学校に訪れるいつもの放課後。おれは、教室を抜けて図書室へと歩みを進めていた。今日は、特別拓真達と約束をしているとかそういう訳ではない。いや、元々約束なんてしたことは一度もないのだから、気にする必要なんて全くないのだけれど。
おれが図書室に来る日は委員会の仕事がある時くらいで、それに拓真が足を運んで、更にそこに橋下君達が勝手に来ているだけだから、今日は多分誰も来ないんじゃないかと思う。というより、居られると困るからわざわざ皆が来ないであろう日を選んできたのだ。
「さて、どうしようかな……」
但し、それは別に何かを隠そうとしているとか、見られたくないものがあったという訳ではない。ただ単に、知り合いが居ない空間の中ひとりで探し物をしたいというだけの話だ。
別に無くても構わないし、家に山ほどあると言えばそうなのだけれど、ずっと手にしていたモノがある日突然失くなってしまうというのは、何とも気分が落ち着かない。それが手元から落ちていったのは、今向かっている先にある図書室であるというのは、何となく分かっている。というよりも、あの場所以外で無くすというのは考えられないのだ。
そろそろ空気がこもり始める廊下の中、僅かにシャツを湿らせる汗に気付くことは無く、おれは図書室の扉を開ける。早々に中に入り一帯を確認をしたが、どうやら読み通り知り合いはいないらしい。
取り合えずおれが向かった先は、恐らく無くしたであろう時に座っていた場所。特別どことは決まっていないものの、来る頻度が高ければどの辺りに座るかくらいは示しがつく。
机の上は勿論、椅子の下に近くの本棚の隙間まで確認したが、収穫は無かった。
「やっぱりないか……」
さっき、確かにおれは別に無くても困りはしないと思った。そう、そうなのだ。別におれは困りはしない。
「あ……」
それを持った人の見に起こるかも知れないことを危惧している、ただそれだけだ。
「こんにちは」
「わああっ……!」
屈んでいたおれのことに気付いていなかったらしいとある女子生徒は、驚きの声を見せる。
おれを目にした途端明らかに挙動不審になった人物は、この前一瞬だけ姿を見かけた女子生徒。ゲーセンの帰り、おれが駆けつけた場所にいた人物だ。
「この前は逃げられちゃったから、これがちゃんとしたはじめましてだね」
「に、逃げたというか……」
あの時、声をかけようとしたら猛スピードで逃げて行ってしまったから、話をするというのはこれがはじめてだと思う。
「まあそれは別にいいんだけど、ちょっと聞いてもいい?」
別に彼女に用があった訳じゃないのだけれど、聞きたいことなら幾らか持ち合わせている。
「あの時、黒い靄みたいなの見たでしょ?」
いつもなら絶対に言わないであろう事象を、単刀直入に口にする。普通だったら、怪訝な顔をされることはまず違いないのだが、彼女の瞳は刺すようにおれを捉え始めていた。
「どうして、そんなこと聞くんですか……?」
「んー……。どうしてって言われると困るんだけど」
ない、とここでハッキリと否定しない辺り、どうやら全く検討違いという訳では無かったらしい。普通だったら「何を言ってるんだコイツは」みたいな目で見られても可笑しくないし、なんだったらナンパと捉えられてもおかしくない状況なのだから無視されてもいいくらいだ。
「それを知ってそうな人はいるんだけど、教えてくれそうにないんだよね」
なのに、それは起こらなかった。ともすれば、ここで引き下がるなんてことをするわけがない。
「もし視たんだったら、教えて欲しいな」
「で、でも……」
それだけ言うと、彼女の視線が手持ちの本に落ちる。でも、という言葉を使うということは、知っているけど言うのは憚られるということなのだろうか?
「黒いのだけじゃ、なかったですよ……?」
「……え?」
――否、それともまた違う類いのモノのようだ。
◇
「……その高校生、違う制服だったんだよね?」
「は、はい……」
彼女から聞いたことは、自分が知っていることと、知らないことの折り合わせがかなり悪いものだった。これに関しては別に彼女が悪いわけではないし特別疑っているわけでもないのだが、全てのことが本当だとするなら余りにも非現実的だ。
黒い靄のようなモノが街を彷徨っていたこと、それが何故か彼女を追いはじめたこと、気付けば辺りには誰も居なくなっていたかと思えば、途端ひとりの男が姿を現したこと。その男というのが、どうやら靄を操っていたということ。
「他に何か覚えてない? 特徴的だったこととか」
「う、ううん……」
後半全ての事柄が、規格外だった。
いや、元々幽霊が見えるということ自体がおかしいのだが、それにしても馴染みのない現象ばかりで想像することが難しい。
自分の目で視ていないからこそ、少々思考が浮足立っているというのもある。もう少し早くあの場所に居たのなら、お目にかかれた可能性はあったのだろうか? それとも、おれがあの場所に行ったから消えたのか?
