――今から約一週間ほど前、『神崎 拓真』という人物が車に轢かれる交通事故があった。同学年の『宇栄原 渉』が駆け付けた時には既にことは終わっていたらしく、手にしていた携帯電話で救急車と警察を呼んだとのこと。事故が起きた時点での目撃者は依然として見つかっておらず、初夏に起きた『雅間 梨絵』という女子生徒が事故で死亡した件とほぼ同じ場所で起きていることから、同一犯の可能性あり。並行した再調査を求める。
また、その神崎君の事故が起きた数日前、とある公園でひとりの男子高校生が何者かに鋭利な刃物で執拗に刺され殺害されるという事件があった。
彼の名前は『橋下 香』。彼の家とは別方向だった為、帰宅途中に起きたことではなく何処かに向かう途中だったのではないかと我々は推察するも、これに関しても情報が無く捜査は難航している。衣服の乱れからかなり揉めたという痕跡と、異常なまでの刺し傷の量を見るに、何らかの恨みを買っていたのではないかという推察止まりのまま、事件解決には至っていない。
しかしながら、『十年ほど前に起きた事件』に何かしらの共通点が無いか当時の担当刑事に話を聞く必要あり。
そしてもうひとつ。これら事件に直接関係しているとは言いがたいが、彼らと同じ学校に通っていた『相谷 光希』という人物が、神崎君の事故が起きた二日後、夜遅くになっても家に帰ってこないと保護者から連絡が入った。その連絡を受け、俺と『池内(いけうち)』はすぐに家に向かい目ぼしい場所の捜索をしたが、今も行方が分かっていない。
彼と同じクラスだった人物らによると、どうやら相谷君は橋下とは交流があったらしく、橋下君は別学年であるにも関わらず相谷君の教室にまで足を運んでいたらしい。そして更に神崎君と宇栄原君と一緒にいたという証言が複数から取れた為、事件に何らかの共通点がないか洗い出す必要がある。
また、その他に『相谷君に接触していた人物』が居たという噂程度の話が耳に入るも、その人物の特定にまでは至っていない。
その他、『二年ほど前に相谷家で起きた事件』に関しては、特別関連性が無いとしながらも、相谷君の行方が分かっていないことから改めて調書を見直すなどの――。
「せんぱーい? ……あ、やっぱりいた」
……必要がある為、これら全てに関連性がある案件を、今後『村田(むらた)』と池内に回すよう要請を求める。
「いい加減帰りません? ずっと泊まりっぱなしじゃないですか」
「お前は帰ればいいだろ。俺は居るから」
「えー……。そんなこと言われたら帰れないんですけど」
「強要はしてないからな。お疲れさん」
池内の言葉を適当にあしらい、俺は再び資料に目を向けた。
「……どこまで遡ってるんですか?」
「全部だよ」
簡素なテーブルの上には、相谷君に関連付けられる可能性がある今までの事件の詳細が書かれている無数の紙束が、時系列順に並べられている。
「何から何まで全部、頭に入れ直す必要があるんだ」
全ての事件が果たしてどれだけ彼に繋がっているのかはさておき、同じ学校の知り合いと思われる人物が立て続けに事件に巻き込まれるというのは、疑問を提示せざるを得ないというものである。
相谷君がまだ見つかっていないという部分からして、例えば相谷君が何らかの形で関係しているという一番最悪の状況が否定出来ないが、可能ならばそれは考えたくない。ただそんなことを口にしたら、私情を挟むなと何処かの偉いさんに怒られそうだ。
「……何か飲みます?」
「帰るんじゃ無かったのか?」
「そこまで薄情じゃないつもりですけど」
池内は、俺の返事を聞く前に「コンビニ行ってきまーす」とさっさと出ていってしまう。彼奴のことだ、適当に見えて俺がいつも飲んでるヤツを買ってくるのだろう。
「何が、足りないんだ?」
思考を巡らせるという行為は、当然ながらここに来るまで何度もした。しかし、その答え合わせを誰も容易にさせてはくれない。捜査というのはそういうものだ。
ふと、二年前の相谷君の件について書かれている調書が視界に入る。思わず眉間にシワが寄った。当時のことが昨日のことのように思い出せてしまうのは、それくらい印象に残ってしまっていると言うことだろう。
……調書に残るくらいなのだから、当然そこに良い意味は含まれてはいない。
◇
