一学期の期末テストが終わったということは、次に待ち受けているのは一体何か?
(……暑い)
そう、一か月という長いだけで殆ど意味を成さない夏休みである。
太陽の熱射と、アスファルトから伝う熱気が僕を離してはくれない。いっそこのまま家に戻ってしまいたい気分だが、僕はこのただ暑いだけの真夏の真っ只中に、とある場所へと歩いていた。一応目的地としてそこを選んだのだが、少し遠かったかもしれないと後悔している最中だ。
夏休みが始まって三日と過ぎた頃だろうか? ずっと家に居るというのも気が引けてしまい、特に用もないのに出掛けることにしたのだが、その場所が見えてすぐ、思い出してしまったことがあったのだ。
(……流石に鉢合わせは考えすぎか)
この図書館は確か神崎さんがよく来るとか来ないとか、そんなことを言っていた場所である。
しかしそうは言っても、数ある夏休みの日数に加えて、時間までそのまま被るなんてことはそうそう起きないだろう。木の隙間から見える図書館をチラチラと視界に入れながら、歩みを進めていった。この暑さには正直飽き飽きしているが、図書館の中に入ればまだマシになるだろうし、帰る頃には申し訳程度だろうが気温も下がっていることだろう。そう気持ちを騙しながら進むほかなかった。
ようやく見えてきた図書館の出入り口に少し安堵したのもつかの間、僕は思わず足を止めた。この炎天下のなか、止まることを余儀なくされたのだ。
つい先ほど、数ある夏休みに時間まで被って誰かと会うなんてことは起きないだろうと思った。しかし前言撤回する。
(凄いこっち見てる……)
見慣れない姿の見慣れた顔の人物が、図書館の出入り口の前でなにをするでもなくただただこちらを見つめていた。
(神崎さん、ほんとに来てるんだ……)
まるで幻の存在に出会った時のような感想になってしまったが、こうして実際に遭遇してみないといまいち実感が湧かないものである。
向こうも僕を見て止まっていただけなのだろう。僅かに目をそらした後、神崎さんはドアが自動に開かれたタイミングで図書館の中へと消えていく。それを皮切りに、ようやく僕の時間も動いたような、そんな気がした。
これはいわゆる無視をされたと言えばいいのか、僕は人知れず少し判断に困っていた。確かに、鉢合わせたからといって別に一緒にいないといけないわけでもないし、向こうだってただ図書館に本を返しに来ただけですぐに帰るのかもしれない。それに、例えば僕が神崎さん側だったら似たような行動をとってしまいそうな気がしてならないのだ。
人の出入りのタイミングが悪く、自動ドアではなく手動の少し重めの扉に手をかけた。その時見えた光景に、思わずまた時を止めてしまいたくなったのを、この時ばかりは無意識に制御していたのだろう。
ドアを開け、少し広いエントランスホールが見えたところまでは特に問題はなかったのだが、図書館に入る段階では見えない視覚のようなところに、その人はいた。
「……な、なにやってるんですか?」
「いや……」
こういうとき、神崎さんはいつも否定をするのだ。
「無視されたと思われるのも嫌だろ……」
「そ、そうですね……?」
神崎さんはこういう人であるというのをなんとなく理解しながらも、恐らく僕はまだ、ちゃんと認識しきれていなかったのである。
◇
その後、神崎さんはすぐに僕の側から消えてどこかにいってしまった。僕はと言えば、なるべくもう神崎さんに会わないようにと、少々忍び足で探りながら歩き、適当な席へとついた。一応、余り一目につかないような場所を選んだつもりではあるが、夏休みだからなのか平日なのにそれなりに席が埋まっており、その辺りのことは余り期待は出来ないだろう。
荷物をこじんまりとテーブルに広げ、特に意味のない夏休みの宿題に仕方なく手をつけていた。
夏休みの宿題なんて、普通にやっても七月中には終わってしまうくらいの量だったから、別にこんなところでやる必要なんてないのだが、かといってそれ以外にやることがあるわけでもなかった。
せっかく図書館に来たのだから本くらい見てみればいいのにと思わなくもないが、図書館にある本というと専門学的なものが多く、一般的な学生が見るものは正直そこまで多くないというのを僕は知っていた。これなら、学校の図書室で暇を潰すほうが幾らかマシである。最も、夏休みの間図書室が空いているわけでもないが。
それに、一応もうひとつ理由があった。
(動いたら、神崎さんに会う確率上がっちゃうし……)
今もまだ図書館にいるのかどうかは分からないが、どちらにしても、確率が上がることは極力避けたいものである。
僕が席についてから、恐らくは数十分は経っていたことだろう。手元にある教科書は、始めてから既に三ページ目が終わろうとしていた。ページを捲ろうと手を伸ばした時、誰かが僕の隣の席に近づいてくる気配を感じ、ここに来てから久しく顔をあげた。
「な、なんですか……?」
「……別に、どこ座ったっていいだろ」
「それはまあ……そうですね」
こうして大人しく座っていても神崎さんのほうから来てしまうのだから、もうこれ以上はどうしようもないというものである。
神崎さんの言っていることは概ね正しく、思わず納得してしまった僕は、それ以上深く詮索するのを止めた。別に席が決まっている映画館ではないのだから、僕がこれ以上どうこう言えるわけがなかった。
取りあえず一旦見なかったことにしようと思い、再びノートと向かいあう。神崎さんは手元にある本を読んでいるのかいないのか、ページを行ったり来たりしていてとても落ち着きがいように見えた。その神崎さんの様子に、いつだったかの既視感を覚えてしまう。
「……もしかして、僕が一段落するの待ってます?」
