16話:夕空に浮かぶ嘲笑


2024-08-15 11:24:43
文字サイズ
文字組
フォントゴシック体明朝体
「先輩、これ何に見えます?」
「なにこれ……。いやなにこれ、全然分かんないんだけど」
「えー、どう見たってウシさんじゃないですか」

 誰かの雑談が、わたしの耳に入ってくる。だからといって特別どうというわけではないのだけれど、図書室にしてはよく人の声が聞こえるなとは思ってしまった。

(これ……じゃないな。やっぱりないのかなあ……)

 わたしはひとり、本棚に向かいテーブルに背を向けて誰かの雑談を聞き流しながら本を探していた。本来なら学校の図書室と言えど静かなのが普通だと思うけど、どうやらこの学校に限ってははそうではないらしい。
 もしかしたらそれが煩わしいと思う人もいるかも知れないけど、わたしは図書館の静かな空気よりも、ある程度の雑談なら許容してくれる図書室が好きだから、これくらいの方が寧ろ有りがたい。

(あ、あった……。しかも目の前に……)

 わたしが探していたのは、とある作家のとある本。こういうの、本来なら書店に行って買うべきだとは思うのだけど、これだけはそうもいかなかった。その理由というのは至極単純で、とっくの昔に絶版となってしまっているものだったのだ。普通の本屋には売っていなかったから、図書室だったらあるかも知れないと僅かな望みをかけて、今日はじめて学校の図書室に足を運んだのだ。
 確かに図書館よりは本の数は少ないし、図書館の方がこれ意外にも読んでいない本は幾つもあったのだろう。でも、どうしても図書館に行く気にはなれなかった。
 あの少しでも音を立てたらいけないのではと思わせるほどの静寂に、知らない間にのまれてしまいそうになるのがわたしはどうにも苦手だったのだ。

「ウシって……。なんで描き慣れてないもの描こうとするかな。ウシってもっとこうさ……」

 サラサラと、何かにペンを走らせる音が後ろから聞こえてきた。わたしは、それを聞きながら自分の鞄が置いてある席に座った。場所でいうと、恐らく話をしている人たちに背を向けている状態だ。

「ちょっと先輩オレより下手じゃないですか? ウケる」
「いやそれは絶対ない。よく見なよ全然違うでしょ」
「いやいやこれはちょっと……待ってくださいこれはウケるっていうか駄目だ怒られる助けて」

 目的だった本を開いて、活字の波を目で追いながら思考を巡らせる。
 下手だと言われた人は、一体どんなウシさんを描いたのだろうか。などと勝手に想像してしまってはよくないということは分かっているけど、見えないからこそ考えてしまうというものだ。
 ……いや、どうだろう。そんなことを想像してしまうということは、ひょっとしたらそれとは別の何かがあるのかも知れない。

(楽しそうだなあ……)

 この時のわたしは、恐らく本の内容なんて頭には入ってはいなかっただろう。

「図書室もいいですけど、たまには何処か寄り道でもしません?」
「寄り道ねえ……。って言っても、この辺なんて寄れるようなところも無いでしょ」
「いや、そこら辺に沢山あるじゃないですか。別にドがつく田舎じゃないんですし」

 こんなところでひとり本を探しているわたしは、この隔離された校舎という空間の中誰かと話したことがあっただろうか? 気づけばそんなことを考えていた。
 そうは思うものの、多分全く人と会話をしていないということはあり得ないだろう。先生は置いておくとして、少なからず話す機会は存在しているはずだ。それは分かっているのだけれど、入学式が終わって約一か月たった今でも、わたしには所謂友達に値するような存在はまだいない。

「ゲーセンでも行きます?」
「……男四人で行ったところでって感じなんだけど」
「いや逆にですよ? 男四人だから面白いみたいな、そういうところあるじゃないですか」
「あのね、何でもかんでも逆って付ければ良いってもんじゃないでしょ」
「いや別にゲーセンはどうでもいいんですよ。あれですよあれ、女子がよく撮ってるやつ。あれやりましょうよ」
「えぇ……」
「いいじゃないですかー。オレ、あれやったこと無いんですよねぇ」
「おれもないけど。っていうか別に行きたくもない」