一体何が正しいのか、何がおれをそうさせたのか。この時のおれは分からない。
「ごめんね、急に押し掛けて」
こうして彼女に会いに来てしまったというのが、果たしてどれ程の意思の元だったのかというのも分からない。
「せ、せせせせ先輩っ……!?」
ただひとつ、分かることがあるとするのなら。
「何か、あったんですか……?」
「ああいや……。別に、何があったって訳じゃないんだけどね」
彼女の顔を見て、酷く安堵してしまった自分がいたということだけだ。
「良ければ、一緒に帰らない?」
そう口にすると、彼女の目はたちまち点になっていくのがよく分かる。おれの言葉をどう取ったのか、徐々に頬に火照りが見えた。
「す、すぐに準備します! 今すぐに!」
そう口にしたかと思うと、彼女は背を向けて席へと足を動かしていく。それはもう、電光石火といっても差支えは無いだろう。「別にそこまで急がなくても」という言葉が果たして彼女の耳に届いているかは置いておくとして、それがどうにも微笑ましくて自分の頬が緩む。
そういう状況じゃないということは嫌でも理解しているというにも関わらず、だ。
中条さんが言葉の通り準備をして戻ってきて暫く、おれらは早々に校舎を出た。帰り道は途中まで一緒らしいという情報しかないまま取りあえず歩を進め、道中は彼女の話をただただ聞くことに努めた。楽しそうに話をしながらもふとしたときに我に返るのか、少し照れた面持ちで視線を外し、そのまま俯く姿。おれが「それで?」と聞くと、戸惑いながらも話を続けていく姿。その後、自然と笑みを溢していく姿。
全てを目にするには、少々時間が足りないというものだ。
「あ、あの……」
「ん?」
状況が違えばそもそも会うことは無かったのだろうと思うと、果たして今どんな顔をすればいいのか分からなくなる。今のおれはちゃんと繕えているだろうか?
「えっと……」
出来ればごくごく普通の日常の一部として一緒に下校するという状況だったら良かったのに、やっぱりそれは難しい。
「……そういえば、栞って今持ってる?」
「栞……? ああ、先輩から貰ったやつなら持ってますよ。ちゃんと!」
弾んだ声が、本当に今も持ってくれているのだろうというのがよく分かる。
「それがどうかしました?」
「いや……」
そう問われて、答えに困る自分がいた。いつもなら適当にかわせることが出来ているだろうに、どうも今日の自分は、いつにも増して頭が働いていないらしい。
「どっちが正解なのかなって、今日までずっと考えてた」
だから、後先考えることも無くこんなことを口にしてしまうのは、致し方ないというものだ。
「栞があったから巻き込まれたのか、それとも栞があったからまだマシだったのか。今も答えが見つからないんだ」
なんの脈絡のないおれの言葉に彼女は少し困惑していたようだったが、だからと言って口を挟むことはしなかった。
「中条さんにはこれ以上迷惑がかからないような状況にしたいのに、どうしてもそこに至るまでの答えを見つけることが出来ない」
それが余計わざわざ言わなくてもいいことを口にしてしまっているような気がしてならないが、もう自分ではどうすることも出来なかった。最も、口を挟まなかった彼女が悪いというわけでは毛頭ないが。
「どっちか分からないままじゃおれだって気味悪いし、無い方がいい可能性だって十分にあるし……」
つまり何が言いたかったのかといえば、恐らく彼女に捨てて欲しかったのだ。その得体の知れないモノを。しかしその決定的なことが口に出来ない辺りが、矛盾に拍車をかけてしまっている。
「やっぱり、何かあったんですか……?」
怪訝な顔で彼女がそう口にするのは、至極当然だ。こんな着地点が見つからない話、本当なら誰かに言うようなことでもない。
「何もないよ。少なくとも、おれの身には何にも起こってない。だからおれは大丈夫」
いつものように詭弁を繕う余力だけは、辛うじて持ち合わせていた。しかし、口にしたことに嘘はない。これだけのことが発生しておきながら、本当におれ自身には一切何も起っていないのだ。
それが余計おれの思考を奪っているという、ただそれだけの話である。
「だから、中条さんが心配する必要は何処にもないよ」