ここで僕は、どういうわけか神崎さんに話しかけるという選択肢を選んだ。小さな声で、しかし神崎さんには聞こえているであろう声量でそう口にする。すると、一度は僕と目が合いはしたもののすぐに目を逸らして難しい顔になった。ばつが悪かったというのが正しいのか、しかしそういう反応をするということは本当に僕に話しかけるタイミングを見計らっていたのだろう。
「そ、それならそうだって言ってくれればよかったのに……」
「……なにも言ってないだろ」
「そういう顔してますよ……」
今日、こうしてばったり出会ってしまったのは確かに偶然のはずだ。そうじゃないと言うのなら、神崎さんが僕の家に盗聴機を仕掛けて居場所を把握しているストーカーになってしまう。
「……この前、僕に何か聞きたがってましたよね」
正直、ここまでして神崎さんが一体僕の何を知りたがっているのかは、いまいちよく分からない。……否、よく分からないと思うことで、心当たりなんて何もないと思いたかったのだろう。
しかしまあ、それも神崎さんと二人きりになったら余り意味がないというものである。どちらかというとそれは、諦めに近かった。どうも神崎さんは僕と二人で話がしたいようだから、遅かれ早かれこうして捕まってしまうだろう。それがたまたま、この図書館だったというだけの話だ。
「あと二十分、待ってもらってもいいですか?」
この三十分という猶予は、別に今手元にある作業が終わるのに本当にそれだけの時間がかかるというわけではない。少しだけ、頭の中を整理する時間が欲しかったのである。
◇
図書館のロビーの騒がしさは、さながら学校の図書室のそれによく似ていた。無駄に騒がしいわけでもなく、邪魔にならない程度の会話の声が丁度良かった。どうやら休憩室のようなところはまた別にあるらしいが、神崎さんが先導して歩いていった先がロビーだったのだ。
図書館に来たときも通ったはずなのに気がつかなかったが、ここにはどうやら売店があるらしい。売られているものはその辺りにある自動販売機と大差がないものの、軽食も普通に買えるのだそうだ。昼はとうに過ぎているから、中にある休憩室よりもこっちの方が人が少ないのだと神崎さんはそう言っていた。その発言から想像するに、やはり神崎さんは図書館によく足を運ぶらしい。
「……お前は?」
「え?」
「いや、飲み物……」
「あ、えっと……これで」
神崎さんに催促され慌てて口にしてしまったが、いっそ断ってしまったほうがよかったかもしれない。というより、財布すら鞄から出していなかったのだ。
「財布出すなよ」慌てて財布を鞄から出していると、神崎さんが何故かそんなことを言った。
「な、なんでですか……」
「いらないっての」
そう言いながら、神崎さんは僕の財布を突っぱねる。ひと蹴りされた言葉はすでにどこかに行ってしまったが、その代わり僕が頼んだ飲み物を半ば強制的に押し付けられた。神崎さんがそのままそそくさと逃げようとしているのを、紙コップから滴ってくる水滴を少し気にしながら、せっかく鞄から出した財布を手に持ったまま後をついていった。
そう多くはない席とテーブルの中、この開けた空間の中では比較的目に付きにくい奥の方にある席を陣取った。テーブルは少し低めで、椅子もプラスチック素材のような何処にでもあるようなものではなく、ソファーが採用されている。売店というよりは小さな喫茶店のような印象だった。行き場をなくした財布は、神崎さんの視線がチラリとこちらへ向いた瞬間、すぐ鞄にしまわれた。
もう少し人が居なくなるまでの間、特に会話という会話は生まれない。コップの回りに滴り始めた水滴は、僕の手をすっかりと濡らしてしまっていた。だが、それが特別嫌というわけではなかった。
(なんの話だろう……)
それよりも、果たしていつ本題に入るのだろうかという思いで僕の頭の中はいっぱいだった。きっと、今日こそは神崎さんは僕を逃がさないだろう。……逃がさないというよりは、今日こんなことになったのは僕が話をし出したからの気がしなくもないが。
思い当たる節が全くないとは言いきれないのだが、それを僕のほうから口にしたとして、万が一違っていたらと思うと、やっぱり神崎さんが口を開くのを待つほかない。意図しない話に持っていかれる方が、弁解しようがないのだ。
「……学校で、変な話を聞いた」
どこか、諦めにも通ずるものがあったのかもしれない。しかしやはり、僕はこの話を余り振られたくなかったのだろう。
「過去に、お前が殺人未遂をしたって話だった」
この時、神崎さんの顔を見れたものではなかったが、その話を聞いて特別驚くことはしなかった。
「……今はそんな感じになってるんですね」
どうせなら、こうしてわざわざ神崎さんと二人になったのだから、本当はもう少し違う話がしたかった。例えばそう、前に神崎さんが渡してくれた本の話とか、それくらいのなんの身にもならない話が良かった。
「嘘か本当かで言うと、嘘ではないかもしれません」
だって僕と神崎さんは、そういった雑談の類いをまだまともにしていないのである。本当に、一度としてそういう会話をしたことがない。今まで何度かそのチャンスはあったと思うのだが、僕が覚えている限りでは、せいぜい三言が精一杯だった。それがようやく、そうではなくなりつつあったのである。
「両親が死んだとき、僕が容疑者だったっていうのは本当ですよ」
それなのに、どうしてこんな話で幾つも会話を交わすことになってしまうのだろうか? それを理解しようとするのは、かなり難しかった。
「入学した時はもっと露骨だったんですよね。特にクラスの中は」
ああ、僕が殺したというのは流石に嘘ですよ。この時、そうやってちゃんと否定しておけばよかったかもしれない。今さら何を弁明したところで余りにも意味がないとは思うものの、そこだけはちゃんと言っておかなければならなかっただろうか?
