中間テストが終わってから、約一ヶ月半と言ったところだろうか?
「テスト! やっと終わりましたねぇ……オレはもう帰りたい」
「じゃあ帰れよ」神崎さんは、いつものように橋下さんに悪態をついた。
「イヤだな先輩。それくらい頑張ったってことじゃないですか」
「ほんとかよ……いや、なんでもない」
「あ、さてはこう見えてオレの成績がいいことを思い出しましたね?」
話題は既に、七月に行われた期末テストが終わったという話が行われていた。テスト期間ということもあり、図書室はテストが行われる一週間ほど前から閉まるのが早くなっていたお陰で、こうしてなんの疑いもなくこのメンバーが集まるというのは久し振りのような、そんな気がした。
「せ、先輩……」
「ん?」
「えっと……」
だからこそと言うべきなのか、僕はといえばテストが終わった後も気が気じゃなかった。
理由は主に三つ。まず一つ目は、最後のテストが終わって早々に橋下さんが勢いをつけて教室に飛び込んできたお陰で、図書室にこなければならなくなったということ。もうひとつは、この人たちと会うのが久し振りなせいで少々落ち着かないということ。そしてもうひとつは……。
「……仮に順位落ちてもさ、別にこれで決まるわけじゃないし」
正しく、今宇栄原さんが口にした事柄のことである。僕がなにかを言うよりも前に先手を打たれてしまい、それ以上何かを口にすることに躊躇してしまう。もしかして、こうも的確に言われてしまう程顔に出てしまっていただろうか? そうだとするなら、もう少し身の振り方を考えないとならないかも知れない。
「まあ、その分二学期はもうちょっと頑張らないといけないだろうけど。その時はその時で何とかなると思うけどなぁ」
「で、でも……それじゃあ教えてもらった意味がないというか……」
「ああ確かに、これで相谷君のテストの点数が落ちたら原因はどう考えてもおれだもんなぁ。それは流石に責任感じるかも」
参ったなぁと、本当にそう思っているのかいないのか苦笑いでそんなことを口にする宇栄原さんに、僕は思わず視線を反らした。
宇栄原さんはこういう人であるというのは一応分かってはいるのだが、それにしても自ら頼んでおいて成績が落ちました、なんてことには当然なりたくないのだ。
「もしそうなったら、おれも頑張るからさ。……いや、でもそうなったらおれじゃない方がいいかもね。やっぱり相性ってあるだろうし」
ここなら一応、選り取り見取りだし。そうやって適当に言ってみせる宇栄原さんは、僕に勉強を教えるというこの状況を、果たしてどう思っているのだろうか?
そう思えば思うほど、どういうわけか欲に近いものが湧いて出る。
「宇栄原さん以外の人に教わるのは嫌です……」
仮に、もしこれから先もその状況が少しでも続く可能性があるだとするなら、それ以外の選択肢は出来ることなら取りたくない。
「な、なんか分かんないけどオレが恥ずかしい……」急に話に割って入ってきたのは、案の定橋下さんである。
「黙れ」
「ごめんなさいごめんなさい」
神崎さんが、手に持っていた文庫本で橋下さんのことを制圧する。だが、その時には既に手遅れだった。
さて、一体どうしてそんなことを口にしてしまったのか、自分でもいまいちよく分からない。
「か、帰ります……っ!」
一気に身体の体温が上がり、思わず勢いのまま腰をあげる。まだ来たばかりだというのに、僕はすぐさま荷物を持ち急いでその場を後にしてしまった。
◇
僕の心臓の動きが速いのが、果たして走って学校を出たからなのか、それとも別の要因なのかなんて最早分からなかった。
「な、なんかとんでもないことを口走ってしまった気がする……」
しかし、とんでもないことを言った気がすると自分でも理解が出来ることが起きたということだけは、否が応にも認識してしまっていた。
少し前だったら、こんなこと到底口になんてしなかった筈だ。というよりも、恐らくはそんなことを言うような状況なんて僕は作らないだろう。もとよりそのはずだったのに、この状況は一体なんだ? こんな状況になったのは、一体何が切っ掛けだっただろう?
