下駄箱を通り過ぎてすぐの廊下が、いつにも増して騒がしい。いつもなら怪訝に思いながらも特にどうというわけでもなくすぐに通り過ぎるところだけれど、今日だけは違った。高校生になって一度目のテストが終わり、結果が返ってきたからだろうというのは、おおかた見当がついていたからだ。
この学校は、定期考査の五教科の合計点と順位、そして名前を学年ごとに廊下に張り出すという、なんとも争いが起こりそうなシステムを採用している。確か上位二十位までの人物の名前が載っているはずだ。
人ごみの中を行くのは余り好きではないが、ここ数日はいつ見に行ってもこんな感じなのだろう。仕方なく、沢山の人々の群がる場所へと足を進めた。人の順位なんて正直どうでもいいし見たくもないのだが、どうしても確認しておく必要があったのだ。
人混みの一番後ろ、少し背伸びをしながら掲示板に貼ってある大きな紙を視界に入れた。
「うわ……」
思わず声が漏れてしまったのは、決して自分の順位を見たからというわけではない。
(凄いな……)
神崎 拓真という人物の名前が、上から二番目に羅列されていたのだ。それだけではない。見覚えのあるもう二人の名前が僕の視界に入ったのだ。
三年生の十位には宇栄原という名前、そして二年生の五位に橋下という人物の名前があった。
(も、もしかして、とんでもない人たちと知り合いになってしまったのだろうか……)
この時には、自分の学年の順位のことなんてもうどうでもよくなっていた。
この学校の偏差値は決して低くない。随一というには恐らく少し物足りないのだろうが、それでも一般的な学力で入れるようなところではないだろう。そんな学校に通っている中で、あろうことかテスト総合順位が書かれた紙に知り合いの名前が全員あるだなんてことがあるだろうか? 実際にそれを目の前にしても、余り実感が湧かなかった。
当然と言うべきか、人混みの中で揉まれそうになりそうで思わず一歩下がろうとした時、誰かとぶつかる感覚が背中を走った。
「あ……すみま――」言いながら、僕は後ろを振り向いた。そこに居たのは、三年生の学年二位である人物だった。お互いに目が合ったからといって、どちらかが気を利かせて何かを喋るということはなかった。
「人多いな……まあ当然か」
少し遠くから、聞き覚えのある声の一人言が僕の耳に入った。何処からどう聞いても宇栄原さんの声である。聞き間違えるということがあるわけがなかった。
「ご、ごめんなさいっ……!」
どういうわけか居たたまれなくなった僕は、気付けば二人の居ない方向へと走り出していた。まるで何も悪いことをしていないのに、警察と出会ったときのような気分である。
「今相谷君いなかった?」
「……あそこまで露骨に逃げられるほど俺なんかしたか?」
「オレの記憶にはないけど……まあ分からなくはない」
「全然分からん……」
掲示板から少し離れれば、人の群れはすっかりと無くなっていた。息を切らしながら階段に足をかけていく。今日が始まったばかりだというのに、もうすっかり疲れ果ててしまった。学校にもせめてエスカレーターくらいつけて欲しいものだ。
(……あ、しまった)
そんなくだらないことを考えていたのもつかの間、ようやく自分の教室がある階にまでたどり着いた時のことだ。
「自分の名前あるか見るの忘れた……」
何も考えずに思わず逃げてしまったが、あろうことか自分の学年の順位をすっかりと見落としてしまっていた。一番見ないといけないところだったはずなのに、これではなんで見に行ったのかよく分からない。その後すぐに後ろを振り向いたのだが、人の多さを思い出すだけで飽き飽きとしてしまって、戻ることはしなかった。
その後、自分の名前があったかどうかに関しては、クラスで誰かが噂していたのを聞いたお陰で皮肉にも特別困らなかった。
◇
一度目の定期考査が終わって数日後の今日、僕は非常に落ち着きが無かった。何故なら、放課後に一人で図書室に来るという奇行を起こしてしまったからだ。一階の下駄箱の近くまで進み、あともう少しのところで図書室だというのに、どうにも辿り着くのに時間が必要だった。近くに来ておいて辺りを行ったり来たりとぐずぐずしていたのだ。
もういっそこのまま帰ってしまおうかとも何度も思ったのだけれど、それでは授業が終わって真っ先に来た意味がなくなってしまう。意を決してようやく図書室の扉に手をかけたのは、一階に来ておおよそ五分以上が経ってからのことだった。一体何のために早く来たのかもう訳が分からない。
恐る恐る扉を開け、中を覗き込むようにして見渡していく。確かふたりくらいが入っていったような気がするけど、その人たちは特別僕とは無関係の人たちだった。
(……やっぱり帰ろうかな)
目的の人物がいないということに圧され、早くも心が折れそうになった時のことだ。
「入らないの?」
「わわっ……!」
聞き覚えのある人物の声が後ろから聞こえてきたお陰で、思わず間抜けな声が出てしまった。犯人は宇栄原さんである。後ろから、少し遅れて神崎さんもやってきたのが見えた。
「ごめんごめん。相谷君がひとりで来るなんて珍しいなと思って」
宇栄原さんは、少し申し訳なさそうに眉を下げながらも、呆気にとられている僕を図書室へと促していく。もしかして僕の知らないところでずっと見ていたのかも知れないと思うと、自然と顔に熱が溜まっていくのがよく分かったが、そんなことはお構いなしだった。
適当な席を取る宇栄原さんに続いて、神崎さんが向かいの椅子に座った。僕はといえば、相変わらず挙動に落ち着きがなかった。一先ず宇栄原さんの隣の席に荷物を置く。もし橋下さんが来るのならいつもは神崎さんの隣のはずだから、そうなるのはある意味では当然だった。
(せ、折角来たんだし……言わないと意味ないか……)