「……虐めか?」
「ああいや、そういうわけじゃないですけど……」
最も、思い返せば何もなかったというわけではなかったかもしれない。小さな嫌がらせのようなものもあったのだろうし、それよりももっと露骨なことはあったのかもしれない。というより、噂なんてその中でも最たるものだろう。
でも僕の中で、それは余りにもどうでも良かった。本当に、どうだって構わなかったのだ。
「……でも、橋下さんがお昼休みに僕のところに来るようになってからは、少しずつそういうのも減っていったんですよ」
しかし、本当にそう思っていたのなら、あの時屋上になんていく必要はなかったのではないだろうかと思うと、もう自分がどういう感情を持ち合わせているのか、最早分からなかった。
不思議ですよね。そう続けて口にすると、神崎さんはどういうわけか少し難しい顔をした。
「神崎さんは、その噂聞いてどう思いました?」
少し意地悪な質問だっただろうか? それでも僕は、どうしてこの人がこの話を持ち出したのかが気がかりだった。それは決して、この噂で果たして神崎さんが僕を嫌いになったかどうかを試したかったわけでも何でもない。
きっとこの人は、嫌なことは嫌と言ってしまうだろうし、違うと思ったことは違うとちゃんと口にするのだろう。だからこそ、何を思って神崎さんはこの話を僕としようとしたのかを知りたかったのかもしれない。
「……出来れば、そういうのは失くしてやりたい」
そのうえで、何か安堵に近いものを手にしたかったのだとするなら、僕はこの神崎 拓真という人物のことを、自分でも気が付かないうちに信用してしまっていたのだろうか?
「この話、宇栄原は多分まだ知らないと思う。知ってて何もしないような奴じゃない。でもそれよりももっと前に、橋下が既に行動してた」
まるで独り言であるかのように、この時の神崎さんはここではないどこかに喋っているようだった。
「俺には多分無理だな……」
そして最後には、自分の不甲斐なさを呪うような言葉を落としていった。
一体何に落ち込んでいるのかはよく分からないが、果たして本当に神崎さんが言うとおりのだろうか? 本当に無理だと思うのであれば、こうして直接僕に話を聞こうとしてくるのだろうか? しかも神崎さんは、前に一度僕にそれを聞こうとしたのだろうが失敗している。それなのに、今こうして一対一で話が出来る状況にまで持ち込んだのだ。……持ち込んだのは、どちらかというと僕の方ではあるが。
「……本当に、そうなんですかね?」
この言葉をうけて、はじめて僕は「ああ、神崎さんってこういう人だったんだな」と思った。
僕は神崎さんに一番最初に会ったとき、怖いと思った。いや、正直今でも思っているが、その理由が少しだけ分かったような気がする。
神崎さんは、いつも誰かに何かを言いたそうにしながらも、その「何か」を余り口にすることはない。いや、もしかしたらそこには何もないのかも知れないが、何れにしても、宇栄原さんや橋下さんよりも言葉数が少ないことは確かだろう。だからこそ、この人と話をするのは少し勇気がいるのである。
「今、神崎さんはほかの二人には出来ないことをしてると思いますけど……」
僕と話す必要が無いくらいに、何かを見透かされてしまっているのではないかという気がしてしまって、怖かったのだ。
「いや迷惑だろ。急にこんな話し始めるとか……」
でも、どうやら考えを改めないといけないらしい。
「どうせ話すなら、しょーもない話の方が良かったな……」
僕も神崎さんと同じくらいに何も言わないから、きっと単純に気になっていただけなのだろう。
「じゃ、じゃあ……」
だからお互いに、よく目が合っていたのだ。
「僕と、おんなじですね」
神崎さんは僕と一緒で、こういう話をするよりも前に単純にくだらない雑談でもしたかっただけなのかもしれない。それでも、こんな話を誰にでもなく神崎さんに口にしてしまったのは、きっと神崎さんの力そのものではないだろうか?
