切れ切れになった息が、オレの横を通っていく。それが一体誰の発している吐息なのかというのは、さして重要なことではない。何故なら、それが一体誰かということなんて既に分かりきっていることであって考えるまでもないからだ。
ここまで全力で走ることなんて、日常生活ではそうないと言ってもいいだろう。せいぜい、授業の一環である短距離走のタイムを計る時くらいなものだ。だがそれも、言ってしまえはただの通過儀礼のようなもので、ある一定の時間を過ぎてしまえばすぐに終わりを告げる。
これから起こる全てのことも、恐らくはそれくらい容易に終わりを告げるほどに些細な出来事でしかないだろう。そうでないと困るというものだ。
そもそもの話、どうしてオレはここまで必死で走っているのだろうか? もうよく分からない。
「……アホらし」
よく分からないフリをするというのは、比較的簡単だ。
誰に言うでもない声を淡々を漏らし、気づけばオレは走ることを止めていた。一体どれくらいの距離を走ったのかなんて覚えていない。最も、そんなことはどうだって構わないだろう。
息を整えながらも、足は少しずつ動いていた。ゆっくりと歩を進めているこの間にも「とある黒い何か」は迫っているのだろうが、それに関しては想定内だ。
「来るの久し振りかも……」
だが、辿り着いた場所はオレの想像している場所とは少し違う。
宇栄原先輩とはじめて会ったのは、確かここだった。とある公園に再び足を踏み入れたのは、一体何時ぶりだろう? それ程の時が経っているとも思えないけど、如何せん思い更ける時間がないせいでちゃんと思い出すことが出来なかった。そのすぐ後のことだ。
何かが砂利を踏みしめる音が、後ろから反響した。
それと同時に微かに視界に触れたのは、黒い粒子。それが一体何なのかというのを分かっていながらも振り向かなければならないというのは、なんと億劫なことか。それでもオレは、ちゃんと目に焼き付けなければいけなかった。
一体何処から粒子が溢れているのか、数えるにも至らない程のそれがひとりの男を離さんと蠢いている。僅かに見え隠れする容姿に、オレは思わず眉を歪めた。
そうしている間にも、とある男はゆらりと揺れながら近付いてくる。ここまで逃げおきながら、今はもう逃げるという思考は何処かへ消えていた。
いっそ季節外れの雪でも降れば、もう少しは何とかしようと努力をしたのだろうか? そうは言っても、今は残暑も通り過ぎようかとしている九月半ば。そんなことは起こるはずがないというのは、想像しなくても分かるというものだ。
「……よくもまぁ、こんなところにまでついてくるよね」
まだ辛うじてヒトの形を繕っているといったところだろうか? 本来は身体の一部であるはずの左肩や左手、右足部分が完全に黒ずんでいるのがよく分かる。有り体に言えば化け物と呼ぶに相応しく、これじゃあもう、本体のとある男と話をするなんていうことは出来ないだろう。
僅か、ほんの数ミリほど唇が動いたような気がしたが、恐らくは気のせいだ。
そうじゃなきゃ、今こうして黒いヒトガタがオレを襲ってくるなんていうことは起こらない。そう、起こるはずがないのだ。あくまでも、買いかぶり過ぎていなければの話だが。
特別かわすことも無く左腕をむんずと掴まれ、勢いに任せて地面へと身体が擦り付けられる。怪我をするというには程遠いが、それでも叩きつけられた反動が骨を走った。
乱れた衣服を、オレは特別気にすることはしない。
「いいよ、別に」
嘲笑う、というよりも挑発に近かったかも知れない。そう思うほどに、目の前にいるソレは静かにオレの目を貫いた。冷たい眼差しが十二分に刺さっているという事実を、オレはこの先絶対に忘れることは無いだろう。
オレは再び声を発し、尚も笑みを繕った。
「――殺せよ」
……。
…………。
………………どうしてオレが諦めるに至ったのか、一体誰に聞いたら分かるのだろう?