いっそ逃げ出したい気持ちをなんとか抑え、僕は口を開いた。
「う、宇栄原さん……」
僕が口を開くことになった原因は、宇栄原さんだ。当の本人は、ただの世間話であるかのように僕の方を向いた。そして、あろうことか神崎さんまでも僕の方へと顔を向けた。僕から話しかけるなんてことは今の今まで無かったわけだから、おおかた珍しかったのだろう。
その……と一度躊躇したものの、ここまで来たらもうどうにでもなれという気持ちが上回る。最早やけくそだった。
「僕が勉強教えて下さいって言ったら、どうします?」
突然の意に、当然宇栄原さんは面を食らっているようだった。
「……ええっと、そう来るか。なるほど……」
困惑と同時に必死に僕の言葉を呑み込んでいく宇栄原さんの、次に続く言葉を僕はただただ待ち続けていた。自分で言っておいてなんだけれど、とてもじゃないがこのままダッシュで図書室を去ってしまいたいくらいに、僕の心臓は落ち着きが無かった。
「でも相谷君って、特別成績が悪いわけじゃないよね?」
一度話を整理をしたいと顔に書いてある通り、宇栄原さんはまずひとつの疑問を提示した。この時点で、宇栄原さんが僕の成績について既に何か情報を手に入れているということは、あのデカデカと貼り出されていたテスト順位の紙を見たのだろう。
どうして僕が宇栄原さんにこんなことを頼まないといけないのかということに関しては、かなり悩んだ。それはもう、悩み過ぎて連日寝不足になるくらいにである。
「これ以上落ちると困るので……色々と……。あ、いや別に本当にやってほしいわけじゃないですけど……」
「んー……」
宇栄原さんは、難色を示しているというよりは急にこんなことを言い出す僕の意図を探しているようだった。
聞いてみた理由は当然ある。一応特待生という扱いでこの学校に入っている手前、これ以上成績を落とすわけにはいかないのだ。宇栄原さんの言う通り、世間一般的に見たら僕の成績は特別悪いわけではないだろう。現に、あの張り紙に名前が載っているくらいの成績なのだから、寧ろいい成績であると言っても差し支えはないのかもしれない。しかしそれでも、このままでは落としかねないという危惧があった。特待生ギリギリの成績というわけではないものの、もう少し順位は上げておかなければ、この先が不安で仕方がなかったのである。
そうは言っても、別に同じ学校に通っている人物などではなく、例えば塾という選択肢もあるだろうし、自分でどうにかする方法だってあるはずだ。でも僕は、お金がかかるようなことを伯父さんに提案なんてことはしたくない。それと、自分でやってこの順位である以上、ここから先成績が上がる可能性はそう高くはないのである。それなら、自分より成績のいい人物に聞いてみたほうが話が早いのだ。
ここまで来るとただの僕のエゴでしかないのだけれど、やはり金銭に関わる負担をこれ以上お世話になっている二人にかけるわけにはいかない。自分で何とかするのは勿論だけど、誰かに教示を乞うくらいのことは別に構わなかった。最も、そこに至るまでにはどうにも胆力が必要だったけど、それはまぁ、想像の範囲内である。
僕の相手をすることで宇栄原さんの負担が増えるのならまるで意味がないのだけれど、それならそれですぐに断ってくれるだろう。宇栄原さんはそういう人だと思って、僕はこの人に聞いているのだ。
宇栄原さんは、相変わらず思案することを止めはしない。一体何がそんなに引っかかっているのか、この時点で僕はまだよく分かっていなかった。
「そこにおれより成績のいい人がいるのに、どうしておれに聞くの?」
宇栄原さんが更に提示したのは、学年二位の人物がすぐそこに居るにも拘らず、どうしてそれを自分に頼むのかということだった。
特に何をするでもなく、頬杖をついたまま僕らの話をただただ聞いていた神埼さんと目が合ってしまう。思わず表情筋が強張ってしまったのを必死に振るい取るように、僕は質問に答えた。
「誰が教え上手かどうかの区別くらいはつきます……」
「だってさ」
「あ、そう……」
宇栄原さんに急に話をふられた神崎さんは、それだけ言うとすぐに目を逸らした。その様子は、さながら少し不貞腐れたようにも見えた。しかしこう言うのもなんだけれど、無口が無口に勉強を教えてもらうというのはお互い中々に難易度が高く、争いこそ起きないだろうが、生産性は余り高くなさそうだったのだ。無論、反射的な僕の感情が少し上乗せされてはいるが。
「……それともう一つだけ。学年を飛び越えてわざわざおれを選ぶっていうのには、何か他に意味があったりする?」
その言葉に、僕は心なしかどきりとした。つまり宇栄原さんは橋下さんのことを言っているのだろう。あの人も順位がかなり上で、比べるのもなんだけれど、宇栄原さんより順位が上なのである。
「な、ないです。なにも……」
全くないといったら、正直なところ嘘かも知れない。でも、その嘘に値する気持ちが今一つ見当たらなかった。……橋下さんがどう、ということは毛頭ないのだが。
ふうん……と、宇栄原さんが口にしたのはから返事に近かった。
「人に教えたことないから余り自信ないけど、おれでいいならいいよ」
宇栄原さんは思いのほかあっさりと引き下がり、それ以上踏み込んだ質問をすることはなく僕に肯定の意を示した。少しだけ肩の荷が下りたような心持ちになったのは、どうやら僕の気のせいではないようだ。
◇
「……前から聞こうと思ってたんだけど」
「な、なんですか……?」
「ああいや、別にそこまで身構える話じゃなくてね」
苦笑いを含みながら僕に声をかける宇栄原さんは、いつものように優しい口調だった。橋下さんと喋るときとはそれは大違いで、神崎さんと喋るときともまた違う。もしかしたら、僕が想像しているよりも遥かに気を使われているのかも知れないなどと、変に邪心してしまうほどだ。
