少しだけ、時間が空いた。
それは感覚的なモノではなく、おおよそ一か月の時は経っていた。決して何かがあったわけではなく、単純に夏が過ぎたのだ。だから、わたしが再び図書室に足を運ぶのにはある程度の時間が必要だった。わたしが来なかったその間、目的の人物は果たして何をしていたのだろうか? そんなことを考えてしまうくらい、この時のわたしはソワソワしていた。
もうすっかりと、気温は落ち着き始めている。いや、気温は相変わらずではあるものの、夏の煩わしい暑さというほどでもない。だが、図書室に入った途端今までのこもっていた空気は一変、機械的な風に晒された。
ここにきた理由というのが本目的ではないというのが、なんとも形容しがたい行動だ。だからこそ厄介だと言えるだろう。
(……宇栄原先輩、やっぱりいないよね)
また会えるだろうかと思いながらも、見つけられなかったことでどこか安堵してしまう。
(会ったからって、別にどうにもならないけど……)
そう、そうなのだ。先輩に会ったからといって何か話があるわけでもなく、ならどうして探しに来たのかと聞かれれば答えに困る。さっきから矛盾ばっかりで、自分でも嫌気がさした。
折角来たのだから、少し本でも見てから帰ろうか。一応そういう体で、羅列された本棚へと向かう。身体に当たる無機質な風は、わたしを歓迎してはいないように感じた。
◇
一か月という期間は、カレンダーで視認すると長く見えるけれど実際は思っているほど長くはない。この帰り道も、それくらいの感覚が空いたからといって特別新鮮味が増える訳でもないけれど、しいて言うのであれば、ひとりでの帰路がいい加減飽きてきたというところくらいだろうか。
仲のいい人がいるわけでもなく、かと言って虐げられているわけでもないのだが、友人と呼べる人間は今のところまだ存在しない。
もう少し社交性があればそれも違ったのだろうかと思うことは、ふとした場面で確かにある。しかし、そうまでしないと友人という存在にお目にかかれないというのなら、別にこのままでもいいと思うのだ。
大通りを歩く自分の足音は、他の人達に比べて酷く貧相だった。今日は本を借りるということもなく、単に図書室にある本棚を眺めていただけ。この前みたいに荷物が増えて後悔するということは無いものの、それはそれで少し物足りなさを感じるというものだ。
あの日のことは、出来れば余り思い出したくはない。思い返せば返すほど、あの人は一体何だったんだろうかという思考に侵される。目的もなんだったのかよく分からないし、どうしてわたしだったのかもよく分からないままだ。いっそ夢なら良かったのにと、そう思った回数は計り知れない。でも、あれが本当に全部夢だったと言われてしまったら少し困る。……その理由は、恥ずかしくて到底口にすることは出来ない。
向かう先、帰路を無視して左に行くと確か公園があったはずだ。当然、今の私に用がある訳でもなく通り過ぎるだけなのだけれど、どうやら寄り道をしようがしまいが、その後に起こる出来事は変わらないらしい。
(……変な風)
今日わたしを取り巻くそれは、とても生温かった。季節のそれと言われれば確かにそうなのだけれど、少しだけ違う。何処と無く、この前と良く似たそれに感じた。
だからどうというわけでもないのだけれど、わたしは思わず辺りを見回した。まだ、行き交う人の目線が蔓延っている。その事実に安堵したものの、それはどうやら早計だったらしい。
「お嬢さんの探し物は俺だったりする?」
耳元に、吐息がついた。
思わず跳ね上がる体と同時に、わたしは勢いに任せて後ろを向いた。
「ま、また……?」
目に映ったのは、紺の上着に白のシャツ。赤いネクタイとチェックのズボン。
「そうそう、また。あーいや、一応偶然なんだけど」
この前出会った、わたしとは別の制服を着た男子生徒だ。
「今日も持ってるの? 光るやつ」
柔和な声であるにも拘らず、その一言のせいで全ての五感を奪われたような気分になった。でも、今回は少し状況が違う。
「も、持ってたって良いじゃないですか」
車が走る音も、誰かの喋り声も、風が横を通り過ぎる音も、全ての環境音が聞こえてくる。
「そうだね、うん。別に駄目とは言ってないよ」
それが、唯一わたしの心を落ち着かせる要因だったと言ってもいいだろう。それくらい、耳に入ってくる音の数々に救われたのだ。ただ、当然混乱はしている。周りの状況も含めて、あの時と状況がまるで違うというのは明白だ。
「駄目じゃないけど、それキミのじゃないでしょ? なのに、まだそれを持ってるっていうのが気になるっていうか?」
それなのに、あの時と同じ卑しい気配が夕に堕ちた。
「今日はそういうつもり無かったんだけど、出会っちゃったんじゃなあー」
少し弾んだような声が、ゆっくりと耳を通り頭に響く。男の周りを漫然と取り巻く黒く淀んだ何かは、果たして他の人達には見えているのだろうか? そもそも今のこの状況で、わたしの周辺にわたしとこの人以外に誰が居るかを把握する余裕は全くない。
気付けばわたしは、思わず足を後ろへ動かした。僅かではあるものの、目の前の男との距離をとったのだ。
「あ、ちょっと。逃げようとしてるとかそんなことないよね? もしそうなら酷くない? 酷いでしょ? 酷いよね? ねえ?」
その防衛行動が、この男の勘に障ったらしい。
「話くらい聞いてくれたっていいのに」
一歩踏み出した男を前に、わたしはまた一歩後ろに下がった。
「く、くくく来るのは駄目です!」
「どうして? あ、もしかしてビビってるの? そんな怖いことは起こらないハズなんだけどなあ」
目を少し細目ながら、男は更に言葉を続けた。
「ボクは単純に、キミと話をしようって言ってるだけなのに」
本当に意味が分からないとでも言いたげに、右手で蔓延しているそれらに触れる。紫を帯びた黒い靄を、男が握りつぶすかのように拳を作った。ゆっくりと、人差し指から順に手が開かれていく。僅かに光を帯びているように見える粒がぱらぱらと堕ちていくのが、嫌でも目についてしまった。
きっとそう、恐らく、わたしを殺すなんていうのはあれくらい簡単なことのだろう。ただし、男が嫌煙する類いのモノを持っていない場合に限る、という特殊な条件付きなのかも知れない。
「……そういえば最近、この辺りにある図書館で事故があったんだってね?」
男の言葉は、突然だった。
さも世間話であるかのように、男によって話題が切り替わる。軽快な口調は、今までの卑しさとは僅かに違うモノが含まれているような、そんな気がした。
「な、なんで……」
「ん?」
「なんで、そんなこと言うんですか?」
「イヤだなぁ、お嬢さん」
くつくつと笑いが、辺りを蔓延する。
「そんな目で見ないでよ」
その言葉に、どういうわけか背筋に悪寒が走った。
「話もまともに聞いてくれないっていうんなら、お嬢さんともこれでお別れだね。ザンネンだなあ」
いい加減飽きた。そう言いたげにまたしても一歩、男が足を踏み込んだ。わたしは当然後ろへ足を動かしたのだが、恐らくは半歩も動いていなかったのだろう。男がわたしの腕をむんずと掴んだということは、そういうことだ。
「悪いんだけど、お遊びの時間はもう一秒も残ってないらしいんだよね」
少し、ほんの僅か。今までの男の口調との齟齬が含まれていたようなそんな気がしたが、男が言葉を発するのを止めた瞬間、今までとは違う黒く歪んだ景観がわたしの目に飛び込んだ。男の周りから、忽然と黒い粒子が大量に噴き出している。無論それは、わたしの足元も例外ではなかった。
「さて、その五月蠅い光でオレを殺すのは、一体いつになるのかな?」
果たして誰に向かって言っているのか、恐らくは、わたしではない見えない何かに向かって言っているのではないかというような気がしたが、もしかするとそれはわたしの勘違いだったのかも知れない。
何故なら、男の言った「五月蝿い光」と思わしきモノが、わたしと男を瞬時に飲み込んだからだ。
声にもならない、息の詰まった呼吸音が口から漏れる。わたしは思わず目をつむっていた。人工的な光とも、太陽の光とも違うこの光。わたしはこれをつい最近目にしたことがある。
「……ここまでしないと駄目なんだから、狂ってるよ、ほんと。そう思わない?」
目の前の間の男に襲われたあの時のそれと、全く同じ光だ。
一体いつ男との間に距離が出来たのか、気付けばひと一人が通れるほどにまで空間が出来た。揺れた男の身体の端々からは、黒い粒が滲み出ているのがよく分かる。風に乗ることはなく地面へと墜ちていくその様が、少しばかり男の様子を表しているかのようだ。
男の周りに堕ちた粒は、徐々にという程の猶予も無く、男の周りに集まりながら渦巻き始める。大蛇にも似た卑しい動きを前に、わたしは動く手立てをとっくに失っていた。
そして、まるでこの時を誰かが望んでいたとでもいうように、男の口調に光が消えた。