 誰かが話せば、また誰かがそれに対して何かを言う。その繰り返しだ。男四人と誰かが言ったのに、さっきからふたりの声しか聞こえてこない。何も発することをしない残りのふたりは一体何をしているのだろうか? そもそも、本当にいるのかも疑ってしまうくらいだ。

「そこのふたりもさ、抵抗するなら今のうちにしておいたほうが良……」

 そして、どういうわけか誰かの言葉が途中で止まる。

「お前上手いな……」
「そういう先輩は……画伯……」
「それは褒めてないよな?」

 ここでようやく、はじめて聞く知らない声を耳にした。多分、今までは聞こえてこなかった残りのふたりの声だ。

「全然聞いてない上に、知らない間に絵描き大会はじめてるね?」
「え、ちょっとふたりでイチャイチャしてるのズルくないですか? オレもやりたい」

 どうやら残りのふたりは、話を聞くことをしないで絵を描いていたらしい。多分落書きの類いだろうけど、ふたりは一体何を描いていたのだろうか? それはもう気になって仕方がない。
 だけど、どうやらそれを知ることは出来ないようだ。

「これはアレですね、ふたりに落書きしてもらえばいいってことですね。いや超名案じゃないですか?」
「落書き……?」
「あー……。まあ、人の話はちゃんと聞いておいた方がいいってことだね」
「じゃあ決まりってことで。早く行きましょ! 時間無くなっちゃいますし、オレの気が変わらないうちに一刻も早く!」
「お、おい馬鹿引っ張るなって……」
「……どこ行くんですか?」
「んー……ゲーセンらしいけど」
「ゲーセン……」

 ガタガタと、より一層音が響き渡ってくる。ひとりの男の人がゲーセンとだけ口にしたのが、少しだけ意地悪だなと思わなくもないけど、どうやら四人で本当に撮りに行くらしい。
 少し遠くの方から、図書室のものであろう扉の開閉音が聞こえてくる。すると、それがまるで何かの合図だったかのように辺りの空気が一変した。

(……急に静かになっちゃった)

 いや、恐らくこれが本来の図書室の在り方なんだと思う。それは分かっているけど、突然訪れた粛然に何となく落ち着かない気分になってしまうのは、これはもうどうしようもないものだった。

「あれ……?」

 その静かな空間の中、わたしはひとり声を漏らした。すぐ傍にある本棚の下、隙間から薄い何かが顔を出しているのが見えたのだ。身を少しだけ乗り出して分かったけど、それは本を読むという観点において必需品として挙げられるモノ。私は、席を外して棚に近付きそれに手を伸ばした。

「栞だ……」

 透明なフィルムに覆われたそれは見るからに手作りで、私には名前の分からない花があしらわれているものだ。今時、しかも高校になってこういうのを見るとは思わなくて感嘆と息を吐いてしまう。
 当然、わたしのモノではないというのは明白だ。

「どうしよう……」

 恐らくは他の生徒も数人は居るであろうこの空間の中、気付けば独り言ばかりを口にしてしまう。こういう時、仲のいい知り合いが近くに居たら良かったのに。そう思えば思うほど辺りが静寂に呑まれていくような、そんな気がした。


   ◇


 それからわたしは、果たしてどれくらいの時間を図書室で過ごしていたのかは覚えていない。でも日が落ちかけてしまっているということは、一時間くらいはあそこに留まっていたということは確かだろう。

「鞄、ちょっと重くなっちゃったな……」

 しかし、探していた本とは他に数冊気になる本があったせいで、わたしが想像していたよりも荷物が増えてしまったということが難点だった。
 見たい本があったとは言え、普段はそこまで本を読むことをしないのに少し調子に乗ってしまったかもしれないと後悔しつつ、肩にのし掛かる本の重みを感じながら、わたしは家までの帰路を歩いている。必然的に図書館のある方へと向かうことにはなるけど、だからと言ってそこにたどり着くことはない。そこまで近いわけでもないし、というより、今行ったら多分途中で力尽きると思う。

「結局、栞持って帰ってきちゃった……」

 図書室で見つけた栞。それは今、わたしの鞄の中で静かに佇んでいる。本当ならカウンターにいる人に預けてもよかったし、そうするべきだったのだけれど、如何せんわたしの口がそれを拒んでしまった。
 目的の本があったということと、自分のモノでもない栞を持ち帰ってしまったこと。嬉しさと罪悪感が共存するとこうも居たたまれない心持になってしまうのかと思うと、やっぱり後悔の方が大きくなっていく。最早自分でもよく分からなかった。

