案内人さんは、神崎さんの部屋の名前を相思鼠といった。聞き馴染みのない色の名前を、僕は心の中で反復する。少し暗いグレーがかった色ではあるものの、決して重たい印象はなく寧ろ優しい印象すら覚えてしまう。神崎さんにピッタリではないだろうかと思った。
しかし僕は、神崎さんが口にした「客の我が儘」という言葉が気になって仕方がなかった。宿泊猶予が一週間であるということは知っているが、この人はそれくらいの時間をここで過ごしたということなのだろうか? いや、案内人さんが口にした「まだそれは気にするところじゃない」という発言から察するに、そこまでの時間は経っていないのだろう。だからこそ、神崎さんの口にした言葉に違和感を覚えたのである。
この部屋の色が神崎さんによく似合っていると思うということは、もしかしたら神崎さんはもう帰るべきなのではないかと、どういう訳か僕は思った。
「神崎さん、まだ帰らないんですか……?」
そう口にした途端、神崎さんは僕のことをじっと見つめてくる。
「……帰るに帰れないだろ」
言いたいことがあるのを堪えているのかどうなのか、視線はすぐにそっぽを向いてしまう。そこまでしてここにいる理由を、神崎さんは頑なに教えてはくれなかった。
「だったら尚更、橋下さんに会わないと駄目ですねぇ」
刹那、流れを変えんとするばかりに案内人さんが割って入ってきた。
「と言っても、多分部屋には居ないと思いますけど」
「……居ない?」
「居ないんじゃないですかね? 理由はまあ……」
言葉を選ぶ為の思考が行われて、数秒後。
「神崎さんと少し、似てると思います」
当事者ではない僕には理解の及ばない解答が、案内人さんの言葉だった。
「相谷さんは、橋下さんの部屋には行ったんでしたっけ?」
そう問われた僕は、言葉を口にするでもなく首を横に振った。
「で、でもあの人、いつでも部屋に来ていいって言ってましたけど、そう言いながら居ないってことあるんですか……?」
確かにあの人は、僕の部屋に来たときに「いつでも来てね」と言っていた。そうやって言っていたにも関わらず部屋には居ないなどという予測が立てられてしまうというのは、かなり不自然ではないだろうか?
「……あいつならあり得る」
あいつはそういう奴だぞ。最後にそう付け加えた神崎さんの口から、小さな息が吐かれていく。それが呆れとも少し異なるように感じたのは、きっと僕の気のせいだ。
◇
「……俺の部屋遠くないか?」
「それの文句は掃除士さんに言って欲しいですねぇ」
予定外で来るから行けないんですよー? 続けてそう言われた神崎さんは不服そうだったけど、それをこれ以上訴えるなどということはしなかった。
「そういえば、相谷さんって橋下さんの部屋の色知ってるんですか?」
「えっと、にせ……に……なんだっけ……」
「似紅色ですね。悪くはないんですけど、ちょっとねぇ」
「似紅……」
聞きなれない言葉が、神崎さんの口から走る。赤だというのは何となく分かるけど、悪くはないけどちょっと、と言われてしまうと少々躊躇してしまう。橋下さんは似紅色というのが不服だったようだけれど、同じような理由なのだろうか?
「橋下さん、その色嫌がってましたけど……」
「まあ、それはそうでしょうね」
「……どうしてですか?」
案内人さんの「そう思うのは当然」とでも言いたげな様に、僕は僅かな疑問を持った。質問を提示した僕のことを横目で確認したかと思うと、案内人さんは口角をあげた。
「相谷さんは、自分の部屋の色を見た時どう思いました?」
ここで急に僕の話になるとは思っていなかったせいで、すぐにまともな言葉が出てこずに考える時間が必要になってしまった。僕はあの部屋に入った時、どう思ったのだったのだったか……。思いつくのは、想像していたよりも比較的簡単だった。
「特別嫌いじゃなかったですけど……」
「そうですか。なら良かった」
その質問に深い意味はなかったのか、結構あっさりとことは終わってしまう。はぐらかされてしまったような気がしなくもないが、僕の考えすぎだったかも知れない。
「相谷さんみたいな感想を全員が思ってくれれば、一番いいんですけど。ねぇ神崎さん」
「俺に振らないでくれ……」
そういえば、神崎さんの部屋の色は相思鼠らしかったけど、最初はあの色ではなかったのだろうか? 無理やりついていってしまったも同じだけれど、それにしてはあっさりと見させてくれたような気がしたのである。聞いても答えてくれる気は余りしないけど、それでも気になってしまうのは教えてくれないからこそなのかも知れない。
「相谷さんちょっと、行き過ぎです」
案内人さんに腕を鷲掴みにされてはじめて気づく。橋下さんの部屋である126号室、いつの間にかそれを優に通り過ぎてしまっていたのだ。
橋下さんの部屋を目的としていたのに、部屋番号を目の前にした途端、どういうわけか思わず息を呑んでしまう。本当に橋下さんは部屋には居ないのだろうか? そんな疑問は勿論あった。
しかし、その思いとは裏腹な感情は確かに存在している。
