手に入ってはいけないだのなんだのという常識的な観点を完全に見失っていた。――あの日もそうだったのである。
草を踏む音が自分のものであることを確認するかのように、僕はゆっくりと庭を歩み進めた。まるで泥棒でもするかのように息を潜め、思わず胸の側で拳をつくった。カーテンのない窓は酷く広々としており、僕がみたことのない景観だった。窓越しに中を眺めてみるが、やけに広々とした部屋が残っているだけでそこには僕がみた「黒いもの」は見当たらない。この家には二階が存在するが、もしかしたらそっちに行ったのだろうか? それとも本当に僕の見間違いだったのだろうか? 後者であるなら一向に構わないし、例え前者だったとしても、僕に出来るとことといえばせいぜい警察に連絡することくらいだろう。しかし、実際に誰か人を見たわけでは無いのだから、こんなことで連絡したところで誰も取り合ってくれるわけがない。僕だって、そんな曖昧な情報を出されても困るというものだ。
そういう場所に来たからそうみえただけ。半強制的に思考を切り替え、少しだけ安堵した、その時である。 後ろから、草を踏みしめる音が聞こえてきたのは。
――僕はあの時、警察に「母に刺された」と供述した。
しかし、本当のところは違う。
僕はあの時、そして今この瞬間も、得体の知れない何かに襲われたのだ。
◇
フラッシュバックと言うのが一番的確だろう。ここに来る前の、いわゆる高校生活を行って居たときのことが急に脳裏を埋め尽くしていった。しかし、果たしてどうして僕が死んだのかという部分に関しては、未だに思い出すことは叶わない。
「……本当に、どうして死んだんですかね」
その答えなんて到底返ってく筈のないであろう神崎さんに、何故か僕は問いを投げかけてしまった。本来ならば迷惑極まりない行為だろうし、こんなことを軽々しく口にするべくではないというというのも当然分かる。しかし、それでも口にしてしまったのは、そこにいるのが神崎さんだからなのだろうか? それが分からないのは、恐らく今も昔も同じだ。
「思い出さないといけないっていうのは、分かるんですけど……」
神崎さんは、僕の言葉を遮ることなくただただ話を聞いていた。いや、もしかしたら聞いているフリをしているだけかもしれないが、そんなことは別にどうだってよかった。
思い出すというのも不思議な話で、そもそもどうして僕はここに来る前のことを余り覚えていなかったのだろうか? ここに来る前のことえお思い出そうとする時、まるで靄がかかったかのように頭の中が真っ白になってしまうのだ。まるでそう、ここに来たときに見た真っ白な空間のように。
呼吸をすると肺が動いていることが分かり、確かに僕はそこに存在しているという実感が湧く。手を動かせば確かにこれは自分の意思で動かしているのだという確信がある。しかし、僕はもう生きてはいないらしいということはよく分かった。いくら理解をしようとしても現実味に欠けるが、思い返せばここはおかしなところだらけである。これが非現実的ではないと感じるのは、きっと僕という存在とここが非現実的な場所であるということなのだろう。それがどうにも、居たたまれない気持ちにさせた。
「……別に、無理して思い出さなくていいんじゃないか?」
僕のすぐそばで話を聞いていた神崎さんは、ようやく僕の話に口を挟んだ。しかし、それだけ言うと神崎さんはすぐに目をそらしてしまう。
「で、でも……。よく分からないのは、嫌じゃないですか」
そう、例え誰が何と言っても、僕は僕のことが分からないというのは些か不安になるし、僕が僕では無いような気がしてしまうのだ。ここに来て記憶が無かった僕は、断片的な何かを思い出したときにようやく少しだけ自分になれたような気がしたのである。ここまで来たら最期の最期まで思い出してくれればいいのに、それを良しとしない自分がなんとも腹立たしくて仕方がなかった。
「だからって、そんな顔ばっかりするお前はもう見たくない」
それなのに、神崎さんはこういうことをさも簡単であるかのように言ってみせるのだ。
さっきまで目を背けていた神崎さんは、いつの間にかこちらを向いていた。一体どういう顔をしていたというのか、僕はその言葉に何を言ったらいいのか分からず、沈黙が辺りに散らばった。僕はそんなに分かりやすく変な顔をしていただろうか? 自覚は全くないのだが、そんな顔ばかりと神崎さんが言うくらいなのだから、恐らくはずっとそうだったのだろう。でも、それは流石に言い過ぎではないだろうか。そう言おうと思った矢先、僕が何かを言うよりも前に神崎さんが行動を起こした。僕の頭を右手で撫で回したのだ。……撫で回したというよりは、掻き回したというほうが正しいかも知れない。僕よりも少し大きな手で、髪の毛をぐちゃぐちゃにしたのだ。
「見飽きたんだよ、その顔」
「そ、そんなこと言われても……」
おまけにそんな捨て台詞を吐かれてしまい、僕は何を言おうとしたのかをもうすっかりと忘れてしまった。
「……なにも出来なくて、悪い」
それとは引き換えに、神崎さんはすぐに神妙な顔になっていく。僕からしてみれば、神崎さんだっていつも表情が大して変わらないのに、この時ばかりはそうじゃなかった。
「か、神崎さんはなにも悪くないじゃないですか……」
「悪いんだよ」
僕からしてみれば、神崎さんが悪かったことなんて一度もなかったのに、すぐに僕の言葉を否定する。そういえば、図書館で神崎さんと出会ったときも、神崎さんは自分を責め立てるような発言をしていた。
「それなりに一緒に居たんだから、どうにでもなったはずだろ」
