昔話は好きではない。なんせこれまでろくなことがなかったし、面白かったことはおろか楽しかったことすらもろくに覚えていない。しかしそれとは引き換えに、余りよくないことは比較的鮮明に覚えているものである。恐らくはそれくらい強烈に、尚且つ人生に影響を与えたものだからなのだろうが、僕に限っては少し違った。
面白かったことや楽しかったことや、ひいては余りよくないことも、何もかも忘れる努力をしていたのである。
「光希っ」
――誰かが、僕のことを呼んでいる。
知らない間に寝入ってしまっていたのか、目を開けると自室の机に突っ伏してしまっていたようで、僕はまだ視界がぼんやりとしか映っていない中辺りを見回した。
見覚えのある家の景観は、今僕が住んでいる伯父さんの家の間取りではない。部屋のハンガーにかかっている制服の上着も、高校の制服とは似ても似つかないものである。
僕が返事をするよりも前に、その人物は既に扉をあけ顔を覗き込ませていた。僕の記憶が正しければ、僕のことを幸希と呼んでくる人物は、これまでもそう多くはなかったはずである。
「買い物、付き合わない?」
そう言いながら勝手に部屋に入ってくる某人は、長い髪を靡かせてこちらに笑みを向けた。右に少しだけ首を傾けてこちらの答えを待っているその様は、昔からなんら変わらない。
「ぼ、僕はいいよ……」
「どうして?」
この人は何かにつけて僕を呼び、何かにつけて一緒に外へ行きたがった。断りを入れても結局行くことになるのは、その人物が強引に等しいくらいのことをしてくるからなのか、僕が押しに弱いのかはよく分からない。どちらにしても、最終的に僕はこの人とよく外を歩いていた。
しかし、そこにはいつも問題が付きまとっていた。
「今日いい天気だよ? 一緒に行こ?」
実の姉である相谷 光莉(あいたに ひかり)という人物のことが、僕は苦手だったのだ。
◇
姉さんの言う通り、この日は確かに天気が良かった。秋の柔らかな風のお陰で嫌な陽の当たり方ではなく、穏やかに落ちてくる光は心地よさすらも覚えてしまう。それが多少なりとも救いであるといっても過言ではなかった。
「中間テスト、どうだった?」
「どうって言われても……。普通だったと思うけど……」
「本当? 頭のいい人の普通は普通じゃないし」
「姉さんに言われても説得力ないよ……」
少しの苦手意識を持ちながら、しかしだからといって特別どうというわけでもなく、ごく普通の会話は当然する。姉さんはこうやって茶化してくるが、テストなんてそれなりに授業に出てそれなりに勉強していればそう悪い点数にはならないだろうし、頭の良さで言うなら私立のいい所に通っている姉さんのほうが良いに違いないだろう。それに、中学生と高校生を比較したところで意味はないのではないだろうか。
姉さんの通っている私立高校は、そういうことに余り詳しくない僕でも知っているくらいには偏差値が高いことで有名で、名門校とまではいかないにしても、片手間な勉強で入れるところではないはずだ。
「……光季は高校どうするの? 私と同じところ?」
「ぼ、僕はいいよ……。特待生になれるほどの成績じゃないし」
「別に特待生になれだなんて一言もいってないのに……」
確かに、姉さんの口からは特待生という言葉は出てこなかったが、それにしても状況が悪かった。僕がそうやって言ってしまうのには、当然理由が存在する。姉さんは特待生なのだ。
姉さんのいう通り、別に無理をして特待生になる必要はないのだろう。しかし、仮に僕が本当に姉さんと同じ高校に通うとして、姉が特待生で弟が特待生ではないというのは、少々……いや、かなり心証もよくない。それに忘れてはならないのが、姉さんが通っているのは私立高校であるということだ。公立に比べればお金だってかなり必要になるし、かといって別に僕が払うわけでもないのだから、そう簡単に二つ返事できるものでもなかった。最も、特待生になれるくらいの成績と自信があったのなら、それでもよかったのかも知れないが。
「光希と一緒の制服着たいなぁ……」
どういうわけか少しむくれた姉さんに、僕は疑問を抱いた。僕が高校に入学する頃には姉さんは既に卒業しているわけで、それは当然中学でも同じだった。急にそんなことを言われたところで、僕は時間を操れるわけでもないから、やれることと言えばせいぜい困ることくらいだろう。この人は、いつもそうやって僕を困らせた。
