一階の図書室に辿り着くまでの間は、比較的スムーズだった。橋下さんが僕の荷物を持っているせいで、ついていくしか道が無くなってしまったのが一番の要因だろう。鞄を奪い取るという選択肢もあったのだろうが、そうするよりも橋下さんが素早かったのである。
図書室に来たとは思えないくらいに遠慮なく扉を開ける橋下さんに少し気が引けながらも、僕は足を踏み入れた。廊下の無機質な床から木材の床を踏みしめた時の、僅かに沈む感覚が足の裏に伝わってくる。縮こまりそうになる背中をなんとか起こし、数歩ほど踏みしめた。
「あ、先輩だ」
そう言った橋下さんが向かった先は、並べられたテーブルでも本が羅列されている棚でもなく受付だった。橋下さんのいう先輩というのは一体どっちのことなのかまだ分からず、僕もそれに倣って受付へと足を進めた。いい加減荷物を返して欲しいものだけれど、それはまだ少し先の話らしい。筆箱しか持っていないのがそろそろ手持ち無沙汰なのだが、まあそのうち返してくれるだろう。
「宇栄原先輩は?」
「いないけど」
「いや見ればわかりますけど」
見ると、受付のカウンターを返したところには神崎さんがいた。僕らの見える範囲には宇栄原さんは見当たらない。いつもは受付から見える範囲くらいの席に座っていることが多いから、恐らく今日は本当に来ていないのだろう。受付にいる神崎さんは、確か図書委員だったと記憶しているから当番なのかもしれない。
「……母の日が近いからな」
「なーるほど。……なるほど?」
一度納得したはずの橋下さんは、すぐに疑問を投げかけた。
「母の日が近いと何かあるんでしたっけ?」
「……花屋の前でそれ言ったら怒られそうだな」
「あ、そういえば母の日ってお花送る人多いですもんねぇ。先輩いなくてよかった」
宇栄原さんの家が花屋さんというのを一体いつ聞いたのかは全然覚えていないけど、そういえばそんなことを言っていたような気がするというのだけは記憶してしる。確かに、母の日間際のお花屋さんというのは相当忙しそうだ。
そういえば、僕が気にしたところでどうしようもないのだけれど、今はテスト前のうえにこの学校はバイト禁止だったような気がするのだけどいいのだろうか。先輩はそういうことにちゃんとしていそうだと思っていたのだが、もしかすると僕の見当違いだったのかもしれない。どちらにしても今更だし、別に誰かに言いつけてやろうだなんて思ってもいないから、これ以上は気にしないことにしようと思う。
「じゃあ暇ですねぇ」
「ならさっさと帰れよ」
「先輩は?」
「普通に当番だよ。邪魔すんな」
「まだ邪魔はしてませんけど」
「まだ……?」
いつも通り橋下さんに遊ばれている神崎さんは、僕が時間を持て余していることに気付いたのかばっちりと目があってしまう。特に何も言われていないのに、思わず緊張が走った。特に何かを言うでもなく僕を視界に入れる神崎さんに、思わず目が泳いでしまうのがよく分かった。
居たたまれなくなった僕は、そのまま何を言うでもなく受付を後にし、一番近くのテーブルに筆箱を置いて本棚へと走った。受付から見えないところを探すように、かつ若干早くなった心臓の動きを誤魔化しながら、本棚が作った通路を意味もなく歩く。
(……やっぱり、ちょっと苦手かも)
神崎さんに特別何かを言われたわけでもなければ、そもそもまともに話したことがあったかさえも覚えていないくらいの関係なのに、どうしてこうも駄目なのだろう。……いや、よく考えてみたら橋下さんや宇栄原さんだって同列かも知れないが、それにしてもこれは過剰反応すぎて、控えめに言ってもいい対応だとは言い難いだろう。
神崎さんのことを悪い人だとは別に思っていないのだけれど、一度持ってしまった感情を覆すのはどうにも難しそうだ。
◇
「あーあ、先輩がガン飛ばすから相谷くん逃げちゃったじゃないですか」
軽口を叩く橋下は、近くに誰も居ないのを良いことにカウンター越しで受付に居座り続けている。まるで知り合いだからとずっと話しかけてくる面倒な客のようだ。
「……別に、ガンは飛ばしてない」
「いやだって、先輩あんま喋んないし話しかけにくいっていうか、おまけに目つき悪――じゃなくて眼光鋭い……でもないな。目つき悪いじゃないですか」
「言い直すくらいならもうちょっとなんかあっただろ」
「ちょっと待ってください間違えた、間違えました。別に目つきは悪くないですけど、圧的な? 少なくとも宇栄原先輩より話しかけやすいってことはないですよねぇ」
「圧……」
ここまで言われると橋下に文句のひとつでも付けたくはなるが、正直多少なりとも自覚はある。あるにはあるが、こうもはっきり言われることなんて中々ない。あの宇栄原でさえもう少しオブラートに包んでモノを言うのに、どうして年下にこんなボロクソ言われなければならないのだろうか。全く、舐められたものである。
橋下の言う「目つきが悪い」というのが本気で思っているかはこの際別いどうでもいいが、元々愛想が良い方ではないというのを差し引いて思い当たる節があるとするなら、目が悪いくせして眼鏡もコンタクトもしていないという点だろう。生活にはさほど困ってはいないが、気付かないうちに目を細めてしまうことがあるせいで、もしかしたら余計そう思われているのかもしれない。今まで面倒でしていなかったが、いい加減視力補正くらいはしたほうがいいのだろうか?