「じゃあ、いつもと違うこととかなかった? そういうのが急に誰かを襲うって、あんまり起こることじゃ無いと思うんだけど」
「いつもと違うこと……?」
そう口にした彼女は、首を傾げて思考を巡らせる。瞬間、目を見開いたかと思えば焦ったように口を走らせる。
「そ、そうです! 鞄が光って……っ!」
「鞄……?」
隣の椅子に置いてあった自身の鞄のファスナーを開け、中身を掻きまわす音がする。少し思っていたのだけれど、別に急がなくても誰も何も言わないのだからもう少し落ち着いてほしいものだ。
「こ、これです多分!」
彼女がおれに差し出してきたのは、ひとつの栞。花の押し花が入った、手作りのものだ。それを見て、おれは目を疑った。
「……君のじゃないの?」
「学校の図書室に落ちてて……。この前ここに来た時に、わたしの後ろの席にいた人だと思うんですけど」
「ふうん……」
一体何を納得したのか、おれの口からはそんな適当な相槌が零れていく。
「見つかるといいね、その人」
それ以上の言葉を、おれは口にはしなかった。
「は、はい……っ!」
すると、相手から元気な声が返ってきてしまう。こういう反応をされると、いかに自分が浅ましい人間かがよく分かるというものだ。
「あのっ」
少し上擦った声を特別気にすることもなく、彼女は言葉を続けていった。
「お名前、聞いてもいいですか?」
「……宇栄原 渉だよ。君は?」
「え?」
「いやだから、名前」
「ああっ、えーっと……。中条 桃花(なかじょう とうか)です」
「中条さん、ね。うん、覚えた」
おれは、彼女の名前を忘れないようにしようと言わんばかりに噛み締めた。一応覚えておかないと、後で何かあっても困る。そんな単純な思考から出た言動だったが、果たして本当にそれだけだったのかというところに関しては、正直自身がない。
「あと、さっきから気になってたんだけど」
気の重い話は、出来れば余り長く話していたくはない。そんな思いが、おれの口を動かした。
「な、なんでしょう?」
何故か少し警戒されてしまったが、構わずにおれは言葉を続けた。
「それって確か五年前くらいに出たやつだよね? 好きなの?」
「え? ああっ……えーっと……」
ずっと机の上に置かれていたひとつの小説が、最初から気になって仕方がなかったのだ。
「この人の話が好きで……」
「その人のは何冊かは読んだことあった気がするけど、それは読んだことないな……。ここのだよね?」
「あ、はいっ」
「それなら、中条さんが読み終わったらおれが借りようかな」
おれがそうやっていうと、中条さんは目を泳がせた。何かを言おうかどうしようか、そんな感じのことを考えていそうだったから、口を挟んだりという邪魔なことはしない。
「あのっ、良ければお貸ししますけど……?」
「え? だって、まだ読んでるんじゃないの? それ学校のでしょ?」
「あ、いや……」
僅かに眉を落とし、口にするのを少し躊躇いつつも彼女は再び口を動かしていく。
「これ、わたし持ってたみたいで……」
家に帰ったらおんなじのがあって、驚きました。その言葉に、少しおれの思考が止まる。そうやって言う中条さんは、別に悪くはないのに何となくばつが悪そうに笑みを浮かべた。
「じゃあ、お言葉に甘えて借りようかな」
「そ、そしたらすぐ返しにいきますね! 今すぐに!」
「いや別に、そんなに急がなくても……」
