あの学校の喧騒は一体どこへやら、家の中はとても静かだった。特に僕の部屋の中は、耳を澄ませると僕の呼吸音すら聞こえるくらいだ。
「やっぱり綺麗だな……」
気付けば僕は、テストの問題用紙を見つめながらそう零していた。決してテストの問題を見てそう思ったというような奇特な話ではなく、僕が間違えた問題のところに宇栄原さんが書いてくれた説明の文字が、かなり綺麗だったのだ。しかもその説明が疑問の持ちようがないくらいに分かりやすいというおまけ付きで、よく分からないが申し訳なくなってくるほどだった。
(こ、これで成績落ちたら顔向け出来ない……)
そう思うと、自然と教科書とノートへと目を向けられる。これはとても有りがたいことで、実際僕が望んでいたことではあったけど、それでも問題があった。
今日は数学だけだったけど、他の教科については果たしてどう切り出せば良いだろう。相手は宇栄原さんだ。もしかしたら僕が何かを言うよりも前に切り出してくるかも知れない。いや、十中八九そうだろう。しかし僕が持ち込んだ種なのに、宇栄原さんに主導権を握られるというのは、些か甘えが過ぎるというものだ。
うっかり問題用紙を眺めるだけの時間が出来ようかというところ、部屋のドアが叩かれるような異音がした。誰かがノックをしたような軽い音だ。
「……おばさん?」
このおおかた十八時くらいの時間は、僕とおばさんしか家には居ない。自然とおばさんのことを口にしたけど、数秒経ってもそれ以上のことが起こる気配がまるでなかった。いつもなら、僕の名前と「今いいかしら?」と一言添えてくるのに、それが一向に発生しなかったのだ。
少し疑問に思いつつ、僕は問題用紙を後にドアへと向かう。開けてみるが付近には誰もいない。顔をだけを部屋の外に出し、リビングのもう少し先を眺めてみる。すると、台所におばさんがいた。
「あら、どうしたの?」
おばさんが振り向いたお陰で目がばっちりとあってしまう。このままでは、何をしたいのか分からない不審な人物だ。
「えっと、ドアが叩かれた気がしたんだけど……」
「私じゃないわよぉ。そんなに早く移動できるほど若くないもの」
「そ、そうだね……?」
思わず肯定しかけてしまったが、軽口を叩くおばさんを見るにどうやら本当に僕に用があったというわけでも、ましてや部屋に来たというわけでもないらしい。
(……気のせい、ということにしておこう)
これ以上考えても余り良いことは無さそうだから、僕は無理矢理そう結論付ける。
――というのも、これが初めてのことではなかったからだ。
「あ、そうそう。今日は久し振りに焼売作ってみたんだけど、よかったら出来立て一個食べてって!」
おばさんは「早く早くっ」と僕を手招きつつ、もう片方の手で適当に箸を選び出した。手にした箸それぞれ柄が全然違うような気がするけど、特別そこを指摘することはしない。
右手で持った箸を使い、僕は一番近いところにある焼売をつまんだ。気を抜くと火傷しそうな程に湯気立っているそれを口に入れる。周りの皮がほどけ、お肉のうま味と玉ねぎのシャキシャキした感覚がとても心地よかった。
「どうどう? 変な味しないかしら?」
「……心配しなくても、おばさんのご飯は美味しいよ?」
「あらやだ、相変わらず誉め上手ねぇ」
もっと作りたくなっちゃうわぁと、おばさんはニコニコと上機嫌になった。どちらかというと、おばさんの方が褒め上手だと思うのだが、そう口にするのが憚られるくらいになんだか嬉しそうなおばさんを見て、僕はもうそれ以上何も言うことはしなかった。
◇
その日の夜のことである。僕はとある夢を見た。もしかすると夢という風に分類するべきではないのかも知れないが、しかし夢であって欲しいと願って仕方がないものである。
時刻は既に日付が変わっているであろう深夜のこと。零時をまわる少し前に布団に入ったから、もうとっくに一時は過ぎてしまっているのだろうか? これはあくまでも推測だ。静かに微睡む暗がりの中、微かな異音が耳に入ったのが皮切りだった。何かが、床を擦るような音が遠くから聞こえてきたのである。遠くからと言っても、それは恐らく部屋の外からではない。静かな空間に反響している様が、どうやらこの部屋から聞こえてくるものであるということを物語っていた。
それは布団同士が擦れるようなごく溢れた軽い音ではなく、畳を思いっきり指先で掴みながら這っているような、バリバリとした音を含むものだ。
ゆっくりと、かつ確実にその音が近づいてくるのを足先から感じ取り、僕は思わず飛び起きようとした。その時である。誰かの手が、僕の首に触れる感覚があったのだ。
押し潰された喉元に当たる、血の気のないヒヤリとした冷気が、辛うじて僕を行動に移させた。
か細い手首のような部分を掴むのは容易だったが、だからといって僕の首に当たっている何かの力が止まることはない。徐々にゆっくりと、まるですぐには終わらせないといったように確実に絞りあげてくるそれに、声を出そうと思っても一向に緩む気配のない手の感覚は止まることがないせいで、思うようにはいかなかった。
夢特有のとでも言うべきなのか、思うように動かない身体が本格的に動くことを諦め始めている。
辛うじてまだ動きを止めないのは、誰かの腕を掴んでいる自身の腕と、せめてその人物が誰なのかを視界に入れようとしている自身の目だけである。しかしそれも、そう長く持つはずもなかった。
徐々に霞み始めていく視界の中、ほんの僅か、ようやく髪の毛の隙間から見えた顔は、一体誰なのかというところまでは残念なことによく分からなかった。