考えなくても頭に浮かぶのは、図々しくひと学年下のクラスにまで足を運んでくる橋下 香という人物である。確かに、あの人に会わなければ、僕は図書室にここまで頻繁に来ることなんてなかった。迷惑に思うこともなかったし、お昼休みにわざわざ逃げ回ることだってしなかったし、先輩と後輩という位置づけが発生することだってなかったはずだ。
ここまで文句が出てしまうというのは確かなのだが、しかしそれは、あくまでも切っ掛けのひとつに過ぎないということを、僕はちゃんと理解していた。
最終的にあそこに向かっているのは、少なくとも自分の意思が上乗せされているからだ。
(……嫌だな)
それは誰が見ても明らかで、しかしそう簡単に認めたいものでもなく、僕は思いっきり首を横に振った。
◇
下駄箱の近く。学校内の廊下は、いつもより少し騒がしいかった。学校が比較的騒がしいのはいつものことだし別にどうというわけでもないのだが、今日に限っては理由が違った。
(人多い……)
今日、一学期の期末テストの点数と順位が、またしても廊下の掲示板に貼り出される日なのである。
階段を降りてすぐ、左に曲がった先にある職員室の前にある掲示板。そこに、僕がまだ見ていない数字が羅列されていることだろう。それは一度経験した。それはもうどうだっていい。しかし問題は、そこに僕の名前と点数が書かれているかどうかということだ。
「お、相谷くんだ」
階段を降りてくる音と同時に、もうすっかりと聞きなれてしまった声が後ろから聞こえてきた。
「順位見た? オレまだ見てないんだよねぇ」
「人多いので行くの嫌です……」
「それ朝の話じゃない? もう放課後だし、そこまで人いないと思うけど」
「別に今日じゃなくても……。明日も貼ってありますし……」
「それ、絶対見に行かないやつじゃん」
「そ、そんなこと……」
「あるって顔に書いてあるよ」
ここで橋下さんに捕まってしまったのは正直痛い。見に行くかどうするかとウダウダ廊下と下駄箱をいったり来たりしていた僕が悪いのだが、それにしてもタイミングが悪すぎるのだ。
「そんなに見たくないんだ? 順位」
そして、こんなところで立ち話をしていればごく自然と知り合いに会う確率が高くなるばかりだというのも分かっているのに、なんだか今日はそういうことを全く考慮出来ていなかった。なんだか、もうこのまま思考を完全に投げてやりたい気分だった。
「先輩ってば、聞き耳立てるなんていやらしい」
「橋下君の声がデカいから、聞き耳立てる必要別に無かったけどね?」
更に大抵の場合、まるでセットとでも言いたげに、宇栄原さんの少し後ろには当然のように神崎さんがいるのである。今回も正しくそうだった。
「先輩達はもう順位見たんですか?」
「ああ、うん。お互い現状維持って感じだったけど」
「大人の余裕だ……」
現状維持と言うと、恐らく宇栄原さんは十位ということになるだろうか? それを聞いて、少し安堵した自分がいた。
自分の成績がというよりも、宇栄原さんの成績が落ちてしまっていたらと思うとたまったものじゃなかったのだ。仮に順位が落ちていたとしても宇栄原さんは「別にそれとは関係ない」だなんて口にするかもしれないけど、勉強を誰かに教えるというだけでも負担であるはずだから、やっぱり教えて欲しいだなんて言わない方がよかっただろうかと、気が気じゃなかったのである。もはや自分の成績がどうなっているかなんて、おまけくらいの感覚になってしまっていた。
「相谷君がそこまで心配する必要、おれはないと思うけどなぁ」
「あ、それってつまり相谷くんの順位が上が――」
「気になるなら張り紙見に行こうか」
「そんな脅迫のされ方初めてなんですけど……。じゃあ行こっ。早く見ちゃった方が楽だよ」
橋下さんが僕の返事を聞くよりも前に僕の腕を取り、半強制的に掲示板まで連れていかれることとなってしまった。こういう時、先頭をきるのはいつだって橋下さんである。