「あ、別に無理やり同じ高校にいれてやろうだなんて思ってないけど、検討くらいはしてね!」
「う、うん……」
中学一年生の僕からしたら余り現実味がないものだけど、検討する時はいつか来るのだろうか? だとしたら、やはり勉強くらいはもう少しちゃんとやっておくべきなのかもしれない。いや、今のままでも進路には特別困らない成績は持ち合わせてはいるのだが、確かに選択肢は多いに越したことはないだろう。
昼下がり、少し雲がかかっているにも関わらず太陽はそれをものともしない。まだ少し、夏の気配が勝っているのだろうか? だとしたら嫌だなと思いながら、僕と姉さんは立ち止まった。歩行者側の信号がちょうど赤になったのだ。
いつもは車通りがそう多くはないのだが、今日は休日だからなのか少し数が多いように見えた。しかし、運転免許証も持たない僕にとっては別に関係のないことである。……関係のないことだったのだ。この時までは。
一台の車が、急にこれまでの流れを止めるような動きをした。左から走ってくるそれは、なんだかフラフラとし始めておぼつかなかったのである。僕から見ても危なっかしいと感じるくらいで、だからどうというわけではないのだが、僕は思わず半歩後ろに下がってしまう。そのすぐ後のことだ。その車は急に速度をあげて、あろうことか赤信号になったところに突っ込んできたのだ。僕は思わず目を見開き、向こうに居る歩行者もそれに釘付けだった。例えばこの時、信号無視だけで済むのならまだよかったのだろう。だが、そうではなかったのだ。
誰かの叫ぶような痛い声が、僕の耳をつんざいていく。それが一体誰の声だったのかは定かではないが、誰よりも僕の耳に届いていたに違いないだろう。姉さんが、僕を突き飛ばしたのだ。
その後のことは、この人生の中で一番刹那的な出来事だったように思う。しかし同時に、一瞬時が止まったようなそんな気がした。
大きな音と共に、姉さんの身体が吹き飛んだところを見た時、僕はそんな矛盾の蔓延る時間の中を生きていたのだ。
◇
それは、端的に言うのであれば交通事故だった。
病院に運び込まれてから、果たしてどれくらいの時間が経ったのかは酷く朧気だった。一体誰が連絡をしたのか、気付けば僕を含めて両親も病室にいた。しかし、だからといってどちらも僕のことを心配している人間はいない。怪我こそは確かにしていたが所詮かすり傷程度であり、身内から声をかけられることはなかったし、せいぜい医者や看護師さんと少し会話を交わしたくらいだろう。いや、もしかしたら父さんからは声をかけられていたかも知れないが、さながら茫然自失だったという自覚はあり、僕の記憶にないだけかもしれない。だからというわけではないが、この病室は酷く居心地が悪く、早く出て行ってしまいたくて仕方がなかった。
僕の気持ちなんて露知らず、一人の医者が両親に向かっていくつか言葉を口にする。当然僕のことではなく、姉さんについての話だ。
救急車で病院に搬送されるよりも前、姉さんは既に意識不明の状態だった。外的要因による出血と内臓損傷、それと特に酷かったのは下半身の損傷である。言ってしまえば、手遅れだったのだ。
突っ込んできた車は歩道に思いきり乗り上げ、その後電柱にぶつかる形で止まったわけだが、姉さんはそれに巻き込まれた。車の正面は完全に潰れ、運転していた人は即死だったそうでまともに顔は見ていない。しかし、どうやら薬を大量に飲んだ状態で車に乗っていたらしく、混沌とした状態で運転していたのではないかという説明があった。つまりは、人を巻き込みながら自殺を図った可能性が高いのだそうだ。
その説明をされたところで姉の目が覚めるのかと言ったらそんなことはなく、母はその説明をどこまでちゃんと聞いていたのかは知らないが、泣きながら激昂していたのをよく覚えている。
『――でも、一緒にいた光希は無傷じゃない』
その矛先が、例えば警察や医者、兼ねては運転していた人の遺族であったのならまだ理解は出来たのかもしれない。勿論、余り褒められた行為ではないが。
『あなたが、こうなるように光莉を突き飛ばしたんじゃないの?』