「どうして先輩じゃなくて”さん”なのかなって」
そんな宇栄原さんの思っても見なかった質問に、僕の思考は思わず停止した。
「……なんででしょう」
「その理由はおれが聞きたいかなぁ」
理由という理由は、正直なかった。確かに、どうして僕は先輩という敬称を使わないのだろうか。自分でも不思議で仕方がなかった。
しかし改めてそれを考えてみたとき、当てはまりそうな理由かふと頭に浮かんだ。
「まあ別にいいんだけどね。どっちかっていうと先輩のほうが聞き慣れてていいなって思っただけで」
これを考えたとき確かに、今更先輩と呼ぶにはどうしても胆力が必要だという気がした。
「か、考えておきます……」
思っていることとは少し別の言葉を、僕は無理矢理吐いた。これなら、今後似たような話になっても何とか切り抜けられるだろう。そう思ったのだ。
しかし、やはりそこには罪悪感に似たようなモノがつきまとう。
『どうせ、すぐに会わなくなるって思っていたから、親しい人称を使うという感覚がありませんでした』
そう言ってしまったら、きっと時が止まったように怪訝な顔をされること間違いないだろう。……いや、宇栄原さんはそんな顔はしないだろうか? どちらにしても、そこに嘘はひとつ存在しない。
橋下さんがここに連れてきたことも、最初は疎ましかった。どうして橋下さんがこうして僕をここに来させたのかも未だによく分からないまま時が過ぎてしまったのは、余りよくなかったかも知れない。それに、僕が一番危惧していたことがあった。
決して遠くない未来に、ここに居る誰もが僕に関する噂に晒されるはず。そうなったら果たしてどうなるかなんてことは、おおかたの検討がついた。だからこそ、出来るだけ知り合いなんてものを作りたくはなかった。というよりは、元々作る気なんて更々なかったのだ。
それなのに、先輩たちと出会って約一ヶ月が経ってもなお、どういうわけかそれが起きていない。全くもって不思議だった。
本当に知らないだけなのか、それとも知っていてこうなのか。僕にはまるで見当がつかない。もしかしたら裏で何か言われているのかも知れないけれど、それこそ誰かが告げ口をしてこない限り、僕には分かりようがないことだ。
こうなる前に縁を切れる状況が起きれば一番良かっただろうに、あろうことか、教えを乞う為に僕のほうから接近するなんていう行動を起こしてしまった。
人に教えを乞うだなんてこと、本来ならしないほうがいいのだろうというのは、承諾を得たすぐ後だというのに思っている。
でも、だからといって他に誰に答えを求めたらいいのかと考えたとき、僕は答えにかなり詰まってしまった。それに加えて、毎日のように顔を合わせているはずのクラスメイトのことなんて考えるまでもなく、ここにいる人達の顔しか思い浮かべることが出来なかったのだ。その理由がよく分からないというのにも、かなり困惑した。
この人達と縁を切ってしまいたいのか、それもと仲良くなりたいのか、もう僕にはよく分からない。
僕が先輩と口にすることが出来ないのは、こういった不純物の多い感情が邪魔をしているからだ。
◇
ガラリと大きな音を図書室の扉が立てたのは、それからすぐのことだった。
「え、あれ相谷くんがもう来てる」
その音ですぐに橋下さんが来たということは分かったが、それは最早些細な出来事に過ぎなかった。
「この前のテスト問題ある?」
「あ、はい……」
テストが終わっても未だに鞄の中に入っているであろう問題用紙を、僕は慌てて探し始めた。別に焦らなくていいから、と宇栄原さんが笑いながら言うものの、鞄の中身は既にいろんなものが混ざりあっており手遅れだった。
クリアファイルの中なのに何故か端が少し折れ曲がっている問題用紙を見つけ、なんとか宇栄原さんに差し出した。適当に取ったのは数学だった。
宇栄原さんはひとつ感謝を僕に向けた後、まじまじと問題用紙を眺めはじめた。
「んー……こんなのやったっけなぁ。もう覚えてないや」
「す、すみません……」
「謝るところがちょっと違うんじゃないかと思うよ、おれは」
「二人がいつの間にイチャイチャするような仲になってる……」
一体いつの間にテーブルまで来たのか、間を裂くように橋下さんが軽口を叩いた。その口振りは、驚きというよりもショックを受けた時のそれに近いようだった。
「いや別に、イチャイチャはしてないけど」宇栄原さんは反論をした。
「目の前でカップルにイチャつかれてる気分……」
「だからイチャついてはいない」
「こうなったらオレ達もイチャイチャするしかない」
「おま……近い」
橋下さんの標的はすぐに神崎さんに代わり、椅子を近づけて腕を無理矢理絡ませていた。神崎さんは心底迷惑そうにしていたが、決して嫌とは言わなかった。
宇栄原さんはといえば、僕の隣で既に完全に無視する体制に入っている。目の動きは、完全にテストの問いを追っていた。
「オレも先輩のテストの点数見たいなぁー」橋下さんは、まだ神崎さんの邪魔をしていた。
「な、なんでお前に見せないといけないんだよ……」
「残念なことに、先輩が見られて困るような点数じゃないの分かってるんですよ? 減るもんじゃないんですから、ほらほら早く」
「そこまで言うならお前が先に見せろ。大して変わんないだろ」
「やだ」
「お前……そういうところだぞ」
「何がですか?」
「なんでもいいけどちょっと五月蠅い」
「ごめんなさい」
宇栄原がそう一蹴りすると、急に橋下さんは静かになった。といっても、気持ち声の音量が落ちただけで神崎さんに向かってまだ何かを喋っている。それを五月蝿いとも思わなくなったのは、もしかして慣れが生じてしまったのだろうか?