「ま、まあでも、夏休みが挟んだらきっとみんな忘れますよ。今のところ、噂以上のおおごとにはなってないですし……」
気休め程度に聞こえてしまったかも分からないが、実際のところ、今は僕ですらその噂の類いを聞くことは余りなくなり、いわゆる色眼鏡で見られることもそう多くはなくなった。最も、減ったというだけで完全に消えたわけではないのだが、自然消滅出来るくらいのものになっているような気もするし、忘れられるのも時間の問題ではないかと、そう感じている。
「……あいつも似たようなこと言ってたな」
「あいつ……?」
そう言ったかと思うと、どういうわけか項垂れる様子を見せる神崎さんは、ぼそりととある人物の名前を口にした。その名前を聞いて、どういうわけか僕は少しどきりとした。
「……でも橋下さん、そのことを話題にあげたことは一度もないですよ?」
「だろうな……」
一体何に納得したのか、僕は思わず首を傾げた。しかし残念ながら、それに対する答えは返ってくる気配は全く訪れなかった。
「……もうこの話は聞かない」
思っていたよりもとでも言うべきか、神崎さんはこの話から比較的簡単に退いた印象を受けた。もう少し詰め寄られると思っていたのだが、神崎さんの中で聞きたいことが聞けたという解釈でいいのだろうか?
「別に、お前を困らせたいわけじゃないからな」
「……僕そんなに困ってました?」
自覚こそ無かったものの、そう言われてしまうと思うと些か申し訳なさが募ってしまう。もしかすると僕は、神崎さんに相当気を遣わせてしまっているのかもしれない。しかし、質問をされる側がここで駄々をこねるというのも可笑しな話だ。僕に対する何かの引っかかりが少しでも減っていればいいと願うくらいのことしか、今のところ出来そうにない。
「あと、今日のことは宇栄原には内緒な」
「どうしてですか……?」
「……ここには来ないってことになってるから」
一体どういうことなのか、神崎さんは僕に今日のことは内緒にしてほしいというお願いをしてきた。どうやら、神崎さんは神崎さんで内緒にしている事柄があるらしい。しかもそれが宇栄原さんにたいしてなのだから、何かよっぽどのことがあるのかもしれない。
「……なら、神崎さんは今日何しに図書館に来たんですか?」
ずっと気になっていたのたが、神崎さんの荷物は殆どないといっても過言ではなく、準備をして図書館に来たというわけでもなさそうで、軽装そのものだったのだ。
「……本、借りてたっぽかったけど覚えてなくて怒られたから返しにきた」
「そ、そうなんですね……」
よく見ると、神崎さんを図書館で見たときから目にしていた本は、僕でも名前を知っている人物だった。読んだことこそないものの、かなり昔に話題になったということくらいは知っている。確か、男女の愛憎がどうとかいうミステリー小説じゃなかっただろうか? 内容からして、神崎さんの趣味とは少し違うような気がしてしまうのは、流石に僕の思い違いなのかもしれない。
「……それ、全部読みました?」
「まあ、一応……」
それだけ口にした神崎さんは、どういうわけか余り浮かない顔をしていた。今日これまでで、一番浮かない顔をしているのではないかと思ってしまうくらいにである。
「知ってるのか?」
「えっと……読んだことはないですけど、なんとなくは知ってます。どうでした?」
もし神崎さんのお墨付きがつくような内容だったら、いつか読んでみるのもありかも知れななどと思ったのだ。どこぞの評論家が評したものよりも、身近な人物からの感想の方が、よっぽど興味があるというものである。
ほんの僅か、神崎さんが考えた時間は比較的すぐに終わりを告げた。
「……あんまり好きじゃなかったな」
浮かない顔をしていたのはそれかと納得をしつつ、そこまで顔に出されてしまうと逆に気になってしまう。何がそんなに神崎さんを困らせたのだろうか?
どうやら僕は、まだ神崎さんのことをよく分かってはいないらしい。
◇
クーラーの機械的な風に慣れてしまっていた僕らに、外の空気は少々痛々しく肌に刺さっていった。
「き、今日はありがとうございました……」
「……俺は別に何もしてない」
「そんなことはないと思いますけど……」
僕と神崎さんが図書館で鉢合わせをしてから、時間は既に一時間以上経過していた。それに気づいた神崎さんが、すぐさま帰ると言い出し、手にしていた本を返しに向かった。最初は何か用事でもあるのかと思っていたのだけど、どうやら我に返って急に居たたまれなくなっただけのようだった。しかしそんな態度を取られてしまうと僕もそれにつられてしまうというもので、図書館を出るとなったときはやけに忙しなかった。行動がと言うよりは、気持ちだけが急いたのである。
時刻はまだ夕方と呼ぶにはふさわしくなく、それを体現するかのように空はまだ青々としている。そのせいもあってか、僕が図書館へと向かっていた時間と比べても、気温が下がっているような気配は一向に感じなかった。
生ぬるい風が静かに辺りで靡く。その時、何かが横切ったようなそんな気がして僕は後ろを振り向いた。
「……相谷?」
「あ、はい……」
しかし振り向いた先に誰がいるわけでもなく、ただただ風が頬を撫でてくるだけに留まった。もしかすると風に感化されて身体が動いただけかもしれないが、それにしては視界に何かが映ったようなそんな気がしてならなかった。しいて言うのであれば遠くの方に数人の姿が見えるものの、それは到底さっき誰かが横を通って行ったと呼べるほど近い距離でもない。
(気のせいか……)
神崎さんも特に気にしていないようだし、僕もこれ以上どうというわけではなかったのもあり、すぐに足を翻した。少し後ろ髪を引かれる何かを感じながらも、見据えていたのは先を歩く神崎さんの姿だけである。