掴まれた左腕に男の指が食い込むたびに、軋む音が身体を走る。冷や汗が頬を伝っていることに、この時のオレは気づいていない。
またひとつ、目の前の何かが口を開いたように見えたが、それが何を発していたのかまでは憶えていない。
目の前で振りかざされたのは、こういう場合に世間一般的に使われるナイフや包丁と呼ぶには程遠いように見えた。それはとても黒く、黒く黒く黒く澱んでいた。そうであるのに、何よりも研ぎ澄まされているように視えたそれは――。
それはまず、オレの右腕を抉った。
◇
――二日前の夕方、橋下 香という高校二年生が公園で殺害される事件があった。
時刻はおおよそ十八時から十九時の間。警察に通報してきたのは、公園の前を通り過ぎた夫婦だった。
現場の惨状はかなり酷かったらしく、死体のまわりには血と肉の片鱗が散乱し、腹はその原型を留めていないほどに漁られており、臓器の類いが見えていたそうだ。他にも腕や足、更には喉元に至るまで相当抉られた痕があったらしく、凶器は刃物の類いであるということは分かっているらしいが、凶器らしきものは発見されていないらしい。その証拠に、今もまたこうして警察らしき人物が聞き込みを行っている。そのサマを見るのはもう飽きてしまった。なんなら、苛立ちさえも覚えてしまった程だ。
それが行われていた一部始終を見ていた人物が、今ここに居るというのに。
◇
静かな図書室の中、本を出すこともせずに頬杖をついているのは、辺りに知り合いが誰一人としてそこにいないからだ。おれの他に学生は確かにチラホラいるけど、ただそれだけ。おれが居るからと声をかけてくる人間は、今この空間には何処にもいない。
(図書室って、こんなに静かだったっけ……)
そんなことを久し振りに思ってしまう辺り、どうやらようやく普通の感覚を取り戻したらしい。図書館が静かなのと同じで、図書室だって本来そうあるのが当然なのだ。
しかし、その常識がおれの中から無くなりつつあったのは、一体いつのことだっただろうか? 確か二年の時、妥協に妥協を重ねて図書委員になって、ここに来ることが多くなっていった時まではまだ良かった。元々人なんて余り来ない図書室で本を余り本を読むなんていうのは容易だったし、拓真も図書委員だと知った時に鼻で笑ったことくらいしか覚えていない。一年ほど前までは、そんな感じだったのだ。
『……視える人って、オレ以外にもちゃんといるんですね。こういうの、オレだけだったらどうしようかなってちょっと思ってたんですけど……。結構安心したかも』
その当たり前が変わっていったのがいつの頃だったのかは、確かこの辺りからだろう。
『あ、オレは橋下って言うんですけど、名前聞いても良いですか? 多分先輩ですよね?』
二年の冬、橋下というひとつ年下と出会ってからの話だ。
勿論図書室だからといって大声で話すなどといったことは無かったのだが、この人本当によく喋る人で、彼がいる日で静かだったことは果たして何回あっただろうかと首を捻りたくなってしまう程だ。
拓真はせいぜい「よく喋るやつ」くらいの認識しかしていなかっただろうが、おれからしたら少し煩わしく、本来落ち着ける場所であるはずなのにどうして彼の話に付き合わないといけないのかと思ったこともあった。最も、それは最初の数週間だけの話だ。慣れというのは怖い。
そしてまた、橋下くんによってひとりの人物が現れることになる。相谷 幸希という人物だ。
最初、相谷くんはここに来ることをかなり渋っていた。どこからどう見ても橋下君に無理矢理連れてこられましたという空気を漂わせてはいたけど、本当のところはどうだったのだろう? 話しかけないとまず喋らないし、そもそも雑談に加わるところを見たことがない。聞いてもまともな答えが返ってきたことがあったかどうかも、正直な話今のおれには自信がない。
『……栞、前のに戻ったんですね』
興味のないフリをして以外と人のことをちゃんと見ている彼は、どうして橋下君に捕まったのだろうか? わざわざ図書室に連れてくる必要があったとも思えないんだけど、やっぱりおれの知らないことがまだ片手じゃ足りないくらいに存在している証拠なのかも知れない。
……考えれば考えるほどに、おれは何も知らないのではないかという確信しか生産されないというのは、非常に良くない。