僕は、神崎さんの口からそういう言葉を聞くのが嫌だった。嫌だったから、こういう話はしたくなかった。それなのに、結局はこうなってしまったのだ。一番起こり得ないことが起きてしまった。
「……皆さん、いい人だっていうのは分かってたのに」
だからやっぱり、僕は僕自身が悪いのだと思う。
図書館で僕の話を聞いてくれた神崎さんも、どこまでも僕を追いかけてきた橋下さんも、いつだって間に入って仲裁してくれた宇栄原さんも、少なからずあの学校の中では全員信用出来る人であることには変わりなかったはずだ。それなのに、どうしても全てを捨てたくなってしまった。誰にも理解されなくていいものだと、されたくないとそう思ったのだ。
「信じられてたら、変わってたんですかね……?」
あと少し、ほんの少しでも信じてみようとしていたなら、もしかするとこういう展開にはならなかったのかも知れない。
◇
「――話、まだかかります?」
どこかから、聞き覚えのあるような声が聞こえてくる。声のする方にあるのは、紅く染められたソファーだ。一体いつの間にそこに移動したのか、ソファーの背面に両腕を置いて顔を覗き込ませているのは、橋下さんの部屋に一緒に来た案内人さんである。案内人さんが一緒にいるということを忘れていたわけではないが、神崎さんとは別のベクトルで余りにも静かにそこに佇んでおり、案内人さんが話しかけてきたという事実に少々驚いてしまった。
「す、すみません……」
「いや、別にいいんですよ。そういうものなので」
まるで案内人さんのことを無視してしまっていたような感情になり、思わず謝罪の言葉が口に出てしまうが、それが一蹴りされると、今まではただただこちらを傍観していたらしい案内人さんが、急に案内人という名前の通りの動きを始めた。
「相谷さんは、これからどうしますか?」
「これから……?」
唐突な質問に、僕は思わず首を傾げた。これからというと、いわゆる僕がこの場所を出て行くまでということだろう。しかし、どうすると言われても、いまいちピンと来ないというのが実情だった。
「相谷さん的にはまだ時間はありますけど、そこの人と、あと橋下さんはここに来てそれなりに時間が経っているので、そういう意味では相谷さんも余り時間が無いと思います」
神崎さんと橋下さんが一体どれくらい前にここに来たのかは聞いていないから分からないが、滞在日数が七日であるということと、案内人さんの「余り時間が無い」という言葉を上乗せすると、残り半分を切っているのかもしれない。そうだとするなら本当に時間は残り少なく、何か思うことがあるのなら早く行動に移さないといけないということなのだろう。しかし急にそんなことをいわれても、何をどうするべきなのかだなんて、中々すぐ思いつくものでもない。今まで、どれだけ何も考えずにここに存在していたのかがよく分かる状態だ。
「……橋下さん、今どこに居るんですか?」
だからといって、時間は当然待ってはくれない。仮に何も思いつかなかったとしても、橋下さんの居場所は聞かなければいけないような、そんな気がした。
「向かいの階の屋上に居ると思いますよ」
「屋上……」
屋上と聞いて、僕は思わずつばを飲んだ。あの時、僕が屋上から飛び降りようとした時のことが頭をよぎったのだ。最も、この期に及んでそんなことは余り思い返したくはないが……。
「橋下さん、僕に会ってくれるかな……」
思わずそう口にすると、神崎さんが少し不思議そうな顔をした。ここでは確かに橋下さんには一度会ったし、会話もしたのだが、それとこれとは話が別である。
きっと橋下さんは、僕の記憶がないと聞いて僕のところに来たのだろう。そうじゃなきゃ、いくらここが特殊な空間だからといって、あんな別れ方をしてしまったにも関わらず会いに行こうとはならないと思うのだ。少なくとも、僕だったらそんな勇気はないだろう。それとも、やはり橋下さんはそれくらいの勇気を最初から持ち合わせていたということなのかもしれない。
「か、神崎さん……」
しかし、今はもう状況が違う。
「……なんだよ」
「えっと、その……」
橋下さんにまた会うには、今度は僕のほうから行かなければならないと、そう思ったのだ。いつもは橋下さんのほうから僕に会いに来ていたが、いい加減そうではいけないと思ったのである。
神崎さんは、少し面倒くさそうに投げやりに返事をした。言葉を続けることを躊躇ってしまったが、出来れば神崎さんと一緒に行きたいと、そう思ったのだ。しかし、僕の我が儘に近いことをこの期に及んで頼んでいいものかと、どうにもストップがかかってしまったのだ。
「……顔合わせたって、どうせろくなこと言えないから俺はいい」
一体どこから何を意図を汲み取ったのか、神崎さんは僕が先に言わなければならないことを、先回りして一緒に拒んできたのである。それは橋下さんには、絶対に会わないという意思表示の表れのようで、どうにも物悲しくなった。
「べ、別に何も言わなくていいので……」
しかし、それで引き下がるのであれば、こんなことは端から口にすることはない。気づけば僕は、神崎さんの着ている上着の裾を掴んでいた。こんなこと、子供のすることだろうと思いながらも、そうすることしか出来なかったである。この時ばかりは、そう簡単に引き下がってはいけないと、そう思ったのだ。
もし次に断られたらどうしようなどと考えようとした、そのときだった。
「……俺は会わない」
そうやって言って退けると、神崎さんは僕の右腕を掴み返してきたのだ。なんの準備もしていなかった僕をそのまま引っ張り、強引に扉を開けて橋下さんの部屋を出ることになってしまった。部屋を出て行く少し前、後ろを振り向くと案内人さんは悠長に手を振っていた。どうやら止める気は一切ないらしい。