今までだってそうやってきた。それで大丈夫だった。その大丈夫というのが、これから先も通用するのかまでは知らない。知ったことではない。
わざとらしく思考を放棄したおれは、徹底的に笑みを繕っている。
――これは、おれが雅間さんに出会うほんの一時間ほど前の出来事だ。
◇
とあるひとつの公園は、今もなお静かに淡々とこの場所にあり続けている。それはきっと、五年後も十年後も変わらない。変わっていくのは、あくまでもそこに訪れる人間だ。
おれがそこに訪れるよりも少し前、既にひとり誰かがそこに立ち竦んでいた。もう隠れることはしないという意思表示にも見えたのは、恐らくは気のせいではないだろう。その人物は、何をするでもなく空を見上げていた。その人物はおれを視界に入れたのは、それからすぐ後のことだった。
「……はじめまして、じゃないよね?」
柔和な笑みと言葉をこちらに向けてきてもなお、おれは神経を尖らせていた。
いつだったかに中条さんが言っていた、おれらとは違う制服の男子。その証言に当てはまる男が、今目の前にいる。
「君は今日、どうしてここに来たの?」
はじめて聞いたその男の声は、到底耳障りのいいものではなかった。
そんなおれの感想なんてよそに、男は質問を向ける。こんな質問に馬鹿正直に答えたくなんてないものだが、おれが何をしているのかあらかた想像がつく程度の説明は必要だろう。じゃないと、それこそおれがここに来た意味がなくなってしまうというものだ。
「犯人探しと、全てを知っていそうな傍観者を見つけに来ました」
「へぇ?」
すると、興味津々とでも言いたげに男は声を掲げた。
「その人たちは見つかった?」
「少なくとも、前者に関しては。まあ確証はないですけど」
少し肩を竦めながらそう答えると、男は更に言葉を投げてくる。どうやら、相当誰かと話がしたくて仕方がないようだ。
「もしかして、俺はその中に入ってたりするのかな?」
「それを貴方に言う理由は持ち合わせてないですね」
「どうして? そこまで言っておいて教えてはくれないんだ?」
「当然じゃないですか。初対面で理由なんて言う方がどうかしてる。ああ、そうか。そこまで聞きたい理由が貴方にあるっていうのなら、何か心当たりがあるんですかね?」
お互いの挑発が、一度目の静寂を生んだ。
「君、思ってたよりも嫌らしい性格してるね」
「よく言われるんですよね。見た目と性格が比例してないって」
「何が知りたいのかハッキリ言ってみなよ。全部答えてやるからさ」
「本当ですか? 信用は出来ませんね」
そうは言っても、やはり一応聞いておかなければならない。
「橋下 香を殺したのは貴方ですか?」
極力私情は挟みたくないものだが、それとこれとは話が別だ。
「俺に聞かないでよ、そんなこと」
「生憎心を読めるような力は持ち合わせていないので、聞かないと分からないんですよ」
口では一応そう言っておくが、それなりの目星はつけている。
「本当に、分からないことだらけで困る」
しかし、それだけではやはり足りない。おれが相手にしているのは、明確な実体を持ち合わせていない存在なのだから、余計裏付けが必要だ。
……裏付けをしたからといって、この男を刑罰に処することが出来るかというのは、また別の話だろう。しかし、最早そんなことはどうでもいい。
「それ相応の覚悟があって来たんでしょ? 今は一応自我を持ち合わせてるけど、どうせ長くない」
全てはどうせ、おれの自己満足だ。今更なのだ。分かってる。
「殺す気で来ないと死ぬよ?」
その言葉に、おれは地面に強く足をつける。苛立って仕方がなかったのだ。
あの男と同じ場所で死ぬだなんて、まっぴら御免だ。本当はそう口にしてやりたかった。
「……おれが死んでそれで済むなら、喜んで死ぬさ」
思いとは裏腹に出た言葉に、特別違和感は覚えない。果たしてこの声が男に届いていたのかどうか、それくらいに意味のない音だっただろう。
男の周りには、既に黒く澱んだ気配が蔓延し始めている。まるで砂埃が舞うかのように、黒々としたそれらは空に爆ぜていった。わざとらしく肌に触れてくるをそれに、思わず眉間にしわが寄った。一瞬の出来事に特別驚くことはせず、しかし心臓の動きは早まった。ようやく存在を認識出来たのだから当然と言えば当然だろう。