朝よりも人が少ないといっても、やはりいつもと比べれば人通りが多いのだろう。すれ違う率が高い。そのお陰で辿り着くまでには少し時間があった。この心臓の動きが早い理由が果たして橋下さんとの歩幅が合わないせいなのか、それとも掲示板を見たくないからなのか。出来れば前者として橋下さんに押し付けたい気分だが、恐らくそうではないのだろう。しかし、行きかう人々による「誰々はやっぱり凄い」という類の会話の中に、神崎さんの名前が飛び交っていたようなそんな気がしたお陰で、そんなことはもうどうでもよくなってしまっていた。
職員室前の掲示板は、もうすぐそこだ。ここまで来ておいてなんだが、やはり出来ることなら見たくない。いや、それは流石に嘘だろうか? 見たくないというのは確かにそうだが、それと同時に見たいのである。……見ないといけない、という方が正しいかも知れないが。
宇栄原さんと神崎さんはもう順位は知っていると言っていた。橋下さんはこれから順位を確認するのだろうが、足取りに全く躊躇がない。それに引き換え僕はといえば、ここまで来ておいてこんなにもぐずぐずとした気持ちでいる。全く、往生際が悪くて嫌になるというものだ。
自然と視界に入る掲示板の張り紙。三年生から順に、知っている人物の名前から徐々に順位の認識が始まっていく。時の流れと足の歩みは、止まることを許してはくれなかった。
◇
「だから言ったでしょ? おれは別にすぐにバレるような嘘なんてつかないし」
「そ、そうですね……」
「一番嘘つきそうな顔してるのに」橋下さんが茶化すようにそんなことを口にする。
「何か言った?」
「オレは何も言ってません」
橋下さんが適当に話に割って入ってくるような会話を、今は真面目に聞く気力は全くない。いや、橋下さんの話は基本的に右から左に聞き流してはいるのだが、それにしてもこの時だけは耳に入ってすらこなかった。
期末テストの結果を半強制的に見に行くことになり、その後何だかんだと図書室に行くことになった。テストの結果は……まあなんというか、宇栄原さんの言う通りだった。こればっかりは、完全に僕が考えすぎてしまっていたといっても過言ではないだろう。しかし、だからこそとでも言えばいいのだろうか?
「いやぁ、今回は結構難しかったのでどうなるかと思ったんですけど、全体的に点数が低かったお陰で順位上がっちゃいましたよ」
「そんな自慢げに言われてもね……」
これが頑張ったからこその順位であるのかどうか、よく分からなくなっていた。いや。確かに順位は上がっていたし、テストの点数も上がっていた。それは事実である。しかし……。
(……なんか、あんまり嬉しくないな)
どういうわけか、達成感のような感覚も解放感に近いものも感じなかった。この感情は、これが最初というわけではない。中間テストの時もそうだったのだ。そればかりか、寧ろ中間テストのときに比べてその気持ちが膨らんでしまったような、そんな感覚だった。
「宇栄原先輩のテストの点数、去年から見てますけどずっと四百七十点辺り行ったり来たりしてますよね。そういう遊びしてるんですか?」
「……なんでおれのテストの点数覚えてるの?」
「なんなら先輩たちのこれまでの点数も言えますけど」
「いやめっちゃ怖い」
四百七十点当たりと言うと、大抵の場合一桁になるかならないかくらいの順位だろう。単純に宇栄原さんの実力がその辺りであるという可能性も大いにあるが、毎回似たような点数を取るというのは寧ろ調整が必要で、中々に難しいのではないかという気がする。
それにしても、橋下さんは宇栄原さんと神崎さんのテストの点数を覚えていると言ったが本当なのだろうか? そうだとしたら、宇栄原さんの言う通り正直かなり怖い。
ため息をついた宇栄原さんが、仕切り直しに再び会話を発生させた。
「おれの目標は現状維持だから、別にそれでいいの」
「それってつまり、俺は本気出してないだけだ……ってやつですね?」
「そんないかにも勉強してない人の台詞と一緒にしないでくれる?」
「いやでも、ということはですよ? 先輩って絶対もうちょっと上位に行けるってことですよね? どうせなら狙えばいいのに、普通にもったいないと思いません?」
「そうは言ってもね……。上位になってあんまり目立ちたくないし」
「貼り紙に名前載ってる時点で手遅れじゃないですか?」
「……こいつはそういう奴だぞ」
少々呆れぎみに、ずっと沈黙を保っていた神崎さんが、ここでようやく話に割って入ってきた。
「先輩は万年二位ですけど、そういう遊びでもしてるんですか?」