惰性的に日々を過ごしていたせいで、とてもじゃないけど思い出せることが少なすぎるというのは、ただの言い訳に過ぎないだろう。そんなに沢山の時間を彼らと過ごしていたわけでもないけれど、恐らくは学校生活の中で一番一緒にいた人物に含まれるはずだ。だが、とてもじゃないが今はなにも考えられない。考えたって、眉間のシワが深まるばかりだ。
テーブルの上に放り出された、開けてもいない文庫本が自然と目についた。読む気のないくせして読もうとはしたという状況を作っている辺り、日常を繕おうとしているといったところだろうか? その為に選ばれはこの本には、申し訳なさが募る。
特に意味を為さなかった栞が頭を出していることに、どういうわけか眉間のシワを深めてしまう。そうなってしまえば、鞄の中にしまうという行動を取るのは至極当然だった。
◇
特に用も無かったのに長居しすぎてしまったという後悔の念が、おれの足を自然と速くさせる。この時、夕陽によって延びていく影が厭らしい程に黒く見えていたのは、恐らく気のせいだ。
ひとりで帰るのは別に珍しいことじゃ無いはずなのに、この落ち着きの無さと言ったらない。妙な胸騒ぎがおれの五感を奪っていく感覚がどうにも消えないまま、今日がもう数十時間が経過している。気を抜いてしまえば、このまま何もせずに数日の時が過ぎてしまうんじゃないかとさえ思う。そうなってしまったらもう終わりだろう。
そんな心持ちに拍車をかける出来事が、この後起こるということを知っていたとするなら、また違ったのかも知れないが。
違和感を覚えたのは、家にたどり着く凡そ五分前のこと。鞄から僅かに生温い感覚が上着を伝ってきたのだ。それが自分の体温から来るものではないというのがすぐに分かった理由は、ただひとつ。
鞄のファスナーの隙間から、光の粒が漏れ出していたからである。
一体どういう了見なのか、どうしてこうもおれの意思に関係なくことが発生するのだろう? いっそ、何も知らないふりをして無視してこのまま家に帰ってやりたいところだ。
……それが本当に出来るような性格だったら、もう少し生きやすい人生を過ごせていたのかも知れない。
「何処からだ……?」
こんなことを気にする気力なんて既にある訳がないというのに、どうもおれの身体は動きたがりのようだ。無意識に辺りを見回してみるも、見覚えのあるただの道が広がっているだけで特別変化は見当たらない。
実はこの現象は、一度起きたことがある。しかも最近だ。
総計に決断を下そうとした自分の心を一旦落ち着かせ、思考を巡らせる。
「栞持ってるの、中条さんとあともう一人居たよな……?」
思い返しているのは、『おれが手にした栞を持っている人物』だ。中条さんはともかくとして、栞を手にしている人物はもう一人存在する。この状況で中条さん以外の人物が浮かぶという理由はただひとつ。
『拓真さあ』
『……なに』
『ここ最近図書館行った?』
とある会話を某人と交わした僅か二日後だったからということだ。
こういう時の嫌な予感というものはよく当たるというもので、気付けはおれは地面を強く踏みしめていた。それとほぼ同時に携帯を取り出し拓真との連絡を試みたが、どうやら望みは薄いらしい。
一体どこに向かえばいいのかということは、考えなくても既に答えは出ている。ここからどう行けばより早くそこまでたどり着けるのかは知らないが、とにかく走るしか他無かった。
図書館に向かうのは一体何年振りか。そもそも入ったことがあっただろうか? それくらい曖昧で不確定な知識しかないが、こうなったらもう迷わないことを願わざるを得ない。確かこの先、左に曲がって真っ直ぐ進むと、図書館のすぐそばにあるひとりの女子生徒が亡くなった道路があるはずだ。これは夏休みが来る前の話だが、おれはよく覚えている。最もおれは、その女子高生というのに会ったことは無いが。
ようやくその道路が間近に迫った時のことだ。おれは見逃さなかった。『その女子高生が亡くなったとされる道路を、黒い何かが横切った』ということを。
それをみた瞬間一層心臓の動きが早くなったのを感じたが、それがどうしてなのかはよく分からない。嫌な状況が頭を過ったせいもあっただろうが、それすらもよく分からなかったし、そんなことを考える暇なんていうものは無かった。