――自我が消えていく、音がする。
誰かに向かって言ったとは思えないほどに小さく、粒子にも満たない声だったとわたしは記憶している。黒い粒子の隙間から、僅かに見えた男の顔。靡く髪が、しだれ柳のように靡いていた。
しかしそれが見えていた時間はすぐに終わり、男の顔はどうにも見えなくなっていった。
わたしは、ただただその様子を眺めるほかなかった。さっきまでの威勢はどこに行ったのか、特に何もされていないのだから当然動けるはずなのに、わたしはそこに立ち止まったままだ。思考を動かすのに、少し時間が必要だったのだ。
「――!」
刹那、誰かがわたしの名字を呼んだ。
声が聞こえた方へ振り向いたときには、既に誰かがわたしの腕を掴んでいた。さっき、名前も知らない男がわたしの腕を掴んだ時よりも痛くはなく、かといって優しかったわけではないのだけれど……。
「間に合った……いや、間に合ったのか……?」
それでも、安堵する条件は全て揃っていた。
声の主が現れるのは、いつも突然だ。一回目は学校の帰り道、二回目は図書室。そして三回目の今日。
今日一番望んでいた人物だったはずなのだけれど、心臓の動きが一段と早くなっていく。まるで悪いことをして見つかった時のそれのような心境だ。今のこの瞬間だけを切り取れば、あの時と状況はさほど変わらないかも知れない。でも同じことを繰り返しているというわけでは当然無いから、この次に起こることは前とは違う。恐る恐る、わたしは口を開いた。
「な、なんで……?」
なんでまた先輩なのか? 恐らくその類の言葉を言おうとしたのだけれど、言葉が上手く口に乗らないせいで中途半端になってしまったのが悔やまれる。
あの時は思わず逃げてしまったが、今回はそうじゃない。今すぐにでも逃げてしまいたい気持ちは確かにある。でもそれよりも、別の感情が上回っているということに、動揺が隠せない。
「さて、なんでだろうね?」
わたしの言葉をどこまで汲み取ったのか、悪戯に笑う先輩を、わたしはただただ見つめていた。
◇
……はじめてだった。既にこの世のモノではない異端的な存在の為に、ではなく、今を生きている誰かの為にと少なからず行動を起こしたということを。こんなこと、今まで生きてきた中でおれはどれ程発生しただろう? 片手で数えたって、きっと指が余るはずだ。
それでも足を運んでしまったのは、少なからず何かしらの異変がおれを引き寄せたからだというのと、一応もうひとつの理由が存在する。……到底口には出したくないものだ。
おれがそこに辿り着いたとき、どうやら目の前にいる何かは既に原型を留めていなかったらしい。辺りに蔓延する黒い靄と、付随する黒い本体らしきモノがそれを物語っていた。集まった粒子によって出来たヒトガタの黒い物体。今のところこれといって目立った動きはないものの、見慣れない存在を見る羽目になるというのは、余り気持ちのいいものではない。
「せ、先輩どうしましょう……」
そう口にした中条さんの声は今にも泣きそうで、どうしてかおれが申し訳なくなってしまった。彼女の鞄は、相変わらず何かに反応して光を紡ぎ続けているらしいが、そこには敢えて言及はしない。
さて、来たはいいもののここからどうしたものか。恐らくこの状況は大事なのだろうが、そう理解は出来てもおれ自身そこまでの緊張感を持ち合わせていない。ひとりだったら、それもまた違ったのだろうか?
「……栞、持ってるよね? 見せてくれると嬉しいんだけど」
「え、あ……は、はい!」
元気な返事のすぐ後、中条さんは慌てて鞄のファスナーを開けた。そこまで急必要があるかは置いておくとして、昔のことを少しだけ思い返した。生真面目な人間がもうひとりここにいたら、そんなことをしている状況ではないと怒られそうなものだが、おれにとっては重要極まりない。昔というほどのものではないが、脳裏に過ったのは拓真を前に似たようなことがあったということは、恐らく一番重要な出来事だろう。
「ど、どうぞっ!」
中条さんによって行儀よく両手で持たれた一枚の栞。おれが片手で触れても尚、光が途切れることはなかった。そればかりか、おれが触れた途端、瞬く間に光が強くなっていった。おれの手から堕ちていく光の粒は、消えることなく地面を徘徊した。
するとどうだろう。僅か、ほんの少しばかり黒い粒子が主張し始めたのを肌で感じ、それに該当する存在を視界に入れた。さっき、ここに来た時よりも形が崩れ歪んでいるようにも見える。少し悠長にし過ぎてしまったか、ここでようやく真剣に対応出来る心持ちに晒される。おれが一歩黒いそれに近づくと、傍にいる彼女が慌てた様子で声を発した。
「あ、危ないですよ……?」
「大丈夫だよ、多分。うん、多分大丈夫」
どちらかと言うとこれは、自身に言い聞かせていた節の方が多かっただろう。大丈夫かどうかは、これが初めてだから分からない。不安を仰ぐような状況にはしたくないし、これは彼女には黙っておこうと思う。
「心配しないで」
考える時間は、有限ではない。
今までは一応話の通じる相手だったから何とかなっていたのだろうが、今回はそうもいかないだろう。明らかに話なんて聞いてくれる感じでもないし、何より既にヒトのかたちとは言い難いせいで、相手と会話をすることによって比較的穏便に済ませるという思考にまで到達しない。
この時のおれは一体何を思ったのか、無意識にとある衣類のポケットに触れた。その瞬間だった。
おれが目を瞑るのが早いか否か、今まで見たことのない程の光に晒される。側にいるであろう彼女の驚いた声が聞こえてくるということは、余程のものなのだろう。
これはあくまでも感覚的なものかもしれないし、もしかしたら勘違いかも知れない。それくらい微々たるものだといって差し支えはない。
……その光に、僅かながらも温度があったのだ。
徐々に、少しずつ光が収まっていくのを瞼越しに感じ、おれはゆっくりと目の前の情景を目に写しはじめる。半分くらい開いた頃だっただろうか? 突然の出来事に、おれの目はすぐさましっかりと開かれた。
「……いない?」
目を瞑るその瞬間までは居たはずの黒いヒトガタの何かは、忽然と姿を消していた。微かに残る地面すぐ側で浮遊している粒子だけが、先ほどまではそこに何かが居たということを表していた。だが、それも徐々に空気にまみれて消えていくのがよく分かる。
「ど、どこに行っちゃったんでしょう……? それとも消えた、とか……」
「……どうかな」
少し、素っ気ない言葉が出てきてしまった。出来れば余り考えたくないことが頭を過ってしまったせいだと、思っておくことにしよう。
力がどうとかいつだったかに誰かが言っていたのは、恐らくはこういうことなのだろう。心当たりが無かったというわけでは当然ない。数年前に起きたことはちゃんと覚えているし、忘れ難いことだったというのも分かる。ここに来れたのだって、その力とやらのお陰だと言ってもいいのだろう。
それをとうとう認めざるを得ない日が来たという、ただそれだけの話だ。というより、わざわざ走ってまでここに向かってしまったのだから、少なからず心のどこかで自覚はしていたのだろう。
「……今日は、逃げなくてよかったの?」
誤魔化す行為に、いい加減変化を与えないといけない。
「ここに来る頃には、もういないと思ってたんだけど」
落ち着きを取り戻そうと、深く息を吐く。君に向けて出したかった言葉は、本当はこれとはまた少し、違うもののはずだった。
「だ、だってあの時は……!」
「あの時は?」
「だってぇ……」
情けなく、何かに縋るような声に少しだけ後悔したのもつかの間。悪戯な笑みが、自然と零れていく。
「いいよ、真面目に答えなくて」
中条さんの頬が、朱く染まっている。それが夕空から落ちるもののせいなのか、それとも彼女自身のものなのか。考えるのは野暮なのだろう。
「何があったの?」
一応聞いてはみたものの、果たして彼女は答えてくれるだろうか? その自信は正直ない。視線をおれに向けたり外したりと忙しい瞳を、取りあえず待ってみることにした。
「何があったんでしょう……?」
「……ちょっと整頓しようか。歩きながら」
そう言って、オレは彼女との距離を詰めた。「家この辺り?」「あ、はいっ」「じゃあ、結構近いかもね」間にそんな会話を挟んで、足を動かした。女子と並んで帰路につくというのを想像したことは無かったのだが、世の中何があるかわからない。……本当に、わからないものだ。
彼女の言葉を聞く限り、どうやら出会ったのはこの前の不審な男らしい。しかも、この辺りで起きた交通事故に言及してきたそうだ。
人間の仕業だと思う? そう聞かれたと彼女は言っていた。おれはその時、何か言ってはいけないことを口にしてしまいそうになるのを必死に抑えた。自分でもよく分からない、声にもならない何かがすぐそこまで出かかっているのがよく分かる。
「なるほどね……」