「橋下さん? 開けますよ?」
あの人ともう一度会うには、少し胆力が必要であるような、そんな気がした。
「……やっぱり居ませんねぇ」
一足先に部屋の中を確認した案内人さんの口からは、そんな言葉が漏れていた。僕らに見えないようにしているのかどうなのか、顔だけ覗き入れているお陰で、部屋の色はまだ確認が出来ない。
「部屋見ます?」
「か、勝手に見るのはちょっと……」
「ああ、許可は取ってるのでその辺りは大丈夫ですよ」
そういうお約束ですから。続けて、案内人さんはそう口にした。そう言われても、お約束というのが尚更よく分からなかった。本当にそうだとしても、本人が居ないというのに勝手に覗き見るというのは憚れるというものだ。果たしてどうするのが正解なのか、僕は思わず神崎さんの顔を覗いてしまう。僕の視線に気付いたのか、神崎さんはようやく思考を巡らせたらしく、何もない空間を見つめた。
「……許可取ってるってのが本当なら、別にいいんじゃないか?」
「私のこと信用してないって言ってるように聞こえるんですけど。バレて面倒になるような嘘はつきませんよ」
どうしますか? 案内人さんは、再び僕に訪ねてきた。どうやら、今度こそ僕の意見を言わなければならないらしい。
「似紅色っていうのは、少し興味があります……」
もう少し人数が多ければ、例えば仮に意見を聞かれたとしても、言わなくて済む確率が上がるのに。そう思わざるを得なかった。それくらい、僕は意見を口にすることを躊躇った。
「じゃあ、開けますね」
この少し冷めた心情というのは、ここに来た時の記憶が混合していた僕そのままであるなら、恐らくは抱かなかっただろう。
それはつまり、僕が気付くよりも前に既に僕は僕を取り戻しつつあったということだったのかもしれない。最も、そんなことは憶測に過ぎないが。
「凄いな……」
視界に入ったのは、この空間では見ることが無かった色だ。あの神崎さんが声を漏らすほどに、嫌らしく辺りに蔓延していた。彼が言っていたとおり、そこは赤一面に溢れていた。
少し薄暗く、でも何処か見覚えがあるその色。それは、あの時の夕の空によく似ていた。
……あの時の、というのは一体いつの話だろう? 何か黒く淀んだ存在が、頭の中を乱舞する。僕は思わず眉を歪めた。
ここに来る少し前、僕は一体何をしてたんだっただろうか? 思い出すにはどうにも胆力が必要で、今のところ何か残像のようなモノが頭に過る程度が精一杯だ。
しかしそれはあくまでも、ここに来る直前に僕の身に何が起きたのかという部分だけに限る。どうして僕は、記憶を置いてここに来たのか? その答えは驚くほどに容易に検討がついた。
僕は恐らく、思い出す必要性がないものを全ておいていきたかった。だから記憶があろうが無かろうが、別にどうだってよかったのだ。
「……神崎さん」
気付けば僕は、隣にいる某人の名前を口にしていた。実に耳障りがよかったにも関わらず、出来ればもう口にはしたくないと思ってしまう。それくらい今の状況はおかしいのだという事実をしっかりと、認識してしまった時。
「僕って、どうしてここに来たんだと思います?」
到底答えなんて返ってくるはずのない人物に、そんな問いを投げかけてしまっていたのである。
◇
これは、僕が先輩達に会うよりも前のこと。中学三年生の、いわゆる受験真っ只中に相谷家で起きた、何処にでもあるようなひとつの話だ。
あの日の僕は、いつものように家を出た。いつものように学校に行って、いつものように授業を受けて、いつものように家に帰る。
そしてまた、いつもと同じように学校が終わり、家についていつものように玄関を開けて入る。その後家族とは比較的どうでもいい会話が何度か繰り広げられて、特に面白いことがあるわけでもなく一日が過ぎていく。ただそれだけのはずだった。
「……ただいま」
現にここに至るまでの、僕が玄関の扉を開けてから家に入って数歩の時までは、何処にでもある特に意味を為さない日常だったと言って差し支えはない。
靴からスリッパに履き替えると、スリッパ特有の擦れる音がフローリングに蔓延していく。つまりはそれくらい、僕が帰ってきたときは静かだったのだろう。
てっきり誰も居ないと思っていたのだがどうやらそうではないらしく、リビングのテレビが点滅しているのが見えた。しかし、音は何も聞こえてこない。どういうことなのか疑問に思いながらも足を進めたのだが、それを見て一体何を思ったのか、僅かに足の進みが慎重になったのを覚えている。
そして、ようやくリビングを一望出来る位置に立った時のことだ。ひとりの女人がぽつりと立ち尽くしていたのた。そして更に僕の目を引いたのは、その女の手には包丁が握られていたということ。そして、手にしていた包丁が赤く染まっていたことだ。
着用していた衣服は白から赤に変色しており、女の足元にあるカーペットもこれまでに見たことのない程に黒く染まっていた。挙句の果てに、カーペットが及ばないフローリングにはテーブルの上に置いてあったのだろうコップの類が散乱しており、どうやら相当争った様子が伺える。