「……ん?」

 だから、恐らく視える人間に限りがあるのであろうモノに出会いたくなんて無かったというのが、この時の本音だ。

(久し振りに視ちゃった……)

 向かいの歩道。道路を挟んだところにある小路に、黒い何かが潜んでいるのがハッキリと視えてしまった。幽霊という捉え方が一番分かりやすいだろう。
 だが、幽霊というのとはちょっと違う何かであるというのはすぐに理解が出来た。だから、余計視えないフリをしたかったのだ。
 どういうわけか幽霊は何回か見たことあるけど、形があるのかないのかも分からないような黒いそれを視るのははじめてだった。
 それが何なのかは全然分からないけど、どうやら周りの人たちは気づいていないみたいだ。いわゆる、視える人には視えるという状況だろう。こういうのはまわりと同じく気付いていないふりをして見ない方が吉。向こうがわたしが視えると認識してしまったら、付きまとわれるのなんて分かっている。それで後悔する目には何度かあってきたのだ。
 幸いといえばいいのか、それはわたしの向かう方向にはいないし、そもそもあれが何なのかもよく分からないし、運が良ければこのまま素通り出来るかもしれない。
 あくまでも、運が良ければの話だけれど。

(な、なんか動いてない? 考えすぎか……)

 絶対に振り向かないと心に決めてすぐのことだ。その何かを通りすぎた筈なのに、どんなに歩いてもその黒いモノが視界の隅にくっついて離れなかったのだ。
 一瞬思考が追い付かなくなりそうだったけど、もしかして気付かれてしまったのだろうか? 全く見覚えのない何かに気付かれるというのは、さながら幽霊を視たときよりも嫌な気配に晒される。
 この時、わたしは自分の鼓動を聞くことに精一杯で、辺りはいつの間にか静まり返っているということに気付かなかった。

(走ったら振りきれたりしないかな……。いや、それはそれで私が気付いてるってことがバレる気が……)

 例えばの話、家にまでついてこられるとかなり困るし、もし本当についてきているのだとしたら、どうにかして帰ってもらいたい。ただ、こういう場合において、相手が気付いていないというのはごく稀な出来事であるということを、経験上わたしは知っていた。

「……あれ?」

 何となく違和感を覚えたわたしは、思わず足を止めた。
 いつもと同じ景色の筈なのに、いつもと違う。何処が違うのかと問われたら解答に困るけれど、まるで誰も住んでいないかのような静寂がそこにはあった。
 あれだけ振り向かないと決めた筈なのに咄嗟に振り返ってしまったその先、得体の知れない黒い何かはそこにいなかった。しかしそれだけではなく、さっきまでいたはずの知らない人達の姿すら何処にもいない。わたしは少し早足で歩いていた道に戻った。
 この時間ならある程度の環境音が聞こえてくるはずなのに、わたしの耳には一向に何も入ってこない。唯一これが現実であるということの象徴のように、卑しく感じる生温い風が辺りを纏っていた。
 これはもう、気付かれていないなんて悠長なことは到底言えないと捉えていいだろう。存在の知れない何かによって、わたしは迷わされている。相手が視えると判断したのか、完全に遊ばれているのだ。
 運が良ければ助かるかもね? とでも言いたげな風が、わたしの両端を走る。自然と心拍数が上がっていくのが、嫌になるほど分かった。普段ならそれと同時に聞こえているのであろう葉の擦れる音なんてものは、わたしの耳に一切届いてこない。

『なにか探し物?』

 変わりに聞こえたのは、知らない誰かの声だ。
 周りには誰もいなかったはずなのに、僅か数ミリにも満たないほどの距離で囁かれたようで、一気に背筋から悪寒が広がった。
 わたしは急いで後ろから聞こえてきたそれを振りほどくようにして、咄嗟の勢いで誰かから距離をとった。荒く響く自身の息が、ようやく耳に入った。