(……眼鏡作っただけで圧が消えるとも思えないけど)
一応頭の隅には置いておこうと思いつつ、どうせすぐに忘れるだろう。俺は、相谷がさっきまでいた場所を視界に入れた。……興味のない連中は別にどうでもいいが、顔見知りにあからさまに逃げられるというのは、流石に少々考えものだ。
「……ところでお前、なんで相谷の鞄まで持ってるんだ?」
「え? いやなんか……つい」
「つい……?」
こいつの適当なはぐらかしにはもう慣れたものだが、こればっかりはそう簡単に流していいものではない。大方、橋下が勝手に荷物を持っていったから相谷がついてきたのだろう。今までのことを念頭に置けば想像するのは難しいことじゃないし、相谷が筆箱だけ持っていたのも頷けるというものだ。
「……あんまり無理矢理連れてくるなよ」
「無理矢理ってほどでもないんですけどねぇ」
「信用出来ない」
「一秒も考えないでそれは酷くないですか?」
「そう思うなら、もう少し自分の日頃の行いを振り替えろ」
「こんなに真面目に生きてるのに……」
本当にそう思っているんだとするなら、こいつの真面目の定義を延々と問いたくなる気分だ。宇栄原が橋下相手になるとため息を零すのもよく分かる。こういうのを面倒だと思う人間だっているだろう。それとも、相手を選んだうえでこういうことをしているのだろうか? ここまで来ると、わざとこういう振る舞いでもしているんじゃないかとすら考えてしまう。
(流石に考えすぎか……?)
果たして何が正解なのか、こいつを前にするとイマイチよく分からなくなる。最も、もう少し交流をしようという努力を俺が出来ていたのなら、話は違ったのかも知れないが。
◇
(逃げなければよかったな……)
数ある後悔のうち、ひとつの後悔を踏みしめながら、僕は目の前の棚に羅列されている本を視界に入れた。この前読んだ本のある棚だったのが幸いか、自然と目は本の続きを探していた。もしかすると、そこには現実逃避も含まれていたのかも知れない。逃げてしまっては戻るのに胆力が必要になるというのに、全くちゃんと考えもせずに足を動かしてしまったのだから馬鹿なものである。
僕の視線よりも僅かに上にある棚には、この前僕が読んだ本が置いてあった。計七巻のミステリー小説でまだ一巻だけしか読んでいないが、それでもなんとなく分かったのは、難解なトリックばかりで読んでも結局よく分からないなどというわけではなく、いかにも王道だと言わんばかりの内容だったということだろう。最も、最終巻まで読んでみないと本当のところは分からないが。
次に僕が読むべき巻は二巻なのだが、残念なことにその棚には並べられていないらしかった。この前一巻を借りた時はどうだったか覚えていないが、誰かに借りられてしまったようである。それかどこか別の棚に紛れているのかも知れないが、僕は仕方なく次の三巻に右手を伸ばした。
果たして内容を見てしまっていいのかどうなのか、表紙を見つめながら考えあぐねていると、左から何か、影のようなものが近づいてくるのが分かった。だからどうという訳でもないのだが、顔をあげその何かをそれとなく視界に入れた。最初はそれだけのつもりだったけど、どうやらそれで終わりというわけにもいかないらしい。
(か、神崎さんだ……)
一体どういうわけか、何を言うでも無く横に並んできたのは神崎さんだった。神崎さんであるという認識をした瞬間、どうにも居たたまれない気持ちに苛まれていくのがよく分かる。さっき思わず逃げてしまったからなのか、それとも別の要因があったのかは、まだ僕には分からなかった。
またしてもこの場から逃げしてしまいたい気持ちをなんとか抑えようとしているところ、先に口を開いたのは神崎さんのほうだった。
「……今日も無理矢理連れて来られたんじゃないよな?」
僕の視線よりも上から聞こえてくる声に、僕は思わずどきりとしてしまった。下にある本を適当に手に取りながらそんなことを口にする神崎さんに、少々面喰らってしまったのである。というのも、そもそも神崎さんと話をするというのが今まで中々起こり得ない出来事だったのだ。
「……半分くらいは、そうかも知れません」
僕が本棚に向かってそう言うと、神崎さんがため息をつくのが分かった。果たして何がいけなかったのだろうと、再び心臓の動きが速まりそうで少々落ち着きがなくなってしまう。