「か、神崎さん……?」
言っていることとやっていることの整合性がとれない神崎さんの行動に、僕はただただ驚いて後ろをついていくしかなかった。
僕の言葉に見向きすることもなく、神崎さんは前だけを見て歩いていく。廊下を早足で通り抜け、少しだけ見慣れた受付にたどり着こうとしたとき、神崎さんの歩みが少しずつ遅くなっていった。ちょうどカウンター前。恐らくはこの建物のちょうど中腹で、僕たちは立ち止まった。
「俺はあいつには会わない」
この短い期間の中、神崎さんは二度も同じことを口にした。
「だから、付き合うのはここまでだ」
しかしそれでも、神崎さんは僕の腕を離すことはしない。その力は先ほどよりもかなり落ちており、もはや手を添えているだけに近かった。僕が意識をしないと、外れていってしまうほどだ。
「そ、そんなに嫌なんですか? 橋下さんに会うの……」
「嫌だよ」
この時の神崎さんは、清々しいと思ってしまうほど神崎さんらしかった。
最初、神崎さんがどうしてこんなに橋下さんに会うことを拒んだのかがよく分からなかったが、よく考えれば、僕だってそうだった。
「お前らを連れて帰れるならいくらでも付き合うし文句の一つでも言ってやるけど、そうじゃないだろ」
理由は当然違うだろうが、僕も橋下さんと屋上にいる夢を見た後、橋下さんに会うのをどうにも躊躇った。神崎さんに会うのだって、案内人さんが取り繕ってくれなかったら今も会っていないかもしれない。
だから神崎さんが橋下さんに会いたくないと言うのは、恐らくそれに通ずるところがあったのだろう。
「だから俺は、お前に会うのも嫌だったんだよ」
拒絶というよりは、そう簡単に会ってはいけないという意思の表れであるような、そんな気がした。
通り過ぎていく人々の声や雑音は、僕の耳には入らない。イヤホンをしているから当然といえば当然だが、味気なく日々が過ぎていくことの象徴のような気がしてならなかった。そしてそれは間違ってはいないのだろう。一緒に帰るような人物がいるのなら別にイヤホンをする必要もないだろうし、もしかすると音楽プレイヤーなんてものは持ち歩いていないかもしれない。元々僕はそれを望んでいたし、今でもそれで良いと確かに思っている。しかしどうにも、今の僕は中途半端だ。
最初は橋下さんに連れられて嫌々図書室に行っていたのに、いつからかそうではなく、自ら足を運ぶことが増えた。一体いつからそうなってしまったのかという明確な線引きは、恐らくないだろう。それくらい、ゆっくり浸透してしまっていたのだ。
その過程のことなのか、それとも浸透しきってしまった後のことなのか、宇栄原さんに勉強を教わるという挙行が起きた。何故そんなことになったのかとしらばっくれることが出来ればよかったのかもしれないが、その浸透してしまった日常に一石投じたのは、紛れもなく僕自身であることは紛れもない事実だ。
(……何やってるんだろう)
夏休みが間に入ったからなのか、それとも何か別の要因があったのか、少々冷静になりすぎてしまっているというのはどこかで理解はしていた。しかしだからといって、それを止められる術があるわけでもなく、一気に感情の波が消え途端に足の動きが止まった。まるで最初からそうであったかのような錯覚さえ覚えたが、そこに特別疑問を抱くことはなかった。
……どうにも嫌な気持ちが、沸々と頭を飽和して止まらない。
自分の特殊な状況にかまけて、僕はあの人たちを利用していたのではないだろうか? 否、紛れもなくしていたのだろう。そうじゃなければ、僕はあの時勉強を教えてくれだなんて言わなかったし、噂について聞かれることだってなかったはずだ。
足を止めると、ズボンのポケットから布ではないものが当たってくるのがよく分かる。普段はそれに触れることはないのに、思わず指先を入れそれを確認してしまう。恐らくはポケットの中で擦れている音がしているのだろうが、イヤホン越しではその音は入ってはこない。紙切れと呼ぶには立派な紙質のそれに書いてある文字を、僕は淡々と口にした。
「村田さん……」
入っているのは、村田さんの名刺だ。
どうしてわざわざ制服のズボンのポケットに入れているのかと聞かれたら、答えるのは相当難しい。単純に村田さんが警察だから何かあった時のためであるというのが理由だとしても、別にポケットに入れておく必要はないはずである。
(今更連絡しても……)
別に事件も事故も起きていないのに、この名刺に載っている番号にかけるというのは中々に胆力が必要である。その証拠というわけではないが、高校生活が始まってからというもの、村田さんにはまだ一度も会っていない。勿論、警察になんて会わない方がいいというのはその通りなのだが……。
(……なんか、嫌だな)
流されているのではなく、全ては自分の行動に所以しているということに気づいてしまうと、そこから落ちていくのは比較的早かった。
今の僕には、音楽プレーヤーから流れている曲も聞こえていない。
◇
授業が終わりを告げるチャイムが鳴り響くと同時に、僕はすぐに机に広がっているノートや筆記道具を片付けた。教室に長居する理由は最初からないし別に当然の行為だが、問題はその後のことである。しかし僕の中では、どうするかなんていうのは既に決まっているも同然だった。
どういうわけか、僕はまた一人の放課後の時間が続いた。と言っても、授業が終わればすぐに教室を出て家に帰っているだけなのだが、その時間がどうも、ここ最近の僕にとって居心地がよかったのである。今日もまた、特に意味もなくただ学校に行くだけで一日が終わろうとしていた。
