22話:ヒミツはない


2024-08-15 12:10:07
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「ようやくね、落ち着いたよ」

 病室に響く伯父さんの声は、いつかに聞いた時よりもかなり疲れていたようだった。
 今日は日曜日だからなのか、伯父さんは朝から病室を訪れてくれていた。事件があったあの日から、父の兄である伯父さんとその妻であるおばさんが入れ替わりで毎日足を運んでくれていたらしい。それを知ったのは、僕の目が覚めて約二時間後のことだった。

「葬儀と……あと難しいことは全部やっておいたから。余り気にしなくて大丈夫さ」
「あ、ありがとうございます……」

 横になりながらの感謝というのは案の定酷くやりづからったが、伯父さんは良くも悪くも笑みを見せてくれた。余り詳しいことは聞かなかったし教えてはくれなかったが、僕がこの病院に運ばれて目が覚め、そして病室で何をするでもなく療養している間、恐らくかなり大変だったのだろうというのは容易に察しがついた。
 一体どこで買ってきてくれたのか、既に花瓶に刺さっている花と花の間に、隙間を埋めるようにして一本ずつ新しい花を入れていく。

「中学校にも行って色々聞いてきたよ。あそこの私立高校に行くんだろう? もう受かってるんだし、あんまり気にしないで休んだらいいよ」
「う、うん……」

 果たしてそれが幸か不幸か、僕の高校受験は一応終わっていたのである。世間で言うところの滑り止め、つまり私立高校が第一志望だったお陰で、進路に関しては気にする必要がない。……などと簡単に言えればいいのだけれど、それは少し勝手が良すぎるというものだろう。

「お、伯父さん……」
「ん?」

 どうとも言えない不安がせり上がってくるのが嫌になるほど分かる。それを早く言ってしまいたいのに、口に出すのにはどうしても胆力が必要だった。

「その……」

 思い僅かに躊躇していると、誰かが病室の扉をノックする音が耳を通る。一変、ガラリと乱雑な音と共に、見覚えのある人物が視界に入った。

「ああ、刑事さん。どうも」
「少しだけ、いいですか?」

 伯父さんが承諾すると、村田さんはゆっくりと足を踏み入れた。僅かに床の擦れる音とどうにもいじらしく、無理矢理時間を認識させてくるかのようだ。思わずそっぽを向いてしまいそうになったのを必死に抑え、村田さんが一体なんの用事があってここに来たのか、話し始めるのをただただ待った。
 僕と伯父さんの視線が集まったからか、村田さんは少しやりにくそうだったが、それは僅か数秒のことに過ぎなかった。

「――我々警察は、光希君が犯人だという可能性は限りなく低いという結論に至りました」

 その言葉は、やけにすんなりと耳に入っていく。

「なのでその……それが覆らない限り、警察がこれ以上光希君を取り調べるということはありません」

 村田さんの言葉が切れると、真剣な顔て話を聞いていた伯父さんは、ようやく安堵の息を落としたような気がした。きっと、これを聞くよりも前に似たような説明はあったのだろうけど、断言されたことでより決定的になったのかもしれない。
 一体何がどうなってそういう結論に至ったのか、もしかすると聞けば答えてはくれたのかも知れないが、僕も伯父さんもそれ以上何かを聞くことはしなかった。一先ずは、覆るような何かが起きない限り警察からは犯人扱いされることが無いらしい。最も、そんなことがあっては困るのだが。

「えっと……」

 どうやら話はこれで終わりというわけではないようで、村田さんは更に話を続けた。

「光希君と、少し話をしてもいいですか?」

 その言葉と同時に僕のことを見つめる村田さんに、僕は思わず固まってしまった。決して威圧的なそれではなかったのだが、名指しで声をかけられてしまうと逃げられないという思いが、僕の身体を硬直させたのである。
 どうやら判断は伯父さんではなく僕に委ねられているらしく、伯父さんは少し心配そうな顔をして僕の方を見た。何かしらアクションを起こさなければと、小さな返事と首の動きだけて意思表示をした。