「向こう。俺を越えたその先まで行けば、もしかしたら出られるかもね?」

 ほんの数歩で縮まってしまうであろう距離にいるのは、悪戯に笑う男の人だ。
 夕陽が造り出す逆光のせいだろうか? どうしてか、人を確実に嘲笑っているようにも見えるそれ。すぐ側にいるというだけなのに、胸の奥底にある何かを掴まれているかのような感覚に苛まれる。

「でも、ただ視えるだけのお嬢さんが俺を越えるっていうのは無理かなぁなんて思ってるんだけど、どう思う?」

 とある制服を纏っただけの男子生徒が、そこに居るというだけの話なのに。

「俺は、君の意見が聞きたいな」

 いや、ただの男子生徒と言うにはかなり無理があった。本当にただの男子生徒がわたしをからかっているだけだったら、恐らくはまだマシだったのだろう。

「ゆ、幽霊……?」
「まあ確かに、有り体に言えばそうかも知れないね。でも今は、そういう話をする時間すらも惜しい」

 まるでその人の声に反応するように、黒い靄がゆらりと動きをつける。目の前にいる人物が一体何を口にしているのかという部分に関しては、この際気にしている暇はない。少なからず言えるのは、この人の言う通り逃げる術なんて何処にもないということだ。
 わたしは、何かに縋るようにして自分の鞄を強く握りしめていた。

「少しだけ俺と遊ぼうよ、迷子のお嬢さん?」

 まるで子供のように無垢な笑顔で一言、そう口にする誰かの声がわたしの何かを突き刺した。


   ◇


 生温かった辺りを漂う異様な風がわたしの横を通りすぎたのは、存外すぐのことだった。いや、きっとその時に感じたモノも正確には風ではなかったのかも知れない。
 わたしが何かしらの行動を起こすよりも前に、夕の悪戯で紅く染まっていた景色が一瞬にして黒く染まる。この時何が起きたのかは、具体的にはよく分からない。誰かの廻りを漂っていた黒い粒子のような何かが、まるで意思を持っているかのようにして迫ってきたのだ。
 嗚咽を漏らしてしまうのを必死に抑えるように、無意識的に手で口を覆ってしまう。どうしてか息が出来なくなってしまうような息苦しさと、何かが細胞という細胞を掻き分けながら、わたしという枠の中に存在する、深い底にある見えない何かを探して身体に滲んでいくような感覚がわたしをそうさせたのだ。
 と言っても、その見えない何かというのが果たして何なのかというのは、自分でもよく分からない。でも、廻り一帯が不確定なモノを躍起になって探しているのは明白で、わたしは本能的な部分でそれに抵抗するかのように、声にならない言葉を押し潰す。

「なるほどね……」

 僅かに残る五感のひとつは辛うじて機能しており、何かを納得したような声を上げた傍観者は、首をかしげながら足を動かしてこちらに向かってくるのが辛うじて垣間見えた。

「お嬢さん、何か隠してるでしょ? それともお嬢さんがしぶといだけなのかな?」

 男がなにか、わたしに疑問を提示しているようだったが、一体何を言っているのかよく分からなかった。言い終わった途端、わたしを取り巻いていた黒色はするりと男の側へと戻っていく。抵抗する術を知らないわたしがどうやっても振りほどけなかったそれを、いとも簡単に操ったのだ。
 纏うように男の右手に集まってくる黒いそれは、意識的に何かを形成していくように見えた。少しずつモノとしての自覚が生み出されていく頃にようやく理解した、その鋭利な何か。
 こういうのって、一回で死ぬんだっけ? まるでちょっとした実験のようにそう口にする男の、刺すような瞳。

「……アンマリ好きじゃないんだよなあ、こういうの」

 そうであるはずなのに、わたしを写しているそれはどうしてか酷く揺れ動いていた。そう口にしながらも、手に持たれた黒い鋭利な何かが夕空から堕ちる光を捉えはじめたのを合図にするかのように、男が卑しい笑みを向ける。

「どっちにしろ手遅れだし、別にどうでもいっか」

 振りかざされたそれがわたしの何処かを貫いた時。それがきっと、わたしがわたしじゃ無くなる瞬間だったのだろう。咄嗟的に、わたしの瞳はそれら全ての事柄を映すことを拒んでいた。