そもそも、これまでがおかしかったのだ。用もないのに空気に流されて図書室に足を運んでいたのが間違いだったのである。それが無くなり、至極当然な流れが生まれただけに過ぎないだろう。それ以上のことは、元から望んでいない。そう、望んでいなかったのだ。
「相谷くんいる!?」
後ろから、聞き覚えのある声がする。その声に僕は特別驚きはしなかった。振り向かなくても誰が僕のことを呼んだのかはすぐに分かったが、条件反射と言えばいいのか、気付けば既に後ろを振り向いていた。
「ま、間に合った……」
息を切らしながら突如教室に現れたのは、紛れもなく橋下さんそのものだった。
「な、なんですか……?」
「なんですかっていうか……いや疲れた……」
恐らく、橋下さんは本当に急いで僕の教室にまで来たのだろう。二階から三階にまで上がってきたのだから、当然といえば当然かも知れないが、それにしてはかなり大げさに息を切らしていた。そのお陰で、橋下さんが再び声を発するのには僅かに時間が必要だった。
「最近顔見ないから、昨日も教室来たんだけどその時にはもう居なくてさ。だから今日は昨日よりも急いで来たんだよね」
なんのお構いなしに笑い向けてくるその人が、僕はやはり苦手だったのかもしれない。わざわざ体力を使ってまで僕のもとに訪れる理由が、どんなに考えてもよく分からなかったのだ。
「何かあったの?」
「そういうわけじゃないですけど……」
恐らく深い意味はないのだろう。純粋に、そして単純に、来ないのには何か理由があるんじゃないのかという確認だったはずだ。
「少し、昔のことを思い出しただけです」
「昔のこと……?」
こんな質問、適当にあしらうか答えないなどとすればよかったのに、僕はそれをしなかった。純粋な眼差しを前に適当に言ってしまうのは、少し憚られるものがあったのだ。
橋下さんは、僕の言葉に軒並み疑問符をつけた。橋下さんにとっては分からないことだらけなのだろうからそれはそうなのだろうが、言ってしまえば、正直僕にもよく分からないのである。
「今日も来ないの?」
こうして、橋下さんがわざわざ僕の教室に足を運んでくる理由も分からない。
「……行っても、しょうがないじゃないですか」
否、分かりたくなかったのだ。
「どうして……?」
こんな気の落ちた橋下さんの声を聞くのは、もしかしたらはじめてだったかも知れない。
「し、失礼しますっ……!」
それに気づくよりも前に、僕は机の上に置かれっぱなしの荷物を慌てて手に取り、それ以上橋下さんのことを見ることもせず、すぐさま席を離れた。そんなことをしても追いかけられてしまうのではないかという気がしたが、それは行きすぎた心配だったようである。すぐに下駄箱まではたどり着いたのだ。
(あの人、なんで僕のこと……)
まるで悪いことでもしているかのような居心地の悪さと、心臓の動く早さが比例しているようだった。
意図していなくても浮かんでしまう、さっきの橋下さんの表情を振り切らんとばかりに、僕は頭を振った。周りのことなんて気にすることはなく、そのまま自分の靴が入っている場所まで向かい、さっさと靴を履き替えて校舎を出た。その間、僕は後ろを振り向くことはしない。なるべく無駄な行動はせず、さっさと学校を出てしまいたかったのだ。
(……もしかしたら、変なこと言ったかも)
足早に校門を出てから、ほんの少し落ち着きを取り戻しつつあったのだろう。少々冷静さを取り戻したお陰で生まれた感情は、ほんの少しの後悔だった。口から出てしまったことはもうどうにもならないが、あれではまるで本当は構って欲しい人みたいである。
同じ制服を着ている人は既にそう多くなく、周りを見た範囲では両手で数えても指が余るくらいだろう。
「――待って!」校門を出て数分も経っていないくらいだろうか? 誰かが、声を上げているのがよく耳に入った。その声が少しした後、僕の左腕が捕まった。学校を出て初めて、僕は後ろを振り向いたのである。
「置いてかないで」
この時の橋下さんはやけに真剣で、まるで僕が本当に橋下さんを置いて行ってしまっていたかのような、そんな感覚に陥った。あながち間違いではないと思うのだが、それよりも今までとどこか様子の違う橋下さんに、僕はおもわず首を傾げていた。
「あーいや、うん……なんて言うか……」
何かを言いたげに、しかし出来れば何も言いたくないというような、中途半端に言葉を濁しながら、橋下さんは続く言葉を探しているらしい。
「……きっと、これがオレじゃなくて先輩達だったら逃げてないんだよね」
その言葉は、どういうわけか清々しいくらいに僕の耳に入っていった。
「そ、そんなこと……」
「いいのいいの、そういうのが聞きたいんじゃなくてさ」
僕が何かを言おうとすると、橋下さんはすぐさま言葉を被せていく。一体何がこの人をそうさせているのか、僕には全く分からない。
「やっぱり、迷惑だった?」
何故なら、僕は橋下さんのことを何も解っていなかったからだ。
困ったように眉を曲げ、しかしいつまでもこうして笑みを繕ったまま口にした橋下さんの言葉を前に、僕はみるみるうちに不機嫌になった。その様は、最初から僕にそう言わせたいが為だけの言動に見えたのである。
「な、なんで……」
しかし僕は、これまでで一度も迷惑だなんてことは口にしたことはない。
「なんで橋下さんがそんなこと言うんですか……っ!」
それなのに、橋下さんにそんなことを言われてしまってはどうにも堪らなかった。気付けば僕は、橋下さんの手を簡単に振りほどいて背を向けて走り出してしまっていた。この時、あの人がどういう顔をしていたのかは分からない。もし、これ程にもないくらいに見たことのない顔をしていたとするなら、尚更後ろなんてもう金輪際見たくなかった。
