橋下君と再開してから数日後の放課後。おれと拓真は、いつものように当たり前かのように図書室に足を運んでいた。ただ、ひとつだけ状況がいつもと違う。
「もう一月も終わるじゃないですか。もう一回くらい雪降りますかね?」
よく口のまわる、橋下とかいう人物がそこにはいた。
「……来たんだったら、本くらい読めば?」
「えー、本読んだら眠くなるじゃないですか。嫌ですよオレ」
「じゃあ帰ればいいでしょ。なんでいるの?」
「別に居たっていいじゃないですか。あ、まさかですけど、いつもはオレに言えないようなあんなことやこんなことを図書室で喋ってるなんてことは……」
「あんなことやこんなことって、例えば何? 具体的に言ってよ」
「そこ突っ込んじゃいます? じゃあオレが喋るタイミングで神崎先輩がピー音入れといてくださいね? じゃないと規制されちゃう」
「俺を巻き込まないでくれ……」
どうしてこう、ひとり増えるだけでこうも騒がしくなるのだろうか。全くもって理解が出来ない。しかも出会ってそう時間は経っていないはずで、かつ特別仲が良いわけでもない。普通の人では到底出来ない出会い方をしてしまったから、尚更こういうどうでもいい話を出来るような関係でもないような気がするんだけど、果たしておれの考えすぎなのだろうか?
どうしても残るモヤモヤの原因は、全体的な事柄について解決が成されていないからだろう。本当に彼はあれ以来黒いそれに会っていないのかも疑問だし、彼のことだからそうやって良いながら探し回っているという可能性も十分考えられる。やっぱり、ややこしいことになる前におれが探して何とかした方が良いのだろうか?
その何とかする方法というのが具体的に分からないから、軽率に手を出せないというのもあるけど……。
「……拓真さー、昨日図書館行ったんでしょ?」
彼に聞いたら、ちゃんとした答えは返ってくるのだろうか? そっちの方が、おれにとっては難点だった。
「まあな」
何が嘘で本当かを見極めたいのに、余りにも情報が散乱していてどう行動するのが正しいのかが分からない。
「どうだった?」
「……どうだった、って何が?」
だから、こうして適当な雑談で気を紛らせるしか他なかった。
「いやだから、前言ってたあのー……よく図書館にいる人? 昨日はいたの? って話」
「え、なんですかその話。オレにも教えてくださいよー」
橋下君が五月蝿いから簡単に説明すると、この前拓真から「図書館でよく出会う別の学校の女子がいる」という、一見すると特に面白くもないただの世間話だ。
「なるほど……いやー、そっかー……」
何かを納得した様子で声を漏らす橋下君だが、大方おれの考えていることと相違はないだろう。
「それってアレなんですか? つまりはそのー、アレ」
「なんだよアレって」
彼の言葉を聞けば、それは明らかだった。
「いやそれはアレですよ。ねえ宇栄原先輩?」
「どうだろうねえ……。だとしたら滅茶苦茶面白いけど」
「いやウケたら失礼じゃないですか。面白いですけど」
あれは一体いつだったか、普段はそういう話を口にしない拓真が、誰に話を振られたわけでもないのに自分からこの話を持ち出してきたのだ。恐らく本人は単なる世間話のつもりだったのだろうが、それだけで済ますのは面白くないというものだ。
「で、その人昨日いたんですか?」
「……まあ、居たと言えば居たけど」
「へぇー」
「いや、聞いといてその反応はないだろ」
「えーじゃあ、何か面白いことでもあったんですか?」
いかにも渋々と言った様子で、拓真はひとつため息を零した。
「……そいつが床に本ぶちまけてたから」
「うん」
「見て見ぬ振りもなんだろ」
「そうだね」
「だから、拾った」
「ってことは、話したの?」
「……まあ」
「わあ、青春みたい」
「青春……」
しかし、こういうのは余りやり過ぎると怒られて然るべきであるというのが前提にあるせいか、思わず少し我に帰ってしまった。
「というかさあ」
「何だよ」
「いや……なんか……。ふふっ」
「な、なんだよ……」
「ごめんごめん、想像したら笑いが……」
「……なに想像したらそうなるんだ?」
「ちょっと先輩、つられてオレも笑っちゃうから止めて欲しいんですけど……。いや、ふっ……待って無理勘弁してください怒られる」
「いや、こんな面白いこと笑うなっていう方が無理でしょ」
その時、拓真が本を拾った時、この人はどんな顔をしていたのだろうか。いつものように仏頂面だったのか、そもそも目を合わせることをしなかったのか? それとも、悪趣味に茶化したそれに倣うように時が止まった感覚だったのだろうか?