だが、その状況の中ですらもハッキリと見えた瞳孔が開ききった眼は、紛れもなく僕を本当に殺しにかかっている時のそれだったのである。
――僕の目が覚めたのは、本来起きなければならない時間よりも二十分も早かった。目覚めが悪いのは当然だが、それよりもあれが本当に夢だったのかどうかが気がかりで仕方がなかったのだ。ハッキリと思い出すことの出来るそれを、夢として簡単に片付けるのは早計な気がしてならなかったのである。本来ならもう少し眠っていられるはずなのだが、そういう気持ちには到底なれず、僕は身体を起こし始める。すると、その時初めて首に何かが引っかかっているような、違和感を覚えたのだ。生唾を飲みながら、僕は恐る恐る首に手をまわす。
(……イヤホンだ)
違和感の正体は、音楽プレイヤーに刺さっているだけのはずのイヤホンだった。確かに音楽プレイヤーはベットの上の、寝返りを打てばすぐ目の前に映るくらいの距離にある。しかし、本来ならこのイヤホンは音楽プレイヤーに巻き付いていたはずなのである。曲を聴きながら眠りこけるということはしなかったはずなのだが、それがどういうわけか首に巻き付いていたのだ。
首に巻き付いて離れないイヤホンを、僕は手前にかけて右手で引っ張っていく。額から汗が滴っていることなんて、今の僕には気にする余地すらない。
◇
首を絞められる夢は、人間関係に苦しんでいる状態を表します。職場の人間関係や友人関係、または人には言えない秘密に悩んでいるのではないでしょうか? また、それ以外には体調が悪化したり、予期せぬトラブルの訪れを告げているケースがあります。厳重な注意が必要な夢と言えるでしょう――。
(……本当に夢だったのかな)
そう思った途端、思わず首がちゃんと頭と胴体を繋げているのかを確認してしまった。今日は朝起きてからというもの、こんなことばかりを繰り返していた。恐らくは学校についた後も、そして授業中も、更には学校が終わり家に着いてからも似たようなことを考えてしまうのは明白だ。学校も大概だが、特に家の中になんていたら物音がするたびに気が気じゃなくなってしまうし、恐らく学校のほうが家にいるよりはマシなのではないかという気さえしてしまう。この事を考えてしまう時間が少しでも減るのなら、僕としてはそっちのほうがいい。
信号待ちの時間というのは存外短く、信号が点滅するのが視界に入り、夢占いサイトの記事はすぐに閉じられた。
夢占いには軒並み嫌なことしか書いていなかったが、要するに注意して行動しろということだろう。そうはいっても、この類いの情報なんてものの数分で忘れてしまうだろうし、夢のことだってそのうち忘れるのだろう。いくら印象的な夢だったとしても、実際に経験していなければすぐに記憶からは消えてしまう。あくまでも、あれが夢だったらの話だが。
横断歩道を渡りきり、すぐ側にある小さな公園の出入り口を通りすぎようとした、その時だった。
「あ、ぶな……っ!?」
急に、その公園の出入り口からひとりの男が声と共に飛び出してきたのだ。その男というのは、僕にぶつかるのを避けようとするよりも前に僕にしがみついてくる。自身が転ばないようにという防衛だったのかもしれないが、これが知らない人だったら変質者扱いされても文句は言えないだろう。そう、これはあくまでも、この人物が知らない人だったらの話だ。
「ごめんなさ――って、相谷くんだ。いやーごめんごめん。勢い余っちゃって」
飛び込んできた橋下さんは、平謝りをしながら、まだ僕の腕を掴んだままだ。
「わ、わざとですか……?」
「そんなわけないじゃない。疑いすぎだよ」
こんな朝から、しかも公園から知り合いが走って突撃してくるとは思っておらず、思わず訳の分からないことを口走ってしまう。確かに、こんなタイミングで鉢合わせするなんていうのは必然性に似たものを感じはするが、寸分の狂いもなくぶつかる寸前を狙うなんてことはかなり難しいはずだ。これは恐らく、僕の考えすぎである。
「それにしても、ぶつかったのが相谷くんってなんてラッキーな……。なんだっけこういうの、ボーイミーツガールか」
「全然違うと思います……」
未だに腕を掴んで離れてくれない橋下さんに「なんでもいいのでどいてください……」と、思わずきつく口にしてしまう。遅刻にはならないだろうが、まだ学校に着いていないのにこんなところで油を売っている時間はそこまで多くはないのだ。
「いやあ、いつもよりバイト早く終わったから公園で油売ってたんだけど、寝過ごすところだったよ」
「そ、そうなんですね……」
橋下さんはサラッとバイトという単語を口にし、僕もそのまま適当に返事を返してしまったが、この学校は確かアルバイトは禁止ではなかっただろうか? 宇栄原さんが家のお店の手伝いをしていると聞いた時もそうだったが、いつ誰が聞いているかも分からないのだからせめて時と場所を選んで欲しいものだ。
それにしたって、この人が学年五位なのかと思うと、世の中何が正しいのかよく分からなくなるというものである。こんなことを言ったら失礼極まりないが、なんというかこう、余り現実味を感じないのである。
「……な、なに?」
「いや……橋下さんって相当頭いいんですよね」
「急に褒めてもなにもでないよ」
「別になにもいらないです……」
恐らくは早朝バイトの後で時間が余ったから公園にいたのだろうが、それをしたうえであの順位なのだから、本当はもっと高い順位にいてもおかしくはないのではないだろうか?