「先輩、オレでも読める本探してくださいよ」
「……お前、この前もそうやって言ったから本渡したけど、三ページくらい見たら飽きて寝てただろ」
「いやだって、図書室って静かだから眠くなりません?」
「俺はお前のせいで一頁も進んでないからいっそ寝てくれ」
「……元気だよねぇ、この二人」
「そ、そうですね……」
宇栄原さんの言葉に、思わず僕も同調してしまう。どうやら宇栄原さんも、完全に無視というわけにはいかなかったらしい。聞こえているのかいないのか、該当する二人の会話はまだ終わりそうにない。
図書室で勉強をするのがこんなに難しいのかということを、この数分の間で嫌というほど思い知った。
◇
「人に勉強教えるなんて、中々珍しい経験しちゃったなぁ」
相谷君と橋下君と別れてから約数秒後のこと、話はすぐにさっき図書室で起きたことで持ち切りだった。持ち切りというよりも、喋っているのは殆どおれだけなのだが、それはいつものことである。
相谷君が口にした、これ以上成績が下がると色々とマズい、というのは多分特待生に入れるか否かということなのだろうけど、そこは流石におれが口を出せる話ではなく、話を聞いた限りそれ以上でも以下でもないようだったから、思わず承諾してしまった。
如何せん誰かに教えるというのはこれが初めてだったし、果たしてあれで良かったのかは全然分からないけど、心なしか相谷君のお礼のテンションがいつもより高かったような気がするから、きっと大丈夫だろう。と言っても、これまでに感謝されたことがあったかどうかは記憶にないが。
「しかも、相谷君からああやって言ってくるなんて思わなかったよね」
左にいる拓真は聞いているのかいないのか、返事のようなものが返ってくる気配は一向にない。しかし、それが本当におれのことを無視してるという極端な状況でもなかった。
「どういう心境の変化だろうね?」
「……ここに来るのが嫌なのかどうなのか、よく分からなくなった。……っていうのは、この前相谷から聞いた」
「へぇ」
それが一体どれくらい前のことなのかは知らないが、おれが居ない間にどうやら面白いことがあったようだ。本当に面白いことだったかどうかはさておいて、相谷君と拓真が喋らないといけない状況に陥ったということが既に面白い。それを口に出して茶化す気は毛頭ないが。
しかし拓真のいうことが本当なら、やっぱり最初は図書室に来るということが嫌だったということなのだろう。どこからどう見ても橋下君が無理矢理連れてきたようにしか見えなかったあの時のことは、まだ記憶に新しい。
「……でもそれ、手放しで喜んでいいのか微妙っていうか。他に何か言ってなかった?」
「……探してたっぽい本渡したら感謝された」
「何そのオモシロ話。見たかったな……」
折角茶化さないと思っていたところだったのに、あろうことか秒で覆されてしまった。
「あれ以上のこと聞ける勇気は俺にはなかった……」
「誰も聞けなんて言ってないけど。おれも、流石にこれ以上突っ込む勇気はないなぁ」
あの橋下君が連れてくるのだから、相谷君がなんだかわけありな雰囲気は感じていたが、それもただのおれの感想に過ぎず、本当のところはよく分からない。おれの考えすぎかもしれない、そうであるのが一番いいのだが、かといってその疑念を払拭するために踏み込み過ぎるのも考えものだ。万一聞かれたくないことをおれが聞いたとして、次の日から一切会わなくなってしまいそうな、そんな危うさを彼は持ち合わせているのである。
「……お前、よくあそこまで気使って相谷と話せるな」
「んーまあ……だって、相谷君おれにすらビビってるし、あと二人と違って無下にする理由もないし」
「否定出来ないのがムカつくな……」
そうは言っても、あれでも一応最初よりは軟化している……とおれは思っているのだが、もしかして気のせいだろうか? 元々言いたいことはそれなりに素直に口にする人だと思うし、相谷君が言っていた「拓真が勉強を教えるのには向いていない」というのは、実際かなり的を得ているだろう。頭がいいというのと勉強を教えるのが上手いというのは、必ずしも比例しないというものだ。
下手なことを言うとすぐに何処かに行ってしまいそうな危うさは確かにあるものの、地雷を踏みまくりそうな橋下君がいるのにそれが起きていないのだから、もしかしたらある程度踏み込んだ話をしてもそう拒否をされることはないのかも知れない。
しかし、あの小動物の塊のような人物に踏み込んだ質問をするというのは、流石のおれでもかなり勇気がいる。どうして先輩と呼ばないのかという点を聞くかどうするかもかなり迷ったのだが、結局明確な答えは返ってこなかったし、あれはもう少し踏み込んでみるべきだっただろうか? それとも本当に特に何も考えていなかったのだろうか? 相谷君に限って何も考えていなかったというのは、何かが違う気がするけれど……。
「……これが続けばいいけどね」
どちらにしても、おれの目に映らない一抹の不安というのは、どうしても拭うことが出来なかった。
この学校は、定期考査の五教科の合計点と順位、そして名前を学年ごとに廊下に張り出すという、なんとも争いが起こりそうなシステムを採用している。確か上位二十位までの人物の名前が載っているはずだ。
人ごみの中を行くのは余り好きではないが、ここ数日はいつ見に行ってもこんな感じなのだろう。仕方なく、沢山の人々の群がる場所へと足を進めた。人の順位なんて正直どうでもいいし見たくもないのだが、どうしても確認しておく必要があったのだ。