それを考えるだけで自ずと笑みが溢れてしまうのは、きっとおれの性格に難があるからだろう。だとするのなら、性格の悪い人間がここにふたりもいるということになるが、そんなことは正直どうだっていい。
これから起こることに比べれば、些細なことに過ぎないのだ。
◇
新しく季節が切り替わる時期というのは、全体的に騒めいているような空気感に踊らされる。おれは、そういう類いのことが好きじゃ無い。毎年毎年繰り返されるそれには、とっくにうんざりしていたのだ。
「あ、いたいた。せーんぱい」
もうひとつの転機が訪れたのは、新学期が始まって少しした後のこと。
いつからか、三人でいることに何の疑問も抱かなくなっていた時の話だ。
「……なんだ、橋下君って友達いたんだね?」
「ちょっと先輩、それは流石に酷くないですか?」
「そんなこともないと思うけど」
橋下君が、見たことのない人物を連れてきたのだ。彼の左手は、おれの知らない誰かの腕を離さまいとガッツリ掴んでいる。
「はいっ、相谷くんです!」
相谷と呼ばれた人物は、彼によってかなり強引におれの前に押し付けられた。瞬間、彼とばっちり目があってしまったが、すぐに逸らされてしまう。こう、いかにも無理矢理連れてこられましたという状況は中々に珍しい。
「……初めましてだよね?」
それに気づかないふりをしておれは質問を投げてみるが、言葉が返ってくる気配は一向にない。
さて、この状況はどうしたものか。そうやって思考を巡らせる時間が、余り与えられていないということがどうにも惜しい。
「おれは宇栄原 渉。別に宜しくしなくてもいいんだけど、話し相手くらいなら出来るから。良ければいつでも来てね」
挨拶と、それにつけ加えられた言葉は少し他人行儀過ぎたような気がしてならない。
「あ、相谷です……」
しかし、それくらい言わないと言葉を返してくれないんじゃないかというのが頭をよぎったのだから仕方がないというものだ。
どういう経緯でここに来たのかはまだ分からないけど、自ら望んで来たわけでは無さそうだし、こういう場合は適当に扱わないほうが無難だろう。
「……なんか、オレと接するより優しいですね?」
「余り変わらないと思うけど。……拓真も聞いてるんでしょ? シカトも大概にして挨拶くらいしてあげたら?」
名指ししたお陰なのか、ようやく拓真は本から視線を外し相谷を視界の隅に入れた……のだろうが、それはほんの数秒のこと。何を言うでもなく、彼の目はまた本を捉えはじめる。
その様子を見た相谷くんはと言えば、先ほどよりも緊張感に溺れているようで、言うなれば完全に拓真にビビっているようだった。
まるで優しい空気を作ろうとしたおれが馬鹿みたいだが、それは決しておれのせいではない。
「あー……あの人、別に怖い人じゃないから。橋下君みたいに五月蠅くないし」
「ちょっと先輩! 今のは神崎先輩をボロクソいう流れだったじゃないですか」
「いや、そんな流れにした覚えはないけど」
「本当ですかー? 目付き悪いし口数少ないしついでに俺に遊ばれてるとか、あることないこと聞きたかったんですけど」
「それはお前がボロクソ言いたいだけだろ……」
しかもそれ全部本当だろ。そんな言葉が拓真から聞こえてくる。ちゃんと自覚があったというのは正直驚きを隠せない。「そんなことないですよー」などと言いながら、流れるように拓真の隣に座る橋下君をよそに、おれと相谷くんの間には当然のように沈黙が訪れていた。何を言うでもなく、お互いがお互いを視界に入れる。
「橋下君に無理やり連れてこられた、ってところ?」
「……そう見えますか?」
「そうにしか見えないけど」
そう言うと、相谷君は苦笑いを浮かべた。このタイミングのそれは答えだと言って差し支えないだろう。
「なんか、うん……。ご愁傷さまって感じ」
「はは……」
感情の薄い笑いを取り巻いた彼が座れるように促しつつ、これからどうしたもんかと考えるのに必死であるということを、隣で訳の分からない言い合いをしているふたりは果たして分かっているのだろうか? 別に連れてくるのは構わないけど、それなら最後まで責任をもって欲しいものだ。