腕から滴る赤い水滴が果たして誰のモノなのかと停止しかけている思考が現実に引き戻されたのは、案外すぐのことだった。
その理由を簡潔に述べるとするなら、女の足元にはとある人物の頭が転がっていたからだ。そう答えればある程度の察しは誰でもつくだろう。
今日の朝、僕が家に出るときに居たのは母だけではなかった。父が休みだったのだ。朝、父から「いってらっしゃい」なんて言われたような、そんな気がする。この家に住んでいる人物は、今現在僕と母と父の三人しかしかいない。つまりその頭が一体誰なのかということは、考えるまでもないだろう。
父の髪の毛にべったりと塗りたくられた見慣れない血液を、僕はまじまじと視界に入れた。ゆっくりと女の身体が動き始めたのを皮切りに、視界が揺らいだかのようにその女の周りに残像が走る。どういうわけか、微かに空気が悪くなっていく感覚に晒された。
この状況下の中の考えることと言えば逃げるか警察を呼ぶかのどちらかくらいと言えるだろう。しかし、僅かに身体が後ろに引けたような気がしたのを僕はすぐに取り消した。何故なら、それと同時にこれは寧ろ好機だと思ったからだ。
この行動が、果たしてどれ程の意思の元だったのかは自分でもよく分からない。しかしこれは、紛れもなく僕自身が起こした行動だ。
左肩にかけられた鞄を乱雑に床に置く音が、辺りに響く。さて、何をどう動くのが最善で最適か。そんなことは考えもしていない。自ら目の前の某人に向かって歩いていったのだから、そんな時間なんてあるはずがなかったのだ。
◇
ゆらり、ゆらりとすっかり枯れ果てた木の葉がどこからか舞い踊る様子は、窓を返してよく見えた。季節は二月上旬。当然と言えば当然の景観なのだろうが、この時の僕にとってはそれを眺めていることすらも暇つぶしのひとつだった。
だが恐らくは、ある種の現実逃避だったのだろう。
「――失礼します」
目が覚めてしまったということは、こうやって人々が僕の元に訪れるというのは必然なのだから。
「警察の村田です。……少し、いいかな?」
警察が僕の元に訪れたのは、意識が戻った二日ほど後のことだった。
村田と名乗るこの人物の話によると、通報があったのは僕が帰ってくるよりも二十分ほど前のことらしく、「大きな物音と叫び声がする」という隣の家のおばさんからのものだった。どうやら、僕が家に着いた五分後に警察がたどり着いたらしい。
駆け付けた時には両親は既に死亡していたようだが、しぶとく生きていた僕はすぐさま救急車に担ぎ込まれたのだそうだ。刺された左腹部の傷はかなり深く、目が覚めるのに五日ほどはかかったようで、事件があった時から約一週間が経過している。起き上がろうとすると怒られるほどに、まだ何も出来ていない状況だ。
顔だけを村田さんに向け、僕は簡単に事件の概要の説明を受けた。
「……その、家の中はかなり状況が悪かった。第三者と争ったような跡が沢山あって、君のご両親……特に恭子(きょうこ)さんは何度も執拗に刺された痕跡があった。かなりの殺意がない限りそうはなりにくいというか、例えば、顔の知らない空き巣と争ったと言うには少し……やり過ぎだと思う。顔見知りの可能性が高い」
明確な言葉は避け、僅かに目を伏せたかと思うと再び顔が僕に向けられる。なんだか、久し振りに母の名前を聞いたような気がした。
「相谷君が家に着いたのは、何時ごろかな?」
こうして警察に事情を聴かれるというのははじめての経験というわけではなかったが、こんな状況は流石に初めだった。
「十六時、三十分を過ぎた頃だったと思います……」
あの日は特に何も用がなかったから、真っ直ぐに家に帰った。時計を確認したわけではないけれど、いつもの時間を考えるなら大方そのくらいの時間だろう。
そう答えると、村田さんの眉間にしわが寄った。僕の思っているよりも重要なことだったのか、それとも既に知っている情報と照らし合わせた際に矛盾が生じたのか、どちらにしても一層真剣な面持ちになった。
「……君が家に帰った時、どんな状況だった? ああえっと、答えられる範囲で構わないんだけれど」
一応気を遣っているのか、そこまで多くの情報を求めようとはしない村田さんに少々拍子抜けをした。もう少し息が詰まるような受け答えが起こると思っていたのだけれど、今日を迎えるまでに、想像を誇張させ過ぎたのかも知れない。
「父が、床に倒れていました。それと――」
あの時の景観が、一瞬頭を過る。
「母が、包丁を持ってました」
しかし、それでも僕の口は躊躇なんてしなかった。それが僕の見た全てだったからだ。
「……それは、君に刃物を向けたのは恭子さんだということで良いのかな?」
「そういうことに、なりますね」
村田さんは「そうか……」と口にしたまま、黙り込んでしまう。少し思案する時間が必要だったのか、時計の音が少し邪魔にすら感じた。
きっと、僕が眠り呆けている間に沢山の情報を集めたのだろう。それこそ、学校に行って僕が何時ごろ学校を出たかの聴取くらいはしているのではないだろうか?