これはあくまでも例えばの話だが、そこでどちらかが何かを認識できていたなら、また少し違う状況が待っていたのだろうか? しかし今更、流れ過ぎた時間のことを考えたところで意味はないというものである。
(……暑い)
そう、一か月という長いだけで殆ど意味を成さない夏休みである。
太陽の熱射と、アスファルトから伝う熱気が僕を離してはくれない。いっそこのまま家に戻ってしまいたい気分だが、僕はこのただ暑いだけの真夏の真っ只中に、とある場所へと歩いていた。一応目的地としてそこを選んだのだが、少し遠かったかもしれないと後悔している最中だ。
夏休みが始まって三日と過ぎた頃だろうか? ずっと家に居るというのも気が引けてしまい、特に用もないのに出掛けることにしたのだが、その場所が見えてすぐ、思い出してしまったことがあったのだ。
(……流石に鉢合わせは考えすぎか)
この図書館は確か神崎さんがよく来るとか来ないとか、そんなことを言っていた場所である。
しかしそうは言っても、数ある夏休みの日数に加えて、時間までそのまま被るなんてことはそうそう起きないだろう。木の隙間から見える図書館をチラチラと視界に入れながら、歩みを進めていった。この暑さには正直飽き飽きしているが、図書館の中に入ればまだマシになるだろうし、帰る頃には申し訳程度だろうが気温も下がっていることだろう。そう気持ちを騙しながら進むほかなかった。
ようやく見えてきた図書館の出入り口に少し安堵したのもつかの間、僕は思わず足を止めた。この炎天下のなか、止まることを余儀なくされたのだ。
つい先ほど、数ある夏休みに時間まで被って誰かと会うなんてことは起きないだろうと思った。しかし前言撤回する。
(凄いこっち見てる……)
見慣れない姿の見慣れた顔の人物が、図書館の出入り口の前でなにをするでもなくただただこちらを見つめていた。
(神崎さん、ほんとに来てるんだ……)
まるで幻の存在に出会った時のような感想になってしまったが、こうして実際に遭遇してみないといまいち実感が湧かないものである。
向こうも僕を見て止まっていただけなのだろう。僅かに目をそらした後、神崎さんはドアが自動に開かれたタイミングで図書館の中へと消えていく。それを皮切りに、ようやく僕の時間も動いたような、そんな気がした。
これはいわゆる無視をされたと言えばいいのか、僕は人知れず少し判断に困っていた。確かに、鉢合わせたからといって別に一緒にいないといけないわけでもないし、向こうだってただ図書館に本を返しに来ただけですぐに帰るのかもしれない。それに、例えば僕が神崎さん側だったら似たような行動をとってしまいそうな気がしてならないのだ。
人の出入りのタイミングが悪く、自動ドアではなく手動の少し重めの扉に手をかけた。その時見えた光景に、思わずまた時を止めてしまいたくなったのを、この時ばかりは無意識に制御していたのだろう。
ドアを開け、少し広いエントランスホールが見えたところまでは特に問題はなかったのだが、図書館に入る段階では見えない視覚のようなところに、その人はいた。
「……な、なにやってるんですか?」
「いや……」
こういうとき、神崎さんはいつも否定をするのだ。
「無視されたと思われるのも嫌だろ……」
「そ、そうですね……?」
神崎さんはこういう人であるというのをなんとなく理解しながらも、恐らく僕はまだ、ちゃんと認識しきれていなかったのである。
◇
その後、神崎さんはすぐに僕の側から消えてどこかにいってしまった。僕はと言えば、なるべくもう神崎さんに会わないようにと、少々忍び足で探りながら歩き、適当な席へとついた。一応、余り一目につかないような場所を選んだつもりではあるが、夏休みだからなのか平日なのにそれなりに席が埋まっており、その辺りのことは余り期待は出来ないだろう。
荷物をこじんまりとテーブルに広げ、特に意味のない夏休みの宿題に仕方なく手をつけていた。
夏休みの宿題なんて、普通にやっても七月中には終わってしまうくらいの量だったから、別にこんなところでやる必要なんてないのだが、かといってそれ以外にやることがあるわけでもなかった。
せっかく図書館に来たのだから本くらい見てみればいいのにと思わなくもないが、図書館にある本というと専門学的なものが多く、一般的な学生が見るものは正直そこまで多くないというのを僕は知っていた。これなら、学校の図書室で暇を潰すほうが幾らかマシである。最も、夏休みの間図書室が空いているわけでもないが。
それに、一応もうひとつ理由があった。
(動いたら、神崎さんに会う確率上がっちゃうし……)
今もまだ図書館にいるのかどうかは分からないが、どちらにしても、確率が上がることは極力避けたいものである。
僕が席についてから、恐らくは数十分は経っていたことだろう。手元にある教科書は、始めてから既に三ページ目が終わろうとしていた。ページを捲ろうと手を伸ばした時、誰かが僕の隣の席に近づいてくる気配を感じ、ここに来てから久しく顔をあげた。
「な、なんですか……?」
「……別に、どこ座ったっていいだろ」
「それはまあ……そうですね」
こうして大人しく座っていても神崎さんのほうから来てしまうのだから、もうこれ以上はどうしようもないというものである。
神崎さんの言っていることは概ね正しく、思わず納得してしまった僕は、それ以上深く詮索するのを止めた。別に席が決まっている映画館ではないのだから、僕がこれ以上どうこう言えるわけがなかった。
取りあえず一旦見なかったことにしようと思い、再びノートと向かいあう。神崎さんは手元にある本を読んでいるのかいないのか、ページを行ったり来たりしていてとても落ち着きがいように見えた。その神崎さんの様子に、いつだったかの既視感を覚えてしまう。
「……もしかして、僕が一段落するの待ってます?」