「先輩見てくださいよこれ、可愛くないですか? 我ながら上出来っていうか」
「かわ……いくはないだろ。何描いたらそうなるんだよ」
「えー、どう見たってブタですよこれ」
「ブタ……」
ああなんか、やっぱりこのふたりを前にして色々と考えるのは時間の無駄かもしれない。
言葉にすらならないおれの小さなため息が、果たして相谷君の耳に入っていたのかどうか。それを考えるのは野暮というものだ。
◇
目の前でどうでもいい会話が散乱しているのを他所に、おれは相谷くんとの会話を試みていた。左に座る彼からは、若干ソワソワした空気が流れているらしい。
「相谷君って、一年生……で合ってる?」
「……そうですね」
「なんで橋下君に連れてこられたの? 元からの知り合いって訳でもなさそうなんだけど」
その疑問を口にすると、一体どこに言いたくない部分が含まれているのか彼は思考を巡らせた。
「えっと……。それは、橋下さんに聞いたらいいと思います」
言いよどんだ彼が発した言葉のひとつが、おれの思考の妨げをする。
(橋下さん、か……)
先輩という敬称を使わないところを見るに、相当彼との壁があるのだろうという解釈は容易だった。いや、元からそういう言いまわしを使っているだけなのかも知れないけど、一般的な観点から言うのであれば、高校一年生が同じ学校の歳上のことを、しかも名字にさん付けするなんて機会は余りない。せいぜい、男子が女子のことを呼ぶ時くらいじゃないだろうか。
「じゃあ、質問を変えようかな。橋下君とは会ったばっかり?」
「そう……だと思います、多分」
「ふうん?」
さっきから、どうもちゃんとした言葉が返ってこないなと思っている中、橋下君が割って話に入ってきた。
「あー、あれですね。この前オレがたまたま屋上に行ったら相谷君がいて、なんやかんや今に至るっていうか」
「……多分だけど端折りすぎじゃない? まあいいけどさ」
「だってアレなんですよ。相谷君ってすぐ逃げちゃうんで、ここに来るまでも結構大変だったんですよー」
「お、追いかけてくるからじゃないですか……」
「違う違う。逃げるから追うの」
「はあ、そうですか……」
相谷君の口からは自然とため息が漏れていた。要約すると、ふたりは屋上で出会って、そこから橋下君は相谷君を執拗に付け回していると、といったところだろうか。
その辺りを踏まえて考えると、ここに相谷君が来たのって、橋下君が余りにもしつこいからしょうがなくついてきたというのが妥当なところかも知れない。図書室に用があってきた訳でもなさそうだし、ここに来た時の感じを思い返すと大方間違ってはいないだろう。
「……相谷君さ、逃げるの諦めたでしょ?」
「だ、だってどうやったってついてくるんですよ……。逃げるのも疲れるじゃないですか」
「うわあ不憫……」
「ちょっと待ってください。なんかオレが悪者みたいじゃないですか? 神崎先輩、そんなことないですよねー?」
「いや、追いかけるお前が悪いだろ……」
そうですかね? などと橋下君はすっとてぼけているが、この顔は絶対分かっててやっているだろう。別に直接関係があるわけではないし、どうして橋下君が彼に付きまとっているのかは結局のところ分からなかったが、相谷君自身は余り良い気分ではないということだけは確かではないだろうか。
「……付きまとわれるのが嫌だったら何とかするよ?」
おれがそう口にすると、彼は少し驚いたように目を向ける。
「えっと、嫌というか……嫌、ううん……」
嫌、という言葉の何かに引っ掛かったのか、執拗にそれを口にした。
「……ここだったら、お二人がいるらしいので少しはマシな気がします」
「それは果たして良いのか疑問なんだけど。まあうん……いいか」
その少しというのが果たしてどれだけ彼の居心地に反映されているのかは定かではないが、少しはマシだと彼がと言うのなら、おれがここに居る意味も多少増えたと思っていいのだろうか?