「私は外に居ますから、終わったら呼んでくださいね」

 すると伯父さんは、すぐに優しい笑みに切り替えそれだけ言って部屋から出ていってしまう。気を利かせてくれたのだろうが、それが余計、僕の緊張を助長させた。
 ガラ……と、スライドした扉が戻っていく音が聞こえると、辺りは途端に静かになったような気がした。

「……あの時は中学生になったばかりだったのに、もう高校生になるんだよね」

 その中で、村田さんは比較的小さな声を落としていく。

「結局何も出来なくて、ごめん」

 村田さんの目は、僕の顔とベットに覆いかぶさっている布団を行ったり 来たりしていた。ふたりきりになったというのに、さっきに比べて村田さんは少し落ち着きがなかった。

「べ、別に村田さんに謝ってもらうことじゃ……」
「でも、防げなかったっていうことはそういうことだろう?」

 僕の言葉を制止して、村田さんは畳みかけるようにして自分をせめた。村田さんに誤ってもらうようなことは本当に何もないのだが、どういうわけかこの時ばかりはこの人は僕に謝罪をしたがった。

「あの……どうして僕が犯人じゃないっていう結論になったのか、聞いたら教えてくれますか?」

 憂いな表情を見ていられなくなった僕は、どうして警察が僕が犯人ではないという結論に至ったのかに焦点をあてた。すると、村田さんは少しだけ刑事の顔に戻っていった。

「……君の家の隣に住んでる人、家に入る前に会ったんだろう?」

 僕の方を見るわけでもなく、村田さんは言葉を続けていく。
 そういえば、僕が家に着いた時隣のおばさんが携帯電話を持ちながらかなり忙しなく僕に話しかけてきたのを思い出した。確かに「大きな音がするから、もしかしたら変質者かもしれない」というような類のことを言っていたような気がするが、僕はその言葉には余り目もくれず「取りあえず入ってみます」とだけ言って家に足を踏み入れたのだ。単純に何かを落としただけかも知れないし、大きな怪我をして動けなくなっているなどという場合もあるだろう。
 変質者が自分の家にいるかもしれない。そんなことを言われても、自分の目で見ない限りすぐに信じるというのは難しい。

「もっと強く止めればよかったって、そう言ってた」

 結果、それは変質者などというものでは到底無かったのだが、どちらにしても隣のおばさんの話をもう少しちゃんと聞いていたらこうはならなかったのかもしれない。そう思うと、おばさんには申し訳ないことをしてしまった。次に会うことがあったら、一言でもいいから挨拶はしておかなければならないだろう。

「それと……光希君とお父さんの返り血がね、恭子さんの手と服についてたのが一番の理由かな。ああ勿論、光希君の話を聞いたうえでね」

 話を聞くところによると、警察が家に辿りついてリビングにまで突入する寸前、誰かが倒れるような音と、刃物のような金属が鈍く落ちる音がしたのだそうだ。その音を聞いて慌ててリビングへ向かうと、僕と父とは少し離れた場所で母が倒れており、母の近くに刃物が転がり落ちていたらしい。
 その辺りのことは僕は何も覚えていないが、父は既に死亡していたそうで、母はまだ辛うじて息があったらしいが、病院に搬送される途中で息を引き取ったのだそうだ。
 結果、どういうわけか僕だけが生き残ったということになるのだが、これでよく犯人扱いされずに済んだなと心底安心している。まるで誰かにお膳立てされているかのようで、少々不気味さすらも感じてしまうほどだ。それくらい、いわゆる状況証拠というものが揃っていたということなのだろうか?