人混みの一番後ろ、少し背伸びをしながら掲示板に貼ってある大きな紙を視界に入れた。
「うわ……」
思わず声が漏れてしまったのは、決して自分の順位を見たからというわけではない。
(凄いな……)
神崎 拓真という人物の名前が、上から二番目に羅列されていたのだ。それだけではない。見覚えのあるもう二人の名前が僕の視界に入ったのだ。
三年生の十位には宇栄原という名前、そして二年生の五位に橋下という人物の名前があった。
(も、もしかして、とんでもない人たちと知り合いになってしまったのだろうか……)
この時には、自分の学年の順位のことなんてもうどうでもよくなっていた。
この学校の偏差値は決して低くない。随一というには恐らく少し物足りないのだろうが、それでも一般的な学力で入れるようなところではないだろう。そんな学校に通っている中で、あろうことかテスト総合順位が書かれた紙に知り合いの名前が全員あるだなんてことがあるだろうか? 実際にそれを目の前にしても、余り実感が湧かなかった。
当然と言うべきか、人混みの中で揉まれそうになりそうで思わず一歩下がろうとした時、誰かとぶつかる感覚が背中を走った。
「あ……すみま――」言いながら、僕は後ろを振り向いた。そこに居たのは、三年生の学年二位である人物だった。お互いに目が合ったからといって、どちらかが気を利かせて何かを喋るということはなかった。
「人多いな……まあ当然か」
少し遠くから、聞き覚えのある声の一人言が僕の耳に入った。何処からどう聞いても宇栄原さんの声である。聞き間違えるということがあるわけがなかった。
「ご、ごめんなさいっ……!」
どういうわけか居たたまれなくなった僕は、気付けば二人の居ない方向へと走り出していた。まるで何も悪いことをしていないのに、警察と出会ったときのような気分である。
「今相谷君いなかった?」
「……あそこまで露骨に逃げられるほど俺なんかしたか?」
「オレの記憶にはないけど……まあ分からなくはない」
「全然分からん……」
掲示板から少し離れれば、人の群れはすっかりと無くなっていた。息を切らしながら階段に足をかけていく。今日が始まったばかりだというのに、もうすっかり疲れ果ててしまった。学校にもせめてエスカレーターくらいつけて欲しいものだ。
(……あ、しまった)
そんなくだらないことを考えていたのもつかの間、ようやく自分の教室がある階にまでたどり着いた時のことだ。
「自分の名前あるか見るの忘れた……」
何も考えずに思わず逃げてしまったが、あろうことか自分の学年の順位をすっかりと見落としてしまっていた。一番見ないといけないところだったはずなのに、これではなんで見に行ったのかよく分からない。その後すぐに後ろを振り向いたのだが、人の多さを思い出すだけで飽き飽きとしてしまって、戻ることはしなかった。
その後、自分の名前があったかどうかに関しては、クラスで誰かが噂していたのを聞いたお陰で皮肉にも特別困らなかった。
◇
一度目の定期考査が終わって数日後の今日、僕は非常に落ち着きが無かった。何故なら、放課後に一人で図書室に来るという奇行を起こしてしまったからだ。一階の下駄箱の近くまで進み、あともう少しのところで図書室だというのに、どうにも辿り着くのに時間が必要だった。近くに来ておいて辺りを行ったり来たりとぐずぐずしていたのだ。
もういっそこのまま帰ってしまおうかとも何度も思ったのだけれど、それでは授業が終わって真っ先に来た意味がなくなってしまう。意を決してようやく図書室の扉に手をかけたのは、一階に来ておおよそ五分以上が経ってからのことだった。一体何のために早く来たのかもう訳が分からない。
恐る恐る扉を開け、中を覗き込むようにして見渡していく。確かふたりくらいが入っていったような気がするけど、その人たちは特別僕とは無関係の人たちだった。
(……やっぱり帰ろうかな)
目的の人物がいないということに圧され、早くも心が折れそうになった時のことだ。
「入らないの?」
「わわっ……!」
聞き覚えのある人物の声が後ろから聞こえてきたお陰で、思わず間抜けな声が出てしまった。犯人は宇栄原さんである。後ろから、少し遅れて神崎さんもやってきたのが見えた。
「ごめんごめん。相谷君がひとりで来るなんて珍しいなと思って」
宇栄原さんは、少し申し訳なさそうに眉を下げながらも、呆気にとられている僕を図書室へと促していく。もしかして僕の知らないところでずっと見ていたのかも知れないと思うと、自然と顔に熱が溜まっていくのがよく分かったが、そんなことはお構いなしだった。
適当な席を取る宇栄原さんに続いて、神崎さんが向かいの椅子に座った。僕はといえば、相変わらず挙動に落ち着きがなかった。一先ず宇栄原さんの隣の席に荷物を置く。もし橋下さんが来るのならいつもは神崎さんの隣のはずだから、そうなるのはある意味では当然だった。
(せ、折角来たんだし……言わないと意味ないか……)
いっそ逃げ出したい気持ちをなんとか抑え、僕は口を開いた。
「う、宇栄原さん……」
僕が口を開くことになった原因は、宇栄原さんだ。当の本人は、ただの世間話であるかのように僕の方を向いた。そして、あろうことか神崎さんまでも僕の方へと顔を向けた。僕から話しかけるなんてことは今の今まで無かったわけだから、おおかた珍しかったのだろう。
その……と一度躊躇したものの、ここまで来たらもうどうにでもなれという気持ちが上回る。最早やけくそだった。