ここで僕は、どういうわけか神崎さんに話しかけるという選択肢を選んだ。小さな声で、しかし神崎さんには聞こえているであろう声量でそう口にする。すると、一度は僕と目が合いはしたもののすぐに目を逸らして難しい顔になった。ばつが悪かったというのが正しいのか、しかしそういう反応をするということは本当に僕に話しかけるタイミングを見計らっていたのだろう。
「そ、それならそうだって言ってくれればよかったのに……」
「……なにも言ってないだろ」
「そういう顔してますよ……」
今日、こうしてばったり出会ってしまったのは確かに偶然のはずだ。そうじゃないと言うのなら、神崎さんが僕の家に盗聴機を仕掛けて居場所を把握しているストーカーになってしまう。
「……この前、僕に何か聞きたがってましたよね」
正直、ここまでして神崎さんが一体僕の何を知りたがっているのかは、いまいちよく分からない。……否、よく分からないと思うことで、心当たりなんて何もないと思いたかったのだろう。
しかしまあ、それも神崎さんと二人きりになったら余り意味がないというものである。どちらかというとそれは、諦めに近かった。どうも神崎さんは僕と二人で話がしたいようだから、遅かれ早かれこうして捕まってしまうだろう。それがたまたま、この図書館だったというだけの話だ。
「あと二十分、待ってもらってもいいですか?」
この三十分という猶予は、別に今手元にある作業が終わるのに本当にそれだけの時間がかかるというわけではない。少しだけ、頭の中を整理する時間が欲しかったのである。
◇
図書館のロビーの騒がしさは、さながら学校の図書室のそれによく似ていた。無駄に騒がしいわけでもなく、邪魔にならない程度の会話の声が丁度良かった。どうやら休憩室のようなところはまた別にあるらしいが、神崎さんが先導して歩いていった先がロビーだったのだ。
図書館に来たときも通ったはずなのに気がつかなかったが、ここにはどうやら売店があるらしい。売られているものはその辺りにある自動販売機と大差がないものの、軽食も普通に買えるのだそうだ。昼はとうに過ぎているから、中にある休憩室よりもこっちの方が人が少ないのだと神崎さんはそう言っていた。その発言から想像するに、やはり神崎さんは図書館によく足を運ぶらしい。
「……お前は?」
「え?」
「いや、飲み物……」
「あ、えっと……これで」
神崎さんに催促され慌てて口にしてしまったが、いっそ断ってしまったほうがよかったかもしれない。というより、財布すら鞄から出していなかったのだ。
「財布出すなよ」慌てて財布を鞄から出していると、神崎さんが何故かそんなことを言った。
「な、なんでですか……」
「いらないっての」
そう言いながら、神崎さんは僕の財布を突っぱねる。ひと蹴りされた言葉はすでにどこかに行ってしまったが、その代わり僕が頼んだ飲み物を半ば強制的に押し付けられた。神崎さんがそのままそそくさと逃げようとしているのを、紙コップから滴ってくる水滴を少し気にしながら、せっかく鞄から出した財布を手に持ったまま後をついていった。
そう多くはない席とテーブルの中、この開けた空間の中では比較的目に付きにくい奥の方にある席を陣取った。テーブルは少し低めで、椅子もプラスチック素材のような何処にでもあるようなものではなく、ソファーが採用されている。売店というよりは小さな喫茶店のような印象だった。行き場をなくした財布は、神崎さんの視線がチラリとこちらへ向いた瞬間、すぐ鞄にしまわれた。
もう少し人が居なくなるまでの間、特に会話という会話は生まれない。コップの回りに滴り始めた水滴は、僕の手をすっかりと濡らしてしまっていた。だが、それが特別嫌というわけではなかった。
(なんの話だろう……)
それよりも、果たしていつ本題に入るのだろうかという思いで僕の頭の中はいっぱいだった。きっと、今日こそは神崎さんは僕を逃がさないだろう。……逃がさないというよりは、今日こんなことになったのは僕が話をし出したからの気がしなくもないが。
思い当たる節が全くないとは言いきれないのだが、それを僕のほうから口にしたとして、万が一違っていたらと思うと、やっぱり神崎さんが口を開くのを待つほかない。意図しない話に持っていかれる方が、弁解しようがないのだ。
「……学校で、変な話を聞いた」
どこか、諦めにも通ずるものがあったのかもしれない。しかしやはり、僕はこの話を余り振られたくなかったのだろう。
「過去に、お前が殺人未遂をしたって話だった」
この時、神崎さんの顔を見れたものではなかったが、その話を聞いて特別驚くことはしなかった。
「……今はそんな感じになってるんですね」
どうせなら、こうしてわざわざ神崎さんと二人になったのだから、本当はもう少し違う話がしたかった。例えばそう、前に神崎さんが渡してくれた本の話とか、それくらいのなんの身にもならない話が良かった。
「嘘か本当かで言うと、嘘ではないかもしれません」
だって僕と神崎さんは、そういった雑談の類いをまだまともにしていないのである。本当に、一度としてそういう会話をしたことがない。今まで何度かそのチャンスはあったと思うのだが、僕が覚えている限りでは、せいぜい三言が精一杯だった。それがようやく、そうではなくなりつつあったのである。
「両親が死んだとき、僕が容疑者だったっていうのは本当ですよ」
それなのに、どうしてこんな話で幾つも会話を交わすことになってしまうのだろうか? それを理解しようとするのは、かなり難しかった。
「入学した時はもっと露骨だったんですよね。特にクラスの中は」
ああ、僕が殺したというのは流石に嘘ですよ。この時、そうやってちゃんと否定しておけばよかったかもしれない。今さら何を弁明したところで余りにも意味がないとは思うものの、そこだけはちゃんと言っておかなければならなかっただろうか?