ここから先、何がどうなるのかは流石に経験したことがないから分からない。しかし、橋下 香という人物がどうやって死を迎えたのくらいは分かるだろう。そうじゃなくても、それ相応のことを向こうはしてくるはずだ。
それさえ分かれば、おれは十分だ。
また、その神崎君の事故が起きた数日前、とある公園でひとりの男子高校生が何者かに鋭利な刃物で執拗に刺され殺害されるという事件があった。
彼の名前は『橋下 香』。彼の家とは別方向だった為、帰宅途中に起きたことではなく何処かに向かう途中だったのではないかと我々は推察するも、これに関しても情報が無く捜査は難航している。衣服の乱れからかなり揉めたという痕跡と、異常なまでの刺し傷の量を見るに、何らかの恨みを買っていたのではないかという推察止まりのまま、事件解決には至っていない。
しかしながら、『十年ほど前に起きた事件』に何かしらの共通点が無いか当時の担当刑事に話を聞く必要あり。
そしてもうひとつ。これら事件に直接関係しているとは言いがたいが、彼らと同じ学校に通っていた『相谷 光希』という人物が、神崎君の事故が起きた二日後、夜遅くになっても家に帰ってこないと保護者から連絡が入った。その連絡を受け、俺と『池内(いけうち)』はすぐに家に向かい目ぼしい場所の捜索をしたが、今も行方が分かっていない。
彼と同じクラスだった人物らによると、どうやら相谷君は橋下とは交流があったらしく、橋下君は別学年であるにも関わらず相谷君の教室にまで足を運んでいたらしい。そして更に神崎君と宇栄原君と一緒にいたという証言が複数から取れた為、事件に何らかの共通点がないか洗い出す必要がある。
また、その他に『相谷君に接触していた人物』が居たという噂程度の話が耳に入るも、その人物の特定にまでは至っていない。
その他、『二年ほど前に相谷家で起きた事件』に関しては、特別関連性が無いとしながらも、相谷君の行方が分かっていないことから改めて調書を見直すなどの――。
「せんぱーい? ……あ、やっぱりいた」
……必要がある為、これら全てに関連性がある案件を、今後『村田(むらた)』と池内に回すよう要請を求める。
「いい加減帰りません? ずっと泊まりっぱなしじゃないですか」
「お前は帰ればいいだろ。俺は居るから」
「えー……。そんなこと言われたら帰れないんですけど」
「強要はしてないからな。お疲れさん」
池内の言葉を適当にあしらい、俺は再び資料に目を向けた。
「……どこまで遡ってるんですか?」
「全部だよ」
簡素なテーブルの上には、相谷君に関連付けられる可能性がある今までの事件の詳細が書かれている無数の紙束が、時系列順に並べられている。
「何から何まで全部、頭に入れ直す必要があるんだ」
全ての事件が果たしてどれだけ彼に繋がっているのかはさておき、同じ学校の知り合いと思われる人物が立て続けに事件に巻き込まれるというのは、疑問を提示せざるを得ないというものである。
相谷君がまだ見つかっていないという部分からして、例えば相谷君が何らかの形で関係しているという一番最悪の状況が否定出来ないが、可能ならばそれは考えたくない。ただそんなことを口にしたら、私情を挟むなと何処かの偉いさんに怒られそうだ。
「……何か飲みます?」
「帰るんじゃ無かったのか?」
「そこまで薄情じゃないつもりですけど」
池内は、俺の返事を聞く前に「コンビニ行ってきまーす」とさっさと出ていってしまう。彼奴のことだ、適当に見えて俺がいつも飲んでるヤツを買ってくるのだろう。
「何が、足りないんだ?」
思考を巡らせるという行為は、当然ながらここに来るまで何度もした。しかし、その答え合わせを誰も容易にさせてはくれない。捜査というのはそういうものだ。
ふと、二年前の相谷君の件について書かれている調書が視界に入る。思わず眉間にシワが寄った。当時のことが昨日のことのように思い出せてしまうのは、それくらい印象に残ってしまっていると言うことだろう。
……調書に残るくらいなのだから、当然そこに良い意味は含まれてはいない。
◇
一体何が正しいのか、何がおれをそうさせたのか。この時のおれは分からない。
「ごめんね、急に押し掛けて」
こうして彼女に会いに来てしまったというのが、果たしてどれ程の意思の元だったのかというのも分からない。