そうして取り繕った言葉は、なんとも簡素なものだった。
「そうやってその人が言ったってことは、人間の仕業じゃないってことだ」
「た、多分……?」
頭にこだまする、彼女の言葉。それを聞いたのがまだおれで良かったと心底思うものの、聞きたくなかったという気持ちが湧いて仕方がない。
とある女子高生が死亡した、図書館付近で起きた交通事故。犯人がまだ捕まっていないと聞いているけど、そもそも捕まえられるわけがないとするなら、約一か月以上なにも進展がないというのもそれなりに理解が出来る。だが、いくらおれが幽霊が見えるからといって、容易には信用しがたいというものだ。そんなことが本当に起こり得るのかという疑問も勿論ある。でも、それだけではない。
――法律によって裁くことの出来る人間の仕業じゃないというのは、酷かもしれない。
「……なに?」
「あ、いや……」
少し、考えていることが顔に出てしまっていたのかも知れない。おれは、彼女の視線に気付くことが出来なかった。その僅かなおれの自意識が、若干の嫌気に晒される。
「中条さんは、逝邪って知ってる?」
気付けば、そんなことを口にしていた。
「逝邪……?」
「知り合いが探してるみたいなんだよね、その存在のこと。なんだっけな……」
幽霊よりももっと格が上で、でも悪霊とかいうのとはまた別のもの。いわゆる怨霊・悪霊という存在を送り出すためだけに存在していて、基本的に人を襲うことはしない。要約するとこんな感じだっただろうか。
中条さんは首を傾げたまま、ただおれの言葉を聞いていた。こんなことを彼女に話すつもりはなかったのだけれど、口が云うことを聞かないのだから仕方がない。
「知らないよね、こんな話」
おれも、知り合いから聞くまでは知らなかったし。そう付け加えると、彼女はこんな言葉を口にした。
「……わたしが会ったのは、その逝邪さんだったりするんでしょうか?」
そう問われたおれは、思わず足を止める。可能性が全くないというわけでもない、というところが、思考の妨げをした。
「あ、いや……でも、幽霊を送る? っていうのはわたし視てないですし、襲われてますから!」
一体何を弁解しているのか、彼女は大層な身振りで否定をした。彼女のいう通り、確かに逝邪という存在であると明確に言えるようなことは起きていない。どちらかと言えば逆だ。
でも、中条さんには言っていないことがひとつだけある。
"基本的に人を襲うことをしたらいけないんですけど、まあそう言われてるってだけで実際は多分違いますよね。人を襲うってだけなら、別に簡単ですし。"
その気を付けるという言葉にそこまでの信憑性が無いように感じるのは、多分彼女を取り巻く雰囲気の問題だろうから、余り突っ込まないことにする。と言っても少々心許ないのは確かなのだけれど、そこまで無鉄砲に動くタイプでもないだろう。……そうであることを、切に祈っておくことにする。
◇
(……やっぱり、言うべきだよな)
ここで言わなければ一体いつ言うのか。それくらい、条件は揃っていた。
「そういえばこの栞、まだ持ってたんだね」
「あ、はいっ。結局夏休みまで跨いでしまいました……」
まだおれの手元には、彼女が拾ったとしている栞が持たれている。
「言い忘れてたっていうか、言いにくかったっていうか……。とにかく、中条さんに言ってなかったことがあってね」
別に疚しいことがあるわけではないのに、少し間が空いてしまったことによってまるで疚しいことがあるかのような気分だ。
「この栞、おれに返してくれますか?」
こんなことなら、一番最初の彼女から栞のことを聞いた時にちゃんと言えばよかったのだ。最も、そう思ったからといって過去に戻ってどうのという考えには至らないわけだが。
「え、え……? ええっ?」
途端、彼女の目が丸くなった。その無垢で純粋な硝子玉に、おれはどういう風に映っているのか。少し気になるところだ。
「せ、先輩のなんですか、これ……?」
「まあ、一応ね。作ったのはおれの姉さんだけど」
いかにも正当なことを言っているように見えるかも知れないけど、実際は彼女に嘘をついたわけだ。言わなければ決してバレなかったであろう小さな嘘だったのだろうが、知らない間に大きな事態になりかねない。今回のことがまさにそれだ。
おれは、とある衣類のポケットに指を差し込んだ。一見何も入ってなさそうに見えるが、そんなことはない。
「代わりに、っていうのもおかしな話だけど……はい」
そうしてとあるモノを彼女に向けると、彼女の惚けた顔が目に留まった。なんとも目まぐるしく変わる表情は、見ていて飽きがこない。
「持ち合わせがこれくらいしか無かったから、気にいるかは保障出来ないけど」
どっちが新しいかと聞かれると困るくらいに、もうずっと衣類のポケットの中に入っていたのは、姉さんが作ったもうひとつと栞である。彼女が持っている栞との違いは、強いていうなら花真ん中に納められている名前の分からない小さな花くらいだろう。拓真がこの場に居たら、もしかしたらすぐに答えを教えてくれるのかも知れないが。
「で、でもそれだと返す意味が……」
「意味なんてどうでもいいよ」
きっぱりと、おれはそう口にした。
「それに、これが危ない状況を教えてくれるってことがよく分かったから」
果たして、おれの言ったことが本当なのかは分からない。もしかしたらこの逆で、栞を持っていたからこういう状況になったのかも知れない。
「持っててくれた方が、嬉しいかな」
これを口にしなかったのも、きっと嘘に含まれるのだろう。
「えっと……あ、ありがとうございます……」
少し押し売りのようになってしまっただろうか? 彼女は、おれがポケットから取り出したほうの栞をゆっくりと手に取った。まじまじとおれのことを見つめていた時間が終わってしまったのは少し惜しいようなそんな気がしたが、恐らくは気のせいだろう。
「……ついでに送っていこうか?」
「だ、だだだ大丈夫ですっ! ひとりで元気に帰れます!」
「そ、そう?」
元気に否定されたお陰で、これ以上のことを口には出来なくなってしまった。元気なら何よりではあるのだけれど、可能であるなら送りたい気持ちが強い。
――交通事故には、細心の注意を。そう、諄いくらいに言いたくなってしまいそうになるのを、ここに来るまで必死に抑えている。
まさか別れた後でどこかに寄り道をするようなタイプでもないだろう。……そうであることを、切に祈っておくことにした。
「あの、ひとつだけ……いいですか?」
「なに?」
一体何に躊躇しているのか、口籠りながら目を泳がせはじめた。
「先輩の恰好が、ずっと気になってたんですけど……」
「ああ、これ?」
彼女が気にしていたのは、おれの恰好だった。上は学校からそのまんまワイシャツなのだけれど、多分、気になっているのはその上にかかっているモノのことを言っているのだろう。
「家の手伝い。抜け出して来たんだよね」
灰から黒に切り替わったズボンと、深緑の肩に掛けるタイプのエプロンは、彼女にはどう見えているのだろうか? 今までとは違う、しかも私服ではない格好をしているなんていうのはおれからしてみれば別に特別なことではないが、周りからしてみたらきっと違うのだろう。
僅かな沈黙の中、毛先が揺れる程度の風が吹く。
「はっ……あ、えっと……わたしはこれで! し、失礼しますっ!」
急に我に返ったのか、言うだけ言って背を向けた彼女の行動はとても早かった。おれが声を発するよりも前に、彼女との距離は優に数十メートルを越えている。これで二度目のことだ。
「……逃げなくてもいいのにね」
一体誰に言っているのか、それでも自然と笑みが零れる。おれの言葉は、そのまま夕の空に溶けた。
◇
どこかの誰かが言っていた、逝邪という言葉。そういえば調べることをしていなかったけど、本当にそんな話が出回っているのだろうか? あの話を聞いたときは疑問に思っていたはずなのに、すっかり頭から抜けてしまっていた。
「んー……」
普段は余り聞くことのないキーボードを叩く音が、静かな部屋に反響している。おれは今、ネットの海を徘徊していた。この類いの、いわゆる都市伝説のようなものはネット上ではかなり多いだろうと推察していたから特別驚くことはしなかったけど、幽霊や呪いといったオカルト寄りのモノや、アニメやゲームのそれを含めると、正直なところもう手がつけられない。
どうやら都市伝説とオカルトはよく一緒の括りにされることが多いらしく、目的を持って何かを探している場合には殆どの情報がただの足枷にしかならないのだけれど……。
「都市伝説って言うよりはオカルトに近いだろうけど、だからと言ってこういうのばっかり調べるのもなあ……」
ネットではわりと言われてますよ? なんていう誰かの言葉を取りあえず信じてみたはいいものの、肝心の逝邪という類いの単語がひとつも出てこないなんてあるのだろうか? ただの出任せだったのか?