おれの言葉を全部聞くよりも前に、中条さんは図書室の受付に一直線だった。先ほどから少し慌ただしい様子が目立つのは、話していた内容が内容で、かつ会ってから間もないからなのか、それとも元からそういう性格なのかはまだ分からない。出来れば前者であってほしいと思ったのは内緒だ。
「お待たせしましたぁ」
そう言って、彼女はさっきと同じ本をおれに手渡した。一応感謝の言葉を口にして、おれはそれを受け取っていく。
赤に染まる彼女の笑顔。それを見た時、どうしてかおれは浮き足立ってしまったのだからひとのことは余り言える立場ではないだろう。この時感じたこれが、果たしてどういう感情に不随するものだったのかは置いておくとして、気づけばおれは顔を綻ばせていた。しかも、あろうことかこの本を読み終わったら感想言うね、などと約束までしてしまった。これはとんだ失態だ。
このことは、拓真にも言っていない内緒の話。あれだけ人のことを茶化しておきながら、こんなことがあったと誰かに言うことをしなかったのは、きっと、おれの知らないところで別の感情が蠢いていたという確証がどこかにあったからだと思う。
これはバレたら拓真のことどうこう言えないな、などと悠長なことを思えていた、数少ない出来事だったと言って差支えは無いだろう。
◇
「先輩、考え事ですか?」
橋下くんに言われてはじめて気付くということは、恐らくおれは本当に上の空だったのだろう。
「……なんで?」
「いやだって、さっきから本読んでるふりして読んでないじゃないですか」
確かに、今日図書室に来てからというもの、手に持たれた本は僅かにわずかに数ページしか進んでいない。その数ページすら、何が書かれていたのかを思い出せないくらいだ。
「まあなんか……。色々あってね」
正確には、ここ最近一日ずっとこんな感じなのだけれど。
「色々って?」
「……そこ聞く?」
「オレは聞きますけど」
考えているのは、当然中条さんが対面した存在のことについてだ。思考を巡らせたところでおれは会っていないのだから答えなんて出ないのだけれど、聞きたいと言ったおれもおれだから考えざるを得ないというものだろう。
さて、この橋下君の質問におれはどう答えるのが正解なのだろうか。相手が相手なだけに余り適当なことを言うと後で困るのはおれ自身だし、かといって馬鹿正直に言える話でもない。相谷君がいるとなると尚更だ。
「この前、困ってる人がいたから話を聞いたんだけど、もう何もなければいいなって思ってただけ」
「ふうん……。この学校の人ってことですか?」
「まあね」
「あー、分かりましたよオレ。あのー、あれがあれしてああなったってことですね?」
「何を言ってるか全然分からないけど、まあ多分想像してることで合ってるよ」
本当に通じているのかどうかは置いておくとして、極力嘘はつかない方向で、かつ簡潔にことを述べる。というより、よく考えたら相谷君が居ようが居まいがこう答えていたんじゃないだろうか。正直に答えてしまった暁には橋下君は一層喧しくなるだろうし、拓真は絶対怒るだろう。
「うーん、それだけですか?」
「それだけだけど。……どういう意味?」
「いや、彼女じゃないんですよね?」
「違うよ。大体、性別の話はしてないんだけど」
「そりゃそうですけど、なんかあやしー」
果たして橋下君はどこに引っ掛かったのか、どうも変な解釈をされてしまったようで、疑いの眼差しを向けてくる。それが果たして演技なのかどうなのか、彼の場合は分かりづらいし、どうしてそんな発想になるのだろうか?