「あれ、ちゃんと断るか宇栄原がキレないとずっと付きまとってくるんじゃないか?」
「……え?」
そう口にする神崎さんを、僕は思わずじっと見つめてしまっていた。今日はじめて顔をあげたような感覚だ。
「な、なんだよ……」
「あ、いや……」
怪訝な声と共に目がばっちり合ってしまい、再び僕の目の動きが世話しなくなる。目を逸らすのがよくないというのは一応分かっているものの、考えるよりも前に動いてしまっているのだから、こればかりはどうしようもない。
神崎さんは、少しばかり不満だとでも言いたげに再び小さく息を吐いた。
「俺じゃ橋下に口出すにはちょっと弱いだろうけど、まあなんか……」
――嫌ならもうちょっとちゃんと言っておくけど。そうやって言っている間、神崎さんはこちらを見ることはしなかった。
こんな会話が、神崎さんと一番最初に交わすまともなやり取りになってしまうというのは、正直考えていなかった。おおよそ一ヶ月は経っていないくらいだと思うけど、ここに至るまでにもう少しマシな会話をする機会はあっただろうに、そういうことが今までなかったのである。
こんな心配のされ方をされてしまうくらいなら、もう少し頑張って話す努力をするか、完全に突き放してしまうべきだったのかも知れない。それをしないで、中途半端な態度ばかりとっていたのだから、僕が悪い以外の答えなんて無いというものだ。
神崎さんの質問に答えるには、少しだけ時間が必要だった。思えば、確かに最初こそ橋下さんに連れてこられたし、正直面倒だったし仲良くする気も無かった。しかし、数週間の時が経った今はどうだろう?
「……嫌なのかどうなのか、よく分からなくなりました」
でも、一番最初の時よりはマシかも知れません。最後に、そう付け加えられたら尚よかったのかも知れない。しかし、思わず口を噤んでしまった。
お互いの間に流れる、僅かながらも長い沈黙は、どういうわけかそこまで気にならなくなっていた。
「……二巻、もう読んだのか?」
僕の答えを聞いてどう思ったのか、神崎さんは徐に話を変えた。なんのことか理解するのに僅かに時間がかかったものの、比較的推測は簡単だった。
僕の手には、この前図書室で借りた本の続きである三巻が手にされている。一巻を読んでまだ余り時間が経っていないのに、三巻に手を伸ばしていたのが不思議だったのかもしれない。それは別にいいのだが、僕が読んでいた本を神崎さんは覚えていたということなのだろうか? それくらい、僕の知らないところで気にかけられていたということなのか、それとも図書委員であるからなのかは僕にはよく分からない。
「あ、えっと……二巻借りられるみたいで……」
「ふうん……」
短い返事をすると、神崎さんはそのまま僕に背を向けて何処かに行ってしまった。
(な、なんだったんだろう……)
結局何が言いたかったのかよく分からなかったが、どうやら心配されてしまっているのだということだけは流石に理解が出来た。残されてしまった僕は、どうにも居たたまれなくて早く去ってしまいたい気持ちを必死に抑え、特に読みたくもない本を手に取ったり戻したり意味もなく表紙を眺めたりと、暫くの間酷く落ち着きのない行動を繰り返していた。
◇
いい加減意味のない行為に飽き飽きした僕は、三巻と四巻を手に見覚えのある筆箱が置いてあるテーブルへと向かった。筆箱が置いてある付近の椅子には僕の鞄が置いてあり、その向かいの席には暇を持て余しているらしい橋下さんが座っていた。神崎さんは、どうやら受付のところに戻ったらしい。
「あれ……?」
思わず声を出してしまったのは、別に橋下さんが何かをしたからというわけではない。筆箱の隣に、見覚えのない本が隠れるようにして置いてあったのだ。
一体誰のものなのかと考えあぐねようかというところ、手に取るまでもなく本のタイトルに見覚えがあった。今僕が持っている本とタイトルが同じだったのだ。タイトルのすぐ傍には”二”という数文字が書かれている。僕が探し求めていた本の二巻だった。
僕は、思わずその二巻を手に取った。考えなしに取ってしまったせいで、両手は本でいっぱいだ。
「さっき、先輩が徐に置いて逃げていったよ」