確か母は、そんな類のことを僕に向かって口にしていた。一般的な家庭の会話の範疇を大きく超えた言いがかりに、その場に居た誰もが一度は言葉を失ったのではないだろうか? しかしそれを口にした等の本人も、流石にマズイと思ったのかすぐに僕を視界から外した。
僕はと言えば、こんな状況で今更母に取り繕おうだなんて思っておらず、ただただ黙ってその場を凌ぐことだけに努めた。というより、この時の僕には弁解するほどの気力は残っていなかったのだ。否、弁解する気は更々なかったというほうが正しいのかも知れないが。
「……それは違うと思います」
その母の言葉を受け、話に割って入ってきた一人の人物がいた。
「事故現場にいた別の歩行者や対向車の方に話を聞きましたが、そんな証言はひとつもありませんでした。それに、突き飛ばしたのは彼ではなく亡くなった光莉さんだったという証言が多く入っています」
それは父ではなく、当時交通課に所属していた村田さんだった。僕に変わって弁明する村田さんを、僕はただただ眺めることしか出来なかった。よく意味が分からなかったのだ。
「少なくとも、あなたが責めるべきなのは光希君ではありません」
僕はこの時、どうしてこの人がそこまで言って母をけん制するのかが不思議で仕方がなかった。村田さんにとっては他人事であるはずなのに、ここにいる誰よりもこの人は真剣だったのだ。
それに引き換え僕は、まるで他人事のようにこの空間に居座っている。その意図しない温度差のようなものが、余計僕の口を固く閉ざしたのである。
◇
そのすぐ後のことである。話を聞くという名目で、村田さんと二人で話す機会があった。大きな事故に分類されるようだったから、また後日警察署で話をしないとならないらしいが、病院の一室を間借りして一度話をすることになったのだ。
「……余計なお世話だったかな」
最初は本当に、事故が起きた時に何を見たのかをすり合わせる時間に当てられたが、そのやり取りは比較的早く収束した。村田さんは、手元にあった聴取の紙にペンを走らせるのを止め、少し困った顔をしながら僕に言葉を向けた。
唐突に投げられた言葉が、一体どの事象に向けられてのことなのかはすぐに理解できたものの、僕はそれに対して何か言葉を返すなどということはしない。喋りたくないというわけではなく、特に返す言葉が見つからなかったのである。それでも、この人は言葉を止めなかった。
「なんというか……。気が動転してたで片づけるのは、違うんじゃないかって思ったんだ」
「……そ、そうですかね?」
普通に考えればなんとも失礼な話だが、つまり他者からしてみればそれくらい異様だったということなのだろう。最も、あの人にその自覚があるのかはしらないが。
「あの状況でどうして光希くんのことを責められるのかなって、俺は凄く不思議だった」
躊躇なく、起きただけの真実を口にする村田さんは、僕のことを視線から話そうとはしない。その向けられた視線にどうにも居たたまれず、僕は思わず目を泳がせた。決してやましいことなんて無いはずなのに、どういうわけか落ち着きをなくしてしまったのだ。
「……母は、昔から僕にはああですから」
せっかく気にしないように努力をしてきたのに、これでは今までの苦労が台無しである。
少し語弊があったかもしれないが、間違いこそは言っていないはずだ。母は昔から姉贔屓だった。最も、虐待に値するようなことをされたことは一度も無かったと記憶しているが、例えば僕が百点をとった時と姉が百点をとった時の感情の差のようなものは、確かに存在した。情けないことに、僕が零点をとったところで恐らくは微塵も興味は無いだろうという想像をするのは簡単である。
一度だけ、父がそれを指摘していたのを見たことがあったが、それがきっかけで大喧嘩に発展したのを見たのは、もう随分と前のことだ。いつからだったか、僕は母とまともに会話を交わすことをしなくなった。
だから恐らく、そんなことを少しも感じさせてこない姉も、それにかまけて母と談笑している姉も苦手だったのかも知れない。
死人の悪口なんて本当は考えたくも無いが、口にしないだけでもまだマシなのではないだろうか。口にしてしまえば、それこそ母とやっていることに大差がないということを、僕はどこかで知っていた。
「俺交通課だし、余り役には立てないと思うけど……」