「え、なんですかオレには秘密の話?」
「まあ……そうですね」
「そうですね、じゃなくて教えてよー」
「はいはい分かったから。橋下君って本当に面倒だよねって話をしてただけだよ」
「うわあ、本当にその話してたんだったら傷付きますよオレは」
それはあながち間違ってはいないから、これ以上適当なことを言うのは止めておくことにしよう。
意外、と言うべきではないのかも知れないけど、相谷君は嫌なことは嫌とちゃんと主張はするようだし、来れば大体どちらかがいる図書室にいる方が、橋下君と二人きりという可能性が低くなるわけだから、彼の言うように案外気が楽だったりするのかも知れない。
今のところ喜怒哀楽の少ない彼の表情からそれを読み取るのは容易ではないけど、それにしても、だ。
「ところで宇栄原先輩、今って旬の花って何かあります?」
「旬? 桜とかそういうこと?」
「桜はとっくに終わってるじゃないですか。なんて言うんですかね……あのー、人に渡せる感じのやつで」
「ガーベラはこの時期よく売ってるよな」
「滅茶苦茶速答するじゃないですか。ウケる」
「別にウケる要素は何処にも無かっただろ……」
「いや、宇栄原先輩なら分かりますけどね? 神崎先輩の口からガーベラはちょっと面白いですよ。ねえ相谷くん?」
「僕は花とか詳しくないので……」
「全然話が噛み合ってないんだけど。その話はもう終わったよー」
ひとり増えただけでいつもの倍騒がしくなったんじないかと思うのは、恐らく気のせいなんかではない。実際のところかなり五月蝿いのだ。いや、五月蝿いと言うよりは喧しいというほうが適切かも知れない。ただまあ、それはある意味当然と言って差し支えないだろう。
いつも二人だったおれ達に、どういうわけかひとり、またひとりと知り合いが出来た。知り合い、というのは少々素っ気ないけど、かといって友達というにはまだ決定的な何かが足りない。恐らくはそんな感じの距離感だろう。
でも、知り合いと呼ぶには似つかないくらいには長い時間一緒に居たし、多分、こういう場合は素直に友達と口にした方が良いのかも知れない。
それから暫く、四人が揃うということが当たり前になっていたのは紛れもない真実なのだから。
「もう一月も終わるじゃないですか。もう一回くらい雪降りますかね?」
よく口のまわる、橋下とかいう人物がそこにはいた。
「……来たんだったら、本くらい読めば?」
「えー、本読んだら眠くなるじゃないですか。嫌ですよオレ」
「じゃあ帰ればいいでしょ。なんでいるの?」
「別に居たっていいじゃないですか。あ、まさかですけど、いつもはオレに言えないようなあんなことやこんなことを図書室で喋ってるなんてことは……」
「あんなことやこんなことって、例えば何? 具体的に言ってよ」
「そこ突っ込んじゃいます? じゃあオレが喋るタイミングで神崎先輩がピー音入れといてくださいね? じゃないと規制されちゃう」
「俺を巻き込まないでくれ……」
どうしてこう、ひとり増えるだけでこうも騒がしくなるのだろうか。全くもって理解が出来ない。しかも出会ってそう時間は経っていないはずで、かつ特別仲が良いわけでもない。普通の人では到底出来ない出会い方をしてしまったから、尚更こういうどうでもいい話を出来るような関係でもないような気がするんだけど、果たしておれの考えすぎなのだろうか?
どうしても残るモヤモヤの原因は、全体的な事柄について解決が成されていないからだろう。本当に彼はあれ以来黒いそれに会っていないのかも疑問だし、彼のことだからそうやって良いながら探し回っているという可能性も十分考えられる。やっぱり、ややこしいことになる前におれが探して何とかした方が良いのだろうか?