「……まあ、そういう風にするっていうことになってるからね」
その回答に、橋下さんの行動理念のようなものが見えそうな気がしたのだが、僕に会話を深堀りする力があるわけでも、そんな何かを探るようなことがしたいわけでもなく、それ以上なにかを聞き出すという行為にまでは及ばなかった。
「でも宇栄原先輩のほうが絶対教え上手だし、そういう意味では先輩のほうが頭は良いと思うんだよね。だってオレ人に教えるとか無理だし」
「……確かに、無理そうですよね」
「人に言われると余計信憑性が増してオレは悲しくなるよ……」
このコミュニティ間で、少しでも嫌な出来事を思い出さずに済むのであれば、それも悪くはないのかもしれない。この時、僕は始めてそう思える状況下に辿り着いたのだ。
だが、それでも……。
「先輩の字、見たことある?」
「……字、綺麗ですよね」
「そうそう、やっぱり字が上手いってだけで頭良さそうっていうか。いや実際先輩頭いいんだけど」
それでも、朝目が覚めた時首に纏わりついていたイヤホンの感触が、まだ離れてはくれないのだ。
◇
とある日の昼間のことである。ふと、こんな話を耳にした。
『一年の相谷 光希は、殺人未遂を起こした人物らしい』
大まかにいうと、そんな内容だったと記憶している。それが、俺の午後の授業に影響をもたらしていた。
(……変な噂だったな)
そんな噂を真に受ける程馬鹿ではないが、しかしそうはいっても、聞いてしまった以上はその噂をスルーするというのは難しい。一体どこからそんな噂が……と思っていたのだが、確かに似たよな噂を少し前にも聞いたことがあった。
確かあの時は「殺人の容疑者がこの学校に入学してきた」といった内容だった。それが相谷のそれと同じ噂であるかどうかまでは分からないが、そんな似たような話がポンポンと出てくるわけがないだろうから、恐らくは同一人物、つまりは相谷のことをさしているのだろう。
火のないところに煙は立たないとは言うが、あの相谷がそんな噂を流されるようなことをするのかと、正直思う。それはあくまでも、俺が相谷に抱いている感情に過ぎないだけで、俺らの知らないところで相谷が何をしているのかなんてことは知らないわけだから、決して疑いたいわけではないのに少々複雑な気持ちになってくる。
(宇栄原は知らないだろうけど……)
宇栄原がこのことを知っているのかはかなり微妙なところだ。仮に知っていたとしても「それが何?」で済ましてしまうような奴ではあるが、あえて俺に話さないという可能性もなくはない。
嘘か本当かはこの際置いておくとして、どちらかと言えばこういうことはある程度共有してくる人間だし、それならそれで既に根回しまでしているだろう。それがないということは、恐らく知らないはずだ。そこまでは、別に構わない。
(……橋下が連れてきたのと何か関係あるのか?)
こんなことを考えないといけないのは、仮にも俺が相谷と知り合いだからに他ならないが、そうなった要因は図書室に相谷を連れてきた橋下である。
あいつが相谷を連れてきたのは突然のことで、何の脈絡もなかったと言っていいだろう。しかもそれが同い年ではなく学年の違う人物なのだから、大抵の場合は何かあるのではないかと思われても仕方がない。まあだからといって、「変な噂があったから連れてきた」とかなんとか言われても対応に困るだろうが……。
(……可能性はあるな)
色々なことを隠したがりのあいつのことだ。どうせ理由は特にないと白を切るだろうが、そういうことをする可能性は十分にある。
(俺の考えすぎっていうのが一番だけど……。それは流石に都合が良すぎるよな)
こうなってしまっては考えたくもない状況を考えてしまうというもので、もし万が一、その噂が原因で相谷が学校内で何か虐めの類のものを受けていたとするのであれば、それはそれで到底容認しがたい事態になってしまう。そこまでいけば流石に噂程度じゃ済まないだろうから無いだろうと思いたいが、もしかすると橋下の狙いはそこだったりするのだろうか?