それ以上のことを言わない僕に、村田さんは少し慌てた様子であらゆるポケットを探り始めた。最初から落ち着いた気のよさそうな人である印象があったせいなのか、少し大げな仕草にとして僕の目に映ってしまう。
座っていたからテーブルで見えない部分がありよく見えなかったが、恐らくはズボンのポケットから、村田さんは革製の折りたたみの財布のようなものを取り出した。革製のそれの、ボタンが弾ける音と共に、村田さんは小さな一枚の紙を取り出し僕に差し出してくる。
「話くらいなら、いつでも聞くよ」
村田さんが僕に渡したのは、村田さんの名前と肩書きと電話番号が書いてある名刺だった。言ってしまえば、それはただの業務の一部に過ぎない行為であったに違いない。また警察にはいかなければならないらしいし、それ以外にも、何か思い出したことがあったりした場合、また警察に会うことだってあるだろう。だから恐らく、そういう形式的なものだったはずだ。
そうと分かっていながらも、ただの紙切れであるはずのそれが、僕にとっては何よりも救いのような気がしてしまい、思わず指先で静かに触れた。
◇
昔の夢というのは、少なからず変な補正が入るものだが、この時に限っては少し違った。まるで昨日のことのように鮮明だったのだ。しかし、まるで幼い頃遠い場所に出かけたことをふと思い出した時のような、なんとも曖昧な感覚が頭をいっぱいにしていた。それは決していい感情ではなく、本来忘れてはいけないものを、誰かが無理矢理思い出させてきたかのような、そんな嫌な感覚である。
(なんで今になって……)
当然、姉さんや母のことを忘れたことは一度も無い。どんなに努力をしたところで、忘れられる出来事であるわけがないからだ。
だが、それでも忘れたフリということを今までずっと続けていた。学校での噂だってなんのことだかよく分からないし、自分に姉という存在が居たかどうかということすらもねじ曲げて、最初から一人っ子であるかのように生活してきた。そうすることでしか、僕という人間を創ることが出来なかったのだ。
それなのに、高校に入学してからの状況は最悪だった。出来ることなら本当に忘れたいことであるには変わりなかったのに、それが高校に入ってから如実につきまとってきたのが、鬱陶しくて仕方が無かった。だからあの時、自分でも驚くくらいに少々強引な手を取って、飛び降り自殺の真似事をしてしまったのだろう。結局、どこかの誰かに止められてしまってそんなことは起こらなかったが。
姉さんが亡くなって約三年。両親に至っては、ようやく一年が過ぎようとしているところだ。
『――あいつ、人殺したんだってよ』
一番飛躍した噂といえば、恐らくはこの類いの言葉だろう。適当な噂を流した人物もそうだが、それを疑いもせず面白がっている人らは、一体何が楽しくてそうしてるのか、僕には全くもって理解が出来ない。
しかしこの噂は、あながち間違いではないと僕はそう思っている。無論ただの噂であるには違いなく、夏休みを挟んで自然消滅するのが当然望ましいことだとも思っている。しかし、実際のところはどうだろう? もし本当に噂なんていうものが無くなったとしても、僕の頭からはこびりついて離れてはくれないはずだ。
『あなたが光莉を殺した』
母が僕に向けた言葉。
『……光季のせいじゃないだろう?』
そして、いつだったか後になって父が半ば憐れみに近い顔で発した言葉。果たしてどちらが僕の耳からこびりついて離れないのかなんて、考えなくても明白だ。
「相谷くん」
聞き馴染みのある僕のことを呼ぶ声に、思わず肩が跳ねた。
「何考えてるの?」
声のする方へ顔を向けると、そこには橋下さんの姿があった。周りを少し見渡すと、神崎さんと宇栄原さんが前の席に座っている。まるで今日、初めてその姿を見たような気持ちだったが、それくらい今日の僕は上の空だったということなのかもしれない。
「な、なにも考えてないですけど……」
「そうなの?」
自ら足を踏み入れたはずの図書室なのに、今日はどういうわけかやけに白々しく、僕の目には映ってしまっている。そう、二学期は既に始まっているのである。
それだけ言うと、橋下さんはすぐに退いてはくれたものの不思議そうに僕のことを見つめていた。何も考えていない訳がないというのがバレてしまっているのだろうか? しかしこんなこと、とてもじゃないが誰にも言えたものではない。