恐らくは、今度こそ本当に橋下さんが追ってくることはないだろう。僕だったら、もう二度と今までと同じように接することは出来ないだろうし、なんなら今日を境に会うこともなくなってしまうはずだ。その証拠に、この橋下さんとのやり取りが、僕が僕として存在している時間の中の一番最後の出来事である。
◇
無機質に揺れる僕の身体は、いつにも増して微睡んでいた。
バスの中は空気が籠るからなのか、もう九月も終わりに近づいているというのに節操なく冷房が効いている。人の行きかうバスの中、たまに外の空気が流れてくるのがちょうど良かった。
僕が向かっている先は、今僕が住んでいる伯父さんの家ではない。しかし、一体どこに向かっているのかと問われたら、僕は口を閉ざすだろう。通学でバスは確かに使っているのだが、今日はいつもとは行き先の違うバスに乗っているのである。
余り聞き馴染みのないバス停の名前を、一番後ろの席で長し聞きしているうちに、段々ともう見たことのない景観に変わっていくのが分かる。かなりの数のバス停留所を通りすぎたが、まだ目的地には程遠い。
(……眠くなってきたな)
学校の帰り、こうして家に帰らず一人で寄り道をするということがあっただろうか? 思い返してみる必要は余りなく、特別用がなければすぐに帰宅していたし、帰り際に誰かと一緒にどこかに行くということはしたことがない。全く、高校生にもなってつまらない時間を過ごしてしまっていたものだ。と言っても、それが本当に全くそういうことがなかったかと言えばそうでもないのだが、何もなかったと結論をつけてしまいたくて仕方がなかったのである。
出来ることならこれまでのことを全部忘れてしまえればいいのにと、手にしていた音楽プレイヤーを思わず強く握りつぶしてしまいたくなった。
揺れる身体に意識を向けすぎたのか、僕は知らない間に眠り呆けてしまっていたようで、気付けばバスの停留所も残り三つほどになってしまっていた。最初は行きすぎてしまったかと焦ったが、窓の外の景観は概ね見たことのある街並みに変わっていたということが、僕の心を僅かに落ち着かせた。見たことがあると言っても、ここ半年ほどは目にしていない。実に、久しぶりという言葉が相応しいだろう。
次に停まるバス停の名前が、バスの中に轟いた。唯一、僕が乗っているこのバスの行き先の中で知っている名前である。そのバス停の名前が繰り返されるよりも前に、僕は席の近くの停車ボタンを押した。終点近くだからなのか人はバスに乗っている人は数えられる程度で、どうやらここで降りるのは僕だけのようだった。
バスが停留所に停まったのを確認して、長かった道のりも終わりを告げた。もう夕方の色がつき始めているくらいに、町並みはオレンジに染まっている。夏が終わり、秋の始まりを予見しているようなそんな感覚だ。
地に足を付けてから、僕は思わず辺りを見回した。そこから見える景色は、あの頃とはさほど変化はない。実は変わっていると言われても、例えば簡単な間違い探しのように、劇的に変わった場所は恐らくはないのだろう。それくらい、僕の記憶の景色と合致していたのである。
今僕が居る場所は、伯父さんの家に来る前、つまり約一年ほど前まで住んでいた街だ。数十年住んでいたこの街は、ごくごく当然のように佇んでいる。一家ひとつ無くなったくらいではびくともしないだろうから、当然と言えば当然だ。しかしそれがどういうわけか少し寂しく、まるで僕を置いてけぼりにして何処かに行ってしまったかのような気持ちに晒された。置いていったのは、僕のほうだというのに。
日が完全に暮れてしまう前にと、僕は徐に足を動かした。目的地までは、ここからだと確か十分を超えるだろう。その道中、僕は何かを考えているようで考えてはいなかった。
(……そうだ、おばさんには連絡しておかないと)
今日僕は、誰に何をいうでもなくここに赴いた。身体が勝手に動いた、とでも言えば聞こえはいいだろうが、しかしその実、ただ単純に一人になりたかっただけなのだろう。何かを考えたいとかそういうことではなく、何もかもが最初からになってしまったかのような喪失感が、逆に僕を動かしたのだ。
(学校、やけに騒がしかったな……)
ここ数日のことだ。学校が騒がしいというのはいつものことだが、それにしてはいつもとは様子が違ったのである。生徒は何か厭らしい話題を話すかのように声量を落とし集まってひそひそと話をしていたし、先生もやけに廊下を行き来していた。その矛先はどうやら僕ではないらしいということと、何か大きなことがあったらしいということは分かったのだが、しかし僕には、何一つとしてその原因は分かっていない。授業以外はおおかたイヤホンを耳に入れている人物のなれの果てがこれである。どうせ話しかけてくる人はいないし、誰かと話したところでどうせろくなことはない。それは僕が一番よく分かっていたし、一学期からそうなのだからもうどうすることも出来なかった。
(また、ひとりか……)
しかし、一学期とは違う状況は既に起きている。
(……橋下さん、怒ってるかな)
怒っている、というのとはまた違うのかもしれないが、もうそう簡単に会える雰囲気でもないだろう。宇栄原さんや神崎さんはその限りではないだろうが、それにしても図書室にまで足を運ぶには至れない。図書室に行くようになったのも、行かないようになったのも、きっかけはいつも橋下さんだ。
(あれじゃ、ただの八つ当たりだし……)
あの時の橋下さんは、僕をどうしたかったのだろう? 例えば、無理矢理図書室に連れて行ってやろうということではなかっただろうし、ましてや何かを聞き出そうという感じでもなかったのではないだろうか?