真剣な面持ちを残したまま、視線はどこか僕とは違うところを捉え続けている。一体何がこの人をそんな顔にさせているのか、想像は決して容易くない。
「……わかった。相谷くんのこと信じるよ」
その言葉に、僕は思わず目を見開いた。疚しいことがあるのかと聞かれればそんなことはないのだが、それにしてもやけにあっけなかったのだ。
「あのね、俺達の方では既に結論が出てるんだ」
どうやら僕の感じた違和感と疑問点は、すぐに解説してくれるらしい。
「まあでも、相谷君の証言と、状況証拠を照らし合わせる必要があってね。目が覚めたばかりでこういう話をするのも悪いと思ったんだけど……」
これまでの村田さんの言葉を鑑みるに、もしかすると僕は犯人扱いはされていないのかも知れない。もし僕のことを疑っていたのならもっと質問攻めをしてくるだろうし、村田さんだけではなく、他の刑事が数人ここに来たっておかしくはないはずだ。最も、犯人だと言われるのは心外だが。
「また近いうちに来ると思うけど、その時には結論伝えられると思うよ」
そう言うと、村田さんは何かを繕うように笑みを向けた。その顔を、僕はどういうわけか視界に入れることが出来なかった。
◇
相谷君から話を聞いてから暫く、警察では簡単な会議が行われた。彼の証言を元に、改めて事件現場の写真や証拠品を並べ整合性を集めよったのだ。
「相谷くん、どうでした?」
その会議はもうとっくに終わっており、少し暗がりの蛍光灯が羅列される会議室の中には、俺ともう一人の人間しかいない。本当に聞きたいのかと声に思わず言ってしまいそうになるのを抑え、どうにか言葉を捻出した。
「……元気だったよ、うん。前に会った時と同じだった」
「それ、元気って言うんですかね?」
相谷君と会うのは、これが最初ではない。
警察の見解は言わずもがな、相谷君の証言通りということで落ち着いた。落ち着いたというよりは、もとからそういう結論ではあったのだが、重要参考人として相谷君の話は聞いておかなければならなかったのである。こちらの見解とは違うことがあればそれだけでは済まなかっただろうか、俺自信、彼を追い詰めるようなことは余りしたくなかったというのが本音というのもあり、こういう形で収まったて良かったと思った。いや、良かったという言葉は適切ではないだろうか? 正確に言うのなら、相谷君が犯人という結論に至らなくてよかった。そういったところだろう。
そうはいっても、これはあくまでも個人的な感情であるということは間違いない。新たな証言がこの後出ることがあるのなら、やるべきことはやらなければならないだろうが。
もし仮に相谷君の証言がひっくり返るようなことがあったとしたらと考えたくなるのも分かるが、現に他の人物からも証言が取れている為、そうなる可能性はかなり低いだろう。
「それにしても、一緒に住んでるんだから相谷くんが帰ってくる時間なんて分かってたでしょうに、そのタイミングで夫を殺すとかどういう神経してるんですかね。そんな大喧嘩するようなことあります? しかも受験の時期とか、普通に考えてありえないですよね」
「普通に考えてありえないことが起きたからこんなことになってるんだろ。あと、警察の外でそんなこと言うなよな」
「俺だってそんな馬鹿じゃないですけど」
「ほんとかよ……」
言葉の止まらない池内に、俺はもう少しで機嫌が悪くなってしまうところだった。真顔でなんてこと言うんだといいそうになったが、それを忖度なしに言えてしまうのが池内だし、俺に全くその感情がないかというと「そんなことはない」だなんて適当な嘘をつける自信は無いのである。
本当に、夫を殺さなければならないほどの大喧嘩が発生しなければ、俺はきっと、相谷くんと会うことはなかったはずなのだから。
「……交通課のままだったら、こんなことしなくて済んだのにな」
せめてこれが、警察と全く関係のない再会だったらどれほどよかったか。俺はそう思わざるを得なかった。
「でも、相谷くん的には村田さんで良かったんじゃないですか?」
警察だなんて、本来は会わないほうが幸せであるということなんて、考えなくても明白だ。
「……なんでだ?」
「なんでって……だって、顔の知らない刑事に話聞かれるとか普通に嫌ですし。それが高圧的なおっさんだったらもっと嫌じゃないですか? 俺だったら悪態つきますね」
池内の言わんとしていることは、当然分からなくはない。そりゃ俺だって、高圧的なおっさんに話しかけられるだなんていかなる場合でも御免である。
しかし、端的にそうと結論付けられない理由が俺にはあった。
「別に、知り合いって程でもないしな……」
それだけ言って、俺は池内を視界から外す。どうにも居心地が悪かったのだ。
例え知り合いだったところで、結局警察に連絡が行くのは事後なのだから。