「僕が勉強教えて下さいって言ったら、どうします?」
突然の意に、当然宇栄原さんは面を食らっているようだった。
「……ええっと、そう来るか。なるほど……」
困惑と同時に必死に僕の言葉を呑み込んでいく宇栄原さんの、次に続く言葉を僕はただただ待ち続けていた。自分で言っておいてなんだけれど、とてもじゃないがこのままダッシュで図書室を去ってしまいたいくらいに、僕の心臓は落ち着きが無かった。
「でも相谷君って、特別成績が悪いわけじゃないよね?」
一度話を整理をしたいと顔に書いてある通り、宇栄原さんはまずひとつの疑問を提示した。この時点で、宇栄原さんが僕の成績について既に何か情報を手に入れているということは、あのデカデカと貼り出されていたテスト順位の紙を見たのだろう。
どうして僕が宇栄原さんにこんなことを頼まないといけないのかということに関しては、かなり悩んだ。それはもう、悩み過ぎて連日寝不足になるくらいにである。
「これ以上落ちると困るので……色々と……。あ、いや別に本当にやってほしいわけじゃないですけど……」
「んー……」
宇栄原さんは、難色を示しているというよりは急にこんなことを言い出す僕の意図を探しているようだった。
聞いてみた理由は当然ある。一応特待生という扱いでこの学校に入っている手前、これ以上成績を落とすわけにはいかないのだ。宇栄原さんの言う通り、世間一般的に見たら僕の成績は特別悪いわけではないだろう。現に、あの張り紙に名前が載っているくらいの成績なのだから、寧ろいい成績であると言っても差し支えはないのかもしれない。しかしそれでも、このままでは落としかねないという危惧があった。特待生ギリギリの成績というわけではないものの、もう少し順位は上げておかなければ、この先が不安で仕方がなかったのである。
そうは言っても、別に同じ学校に通っている人物などではなく、例えば塾という選択肢もあるだろうし、自分でどうにかする方法だってあるはずだ。でも僕は、お金がかかるようなことを伯父さんに提案なんてことはしたくない。それと、自分でやってこの順位である以上、ここから先成績が上がる可能性はそう高くはないのである。それなら、自分より成績のいい人物に聞いてみたほうが話が早いのだ。
ここまで来るとただの僕のエゴでしかないのだけれど、やはり金銭に関わる負担をこれ以上お世話になっている二人にかけるわけにはいかない。自分で何とかするのは勿論だけど、誰かに教示を乞うくらいのことは別に構わなかった。最も、そこに至るまでにはどうにも胆力が必要だったけど、それはまぁ、想像の範囲内である。
僕の相手をすることで宇栄原さんの負担が増えるのならまるで意味がないのだけれど、それならそれですぐに断ってくれるだろう。宇栄原さんはそういう人だと思って、僕はこの人に聞いているのだ。
宇栄原さんは、相変わらず思案することを止めはしない。一体何がそんなに引っかかっているのか、この時点で僕はまだよく分かっていなかった。
「そこにおれより成績のいい人がいるのに、どうしておれに聞くの?」
宇栄原さんが更に提示したのは、学年二位の人物がすぐそこに居るにも拘らず、どうしてそれを自分に頼むのかということだった。
特に何をするでもなく、頬杖をついたまま僕らの話をただただ聞いていた神埼さんと目が合ってしまう。思わず表情筋が強張ってしまったのを必死に振るい取るように、僕は質問に答えた。
「誰が教え上手かどうかの区別くらいはつきます……」
「だってさ」
「あ、そう……」
宇栄原さんに急に話をふられた神崎さんは、それだけ言うとすぐに目を逸らした。その様子は、さながら少し不貞腐れたようにも見えた。しかしこう言うのもなんだけれど、無口が無口に勉強を教えてもらうというのはお互い中々に難易度が高く、争いこそ起きないだろうが、生産性は余り高くなさそうだったのだ。無論、反射的な僕の感情が少し上乗せされてはいるが。
「……それともう一つだけ。学年を飛び越えてわざわざおれを選ぶっていうのには、何か他に意味があったりする?」
その言葉に、僕は心なしかどきりとした。つまり宇栄原さんは橋下さんのことを言っているのだろう。あの人も順位がかなり上で、比べるのもなんだけれど、宇栄原さんより順位が上なのである。
「な、ないです。なにも……」
全くないといったら、正直なところ嘘かも知れない。でも、その嘘に値する気持ちが今一つ見当たらなかった。……橋下さんがどう、ということは毛頭ないのだが。
ふうん……と、宇栄原さんが口にしたのはから返事に近かった。
「人に教えたことないから余り自信ないけど、おれでいいならいいよ」
宇栄原さんは思いのほかあっさりと引き下がり、それ以上踏み込んだ質問をすることはなく僕に肯定の意を示した。少しだけ肩の荷が下りたような心持ちになったのは、どうやら僕の気のせいではないようだ。
◇
「……前から聞こうと思ってたんだけど」
「な、なんですか……?」
「ああいや、別にそこまで身構える話じゃなくてね」
苦笑いを含みながら僕に声をかける宇栄原さんは、いつものように優しい口調だった。橋下さんと喋るときとはそれは大違いで、神崎さんと喋るときともまた違う。もしかしたら、僕が想像しているよりも遥かに気を使われているのかも知れないなどと、変に邪心してしまうほどだ。
「どうして先輩じゃなくて”さん”なのかなって」
そんな宇栄原さんの思っても見なかった質問に、僕の思考は思わず停止した。