「相変わらず失礼だな……。別に、一位になりたくてやってる訳じゃないからな」
「なんで?」
「なんで……? じゃあ、お前は一位取る気あんのかよ」
「別にないですけど」
「なら、そういうことだろ」
「うーんそっか……そうなの?」
「そうだって言ってんだからそうなんだよ。黙ってこれでも食ってろ」
「わーい」
神崎さんがおもむろに懐から取り出した謎の飴に橋下さんは意気揚々と釣られ、ようやく少し静かになる。図書室って普通は飲食禁止じゃないのだろうかという疑問を、提示することはもはや誰もしなかった。
橋下さんがいなければ静かなままであるというのを突き付けられるような気がして、どういうわけか余計落ち着かなくなってしまった。五月蠅いのは確かに余り好きではないが、この慣れてしまった状況下で急にごく普通の生活音にまで成り下がるのは、まるで日常を取り乱されたような気持ちになる。全く我儘なものだ。
そしてもう一つ、僕が落ち着かない理由があるとするなら、人が多いことで雲隠れが出来ないからだろう。静かな場所で僕に視点を向けられては、逃げ道がまるでなくなってしまうというものだ。
「……な、なんですか?」神崎さんからの視線に、僕は思わず反応してしまう。
「いや……」
このように、誰かに視線を振られる確率が高くなってしまうのである。
神崎さんはそれだけ言うと、ばつが悪いといったように比較的すぐに視線を外してくれた。肝心の、どうして僕のことをそんなまじまじと見ていたのかは教えてはくれなかった。
自分のことを棚にあげたうえでこんなことを思うのはどうかと思うのだが、神崎さんは、いつも僕には何も話してくれないのである。
「テスト! やっと終わりましたねぇ……オレはもう帰りたい」
「じゃあ帰れよ」神崎さんは、いつものように橋下さんに悪態をついた。
「イヤだな先輩。それくらい頑張ったってことじゃないですか」
「ほんとかよ……いや、なんでもない」
「あ、さてはこう見えてオレの成績がいいことを思い出しましたね?」
話題は既に、七月に行われた期末テストが終わったという話が行われていた。テスト期間ということもあり、図書室はテストが行われる一週間ほど前から閉まるのが早くなっていたお陰で、こうしてなんの疑いもなくこのメンバーが集まるというのは久し振りのような、そんな気がした。
「せ、先輩……」
「ん?」
「えっと……」
だからこそと言うべきなのか、僕はといえばテストが終わった後も気が気じゃなかった。
理由は主に三つ。まず一つ目は、最後のテストが終わって早々に橋下さんが勢いをつけて教室に飛び込んできたお陰で、図書室にこなければならなくなったということ。もうひとつは、この人たちと会うのが久し振りなせいで少々落ち着かないということ。そしてもうひとつは……。
「……仮に順位落ちてもさ、別にこれで決まるわけじゃないし」
正しく、今宇栄原さんが口にした事柄のことである。僕がなにかを言うよりも前に先手を打たれてしまい、それ以上何かを口にすることに躊躇してしまう。もしかして、こうも的確に言われてしまう程顔に出てしまっていただろうか? そうだとするなら、もう少し身の振り方を考えないとならないかも知れない。
「まあ、その分二学期はもうちょっと頑張らないといけないだろうけど。その時はその時で何とかなると思うけどなぁ」
「で、でも……それじゃあ教えてもらった意味がないというか……」
「ああ確かに、これで相谷君のテストの点数が落ちたら原因はどう考えてもおれだもんなぁ。それは流石に責任感じるかも」
参ったなぁと、本当にそう思っているのかいないのか苦笑いでそんなことを口にする宇栄原さんに、僕は思わず視線を反らした。
宇栄原さんはこういう人であるというのは一応分かってはいるのだが、それにしても自ら頼んでおいて成績が落ちました、なんてことには当然なりたくないのだ。
「もしそうなったら、おれも頑張るからさ。……いや、でもそうなったらおれじゃない方がいいかもね。やっぱり相性ってあるだろうし」
ここなら一応、選り取り見取りだし。そうやって適当に言ってみせる宇栄原さんは、僕に勉強を教えるというこの状況を、果たしてどう思っているのだろうか?