やはり、僕は姉である相谷 光莉を交通事故という事象にかこつけて殺したのかも知れないと思ってしまっているということなんて、到底口に出来るはずがなかったのだ。
面白かったことや楽しかったことや、ひいては余りよくないことも、何もかも忘れる努力をしていたのである。
「光希っ」
――誰かが、僕のことを呼んでいる。
知らない間に寝入ってしまっていたのか、目を開けると自室の机に突っ伏してしまっていたようで、僕はまだ視界がぼんやりとしか映っていない中辺りを見回した。
見覚えのある家の景観は、今僕が住んでいる伯父さんの家の間取りではない。部屋のハンガーにかかっている制服の上着も、高校の制服とは似ても似つかないものである。
僕が返事をするよりも前に、その人物は既に扉をあけ顔を覗き込ませていた。僕の記憶が正しければ、僕のことを幸希と呼んでくる人物は、これまでもそう多くはなかったはずである。
「買い物、付き合わない?」
そう言いながら勝手に部屋に入ってくる某人は、長い髪を靡かせてこちらに笑みを向けた。右に少しだけ首を傾けてこちらの答えを待っているその様は、昔からなんら変わらない。
「ぼ、僕はいいよ……」
「どうして?」
この人は何かにつけて僕を呼び、何かにつけて一緒に外へ行きたがった。断りを入れても結局行くことになるのは、その人物が強引に等しいくらいのことをしてくるからなのか、僕が押しに弱いのかはよく分からない。どちらにしても、最終的に僕はこの人とよく外を歩いていた。
しかし、そこにはいつも問題が付きまとっていた。
「今日いい天気だよ? 一緒に行こ?」
実の姉である相谷 光莉(あいたに ひかり)という人物のことが、僕は苦手だったのだ。
◇
姉さんの言う通り、この日は確かに天気が良かった。秋の柔らかな風のお陰で嫌な陽の当たり方ではなく、穏やかに落ちてくる光は心地よさすらも覚えてしまう。それが多少なりとも救いであるといっても過言ではなかった。
「中間テスト、どうだった?」
「どうって言われても……。普通だったと思うけど……」
「本当? 頭のいい人の普通は普通じゃないし」
「姉さんに言われても説得力ないよ……」
少しの苦手意識を持ちながら、しかしだからといって特別どうというわけでもなく、ごく普通の会話は当然する。姉さんはこうやって茶化してくるが、テストなんてそれなりに授業に出てそれなりに勉強していればそう悪い点数にはならないだろうし、頭の良さで言うなら私立のいい所に通っている姉さんのほうが良いに違いないだろう。それに、中学生と高校生を比較したところで意味はないのではないだろうか。
姉さんの通っている私立高校は、そういうことに余り詳しくない僕でも知っているくらいには偏差値が高いことで有名で、名門校とまではいかないにしても、片手間な勉強で入れるところではないはずだ。
「……光季は高校どうするの? 私と同じところ?」
「ぼ、僕はいいよ……。特待生になれるほどの成績じゃないし」
「別に特待生になれだなんて一言もいってないのに……」
確かに、姉さんの口からは特待生という言葉は出てこなかったが、それにしても状況が悪かった。僕がそうやって言ってしまうのには、当然理由が存在する。姉さんは特待生なのだ。
姉さんのいう通り、別に無理をして特待生になる必要はないのだろう。しかし、仮に僕が本当に姉さんと同じ高校に通うとして、姉が特待生で弟が特待生ではないというのは、少々……いや、かなり心証もよくない。それに忘れてはならないのが、姉さんが通っているのは私立高校であるということだ。公立に比べればお金だってかなり必要になるし、かといって別に僕が払うわけでもないのだから、そう簡単に二つ返事できるものでもなかった。最も、特待生になれるくらいの成績と自信があったのなら、それでもよかったのかも知れないが。
「光希と一緒の制服着たいなぁ……」
どういうわけか少しむくれた姉さんに、僕は疑問を抱いた。僕が高校に入学する頃には姉さんは既に卒業しているわけで、それは当然中学でも同じだった。急にそんなことを言われたところで、僕は時間を操れるわけでもないから、やれることと言えばせいぜい困ることくらいだろう。この人は、いつもそうやって僕を困らせた。
「あ、別に無理やり同じ高校にいれてやろうだなんて思ってないけど、検討くらいはしてね!」