その何とかする方法というのが具体的に分からないから、軽率に手を出せないというのもあるけど……。
「……拓真さー、昨日図書館行ったんでしょ?」
彼に聞いたら、ちゃんとした答えは返ってくるのだろうか? そっちの方が、おれにとっては難点だった。
「まあな」
何が嘘で本当かを見極めたいのに、余りにも情報が散乱していてどう行動するのが正しいのかが分からない。
「どうだった?」
「……どうだった、って何が?」
だから、こうして適当な雑談で気を紛らせるしか他なかった。
「いやだから、前言ってたあのー……よく図書館にいる人? 昨日はいたの? って話」
「え、なんですかその話。オレにも教えてくださいよー」
橋下君が五月蝿いから簡単に説明すると、この前拓真から「図書館でよく出会う別の学校の女子がいる」という、一見すると特に面白くもないただの世間話だ。
「なるほど……いやー、そっかー……」
何かを納得した様子で声を漏らす橋下君だが、大方おれの考えていることと相違はないだろう。
「それってアレなんですか? つまりはそのー、アレ」
「なんだよアレって」
彼の言葉を聞けば、それは明らかだった。
「いやそれはアレですよ。ねえ宇栄原先輩?」
「どうだろうねえ……。だとしたら滅茶苦茶面白いけど」
「いやウケたら失礼じゃないですか。面白いですけど」
あれは一体いつだったか、普段はそういう話を口にしない拓真が、誰に話を振られたわけでもないのに自分からこの話を持ち出してきたのだ。恐らく本人は単なる世間話のつもりだったのだろうが、それだけで済ますのは面白くないというものだ。
「で、その人昨日いたんですか?」
「……まあ、居たと言えば居たけど」
「へぇー」
「いや、聞いといてその反応はないだろ」
「えーじゃあ、何か面白いことでもあったんですか?」
いかにも渋々と言った様子で、拓真はひとつため息を零した。
「……そいつが床に本ぶちまけてたから」
「うん」
「見て見ぬ振りもなんだろ」
「そうだね」
「だから、拾った」
「ってことは、話したの?」
「……まあ」
「わあ、青春みたい」
「青春……」
しかし、こういうのは余りやり過ぎると怒られて然るべきであるというのが前提にあるせいか、思わず少し我に帰ってしまった。
「というかさあ」
「何だよ」
「いや……なんか……。ふふっ」
「な、なんだよ……」
「ごめんごめん、想像したら笑いが……」
「……なに想像したらそうなるんだ?」
「ちょっと先輩、つられてオレも笑っちゃうから止めて欲しいんですけど……。いや、ふっ……待って無理勘弁してください怒られる」
「いや、こんな面白いこと笑うなっていう方が無理でしょ」
その時、拓真が本を拾った時、この人はどんな顔をしていたのだろうか。いつものように仏頂面だったのか、そもそも目を合わせることをしなかったのか? それとも、悪趣味に茶化したそれに倣うように時が止まった感覚だったのだろうか?
それを考えるだけで自ずと笑みが溢れてしまうのは、きっとおれの性格に難があるからだろう。だとするのなら、性格の悪い人間がここにふたりもいるということになるが、そんなことは正直どうだっていい。
これから起こることに比べれば、些細なことに過ぎないのだ。
◇
新しく季節が切り替わる時期というのは、全体的に騒めいているような空気感に踊らされる。おれは、そういう類いのことが好きじゃ無い。毎年毎年繰り返されるそれには、とっくにうんざりしていたのだ。
「あ、いたいた。せーんぱい」
もうひとつの転機が訪れたのは、新学期が始まって少しした後のこと。
いつからか、三人でいることに何の疑問も抱かなくなっていた時の話だ。
「……なんだ、橋下君って友達いたんだね?」
「ちょっと先輩、それは流石に酷くないですか?」
「そんなこともないと思うけど」
橋下君が、見たことのない人物を連れてきたのだ。彼の左手は、おれの知らない誰かの腕を離さまいとガッツリ掴んでいる。
「はいっ、相谷くんです!」
相谷と呼ばれた人物は、彼によってかなり強引におれの前に押し付けられた。瞬間、彼とばっちり目があってしまったが、すぐに逸らされてしまう。こう、いかにも無理矢理連れてこられましたという状況は中々に珍しい。
「……初めましてだよね?」
それに気づかないふりをしておれは質問を投げてみるが、言葉が返ってくる気配は一向にない。