「逝邪、ねぇ……」
いや、恐らくは違うと思う。あれだけ簡単に長文を並べるには、それ相応の下調べと知識が必要になる。その場で適当に考えたというには、余りに無理があるというものだ。
「黒い靄……いや、影じゃないんだよな……。もっとこう、ヒトガタの……それじゃ影か。んん……」
それに彼の言うことが本当だとするのなら、それをおれと中条さんが視たモノが多少異なるという点が気になるのだ。おれはただ単に、黒いヒトガタの何かを視たというだけ。でも中条さんの場合はそれとも少し違う。人間の姿をちゃんと確立させていて、それでもなお黒い靄を纏っていたらしいのだ。
こうしてふたつの事象を並べてみると同じ存在ではないのかも知れないという気はするのだが、かと言って決定的な証拠もない。考えあぐねてしまう理由のひとつとしては、中条さんはそれに襲われているというところが大きいだろう。その次に出会った時にそうならなかったのが幸いとでも言えばいいのか、それでも悠長なことを言える状況でもない。
「……直接聞くのが早いか」
聞いたところで教えてくれるとは到底思えないけど、せめておれらが視たそれらが逝邪だったのかくらいの検討をつけないと、先に進まない。そう思うのが早いか否か、おれはパソコンに背を向けていた。
◇
この時期、ようやく過ごしやすい気温になりつつあるお陰で、通り過ぎる生徒の服装はすっかり秋模様だ。この学校の制服の上着が秋を連想させる色味というのもあるだろう。こういった感覚も今年で終わるというのをたまに忘れそうになってしまうのは、それくらい学生という時期を当然のように過ごしていたからなのかもしれない。
図書室の入り口で中を除いていた橋下 香という人物は、何かの気配を察したのか後ろを振り向いた。
「あ、先輩だ」
「……そんなところで何してるの?」
「いや、今日は先輩たち来るのかなぁと思って」
どうもばつが悪いというような空気を感じたのか、橋下君はおれの顔をまともに見てはくれない。
「……今日はひとりなんですね」
「お互いさまでしょ」
「そうでした」
お互いひとりでここに来たということについて、これ以上口を挟むことはしなかった。
「……入らないの?」
「先輩こそ」
ここまで相手を探りながら話をするというのも久しぶりだが、別におれ自身に疚しいことがあるわけではない。橋下君がどうはかまるで見当がつかないが。
「暇なら、少し雑談に付き合ってよ」
「雑談ですか? 別にいいですけど、宇栄原先輩がそういうこと言うなんて珍しいですね」
「ちょうど君に聞きたいことがあったからさ」
「えぇ? じゃあ帰ろうかな……」
「はいはい、邪魔だからそういうのは中入ってから考えて」
彼が軽口を叩くのはいつものことで、それに対しては別にどうとも思わない。いや、思わなくなったというのが本当のところだろう。それくらい慣れてしまったということだ。少し強引に背中を押し、彼と共に図書室に入る。少し不服そうな橋下君ではあったが、だからといって本当に帰る素振りをするわけでもなかった。
少し奥のテーブルを適当に探し、テーブルを反した向かいの椅子を陣取る橋下君を視界に入れながら、各々のタイミングで椅子に着く。
「……で、聞きたいことってなんですか?」
早速口を開いたのは、おれではなく彼のほうだった。欲を言うなら、本当にこの話をするべきなのかという部分についてもう少し考えたいものだが、そうもいかない。
「逝邪って、本当にいるのかなって思って」
というより、ここに至るまでこの話をまともに聞くタイミングがなかったという方が問題だ。それに、十分過ぎるほど時間は経っているのだから今更考えるも何もないだろう。
「いるんじゃないですかね? オレは詳しく知らないですけど」
この期に及んで、詳しくは知らないという彼の言葉を容易に鵜呑みにするのは流石に出来ない。あそこまでスラスラと逝邪という存在を口にすることが出来たというのに、はいそうですかと信じるには値しないだろう。
「……じゃあまあ、いいや。その逝邪って単語、何処で知ったの? 君の言うネットってやつで調べたけど、そんなの何処にも書いてなかったから」
「あー、調べちゃったんですね。で、ネットで拾ったっていうのが嘘だって知って、わざわざ聞きに来たってことですか」
参ったなぁと、腕を組みながら目のやり場に困っているところを見るに、何か知られたくはない部分が含まれているというのが伺える。それすらも嘘、というのは流石に考えたくはない。
おれだって、出来ることなら無闇やたらに疑うという行為は極力避けたいとは思ってる。
「逝邪本人に聞いた……とかだったら、どうします?」
それなのに、この人物はすぐに軽口を叩いてくるのだ。
「……こういうの、本来なら先輩の方が詳しいはずなのに。持ち腐れですね」
この時に彼が溢した言葉を、おれはまともに拾ってやることが出来なかった。
「本当にそれに関しては無知で、興味がなくて必要としてないんだったら、オレが欲しいくらいですよ」
感情を潜めた笑顔の底に一体何を隠しているのか。それを知るには、どうしても胆力が必要だったのだ。
「逝邪の情報が気になるっていうことは、さては会いましたね?」
「会ってはない。気になることが増えただけ」
「気になることですか、なるほどねぇ……」
僅か、ほんの少し納得がいかない。彼はそういった単語を言いたげに見えたけれど、その類の言葉は口にはせずに思案を重ねていく。おれの質問に答えるにあたって言いたくないことでも含まれているのか、それともおれだから言いたくないという唸りなのだろうか? どちらにしても大した違いではないのだけれど、やっぱり少し気になってしまう。
「逝邪が居るっていうのは嘘じゃないですよ? 逝邪本人から聞いたっていうのも本当です」
横を通っていく知らない生徒が通り過ぎるのを待って、彼はそう言った。
「その逝邪って存在、どうして橋下君は知ってるの?」
「え? ああ……。昔、死にかけた時に助けてくれたことがあったんですよね」
思わず聞き逃してしまいそうになるほどにさらりと述べられる言葉に、おれの時間が些か狂ったような感覚に陥った。
「……逝邪って、不思議なんですよ」
しかしおれの言葉を待つなんてことは、この人物はしない。
「人間から見て敵とか味方とかそういう概念が通用するわけでもなくて、かといって幽霊の味方かっていうとそれも違う。傍観してるだけかと思った側から現れるんですよ」
面倒だし、意味わからないですよね。最後にそう付け足した彼の言葉は、どこか第三者目線からものを言っているかのように淡々としていた。
「この前……橋下君が逝邪の話をした時だけど、その時は教えてくれなかったよね? 理由はあるの?」
「神崎先輩が居たからっていうのが半分」
更に彼は、続けてこう言った。
「もう半分は、単純に言いたくなかったからですかね」
「……どうして?」
「嫌いなんですよ。その逝邪っていうの」
今までよりも一段にハッキリと答えた彼の目に、どうやらおれは映っていないらしい。
「……あの黒いヒトガタの、おれらが視たやつ。あれは逝邪じゃないんだよね?」
「そうですね。あれが何なのかっていうのは、オレもあんまり詳しくないんですけど、多分逝邪と対の存在ですよね。幽霊って感じじゃないですし」
話を聞く限りで言うのなら、橋下君の言う通りあの存在が対のモノであると言って差し支えはないのだろう。逝邪自体の悪い情報が無いということくらいでしか今は判断出来ないが、それはそれ、ということにしておくことにする。
不確定な要素が多いからといって、定義をしないというのは悪手極まりないのだ。
「最近は、その黒いのに会った?」
「ここ最近は視てないですね」
「そう……」
「疑ってますか?」
「まだ何も言ってないでしょ。それに疑ってない」
「ならいいんですけど」
「……そんなに信用ない?」
「逆ですよ逆。いつも適当なことしか言ってないオレのこと、どこまで信用してくれるのかなって」
しかし、今日の彼は少し様子がおかしい。拓真と相谷くんがいないからなのだろうか?