「……相谷君、高校は決まってるんだっけ?」
「い、一応決まってはいるんですけど……」

 話が丁度切れたタイミングで、村田さんは事件の話を切り上げた。村田さんの問いに、僕は答えを言うことをしり込みしてしまう。これについては、正しくその話を伯父さんにしようと思っていたところっだったのである。

「私立に行くつもりで受験したので、どうしようかなって……」

 果たしてこれで伝わるのかどうなのか、僕は適当に言葉を濁して村田さんに伝えた。この私立高校に行くというのは、両親がいたから出来たことであって、その両親が二人同時に居なくなってしまったのだから、そう簡単に私立高校に行きますというのは虫が良すぎると思うのだ。勿論それが公立高校だったとしても似たような気持にはなっていただろう。

「……伯父さんには相談した?」
「僕が言っても、気にしなくていいって言われませんかね……?」
「まあ……うん。言われるんじゃないかな」

 村田さんは、苦笑いをしながら言葉を続けた。恐らくはここ数週間しか会っていないだろうにそう云いきられるということは、もしかしたらぼくの知らないところで相当尽力してくれていたのだろうか?

「でも、気になるならちゃんと話し合いはした方がいいと俺は思うよ」

 だとしたら、尚更伯父さんとおばさんには頭が上がらない。

「伯父さんと……あと奥さんにも会ったけど、相谷君のことちゃんと考えくれる人たちだと思うし。……ああいや、別に君のご両親がどうってわけじゃないんだけど……」

 誰もそんなことは言っていないのに、途中から変に取り繕う村田さんを見て、僕はなんだか現実を突きつけられたような気がしてならない。しかし僕は、それでも別に構わなかった。

「……実際、あってると思います」

 その言葉は、驚くほどするりと口から出ていく。今まではまるで別人ではないかと思われるのではないかと感じてしまうくらいに、流暢だったのだ。

「きっと、遅かれ早かれこうなってましたよ」

 適当な笑みを浮かべながらそうやって口にすると、村田さんは今までとはまた違う表情をした。今までとは違って、一体なんて声をかけたらいいのかと思っている顔だったのかも知れない。少しだけ、沈黙が蔓延ったのだ。こんなこと、誰に言ったって似たような顔をされるだろうし、誰に言ったって困惑するだろう。自暴自棄ぎみの、少し面倒臭い言葉だっただろうかと後悔したのもつかの間。

「そういえば、村田さんって事件とか担当してる人でしたっけ……?」

 あからさまに話をそらす体で、僕は村田さんにひとつの質問を投げた。確かに村田さんは警察の人だけど、こういった類いの事件を担当してただろうかと、ずっと思っていたのである。

「そ、そうだ。まだその話はしてなかったね」

 何かを取り繕うように、村田さんは自身のあらゆるポケットに手を出し入れし始めた。

「俺、交通課から刑事課に異動になったから今回の件の担当になったんだけど……」

 そう言って差し出してきたのは、1枚の名刺だった。僕からすれば少し分厚いだけの紙切れを、この時ばかりはまじまじと見つめてしまう。村田さんの名刺はいつだったかに貰っていたような気がするが、その時の名刺には確かに交通課と書かれていたのを思い出した。

(刑事課……)

 交通課という言葉も大概だが、耳馴染みの薄い言葉を僕は心の中で反復する。

「……交通課から刑事課に異動って、そういうことあるんですね」
「異動は結構多いんだよね。俺は交通課に戻りたいなぁって思ってるんだけど」

 警察の中のことはよく分からないが、僕が思っているよりも異動というのは多いのだろうか? どうやら村田さんは、刑事課よりも交通課のほうが良いらしい。これはあくまでも僕の主観に過ぎないが、確かに、村田さんが刑事課に所属していると言われても、僕からしてみれば正直ピンとは来ないのだ。

「でも僕……村田さんでよかったです」

 村田さんには悪いかも知れないが、顔の知れた人が担当でよかったと、そう思った。これが変に高圧的なおじさんとかだったら、僕は軒並み口を閉ざしてしまっていたかも知れない。そう思うと余計だった。
 僕の言葉をどう取ったのか、村田さんは少し困ったような、でもどこか嬉しそうに口角をあげたのを、僕はよく覚えている。