そう思えば思うほど、どういうわけか欲に近いものが湧いて出る。
「宇栄原さん以外の人に教わるのは嫌です……」
仮に、もしこれから先もその状況が少しでも続く可能性があるだとするなら、それ以外の選択肢は出来ることなら取りたくない。
「な、なんか分かんないけどオレが恥ずかしい……」急に話に割って入ってきたのは、案の定橋下さんである。
「黙れ」
「ごめんなさいごめんなさい」
神崎さんが、手に持っていた文庫本で橋下さんのことを制圧する。だが、その時には既に手遅れだった。
さて、一体どうしてそんなことを口にしてしまったのか、自分でもいまいちよく分からない。
「か、帰ります……っ!」
一気に身体の体温が上がり、思わず勢いのまま腰をあげる。まだ来たばかりだというのに、僕はすぐさま荷物を持ち急いでその場を後にしてしまった。
◇
僕の心臓の動きが速いのが、果たして走って学校を出たからなのか、それとも別の要因なのかなんて最早分からなかった。
「な、なんかとんでもないことを口走ってしまった気がする……」
しかし、とんでもないことを言った気がすると自分でも理解が出来ることが起きたということだけは、否が応にも認識してしまっていた。
少し前だったら、こんなこと到底口になんてしなかった筈だ。というよりも、恐らくはそんなことを言うような状況なんて僕は作らないだろう。もとよりそのはずだったのに、この状況は一体なんだ? こんな状況になったのは、一体何が切っ掛けだっただろう?
考えなくても頭に浮かぶのは、図々しくひと学年下のクラスにまで足を運んでくる橋下 香という人物である。確かに、あの人に会わなければ、僕は図書室にここまで頻繁に来ることなんてなかった。迷惑に思うこともなかったし、お昼休みにわざわざ逃げ回ることだってしなかったし、先輩と後輩という位置づけが発生することだってなかったはずだ。
ここまで文句が出てしまうというのは確かなのだが、しかしそれは、あくまでも切っ掛けのひとつに過ぎないということを、僕はちゃんと理解していた。
最終的にあそこに向かっているのは、少なくとも自分の意思が上乗せされているからだ。
(……嫌だな)
それは誰が見ても明らかで、しかしそう簡単に認めたいものでもなく、僕は思いっきり首を横に振った。
◇
下駄箱の近く。学校内の廊下は、いつもより少し騒がしいかった。学校が比較的騒がしいのはいつものことだし別にどうというわけでもないのだが、今日に限っては理由が違った。
(人多い……)
今日、一学期の期末テストの点数と順位が、またしても廊下の掲示板に貼り出される日なのである。
階段を降りてすぐ、左に曲がった先にある職員室の前にある掲示板。そこに、僕がまだ見ていない数字が羅列されていることだろう。それは一度経験した。それはもうどうだっていい。しかし問題は、そこに僕の名前と点数が書かれているかどうかということだ。
「お、相谷くんだ」
階段を降りてくる音と同時に、もうすっかりと聞きなれてしまった声が後ろから聞こえてきた。
「順位見た? オレまだ見てないんだよねぇ」
「人多いので行くの嫌です……」
「それ朝の話じゃない? もう放課後だし、そこまで人いないと思うけど」
「別に今日じゃなくても……。明日も貼ってありますし……」
「それ、絶対見に行かないやつじゃん」
「そ、そんなこと……」
「あるって顔に書いてあるよ」
ここで橋下さんに捕まってしまったのは正直痛い。見に行くかどうするかとウダウダ廊下と下駄箱をいったり来たりしていた僕が悪いのだが、それにしてもタイミングが悪すぎるのだ。
「そんなに見たくないんだ? 順位」
そして、こんなところで立ち話をしていればごく自然と知り合いに会う確率が高くなるばかりだというのも分かっているのに、なんだか今日はそういうことを全く考慮出来ていなかった。なんだか、もうこのまま思考を完全に投げてやりたい気分だった。