「う、うん……」
中学一年生の僕からしたら余り現実味がないものだけど、検討する時はいつか来るのだろうか? だとしたら、やはり勉強くらいはもう少しちゃんとやっておくべきなのかもしれない。いや、今のままでも進路には特別困らない成績は持ち合わせてはいるのだが、確かに選択肢は多いに越したことはないだろう。
昼下がり、少し雲がかかっているにも関わらず太陽はそれをものともしない。まだ少し、夏の気配が勝っているのだろうか? だとしたら嫌だなと思いながら、僕と姉さんは立ち止まった。歩行者側の信号がちょうど赤になったのだ。
いつもは車通りがそう多くはないのだが、今日は休日だからなのか少し数が多いように見えた。しかし、運転免許証も持たない僕にとっては別に関係のないことである。……関係のないことだったのだ。この時までは。
一台の車が、急にこれまでの流れを止めるような動きをした。左から走ってくるそれは、なんだかフラフラとし始めておぼつかなかったのである。僕から見ても危なっかしいと感じるくらいで、だからどうというわけではないのだが、僕は思わず半歩後ろに下がってしまう。そのすぐ後のことだ。その車は急に速度をあげて、あろうことか赤信号になったところに突っ込んできたのだ。僕は思わず目を見開き、向こうに居る歩行者もそれに釘付けだった。例えばこの時、信号無視だけで済むのならまだよかったのだろう。だが、そうではなかったのだ。
誰かの叫ぶような痛い声が、僕の耳をつんざいていく。それが一体誰の声だったのかは定かではないが、誰よりも僕の耳に届いていたに違いないだろう。姉さんが、僕を突き飛ばしたのだ。
その後のことは、この人生の中で一番刹那的な出来事だったように思う。しかし同時に、一瞬時が止まったようなそんな気がした。
大きな音と共に、姉さんの身体が吹き飛んだところを見た時、僕はそんな矛盾の蔓延る時間の中を生きていたのだ。
◇
それは、端的に言うのであれば交通事故だった。
病院に運び込まれてから、果たしてどれくらいの時間が経ったのかは酷く朧気だった。一体誰が連絡をしたのか、気付けば僕を含めて両親も病室にいた。しかし、だからといってどちらも僕のことを心配している人間はいない。怪我こそは確かにしていたが所詮かすり傷程度であり、身内から声をかけられることはなかったし、せいぜい医者や看護師さんと少し会話を交わしたくらいだろう。いや、もしかしたら父さんからは声をかけられていたかも知れないが、さながら茫然自失だったという自覚はあり、僕の記憶にないだけかもしれない。だからというわけではないが、この病室は酷く居心地が悪く、早く出て行ってしまいたくて仕方がなかった。
僕の気持ちなんて露知らず、一人の医者が両親に向かっていくつか言葉を口にする。当然僕のことではなく、姉さんについての話だ。
救急車で病院に搬送されるよりも前、姉さんは既に意識不明の状態だった。外的要因による出血と内臓損傷、それと特に酷かったのは下半身の損傷である。言ってしまえば、手遅れだったのだ。
突っ込んできた車は歩道に思いきり乗り上げ、その後電柱にぶつかる形で止まったわけだが、姉さんはそれに巻き込まれた。車の正面は完全に潰れ、運転していた人は即死だったそうでまともに顔は見ていない。しかし、どうやら薬を大量に飲んだ状態で車に乗っていたらしく、混沌とした状態で運転していたのではないかという説明があった。つまりは、人を巻き込みながら自殺を図った可能性が高いのだそうだ。
その説明をされたところで姉の目が覚めるのかと言ったらそんなことはなく、母はその説明をどこまでちゃんと聞いていたのかは知らないが、泣きながら激昂していたのをよく覚えている。
『――でも、一緒にいた光希は無傷じゃない』
その矛先が、例えば警察や医者、兼ねては運転していた人の遺族であったのならまだ理解は出来たのかもしれない。勿論、余り褒められた行為ではないが。
『あなたが、こうなるように光莉を突き飛ばしたんじゃないの?』
確か母は、そんな類のことを僕に向かって口にしていた。一般的な家庭の会話の範疇を大きく超えた言いがかりに、その場に居た誰もが一度は言葉を失ったのではないだろうか? しかしそれを口にした等の本人も、流石にマズイと思ったのかすぐに僕を視界から外した。