   ◇


「ほ、本当にいいんですか……?」
「勿論だよ。光希くんが気にすることじゃないさ」
「で、でも……」

 結局何が話したかったのかよく分からなかった村田さんとの話はもうすっかりと終わっており、僕は今、二人の知り合いと話をしている真っ最中である。

「気にしないで、私たちの家においで」

 そう言って僕に言葉を向ける伯父さんの笑顔は、止まることがなかった。僕の知ってる伯父さんの笑顔だったが、これにはどうもたじろいでしまう。
 特に面白味のない入院生活の中、僕のこれからの人生を左右させるといっても差し支えはないだろう話は既に何度か行われている。こういう場合、本来なら僕と両親との間に行われるべきなのだろうが、それはもう願ったところで叶わないのだからどうしようもない。伯父さんと、その妻であるおばさんが相手だった。
 村田さんと別れた後、入れ替わるようにしておばさんも病院に訪れたようで、瞬く間に病室は賑やかになった。せっかく伯父さんとおばさんが二人揃っているのだからと、今ちょうど、これからの進路についての話が行われているわけなのだが、切り出したのは僕からではなかった。

「あそこの私立高校、第一志望なんでしょう? 私たちの家からなら少しだけど近くなるし、うちの子たちはもう家出ていっちゃったから、そこまで気使う必要だってないし丁度いいじゃない?」

 おばさんは、こういう時でもよく喋る人だったのだ。すっかりおばさんのペースに持っていかれてしまい、伯父さんはそれを止めるでもなく乗ったっきりである。制服楽しみねぇと、既に僕がそこにいく体で言葉を口にしながら、何故か嬉しそうにしていた。
 進路の話なんて、本来はもう少しこの類いの話は余り乗り気ではないのだが、こうなってしまっては僕が変に考えすぎていただけのような気がしてしまう。いや、そんなことは当然ないのだが……。

「で、でも公立よりお金かかるし……」
「その歳でお金のことなんて考えなくていいのよぉ。それにこの人、いいところに勤めてるから結構お金持ってるのよ」
「そういう問題じゃないような気がする……」

 三人しかいない病室の中、おばさんは何故か途中から小声で僕に耳打ちをした。耳打ちといっても伯父さんには聞こえているだろうが、どちらにしても、おばさん相手に僕は全く歯が立たなかったのである。家族ではない人物から支援を受けざるを得ない奇特な状況下の中、気が引けるというのは仕方がないというよりはごくごく普通の感情であるはずなのに、どうにもそうじゃないような気がしてしまうのだ。
 いくら僕が二人の申し出を渋ったところで、公立受験は僕が死にかけている間に既に終わっている。と言いつつも、最後の最後で欠員補充はあるということを僕は知っていて、一応それを口にはしてみたが、どうやらそれは伯父さんとおばさん的に眼中にはないらしい。

「それに、あそこの特待生だなんて凄いことよ? 普通に頑張って出来ることじゃないもの」

 特待生なんて一度なってみたいものだわぁ。そう口にしたおばさんに、更に畳み掛けるようにして今度は伯父さんが口を開いた。

「胸を張って、行っておいで」

 僕の気持ちを汲んでということになるだろうが、この二人は僕に断る隙を与えてはくれなかった。入念なリハーサルをしていたと言われた方がしっくり来てしまうくらいに、僕はそれ以上何も言えなくなってしまったのである。

「う、うん……」

 どうやら僕は、この二人にはめっぽう弱いらしい。


   ◇


 僕が病院から出ることになったのは、それから一週間ほど経った頃だった。如何せんこういうのは初めてで、どれくらいが目安なのかは分からないが、僕が病院に運び込まれてから既に一か月が経とうとしているところを見るに、控えめに言っても余りいい状態ではなかったのかも知れない。最も、当の本人である僕はそんな自覚はなかったわけだが。
 病院を退院後、僕はすぐに家に帰った。家といっても以前住んでいた家に来たわけではなく、伯父さんとおばさんが住んでいる家である。伯父さんの家は一軒家だが、階段はない。いわゆる平屋といえばいいのか、しかし二人で住むには広すぎる印象だった。というのも、数年前までは息子二人とお姉さんがいたようだったが、今はもう家を出て行ってしまっているようで伯父さんとおばさんしか住んでいなかったらしい。そのせいもあってか、家の中はひと際大きく感じ、尚且つ静かだった。
 伯父さんの家には確か何度か来たことがあったような気がするが、それも数年も前の話であり余り覚えていない。それも、ただ泊まりに来ただけというのとはわけが違う。僕はこれから、伯父さんとおばさんと三人で暮らすのである。家を出ていくときには「いってきます」と口にし、帰ってきた時には「ただいま」という常套句を口にするのだ。それがなんだかおかしくて、数日経った今でもまだ慣れたものではなかった。