例えば、来なくなった僕のことを心配していたと考えることもできるだろうが、それは余りにも思い上がりすぎていることだと解釈し、できれば余り考えたくない。そんなことはあるはずがないのである。
(でも……)
あの時は、というよりは、僕は今もこれからもああいう言い方しか出来ないだろう。それに、自分でもよく分かっていないのに、これ以上誰かに何かを言うなんてことは僕には出来なかった。そうなってしまう原因が分かれば少しくらいは何かが変わるかもしれないし、こんな気持ちになる必要なんて本当はないのかもしれない。しかし要するに、それをこれまでの間、ちゃんと自分で理解して咀嚼することを躊躇っていたのだろう。
(……着いちゃった)
だからこそ、僕は今日ここに来たのかも知れない。
目の前には、前住んでいた家がまだ佇んでいる。この家を出て一年が経とうとしているのにも関わらず、まだこの家と土地は売れていないらしい。例えばそれが立地の問題で売れにくいなどという話だったらまだ良かったのかもしれないが、そうではなかった。取り壊されるかどうかまでは僕には分からないが、いわゆる事故物件になってしまったというのもあり、やはり買い手を探すのは中々難しいらしい。家を取り壊すにもお金がかかるというのもあり、家の景観はほぼあの時とは変わらない。流石に勝手に入るわけにもいかないが、あの時と全く違うことがあるとするなら、覗いた限りでは庭が荒れ放題であるというところくらいではないだろうか?
今のところ誰ともすれ違ってはいないが、誰もいないからこそなのか、あの時のことが頭を埋め尽くし始めていく。それと同時に、僕は段々と落ち着きを無くしていた。あの日はもう少し明るい時間だったはずだが、状況はさほど変わらないかもしれない。
(誰かいる……?)
玄関から見える、リビングの窓から何か黒いものが横切ったのだ。そう見えただけ、という解釈も当然可能だったが、明らかに人の形をしているものが通ったように見えたのである。……それも気のせいだと言われてしまえば、それまでなのだが。
僕は、思わず家の敷地に足を踏み入れた。この時の僕には、勝手に入ってはいけないだのなんだのという常識的な観点を完全に見失っていた。――あの日もそうだったのである。
草を踏む音が自分のものであることを確認するかのように、僕はゆっくりと庭を歩み進めた。まるで泥棒でもするかのように息を潜め、思わず胸の側で拳をつくった。カーテンのない窓は酷く広々としており、僕がみたことのない景観だった。窓越しに中を眺めてみるが、やけに広々とした部屋が残っているだけでそこには僕がみた「黒いもの」は見当たらない。この家には二階が存在するが、もしかしたらそっちに行ったのだろうか? それとも本当に僕の見間違いだったのだろうか? 後者であるなら一向に構わないし、例え前者だったとしても、僕に出来るとことといえばせいぜい警察に連絡することくらいだろう。しかし、実際に誰か人を見たわけでは無いのだから、こんなことで連絡したところで誰も取り合ってくれるわけがない。僕だって、そんな曖昧な情報を出されても困るというものだ。
そういう場所に来たからそうみえただけ。半強制的に思考を切り替え、少しだけ安堵した、その時である。 後ろから、草を踏みしめる音が聞こえてきたのは。
――僕はあの時、警察に「母に刺された」と供述した。
しかし、本当のところは違う。
僕はあの時、そして今この瞬間も、得体の知れない何かに襲われたのだ。
◇
フラッシュバックと言うのが一番的確だろう。ここに来る前の、いわゆる高校生活を行って居たときのことが急に脳裏を埋め尽くしていった。しかし、果たしてどうして僕が死んだのかという部分に関しては、未だに思い出すことは叶わない。
「……本当に、どうして死んだんですかね」
その答えなんて到底返ってく筈のないであろう神崎さんに、何故か僕は問いを投げかけてしまった。本来ならば迷惑極まりない行為だろうし、こんなことを軽々しく口にするべくではないというというのも当然分かる。しかし、それでも口にしてしまったのは、そこにいるのが神崎さんだからなのだろうか? それが分からないのは、恐らく今も昔も同じだ。
「思い出さないといけないっていうのは、分かるんですけど……」
神崎さんは、僕の言葉を遮ることなくただただ話を聞いていた。いや、もしかしたら聞いているフリをしているだけかもしれないが、そんなことは別にどうだってよかった。
思い出すというのも不思議な話で、そもそもどうして僕はここに来る前のことを余り覚えていなかったのだろうか? ここに来る前のことえお思い出そうとする時、まるで靄がかかったかのように頭の中が真っ白になってしまうのだ。まるでそう、ここに来たときに見た真っ白な空間のように。
呼吸をすると肺が動いていることが分かり、確かに僕はそこに存在しているという実感が湧く。手を動かせば確かにこれは自分の意思で動かしているのだという確信がある。しかし、僕はもう生きてはいないらしいということはよく分かった。いくら理解をしようとしても現実味に欠けるが、思い返せばここはおかしなところだらけである。これが非現実的ではないと感じるのは、きっと僕という存在とここが非現実的な場所であるということなのだろう。それがどうにも、居たたまれない気持ちにさせた。