「……虐めか?」
「ああいや、そういうわけじゃないですけど……」
最も、思い返せば何もなかったというわけではなかったかもしれない。小さな嫌がらせのようなものもあったのだろうし、それよりももっと露骨なことはあったのかもしれない。というより、噂なんてその中でも最たるものだろう。
でも僕の中で、それは余りにもどうでも良かった。本当に、どうだって構わなかったのだ。
「……でも、橋下さんがお昼休みに僕のところに来るようになってからは、少しずつそういうのも減っていったんですよ」
しかし、本当にそう思っていたのなら、あの時屋上になんていく必要はなかったのではないだろうかと思うと、もう自分がどういう感情を持ち合わせているのか、最早分からなかった。
不思議ですよね。そう続けて口にすると、神崎さんはどういうわけか少し難しい顔をした。
「神崎さんは、その噂聞いてどう思いました?」
少し意地悪な質問だっただろうか? それでも僕は、どうしてこの人がこの話を持ち出したのかが気がかりだった。それは決して、この噂で果たして神崎さんが僕を嫌いになったかどうかを試したかったわけでも何でもない。
きっとこの人は、嫌なことは嫌と言ってしまうだろうし、違うと思ったことは違うとちゃんと口にするのだろう。だからこそ、何を思って神崎さんはこの話を僕としようとしたのかを知りたかったのかもしれない。
「……出来れば、そういうのは失くしてやりたい」
そのうえで、何か安堵に近いものを手にしたかったのだとするなら、僕はこの神崎 拓真という人物のことを、自分でも気が付かないうちに信用してしまっていたのだろうか?
「この話、宇栄原は多分まだ知らないと思う。知ってて何もしないような奴じゃない。でもそれよりももっと前に、橋下が既に行動してた」
まるで独り言であるかのように、この時の神崎さんはここではないどこかに喋っているようだった。
「俺には多分無理だな……」
そして最後には、自分の不甲斐なさを呪うような言葉を落としていった。
一体何に落ち込んでいるのかはよく分からないが、果たして本当に神崎さんが言うとおりのだろうか? 本当に無理だと思うのであれば、こうして直接僕に話を聞こうとしてくるのだろうか? しかも神崎さんは、前に一度僕にそれを聞こうとしたのだろうが失敗している。それなのに、今こうして一対一で話が出来る状況にまで持ち込んだのだ。……持ち込んだのは、どちらかというと僕の方ではあるが。
「……本当に、そうなんですかね?」
この言葉をうけて、はじめて僕は「ああ、神崎さんってこういう人だったんだな」と思った。
僕は神崎さんに一番最初に会ったとき、怖いと思った。いや、正直今でも思っているが、その理由が少しだけ分かったような気がする。
神崎さんは、いつも誰かに何かを言いたそうにしながらも、その「何か」を余り口にすることはない。いや、もしかしたらそこには何もないのかも知れないが、何れにしても、宇栄原さんや橋下さんよりも言葉数が少ないことは確かだろう。だからこそ、この人と話をするのは少し勇気がいるのである。
「今、神崎さんはほかの二人には出来ないことをしてると思いますけど……」
僕と話す必要が無いくらいに、何かを見透かされてしまっているのではないかという気がしてしまって、怖かったのだ。
「いや迷惑だろ。急にこんな話し始めるとか……」
でも、どうやら考えを改めないといけないらしい。
「どうせ話すなら、しょーもない話の方が良かったな……」
僕も神崎さんと同じくらいに何も言わないから、きっと単純に気になっていただけなのだろう。
「じゃ、じゃあ……」
だからお互いに、よく目が合っていたのだ。
「僕と、おんなじですね」
神崎さんは僕と一緒で、こういう話をするよりも前に単純にくだらない雑談でもしたかっただけなのかもしれない。それでも、こんな話を誰にでもなく神崎さんに口にしてしまったのは、きっと神崎さんの力そのものではないだろうか?