出来れば、全部おれの気のせいで考えすぎであればどんなに良かったかと今でも思うが、現実はそうもいかない。時間軸が巻き戻るというのはあり得ないのだ。
……道路に見える、赤黒く落ちた色。何かに引きずられたかのように掠れているそれ。一体いつから走るのを止めていたのか、肩で呼吸をしながらゆっくり、ゆっくりと歩を進めていった。どうしてここまで息がし辛いのかも、もうよく分からない。生唾を呑み込むだけで精一杯だ。
目の前に転がっていた、神崎 拓真という人物を見るまでは。
「拓真……」
ようやく出てきた言葉は、たったそれだけだった。
いっそ来なければ良かったかも知れないというのが、正直なところだ。
だが、おれが第一発見者で良かったとも思っている。
拓真をひとりにしなければよかっただけの話なのに、それが出来なかった。
せめてもっと早く来ることは出来なかったのかと、自分を責めた。
しかし、おれが居たからといってこの状況は回避できたのかも分からない。断言が出来ない。
信号が点滅する。赤から青に変わる歩行者用の信号機は、無機質なただの傍観者に過ぎない。その傍観者とおれとの間。つまり横断歩道ということになるが、ゆっくりと、何かが揺らめているのを感じた。感じたというより、視えていたという方がより正確だろう。
目の前に形を作っていく何かが一体なんなのか、捉えるのに時間を要してしまっていた。少しずつ視えてくる、何かの形。人……学生服を着た女性だろうか?
既に残暑も過ぎているというのに、頬に汗が伝う。もしその正体が、おれの思い浮かんだ名前の人物だとするなら……いや、そんなことがあり得るのか? それは余りにも軽率な考え過ぎて、言葉を出すのにどうしても迷いが生じてしまう。
しかしこの状況だと、その考え以外に辿り着く道が存在しない。
「雅間、さん……?」
目の前にいる当人であろう名前を口にするのに、どうしても時間が必要だった。
これは、一番考えてはいけないであろう最悪の事態。あくまでも推測で、ひとつの考えとして提示したモノとしての認識だ。
七月に交通事故で無くなった雅間 梨絵という人物が、神崎 拓真を殺そうとした?
――信号が、朱く点滅している。
一体いつの間に居なくなったのか、ずっと認識していたはずの目の前にいた何かは、おれの視界には映っていない。
遠くから救急の音が聞こえてきているような、そんな気がした。
ここまで全力で走ることなんて、日常生活ではそうないと言ってもいいだろう。せいぜい、授業の一環である短距離走のタイムを計る時くらいなものだ。だがそれも、言ってしまえはただの通過儀礼のようなもので、ある一定の時間を過ぎてしまえばすぐに終わりを告げる。
これから起こる全てのことも、恐らくはそれくらい容易に終わりを告げるほどに些細な出来事でしかないだろう。そうでないと困るというものだ。
そもそもの話、どうしてオレはここまで必死で走っているのだろうか? もうよく分からない。
「……アホらし」
よく分からないフリをするというのは、比較的簡単だ。
誰に言うでもない声を淡々を漏らし、気づけばオレは走ることを止めていた。一体どれくらいの距離を走ったのかなんて覚えていない。最も、そんなことはどうだって構わないだろう。
息を整えながらも、足は少しずつ動いていた。ゆっくりと歩を進めているこの間にも「とある黒い何か」は迫っているのだろうが、それに関しては想定内だ。
「来るの久し振りかも……」
だが、辿り着いた場所はオレの想像している場所とは少し違う。
宇栄原先輩とはじめて会ったのは、確かここだった。とある公園に再び足を踏み入れたのは、一体何時ぶりだろう? それ程の時が経っているとも思えないけど、如何せん思い更ける時間がないせいでちゃんと思い出すことが出来なかった。そのすぐ後のことだ。
何かが砂利を踏みしめる音が、後ろから反響した。
それと同時に微かに視界に触れたのは、黒い粒子。それが一体何なのかというのを分かっていながらも振り向かなければならないというのは、なんと億劫なことか。それでもオレは、ちゃんと目に焼き付けなければいけなかった。
一体何処から粒子が溢れているのか、数えるにも至らない程のそれがひとりの男を離さんと蠢いている。僅かに見え隠れする容姿に、オレは思わず眉を歪めた。