「制服買いに行くなんて久しぶりねぇ。おばさんドキドキしちゃう」
「いつぶりだったかなぁ……もう五年は経ってるかな?」
「そんなに経ってたかしら? 嫌ねぇ」

 久しぶりに乗った車の中での会話は、僕が普段あまりしないようなことばかりだった。
 伯父さんの運転する車の後部座席で、揺れる身体に少し力を入れながら僕は二人の話を聞いていた。病院にいた時もそうだったが、伯父さんとおばさんはよく話をした。話の内容は正直余り覚えていないのだが、それくらい他愛のないことを二人はよく言葉にしている。それが煩わしいと思う人も確かにいるだろうが、僕に限っては違った。今までの僕の環境に、これは無いものだったのである。
 高校の制服が売っている指定の店へとたどり着いた僕らは、すぐに一人の店員に捕まった。買いに来たからこそそれで良かったが、これがただの冷やかしじゃなくて良かったと心底思った。最も、制服の専門店に冷やかしで入る人はそういないだろうが。
 お店の中には、僕の他にも同年代と思われる人が数人いる。入学する学校こそ違うのだろうが、恐らくは同年代なのだろう。そこはかとなく嬉しそうで、しかし気恥ずかしいというような空気が伝わってくるような、そんな気がした。
 僕たちを捕まえた女の店員さんは、メジャーを取り出すとすぐに僕の背丈と肩幅を計測した。軽装で来たからなのかどうなのか、採寸は比較的簡単に終わり、店員さんが僕の名前とサイズを紙にメモしていく。店員さんは、「少々お待ちくださいね」と口にして、メモと共に制服のある場所を行ったり来たりしていた。数分もしない頃だろうか、店員さんがひとつの制服を持ってこちらへと戻ってきたのである。

「こちら、一度試着頂けますか?」にこやかな笑みを乗せながら、店員は言った。

 するとおばさんは、僕を試着室まで促し始める。何故か誰よりもおばさんが楽しんでいるように見えたのは、僕じゃなくても恐らく伯父さんも分かっていたことだろう。
 言われるがまま、僕は狭っ苦しい四角の中に制服と共に入ることとなった。


   ◇


 僕が試着室に押し込められてから、おおよそ五分ほど後のことである。

「あらぁ、いいじゃない! おばさん光希くんに惚れちゃうわぁ」

 あくまでも試着として高校の制服を着ているだけなのだが、おばさんは大層乗せ上手だった。まるで写真を撮るときのような気恥ずかしさを何とか押さえ、僕は制服の感触を確かめた。

「ちょっと大きいかも……」
「そうねぇ」

 試着した制服は、僕が着ると少し大きいようだった。こういう、簡単に買い替えの出来ないものは気持ち大きなサイズを買うというのが定説だが、僕の身長は平均よりも僅かに小さいというのもあってか、控えめに言っても適切なサイズとは言い難かった。
 上着はまだ手の甲が見え隠れするくらいだったが、ズボンの裾はギリギリ地面についてしまっている。靴を履いたらどうにか成るかも知れないが、それなりにちゃんとしなければならない制服となると少々不格好になるような気がした。
 店員さんは、これ以上サイズダウンするのではなくズボンの裾だけ直すというのをおばさんに進めた。確かに、例えば僕にまだ成長の余地があるのならこれくらいの余裕は必要かも知れない。しかしこうなってくると僕は最早ただのマネキンで、店員さんとおばさんの間では話がよく進んでいた。店員さんは、僕が試着しているズボンの裾を折り曲げ、クリップで止めていく。どうやら僕の出番は終わったようで、また試着室に籠って止められたクリップが外れないように服を着替えた。制服を着ていた時間は、十分あったかどうかも怪しいだろう。それくらい体感的には短かったが、これから先、嫌がおうにもこのほぼ毎日着ることになるのだから、今はこれくらいが丁度よかったのかも知れない。