(一応、成績上位だしな……)
これは完全に偶然に他ならないが、公言する気が無くても廊下に張り出されるお陰で顔も名前もある程度割れてしまっており、一応そういうことになっている俺と、これまた「廊下に張り出される順位圏内に入れれば後は別にどうでもいい」とかなんとか抜かしていた宇栄原。そして何だかんだしれっと頭のいい橋下が集まっている。
一応良識のある人物らが揃っているあの状況の中に相谷がいるというのは、もしかしたらそういった類の噂と嫌がらせの類の抑制力的には悪くはないのかも知れない。逆効果になる可能性も当然あるだろうが、相谷は相谷で成績がよかったはずだから、どちらかと言うとその可能性は考えにくいのだ。
(いっそ相谷に聞いてみるか? いや……)
今日、放課後に相谷が図書室に来るのかは別に知らないが、もし来るのであれば色々と覚悟を持っていっそ聞いてみるというのもありと言えばありだろう。だが、そんなことをしてしまえば相谷が今後姿を見せなくなるに違いない。最初は嫌々橋下に連れて来られたというのがあるお陰で、小さな切っ掛けでも来なくなる可能性は十分にある。
それに、この中で一番関係値が低いであろう俺相手に、相谷がこんなことをそう簡単に喋るとも思えない。どうやらあいつは俺に余りいい印象を持っていないらしいということくらいは、あそこまで露骨に避けられてしまっていては流石に分かる。
(……まあ、先に聞くべきなのは橋下か)
それよりも、相谷を連れてきた橋下に「本当はどういうつもりだったのか」を聞く方が早そうにも感じるが、あいつはあいつでそう簡単に口を割るとも到底思えない。こういうのは宇栄原のほうが得意だろうが、かといって宇栄原に「こんな噂を聞いた」だなんて他の奴らと同じように無責任なことを言う訳にもいかない。これは困ったものだ。
最後の学校生活くらい普通に過ごさせてほしいものだというのに、どうやらそれは許されないらしかった。
◇
一体いつからのことだっただろう? 橋下さんに連れられてではなく、こうして一人で図書室に足を運んでしまうようになってしまったのは。
図書室の扉を開け、知り合いが居るかどうかの確認の為に顔だけ覗き入れる。
(……やっぱり帰ろうかな)
どうやらまだ誰も来ていないらしかったお陰で、思わずすぐさま帰りたくなってしまう。一番に来てしまうと、凄く期待して来てしまっているような気がして、一番乗りというのは余り好きでないのだ。
「わ……っ!?」
僅かに後退りをした瞬間、誰かとぶつかる感覚が背中を走る。この感じは、テストの順位を見に行ったあの時とよく似ていた。
「悪い……」
「あ、いや……すみません……」
聞きなれた声の、話慣れない人物に謝罪をされ僕はどうにも居たたまれなくなってしまった。しかし、お互いにそこから動こうとはしない。こんな出入り口のど真ん中で二人してグズグズしているのだから、赤の他人からしたら邪魔でしかないだろうが、そんなことを考えられるほどの余裕はなかった。
「……今日は宇栄原来ないと思うけど」
「そ、そうなんですか……?」
「多分……」
決して宇栄原さんを探していた訳ではないのだが、どうしてか神崎さんはそんなことを口にした。宇栄原さんには確かに勉強を教えてはもらったのだが、それも別に毎日教えて欲しいだなんて思ってない。なんとなくの流れで、聞きたいタイミングが合う時だけで構わないと思っていたのだ。
神崎さんはさっきの僕と同じように、図書室の中に顔だけを入れ辺りを見回す。どういうわけかそれはいつもの神崎さんと呼ぶには相応しくなく、様子が違った。
「……時間あるなら、ちょっといいか?」
「え……」
「いや……嫌なら別にいいけど」
自分で話があると言っておきながら、神崎さんは目を逸らしてすぐさま手を引いてしまう。そんなことをされてしまっては、こっちは余計気が気ではなかった。神崎さんとここまで会話をすると言うことが、かなり珍しいというのもあったのかも知れない。とにかく、出来ればこの時間が早く過ぎてしまえばいいとさえ思った。
しかしそれは、神崎さんが嫌いだからという話ではない。そう、決してそんな飛躍した感情があるわけでもないのである。
「は、話ってなんですか……?」
ただ、神崎さんに話さないといけないようなことなんて思いつくはずがなかったのだ。神崎さんに会ってからというもの、ようやく少しだけ会話を交わすくらいになったという関係性上、改まって一体何を話すのかという想像が出来ないのである。
僕の問いにどういうわけか虚空見つめ、何かを考えはじめたらしい。考えが纏まったのか、何を言うでもなく僕の横を通り過ぎて図書室に入っていく。せめて一言くらい言ってくれればいいのにと思わないこともないが、神崎さんに限っては、一体どうやってそういう解釈になったのか「そういう人である」という認識が既に僕のなかにあるお陰で、特別どうとも思わなかった。
少し遠くなった神崎さんとの距離を狭めるように、僕も急いで図書室へ入る。神崎さんは、図書貸し出しのカウンターから一番近い席に鞄を置いた。四つ席の向かい側を陣取り適当に座った神崎さんだったが、やはりそこでも視線に落ち着きがなかった。例えば、ここに居るのが僕じゃなくて宇栄原さんとか橋下だったらもう少し違ったのかもしれないと思うと、こちらまで視線が落ち着かなくなってしまう。それ以上何も考えないようにと、僕は神崎さんと向かい合うようにしてようやく席に着いた。
ひとつ、またひとつと、カウンター近くにある時計の秒針が動く音がする。
「あ、あの……?」
恐らくは数十秒しか経っていないのだろうが、神崎さんはいつになっても口を開こうとはしなかった。
とうとう居たたまれなくなった僕がやっと神崎さんに声をかけると、神崎さんはあからさまに下を向き頭を掻いた。
「悪い、やっぱり言えそうにないわ……」