そうしている間にも、とある男はゆらりと揺れながら近付いてくる。ここまで逃げおきながら、今はもう逃げるという思考は何処かへ消えていた。
いっそ季節外れの雪でも降れば、もう少しは何とかしようと努力をしたのだろうか? そうは言っても、今は残暑も通り過ぎようかとしている九月半ば。そんなことは起こるはずがないというのは、想像しなくても分かるというものだ。
「……よくもまぁ、こんなところにまでついてくるよね」
まだ辛うじてヒトの形を繕っているといったところだろうか? 本来は身体の一部であるはずの左肩や左手、右足部分が完全に黒ずんでいるのがよく分かる。有り体に言えば化け物と呼ぶに相応しく、これじゃあもう、本体のとある男と話をするなんていうことは出来ないだろう。
僅か、ほんの数ミリほど唇が動いたような気がしたが、恐らくは気のせいだ。
そうじゃなきゃ、今こうして黒いヒトガタがオレを襲ってくるなんていうことは起こらない。そう、起こるはずがないのだ。あくまでも、買いかぶり過ぎていなければの話だが。
特別かわすことも無く左腕をむんずと掴まれ、勢いに任せて地面へと身体が擦り付けられる。怪我をするというには程遠いが、それでも叩きつけられた反動が骨を走った。
乱れた衣服を、オレは特別気にすることはしない。
「いいよ、別に」
嘲笑う、というよりも挑発に近かったかも知れない。そう思うほどに、目の前にいるソレは静かにオレの目を貫いた。冷たい眼差しが十二分に刺さっているという事実を、オレはこの先絶対に忘れることは無いだろう。
オレは再び声を発し、尚も笑みを繕った。
「――殺せよ」
……。
…………。
………………どうしてオレが諦めるに至ったのか、一体誰に聞いたら分かるのだろう?
掴まれた左腕に男の指が食い込むたびに、軋む音が身体を走る。冷や汗が頬を伝っていることに、この時のオレは気づいていない。
またひとつ、目の前の何かが口を開いたように見えたが、それが何を発していたのかまでは憶えていない。
目の前で振りかざされたのは、こういう場合に世間一般的に使われるナイフや包丁と呼ぶには程遠いように見えた。それはとても黒く、黒く黒く黒く澱んでいた。そうであるのに、何よりも研ぎ澄まされているように視えたそれは――。
それはまず、オレの右腕を抉った。
◇
――二日前の夕方、橋下 香という高校二年生が公園で殺害される事件があった。
時刻はおおよそ十八時から十九時の間。警察に通報してきたのは、公園の前を通り過ぎた夫婦だった。
現場の惨状はかなり酷かったらしく、死体のまわりには血と肉の片鱗が散乱し、腹はその原型を留めていないほどに漁られており、臓器の類いが見えていたそうだ。他にも腕や足、更には喉元に至るまで相当抉られた痕があったらしく、凶器は刃物の類いであるということは分かっているらしいが、凶器らしきものは発見されていないらしい。その証拠に、今もまたこうして警察らしき人物が聞き込みを行っている。そのサマを見るのはもう飽きてしまった。なんなら、苛立ちさえも覚えてしまった程だ。
それが行われていた一部始終を見ていた人物が、今ここに居るというのに。
◇
静かな図書室の中、本を出すこともせずに頬杖をついているのは、辺りに知り合いが誰一人としてそこにいないからだ。おれの他に学生は確かにチラホラいるけど、ただそれだけ。おれが居るからと声をかけてくる人間は、今この空間には何処にもいない。
(図書室って、こんなに静かだったっけ……)
そんなことを久し振りに思ってしまう辺り、どうやらようやく普通の感覚を取り戻したらしい。図書館が静かなのと同じで、図書室だって本来そうあるのが当然なのだ。
しかし、その常識がおれの中から無くなりつつあったのは、一体いつのことだっただろうか? 確か二年の時、妥協に妥協を重ねて図書委員になって、ここに来ることが多くなっていった時まではまだ良かった。元々人なんて余り来ない図書室で本を余り本を読むなんていうのは容易だったし、拓真も図書委員だと知った時に鼻で笑ったことくらいしか覚えていない。一年ほど前までは、そんな感じだったのだ。