しかし僕は、神崎さんが口にした「客の我が儘」という言葉が気になって仕方がなかった。宿泊猶予が一週間であるということは知っているが、この人はそれくらいの時間をここで過ごしたということなのだろうか? いや、案内人さんが口にした「まだそれは気にするところじゃない」という発言から察するに、そこまでの時間は経っていないのだろう。だからこそ、神崎さんの口にした言葉に違和感を覚えたのである。
この部屋の色が神崎さんによく似合っていると思うということは、もしかしたら神崎さんはもう帰るべきなのではないかと、どういう訳か僕は思った。
「神崎さん、まだ帰らないんですか……?」
そう口にした途端、神崎さんは僕のことをじっと見つめてくる。
「……帰るに帰れないだろ」
言いたいことがあるのを堪えているのかどうなのか、視線はすぐにそっぽを向いてしまう。そこまでしてここにいる理由を、神崎さんは頑なに教えてはくれなかった。
「だったら尚更、橋下さんに会わないと駄目ですねぇ」
刹那、流れを変えんとするばかりに案内人さんが割って入ってきた。
「と言っても、多分部屋には居ないと思いますけど」
「……居ない?」
「居ないんじゃないですかね? 理由はまあ……」
言葉を選ぶ為の思考が行われて、数秒後。
「神崎さんと少し、似てると思います」
当事者ではない僕には理解の及ばない解答が、案内人さんの言葉だった。
「相谷さんは、橋下さんの部屋には行ったんでしたっけ?」
そう問われた僕は、言葉を口にするでもなく首を横に振った。
「で、でもあの人、いつでも部屋に来ていいって言ってましたけど、そう言いながら居ないってことあるんですか……?」
確かにあの人は、僕の部屋に来たときに「いつでも来てね」と言っていた。そうやって言っていたにも関わらず部屋には居ないなどという予測が立てられてしまうというのは、かなり不自然ではないだろうか?
「……あいつならあり得る」
あいつはそういう奴だぞ。最後にそう付け加えた神崎さんの口から、小さな息が吐かれていく。それが呆れとも少し異なるように感じたのは、きっと僕の気のせいだ。
◇
「……俺の部屋遠くないか?」
「それの文句は掃除士さんに言って欲しいですねぇ」
予定外で来るから行けないんですよー? 続けてそう言われた神崎さんは不服そうだったけど、それをこれ以上訴えるなどということはしなかった。
「そういえば、相谷さんって橋下さんの部屋の色知ってるんですか?」
「えっと、にせ……に……なんだっけ……」
「似紅色ですね。悪くはないんですけど、ちょっとねぇ」
「似紅……」
聞きなれない言葉が、神崎さんの口から走る。赤だというのは何となく分かるけど、悪くはないけどちょっと、と言われてしまうと少々躊躇してしまう。橋下さんは似紅色というのが不服だったようだけれど、同じような理由なのだろうか?
「橋下さん、その色嫌がってましたけど……」
「まあ、それはそうでしょうね」
「……どうしてですか?」
案内人さんの「そう思うのは当然」とでも言いたげな様に、僕は僅かな疑問を持った。質問を提示した僕のことを横目で確認したかと思うと、案内人さんは口角をあげた。
「相谷さんは、自分の部屋の色を見た時どう思いました?」
ここで急に僕の話になるとは思っていなかったせいで、すぐにまともな言葉が出てこずに考える時間が必要になってしまった。僕はあの部屋に入った時、どう思ったのだったのだったか……。思いつくのは、想像していたよりも比較的簡単だった。
「特別嫌いじゃなかったですけど……」
「そうですか。なら良かった」
その質問に深い意味はなかったのか、結構あっさりとことは終わってしまう。はぐらかされてしまったような気がしなくもないが、僕の考えすぎだったかも知れない。
「相谷さんみたいな感想を全員が思ってくれれば、一番いいんですけど。ねぇ神崎さん」
「俺に振らないでくれ……」
そういえば、神崎さんの部屋の色は相思鼠らしかったけど、最初はあの色ではなかったのだろうか? 無理やりついていってしまったも同じだけれど、それにしてはあっさりと見させてくれたような気がしたのである。聞いても答えてくれる気は余りしないけど、それでも気になってしまうのは教えてくれないからこそなのかも知れない。
「相谷さんちょっと、行き過ぎです」
案内人さんに腕を鷲掴みにされてはじめて気づく。橋下さんの部屋である126号室、いつの間にかそれを優に通り過ぎてしまっていたのだ。
橋下さんの部屋を目的としていたのに、部屋番号を目の前にした途端、どういうわけか思わず息を呑んでしまう。本当に橋下さんは部屋には居ないのだろうか? そんな疑問は勿論あった。
しかし、その思いとは裏腹な感情は確かに存在している。
「橋下さん? 開けますよ?」
あの人ともう一度会うには、少し胆力が必要であるような、そんな気がした。
「……やっぱり居ませんねぇ」
一足先に部屋の中を確認した案内人さんの口からは、そんな言葉が漏れていた。僕らに見えないようにしているのかどうなのか、顔だけ覗き入れているお陰で、部屋の色はまだ確認が出来ない。