一体誰に向けて言っているのかというくらい、その声は辛うじて僕の耳に届いていた。この多少なりとも静かな空間が約束されている図書室じゃなければ、もしかしたら聞き逃してしまっていたかもしれない。大げさかもしれないが、それくらい無理矢理口にしたもののように僕には聞こえたのだ。
果たして、神崎さんは何を僕に聞きたかったのだろう? やっぱり言えそうにない。と撤回してしまう程聞きにくいことなのだろうか? そうだとするなら、確かに今日の神崎さんの挙動不審さに一応合点がいく。だが、神崎さんがそうなってしまうくらいのことなんて僕には――。
「なんか密会してる……」
一体いつの間にいたのか、すぐ後ろから橋下さんの声が急に聞こえて思わず身体が跳ねる。後ろを振り向くと、不思議そうに首を傾げるてこちらを眺めていた。
ある程度聞きなれている声を前に、あろうことか僕は好機が来たと感じた。
「し、失礼します……!」
誰かに何かを言われるよりも早く、僕はせっかく入った図書室からすぐに抜け出してしまった。本当に、こういうところが僕の悪いところである。
しかし僕には、神崎さんが聞きたかった「何か」を話せるほどの勇気なんて、微塵も無かったのだ。
「やっぱり綺麗だな……」
気付けば僕は、テストの問題用紙を見つめながらそう零していた。決してテストの問題を見てそう思ったというような奇特な話ではなく、僕が間違えた問題のところに宇栄原さんが書いてくれた説明の文字が、かなり綺麗だったのだ。しかもその説明が疑問の持ちようがないくらいに分かりやすいというおまけ付きで、よく分からないが申し訳なくなってくるほどだった。
(こ、これで成績落ちたら顔向け出来ない……)
そう思うと、自然と教科書とノートへと目を向けられる。これはとても有りがたいことで、実際僕が望んでいたことではあったけど、それでも問題があった。
今日は数学だけだったけど、他の教科については果たしてどう切り出せば良いだろう。相手は宇栄原さんだ。もしかしたら僕が何かを言うよりも前に切り出してくるかも知れない。いや、十中八九そうだろう。しかし僕が持ち込んだ種なのに、宇栄原さんに主導権を握られるというのは、些か甘えが過ぎるというものだ。
うっかり問題用紙を眺めるだけの時間が出来ようかというところ、部屋のドアが叩かれるような異音がした。誰かがノックをしたような軽い音だ。
「……おばさん?」
このおおかた十八時くらいの時間は、僕とおばさんしか家には居ない。自然とおばさんのことを口にしたけど、数秒経ってもそれ以上のことが起こる気配がまるでなかった。いつもなら、僕の名前と「今いいかしら?」と一言添えてくるのに、それが一向に発生しなかったのだ。
少し疑問に思いつつ、僕は問題用紙を後にドアへと向かう。開けてみるが付近には誰もいない。顔をだけを部屋の外に出し、リビングのもう少し先を眺めてみる。すると、台所におばさんがいた。
「あら、どうしたの?」
おばさんが振り向いたお陰で目がばっちりとあってしまう。このままでは、何をしたいのか分からない不審な人物だ。
「えっと、ドアが叩かれた気がしたんだけど……」
「私じゃないわよぉ。そんなに早く移動できるほど若くないもの」
「そ、そうだね……?」
思わず肯定しかけてしまったが、軽口を叩くおばさんを見るにどうやら本当に僕に用があったというわけでも、ましてや部屋に来たというわけでもないらしい。
(……気のせい、ということにしておこう)
これ以上考えても余り良いことは無さそうだから、僕は無理矢理そう結論付ける。
――というのも、これが初めてのことではなかったからだ。
「あ、そうそう。今日は久し振りに焼売作ってみたんだけど、よかったら出来立て一個食べてって!」
おばさんは「早く早くっ」と僕を手招きつつ、もう片方の手で適当に箸を選び出した。手にした箸それぞれ柄が全然違うような気がするけど、特別そこを指摘することはしない。
右手で持った箸を使い、僕は一番近いところにある焼売をつまんだ。気を抜くと火傷しそうな程に湯気立っているそれを口に入れる。周りの皮がほどけ、お肉のうま味と玉ねぎのシャキシャキした感覚がとても心地よかった。
「どうどう? 変な味しないかしら?」
「……心配しなくても、おばさんのご飯は美味しいよ?」
「あらやだ、相変わらず誉め上手ねぇ」
もっと作りたくなっちゃうわぁと、おばさんはニコニコと上機嫌になった。どちらかというと、おばさんの方が褒め上手だと思うのだが、そう口にするのが憚られるくらいになんだか嬉しそうなおばさんを見て、僕はもうそれ以上何も言うことはしなかった。
◇
その日の夜のことである。僕はとある夢を見た。もしかすると夢という風に分類するべきではないのかも知れないが、しかし夢であって欲しいと願って仕方がないものである。
時刻は既に日付が変わっているであろう深夜のこと。零時をまわる少し前に布団に入ったから、もうとっくに一時は過ぎてしまっているのだろうか? これはあくまでも推測だ。静かに微睡む暗がりの中、微かな異音が耳に入ったのが皮切りだった。何かが、床を擦るような音が遠くから聞こえてきたのである。遠くからと言っても、それは恐らく部屋の外からではない。静かな空間に反響している様が、どうやらこの部屋から聞こえてくるものであるということを物語っていた。
それは布団同士が擦れるようなごく溢れた軽い音ではなく、畳を思いっきり指先で掴みながら這っているような、バリバリとした音を含むものだ。
ゆっくりと、かつ確実にその音が近づいてくるのを足先から感じ取り、僕は思わず飛び起きようとした。その時である。誰かの手が、僕の首に触れる感覚があったのだ。
押し潰された喉元に当たる、血の気のないヒヤリとした冷気が、辛うじて僕を行動に移させた。
か細い手首のような部分を掴むのは容易だったが、だからといって僕の首に当たっている何かの力が止まることはない。徐々にゆっくりと、まるですぐには終わらせないといったように確実に絞りあげてくるそれに、声を出そうと思っても一向に緩む気配のない手の感覚は止まることがないせいで、思うようにはいかなかった。