『……視える人って、オレ以外にもちゃんといるんですね。こういうの、オレだけだったらどうしようかなってちょっと思ってたんですけど……。結構安心したかも』
その当たり前が変わっていったのがいつの頃だったのかは、確かこの辺りからだろう。
『あ、オレは橋下って言うんですけど、名前聞いても良いですか? 多分先輩ですよね?』
二年の冬、橋下というひとつ年下と出会ってからの話だ。
勿論図書室だからといって大声で話すなどといったことは無かったのだが、この人本当によく喋る人で、彼がいる日で静かだったことは果たして何回あっただろうかと首を捻りたくなってしまう程だ。
拓真はせいぜい「よく喋るやつ」くらいの認識しかしていなかっただろうが、おれからしたら少し煩わしく、本来落ち着ける場所であるはずなのにどうして彼の話に付き合わないといけないのかと思ったこともあった。最も、それは最初の数週間だけの話だ。慣れというのは怖い。
そしてまた、橋下くんによってひとりの人物が現れることになる。相谷 幸希という人物だ。
最初、相谷くんはここに来ることをかなり渋っていた。どこからどう見ても橋下君に無理矢理連れてこられましたという空気を漂わせてはいたけど、本当のところはどうだったのだろう? 話しかけないとまず喋らないし、そもそも雑談に加わるところを見たことがない。聞いてもまともな答えが返ってきたことがあったかどうかも、正直な話今のおれには自信がない。
『……栞、前のに戻ったんですね』
興味のないフリをして以外と人のことをちゃんと見ている彼は、どうして橋下君に捕まったのだろうか? わざわざ図書室に連れてくる必要があったとも思えないんだけど、やっぱりおれの知らないことがまだ片手じゃ足りないくらいに存在している証拠なのかも知れない。
……考えれば考えるほどに、おれは何も知らないのではないかという確信しか生産されないというのは、非常に良くない。
惰性的に日々を過ごしていたせいで、とてもじゃないけど思い出せることが少なすぎるというのは、ただの言い訳に過ぎないだろう。そんなに沢山の時間を彼らと過ごしていたわけでもないけれど、恐らくは学校生活の中で一番一緒にいた人物に含まれるはずだ。だが、とてもじゃないが今はなにも考えられない。考えたって、眉間のシワが深まるばかりだ。
テーブルの上に放り出された、開けてもいない文庫本が自然と目についた。読む気のないくせして読もうとはしたという状況を作っている辺り、日常を繕おうとしているといったところだろうか? その為に選ばれはこの本には、申し訳なさが募る。
特に意味を為さなかった栞が頭を出していることに、どういうわけか眉間のシワを深めてしまう。そうなってしまえば、鞄の中にしまうという行動を取るのは至極当然だった。
◇
特に用も無かったのに長居しすぎてしまったという後悔の念が、おれの足を自然と速くさせる。この時、夕陽によって延びていく影が厭らしい程に黒く見えていたのは、恐らく気のせいだ。
ひとりで帰るのは別に珍しいことじゃ無いはずなのに、この落ち着きの無さと言ったらない。妙な胸騒ぎがおれの五感を奪っていく感覚がどうにも消えないまま、今日がもう数十時間が経過している。気を抜いてしまえば、このまま何もせずに数日の時が過ぎてしまうんじゃないかとさえ思う。そうなってしまったらもう終わりだろう。
そんな心持ちに拍車をかける出来事が、この後起こるということを知っていたとするなら、また違ったのかも知れないが。
違和感を覚えたのは、家にたどり着く凡そ五分前のこと。鞄から僅かに生温い感覚が上着を伝ってきたのだ。それが自分の体温から来るものではないというのがすぐに分かった理由は、ただひとつ。
鞄のファスナーの隙間から、光の粒が漏れ出していたからである。
一体どういう了見なのか、どうしてこうもおれの意思に関係なくことが発生するのだろう? いっそ、何も知らないふりをして無視してこのまま家に帰ってやりたいところだ。
……それが本当に出来るような性格だったら、もう少し生きやすい人生を過ごせていたのかも知れない。
「何処からだ……?」
こんなことを気にする気力なんて既にある訳がないというのに、どうもおれの身体は動きたがりのようだ。無意識に辺りを見回してみるも、見覚えのあるただの道が広がっているだけで特別変化は見当たらない。