「ま、まあでも、夏休みが挟んだらきっとみんな忘れますよ。今のところ、噂以上のおおごとにはなってないですし……」
気休め程度に聞こえてしまったかも分からないが、実際のところ、今は僕ですらその噂の類いを聞くことは余りなくなり、いわゆる色眼鏡で見られることもそう多くはなくなった。最も、減ったというだけで完全に消えたわけではないのだが、自然消滅出来るくらいのものになっているような気もするし、忘れられるのも時間の問題ではないかと、そう感じている。
「……あいつも似たようなこと言ってたな」
「あいつ……?」
そう言ったかと思うと、どういうわけか項垂れる様子を見せる神崎さんは、ぼそりととある人物の名前を口にした。その名前を聞いて、どういうわけか僕は少しどきりとした。
「……でも橋下さん、そのことを話題にあげたことは一度もないですよ?」
「だろうな……」
一体何に納得したのか、僕は思わず首を傾げた。しかし残念ながら、それに対する答えは返ってくる気配は全く訪れなかった。
「……もうこの話は聞かない」
思っていたよりもとでも言うべきか、神崎さんはこの話から比較的簡単に退いた印象を受けた。もう少し詰め寄られると思っていたのだが、神崎さんの中で聞きたいことが聞けたという解釈でいいのだろうか?
「別に、お前を困らせたいわけじゃないからな」
「……僕そんなに困ってました?」
自覚こそ無かったものの、そう言われてしまうと思うと些か申し訳なさが募ってしまう。もしかすると僕は、神崎さんに相当気を遣わせてしまっているのかもしれない。しかし、質問をされる側がここで駄々をこねるというのも可笑しな話だ。僕に対する何かの引っかかりが少しでも減っていればいいと願うくらいのことしか、今のところ出来そうにない。
「あと、今日のことは宇栄原には内緒な」
「どうしてですか……?」
「……ここには来ないってことになってるから」
一体どういうことなのか、神崎さんは僕に今日のことは内緒にしてほしいというお願いをしてきた。どうやら、神崎さんは神崎さんで内緒にしている事柄があるらしい。しかもそれが宇栄原さんにたいしてなのだから、何かよっぽどのことがあるのかもしれない。
「……なら、神崎さんは今日何しに図書館に来たんですか?」
ずっと気になっていたのたが、神崎さんの荷物は殆どないといっても過言ではなく、準備をして図書館に来たというわけでもなさそうで、軽装そのものだったのだ。
「……本、借りてたっぽかったけど覚えてなくて怒られたから返しにきた」
「そ、そうなんですね……」
よく見ると、神崎さんを図書館で見たときから目にしていた本は、僕でも名前を知っている人物だった。読んだことこそないものの、かなり昔に話題になったということくらいは知っている。確か、男女の愛憎がどうとかいうミステリー小説じゃなかっただろうか? 内容からして、神崎さんの趣味とは少し違うような気がしてしまうのは、流石に僕の思い違いなのかもしれない。
「……それ、全部読みました?」
「まあ、一応……」
それだけ口にした神崎さんは、どういうわけか余り浮かない顔をしていた。今日これまでで、一番浮かない顔をしているのではないかと思ってしまうくらいにである。
「知ってるのか?」
「えっと……読んだことはないですけど、なんとなくは知ってます。どうでした?」
もし神崎さんのお墨付きがつくような内容だったら、いつか読んでみるのもありかも知れななどと思ったのだ。どこぞの評論家が評したものよりも、身近な人物からの感想の方が、よっぽど興味があるというものである。
ほんの僅か、神崎さんが考えた時間は比較的すぐに終わりを告げた。
「……あんまり好きじゃなかったな」
浮かない顔をしていたのはそれかと納得をしつつ、そこまで顔に出されてしまうと逆に気になってしまう。何がそんなに神崎さんを困らせたのだろうか?
どうやら僕は、まだ神崎さんのことをよく分かってはいないらしい。
◇
クーラーの機械的な風に慣れてしまっていた僕らに、外の空気は少々痛々しく肌に刺さっていった。
「き、今日はありがとうございました……」
「……俺は別に何もしてない」
「そんなことはないと思いますけど……」
僕と神崎さんが図書館で鉢合わせをしてから、時間は既に一時間以上経過していた。それに気づいた神崎さんが、すぐさま帰ると言い出し、手にしていた本を返しに向かった。最初は何か用事でもあるのかと思っていたのだけど、どうやら我に返って急に居たたまれなくなっただけのようだった。しかしそんな態度を取られてしまうと僕もそれにつられてしまうというもので、図書館を出るとなったときはやけに忙しなかった。行動がと言うよりは、気持ちだけが急いたのである。
時刻はまだ夕方と呼ぶにはふさわしくなく、それを体現するかのように空はまだ青々としている。そのせいもあってか、僕が図書館へと向かっていた時間と比べても、気温が下がっているような気配は一向に感じなかった。
生ぬるい風が静かに辺りで靡く。その時、何かが横切ったようなそんな気がして僕は後ろを振り向いた。
「……相谷?」
「あ、はい……」
しかし振り向いた先に誰がいるわけでもなく、ただただ風が頬を撫でてくるだけに留まった。もしかすると風に感化されて身体が動いただけかもしれないが、それにしては視界に何かが映ったようなそんな気がしてならなかった。しいて言うのであれば遠くの方に数人の姿が見えるものの、それは到底さっき誰かが横を通って行ったと呼べるほど近い距離でもない。
(気のせいか……)
神崎さんも特に気にしていないようだし、僕もこれ以上どうというわけではなかったのもあり、すぐに足を翻した。少し後ろ髪を引かれる何かを感じながらも、見据えていたのは先を歩く神崎さんの姿だけである。
これはあくまでも例えばの話だが、そこでどちらかが何かを認識できていたなら、また少し違う状況が待っていたのだろうか? しかし今更、流れ過ぎた時間のことを考えたところで意味はないというものである。