「……なんででしょう」
「その理由はおれが聞きたいかなぁ」
理由という理由は、正直なかった。確かに、どうして僕は先輩という敬称を使わないのだろうか。自分でも不思議で仕方がなかった。
しかし改めてそれを考えてみたとき、当てはまりそうな理由かふと頭に浮かんだ。
「まあ別にいいんだけどね。どっちかっていうと先輩のほうが聞き慣れてていいなって思っただけで」
これを考えたとき確かに、今更先輩と呼ぶにはどうしても胆力が必要だという気がした。
「か、考えておきます……」
思っていることとは少し別の言葉を、僕は無理矢理吐いた。これなら、今後似たような話になっても何とか切り抜けられるだろう。そう思ったのだ。
しかし、やはりそこには罪悪感に似たようなモノがつきまとう。
『どうせ、すぐに会わなくなるって思っていたから、親しい人称を使うという感覚がありませんでした』
そう言ってしまったら、きっと時が止まったように怪訝な顔をされること間違いないだろう。……いや、宇栄原さんはそんな顔はしないだろうか? どちらにしても、そこに嘘はひとつ存在しない。
橋下さんがここに連れてきたことも、最初は疎ましかった。どうして橋下さんがこうして僕をここに来させたのかも未だによく分からないまま時が過ぎてしまったのは、余りよくなかったかも知れない。それに、僕が一番危惧していたことがあった。
決して遠くない未来に、ここに居る誰もが僕に関する噂に晒されるはず。そうなったら果たしてどうなるかなんてことは、おおかたの検討がついた。だからこそ、出来るだけ知り合いなんてものを作りたくはなかった。というよりは、元々作る気なんて更々なかったのだ。
それなのに、先輩たちと出会って約一ヶ月が経ってもなお、どういうわけかそれが起きていない。全くもって不思議だった。
本当に知らないだけなのか、それとも知っていてこうなのか。僕にはまるで見当がつかない。もしかしたら裏で何か言われているのかも知れないけれど、それこそ誰かが告げ口をしてこない限り、僕には分かりようがないことだ。
こうなる前に縁を切れる状況が起きれば一番良かっただろうに、あろうことか、教えを乞う為に僕のほうから接近するなんていう行動を起こしてしまった。
人に教えを乞うだなんてこと、本来ならしないほうがいいのだろうというのは、承諾を得たすぐ後だというのに思っている。
でも、だからといって他に誰に答えを求めたらいいのかと考えたとき、僕は答えにかなり詰まってしまった。それに加えて、毎日のように顔を合わせているはずのクラスメイトのことなんて考えるまでもなく、ここにいる人達の顔しか思い浮かべることが出来なかったのだ。その理由がよく分からないというのにも、かなり困惑した。
この人達と縁を切ってしまいたいのか、それもと仲良くなりたいのか、もう僕にはよく分からない。
僕が先輩と口にすることが出来ないのは、こういった不純物の多い感情が邪魔をしているからだ。
◇
ガラリと大きな音を図書室の扉が立てたのは、それからすぐのことだった。
「え、あれ相谷くんがもう来てる」
その音ですぐに橋下さんが来たということは分かったが、それは最早些細な出来事に過ぎなかった。
「この前のテスト問題ある?」
「あ、はい……」
テストが終わっても未だに鞄の中に入っているであろう問題用紙を、僕は慌てて探し始めた。別に焦らなくていいから、と宇栄原さんが笑いながら言うものの、鞄の中身は既にいろんなものが混ざりあっており手遅れだった。
クリアファイルの中なのに何故か端が少し折れ曲がっている問題用紙を見つけ、なんとか宇栄原さんに差し出した。適当に取ったのは数学だった。
宇栄原さんはひとつ感謝を僕に向けた後、まじまじと問題用紙を眺めはじめた。
「んー……こんなのやったっけなぁ。もう覚えてないや」
「す、すみません……」
「謝るところがちょっと違うんじゃないかと思うよ、おれは」
「二人がいつの間にイチャイチャするような仲になってる……」
一体いつの間にテーブルまで来たのか、間を裂くように橋下さんが軽口を叩いた。その口振りは、驚きというよりもショックを受けた時のそれに近いようだった。
「いや別に、イチャイチャはしてないけど」宇栄原さんは反論をした。
「目の前でカップルにイチャつかれてる気分……」
「だからイチャついてはいない」
「こうなったらオレ達もイチャイチャするしかない」
「おま……近い」
橋下さんの標的はすぐに神崎さんに代わり、椅子を近づけて腕を無理矢理絡ませていた。神崎さんは心底迷惑そうにしていたが、決して嫌とは言わなかった。
宇栄原さんはといえば、僕の隣で既に完全に無視する体制に入っている。目の動きは、完全にテストの問いを追っていた。
「オレも先輩のテストの点数見たいなぁー」橋下さんは、まだ神崎さんの邪魔をしていた。
「な、なんでお前に見せないといけないんだよ……」
「残念なことに、先輩が見られて困るような点数じゃないの分かってるんですよ? 減るもんじゃないんですから、ほらほら早く」
「そこまで言うならお前が先に見せろ。大して変わんないだろ」
「やだ」
「お前……そういうところだぞ」
「何がですか?」
「なんでもいいけどちょっと五月蠅い」
「ごめんなさい」
宇栄原がそう一蹴りすると、急に橋下さんは静かになった。といっても、気持ち声の音量が落ちただけで神崎さんに向かってまだ何かを喋っている。それを五月蝿いとも思わなくなったのは、もしかして慣れが生じてしまったのだろうか?