「……別に、無理して思い出さなくていいんじゃないか?」
僕のすぐそばで話を聞いていた神崎さんは、ようやく僕の話に口を挟んだ。しかし、それだけ言うと神崎さんはすぐに目をそらしてしまう。
「で、でも……。よく分からないのは、嫌じゃないですか」
そう、例え誰が何と言っても、僕は僕のことが分からないというのは些か不安になるし、僕が僕では無いような気がしてしまうのだ。ここに来て記憶が無かった僕は、断片的な何かを思い出したときにようやく少しだけ自分になれたような気がしたのである。ここまで来たら最期の最期まで思い出してくれればいいのに、それを良しとしない自分がなんとも腹立たしくて仕方がなかった。
「だからって、そんな顔ばっかりするお前はもう見たくない」
それなのに、神崎さんはこういうことをさも簡単であるかのように言ってみせるのだ。
さっきまで目を背けていた神崎さんは、いつの間にかこちらを向いていた。一体どういう顔をしていたというのか、僕はその言葉に何を言ったらいいのか分からず、沈黙が辺りに散らばった。僕はそんなに分かりやすく変な顔をしていただろうか? 自覚は全くないのだが、そんな顔ばかりと神崎さんが言うくらいなのだから、恐らくはずっとそうだったのだろう。でも、それは流石に言い過ぎではないだろうか。そう言おうと思った矢先、僕が何かを言うよりも前に神崎さんが行動を起こした。僕の頭を右手で撫で回したのだ。……撫で回したというよりは、掻き回したというほうが正しいかも知れない。僕よりも少し大きな手で、髪の毛をぐちゃぐちゃにしたのだ。
「見飽きたんだよ、その顔」
「そ、そんなこと言われても……」
おまけにそんな捨て台詞を吐かれてしまい、僕は何を言おうとしたのかをもうすっかりと忘れてしまった。
「……なにも出来なくて、悪い」
それとは引き換えに、神崎さんはすぐに神妙な顔になっていく。僕からしてみれば、神崎さんだっていつも表情が大して変わらないのに、この時ばかりはそうじゃなかった。
「か、神崎さんはなにも悪くないじゃないですか……」
「悪いんだよ」
僕からしてみれば、神崎さんが悪かったことなんて一度もなかったのに、すぐに僕の言葉を否定する。そういえば、図書館で神崎さんと出会ったときも、神崎さんは自分を責め立てるような発言をしていた。
「それなりに一緒に居たんだから、どうにでもなったはずだろ」
僕は、神崎さんの口からそういう言葉を聞くのが嫌だった。嫌だったから、こういう話はしたくなかった。それなのに、結局はこうなってしまったのだ。一番起こり得ないことが起きてしまった。
「……皆さん、いい人だっていうのは分かってたのに」
だからやっぱり、僕は僕自身が悪いのだと思う。
図書館で僕の話を聞いてくれた神崎さんも、どこまでも僕を追いかけてきた橋下さんも、いつだって間に入って仲裁してくれた宇栄原さんも、少なからずあの学校の中では全員信用出来る人であることには変わりなかったはずだ。それなのに、どうしても全てを捨てたくなってしまった。誰にも理解されなくていいものだと、されたくないとそう思ったのだ。
「信じられてたら、変わってたんですかね……?」
あと少し、ほんの少しでも信じてみようとしていたなら、もしかするとこういう展開にはならなかったのかも知れない。
◇
「――話、まだかかります?」
どこかから、聞き覚えのあるような声が聞こえてくる。声のする方にあるのは、紅く染められたソファーだ。一体いつの間にそこに移動したのか、ソファーの背面に両腕を置いて顔を覗き込ませているのは、橋下さんの部屋に一緒に来た案内人さんである。案内人さんが一緒にいるということを忘れていたわけではないが、神崎さんとは別のベクトルで余りにも静かにそこに佇んでおり、案内人さんが話しかけてきたという事実に少々驚いてしまった。
「す、すみません……」
「いや、別にいいんですよ。そういうものなので」
まるで案内人さんのことを無視してしまっていたような感情になり、思わず謝罪の言葉が口に出てしまうが、それが一蹴りされると、今まではただただこちらを傍観していたらしい案内人さんが、急に案内人という名前の通りの動きを始めた。
「相谷さんは、これからどうしますか?」
「これから……?」
唐突な質問に、僕は思わず首を傾げた。これからというと、いわゆる僕がこの場所を出て行くまでということだろう。しかし、どうすると言われても、いまいちピンと来ないというのが実情だった。
「相谷さん的にはまだ時間はありますけど、そこの人と、あと橋下さんはここに来てそれなりに時間が経っているので、そういう意味では相谷さんも余り時間が無いと思います」