夢特有のとでも言うべきなのか、思うように動かない身体が本格的に動くことを諦め始めている。
辛うじてまだ動きを止めないのは、誰かの腕を掴んでいる自身の腕と、せめてその人物が誰なのかを視界に入れようとしている自身の目だけである。しかしそれも、そう長く持つはずもなかった。
徐々に霞み始めていく視界の中、ほんの僅か、ようやく髪の毛の隙間から見えた顔は、一体誰なのかというところまでは残念なことによく分からなかった。
だが、その状況の中ですらもハッキリと見えた瞳孔が開ききった眼は、紛れもなく僕を本当に殺しにかかっている時のそれだったのである。
――僕の目が覚めたのは、本来起きなければならない時間よりも二十分も早かった。目覚めが悪いのは当然だが、それよりもあれが本当に夢だったのかどうかが気がかりで仕方がなかったのだ。ハッキリと思い出すことの出来るそれを、夢として簡単に片付けるのは早計な気がしてならなかったのである。本来ならもう少し眠っていられるはずなのだが、そういう気持ちには到底なれず、僕は身体を起こし始める。すると、その時初めて首に何かが引っかかっているような、違和感を覚えたのだ。生唾を飲みながら、僕は恐る恐る首に手をまわす。
(……イヤホンだ)
違和感の正体は、音楽プレイヤーに刺さっているだけのはずのイヤホンだった。確かに音楽プレイヤーはベットの上の、寝返りを打てばすぐ目の前に映るくらいの距離にある。しかし、本来ならこのイヤホンは音楽プレイヤーに巻き付いていたはずなのである。曲を聴きながら眠りこけるということはしなかったはずなのだが、それがどういうわけか首に巻き付いていたのだ。
首に巻き付いて離れないイヤホンを、僕は手前にかけて右手で引っ張っていく。額から汗が滴っていることなんて、今の僕には気にする余地すらない。
◇
首を絞められる夢は、人間関係に苦しんでいる状態を表します。職場の人間関係や友人関係、または人には言えない秘密に悩んでいるのではないでしょうか? また、それ以外には体調が悪化したり、予期せぬトラブルの訪れを告げているケースがあります。厳重な注意が必要な夢と言えるでしょう――。
(……本当に夢だったのかな)
そう思った途端、思わず首がちゃんと頭と胴体を繋げているのかを確認してしまった。今日は朝起きてからというもの、こんなことばかりを繰り返していた。恐らくは学校についた後も、そして授業中も、更には学校が終わり家に着いてからも似たようなことを考えてしまうのは明白だ。学校も大概だが、特に家の中になんていたら物音がするたびに気が気じゃなくなってしまうし、恐らく学校のほうが家にいるよりはマシなのではないかという気さえしてしまう。この事を考えてしまう時間が少しでも減るのなら、僕としてはそっちのほうがいい。
信号待ちの時間というのは存外短く、信号が点滅するのが視界に入り、夢占いサイトの記事はすぐに閉じられた。
夢占いには軒並み嫌なことしか書いていなかったが、要するに注意して行動しろということだろう。そうはいっても、この類いの情報なんてものの数分で忘れてしまうだろうし、夢のことだってそのうち忘れるのだろう。いくら印象的な夢だったとしても、実際に経験していなければすぐに記憶からは消えてしまう。あくまでも、あれが夢だったらの話だが。
横断歩道を渡りきり、すぐ側にある小さな公園の出入り口を通りすぎようとした、その時だった。
「あ、ぶな……っ!?」
急に、その公園の出入り口からひとりの男が声と共に飛び出してきたのだ。その男というのは、僕にぶつかるのを避けようとするよりも前に僕にしがみついてくる。自身が転ばないようにという防衛だったのかもしれないが、これが知らない人だったら変質者扱いされても文句は言えないだろう。そう、これはあくまでも、この人物が知らない人だったらの話だ。
「ごめんなさ――って、相谷くんだ。いやーごめんごめん。勢い余っちゃって」
飛び込んできた橋下さんは、平謝りをしながら、まだ僕の腕を掴んだままだ。
「わ、わざとですか……?」
「そんなわけないじゃない。疑いすぎだよ」
こんな朝から、しかも公園から知り合いが走って突撃してくるとは思っておらず、思わず訳の分からないことを口走ってしまう。確かに、こんなタイミングで鉢合わせするなんていうのは必然性に似たものを感じはするが、寸分の狂いもなくぶつかる寸前を狙うなんてことはかなり難しいはずだ。これは恐らく、僕の考えすぎである。
「それにしても、ぶつかったのが相谷くんってなんてラッキーな……。なんだっけこういうの、ボーイミーツガールか」
「全然違うと思います……」
未だに腕を掴んで離れてくれない橋下さんに「なんでもいいのでどいてください……」と、思わずきつく口にしてしまう。遅刻にはならないだろうが、まだ学校に着いていないのにこんなところで油を売っている時間はそこまで多くはないのだ。
「いやあ、いつもよりバイト早く終わったから公園で油売ってたんだけど、寝過ごすところだったよ」
「そ、そうなんですね……」
橋下さんはサラッとバイトという単語を口にし、僕もそのまま適当に返事を返してしまったが、この学校は確かアルバイトは禁止ではなかっただろうか? 宇栄原さんが家のお店の手伝いをしていると聞いた時もそうだったが、いつ誰が聞いているかも分からないのだからせめて時と場所を選んで欲しいものだ。
それにしたって、この人が学年五位なのかと思うと、世の中何が正しいのかよく分からなくなるというものである。こんなことを言ったら失礼極まりないが、なんというかこう、余り現実味を感じないのである。
「……な、なに?」
「いや……橋下さんって相当頭いいんですよね」
「急に褒めてもなにもでないよ」
「別になにもいらないです……」
恐らくは早朝バイトの後で時間が余ったから公園にいたのだろうが、それをしたうえであの順位なのだから、本当はもっと高い順位にいてもおかしくはないのではないだろうか?