僕の挙動を見ていた橋下さんの言葉の通りにすぐ近くの受付のところにいる神崎さんのほうを見ると、またしてもばっちりと目が合ってしまった。先に目を反らしたのは神崎さんのほうだったけれど、その後もかなり目を泳がせているのがよく分かった。
このまま何も見なかったことにして椅子に座る、などということは流石に出来るわけがなく、三巻と四巻は机の上に置き二巻だけを手に僕は受付に向かった。……目の前にして改めて思うのだけれど、この人に話しかけるというのは中々の胆力が必要な気がした。
「あ、あの……神崎さん」
特別何をされたわけでもないし、寧ろ今まで全く会話という会話もなかったわけだけれど、それが余計そう思わせるのかも知れない。しかしそれは、ひとつ壁を越えてしまえば、なんら気にする必要のなかったことだったのかもしれない。
僕が何とか言葉を発してからというもの、返事が中々返ってこない。そう思った矢先だった。
「……いらないなら返せ」
「そんなこと一言も言ってません……」
思いもよらない言葉に、思わず反射的に口を出してしまった。二巻だけ持ってきてしまったのがいけなかったのかも知れない。
「えっと、ありがとうございます……」
「……別に、返されたままで棚に戻ってなかったから置いただけ」
「そ、そうですね……?」
頑なに肯定しようとしない神崎さんに思わず乗ってしまいそうになったものの、なんとか疑問符をつけることは成功した。これは神崎さんなりの照れ隠しと言っていいのか、一向に僕を視界に入れようとはしてくれない。
「その、なんだ……」
まるで空を纏う見えない言葉を探しているように、神崎さんの目はよく動いていた。
「それ、俺は読んだことないから……一通り終わったら感想教えてくれ」
「あ、えっと……頑張ります……」
「……頑張らないと無理ならやっぱりいいわ」
結局僕自身も何を言いに行ったのかよく分からなくなってしまったが、これはそれなりにちゃんと本を読んで感想を言う準備をしなければならなくなってしまったのだろう。神崎さんは「やっぱりいい」と言っていたけど、さてどうすればちゃんと言葉に出来るだろうか? まだ一巻しか読んでいないのだからそう簡単に感想という感想なんて出てこないというのを、僕はすっかりと忘れていた。それくらい、考え込んでしまったのだ。
「先輩と仲良くなった?」
一体いつからそこに居たのか、橋下さんは後ろから顔を覗き込ませてきた。
「あんまり……」問いの意図はよく分からなかったが、真面目に答えようとするならこう言うしかなかった。
「えぇ? ちょっと先輩、折角の相谷くんとキャッキャウフフ出来るチャンスを棒に振ったんですか?」
「な、なんだよお前……入ってくんな」
ようやく暇つぶしを見つけたとでもいうように、橋下さんの行動はとても速かった。関係者以外は普通入ってはいけないのであろう、神崎さんのいる受付に潜り込んでいったのだ。
橋下さんはああやって言っているけど、別に僕は神崎さんとキャッキャウフフなんてしたくはない。というよりも、別にそういうことではないような気がしたのである。
「なんの本ですかそれ?」
「……ただの短編集だよ」
「ふーん」
「お前って興味ないくせにイチイチ聞くよな」
「暇なんですよ、図書室って」
「帰れよ。面倒臭いな……」
「あ、本音だ」
神崎さんが好い人だというのはよく分かったから、もう少し話せるようになったらいいかも知れない。でもやっぱり、これくらいの距離感のほうがいいのだろうか? 答えを見つけるのは、今の僕には中々の無理難題だ。
図書室に来たとは思えないくらいに遠慮なく扉を開ける橋下さんに少し気が引けながらも、僕は足を踏み入れた。廊下の無機質な床から木材の床を踏みしめた時の、僅かに沈む感覚が足の裏に伝わってくる。縮こまりそうになる背中をなんとか起こし、数歩ほど踏みしめた。
「あ、先輩だ」
そう言った橋下さんが向かった先は、並べられたテーブルでも本が羅列されている棚でもなく受付だった。橋下さんのいう先輩というのは一体どっちのことなのかまだ分からず、僕もそれに倣って受付へと足を進めた。いい加減荷物を返して欲しいものだけれど、それはまだ少し先の話らしい。筆箱しか持っていないのがそろそろ手持ち無沙汰なのだが、まあそのうち返してくれるだろう。
「宇栄原先輩は?」
「いないけど」