「先輩、オレでも読める本探してくださいよ」
「……お前、この前もそうやって言ったから本渡したけど、三ページくらい見たら飽きて寝てただろ」
「いやだって、図書室って静かだから眠くなりません?」
「俺はお前のせいで一頁も進んでないからいっそ寝てくれ」
「……元気だよねぇ、この二人」
「そ、そうですね……」
宇栄原さんの言葉に、思わず僕も同調してしまう。どうやら宇栄原さんも、完全に無視というわけにはいかなかったらしい。聞こえているのかいないのか、該当する二人の会話はまだ終わりそうにない。
図書室で勉強をするのがこんなに難しいのかということを、この数分の間で嫌というほど思い知った。
◇
「人に勉強教えるなんて、中々珍しい経験しちゃったなぁ」
相谷君と橋下君と別れてから約数秒後のこと、話はすぐにさっき図書室で起きたことで持ち切りだった。持ち切りというよりも、喋っているのは殆どおれだけなのだが、それはいつものことである。
相谷君が口にした、これ以上成績が下がると色々とマズい、というのは多分特待生に入れるか否かということなのだろうけど、そこは流石におれが口を出せる話ではなく、話を聞いた限りそれ以上でも以下でもないようだったから、思わず承諾してしまった。
如何せん誰かに教えるというのはこれが初めてだったし、果たしてあれで良かったのかは全然分からないけど、心なしか相谷君のお礼のテンションがいつもより高かったような気がするから、きっと大丈夫だろう。と言っても、これまでに感謝されたことがあったかどうかは記憶にないが。
「しかも、相谷君からああやって言ってくるなんて思わなかったよね」
左にいる拓真は聞いているのかいないのか、返事のようなものが返ってくる気配は一向にない。しかし、それが本当におれのことを無視してるという極端な状況でもなかった。
「どういう心境の変化だろうね?」
「……ここに来るのが嫌なのかどうなのか、よく分からなくなった。……っていうのは、この前相谷から聞いた」
「へぇ」
それが一体どれくらい前のことなのかは知らないが、おれが居ない間にどうやら面白いことがあったようだ。本当に面白いことだったかどうかはさておいて、相谷君と拓真が喋らないといけない状況に陥ったということが既に面白い。それを口に出して茶化す気は毛頭ないが。
しかし拓真のいうことが本当なら、やっぱり最初は図書室に来るということが嫌だったということなのだろう。どこからどう見ても橋下君が無理矢理連れてきたようにしか見えなかったあの時のことは、まだ記憶に新しい。
「……でもそれ、手放しで喜んでいいのか微妙っていうか。他に何か言ってなかった?」
「……探してたっぽい本渡したら感謝された」
「何そのオモシロ話。見たかったな……」
折角茶化さないと思っていたところだったのに、あろうことか秒で覆されてしまった。
「あれ以上のこと聞ける勇気は俺にはなかった……」
「誰も聞けなんて言ってないけど。おれも、流石にこれ以上突っ込む勇気はないなぁ」
あの橋下君が連れてくるのだから、相谷君がなんだかわけありな雰囲気は感じていたが、それもただのおれの感想に過ぎず、本当のところはよく分からない。おれの考えすぎかもしれない、そうであるのが一番いいのだが、かといってその疑念を払拭するために踏み込み過ぎるのも考えものだ。万一聞かれたくないことをおれが聞いたとして、次の日から一切会わなくなってしまいそうな、そんな危うさを彼は持ち合わせているのである。
「……お前、よくあそこまで気使って相谷と話せるな」
「んーまあ……だって、相谷君おれにすらビビってるし、あと二人と違って無下にする理由もないし」
「否定出来ないのがムカつくな……」
そうは言っても、あれでも一応最初よりは軟化している……とおれは思っているのだが、もしかして気のせいだろうか? 元々言いたいことはそれなりに素直に口にする人だと思うし、相谷君が言っていた「拓真が勉強を教えるのには向いていない」というのは、実際かなり的を得ているだろう。頭がいいというのと勉強を教えるのが上手いというのは、必ずしも比例しないというものだ。
下手なことを言うとすぐに何処かに行ってしまいそうな危うさは確かにあるものの、地雷を踏みまくりそうな橋下君がいるのにそれが起きていないのだから、もしかしたらある程度踏み込んだ話をしてもそう拒否をされることはないのかも知れない。
しかし、あの小動物の塊のような人物に踏み込んだ質問をするというのは、流石のおれでもかなり勇気がいる。どうして先輩と呼ばないのかという点を聞くかどうするかもかなり迷ったのだが、結局明確な答えは返ってこなかったし、あれはもう少し踏み込んでみるべきだっただろうか? それとも本当に特に何も考えていなかったのだろうか? 相谷君に限って何も考えていなかったというのは、何かが違う気がするけれど……。
「……これが続けばいいけどね」
どちらにしても、おれの目に映らない一抹の不安というのは、どうしても拭うことが出来なかった。