「……まあ、そういう風にするっていうことになってるからね」
その回答に、橋下さんの行動理念のようなものが見えそうな気がしたのだが、僕に会話を深堀りする力があるわけでも、そんな何かを探るようなことがしたいわけでもなく、それ以上なにかを聞き出すという行為にまでは及ばなかった。
「でも宇栄原先輩のほうが絶対教え上手だし、そういう意味では先輩のほうが頭は良いと思うんだよね。だってオレ人に教えるとか無理だし」
「……確かに、無理そうですよね」
「人に言われると余計信憑性が増してオレは悲しくなるよ……」
このコミュニティ間で、少しでも嫌な出来事を思い出さずに済むのであれば、それも悪くはないのかもしれない。この時、僕は始めてそう思える状況下に辿り着いたのだ。
だが、それでも……。
「先輩の字、見たことある?」
「……字、綺麗ですよね」
「そうそう、やっぱり字が上手いってだけで頭良さそうっていうか。いや実際先輩頭いいんだけど」
それでも、朝目が覚めた時首に纏わりついていたイヤホンの感触が、まだ離れてはくれないのだ。
◇
とある日の昼間のことである。ふと、こんな話を耳にした。
『一年の相谷 光希は、殺人未遂を起こした人物らしい』
大まかにいうと、そんな内容だったと記憶している。それが、俺の午後の授業に影響をもたらしていた。
(……変な噂だったな)
そんな噂を真に受ける程馬鹿ではないが、しかしそうはいっても、聞いてしまった以上はその噂をスルーするというのは難しい。一体どこからそんな噂が……と思っていたのだが、確かに似たよな噂を少し前にも聞いたことがあった。
確かあの時は「殺人の容疑者がこの学校に入学してきた」といった内容だった。それが相谷のそれと同じ噂であるかどうかまでは分からないが、そんな似たような話がポンポンと出てくるわけがないだろうから、恐らくは同一人物、つまりは相谷のことをさしているのだろう。
火のないところに煙は立たないとは言うが、あの相谷がそんな噂を流されるようなことをするのかと、正直思う。それはあくまでも、俺が相谷に抱いている感情に過ぎないだけで、俺らの知らないところで相谷が何をしているのかなんてことは知らないわけだから、決して疑いたいわけではないのに少々複雑な気持ちになってくる。
(宇栄原は知らないだろうけど……)
宇栄原がこのことを知っているのかはかなり微妙なところだ。仮に知っていたとしても「それが何?」で済ましてしまうような奴ではあるが、あえて俺に話さないという可能性もなくはない。
嘘か本当かはこの際置いておくとして、どちらかと言えばこういうことはある程度共有してくる人間だし、それならそれで既に根回しまでしているだろう。それがないということは、恐らく知らないはずだ。そこまでは、別に構わない。
(……橋下が連れてきたのと何か関係あるのか?)
こんなことを考えないといけないのは、仮にも俺が相谷と知り合いだからに他ならないが、そうなった要因は図書室に相谷を連れてきた橋下である。
あいつが相谷を連れてきたのは突然のことで、何の脈絡もなかったと言っていいだろう。しかもそれが同い年ではなく学年の違う人物なのだから、大抵の場合は何かあるのではないかと思われても仕方がない。まあだからといって、「変な噂があったから連れてきた」とかなんとか言われても対応に困るだろうが……。
(……可能性はあるな)
色々なことを隠したがりのあいつのことだ。どうせ理由は特にないと白を切るだろうが、そういうことをする可能性は十分にある。
(俺の考えすぎっていうのが一番だけど……。それは流石に都合が良すぎるよな)
こうなってしまっては考えたくもない状況を考えてしまうというもので、もし万が一、その噂が原因で相谷が学校内で何か虐めの類のものを受けていたとするのであれば、それはそれで到底容認しがたい事態になってしまう。そこまでいけば流石に噂程度じゃ済まないだろうから無いだろうと思いたいが、もしかすると橋下の狙いはそこだったりするのだろうか?