 ――ことが起きたのは、そのほんの数秒後だった。
 なにか、ガラスの破片が割れるかのようなけたたましく響く音と同時に、光のようなモノがわたしと男の間に割って入る。咄嗟に身体を動かしたのかそれとも弾き飛ばされたのか、男との間に数歩の距離が空いた。それは一瞬の出来事だった。
 果たして何が起きたのかはよく分からない。唯一理解出来るのは、わたしが理解するには到底及ばない出来事が取り巻いているということだけだ。誰かが助けてくれるなんてことから程遠いようなこの状況でそんなことが起こるということは、何か別の力が働いたということだろうか? でも、これはわたしの力じゃない。そうであるはずがない。だってわたしは、視えるというだけでこんなことが出来る力なんて持っていないはずなのだから。仮に持っていたとするなら、こんな状況に陥る前にどうにかなっているはずだ。
 時が止まったかのように目を丸くしていた男は、何かを悟ったように言葉を口にした。

「あー……なるほど、お嬢さんじゃなかったかぁ。まあでも、ある意味正解か」

 そうかそうかと、わざとらしく同じ言葉を繰り返す男の手の中で踊る刃物は、光に拒絶を起こしたかのように細かい粒子となって空を舞う。空いた手を額に当て、呆れにも似た困窮した様子をみせた。

「計算かどうなのか知らないけど、邪魔ばっかりするもんなぁああいうヤツらって。まあそっか、そりゃ当然だよね」

 ケタケタと誰かの発する微笑が、どういう訳か頭の中に五月蝿くまとわりつく。わたしはそれを、何をするでもなくただ視界に入れていることしか出来ないでいる中に蔓延った、とある台詞。

「――やっぱり、殺さないと駄目か?」

 果たして誰のことを指しているのか、その一言だけは妙に冷えきっていたのをよく覚えている。

「今日はもういいや。状況掴めたし一気に冷めた。バレるのもダルいし」

 じゃあね、お嬢さん。柔和な笑みを浮かべた誰かがそう言ったかと思うと、右半身からまるで砂のように散となり、靄の雲谷の中に静かに吸い込まれていく。
 この一連の流れは、完全に向こうのペースだった。
 靡く髪の毛に気付いた時、ようやく現実に戻されはじめたのを肌で感じた。風の音がようやく耳に入り、わたしはどこか安堵していた。しかし、その間を縫うようにして誰かが走ってくるような音が聞こえたことにより、わたしはまたしても意味もなく反射的に振り向いてしまう。

「遅かったか……?」

 走ってきた人物は、わたしと同じ学校の制服を着た男子生徒だ。さっきまでここにいた人とはまるで違う、夕日の空に光る、わたしでは到底敵うことのないくらいに眩しい人。

「……君、さっきまで誰かと一緒にいなかった?」

 その人は、少しだけ息を切らしながらわたしに言葉を投げる。何処かで聞いたことのある声に、わたしは思わず驚嘆した。


   ◇


「やっと解放された……」

 心労で思わず猫背になりそうなところを必死に抑え、おれはただひとり帰路を歩いている。橋下君に無理矢理連れられて四人でデパートに設置されているようなゲームセンターに足を運んだけど、いわゆる煩わしい音で溢れかえっているちゃんとした場所じゃなくて良かったかも知れない。おれと橋下君はともかく、拓真と相谷君をあの中に放り込むというのは、何と言うか流石に可哀想という言葉に尽きる。
 あの時間、女子高生が特に多くなる一帯に男四人が集まっていくと言うのは確かに中々面白かったけど、そう思っているのは恐らくはおれと橋下君だけだっただろう。
 小さな機械に無理やり押し込められて、言われるがまま適当に背景やフレームを選び、目の補正とか化粧機能とかよく分からないモノを前にあーでもないと言っていたら時間切れになっていたり、とにかく忙しかった。こればっかりはやり慣れないことはするもんじゃないなと、流石のおれも痛感した。
 今ひとりで歩いているのは、当然彼らと別れた後だからな訳だけれど、この辺りはそんなに足を運ばないから少し新鮮だったりもする。帰路が違うというだけでこんな気持ちになってしまうのだから、さながら単純だと言っていいだろう。
 特に変哲のないただの路上に降りかかる夕の日差しが、一体を紅く染める。おれの視界に見えるのはただそれだけだったけど、その中にある僅かな気配が、足の動きを止めさせた。