「……なに?」
何かを言いたそうな拓真からの熱い視線に、おれは問いを投げ掛ける他なかった。
「いや、違うのかと思って」
「拓真まで疑ってるの? というか、すぐそういう発想になるのもどうかと思うんだけど」
「いやいや、オレだってただ話してるだけだったら何とも思いませんよ? でもなんか……」
「なんか、なに?」
「いやー言ったら怒られるやつなので、これ以上は嫌です」
「言いなよ」
「こっわ……。べ、別に大したことじゃないですよ? 先輩って以外と分かりやすいなとか、そんなこと全然思ってないですからね?」
大変分かりやすく煽られた気がするが、そんなことは眼中にない。
「……おれが?」
分かりやすいと言われてしまったことに、今度はおれが疑問を隠せなかった。
「そうですよー。ねえ、相谷君?」
「ま、巻き込まないでください……」
迷惑そうに橋下君の言葉を突っぱねる相谷君だったが、いつもはそれ以上のことは口にしない彼が、再び言葉を並べ始めた。
「……栞、前のに戻ったんですね」
彼が注目したのは、机に置かれている本ではなく栞だった。その言葉に、一瞬心臓が跳ね上がったような気がした。いやまさか、相谷くんにそこを突っ込まれるとは思っていなかったのだ。誰にも言われなかったことを相谷くんに聞かれるというのは、流石に焦る。
「まあ、うん。無くしちゃったから、前のやつでいいかなって」
「そういえば、本も前と違いますね。読んでる途中じゃなかったでしたっけ?」
「感想を言わないといけなくなったから読んでるだけ」
「感想? 誰にですか?」
「別に誰だっていいでしょ」
「そうやってはぐらかす辺りが怪しいんですよー」
「分かったから声大きいって」
喧しい橋下君をけん制しつつ、かつ残りのふたりの視線を確認する。拓真はまだおれのことを視界に入れているようだが、相谷君はさも自分は関係ないといったように形だけの本のページを捲っている。だが、橋下君も観念したようで頬杖をつきながらぶつくさ何かを口にしている。相谷君がいる手前それはしないが、秘密にしていることなら橋下君の方が多そうだし、何ならそれを引き合いに出したって構わないくらいの勢いだ。
今の話を忘れてくれるよう、これから橋下君の機嫌をどう取るのが先決か。そんなことを考えていたら、気付けば本は既に閉じられていた。
◇
先日未明、図書館の近くで歩行者が車と接触し、女子高生一人が亡くなる事故がありました。発生したと思われる時刻、特別人通りが少なかった訳ではないにも関わらず目撃者はおらず、犯人の特定に至るまでの証拠が見つかっておりません。
また、反対側でも歩行者を含む交通事故が多発しており、同一の人物である可能性が考えられます。警察が警戒体制をとって巡回してはいるものの、各自事故付近を通らない、不審な車や人物がいたら警戒するなどの注意を怠らないように気を付けてください。何れの事故も犯人の目星が立っておらず、警察の捜査怠慢なのではないかと見解が――。
最近のニュースは、この類いの内容が多い。ここ数ヶ月、立て続けに起きている交通事故に気を付けろと言われても、モノには限界というものがある。それが例えば、この世に存在しないモノによるものであるならば尚更だ。
七月某日。これは、外の空気に負けて冷房がついていることが当たり前になっていたとある日のこと。恐らく、切っ掛けはこれよりも前に既にあったのだろう。けれど、目に見えて状況が一変したのは紛れもなくここからだと言っていい。
――出来ることなら、余り思い出したくはないものだ。
おれが図書室に来る日は委員会の仕事がある時くらいで、それに拓真が足を運んで、更にそこに橋下君達が勝手に来ているだけだから、今日は多分誰も来ないんじゃないかと思う。というより、居られると困るからわざわざ皆が来ないであろう日を選んできたのだ。
「さて、どうしようかな……」
但し、それは別に何かを隠そうとしているとか、見られたくないものがあったという訳ではない。ただ単に、知り合いが居ない空間の中ひとりで探し物をしたいというだけの話だ。
別に無くても構わないし、家に山ほどあると言えばそうなのだけれど、ずっと手にしていたモノがある日突然失くなってしまうというのは、何とも気分が落ち着かない。それが手元から落ちていったのは、今向かっている先にある図書室であるというのは、何となく分かっている。というよりも、あの場所以外で無くすというのは考えられないのだ。
そろそろ空気がこもり始める廊下の中、僅かにシャツを湿らせる汗に気付くことは無く、おれは図書室の扉を開ける。早々に中に入り一帯を確認をしたが、どうやら読み通り知り合いはいないらしい。
取り合えずおれが向かった先は、恐らく無くしたであろう時に座っていた場所。特別どことは決まっていないものの、来る頻度が高ければどの辺りに座るかくらいは示しがつく。
机の上は勿論、椅子の下に近くの本棚の隙間まで確認したが、収穫は無かった。
「やっぱりないか……」
さっき、確かにおれは別に無くても困りはしないと思った。そう、そうなのだ。別におれは困りはしない。