さて、この状況はどうしたものか。そうやって思考を巡らせる時間が、余り与えられていないということがどうにも惜しい。
「おれは宇栄原 渉。別に宜しくしなくてもいいんだけど、話し相手くらいなら出来るから。良ければいつでも来てね」
挨拶と、それにつけ加えられた言葉は少し他人行儀過ぎたような気がしてならない。
「あ、相谷です……」
しかし、それくらい言わないと言葉を返してくれないんじゃないかというのが頭をよぎったのだから仕方がないというものだ。
どういう経緯でここに来たのかはまだ分からないけど、自ら望んで来たわけでは無さそうだし、こういう場合は適当に扱わないほうが無難だろう。
「……なんか、オレと接するより優しいですね?」
「余り変わらないと思うけど。……拓真も聞いてるんでしょ? シカトも大概にして挨拶くらいしてあげたら?」
名指ししたお陰なのか、ようやく拓真は本から視線を外し相谷を視界の隅に入れた……のだろうが、それはほんの数秒のこと。何を言うでもなく、彼の目はまた本を捉えはじめる。
その様子を見た相谷くんはと言えば、先ほどよりも緊張感に溺れているようで、言うなれば完全に拓真にビビっているようだった。
まるで優しい空気を作ろうとしたおれが馬鹿みたいだが、それは決しておれのせいではない。
「あー……あの人、別に怖い人じゃないから。橋下君みたいに五月蠅くないし」
「ちょっと先輩! 今のは神崎先輩をボロクソいう流れだったじゃないですか」
「いや、そんな流れにした覚えはないけど」
「本当ですかー? 目付き悪いし口数少ないしついでに俺に遊ばれてるとか、あることないこと聞きたかったんですけど」
「それはお前がボロクソ言いたいだけだろ……」
しかもそれ全部本当だろ。そんな言葉が拓真から聞こえてくる。ちゃんと自覚があったというのは正直驚きを隠せない。「そんなことないですよー」などと言いながら、流れるように拓真の隣に座る橋下君をよそに、おれと相谷くんの間には当然のように沈黙が訪れていた。何を言うでもなく、お互いがお互いを視界に入れる。
「橋下君に無理やり連れてこられた、ってところ?」
「……そう見えますか?」
「そうにしか見えないけど」
そう言うと、相谷君は苦笑いを浮かべた。このタイミングのそれは答えだと言って差し支えないだろう。
「なんか、うん……。ご愁傷さまって感じ」
「はは……」
感情の薄い笑いを取り巻いた彼が座れるように促しつつ、これからどうしたもんかと考えるのに必死であるということを、隣で訳の分からない言い合いをしているふたりは果たして分かっているのだろうか? 別に連れてくるのは構わないけど、それなら最後まで責任をもって欲しいものだ。
「先輩見てくださいよこれ、可愛くないですか? 我ながら上出来っていうか」
「かわ……いくはないだろ。何描いたらそうなるんだよ」
「えー、どう見たってブタですよこれ」
「ブタ……」
ああなんか、やっぱりこのふたりを前にして色々と考えるのは時間の無駄かもしれない。
言葉にすらならないおれの小さなため息が、果たして相谷君の耳に入っていたのかどうか。それを考えるのは野暮というものだ。
◇
目の前でどうでもいい会話が散乱しているのを他所に、おれは相谷くんとの会話を試みていた。左に座る彼からは、若干ソワソワした空気が流れているらしい。
「相谷君って、一年生……で合ってる?」
「……そうですね」
「なんで橋下君に連れてこられたの? 元からの知り合いって訳でもなさそうなんだけど」
その疑問を口にすると、一体どこに言いたくない部分が含まれているのか彼は思考を巡らせた。
「えっと……。それは、橋下さんに聞いたらいいと思います」
言いよどんだ彼が発した言葉のひとつが、おれの思考の妨げをする。
(橋下さん、か……)
先輩という敬称を使わないところを見るに、相当彼との壁があるのだろうという解釈は容易だった。いや、元からそういう言いまわしを使っているだけなのかも知れないけど、一般的な観点から言うのであれば、高校一年生が同じ学校の歳上のことを、しかも名字にさん付けするなんて機会は余りない。せいぜい、男子が女子のことを呼ぶ時くらいじゃないだろうか。
「じゃあ、質問を変えようかな。橋下君とは会ったばっかり?」
「そう……だと思います、多分」
「ふうん?」
さっきから、どうもちゃんとした言葉が返ってこないなと思っている中、橋下君が割って話に入ってきた。