僕はと言えば、こんな状況で今更母に取り繕おうだなんて思っておらず、ただただ黙ってその場を凌ぐことだけに努めた。というより、この時の僕には弁解するほどの気力は残っていなかったのだ。否、弁解する気は更々なかったというほうが正しいのかも知れないが。
「……それは違うと思います」
その母の言葉を受け、話に割って入ってきた一人の人物がいた。
「事故現場にいた別の歩行者や対向車の方に話を聞きましたが、そんな証言はひとつもありませんでした。それに、突き飛ばしたのは彼ではなく亡くなった光莉さんだったという証言が多く入っています」
それは父ではなく、当時交通課に所属していた村田さんだった。僕に変わって弁明する村田さんを、僕はただただ眺めることしか出来なかった。よく意味が分からなかったのだ。
「少なくとも、あなたが責めるべきなのは光希君ではありません」
僕はこの時、どうしてこの人がそこまで言って母をけん制するのかが不思議で仕方がなかった。村田さんにとっては他人事であるはずなのに、ここにいる誰よりもこの人は真剣だったのだ。
それに引き換え僕は、まるで他人事のようにこの空間に居座っている。その意図しない温度差のようなものが、余計僕の口を固く閉ざしたのである。
◇
そのすぐ後のことである。話を聞くという名目で、村田さんと二人で話す機会があった。大きな事故に分類されるようだったから、また後日警察署で話をしないとならないらしいが、病院の一室を間借りして一度話をすることになったのだ。
「……余計なお世話だったかな」
最初は本当に、事故が起きた時に何を見たのかをすり合わせる時間に当てられたが、そのやり取りは比較的早く収束した。村田さんは、手元にあった聴取の紙にペンを走らせるのを止め、少し困った顔をしながら僕に言葉を向けた。
唐突に投げられた言葉が、一体どの事象に向けられてのことなのかはすぐに理解できたものの、僕はそれに対して何か言葉を返すなどということはしない。喋りたくないというわけではなく、特に返す言葉が見つからなかったのである。それでも、この人は言葉を止めなかった。
「なんというか……。気が動転してたで片づけるのは、違うんじゃないかって思ったんだ」
「……そ、そうですかね?」
普通に考えればなんとも失礼な話だが、つまり他者からしてみればそれくらい異様だったということなのだろう。最も、あの人にその自覚があるのかはしらないが。
「あの状況でどうして光希くんのことを責められるのかなって、俺は凄く不思議だった」
躊躇なく、起きただけの真実を口にする村田さんは、僕のことを視線から話そうとはしない。その向けられた視線にどうにも居たたまれず、僕は思わず目を泳がせた。決してやましいことなんて無いはずなのに、どういうわけか落ち着きをなくしてしまったのだ。
「……母は、昔から僕にはああですから」
せっかく気にしないように努力をしてきたのに、これでは今までの苦労が台無しである。
少し語弊があったかもしれないが、間違いこそは言っていないはずだ。母は昔から姉贔屓だった。最も、虐待に値するようなことをされたことは一度も無かったと記憶しているが、例えば僕が百点をとった時と姉が百点をとった時の感情の差のようなものは、確かに存在した。情けないことに、僕が零点をとったところで恐らくは微塵も興味は無いだろうという想像をするのは簡単である。
一度だけ、父がそれを指摘していたのを見たことがあったが、それがきっかけで大喧嘩に発展したのを見たのは、もう随分と前のことだ。いつからだったか、僕は母とまともに会話を交わすことをしなくなった。
だから恐らく、そんなことを少しも感じさせてこない姉も、それにかまけて母と談笑している姉も苦手だったのかも知れない。
死人の悪口なんて本当は考えたくも無いが、口にしないだけでもまだマシなのではないだろうか。口にしてしまえば、それこそ母とやっていることに大差がないということを、僕はどこかで知っていた。
「俺交通課だし、余り役には立てないと思うけど……」
それ以上のことを言わない僕に、村田さんは少し慌てた様子であらゆるポケットを探り始めた。最初から落ち着いた気のよさそうな人である印象があったせいなのか、少し大げな仕草にとして僕の目に映ってしまう。