「部屋見ます?」
「か、勝手に見るのはちょっと……」
「ああ、許可は取ってるのでその辺りは大丈夫ですよ」
そういうお約束ですから。続けて、案内人さんはそう口にした。そう言われても、お約束というのが尚更よく分からなかった。本当にそうだとしても、本人が居ないというのに勝手に覗き見るというのは憚れるというものだ。果たしてどうするのが正解なのか、僕は思わず神崎さんの顔を覗いてしまう。僕の視線に気付いたのか、神崎さんはようやく思考を巡らせたらしく、何もない空間を見つめた。
「……許可取ってるってのが本当なら、別にいいんじゃないか?」
「私のこと信用してないって言ってるように聞こえるんですけど。バレて面倒になるような嘘はつきませんよ」
どうしますか? 案内人さんは、再び僕に訪ねてきた。どうやら、今度こそ僕の意見を言わなければならないらしい。
「似紅色っていうのは、少し興味があります……」
もう少し人数が多ければ、例えば仮に意見を聞かれたとしても、言わなくて済む確率が上がるのに。そう思わざるを得なかった。それくらい、僕は意見を口にすることを躊躇った。
「じゃあ、開けますね」
この少し冷めた心情というのは、ここに来た時の記憶が混合していた僕そのままであるなら、恐らくは抱かなかっただろう。
それはつまり、僕が気付くよりも前に既に僕は僕を取り戻しつつあったということだったのかもしれない。最も、そんなことは憶測に過ぎないが。
「凄いな……」
視界に入ったのは、この空間では見ることが無かった色だ。あの神崎さんが声を漏らすほどに、嫌らしく辺りに蔓延していた。彼が言っていたとおり、そこは赤一面に溢れていた。
少し薄暗く、でも何処か見覚えがあるその色。それは、あの時の夕の空によく似ていた。
……あの時の、というのは一体いつの話だろう? 何か黒く淀んだ存在が、頭の中を乱舞する。僕は思わず眉を歪めた。
ここに来る少し前、僕は一体何をしてたんだっただろうか? 思い出すにはどうにも胆力が必要で、今のところ何か残像のようなモノが頭に過る程度が精一杯だ。
しかしそれはあくまでも、ここに来る直前に僕の身に何が起きたのかという部分だけに限る。どうして僕は、記憶を置いてここに来たのか? その答えは驚くほどに容易に検討がついた。
僕は恐らく、思い出す必要性がないものを全ておいていきたかった。だから記憶があろうが無かろうが、別にどうだってよかったのだ。
「……神崎さん」
気付けば僕は、隣にいる某人の名前を口にしていた。実に耳障りがよかったにも関わらず、出来ればもう口にはしたくないと思ってしまう。それくらい今の状況はおかしいのだという事実をしっかりと、認識してしまった時。
「僕って、どうしてここに来たんだと思います?」
到底答えなんて返ってくるはずのない人物に、そんな問いを投げかけてしまっていたのである。
◇
これは、僕が先輩達に会うよりも前のこと。中学三年生の、いわゆる受験真っ只中に相谷家で起きた、何処にでもあるようなひとつの話だ。
あの日の僕は、いつものように家を出た。いつものように学校に行って、いつものように授業を受けて、いつものように家に帰る。
そしてまた、いつもと同じように学校が終わり、家についていつものように玄関を開けて入る。その後家族とは比較的どうでもいい会話が何度か繰り広げられて、特に面白いことがあるわけでもなく一日が過ぎていく。ただそれだけのはずだった。
「……ただいま」
現にここに至るまでの、僕が玄関の扉を開けてから家に入って数歩の時までは、何処にでもある特に意味を為さない日常だったと言って差し支えはない。
靴からスリッパに履き替えると、スリッパ特有の擦れる音がフローリングに蔓延していく。つまりはそれくらい、僕が帰ってきたときは静かだったのだろう。
てっきり誰も居ないと思っていたのだがどうやらそうではないらしく、リビングのテレビが点滅しているのが見えた。しかし、音は何も聞こえてこない。どういうことなのか疑問に思いながらも足を進めたのだが、それを見て一体何を思ったのか、僅かに足の進みが慎重になったのを覚えている。
そして、ようやくリビングを一望出来る位置に立った時のことだ。ひとりの女人がぽつりと立ち尽くしていたのた。そして更に僕の目を引いたのは、その女の手には包丁が握られていたということ。そして、手にしていた包丁が赤く染まっていたことだ。
着用していた衣服は白から赤に変色しており、女の足元にあるカーペットもこれまでに見たことのない程に黒く染まっていた。挙句の果てに、カーペットが及ばないフローリングにはテーブルの上に置いてあったのだろうコップの類が散乱しており、どうやら相当争った様子が伺える。
腕から滴る赤い水滴が果たして誰のモノなのかと停止しかけている思考が現実に引き戻されたのは、案外すぐのことだった。