「出来ることなら、全部信用して帰ってくださいね」
ふいに見せるこの誰に向けているかの分からない笑みは、時々おれを不安にさせる。
「なにかあった?」
そのお陰で、気付けばそんなことを口にしてしまっていた。
「……どうしてですか?」
「いや……」
「オレは大丈夫ですよ」
でも、それでも彼は否定をする。
「大丈夫なんです」
笑みを浮かべながらも、その目はどこか遠くを見据えている。そんな気がしたにも関わらず、おれはこの時それ以上のことを聞くに至らなかった。
「……先輩の気になること、全部解消されました?」
「え? ああ、まぁ……」
「オレから言えるのはこれくらいですかねぇ。真面目な話したら疲れましたよー」
それが、この一連の流れにおいて最大の汚点と言っていいだろう。
「ほかに何にも無いんだったらオレ帰りますけど。先輩はまだ居るんですか?」
この時、おれは一体どういう返事をしたのかは覚えていない。
「じゃあ先輩、また今度」
だが、彼がおれを置いて席を立ったということはそれが答えなのだろう。
少し、感覚が麻痺していたのだ。前まではこんなことを人前で話すことはなかったはずなのに、それが今はどうだ? いつからそうなったのかを思い出すことが出来ないというのは、どうにも煩わしい。
ゆっくりと、徐々に、少しずつ。こうして感覚は麻痺していくのだと痛感するには、まだ至っていない。
彼が口にした「また今度」という言葉。それに一体どれほどの重みがあったのか? そんなことは、今もこれから先も知りたくなんてないというものだ。
それは感覚的なモノではなく、おおよそ一か月の時は経っていた。決して何かがあったわけではなく、単純に夏が過ぎたのだ。だから、わたしが再び図書室に足を運ぶのにはある程度の時間が必要だった。わたしが来なかったその間、目的の人物は果たして何をしていたのだろうか? そんなことを考えてしまうくらい、この時のわたしはソワソワしていた。
もうすっかりと、気温は落ち着き始めている。いや、気温は相変わらずではあるものの、夏の煩わしい暑さというほどでもない。だが、図書室に入った途端今までのこもっていた空気は一変、機械的な風に晒された。
ここにきた理由というのが本目的ではないというのが、なんとも形容しがたい行動だ。だからこそ厄介だと言えるだろう。
(……宇栄原先輩、やっぱりいないよね)
また会えるだろうかと思いながらも、見つけられなかったことでどこか安堵してしまう。
(会ったからって、別にどうにもならないけど……)
そう、そうなのだ。先輩に会ったからといって何か話があるわけでもなく、ならどうして探しに来たのかと聞かれれば答えに困る。さっきから矛盾ばっかりで、自分でも嫌気がさした。
折角来たのだから、少し本でも見てから帰ろうか。一応そういう体で、羅列された本棚へと向かう。身体に当たる無機質な風は、わたしを歓迎してはいないように感じた。
◇
一か月という期間は、カレンダーで視認すると長く見えるけれど実際は思っているほど長くはない。この帰り道も、それくらいの感覚が空いたからといって特別新鮮味が増える訳でもないけれど、しいて言うのであれば、ひとりでの帰路がいい加減飽きてきたというところくらいだろうか。
仲のいい人がいるわけでもなく、かと言って虐げられているわけでもないのだが、友人と呼べる人間は今のところまだ存在しない。
もう少し社交性があればそれも違ったのだろうかと思うことは、ふとした場面で確かにある。しかし、そうまでしないと友人という存在にお目にかかれないというのなら、別にこのままでもいいと思うのだ。
大通りを歩く自分の足音は、他の人達に比べて酷く貧相だった。今日は本を借りるということもなく、単に図書室にある本棚を眺めていただけ。この前みたいに荷物が増えて後悔するということは無いものの、それはそれで少し物足りなさを感じるというものだ。
あの日のことは、出来れば余り思い出したくはない。思い返せば返すほど、あの人は一体何だったんだろうかという思考に侵される。目的もなんだったのかよく分からないし、どうしてわたしだったのかもよく分からないままだ。いっそ夢なら良かったのにと、そう思った回数は計り知れない。でも、あれが本当に全部夢だったと言われてしまったら少し困る。……その理由は、恥ずかしくて到底口にすることは出来ない。
向かう先、帰路を無視して左に行くと確か公園があったはずだ。当然、今の私に用がある訳でもなく通り過ぎるだけなのだけれど、どうやら寄り道をしようがしまいが、その後に起こる出来事は変わらないらしい。
(……変な風)
今日わたしを取り巻くそれは、とても生温かった。季節のそれと言われれば確かにそうなのだけれど、少しだけ違う。何処と無く、この前と良く似たそれに感じた。
だからどうというわけでもないのだけれど、わたしは思わず辺りを見回した。まだ、行き交う人の目線が蔓延っている。その事実に安堵したものの、それはどうやら早計だったらしい。
「お嬢さんの探し物は俺だったりする?」
耳元に、吐息がついた。
思わず跳ね上がる体と同時に、わたしは勢いに任せて後ろを向いた。
「ま、また……?」
目に映ったのは、紺の上着に白のシャツ。赤いネクタイとチェックのズボン。
「そうそう、また。あーいや、一応偶然なんだけど」
この前出会った、わたしとは別の制服を着た男子生徒だ。
「今日も持ってるの? 光るやつ」
柔和な声であるにも拘らず、その一言のせいで全ての五感を奪われたような気分になった。でも、今回は少し状況が違う。
「も、持ってたって良いじゃないですか」
車が走る音も、誰かの喋り声も、風が横を通り過ぎる音も、全ての環境音が聞こえてくる。
「そうだね、うん。別に駄目とは言ってないよ」
それが、唯一わたしの心を落ち着かせる要因だったと言ってもいいだろう。それくらい、耳に入ってくる音の数々に救われたのだ。ただ、当然混乱はしている。周りの状況も含めて、あの時と状況がまるで違うというのは明白だ。
「駄目じゃないけど、それキミのじゃないでしょ? なのに、まだそれを持ってるっていうのが気になるっていうか?」
それなのに、あの時と同じ卑しい気配が夕に堕ちた。
「今日はそういうつもり無かったんだけど、出会っちゃったんじゃなあー」
少し弾んだような声が、ゆっくりと耳を通り頭に響く。男の周りを漫然と取り巻く黒く淀んだ何かは、果たして他の人達には見えているのだろうか? そもそも今のこの状況で、わたしの周辺にわたしとこの人以外に誰が居るかを把握する余裕は全くない。
気付けばわたしは、思わず足を後ろへ動かした。僅かではあるものの、目の前の男との距離をとったのだ。
「あ、ちょっと。逃げようとしてるとかそんなことないよね? もしそうなら酷くない? 酷いでしょ? 酷いよね? ねえ?」
その防衛行動が、この男の勘に障ったらしい。
「話くらい聞いてくれたっていいのに」
一歩踏み出した男を前に、わたしはまた一歩後ろに下がった。
「く、くくく来るのは駄目です!」
「どうして? あ、もしかしてビビってるの? そんな怖いことは起こらないハズなんだけどなあ」
目を少し細目ながら、男は更に言葉を続けた。
「ボクは単純に、キミと話をしようって言ってるだけなのに」
本当に意味が分からないとでも言いたげに、右手で蔓延しているそれらに触れる。紫を帯びた黒い靄を、男が握りつぶすかのように拳を作った。ゆっくりと、人差し指から順に手が開かれていく。僅かに光を帯びているように見える粒がぱらぱらと堕ちていくのが、嫌でも目についてしまった。
きっとそう、恐らく、わたしを殺すなんていうのはあれくらい簡単なことのだろう。ただし、男が嫌煙する類いのモノを持っていない場合に限る、という特殊な条件付きなのかも知れない。
「……そういえば最近、この辺りにある図書館で事故があったんだってね?」
男の言葉は、突然だった。
さも世間話であるかのように、男によって話題が切り替わる。軽快な口調は、今までの卑しさとは僅かに違うモノが含まれているような、そんな気がした。
「な、なんで……」
「ん?」
「なんで、そんなこと言うんですか?」
「イヤだなぁ、お嬢さん」
くつくつと笑いが、辺りを蔓延する。
「そんな目で見ないでよ」
その言葉に、どういうわけか背筋に悪寒が走った。
「話もまともに聞いてくれないっていうんなら、お嬢さんともこれでお別れだね。ザンネンだなあ」
いい加減飽きた。そう言いたげにまたしても一歩、男が足を踏み込んだ。わたしは当然後ろへ足を動かしたのだが、恐らくは半歩も動いていなかったのだろう。男がわたしの腕をむんずと掴んだということは、そういうことだ。
「悪いんだけど、お遊びの時間はもう一秒も残ってないらしいんだよね」
少し、ほんの僅か。今までの男の口調との齟齬が含まれていたようなそんな気がしたが、男が言葉を発するのを止めた瞬間、今までとは違う黒く歪んだ景観がわたしの目に飛び込んだ。男の周りから、忽然と黒い粒子が大量に噴き出している。無論それは、わたしの足元も例外ではなかった。
「さて、その五月蠅い光でオレを殺すのは、一体いつになるのかな?」
果たして誰に向かって言っているのか、恐らくは、わたしではない見えない何かに向かって言っているのではないかというような気がしたが、もしかするとそれはわたしの勘違いだったのかも知れない。