「いや見ればわかりますけど」
見ると、受付のカウンターを返したところには神崎さんがいた。僕らの見える範囲には宇栄原さんは見当たらない。いつもは受付から見える範囲くらいの席に座っていることが多いから、恐らく今日は本当に来ていないのだろう。受付にいる神崎さんは、確か図書委員だったと記憶しているから当番なのかもしれない。
「……母の日が近いからな」
「なーるほど。……なるほど?」
一度納得したはずの橋下さんは、すぐに疑問を投げかけた。
「母の日が近いと何かあるんでしたっけ?」
「……花屋の前でそれ言ったら怒られそうだな」
「あ、そういえば母の日ってお花送る人多いですもんねぇ。先輩いなくてよかった」
宇栄原さんの家が花屋さんというのを一体いつ聞いたのかは全然覚えていないけど、そういえばそんなことを言っていたような気がするというのだけは記憶してしる。確かに、母の日間際のお花屋さんというのは相当忙しそうだ。
そういえば、僕が気にしたところでどうしようもないのだけれど、今はテスト前のうえにこの学校はバイト禁止だったような気がするのだけどいいのだろうか。先輩はそういうことにちゃんとしていそうだと思っていたのだが、もしかすると僕の見当違いだったのかもしれない。どちらにしても今更だし、別に誰かに言いつけてやろうだなんて思ってもいないから、これ以上は気にしないことにしようと思う。
「じゃあ暇ですねぇ」
「ならさっさと帰れよ」
「先輩は?」
「普通に当番だよ。邪魔すんな」
「まだ邪魔はしてませんけど」
「まだ……?」
いつも通り橋下さんに遊ばれている神崎さんは、僕が時間を持て余していることに気付いたのかばっちりと目があってしまう。特に何も言われていないのに、思わず緊張が走った。特に何かを言うでもなく僕を視界に入れる神崎さんに、思わず目が泳いでしまうのがよく分かった。
居たたまれなくなった僕は、そのまま何を言うでもなく受付を後にし、一番近くのテーブルに筆箱を置いて本棚へと走った。受付から見えないところを探すように、かつ若干早くなった心臓の動きを誤魔化しながら、本棚が作った通路を意味もなく歩く。
(……やっぱり、ちょっと苦手かも)
神崎さんに特別何かを言われたわけでもなければ、そもそもまともに話したことがあったかさえも覚えていないくらいの関係なのに、どうしてこうも駄目なのだろう。……いや、よく考えてみたら橋下さんや宇栄原さんだって同列かも知れないが、それにしてもこれは過剰反応すぎて、控えめに言ってもいい対応だとは言い難いだろう。
神崎さんのことを悪い人だとは別に思っていないのだけれど、一度持ってしまった感情を覆すのはどうにも難しそうだ。
◇
「あーあ、先輩がガン飛ばすから相谷くん逃げちゃったじゃないですか」
軽口を叩く橋下は、近くに誰も居ないのを良いことにカウンター越しで受付に居座り続けている。まるで知り合いだからとずっと話しかけてくる面倒な客のようだ。
「……別に、ガンは飛ばしてない」
「いやだって、先輩あんま喋んないし話しかけにくいっていうか、おまけに目つき悪――じゃなくて眼光鋭い……でもないな。目つき悪いじゃないですか」
「言い直すくらいならもうちょっとなんかあっただろ」
「ちょっと待ってください間違えた、間違えました。別に目つきは悪くないですけど、圧的な? 少なくとも宇栄原先輩より話しかけやすいってことはないですよねぇ」
「圧……」
ここまで言われると橋下に文句のひとつでも付けたくはなるが、正直多少なりとも自覚はある。あるにはあるが、こうもはっきり言われることなんて中々ない。あの宇栄原でさえもう少しオブラートに包んでモノを言うのに、どうして年下にこんなボロクソ言われなければならないのだろうか。全く、舐められたものである。
橋下の言う「目つきが悪い」というのが本気で思っているかはこの際別いどうでもいいが、元々愛想が良い方ではないというのを差し引いて思い当たる節があるとするなら、目が悪いくせして眼鏡もコンタクトもしていないという点だろう。生活にはさほど困ってはいないが、気付かないうちに目を細めてしまうことがあるせいで、もしかしたら余計そう思われているのかもしれない。今まで面倒でしていなかったが、いい加減視力補正くらいはしたほうがいいのだろうか?
