橋下君と出会ってから数日、特に何事もなく一日一日が過ぎていった。
「読むの飽きた……」
それを証明するかのように、おれと拓真は放課後の図書室にいる。用が無いのならさっさと帰ればいいものを、当たり前のようにここで暇を潰しているのが日常になってしまっていることに、特別疑問は抱かない。
特に意味のないこの時間が存外嫌いじゃないと思えるようになったのは、果たしていつのことだったか。それすらも思い出せなかった。
「……じゃあ帰ればいいだろ」
「それ拓真が言う? 図書室に読みたいのが無いって言うからわざわざ持ってきたんだから、もうちょっと言い方ないの?」
「……例えばなんだよ」
「いや、なんでおれが例えを出さないといけないわけ?」
そもそもどうして集まっているのが図書室なのか、というところを突っ込まれると正直困る。例えるなら、意味もなく本屋に行って買う気もないのに店を歩いてみたり、一部の学生が帰りにゲーセンに行くのと同じだろう。昔はおれの家というか、花屋まで来ることが多かったけど、それがいつしか図書室に変わっただけ。ただそれだけだ。
勿論そんなことを毎日しているわけじゃないし、図書室に来る曜日は大体決まっていたりもする。暗黙の了解、というものに近いかも知れない。
「あ、先輩みーっけ」
そのふたりでいるだけのよく分からない空間に、当然のように話に入ってきたひとりの男がいた。
「あの後、結局雪降らなかったですね。オレ結構期待してたんですけど」
橋下 香という、ある日突然現れたにも関わらず、まるで最初からいたかのように話を進めている馴れ馴れしい人物だ。
「いやー降りそうな感じだったんですけどね、惜しかったなぁ……。それに、あの人も見つからなかったし」
天気予報もろくに見ることをしていなかったくせして雪が降らなかったことを本当に残念そうにしながら、雪は降らないのかと心待ちにしている様子は少々整合性に欠けると言っていいだろう。まるで、情報を与えられることを待ち続けている都会の子供のようだ。
それに加えて、あの場にいなかった拓真がいるにも関わらず平然と起きたことを口にしているのは少々いけすかない。核心的なことは言葉に出していないものの、そう簡単に口にしていいことではないはずだ。
「その人、知り合いですか?」
拓真を視界に入れながら、橋下君がそう問いかける。
「知り合い……まあうん。そうかもね」
「なんですかその曖昧な答え。じゃあ隣失礼しまーす」
荷物が床に落ちていく音を聞きながら、拓真の隣に座る彼の様子を視界に入れた。拓真はといえば、さして興味が無さそうに本のページをパラパラとめくっていく。あの感じは絶対読んでいないと断言していいだろう。
一応気にはしているようで、でも視線を向けることをしないのは、おれらに気を使っているだけなのかそれとも余り話に入りたくないからなのか、どちらだろう。まあ別にどっちでもいいんだけど、元々拓真って余り人と話すような人でもないし、かといって人見知りというのとは恐らく少し違う系統だろう。
「あ、オレ橋下って言うので。宜しくお願いしますね」
そんな男に、よくもまあこの橋下という人物は話し掛けようとするものだ。
「ふうん……」
聞いているのかいないのか、拓真からは適当な返事が返ってきた。
「先輩? 先輩ですよね? オレ名前教えて欲しいなー」
「……神崎 拓真だけど」
「神崎先輩ですね。オレ覚えましたよ」
「あ、そう……」
もしかすると、単に何も考えていないだけなのかも知れない。
「……で、君何しに来たの? わざわざおれのこと探してさ」
溜め息混じりに、おれは彼に言葉を向けた。
「えー別に何だっていいじゃないですか。たまたま来たら見つけちゃったのはどうしようもないですよ」
「たまたま、ね」
「疑ってます?」
「さあ?」
疑っている。そう言われたらそうかも知れない。まだ出会って僅かだからというのも勿論あるけど、なんていうか、全体的に彼の言動が軽いのだ。時間にすると恐らくまだ数十分しか話していないと思うけど、その時間の中でもこうやって思ってしまうということは、おれが受けた彼の印象というのがよっぽどだったのだろう。
「ああオレ、幽霊とか見えちゃうんですけど、この前幽霊と話してるところ宇栄原先輩に見られちゃったんですよねぇー」
拓真が話半分で聞いているのを察してなのか、自分から簡単に経緯を説明し始める。拓真のまわりの空気が一瞬止まったようなそんな気がしたが、恐らくは気のせいではなかったのだろう。返事をすることはなかったが、拓真の目はおれを捕らえていた。
「まあうん……そういう感じだから。一応言っておくけど、偶然ね」
拓真は、おれの弁解に答えることをしない。特別怒っているわけでは無さそうだったけど、「お前またか」とでも言いたそうな顔をしているというのだけはよく分かった。
「……その感じだと、神崎先輩って色々知ってる感じですか?」
その質問に答えることに、ほんの僅かだけれど戸惑った。
確かに彼の言っていることは大体合ってるけど、おれら以外の誰かが聞いているかも知れないにも関わらずに、こういうことを日常会話のように言ってしまうようなところ。構わずに拓真まで巻き込もうとしているところ。そこに疑念を抱くのは当然だろう。
会ったばかりだというのを踏まえたとしても、彼が一体何を考えてそういう風な態度を取っているのかが、現状理解が及ばなかった。
「君の色々って言うのがおれらの考えてることと合ってるかは分からないけど、そんな感じかな」
不本意ではあるけれど、一応言っておかないと後でややこしいことになりそうではあったから、そもそも答える気の無さそうな拓真に変わっておれが口を開いた。
「そうなんですねー……なら良かったです」