何故なら、男の言った「五月蝿い光」と思わしきモノが、わたしと男を瞬時に飲み込んだからだ。
声にもならない、息の詰まった呼吸音が口から漏れる。わたしは思わず目をつむっていた。人工的な光とも、太陽の光とも違うこの光。わたしはこれをつい最近目にしたことがある。
「……ここまでしないと駄目なんだから、狂ってるよ、ほんと。そう思わない?」
目の前の間の男に襲われたあの時のそれと、全く同じ光だ。
一体いつ男との間に距離が出来たのか、気付けばひと一人が通れるほどにまで空間が出来た。揺れた男の身体の端々からは、黒い粒が滲み出ているのがよく分かる。風に乗ることはなく地面へと墜ちていくその様が、少しばかり男の様子を表しているかのようだ。
男の周りに堕ちた粒は、徐々にという程の猶予も無く、男の周りに集まりながら渦巻き始める。大蛇にも似た卑しい動きを前に、わたしは動く手立てをとっくに失っていた。
そして、まるでこの時を誰かが望んでいたとでもいうように、男の口調に光が消えた。
――自我が消えていく、音がする。
誰かに向かって言ったとは思えないほどに小さく、粒子にも満たない声だったとわたしは記憶している。黒い粒子の隙間から、僅かに見えた男の顔。靡く髪が、しだれ柳のように靡いていた。
しかしそれが見えていた時間はすぐに終わり、男の顔はどうにも見えなくなっていった。
わたしは、ただただその様子を眺めるほかなかった。さっきまでの威勢はどこに行ったのか、特に何もされていないのだから当然動けるはずなのに、わたしはそこに立ち止まったままだ。思考を動かすのに、少し時間が必要だったのだ。
「――!」
刹那、誰かがわたしの名字を呼んだ。
声が聞こえた方へ振り向いたときには、既に誰かがわたしの腕を掴んでいた。さっき、名前も知らない男がわたしの腕を掴んだ時よりも痛くはなく、かといって優しかったわけではないのだけれど……。
「間に合った……いや、間に合ったのか……?」
それでも、安堵する条件は全て揃っていた。
声の主が現れるのは、いつも突然だ。一回目は学校の帰り道、二回目は図書室。そして三回目の今日。
今日一番望んでいた人物だったはずなのだけれど、心臓の動きが一段と早くなっていく。まるで悪いことをして見つかった時のそれのような心境だ。今のこの瞬間だけを切り取れば、あの時と状況はさほど変わらないかも知れない。でも同じことを繰り返しているというわけでは当然無いから、この次に起こることは前とは違う。恐る恐る、わたしは口を開いた。
「な、なんで……?」
なんでまた先輩なのか? 恐らくその類の言葉を言おうとしたのだけれど、言葉が上手く口に乗らないせいで中途半端になってしまったのが悔やまれる。
あの時は思わず逃げてしまったが、今回はそうじゃない。今すぐにでも逃げてしまいたい気持ちは確かにある。でもそれよりも、別の感情が上回っているということに、動揺が隠せない。
「さて、なんでだろうね?」
わたしの言葉をどこまで汲み取ったのか、悪戯に笑う先輩を、わたしはただただ見つめていた。
◇
……はじめてだった。既にこの世のモノではない異端的な存在の為に、ではなく、今を生きている誰かの為にと少なからず行動を起こしたということを。こんなこと、今まで生きてきた中でおれはどれ程発生しただろう? 片手で数えたって、きっと指が余るはずだ。
それでも足を運んでしまったのは、少なからず何かしらの異変がおれを引き寄せたからだというのと、一応もうひとつの理由が存在する。……到底口には出したくないものだ。
おれがそこに辿り着いたとき、どうやら目の前にいる何かは既に原型を留めていなかったらしい。辺りに蔓延する黒い靄と、付随する黒い本体らしきモノがそれを物語っていた。集まった粒子によって出来たヒトガタの黒い物体。今のところこれといって目立った動きはないものの、見慣れない存在を見る羽目になるというのは、余り気持ちのいいものではない。
「せ、先輩どうしましょう……」
そう口にした中条さんの声は今にも泣きそうで、どうしてかおれが申し訳なくなってしまった。彼女の鞄は、相変わらず何かに反応して光を紡ぎ続けているらしいが、そこには敢えて言及はしない。
さて、来たはいいもののここからどうしたものか。恐らくこの状況は大事なのだろうが、そう理解は出来てもおれ自身そこまでの緊張感を持ち合わせていない。ひとりだったら、それもまた違ったのだろうか?
「……栞、持ってるよね? 見せてくれると嬉しいんだけど」
「え、あ……は、はい!」
元気な返事のすぐ後、中条さんは慌てて鞄のファスナーを開けた。そこまで急必要があるかは置いておくとして、昔のことを少しだけ思い返した。生真面目な人間がもうひとりここにいたら、そんなことをしている状況ではないと怒られそうなものだが、おれにとっては重要極まりない。昔というほどのものではないが、脳裏に過ったのは拓真を前に似たようなことがあったということは、恐らく一番重要な出来事だろう。
「ど、どうぞっ!」
中条さんによって行儀よく両手で持たれた一枚の栞。おれが片手で触れても尚、光が途切れることはなかった。そればかりか、おれが触れた途端、瞬く間に光が強くなっていった。おれの手から堕ちていく光の粒は、消えることなく地面を徘徊した。
するとどうだろう。僅か、ほんの少しばかり黒い粒子が主張し始めたのを肌で感じ、それに該当する存在を視界に入れた。さっき、ここに来た時よりも形が崩れ歪んでいるようにも見える。少し悠長にし過ぎてしまったか、ここでようやく真剣に対応出来る心持ちに晒される。おれが一歩黒いそれに近づくと、傍にいる彼女が慌てた様子で声を発した。
「あ、危ないですよ……?」
「大丈夫だよ、多分。うん、多分大丈夫」
どちらかと言うとこれは、自身に言い聞かせていた節の方が多かっただろう。大丈夫かどうかは、これが初めてだから分からない。不安を仰ぐような状況にはしたくないし、これは彼女には黙っておこうと思う。
「心配しないで」
考える時間は、有限ではない。
今までは一応話の通じる相手だったから何とかなっていたのだろうが、今回はそうもいかないだろう。明らかに話なんて聞いてくれる感じでもないし、何より既にヒトのかたちとは言い難いせいで、相手と会話をすることによって比較的穏便に済ませるという思考にまで到達しない。
この時のおれは一体何を思ったのか、無意識にとある衣類のポケットに触れた。その瞬間だった。
おれが目を瞑るのが早いか否か、今まで見たことのない程の光に晒される。側にいるであろう彼女の驚いた声が聞こえてくるということは、余程のものなのだろう。
これはあくまでも感覚的なものかもしれないし、もしかしたら勘違いかも知れない。それくらい微々たるものだといって差し支えはない。
……その光に、僅かながらも温度があったのだ。
徐々に、少しずつ光が収まっていくのを瞼越しに感じ、おれはゆっくりと目の前の情景を目に写しはじめる。半分くらい開いた頃だっただろうか? 突然の出来事に、おれの目はすぐさましっかりと開かれた。
「……いない?」
目を瞑るその瞬間までは居たはずの黒いヒトガタの何かは、忽然と姿を消していた。微かに残る地面すぐ側で浮遊している粒子だけが、先ほどまではそこに何かが居たということを表していた。だが、それも徐々に空気にまみれて消えていくのがよく分かる。
「ど、どこに行っちゃったんでしょう……? それとも消えた、とか……」
「……どうかな」
少し、素っ気ない言葉が出てきてしまった。出来れば余り考えたくないことが頭を過ってしまったせいだと、思っておくことにしよう。
力がどうとかいつだったかに誰かが言っていたのは、恐らくはこういうことなのだろう。心当たりが無かったというわけでは当然ない。数年前に起きたことはちゃんと覚えているし、忘れ難いことだったというのも分かる。ここに来れたのだって、その力とやらのお陰だと言ってもいいのだろう。
それをとうとう認めざるを得ない日が来たという、ただそれだけの話だ。というより、わざわざ走ってまでここに向かってしまったのだから、少なからず心のどこかで自覚はしていたのだろう。
「……今日は、逃げなくてよかったの?」
誤魔化す行為に、いい加減変化を与えないといけない。
「ここに来る頃には、もういないと思ってたんだけど」
落ち着きを取り戻そうと、深く息を吐く。君に向けて出したかった言葉は、本当はこれとはまた少し、違うもののはずだった。
「だ、だってあの時は……!」
「あの時は?」
「だってぇ……」
情けなく、何かに縋るような声に少しだけ後悔したのもつかの間。悪戯な笑みが、自然と零れていく。
「いいよ、真面目に答えなくて」
中条さんの頬が、朱く染まっている。それが夕空から落ちるもののせいなのか、それとも彼女自身のものなのか。考えるのは野暮なのだろう。
「何があったの?」
一応聞いてはみたものの、果たして彼女は答えてくれるだろうか? その自信は正直ない。視線をおれに向けたり外したりと忙しい瞳を、取りあえず待ってみることにした。
「何があったんでしょう……?」
「……ちょっと整頓しようか。歩きながら」
そう言って、オレは彼女との距離を詰めた。「家この辺り?」「あ、はいっ」「じゃあ、結構近いかもね」間にそんな会話を挟んで、足を動かした。女子と並んで帰路につくというのを想像したことは無かったのだが、世の中何があるかわからない。……本当に、わからないものだ。