「あー、あれですね。この前オレがたまたま屋上に行ったら相谷君がいて、なんやかんや今に至るっていうか」
「……多分だけど端折りすぎじゃない? まあいいけどさ」
「だってアレなんですよ。相谷君ってすぐ逃げちゃうんで、ここに来るまでも結構大変だったんですよー」
「お、追いかけてくるからじゃないですか……」
「違う違う。逃げるから追うの」
「はあ、そうですか……」
相谷君の口からは自然とため息が漏れていた。要約すると、ふたりは屋上で出会って、そこから橋下君は相谷君を執拗に付け回していると、といったところだろうか。
その辺りを踏まえて考えると、ここに相谷君が来たのって、橋下君が余りにもしつこいからしょうがなくついてきたというのが妥当なところかも知れない。図書室に用があってきた訳でもなさそうだし、ここに来た時の感じを思い返すと大方間違ってはいないだろう。
「……相谷君さ、逃げるの諦めたでしょ?」
「だ、だってどうやったってついてくるんですよ……。逃げるのも疲れるじゃないですか」
「うわあ不憫……」
「ちょっと待ってください。なんかオレが悪者みたいじゃないですか? 神崎先輩、そんなことないですよねー?」
「いや、追いかけるお前が悪いだろ……」
そうですかね? などと橋下君はすっとてぼけているが、この顔は絶対分かっててやっているだろう。別に直接関係があるわけではないし、どうして橋下君が彼に付きまとっているのかは結局のところ分からなかったが、相谷君自身は余り良い気分ではないということだけは確かではないだろうか。
「……付きまとわれるのが嫌だったら何とかするよ?」
おれがそう口にすると、彼は少し驚いたように目を向ける。
「えっと、嫌というか……嫌、ううん……」
嫌、という言葉の何かに引っ掛かったのか、執拗にそれを口にした。
「……ここだったら、お二人がいるらしいので少しはマシな気がします」
「それは果たして良いのか疑問なんだけど。まあうん……いいか」
その少しというのが果たしてどれだけ彼の居心地に反映されているのかは定かではないが、少しはマシだと彼がと言うのなら、おれがここに居る意味も多少増えたと思っていいのだろうか?
「え、なんですかオレには秘密の話?」
「まあ……そうですね」
「そうですね、じゃなくて教えてよー」
「はいはい分かったから。橋下君って本当に面倒だよねって話をしてただけだよ」
「うわあ、本当にその話してたんだったら傷付きますよオレは」
それはあながち間違ってはいないから、これ以上適当なことを言うのは止めておくことにしよう。
意外、と言うべきではないのかも知れないけど、相谷君は嫌なことは嫌とちゃんと主張はするようだし、来れば大体どちらかがいる図書室にいる方が、橋下君と二人きりという可能性が低くなるわけだから、彼の言うように案外気が楽だったりするのかも知れない。
今のところ喜怒哀楽の少ない彼の表情からそれを読み取るのは容易ではないけど、それにしても、だ。
「ところで宇栄原先輩、今って旬の花って何かあります?」
「旬? 桜とかそういうこと?」
「桜はとっくに終わってるじゃないですか。なんて言うんですかね……あのー、人に渡せる感じのやつで」
「ガーベラはこの時期よく売ってるよな」
「滅茶苦茶速答するじゃないですか。ウケる」
「別にウケる要素は何処にも無かっただろ……」
「いや、宇栄原先輩なら分かりますけどね? 神崎先輩の口からガーベラはちょっと面白いですよ。ねえ相谷くん?」
「僕は花とか詳しくないので……」
「全然話が噛み合ってないんだけど。その話はもう終わったよー」
ひとり増えただけでいつもの倍騒がしくなったんじないかと思うのは、恐らく気のせいなんかではない。実際のところかなり五月蝿いのだ。いや、五月蝿いと言うよりは喧しいというほうが適切かも知れない。ただまあ、それはある意味当然と言って差し支えないだろう。
いつも二人だったおれ達に、どういうわけかひとり、またひとりと知り合いが出来た。知り合い、というのは少々素っ気ないけど、かといって友達というにはまだ決定的な何かが足りない。恐らくはそんな感じの距離感だろう。
でも、知り合いと呼ぶには似つかないくらいには長い時間一緒に居たし、多分、こういう場合は素直に友達と口にした方が良いのかも知れない。
それから暫く、四人が揃うということが当たり前になっていたのは紛れもない真実なのだから。