(……眼鏡作っただけで圧が消えるとも思えないけど)
一応頭の隅には置いておこうと思いつつ、どうせすぐに忘れるだろう。俺は、相谷がさっきまでいた場所を視界に入れた。……興味のない連中は別にどうでもいいが、顔見知りにあからさまに逃げられるというのは、流石に少々考えものだ。
「……ところでお前、なんで相谷の鞄まで持ってるんだ?」
「え? いやなんか……つい」
「つい……?」
こいつの適当なはぐらかしにはもう慣れたものだが、こればっかりはそう簡単に流していいものではない。大方、橋下が勝手に荷物を持っていったから相谷がついてきたのだろう。今までのことを念頭に置けば想像するのは難しいことじゃないし、相谷が筆箱だけ持っていたのも頷けるというものだ。
「……あんまり無理矢理連れてくるなよ」
「無理矢理ってほどでもないんですけどねぇ」
「信用出来ない」
「一秒も考えないでそれは酷くないですか?」
「そう思うなら、もう少し自分の日頃の行いを振り替えろ」
「こんなに真面目に生きてるのに……」
本当にそう思っているんだとするなら、こいつの真面目の定義を延々と問いたくなる気分だ。宇栄原が橋下相手になるとため息を零すのもよく分かる。こういうのを面倒だと思う人間だっているだろう。それとも、相手を選んだうえでこういうことをしているのだろうか? ここまで来ると、わざとこういう振る舞いでもしているんじゃないかとすら考えてしまう。
(流石に考えすぎか……?)
果たして何が正解なのか、こいつを前にするとイマイチよく分からなくなる。最も、もう少し交流をしようという努力を俺が出来ていたのなら、話は違ったのかも知れないが。
◇
(逃げなければよかったな……)
数ある後悔のうち、ひとつの後悔を踏みしめながら、僕は目の前の棚に羅列されている本を視界に入れた。この前読んだ本のある棚だったのが幸いか、自然と目は本の続きを探していた。もしかすると、そこには現実逃避も含まれていたのかも知れない。逃げてしまっては戻るのに胆力が必要になるというのに、全くちゃんと考えもせずに足を動かしてしまったのだから馬鹿なものである。
僕の視線よりも僅かに上にある棚には、この前僕が読んだ本が置いてあった。計七巻のミステリー小説でまだ一巻だけしか読んでいないが、それでもなんとなく分かったのは、難解なトリックばかりで読んでも結局よく分からないなどというわけではなく、いかにも王道だと言わんばかりの内容だったということだろう。最も、最終巻まで読んでみないと本当のところは分からないが。
次に僕が読むべき巻は二巻なのだが、残念なことにその棚には並べられていないらしかった。この前一巻を借りた時はどうだったか覚えていないが、誰かに借りられてしまったようである。それかどこか別の棚に紛れているのかも知れないが、僕は仕方なく次の三巻に右手を伸ばした。
果たして内容を見てしまっていいのかどうなのか、表紙を見つめながら考えあぐねていると、左から何か、影のようなものが近づいてくるのが分かった。だからどうという訳でもないのだが、顔をあげその何かをそれとなく視界に入れた。最初はそれだけのつもりだったけど、どうやらそれで終わりというわけにもいかないらしい。
(か、神崎さんだ……)
一体どういうわけか、何を言うでも無く横に並んできたのは神崎さんだった。神崎さんであるという認識をした瞬間、どうにも居たたまれない気持ちに苛まれていくのがよく分かる。さっき思わず逃げてしまったからなのか、それとも別の要因があったのかは、まだ僕には分からなかった。
またしてもこの場から逃げしてしまいたい気持ちをなんとか抑えようとしているところ、先に口を開いたのは神崎さんのほうだった。
「……今日も無理矢理連れて来られたんじゃないよな?」
僕の視線よりも上から聞こえてくる声に、僕は思わずどきりとしてしまった。下にある本を適当に手に取りながらそんなことを口にする神崎さんに、少々面喰らってしまったのである。というのも、そもそも神崎さんと話をするというのが今まで中々起こり得ない出来事だったのだ。