「あ……」
それを持った人の見に起こるかも知れないことを危惧している、ただそれだけだ。
「こんにちは」
「わああっ……!」
屈んでいたおれのことに気付いていなかったらしいとある女子生徒は、驚きの声を見せる。
おれを目にした途端明らかに挙動不審になった人物は、この前一瞬だけ姿を見かけた女子生徒。ゲーセンの帰り、おれが駆けつけた場所にいた人物だ。
「この前は逃げられちゃったから、これがちゃんとしたはじめましてだね」
「に、逃げたというか……」
あの時、声をかけようとしたら猛スピードで逃げて行ってしまったから、話をするというのはこれがはじめてだと思う。
「まあそれは別にいいんだけど、ちょっと聞いてもいい?」
別に彼女に用があった訳じゃないのだけれど、聞きたいことなら幾らか持ち合わせている。
「あの時、黒い靄みたいなの見たでしょ?」
いつもなら絶対に言わないであろう事象を、単刀直入に口にする。普通だったら、怪訝な顔をされることはまず違いないのだが、彼女の瞳は刺すようにおれを捉え始めていた。
「どうして、そんなこと聞くんですか……?」
「んー……。どうしてって言われると困るんだけど」
ない、とここでハッキリと否定しない辺り、どうやら全く検討違いという訳では無かったらしい。普通だったら「何を言ってるんだコイツは」みたいな目で見られても可笑しくないし、なんだったらナンパと捉えられてもおかしくない状況なのだから無視されてもいいくらいだ。
「それを知ってそうな人はいるんだけど、教えてくれそうにないんだよね」
なのに、それは起こらなかった。ともすれば、ここで引き下がるなんてことをするわけがない。
「もし視たんだったら、教えて欲しいな」
「で、でも……」
それだけ言うと、彼女の視線が手持ちの本に落ちる。でも、という言葉を使うということは、知っているけど言うのは憚られるということなのだろうか?
「黒いのだけじゃ、なかったですよ……?」
「……え?」
――否、それともまた違う類いのモノのようだ。
◇
「……その高校生、違う制服だったんだよね?」
「は、はい……」
彼女から聞いたことは、自分が知っていることと、知らないことの折り合わせがかなり悪いものだった。これに関しては別に彼女が悪いわけではないし特別疑っているわけでもないのだが、全てのことが本当だとするなら余りにも非現実的だ。
黒い靄のようなモノが街を彷徨っていたこと、それが何故か彼女を追いはじめたこと、気付けば辺りには誰も居なくなっていたかと思えば、途端ひとりの男が姿を現したこと。その男というのが、どうやら靄を操っていたということ。
「他に何か覚えてない? 特徴的だったこととか」
「う、ううん……」
後半全ての事柄が、規格外だった。
いや、元々幽霊が見えるということ自体がおかしいのだが、それにしても馴染みのない現象ばかりで想像することが難しい。
自分の目で視ていないからこそ、少々思考が浮足立っているというのもある。もう少し早くあの場所に居たのなら、お目にかかれた可能性はあったのだろうか? それとも、おれがあの場所に行ったから消えたのか?
「じゃあ、いつもと違うこととかなかった? そういうのが急に誰かを襲うって、あんまり起こることじゃ無いと思うんだけど」
「いつもと違うこと……?」
そう口にした彼女は、首を傾げて思考を巡らせる。瞬間、目を見開いたかと思えば焦ったように口を走らせる。
「そ、そうです! 鞄が光って……っ!」
「鞄……?」
隣の椅子に置いてあった自身の鞄のファスナーを開け、中身を掻きまわす音がする。少し思っていたのだけれど、別に急がなくても誰も何も言わないのだからもう少し落ち着いてほしいものだ。
「こ、これです多分!」
彼女がおれに差し出してきたのは、ひとつの栞。花の押し花が入った、手作りのものだ。それを見て、おれは目を疑った。
「……君のじゃないの?」
「学校の図書室に落ちてて……。この前ここに来た時に、わたしの後ろの席にいた人だと思うんですけど」
「ふうん……」
一体何を納得したのか、おれの口からはそんな適当な相槌が零れていく。
「見つかるといいね、その人」
それ以上の言葉を、おれは口にはしなかった。
「は、はい……っ!」
すると、相手から元気な声が返ってきてしまう。こういう反応をされると、いかに自分が浅ましい人間かがよく分かるというものだ。
「あのっ」
少し上擦った声を特別気にすることもなく、彼女は言葉を続けていった。
「お名前、聞いてもいいですか?」
「……宇栄原 渉だよ。君は?」
「え?」
「いやだから、名前」
「ああっ、えーっと……。中条 桃花(なかじょう とうか)です」
「中条さん、ね。うん、覚えた」
おれは、彼女の名前を忘れないようにしようと言わんばかりに噛み締めた。一応覚えておかないと、後で何かあっても困る。そんな単純な思考から出た言動だったが、果たして本当にそれだけだったのかというところに関しては、正直自身がない。
「あと、さっきから気になってたんだけど」