彼女の言葉を聞く限り、どうやら出会ったのはこの前の不審な男らしい。しかも、この辺りで起きた交通事故に言及してきたそうだ。
人間の仕業だと思う? そう聞かれたと彼女は言っていた。おれはその時、何か言ってはいけないことを口にしてしまいそうになるのを必死に抑えた。自分でもよく分からない、声にもならない何かがすぐそこまで出かかっているのがよく分かる。
「なるほどね……」
そうして取り繕った言葉は、なんとも簡素なものだった。
「そうやってその人が言ったってことは、人間の仕業じゃないってことだ」
「た、多分……?」
頭にこだまする、彼女の言葉。それを聞いたのがまだおれで良かったと心底思うものの、聞きたくなかったという気持ちが湧いて仕方がない。
とある女子高生が死亡した、図書館付近で起きた交通事故。犯人がまだ捕まっていないと聞いているけど、そもそも捕まえられるわけがないとするなら、約一か月以上なにも進展がないというのもそれなりに理解が出来る。だが、いくらおれが幽霊が見えるからといって、容易には信用しがたいというものだ。そんなことが本当に起こり得るのかという疑問も勿論ある。でも、それだけではない。
――法律によって裁くことの出来る人間の仕業じゃないというのは、酷かもしれない。
「……なに?」
「あ、いや……」
少し、考えていることが顔に出てしまっていたのかも知れない。おれは、彼女の視線に気付くことが出来なかった。その僅かなおれの自意識が、若干の嫌気に晒される。
「中条さんは、逝邪って知ってる?」
気付けば、そんなことを口にしていた。
「逝邪……?」
「知り合いが探してるみたいなんだよね、その存在のこと。なんだっけな……」
幽霊よりももっと格が上で、でも悪霊とかいうのとはまた別のもの。いわゆる怨霊・悪霊という存在を送り出すためだけに存在していて、基本的に人を襲うことはしない。要約するとこんな感じだっただろうか。
中条さんは首を傾げたまま、ただおれの言葉を聞いていた。こんなことを彼女に話すつもりはなかったのだけれど、口が云うことを聞かないのだから仕方がない。
「知らないよね、こんな話」
おれも、知り合いから聞くまでは知らなかったし。そう付け加えると、彼女はこんな言葉を口にした。
「……わたしが会ったのは、その逝邪さんだったりするんでしょうか?」
そう問われたおれは、思わず足を止める。可能性が全くないというわけでもない、というところが、思考の妨げをした。
「あ、いや……でも、幽霊を送る? っていうのはわたし視てないですし、襲われてますから!」
一体何を弁解しているのか、彼女は大層な身振りで否定をした。彼女のいう通り、確かに逝邪という存在であると明確に言えるようなことは起きていない。どちらかと言えば逆だ。
でも、中条さんには言っていないことがひとつだけある。
"基本的に人を襲うことをしたらいけないんですけど、まあそう言われてるってだけで実際は多分違いますよね。人を襲うってだけなら、別に簡単ですし。"
その気を付けるという言葉にそこまでの信憑性が無いように感じるのは、多分彼女を取り巻く雰囲気の問題だろうから、余り突っ込まないことにする。と言っても少々心許ないのは確かなのだけれど、そこまで無鉄砲に動くタイプでもないだろう。……そうであることを、切に祈っておくことにする。
◇
(……やっぱり、言うべきだよな)
ここで言わなければ一体いつ言うのか。それくらい、条件は揃っていた。
「そういえばこの栞、まだ持ってたんだね」
「あ、はいっ。結局夏休みまで跨いでしまいました……」
まだおれの手元には、彼女が拾ったとしている栞が持たれている。
「言い忘れてたっていうか、言いにくかったっていうか……。とにかく、中条さんに言ってなかったことがあってね」
別に疚しいことがあるわけではないのに、少し間が空いてしまったことによってまるで疚しいことがあるかのような気分だ。
「この栞、おれに返してくれますか?」
こんなことなら、一番最初の彼女から栞のことを聞いた時にちゃんと言えばよかったのだ。最も、そう思ったからといって過去に戻ってどうのという考えには至らないわけだが。
「え、え……? ええっ?」
途端、彼女の目が丸くなった。その無垢で純粋な硝子玉に、おれはどういう風に映っているのか。少し気になるところだ。
「せ、先輩のなんですか、これ……?」
「まあ、一応ね。作ったのはおれの姉さんだけど」
いかにも正当なことを言っているように見えるかも知れないけど、実際は彼女に嘘をついたわけだ。言わなければ決してバレなかったであろう小さな嘘だったのだろうが、知らない間に大きな事態になりかねない。今回のことがまさにそれだ。
おれは、とある衣類のポケットに指を差し込んだ。一見何も入ってなさそうに見えるが、そんなことはない。
「代わりに、っていうのもおかしな話だけど……はい」
そうしてとあるモノを彼女に向けると、彼女の惚けた顔が目に留まった。なんとも目まぐるしく変わる表情は、見ていて飽きがこない。
「持ち合わせがこれくらいしか無かったから、気にいるかは保障出来ないけど」
どっちが新しいかと聞かれると困るくらいに、もうずっと衣類のポケットの中に入っていたのは、姉さんが作ったもうひとつと栞である。彼女が持っている栞との違いは、強いていうなら花真ん中に納められている名前の分からない小さな花くらいだろう。拓真がこの場に居たら、もしかしたらすぐに答えを教えてくれるのかも知れないが。
「で、でもそれだと返す意味が……」
「意味なんてどうでもいいよ」
きっぱりと、おれはそう口にした。
「それに、これが危ない状況を教えてくれるってことがよく分かったから」
果たして、おれの言ったことが本当なのかは分からない。もしかしたらこの逆で、栞を持っていたからこういう状況になったのかも知れない。
「持っててくれた方が、嬉しいかな」
これを口にしなかったのも、きっと嘘に含まれるのだろう。
「えっと……あ、ありがとうございます……」
少し押し売りのようになってしまっただろうか? 彼女は、おれがポケットから取り出したほうの栞をゆっくりと手に取った。まじまじとおれのことを見つめていた時間が終わってしまったのは少し惜しいようなそんな気がしたが、恐らくは気のせいだろう。
「……ついでに送っていこうか?」
「だ、だだだ大丈夫ですっ! ひとりで元気に帰れます!」
「そ、そう?」
元気に否定されたお陰で、これ以上のことを口には出来なくなってしまった。元気なら何よりではあるのだけれど、可能であるなら送りたい気持ちが強い。
――交通事故には、細心の注意を。そう、諄いくらいに言いたくなってしまいそうになるのを、ここに来るまで必死に抑えている。
まさか別れた後でどこかに寄り道をするようなタイプでもないだろう。……そうであることを、切に祈っておくことにした。
「あの、ひとつだけ……いいですか?」
「なに?」
一体何に躊躇しているのか、口籠りながら目を泳がせはじめた。
「先輩の恰好が、ずっと気になってたんですけど……」
「ああ、これ?」
彼女が気にしていたのは、おれの恰好だった。上は学校からそのまんまワイシャツなのだけれど、多分、気になっているのはその上にかかっているモノのことを言っているのだろう。
「家の手伝い。抜け出して来たんだよね」
灰から黒に切り替わったズボンと、深緑の肩に掛けるタイプのエプロンは、彼女にはどう見えているのだろうか? 今までとは違う、しかも私服ではない格好をしているなんていうのはおれからしてみれば別に特別なことではないが、周りからしてみたらきっと違うのだろう。
僅かな沈黙の中、毛先が揺れる程度の風が吹く。
「はっ……あ、えっと……わたしはこれで! し、失礼しますっ!」
急に我に返ったのか、言うだけ言って背を向けた彼女の行動はとても早かった。おれが声を発するよりも前に、彼女との距離は優に数十メートルを越えている。これで二度目のことだ。
「……逃げなくてもいいのにね」
一体誰に言っているのか、それでも自然と笑みが零れる。おれの言葉は、そのまま夕の空に溶けた。
◇
どこかの誰かが言っていた、逝邪という言葉。そういえば調べることをしていなかったけど、本当にそんな話が出回っているのだろうか? あの話を聞いたときは疑問に思っていたはずなのに、すっかり頭から抜けてしまっていた。
「んー……」
普段は余り聞くことのないキーボードを叩く音が、静かな部屋に反響している。おれは今、ネットの海を徘徊していた。この類いの、いわゆる都市伝説のようなものはネット上ではかなり多いだろうと推察していたから特別驚くことはしなかったけど、幽霊や呪いといったオカルト寄りのモノや、アニメやゲームのそれを含めると、正直なところもう手がつけられない。
どうやら都市伝説とオカルトはよく一緒の括りにされることが多いらしく、目的を持って何かを探している場合には殆どの情報がただの足枷にしかならないのだけれど……。
「都市伝説って言うよりはオカルトに近いだろうけど、だからと言ってこういうのばっかり調べるのもなあ……」
ネットではわりと言われてますよ? なんていう誰かの言葉を取りあえず信じてみたはいいものの、肝心の逝邪という類いの単語がひとつも出てこないなんてあるのだろうか? ただの出任せだったのか?