「せ、せせせせ先輩っ……!?」
ただひとつ、分かることがあるとするのなら。
「何か、あったんですか……?」
「ああいや……。別に、何があったって訳じゃないんだけどね」
彼女の顔を見て、酷く安堵してしまった自分がいたということだけだ。
「良ければ、一緒に帰らない?」
そう口にすると、彼女の目はたちまち点になっていくのがよく分かる。おれの言葉をどう取ったのか、徐々に頬に火照りが見えた。
「す、すぐに準備します! 今すぐに!」
そう口にしたかと思うと、彼女は背を向けて席へと足を動かしていく。それはもう、電光石火といっても差支えは無いだろう。「別にそこまで急がなくても」という言葉が果たして彼女の耳に届いているかは置いておくとして、それがどうにも微笑ましくて自分の頬が緩む。
そういう状況じゃないということは嫌でも理解しているというにも関わらず、だ。
中条さんが言葉の通り準備をして戻ってきて暫く、おれらは早々に校舎を出た。帰り道は途中まで一緒らしいという情報しかないまま取りあえず歩を進め、道中は彼女の話をただただ聞くことに努めた。楽しそうに話をしながらもふとしたときに我に返るのか、少し照れた面持ちで視線を外し、そのまま俯く姿。おれが「それで?」と聞くと、戸惑いながらも話を続けていく姿。その後、自然と笑みを溢していく姿。
全てを目にするには、少々時間が足りないというものだ。
「あ、あの……」
「ん?」
状況が違えばそもそも会うことは無かったのだろうと思うと、果たして今どんな顔をすればいいのか分からなくなる。今のおれはちゃんと繕えているだろうか?
「えっと……」
出来ればごくごく普通の日常の一部として一緒に下校するという状況だったら良かったのに、やっぱりそれは難しい。
「……そういえば、栞って今持ってる?」
「栞……? ああ、先輩から貰ったやつなら持ってますよ。ちゃんと!」
弾んだ声が、本当に今も持ってくれているのだろうというのがよく分かる。
「それがどうかしました?」
「いや……」
そう問われて、答えに困る自分がいた。いつもなら適当にかわせることが出来ているだろうに、どうも今日の自分は、いつにも増して頭が働いていないらしい。
「どっちが正解なのかなって、今日までずっと考えてた」
だから、後先考えることも無くこんなことを口にしてしまうのは、致し方ないというものだ。
「栞があったから巻き込まれたのか、それとも栞があったからまだマシだったのか。今も答えが見つからないんだ」
なんの脈絡のないおれの言葉に彼女は少し困惑していたようだったが、だからと言って口を挟むことはしなかった。
「中条さんにはこれ以上迷惑がかからないような状況にしたいのに、どうしてもそこに至るまでの答えを見つけることが出来ない」
それが余計わざわざ言わなくてもいいことを口にしてしまっているような気がしてならないが、もう自分ではどうすることも出来なかった。最も、口を挟まなかった彼女が悪いというわけでは毛頭ないが。
「どっちか分からないままじゃおれだって気味悪いし、無い方がいい可能性だって十分にあるし……」
つまり何が言いたかったのかといえば、恐らく彼女に捨てて欲しかったのだ。その得体の知れないモノを。しかしその決定的なことが口に出来ない辺りが、矛盾に拍車をかけてしまっている。
「やっぱり、何かあったんですか……?」
怪訝な顔で彼女がそう口にするのは、至極当然だ。こんな着地点が見つからない話、本当なら誰かに言うようなことでもない。
「何もないよ。少なくとも、おれの身には何にも起こってない。だからおれは大丈夫」
いつものように詭弁を繕う余力だけは、辛うじて持ち合わせていた。しかし、口にしたことに嘘はない。これだけのことが発生しておきながら、本当におれ自身には一切何も起っていないのだ。
それが余計おれの思考を奪っているという、ただそれだけの話である。
「だから、中条さんが心配する必要は何処にもないよ」
今までだってそうやってきた。それで大丈夫だった。その大丈夫というのが、これから先も通用するのかまでは知らない。知ったことではない。
わざとらしく思考を放棄したおれは、徹底的に笑みを繕っている。
――これは、おれが雅間さんに出会うほんの一時間ほど前の出来事だ。