その理由を簡潔に述べるとするなら、女の足元にはとある人物の頭が転がっていたからだ。そう答えればある程度の察しは誰でもつくだろう。
今日の朝、僕が家に出るときに居たのは母だけではなかった。父が休みだったのだ。朝、父から「いってらっしゃい」なんて言われたような、そんな気がする。この家に住んでいる人物は、今現在僕と母と父の三人しかしかいない。つまりその頭が一体誰なのかということは、考えるまでもないだろう。
父の髪の毛にべったりと塗りたくられた見慣れない血液を、僕はまじまじと視界に入れた。ゆっくりと女の身体が動き始めたのを皮切りに、視界が揺らいだかのようにその女の周りに残像が走る。どういうわけか、微かに空気が悪くなっていく感覚に晒された。
この状況下の中の考えることと言えば逃げるか警察を呼ぶかのどちらかくらいと言えるだろう。しかし、僅かに身体が後ろに引けたような気がしたのを僕はすぐに取り消した。何故なら、それと同時にこれは寧ろ好機だと思ったからだ。
この行動が、果たしてどれ程の意思の元だったのかは自分でもよく分からない。しかしこれは、紛れもなく僕自身が起こした行動だ。
左肩にかけられた鞄を乱雑に床に置く音が、辺りに響く。さて、何をどう動くのが最善で最適か。そんなことは考えもしていない。自ら目の前の某人に向かって歩いていったのだから、そんな時間なんてあるはずがなかったのだ。
◇
ゆらり、ゆらりとすっかり枯れ果てた木の葉がどこからか舞い踊る様子は、窓を返してよく見えた。季節は二月上旬。当然と言えば当然の景観なのだろうが、この時の僕にとってはそれを眺めていることすらも暇つぶしのひとつだった。
だが恐らくは、ある種の現実逃避だったのだろう。
「――失礼します」
目が覚めてしまったということは、こうやって人々が僕の元に訪れるというのは必然なのだから。
「警察の村田です。……少し、いいかな?」
警察が僕の元に訪れたのは、意識が戻った二日ほど後のことだった。
村田と名乗るこの人物の話によると、通報があったのは僕が帰ってくるよりも二十分ほど前のことらしく、「大きな物音と叫び声がする」という隣の家のおばさんからのものだった。どうやら、僕が家に着いた五分後に警察がたどり着いたらしい。
駆け付けた時には両親は既に死亡していたようだが、しぶとく生きていた僕はすぐさま救急車に担ぎ込まれたのだそうだ。刺された左腹部の傷はかなり深く、目が覚めるのに五日ほどはかかったようで、事件があった時から約一週間が経過している。起き上がろうとすると怒られるほどに、まだ何も出来ていない状況だ。
顔だけを村田さんに向け、僕は簡単に事件の概要の説明を受けた。
「……その、家の中はかなり状況が悪かった。第三者と争ったような跡が沢山あって、君のご両親……特に恭子(きょうこ)さんは何度も執拗に刺された痕跡があった。かなりの殺意がない限りそうはなりにくいというか、例えば、顔の知らない空き巣と争ったと言うには少し……やり過ぎだと思う。顔見知りの可能性が高い」
明確な言葉は避け、僅かに目を伏せたかと思うと再び顔が僕に向けられる。なんだか、久し振りに母の名前を聞いたような気がした。
「相谷君が家に着いたのは、何時ごろかな?」
こうして警察に事情を聴かれるというのははじめての経験というわけではなかったが、こんな状況は流石に初めだった。
「十六時、三十分を過ぎた頃だったと思います……」
あの日は特に何も用がなかったから、真っ直ぐに家に帰った。時計を確認したわけではないけれど、いつもの時間を考えるなら大方そのくらいの時間だろう。
そう答えると、村田さんの眉間にしわが寄った。僕の思っているよりも重要なことだったのか、それとも既に知っている情報と照らし合わせた際に矛盾が生じたのか、どちらにしても一層真剣な面持ちになった。
「……君が家に帰った時、どんな状況だった? ああえっと、答えられる範囲で構わないんだけれど」
一応気を遣っているのか、そこまで多くの情報を求めようとはしない村田さんに少々拍子抜けをした。もう少し息が詰まるような受け答えが起こると思っていたのだけれど、今日を迎えるまでに、想像を誇張させ過ぎたのかも知れない。
「父が、床に倒れていました。それと――」
あの時の景観が、一瞬頭を過る。
「母が、包丁を持ってました」
しかし、それでも僕の口は躊躇なんてしなかった。それが僕の見た全てだったからだ。
「……それは、君に刃物を向けたのは恭子さんだということで良いのかな?」
「そういうことに、なりますね」
村田さんは「そうか……」と口にしたまま、黙り込んでしまう。少し思案する時間が必要だったのか、時計の音が少し邪魔にすら感じた。
きっと、僕が眠り呆けている間に沢山の情報を集めたのだろう。それこそ、学校に行って僕が何時ごろ学校を出たかの聴取くらいはしているのではないだろうか?