気の重い話は、出来れば余り長く話していたくはない。そんな思いが、おれの口を動かした。
「な、なんでしょう?」
何故か少し警戒されてしまったが、構わずにおれは言葉を続けた。
「それって確か五年前くらいに出たやつだよね? 好きなの?」
「え? ああっ……えーっと……」
ずっと机の上に置かれていたひとつの小説が、最初から気になって仕方がなかったのだ。
「この人の話が好きで……」
「その人のは何冊かは読んだことあった気がするけど、それは読んだことないな……。ここのだよね?」
「あ、はいっ」
「それなら、中条さんが読み終わったらおれが借りようかな」
おれがそうやっていうと、中条さんは目を泳がせた。何かを言おうかどうしようか、そんな感じのことを考えていそうだったから、口を挟んだりという邪魔なことはしない。
「あのっ、良ければお貸ししますけど……?」
「え? だって、まだ読んでるんじゃないの? それ学校のでしょ?」
「あ、いや……」
僅かに眉を落とし、口にするのを少し躊躇いつつも彼女は再び口を動かしていく。
「これ、わたし持ってたみたいで……」
家に帰ったらおんなじのがあって、驚きました。その言葉に、少しおれの思考が止まる。そうやって言う中条さんは、別に悪くはないのに何となくばつが悪そうに笑みを浮かべた。
「じゃあ、お言葉に甘えて借りようかな」
「そ、そしたらすぐ返しにいきますね! 今すぐに!」
「いや別に、そんなに急がなくても……」
おれの言葉を全部聞くよりも前に、中条さんは図書室の受付に一直線だった。先ほどから少し慌ただしい様子が目立つのは、話していた内容が内容で、かつ会ってから間もないからなのか、それとも元からそういう性格なのかはまだ分からない。出来れば前者であってほしいと思ったのは内緒だ。
「お待たせしましたぁ」
そう言って、彼女はさっきと同じ本をおれに手渡した。一応感謝の言葉を口にして、おれはそれを受け取っていく。
赤に染まる彼女の笑顔。それを見た時、どうしてかおれは浮き足立ってしまったのだからひとのことは余り言える立場ではないだろう。この時感じたこれが、果たしてどういう感情に不随するものだったのかは置いておくとして、気づけばおれは顔を綻ばせていた。しかも、あろうことかこの本を読み終わったら感想言うね、などと約束までしてしまった。これはとんだ失態だ。
このことは、拓真にも言っていない内緒の話。あれだけ人のことを茶化しておきながら、こんなことがあったと誰かに言うことをしなかったのは、きっと、おれの知らないところで別の感情が蠢いていたという確証がどこかにあったからだと思う。
これはバレたら拓真のことどうこう言えないな、などと悠長なことを思えていた、数少ない出来事だったと言って差支えは無いだろう。
◇
「先輩、考え事ですか?」
橋下くんに言われてはじめて気付くということは、恐らくおれは本当に上の空だったのだろう。
「……なんで?」
「いやだって、さっきから本読んでるふりして読んでないじゃないですか」
確かに、今日図書室に来てからというもの、手に持たれた本は僅かにわずかに数ページしか進んでいない。その数ページすら、何が書かれていたのかを思い出せないくらいだ。
「まあなんか……。色々あってね」
正確には、ここ最近一日ずっとこんな感じなのだけれど。
「色々って?」
「……そこ聞く?」
「オレは聞きますけど」
考えているのは、当然中条さんが対面した存在のことについてだ。思考を巡らせたところでおれは会っていないのだから答えなんて出ないのだけれど、聞きたいと言ったおれもおれだから考えざるを得ないというものだろう。
さて、この橋下君の質問におれはどう答えるのが正解なのだろうか。相手が相手なだけに余り適当なことを言うと後で困るのはおれ自身だし、かといって馬鹿正直に言える話でもない。相谷君がいるとなると尚更だ。
「この前、困ってる人がいたから話を聞いたんだけど、もう何もなければいいなって思ってただけ」
「ふうん……。この学校の人ってことですか?」
「まあね」
「あー、分かりましたよオレ。あのー、あれがあれしてああなったってことですね?」
「何を言ってるか全然分からないけど、まあ多分想像してることで合ってるよ」
本当に通じているのかどうかは置いておくとして、極力嘘はつかない方向で、かつ簡潔にことを述べる。というより、よく考えたら相谷君が居ようが居まいがこう答えていたんじゃないだろうか。正直に答えてしまった暁には橋下君は一層喧しくなるだろうし、拓真は絶対怒るだろう。
「うーん、それだけですか?」
「それだけだけど。……どういう意味?」
「いや、彼女じゃないんですよね?」
「違うよ。大体、性別の話はしてないんだけど」
「そりゃそうですけど、なんかあやしー」
果たして橋下君はどこに引っ掛かったのか、どうも変な解釈をされてしまったようで、疑いの眼差しを向けてくる。それが果たして演技なのかどうなのか、彼の場合は分かりづらいし、どうしてそんな発想になるのだろうか?