「……半分くらいは、そうかも知れません」
僕が本棚に向かってそう言うと、神崎さんがため息をつくのが分かった。果たして何がいけなかったのだろうと、再び心臓の動きが速まりそうで少々落ち着きがなくなってしまう。
「あれ、ちゃんと断るか宇栄原がキレないとずっと付きまとってくるんじゃないか?」
「……え?」
そう口にする神崎さんを、僕は思わずじっと見つめてしまっていた。今日はじめて顔をあげたような感覚だ。
「な、なんだよ……」
「あ、いや……」
怪訝な声と共に目がばっちり合ってしまい、再び僕の目の動きが世話しなくなる。目を逸らすのがよくないというのは一応分かっているものの、考えるよりも前に動いてしまっているのだから、こればかりはどうしようもない。
神崎さんは、少しばかり不満だとでも言いたげに再び小さく息を吐いた。
「俺じゃ橋下に口出すにはちょっと弱いだろうけど、まあなんか……」
――嫌ならもうちょっとちゃんと言っておくけど。そうやって言っている間、神崎さんはこちらを見ることはしなかった。
こんな会話が、神崎さんと一番最初に交わすまともなやり取りになってしまうというのは、正直考えていなかった。おおよそ一ヶ月は経っていないくらいだと思うけど、ここに至るまでにもう少しマシな会話をする機会はあっただろうに、そういうことが今までなかったのである。
こんな心配のされ方をされてしまうくらいなら、もう少し頑張って話す努力をするか、完全に突き放してしまうべきだったのかも知れない。それをしないで、中途半端な態度ばかりとっていたのだから、僕が悪い以外の答えなんて無いというものだ。
神崎さんの質問に答えるには、少しだけ時間が必要だった。思えば、確かに最初こそ橋下さんに連れてこられたし、正直面倒だったし仲良くする気も無かった。しかし、数週間の時が経った今はどうだろう?
「……嫌なのかどうなのか、よく分からなくなりました」
でも、一番最初の時よりはマシかも知れません。最後に、そう付け加えられたら尚よかったのかも知れない。しかし、思わず口を噤んでしまった。
お互いの間に流れる、僅かながらも長い沈黙は、どういうわけかそこまで気にならなくなっていた。
「……二巻、もう読んだのか?」
僕の答えを聞いてどう思ったのか、神崎さんは徐に話を変えた。なんのことか理解するのに僅かに時間がかかったものの、比較的推測は簡単だった。
僕の手には、この前図書室で借りた本の続きである三巻が手にされている。一巻を読んでまだ余り時間が経っていないのに、三巻に手を伸ばしていたのが不思議だったのかもしれない。それは別にいいのだが、僕が読んでいた本を神崎さんは覚えていたということなのだろうか? それくらい、僕の知らないところで気にかけられていたということなのか、それとも図書委員であるからなのかは僕にはよく分からない。
「あ、えっと……二巻借りられるみたいで……」
「ふうん……」
短い返事をすると、神崎さんはそのまま僕に背を向けて何処かに行ってしまった。
(な、なんだったんだろう……)
結局何が言いたかったのかよく分からなかったが、どうやら心配されてしまっているのだということだけは流石に理解が出来た。残されてしまった僕は、どうにも居たたまれなくて早く去ってしまいたい気持ちを必死に抑え、特に読みたくもない本を手に取ったり戻したり意味もなく表紙を眺めたりと、暫くの間酷く落ち着きのない行動を繰り返していた。
◇
いい加減意味のない行為に飽き飽きした僕は、三巻と四巻を手に見覚えのある筆箱が置いてあるテーブルへと向かった。筆箱が置いてある付近の椅子には僕の鞄が置いてあり、その向かいの席には暇を持て余しているらしい橋下さんが座っていた。神崎さんは、どうやら受付のところに戻ったらしい。
「あれ……?」
思わず声を出してしまったのは、別に橋下さんが何かをしたからというわけではない。筆箱の隣に、見覚えのない本が隠れるようにして置いてあったのだ。