「先輩ってば、聞き耳立てるなんていやらしい」
「橋下君の声がデカいから、聞き耳立てる必要別に無かったけどね?」
更に大抵の場合、まるでセットとでも言いたげに、宇栄原さんの少し後ろには当然のように神崎さんがいるのである。今回も正しくそうだった。
「先輩達はもう順位見たんですか?」
「ああ、うん。お互い現状維持って感じだったけど」
「大人の余裕だ……」
現状維持と言うと、恐らく宇栄原さんは十位ということになるだろうか? それを聞いて、少し安堵した自分がいた。
自分の成績がというよりも、宇栄原さんの成績が落ちてしまっていたらと思うとたまったものじゃなかったのだ。仮に順位が落ちていたとしても宇栄原さんは「別にそれとは関係ない」だなんて口にするかもしれないけど、勉強を誰かに教えるというだけでも負担であるはずだから、やっぱり教えて欲しいだなんて言わない方がよかっただろうかと、気が気じゃなかったのである。もはや自分の成績がどうなっているかなんて、おまけくらいの感覚になってしまっていた。
「相谷君がそこまで心配する必要、おれはないと思うけどなぁ」
「あ、それってつまり相谷くんの順位が上が――」
「気になるなら張り紙見に行こうか」
「そんな脅迫のされ方初めてなんですけど……。じゃあ行こっ。早く見ちゃった方が楽だよ」
橋下さんが僕の返事を聞くよりも前に僕の腕を取り、半強制的に掲示板まで連れていかれることとなってしまった。こういう時、先頭をきるのはいつだって橋下さんである。
朝よりも人が少ないといっても、やはりいつもと比べれば人通りが多いのだろう。すれ違う率が高い。そのお陰で辿り着くまでには少し時間があった。この心臓の動きが早い理由が果たして橋下さんとの歩幅が合わないせいなのか、それとも掲示板を見たくないからなのか。出来れば前者として橋下さんに押し付けたい気分だが、恐らくそうではないのだろう。しかし、行きかう人々による「誰々はやっぱり凄い」という類の会話の中に、神崎さんの名前が飛び交っていたようなそんな気がしたお陰で、そんなことはもうどうでもよくなってしまっていた。
職員室前の掲示板は、もうすぐそこだ。ここまで来ておいてなんだが、やはり出来ることなら見たくない。いや、それは流石に嘘だろうか? 見たくないというのは確かにそうだが、それと同時に見たいのである。……見ないといけない、という方が正しいかも知れないが。
宇栄原さんと神崎さんはもう順位は知っていると言っていた。橋下さんはこれから順位を確認するのだろうが、足取りに全く躊躇がない。それに引き換え僕はといえば、ここまで来ておいてこんなにもぐずぐずとした気持ちでいる。全く、往生際が悪くて嫌になるというものだ。
自然と視界に入る掲示板の張り紙。三年生から順に、知っている人物の名前から徐々に順位の認識が始まっていく。時の流れと足の歩みは、止まることを許してはくれなかった。
◇
「だから言ったでしょ? おれは別にすぐにバレるような嘘なんてつかないし」
「そ、そうですね……」
「一番嘘つきそうな顔してるのに」橋下さんが茶化すようにそんなことを口にする。
「何か言った?」
「オレは何も言ってません」
橋下さんが適当に話に割って入ってくるような会話を、今は真面目に聞く気力は全くない。いや、橋下さんの話は基本的に右から左に聞き流してはいるのだが、それにしてもこの時だけは耳に入ってすらこなかった。
期末テストの結果を半強制的に見に行くことになり、その後何だかんだと図書室に行くことになった。テストの結果は……まあなんというか、宇栄原さんの言う通りだった。こればっかりは、完全に僕が考えすぎてしまっていたといっても過言ではないだろう。しかし、だからこそとでも言えばいいのだろうか?