(一応、成績上位だしな……)
これは完全に偶然に他ならないが、公言する気が無くても廊下に張り出されるお陰で顔も名前もある程度割れてしまっており、一応そういうことになっている俺と、これまた「廊下に張り出される順位圏内に入れれば後は別にどうでもいい」とかなんとか抜かしていた宇栄原。そして何だかんだしれっと頭のいい橋下が集まっている。
一応良識のある人物らが揃っているあの状況の中に相谷がいるというのは、もしかしたらそういった類の噂と嫌がらせの類の抑制力的には悪くはないのかも知れない。逆効果になる可能性も当然あるだろうが、相谷は相谷で成績がよかったはずだから、どちらかと言うとその可能性は考えにくいのだ。
(いっそ相谷に聞いてみるか? いや……)
今日、放課後に相谷が図書室に来るのかは別に知らないが、もし来るのであれば色々と覚悟を持っていっそ聞いてみるというのもありと言えばありだろう。だが、そんなことをしてしまえば相谷が今後姿を見せなくなるに違いない。最初は嫌々橋下に連れて来られたというのがあるお陰で、小さな切っ掛けでも来なくなる可能性は十分にある。
それに、この中で一番関係値が低いであろう俺相手に、相谷がこんなことをそう簡単に喋るとも思えない。どうやらあいつは俺に余りいい印象を持っていないらしいということくらいは、あそこまで露骨に避けられてしまっていては流石に分かる。
(……まあ、先に聞くべきなのは橋下か)
それよりも、相谷を連れてきた橋下に「本当はどういうつもりだったのか」を聞く方が早そうにも感じるが、あいつはあいつでそう簡単に口を割るとも到底思えない。こういうのは宇栄原のほうが得意だろうが、かといって宇栄原に「こんな噂を聞いた」だなんて他の奴らと同じように無責任なことを言う訳にもいかない。これは困ったものだ。
最後の学校生活くらい普通に過ごさせてほしいものだというのに、どうやらそれは許されないらしかった。
◇
一体いつからのことだっただろう? 橋下さんに連れられてではなく、こうして一人で図書室に足を運んでしまうようになってしまったのは。
図書室の扉を開け、知り合いが居るかどうかの確認の為に顔だけ覗き入れる。
(……やっぱり帰ろうかな)
どうやらまだ誰も来ていないらしかったお陰で、思わずすぐさま帰りたくなってしまう。一番に来てしまうと、凄く期待して来てしまっているような気がして、一番乗りというのは余り好きでないのだ。
「わ……っ!?」
僅かに後退りをした瞬間、誰かとぶつかる感覚が背中を走る。この感じは、テストの順位を見に行ったあの時とよく似ていた。
「悪い……」
「あ、いや……すみません……」
聞きなれた声の、話慣れない人物に謝罪をされ僕はどうにも居たたまれなくなってしまった。しかし、お互いにそこから動こうとはしない。こんな出入り口のど真ん中で二人してグズグズしているのだから、赤の他人からしたら邪魔でしかないだろうが、そんなことを考えられるほどの余裕はなかった。
「……今日は宇栄原来ないと思うけど」
「そ、そうなんですか……?」
「多分……」
決して宇栄原さんを探していた訳ではないのだが、どうしてか神崎さんはそんなことを口にした。宇栄原さんには確かに勉強を教えてはもらったのだが、それも別に毎日教えて欲しいだなんて思ってない。なんとなくの流れで、聞きたいタイミングが合う時だけで構わないと思っていたのだ。
神崎さんはさっきの僕と同じように、図書室の中に顔だけを入れ辺りを見回す。どういうわけかそれはいつもの神崎さんと呼ぶには相応しくなく、様子が違った。
「……時間あるなら、ちょっといいか?」
「え……」
「いや……嫌なら別にいいけど」
自分で話があると言っておきながら、神崎さんは目を逸らしてすぐさま手を引いてしまう。そんなことをされてしまっては、こっちは余計気が気ではなかった。神崎さんとここまで会話をすると言うことが、かなり珍しいというのもあったのかも知れない。とにかく、出来ればこの時間が早く過ぎてしまえばいいとさえ思った。
しかしそれは、神崎さんが嫌いだからという話ではない。そう、決してそんな飛躍した感情があるわけでもないのである。
「は、話ってなんですか……?」
ただ、神崎さんに話さないといけないようなことなんて思いつくはずがなかったのだ。神崎さんに会ってからというもの、ようやく少しだけ会話を交わすくらいになったという関係性上、改まって一体何を話すのかという想像が出来ないのである。
僕の問いにどういうわけか虚空見つめ、何かを考えはじめたらしい。考えが纏まったのか、何を言うでもなく僕の横を通り過ぎて図書室に入っていく。せめて一言くらい言ってくれればいいのにと思わないこともないが、神崎さんに限っては、一体どうやってそういう解釈になったのか「そういう人である」という認識が既に僕のなかにあるお陰で、特別どうとも思わなかった。
少し遠くなった神崎さんとの距離を狭めるように、僕も急いで図書室へ入る。神崎さんは、図書貸し出しのカウンターから一番近い席に鞄を置いた。四つ席の向かい側を陣取り適当に座った神崎さんだったが、やはりそこでも視線に落ち着きがなかった。例えば、ここに居るのが僕じゃなくて宇栄原さんとか橋下だったらもう少し違ったのかもしれないと思うと、こちらまで視線が落ち着かなくなってしまう。それ以上何も考えないようにと、僕は神崎さんと向かい合うようにしてようやく席に着いた。
ひとつ、またひとつと、カウンター近くにある時計の秒針が動く音がする。
「あ、あの……?」
恐らくは数十秒しか経っていないのだろうが、神崎さんはいつになっても口を開こうとはしなかった。
とうとう居たたまれなくなった僕がやっと神崎さんに声をかけると、神崎さんはあからさまに下を向き頭を掻いた。
「悪い、やっぱり言えそうにないわ……」
一体誰に向けて言っているのかというくらい、その声は辛うじて僕の耳に届いていた。この多少なりとも静かな空間が約束されている図書室じゃなければ、もしかしたら聞き逃してしまっていたかもしれない。大げさかもしれないが、それくらい無理矢理口にしたもののように僕には聞こえたのだ。
果たして、神崎さんは何を僕に聞きたかったのだろう? やっぱり言えそうにない。と撤回してしまう程聞きにくいことなのだろうか? そうだとするなら、確かに今日の神崎さんの挙動不審さに一応合点がいく。だが、神崎さんがそうなってしまうくらいのことなんて僕には――。
「なんか密会してる……」
一体いつの間にいたのか、すぐ後ろから橋下さんの声が急に聞こえて思わず身体が跳ねる。後ろを振り向くと、不思議そうに首を傾げるてこちらを眺めていた。
ある程度聞きなれている声を前に、あろうことか僕は好機が来たと感じた。
「し、失礼します……!」
誰かに何かを言われるよりも早く、僕はせっかく入った図書室からすぐに抜け出してしまった。本当に、こういうところが僕の悪いところである。
しかし僕には、神崎さんが聞きたかった「何か」を話せるほどの勇気なんて、微塵も無かったのだ。