 制服を手に持って試着室から出ると、店員さんが制服を受け取りまたおばさんと話をしていく。聞くところによると、この時期は制服を買ったり新調したりする人が多いからなのか、調整に一日二日かかってしまうらしい。そのため、もう一度店に取りに来るか制服を郵送するという形になっているようだ。
 お店と言えの距離は少し離れており、今日もこうして伯父さんの運転する車で足を運んでいる。「じゃあ郵送してもらっちゃおうかしらねぇ」と、おばさんは言った。
 おばさんと店員さんが話をしている間、僕は暇を持て余してしまっていた。といっても伯父さんもそこにはいるのだが、なんだかそわそわしてしまって話す心持ちでもなかったのである。住所や電話番号を書いているのか、おばさんがペンを走らせている音をただただ聞いていた。

「来週、制服届くの楽しみねぇ」

 一通り店員さんとのやり取りが終わったのか、おばさんはこちらにくるりと向き直した。約三十分程だろうか? 店員さんに感謝を伝えながら、僕達三人はその場を去った。

「お昼ご飯どうしようかしら。そろそろいい時間よねぇ」財布を鞄にしまいながら、おばさんは尋ねた。店内を少し見回し時計を探すと、針は既に十二時を越えていた。

「どこか入って食べようか?」
「いいわねぇ、そうしましょうよ」
「この辺りだとどこかあったかなぁ」携帯を片手に、どうやら伯父さんは近くの飲食店を検索し始めているらしい。
「光希くんはなに食べたい? 退院後すぐだと疲れちゃうかと思って、そういうお祝い事まだしてなかったものね」

 質問を飛ばされ、僕は思わずドキリとした。話題のもとが僕というのは分かっていたつもりだったが、それでも心の準備が足りていなかったのである。確かに、いわゆる退院祝いというものはしていないのだが、それは僕の体調を徐々に慣らしていく行程というだけに過ぎず、決してこの二人が忘れていたとか、僕が頑なに断り続けていたということではない。

「ふ、普通で大丈夫だよ……?」
「我が儘くらい言わなきゃ駄目よー」

 普通というと「そういうのが一番困る」と言われてしまいそうだが、人の家にお世話になるというのに、あれこれ注文をつけるような図々しさを僕は持っていなかった。

「一番近いのはここかな?」そう言って伯父さんが見せてくれた携帯の画面に映っていたのは、パスタとピザを売りにしているしているらしいイタリアン料理店だ。
「こんなお店あったのねぇ」
「この辺りは余り来ないからね」
「光希くんはどうかしら?」

 おばさんは、第一候補として上がったお店に行くかどうかの判断を僕に委ねてくる。

「い、行ってみようよ。空いてるか分からないし……」
「そうねぇ。取り敢えず覗いてみましょうか」
「美味しいところだと良いね」伯父さんはそう付け加えると、一度携帯を上着のポケットにしまった。

 当たり障りのない答えを返してしまったか、でも僕は、極端なことを言ってしまえば別に何でも構わなかった。
 ふたりの僅か後ろを、僕は少し遠慮がちについて歩いている。このゆっくりと時間が流れていくような感覚は、この二人の間じゃないと生まれないものではないかと思うと、より一層不思議な足取りになった。しかし特別、この空間が嫌というわけではない。さらに付け加えるとするなら、イタリアン料理が食べたくないわけでもない。
 これまで僕が見ていた夫婦のやり取りとは違う、温度が掴み取れてしまうのではないかという感覚に、僕はまだ戸惑いながらも、どういうわけか笑みを溢してしまいそうになるのを必死に堪えてしまっていたのである。

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