実はこの現象は、一度起きたことがある。しかも最近だ。
総計に決断を下そうとした自分の心を一旦落ち着かせ、思考を巡らせる。
「栞持ってるの、中条さんとあともう一人居たよな……?」
思い返しているのは、『おれが手にした栞を持っている人物』だ。中条さんはともかくとして、栞を手にしている人物はもう一人存在する。この状況で中条さん以外の人物が浮かぶという理由はただひとつ。
『拓真さあ』
『……なに』
『ここ最近図書館行った?』
とある会話を某人と交わした僅か二日後だったからということだ。
こういう時の嫌な予感というものはよく当たるというもので、気付けはおれは地面を強く踏みしめていた。それとほぼ同時に携帯を取り出し拓真との連絡を試みたが、どうやら望みは薄いらしい。
一体どこに向かえばいいのかということは、考えなくても既に答えは出ている。ここからどう行けばより早くそこまでたどり着けるのかは知らないが、とにかく走るしか他無かった。
図書館に向かうのは一体何年振りか。そもそも入ったことがあっただろうか? それくらい曖昧で不確定な知識しかないが、こうなったらもう迷わないことを願わざるを得ない。確かこの先、左に曲がって真っ直ぐ進むと、図書館のすぐそばにあるひとりの女子生徒が亡くなった道路があるはずだ。これは夏休みが来る前の話だが、おれはよく覚えている。最もおれは、その女子高生というのに会ったことは無いが。
ようやくその道路が間近に迫った時のことだ。おれは見逃さなかった。『その女子高生が亡くなったとされる道路を、黒い何かが横切った』ということを。
それをみた瞬間一層心臓の動きが早くなったのを感じたが、それがどうしてなのかはよく分からない。嫌な状況が頭を過ったせいもあっただろうが、それすらもよく分からなかったし、そんなことを考える暇なんていうものは無かった。
出来れば、全部おれの気のせいで考えすぎであればどんなに良かったかと今でも思うが、現実はそうもいかない。時間軸が巻き戻るというのはあり得ないのだ。
……道路に見える、赤黒く落ちた色。何かに引きずられたかのように掠れているそれ。一体いつから走るのを止めていたのか、肩で呼吸をしながらゆっくり、ゆっくりと歩を進めていった。どうしてここまで息がし辛いのかも、もうよく分からない。生唾を呑み込むだけで精一杯だ。
目の前に転がっていた、神崎 拓真という人物を見るまでは。
「拓真……」
ようやく出てきた言葉は、たったそれだけだった。
いっそ来なければ良かったかも知れないというのが、正直なところだ。
だが、おれが第一発見者で良かったとも思っている。
拓真をひとりにしなければよかっただけの話なのに、それが出来なかった。
せめてもっと早く来ることは出来なかったのかと、自分を責めた。
しかし、おれが居たからといってこの状況は回避できたのかも分からない。断言が出来ない。
信号が点滅する。赤から青に変わる歩行者用の信号機は、無機質なただの傍観者に過ぎない。その傍観者とおれとの間。つまり横断歩道ということになるが、ゆっくりと、何かが揺らめているのを感じた。感じたというより、視えていたという方がより正確だろう。
目の前に形を作っていく何かが一体なんなのか、捉えるのに時間を要してしまっていた。少しずつ視えてくる、何かの形。人……学生服を着た女性だろうか?
既に残暑も過ぎているというのに、頬に汗が伝う。もしその正体が、おれの思い浮かんだ名前の人物だとするなら……いや、そんなことがあり得るのか? それは余りにも軽率な考え過ぎて、言葉を出すのにどうしても迷いが生じてしまう。
しかしこの状況だと、その考え以外に辿り着く道が存在しない。
「雅間、さん……?」
目の前にいる当人であろう名前を口にするのに、どうしても時間が必要だった。
これは、一番考えてはいけないであろう最悪の事態。あくまでも推測で、ひとつの考えとして提示したモノとしての認識だ。
七月に交通事故で無くなった雅間 梨絵という人物が、神崎 拓真を殺そうとした?
――信号が、朱く点滅している。
一体いつの間に居なくなったのか、ずっと認識していたはずの目の前にいた何かは、おれの視界には映っていない。
遠くから救急の音が聞こえてきているような、そんな気がした。