真剣な面持ちを残したまま、視線はどこか僕とは違うところを捉え続けている。一体何がこの人をそんな顔にさせているのか、想像は決して容易くない。
「……わかった。相谷くんのこと信じるよ」
その言葉に、僕は思わず目を見開いた。疚しいことがあるのかと聞かれればそんなことはないのだが、それにしてもやけにあっけなかったのだ。
「あのね、俺達の方では既に結論が出てるんだ」
どうやら僕の感じた違和感と疑問点は、すぐに解説してくれるらしい。
「まあでも、相谷君の証言と、状況証拠を照らし合わせる必要があってね。目が覚めたばかりでこういう話をするのも悪いと思ったんだけど……」
これまでの村田さんの言葉を鑑みるに、もしかすると僕は犯人扱いはされていないのかも知れない。もし僕のことを疑っていたのならもっと質問攻めをしてくるだろうし、村田さんだけではなく、他の刑事が数人ここに来たっておかしくはないはずだ。最も、犯人だと言われるのは心外だが。
「また近いうちに来ると思うけど、その時には結論伝えられると思うよ」
そう言うと、村田さんは何かを繕うように笑みを向けた。その顔を、僕はどういうわけか視界に入れることが出来なかった。
◇
相谷君から話を聞いてから暫く、警察では簡単な会議が行われた。彼の証言を元に、改めて事件現場の写真や証拠品を並べ整合性を集めよったのだ。
「相谷くん、どうでした?」
その会議はもうとっくに終わっており、少し暗がりの蛍光灯が羅列される会議室の中には、俺ともう一人の人間しかいない。本当に聞きたいのかと声に思わず言ってしまいそうになるのを抑え、どうにか言葉を捻出した。
「……元気だったよ、うん。前に会った時と同じだった」
「それ、元気って言うんですかね?」
相谷君と会うのは、これが最初ではない。
警察の見解は言わずもがな、相谷君の証言通りということで落ち着いた。落ち着いたというよりは、もとからそういう結論ではあったのだが、重要参考人として相谷君の話は聞いておかなければならなかったのである。こちらの見解とは違うことがあればそれだけでは済まなかっただろうか、俺自信、彼を追い詰めるようなことは余りしたくなかったというのが本音というのもあり、こういう形で収まったて良かったと思った。いや、良かったという言葉は適切ではないだろうか? 正確に言うのなら、相谷君が犯人という結論に至らなくてよかった。そういったところだろう。
そうはいっても、これはあくまでも個人的な感情であるということは間違いない。新たな証言がこの後出ることがあるのなら、やるべきことはやらなければならないだろうが。
もし仮に相谷君の証言がひっくり返るようなことがあったとしたらと考えたくなるのも分かるが、現に他の人物からも証言が取れている為、そうなる可能性はかなり低いだろう。
「それにしても、一緒に住んでるんだから相谷くんが帰ってくる時間なんて分かってたでしょうに、そのタイミングで夫を殺すとかどういう神経してるんですかね。そんな大喧嘩するようなことあります? しかも受験の時期とか、普通に考えてありえないですよね」
「普通に考えてありえないことが起きたからこんなことになってるんだろ。あと、警察の外でそんなこと言うなよな」
「俺だってそんな馬鹿じゃないですけど」
「ほんとかよ……」
言葉の止まらない池内に、俺はもう少しで機嫌が悪くなってしまうところだった。真顔でなんてこと言うんだといいそうになったが、それを忖度なしに言えてしまうのが池内だし、俺に全くその感情がないかというと「そんなことはない」だなんて適当な嘘をつける自信は無いのである。
本当に、夫を殺さなければならないほどの大喧嘩が発生しなければ、俺はきっと、相谷くんと会うことはなかったはずなのだから。
「……交通課のままだったら、こんなことしなくて済んだのにな」
せめてこれが、警察と全く関係のない再会だったらどれほどよかったか。俺はそう思わざるを得なかった。
「でも、相谷くん的には村田さんで良かったんじゃないですか?」
警察だなんて、本来は会わないほうが幸せであるということなんて、考えなくても明白だ。
「……なんでだ?」
「なんでって……だって、顔の知らない刑事に話聞かれるとか普通に嫌ですし。それが高圧的なおっさんだったらもっと嫌じゃないですか? 俺だったら悪態つきますね」
池内の言わんとしていることは、当然分からなくはない。そりゃ俺だって、高圧的なおっさんに話しかけられるだなんていかなる場合でも御免である。
しかし、端的にそうと結論付けられない理由が俺にはあった。
「別に、知り合いって程でもないしな……」
それだけ言って、俺は池内を視界から外す。どうにも居心地が悪かったのだ。
例え知り合いだったところで、結局警察に連絡が行くのは事後なのだから。