座っていたからテーブルで見えない部分がありよく見えなかったが、恐らくはズボンのポケットから、村田さんは革製の折りたたみの財布のようなものを取り出した。革製のそれの、ボタンが弾ける音と共に、村田さんは小さな一枚の紙を取り出し僕に差し出してくる。
「話くらいなら、いつでも聞くよ」
村田さんが僕に渡したのは、村田さんの名前と肩書きと電話番号が書いてある名刺だった。言ってしまえば、それはただの業務の一部に過ぎない行為であったに違いない。また警察にはいかなければならないらしいし、それ以外にも、何か思い出したことがあったりした場合、また警察に会うことだってあるだろう。だから恐らく、そういう形式的なものだったはずだ。
そうと分かっていながらも、ただの紙切れであるはずのそれが、僕にとっては何よりも救いのような気がしてしまい、思わず指先で静かに触れた。
◇
昔の夢というのは、少なからず変な補正が入るものだが、この時に限っては少し違った。まるで昨日のことのように鮮明だったのだ。しかし、まるで幼い頃遠い場所に出かけたことをふと思い出した時のような、なんとも曖昧な感覚が頭をいっぱいにしていた。それは決していい感情ではなく、本来忘れてはいけないものを、誰かが無理矢理思い出させてきたかのような、そんな嫌な感覚である。
(なんで今になって……)
当然、姉さんや母のことを忘れたことは一度も無い。どんなに努力をしたところで、忘れられる出来事であるわけがないからだ。
だが、それでも忘れたフリということを今までずっと続けていた。学校での噂だってなんのことだかよく分からないし、自分に姉という存在が居たかどうかということすらもねじ曲げて、最初から一人っ子であるかのように生活してきた。そうすることでしか、僕という人間を創ることが出来なかったのだ。
それなのに、高校に入学してからの状況は最悪だった。出来ることなら本当に忘れたいことであるには変わりなかったのに、それが高校に入ってから如実につきまとってきたのが、鬱陶しくて仕方が無かった。だからあの時、自分でも驚くくらいに少々強引な手を取って、飛び降り自殺の真似事をしてしまったのだろう。結局、どこかの誰かに止められてしまってそんなことは起こらなかったが。
姉さんが亡くなって約三年。両親に至っては、ようやく一年が過ぎようとしているところだ。
『――あいつ、人殺したんだってよ』
一番飛躍した噂といえば、恐らくはこの類いの言葉だろう。適当な噂を流した人物もそうだが、それを疑いもせず面白がっている人らは、一体何が楽しくてそうしてるのか、僕には全くもって理解が出来ない。
しかしこの噂は、あながち間違いではないと僕はそう思っている。無論ただの噂であるには違いなく、夏休みを挟んで自然消滅するのが当然望ましいことだとも思っている。しかし、実際のところはどうだろう? もし本当に噂なんていうものが無くなったとしても、僕の頭からはこびりついて離れてはくれないはずだ。
『あなたが光莉を殺した』
母が僕に向けた言葉。
『……光季のせいじゃないだろう?』
そして、いつだったか後になって父が半ば憐れみに近い顔で発した言葉。果たしてどちらが僕の耳からこびりついて離れないのかなんて、考えなくても明白だ。
「相谷くん」
聞き馴染みのある僕のことを呼ぶ声に、思わず肩が跳ねた。
「何考えてるの?」
声のする方へ顔を向けると、そこには橋下さんの姿があった。周りを少し見渡すと、神崎さんと宇栄原さんが前の席に座っている。まるで今日、初めてその姿を見たような気持ちだったが、それくらい今日の僕は上の空だったということなのかもしれない。
「な、なにも考えてないですけど……」
「そうなの?」
自ら足を踏み入れたはずの図書室なのに、今日はどういうわけかやけに白々しく、僕の目には映ってしまっている。そう、二学期は既に始まっているのである。
それだけ言うと、橋下さんはすぐに退いてはくれたものの不思議そうに僕のことを見つめていた。何も考えていない訳がないというのがバレてしまっているのだろうか? しかしこんなこと、とてもじゃないが誰にも言えたものではない。
やはり、僕は姉である相谷 光莉を交通事故という事象にかこつけて殺したのかも知れないと思ってしまっているということなんて、到底口に出来るはずがなかったのだ。