一体誰のものなのかと考えあぐねようかというところ、手に取るまでもなく本のタイトルに見覚えがあった。今僕が持っている本とタイトルが同じだったのだ。タイトルのすぐ傍には”二”という数文字が書かれている。僕が探し求めていた本の二巻だった。
僕は、思わずその二巻を手に取った。考えなしに取ってしまったせいで、両手は本でいっぱいだ。
「さっき、先輩が徐に置いて逃げていったよ」
僕の挙動を見ていた橋下さんの言葉の通りにすぐ近くの受付のところにいる神崎さんのほうを見ると、またしてもばっちりと目が合ってしまった。先に目を反らしたのは神崎さんのほうだったけれど、その後もかなり目を泳がせているのがよく分かった。
このまま何も見なかったことにして椅子に座る、などということは流石に出来るわけがなく、三巻と四巻は机の上に置き二巻だけを手に僕は受付に向かった。……目の前にして改めて思うのだけれど、この人に話しかけるというのは中々の胆力が必要な気がした。
「あ、あの……神崎さん」
特別何をされたわけでもないし、寧ろ今まで全く会話という会話もなかったわけだけれど、それが余計そう思わせるのかも知れない。しかしそれは、ひとつ壁を越えてしまえば、なんら気にする必要のなかったことだったのかもしれない。
僕が何とか言葉を発してからというもの、返事が中々返ってこない。そう思った矢先だった。
「……いらないなら返せ」
「そんなこと一言も言ってません……」
思いもよらない言葉に、思わず反射的に口を出してしまった。二巻だけ持ってきてしまったのがいけなかったのかも知れない。
「えっと、ありがとうございます……」
「……別に、返されたままで棚に戻ってなかったから置いただけ」
「そ、そうですね……?」
頑なに肯定しようとしない神崎さんに思わず乗ってしまいそうになったものの、なんとか疑問符をつけることは成功した。これは神崎さんなりの照れ隠しと言っていいのか、一向に僕を視界に入れようとはしてくれない。
「その、なんだ……」
まるで空を纏う見えない言葉を探しているように、神崎さんの目はよく動いていた。
「それ、俺は読んだことないから……一通り終わったら感想教えてくれ」
「あ、えっと……頑張ります……」
「……頑張らないと無理ならやっぱりいいわ」
結局僕自身も何を言いに行ったのかよく分からなくなってしまったが、これはそれなりにちゃんと本を読んで感想を言う準備をしなければならなくなってしまったのだろう。神崎さんは「やっぱりいい」と言っていたけど、さてどうすればちゃんと言葉に出来るだろうか? まだ一巻しか読んでいないのだからそう簡単に感想という感想なんて出てこないというのを、僕はすっかりと忘れていた。それくらい、考え込んでしまったのだ。
「先輩と仲良くなった?」
一体いつからそこに居たのか、橋下さんは後ろから顔を覗き込ませてきた。
「あんまり……」問いの意図はよく分からなかったが、真面目に答えようとするならこう言うしかなかった。
「えぇ? ちょっと先輩、折角の相谷くんとキャッキャウフフ出来るチャンスを棒に振ったんですか?」
「な、なんだよお前……入ってくんな」
ようやく暇つぶしを見つけたとでもいうように、橋下さんの行動はとても速かった。関係者以外は普通入ってはいけないのであろう、神崎さんのいる受付に潜り込んでいったのだ。
橋下さんはああやって言っているけど、別に僕は神崎さんとキャッキャウフフなんてしたくはない。というよりも、別にそういうことではないような気がしたのである。
「なんの本ですかそれ?」
「……ただの短編集だよ」
「ふーん」
「お前って興味ないくせにイチイチ聞くよな」
「暇なんですよ、図書室って」
「帰れよ。面倒臭いな……」
「あ、本音だ」
神崎さんが好い人だというのはよく分かったから、もう少し話せるようになったらいいかも知れない。でもやっぱり、これくらいの距離感のほうがいいのだろうか? 答えを見つけるのは、今の僕には中々の無理難題だ。