「逝邪、ねぇ……」
いや、恐らくは違うと思う。あれだけ簡単に長文を並べるには、それ相応の下調べと知識が必要になる。その場で適当に考えたというには、余りに無理があるというものだ。
「黒い靄……いや、影じゃないんだよな……。もっとこう、ヒトガタの……それじゃ影か。んん……」
それに彼の言うことが本当だとするのなら、それをおれと中条さんが視たモノが多少異なるという点が気になるのだ。おれはただ単に、黒いヒトガタの何かを視たというだけ。でも中条さんの場合はそれとも少し違う。人間の姿をちゃんと確立させていて、それでもなお黒い靄を纏っていたらしいのだ。
こうしてふたつの事象を並べてみると同じ存在ではないのかも知れないという気はするのだが、かと言って決定的な証拠もない。考えあぐねてしまう理由のひとつとしては、中条さんはそれに襲われているというところが大きいだろう。その次に出会った時にそうならなかったのが幸いとでも言えばいいのか、それでも悠長なことを言える状況でもない。
「……直接聞くのが早いか」
聞いたところで教えてくれるとは到底思えないけど、せめておれらが視たそれらが逝邪だったのかくらいの検討をつけないと、先に進まない。そう思うのが早いか否か、おれはパソコンに背を向けていた。
◇
この時期、ようやく過ごしやすい気温になりつつあるお陰で、通り過ぎる生徒の服装はすっかり秋模様だ。この学校の制服の上着が秋を連想させる色味というのもあるだろう。こういった感覚も今年で終わるというのをたまに忘れそうになってしまうのは、それくらい学生という時期を当然のように過ごしていたからなのかもしれない。
図書室の入り口で中を除いていた橋下 香という人物は、何かの気配を察したのか後ろを振り向いた。
「あ、先輩だ」
「……そんなところで何してるの?」
「いや、今日は先輩たち来るのかなぁと思って」
どうもばつが悪いというような空気を感じたのか、橋下君はおれの顔をまともに見てはくれない。
「……今日はひとりなんですね」
「お互いさまでしょ」
「そうでした」
お互いひとりでここに来たということについて、これ以上口を挟むことはしなかった。
「……入らないの?」
「先輩こそ」
ここまで相手を探りながら話をするというのも久しぶりだが、別におれ自身に疚しいことがあるわけではない。橋下君がどうはかまるで見当がつかないが。
「暇なら、少し雑談に付き合ってよ」
「雑談ですか? 別にいいですけど、宇栄原先輩がそういうこと言うなんて珍しいですね」
「ちょうど君に聞きたいことがあったからさ」
「えぇ? じゃあ帰ろうかな……」
「はいはい、邪魔だからそういうのは中入ってから考えて」
彼が軽口を叩くのはいつものことで、それに対しては別にどうとも思わない。いや、思わなくなったというのが本当のところだろう。それくらい慣れてしまったということだ。少し強引に背中を押し、彼と共に図書室に入る。少し不服そうな橋下君ではあったが、だからといって本当に帰る素振りをするわけでもなかった。
少し奥のテーブルを適当に探し、テーブルを反した向かいの椅子を陣取る橋下君を視界に入れながら、各々のタイミングで椅子に着く。
「……で、聞きたいことってなんですか?」
早速口を開いたのは、おれではなく彼のほうだった。欲を言うなら、本当にこの話をするべきなのかという部分についてもう少し考えたいものだが、そうもいかない。
「逝邪って、本当にいるのかなって思って」
というより、ここに至るまでこの話をまともに聞くタイミングがなかったという方が問題だ。それに、十分過ぎるほど時間は経っているのだから今更考えるも何もないだろう。
「いるんじゃないですかね? オレは詳しく知らないですけど」
この期に及んで、詳しくは知らないという彼の言葉を容易に鵜呑みにするのは流石に出来ない。あそこまでスラスラと逝邪という存在を口にすることが出来たというのに、はいそうですかと信じるには値しないだろう。
「……じゃあまあ、いいや。その逝邪って単語、何処で知ったの? 君の言うネットってやつで調べたけど、そんなの何処にも書いてなかったから」
「あー、調べちゃったんですね。で、ネットで拾ったっていうのが嘘だって知って、わざわざ聞きに来たってことですか」
参ったなぁと、腕を組みながら目のやり場に困っているところを見るに、何か知られたくはない部分が含まれているというのが伺える。それすらも嘘、というのは流石に考えたくはない。
おれだって、出来ることなら無闇やたらに疑うという行為は極力避けたいとは思ってる。
「逝邪本人に聞いた……とかだったら、どうします?」
それなのに、この人物はすぐに軽口を叩いてくるのだ。
「……こういうの、本来なら先輩の方が詳しいはずなのに。持ち腐れですね」
この時に彼が溢した言葉を、おれはまともに拾ってやることが出来なかった。
「本当にそれに関しては無知で、興味がなくて必要としてないんだったら、オレが欲しいくらいですよ」
感情を潜めた笑顔の底に一体何を隠しているのか。それを知るには、どうしても胆力が必要だったのだ。
「逝邪の情報が気になるっていうことは、さては会いましたね?」
「会ってはない。気になることが増えただけ」
「気になることですか、なるほどねぇ……」
僅か、ほんの少し納得がいかない。彼はそういった単語を言いたげに見えたけれど、その類の言葉は口にはせずに思案を重ねていく。おれの質問に答えるにあたって言いたくないことでも含まれているのか、それともおれだから言いたくないという唸りなのだろうか? どちらにしても大した違いではないのだけれど、やっぱり少し気になってしまう。
「逝邪が居るっていうのは嘘じゃないですよ? 逝邪本人から聞いたっていうのも本当です」
横を通っていく知らない生徒が通り過ぎるのを待って、彼はそう言った。
「その逝邪って存在、どうして橋下君は知ってるの?」
「え? ああ……。昔、死にかけた時に助けてくれたことがあったんですよね」
思わず聞き逃してしまいそうになるほどにさらりと述べられる言葉に、おれの時間が些か狂ったような感覚に陥った。
「……逝邪って、不思議なんですよ」
しかしおれの言葉を待つなんてことは、この人物はしない。
「人間から見て敵とか味方とかそういう概念が通用するわけでもなくて、かといって幽霊の味方かっていうとそれも違う。傍観してるだけかと思った側から現れるんですよ」
面倒だし、意味わからないですよね。最後にそう付け足した彼の言葉は、どこか第三者目線からものを言っているかのように淡々としていた。
「この前……橋下君が逝邪の話をした時だけど、その時は教えてくれなかったよね? 理由はあるの?」
「神崎先輩が居たからっていうのが半分」
更に彼は、続けてこう言った。
「もう半分は、単純に言いたくなかったからですかね」
「……どうして?」
「嫌いなんですよ。その逝邪っていうの」
今までよりも一段にハッキリと答えた彼の目に、どうやらおれは映っていないらしい。
「……あの黒いヒトガタの、おれらが視たやつ。あれは逝邪じゃないんだよね?」
「そうですね。あれが何なのかっていうのは、オレもあんまり詳しくないんですけど、多分逝邪と対の存在ですよね。幽霊って感じじゃないですし」
話を聞く限りで言うのなら、橋下君の言う通りあの存在が対のモノであると言って差し支えはないのだろう。逝邪自体の悪い情報が無いということくらいでしか今は判断出来ないが、それはそれ、ということにしておくことにする。
不確定な要素が多いからといって、定義をしないというのは悪手極まりないのだ。
「最近は、その黒いのに会った?」
「ここ最近は視てないですね」
「そう……」
「疑ってますか?」
「まだ何も言ってないでしょ。それに疑ってない」
「ならいいんですけど」
「……そんなに信用ない?」
「逆ですよ逆。いつも適当なことしか言ってないオレのこと、どこまで信用してくれるのかなって」
しかし、今日の彼は少し様子がおかしい。拓真と相谷くんがいないからなのだろうか?
「出来ることなら、全部信用して帰ってくださいね」
ふいに見せるこの誰に向けているかの分からない笑みは、時々おれを不安にさせる。
「なにかあった?」
そのお陰で、気付けばそんなことを口にしてしまっていた。
「……どうしてですか?」
「いや……」
「オレは大丈夫ですよ」
でも、それでも彼は否定をする。
「大丈夫なんです」
笑みを浮かべながらも、その目はどこか遠くを見据えている。そんな気がしたにも関わらず、おれはこの時それ以上のことを聞くに至らなかった。
「……先輩の気になること、全部解消されました?」
「え? ああ、まぁ……」
「オレから言えるのはこれくらいですかねぇ。真面目な話したら疲れましたよー」
それが、この一連の流れにおいて最大の汚点と言っていいだろう。
「ほかに何にも無いんだったらオレ帰りますけど。先輩はまだ居るんですか?」
この時、おれは一体どういう返事をしたのかは覚えていない。
「じゃあ先輩、また今度」
だが、彼がおれを置いて席を立ったということはそれが答えなのだろう。
少し、感覚が麻痺していたのだ。前まではこんなことを人前で話すことはなかったはずなのに、それが今はどうだ? いつからそうなったのかを思い出すことが出来ないというのは、どうにも煩わしい。
ゆっくりと、徐々に、少しずつ。こうして感覚は麻痺していくのだと痛感するには、まだ至っていない。
彼が口にした「また今度」という言葉。それに一体どれほどの重みがあったのか? そんなことは、今もこれから先も知りたくなんてないというものだ。