「いやぁ、今回は結構難しかったのでどうなるかと思ったんですけど、全体的に点数が低かったお陰で順位上がっちゃいましたよ」
「そんな自慢げに言われてもね……」
これが頑張ったからこその順位であるのかどうか、よく分からなくなっていた。いや。確かに順位は上がっていたし、テストの点数も上がっていた。それは事実である。しかし……。
(……なんか、あんまり嬉しくないな)
どういうわけか、達成感のような感覚も解放感に近いものも感じなかった。この感情は、これが最初というわけではない。中間テストの時もそうだったのだ。そればかりか、寧ろ中間テストのときに比べてその気持ちが膨らんでしまったような、そんな感覚だった。
「宇栄原先輩のテストの点数、去年から見てますけどずっと四百七十点辺り行ったり来たりしてますよね。そういう遊びしてるんですか?」
「……なんでおれのテストの点数覚えてるの?」
「なんなら先輩たちのこれまでの点数も言えますけど」
「いやめっちゃ怖い」
四百七十点当たりと言うと、大抵の場合一桁になるかならないかくらいの順位だろう。単純に宇栄原さんの実力がその辺りであるという可能性も大いにあるが、毎回似たような点数を取るというのは寧ろ調整が必要で、中々に難しいのではないかという気がする。
それにしても、橋下さんは宇栄原さんと神崎さんのテストの点数を覚えていると言ったが本当なのだろうか? そうだとしたら、宇栄原さんの言う通り正直かなり怖い。
ため息をついた宇栄原さんが、仕切り直しに再び会話を発生させた。
「おれの目標は現状維持だから、別にそれでいいの」
「それってつまり、俺は本気出してないだけだ……ってやつですね?」
「そんないかにも勉強してない人の台詞と一緒にしないでくれる?」
「いやでも、ということはですよ? 先輩って絶対もうちょっと上位に行けるってことですよね? どうせなら狙えばいいのに、普通にもったいないと思いません?」
「そうは言ってもね……。上位になってあんまり目立ちたくないし」
「貼り紙に名前載ってる時点で手遅れじゃないですか?」
「……こいつはそういう奴だぞ」
少々呆れぎみに、ずっと沈黙を保っていた神崎さんが、ここでようやく話に割って入ってきた。
「先輩は万年二位ですけど、そういう遊びでもしてるんですか?」
「相変わらず失礼だな……。別に、一位になりたくてやってる訳じゃないからな」
「なんで?」
「なんで……? じゃあ、お前は一位取る気あんのかよ」
「別にないですけど」
「なら、そういうことだろ」
「うーんそっか……そうなの?」
「そうだって言ってんだからそうなんだよ。黙ってこれでも食ってろ」
「わーい」
神崎さんがおもむろに懐から取り出した謎の飴に橋下さんは意気揚々と釣られ、ようやく少し静かになる。図書室って普通は飲食禁止じゃないのだろうかという疑問を、提示することはもはや誰もしなかった。
橋下さんがいなければ静かなままであるというのを突き付けられるような気がして、どういうわけか余計落ち着かなくなってしまった。五月蠅いのは確かに余り好きではないが、この慣れてしまった状況下で急にごく普通の生活音にまで成り下がるのは、まるで日常を取り乱されたような気持ちになる。全く我儘なものだ。
そしてもう一つ、僕が落ち着かない理由があるとするなら、人が多いことで雲隠れが出来ないからだろう。静かな場所で僕に視点を向けられては、逃げ道がまるでなくなってしまうというものだ。
「……な、なんですか?」神崎さんからの視線に、僕は思わず反応してしまう。
「いや……」
このように、誰かに視線を振られる確率が高くなってしまうのである。
神崎さんはそれだけ言うと、ばつが悪いといったように比較的すぐに視線を外してくれた。肝心の、どうして僕のことをそんなまじまじと見ていたのかは教えてはくれなかった。
自分のことを棚にあげたうえでこんなことを思うのはどうかと思うのだが、神崎さんは、いつも僕には何も話してくれないのである。