「……何か、いるのか?」

 いる、というのは少なからず語弊があるかも知れない。特別人通りの少ない場所を通っている訳ではなかった筈なのに、どうしてこんなにも静寂という言葉を体現しているのだろうか? 誰もいない訳じゃないだろうに、それだけが甚だ疑問だった。
 辺りを見渡す限り、人は何処にも見当たらない。それはさながら、人払いされている場所に足を踏み入れているかのようなそんな感覚で、思わず怪訝な顔付きになる。

「……見つけた」

 そしてその考えは、どうやら当たってしまっていたようだった。
 おれの視線の先、僅かに歪んで見える路の瀬に、それこそ微粒子レベルの黒い何かが集約しているのが分かる。それが視界に入る度に総毛立つような感覚が身を馳せるものの、それに呑まれるだなんてことが起こらないのは、恐らくはここにいるのがおれという存在だったからなのだろう。
 近づいてみると分かるのは、左に続く道にその黒いモノが何も通さんとしているかのように広がっていたということだ。
 こういう異端的な現象が起きているということは、その中で誰にも見られたくない何かが起きているのだろう。最もおれはこれまでにそういう事態に陥ったことはないし、ただの憶測に過ぎない。本当にそうだからといって、無暗に首を突っ込むなんていうのは極めて浅はかで向こう見ずだ。無視することの方が、恐らくは賢い選択だろう。
 そうであるのに、いつからかおれの手は蔓延している黒に触れようとしていた。いや、恐らくは既に触れていた。生温い感覚を指先が感じ取る。その時だった。
 促音が、おれの口から漏れる。耳をつんざく程の音を立てながら、何かに弾き飛ばされた感覚が身体を走ったのだ。
 咄嗟に顔を覆った腕を視界から外すと、靄は一斉に散々となり姿を消していくのが分かる。僅かな時間の中で起きた出来事にどうやら頭が追い付いていないようで、さながら時が止まった感覚だった。
 ふと足元を視界にいれると、いつの間にか割れ散乱した硝子のような欠片が幾つも転がっていた。いや、それは硝子なんていう可愛いモノなんかじゃない。おれに気付かれたことを良しとしないかのように、瞬時に黒い粒子と化し、空を舞った。
 そうでないことはよく分かっているのに、風の音が今日はじめて耳を掠めた気がした。
 静けさに溺れた街から、僅かながらのゆっくりと環境音が聞こえてくるのがよく分かる。それはきっと、今までもちゃんとそこに存在していた筈なのに、何かの力が作用してそうすることを許されなかったのだろう。
 果たして何がそうさせたのか? 恐らくは、おれにはそれを知る権利があった。そう思ってしまう程に、足は勝手に動いていた。
 だって今は、こういうことに関しては妙に過敏な態度をとる人間も側にいないし、逆にそれに首を突っ込みたがる人間もいないし、この事柄に縁のなさそうな人間もいない。ひとりなら、これらの人間に気を使う必要なんてどこにもない訳であって、言ってしまえばバレなければ無問題だ。
 そういう思考になってしまうと、いつにも増して行動は早い。あの黒いモノには見覚えがあったから、もし仮にその類いのモノだったらと思うと余計だった。
 地面を踏みつける速度が上がっていることに気づいたのは、とある人物が視界に入ってからのことだ。
 それほどの距離でもなかった筈なのに、おれの息が僅かに乱れていたのが歩の進みがゆっくりになるごとによく分かる。

「……遅かったか?」

 そんな言葉が自然と口から零れ落ちたのは、今この場所にはおれとひとりの人物しかそこに居なかったからだ。微かに地面に堕ちている、散々となって消えかけている靄の残党。それが、おれが数回ほど見たことのある黒い何かが纏っているモノであるということは、すぐに理解が出来た。

「君、さっきまで誰かと一緒にいなかった?」

 だから、例えばこの人物がその類のモノを視えるとか視えないとか、そういうのは正直別にどうでもよかった。

「靄を纏った何か、この辺りに居ると思ったんだけど」

 彼女の揺れた瞳をちゃんと視界に入れる、その時までは。

いいね!