「……なに?」
何かを言いたそうな拓真からの熱い視線に、おれは問いを投げ掛ける他なかった。
「いや、違うのかと思って」
「拓真まで疑ってるの? というか、すぐそういう発想になるのもどうかと思うんだけど」
「いやいや、オレだってただ話してるだけだったら何とも思いませんよ? でもなんか……」
「なんか、なに?」
「いやー言ったら怒られるやつなので、これ以上は嫌です」
「言いなよ」
「こっわ……。べ、別に大したことじゃないですよ? 先輩って以外と分かりやすいなとか、そんなこと全然思ってないですからね?」
大変分かりやすく煽られた気がするが、そんなことは眼中にない。
「……おれが?」
分かりやすいと言われてしまったことに、今度はおれが疑問を隠せなかった。
「そうですよー。ねえ、相谷君?」
「ま、巻き込まないでください……」
迷惑そうに橋下君の言葉を突っぱねる相谷君だったが、いつもはそれ以上のことは口にしない彼が、再び言葉を並べ始めた。
「……栞、前のに戻ったんですね」
彼が注目したのは、机に置かれている本ではなく栞だった。その言葉に、一瞬心臓が跳ね上がったような気がした。いやまさか、相谷くんにそこを突っ込まれるとは思っていなかったのだ。誰にも言われなかったことを相谷くんに聞かれるというのは、流石に焦る。
「まあ、うん。無くしちゃったから、前のやつでいいかなって」
「そういえば、本も前と違いますね。読んでる途中じゃなかったでしたっけ?」
「感想を言わないといけなくなったから読んでるだけ」
「感想? 誰にですか?」
「別に誰だっていいでしょ」
「そうやってはぐらかす辺りが怪しいんですよー」
「分かったから声大きいって」
喧しい橋下君をけん制しつつ、かつ残りのふたりの視線を確認する。拓真はまだおれのことを視界に入れているようだが、相谷君はさも自分は関係ないといったように形だけの本のページを捲っている。だが、橋下君も観念したようで頬杖をつきながらぶつくさ何かを口にしている。相谷君がいる手前それはしないが、秘密にしていることなら橋下君の方が多そうだし、何ならそれを引き合いに出したって構わないくらいの勢いだ。
今の話を忘れてくれるよう、これから橋下君の機嫌をどう取るのが先決か。そんなことを考えていたら、気付けば本は既に閉じられていた。
◇
先日未明、図書館の近くで歩行者が車と接触し、女子高生一人が亡くなる事故がありました。発生したと思われる時刻、特別人通りが少なかった訳ではないにも関わらず目撃者はおらず、犯人の特定に至るまでの証拠が見つかっておりません。
また、反対側でも歩行者を含む交通事故が多発しており、同一の人物である可能性が考えられます。警察が警戒体制をとって巡回してはいるものの、各自事故付近を通らない、不審な車や人物がいたら警戒するなどの注意を怠らないように気を付けてください。何れの事故も犯人の目星が立っておらず、警察の捜査怠慢なのではないかと見解が――。
最近のニュースは、この類いの内容が多い。ここ数ヶ月、立て続けに起きている交通事故に気を付けろと言われても、モノには限界というものがある。それが例えば、この世に存在しないモノによるものであるならば尚更だ。
七月某日。これは、外の空気に負けて冷房がついていることが当たり前になっていたとある日のこと。恐らく、切っ掛けはこれよりも前に既にあったのだろう。けれど、目に見えて状況が一変したのは紛れもなくここからだと言っていい。
――出来ることなら、余り思い出したくはないものだ。