神崎さんと橋下さんが一体どれくらい前にここに来たのかは聞いていないから分からないが、滞在日数が七日であるということと、案内人さんの「余り時間が無い」という言葉を上乗せすると、残り半分を切っているのかもしれない。そうだとするなら本当に時間は残り少なく、何か思うことがあるのなら早く行動に移さないといけないということなのだろう。しかし急にそんなことをいわれても、何をどうするべきなのかだなんて、中々すぐ思いつくものでもない。今まで、どれだけ何も考えずにここに存在していたのかがよく分かる状態だ。
「……橋下さん、今どこに居るんですか?」
だからといって、時間は当然待ってはくれない。仮に何も思いつかなかったとしても、橋下さんの居場所は聞かなければいけないような、そんな気がした。
「向かいの階の屋上に居ると思いますよ」
「屋上……」
屋上と聞いて、僕は思わずつばを飲んだ。あの時、僕が屋上から飛び降りようとした時のことが頭をよぎったのだ。最も、この期に及んでそんなことは余り思い返したくはないが……。
「橋下さん、僕に会ってくれるかな……」
思わずそう口にすると、神崎さんが少し不思議そうな顔をした。ここでは確かに橋下さんには一度会ったし、会話もしたのだが、それとこれとは話が別である。
きっと橋下さんは、僕の記憶がないと聞いて僕のところに来たのだろう。そうじゃなきゃ、いくらここが特殊な空間だからといって、あんな別れ方をしてしまったにも関わらず会いに行こうとはならないと思うのだ。少なくとも、僕だったらそんな勇気はないだろう。それとも、やはり橋下さんはそれくらいの勇気を最初から持ち合わせていたということなのかもしれない。
「か、神崎さん……」
しかし、今はもう状況が違う。
「……なんだよ」
「えっと、その……」
橋下さんにまた会うには、今度は僕のほうから行かなければならないと、そう思ったのだ。いつもは橋下さんのほうから僕に会いに来ていたが、いい加減そうではいけないと思ったのである。
神崎さんは、少し面倒くさそうに投げやりに返事をした。言葉を続けることを躊躇ってしまったが、出来れば神崎さんと一緒に行きたいと、そう思ったのだ。しかし、僕の我が儘に近いことをこの期に及んで頼んでいいものかと、どうにもストップがかかってしまったのだ。
「……顔合わせたって、どうせろくなこと言えないから俺はいい」
一体どこから何を意図を汲み取ったのか、神崎さんは僕が先に言わなければならないことを、先回りして一緒に拒んできたのである。それは橋下さんには、絶対に会わないという意思表示の表れのようで、どうにも物悲しくなった。
「べ、別に何も言わなくていいので……」
しかし、それで引き下がるのであれば、こんなことは端から口にすることはない。気づけば僕は、神崎さんの着ている上着の裾を掴んでいた。こんなこと、子供のすることだろうと思いながらも、そうすることしか出来なかったである。この時ばかりは、そう簡単に引き下がってはいけないと、そう思ったのだ。
もし次に断られたらどうしようなどと考えようとした、そのときだった。
「……俺は会わない」
そうやって言って退けると、神崎さんは僕の右腕を掴み返してきたのだ。なんの準備もしていなかった僕をそのまま引っ張り、強引に扉を開けて橋下さんの部屋を出ることになってしまった。部屋を出て行く少し前、後ろを振り向くと案内人さんは悠長に手を振っていた。どうやら止める気は一切ないらしい。
「か、神崎さん……?」
言っていることとやっていることの整合性がとれない神崎さんの行動に、僕はただただ驚いて後ろをついていくしかなかった。
僕の言葉に見向きすることもなく、神崎さんは前だけを見て歩いていく。廊下を早足で通り抜け、少しだけ見慣れた受付にたどり着こうとしたとき、神崎さんの歩みが少しずつ遅くなっていった。ちょうどカウンター前。恐らくはこの建物のちょうど中腹で、僕たちは立ち止まった。
「俺はあいつには会わない」
この短い期間の中、神崎さんは二度も同じことを口にした。
「だから、付き合うのはここまでだ」
しかしそれでも、神崎さんは僕の腕を離すことはしない。その力は先ほどよりもかなり落ちており、もはや手を添えているだけに近かった。僕が意識をしないと、外れていってしまうほどだ。
「そ、そんなに嫌なんですか? 橋下さんに会うの……」
「嫌だよ」
この時の神崎さんは、清々しいと思ってしまうほど神崎さんらしかった。
最初、神崎さんがどうしてこんなに橋下さんに会うことを拒んだのかがよく分からなかったが、よく考えれば、僕だってそうだった。
「お前らを連れて帰れるならいくらでも付き合うし文句の一つでも言ってやるけど、そうじゃないだろ」
理由は当然違うだろうが、僕も橋下さんと屋上にいる夢を見た後、橋下さんに会うのをどうにも躊躇った。神崎さんに会うのだって、案内人さんが取り繕ってくれなかったら今も会っていないかもしれない。
だから神崎さんが橋下さんに会いたくないと言うのは、恐らくそれに通ずるところがあったのだろう。
「だから俺は、お前に会うのも嫌だったんだよ」
拒絶というよりは、そう簡単に会ってはいけないという意思の表れであるような、そんな気がした。