◇
とあるひとつの公園は、今もなお静かに淡々とこの場所にあり続けている。それはきっと、五年後も十年後も変わらない。変わっていくのは、あくまでもそこに訪れる人間だ。
おれがそこに訪れるよりも少し前、既にひとり誰かがそこに立ち竦んでいた。もう隠れることはしないという意思表示にも見えたのは、恐らくは気のせいではないだろう。その人物は、何をするでもなく空を見上げていた。その人物はおれを視界に入れたのは、それからすぐ後のことだった。
「……はじめまして、じゃないよね?」
柔和な笑みと言葉をこちらに向けてきてもなお、おれは神経を尖らせていた。
いつだったかに中条さんが言っていた、おれらとは違う制服の男子。その証言に当てはまる男が、今目の前にいる。
「君は今日、どうしてここに来たの?」
はじめて聞いたその男の声は、到底耳障りのいいものではなかった。
そんなおれの感想なんてよそに、男は質問を向ける。こんな質問に馬鹿正直に答えたくなんてないものだが、おれが何をしているのかあらかた想像がつく程度の説明は必要だろう。じゃないと、それこそおれがここに来た意味がなくなってしまうというものだ。
「犯人探しと、全てを知っていそうな傍観者を見つけに来ました」
「へぇ?」
すると、興味津々とでも言いたげに男は声を掲げた。
「その人たちは見つかった?」
「少なくとも、前者に関しては。まあ確証はないですけど」
少し肩を竦めながらそう答えると、男は更に言葉を投げてくる。どうやら、相当誰かと話がしたくて仕方がないようだ。
「もしかして、俺はその中に入ってたりするのかな?」
「それを貴方に言う理由は持ち合わせてないですね」
「どうして? そこまで言っておいて教えてはくれないんだ?」
「当然じゃないですか。初対面で理由なんて言う方がどうかしてる。ああ、そうか。そこまで聞きたい理由が貴方にあるっていうのなら、何か心当たりがあるんですかね?」
お互いの挑発が、一度目の静寂を生んだ。
「君、思ってたよりも嫌らしい性格してるね」
「よく言われるんですよね。見た目と性格が比例してないって」
「何が知りたいのかハッキリ言ってみなよ。全部答えてやるからさ」
「本当ですか? 信用は出来ませんね」
そうは言っても、やはり一応聞いておかなければならない。
「橋下 香を殺したのは貴方ですか?」
極力私情は挟みたくないものだが、それとこれとは話が別だ。
「俺に聞かないでよ、そんなこと」
「生憎心を読めるような力は持ち合わせていないので、聞かないと分からないんですよ」
口では一応そう言っておくが、それなりの目星はつけている。
「本当に、分からないことだらけで困る」
しかし、それだけではやはり足りない。おれが相手にしているのは、明確な実体を持ち合わせていない存在なのだから、余計裏付けが必要だ。
……裏付けをしたからといって、この男を刑罰に処することが出来るかというのは、また別の話だろう。しかし、最早そんなことはどうでもいい。
「それ相応の覚悟があって来たんでしょ? 今は一応自我を持ち合わせてるけど、どうせ長くない」
全てはどうせ、おれの自己満足だ。今更なのだ。分かってる。
「殺す気で来ないと死ぬよ?」
その言葉に、おれは地面に強く足をつける。苛立って仕方がなかったのだ。
あの男と同じ場所で死ぬだなんて、まっぴら御免だ。本当はそう口にしてやりたかった。
「……おれが死んでそれで済むなら、喜んで死ぬさ」
思いとは裏腹に出た言葉に、特別違和感は覚えない。果たしてこの声が男に届いていたのかどうか、それくらいに意味のない音だっただろう。
男の周りには、既に黒く澱んだ気配が蔓延し始めている。まるで砂埃が舞うかのように、黒々としたそれらは空に爆ぜていった。わざとらしく肌に触れてくるをそれに、思わず眉間にしわが寄った。一瞬の出来事に特別驚くことはせず、しかし心臓の動きは早まった。ようやく存在を認識出来たのだから当然と言えば当然だろう。
ここから先、何がどうなるのかは流石に経験したことがないから分からない。しかし、橋下 香という人物がどうやって死を迎えたのくらいは分かるだろう。そうじゃなくても、それ相応のことを向こうはしてくるはずだ。
それさえ分かれば、おれは十分だ。