一体何を聞いて良かったと言っているのかは全然分からないが、言葉の通り橋下君はどこか納得したような素振りで言葉を述べる。
それから、彼はとにかく五月蝿かった。五月蝿いというよりはよく喋るというか、隣にいる拓真が少し可哀想になってくるくらいにわりとずっと喋っていた。
オレ、本ってあんまり読まないんですよね。とか、雪降らないかなあ。とか、次に雪が降りそうな時っていつですかね? とか。
天気予報くらい見ればいいのにと言いたいところだけど、というか言ったけど、「見てもすぐに忘れちゃうんですよねー」とか何とか言われてかわされてしまった。いや違う、問題は別にそこじゃない。そんなのはどうだっていい。
「ところで、ちょっと聞いても良いですか?」
話もコロコロ変わるし、多分、こういうところがおれに疑われるのだろう。いや、正直なところそこもわりとどうでもいい。そういう性格なのだというのは十分に分かった。
「なに?」
「逝邪(せいじゃ)っていう存在、知ってます?」
問題だったのは、完全に彼のペースにこちらが巻き込まれているということだ。
◇
「逝邪……?」
おれがそう問いかけると、彼はまた大量の言葉を投げた。
「幽霊よりももっと格が上で、でも悪霊とかいうのとはまた別のもの。おれらでは手に負えないような、いわゆる怨霊・悪霊という存在を、無条件でとある場所に送り出すためだけに存在していて、それ以外の行動は禁止されているモノのこと」
まるで完全に暗記してきたかのようにスラスラと彼の口から出てくるそれらに、心なしか空気が冷えたようなそんな気がしてならなかった。
逝邪なんていう言葉、今まで聞いたことも無かったのだ。
「基本的に人を襲うことをしたらいけないらしいんですけど、まあそう言われてるってだけで実際は多分違いますよね。人を襲うってだけなら、別に簡単ですし」
「……そんな話、聞いたことないけど」
「都市伝説っぽい感じですけどねー」
都市伝説というと、つまりはあれか。ネットとかで話題になったりする類いのやつか。それなら別に、知らないからといって無知というほどではないだろう。
「でも、そういう存在になるには条件があって。それは、オレらみたいな『幽霊を視ることが出来て、尚且つそれらを制圧出来る力を持っている存在』が、いわゆる向こうの世界に上手く行くことが出来なかった為に起きる、一種の現象みたいな感じらしいんですけど」
説明が終わったのか、一旦彼の言葉が止まる。
「宇栄原先輩は、こういうのいると思います?」
「は?」
「いやだって、そういう噂が立つってことは、一定の可能性はあるわけじゃないですか。しかもそれって、オレらみたいなのしか知りえない情報ばっかりだし」
あ、オレは別に信じてませんけど。そう言いながらも、彼はその逝邪という存在が何なのかというところの答えを求めているようだった。
「仮に、ですよ? もしそういう類の存在が本当にいたら、オレじゃ敵わないなあっていうか。別にオレ、先輩みたいに幽霊と対峙出来る力は持ってないですし。だから出会ったら嫌だなあって。ただそれだけの話なんですけど」
「え……?」
羅列されたそれらの言葉に、おれの眉が歪んだ。
「神崎先輩はいると思います? 逝邪って」
「……俺、幽霊とか見えないんだけど」
「いや、今は視える視えないの話なんてしてないですから。こういうの気になりません?」
「ちょっと待った」
今日、この空間の中ではじめておれの声がちゃんと認識されたかのように、ふたりが一斉におれを視界にいれる。
「おれ、君の前で力なんて使ったことないよね?」
彼は、「先輩みたいに幽霊と対峙出来る力は持ってない」と言った。でも、その言葉は端的に言うならまずあり得ない。
だっておれは、あの時単に彼が何かと話しているというのを見ただけで、それ以外のことは何もしていないのだから。
「……そうでしたっけ?」
この人物、橋下 香は明らかに惚けている。
「まあ何というか、そんな気がするってだけだったんですけど。力にも種類があるじゃないですか。視えるだけの人って少ないと思うんですよ。だから多分、先輩はそっち側の人なんだろうなって」
それは明らかであるはずなのに。
「違いました?」
詮索することを、おれは心のどこかできっと拒んでいた。
そもそも、彼の言う力というのが何を指しているのかもよく分からないし、聞きたいことがどんどんと増えていくせいで最初におれが何を疑問に思ったのか忘れてしまった。もういい、面倒だから今は取り合えず目先にある疑問を片付けておこう。
「そういう君は、その力っていうのは持ってるの?」
「オレですか? そうですねぇ……」
少し考えた後、彼はこう言った。
「あったら、良かったんですけどね」
力のない笑いが、一番最初のあの時に見たそれとよく似ていたような気がしたのは、おれの思い違いなのか否か。この状況じゃ、それが果たして同じものなのかという結論を出すことは出来そうにない。
「……じゃ、オレはそろそろ帰ろうかなっと」
思考を巡らせている最中、お構いなしといった様子で彼は話を遮断させた。
「……君、本当に何しに来たの?」
「ああいや、先輩がいつもどこにいるのか知りたかっただけなので。目的は達成したかなーっていうか」
本当に彼は一体なんなんだろうか、というのを形にした溜め息がおれの口から漏れる。一番最初は、「たまたま来たらおれらを見つけた」と言った。それが今の台詞はどうだ? 「どこにいるのか知りたかった」というのは、それはつまり、たまたまではなくおれを探していたんじゃないのか?
……いや、おれを探していてたまたまここに来たのなら、一応の辻褄は合うのだろうか。何かもう、考えるだけ無駄なような気がしてきた。そう思っているのは果たしておれだけなのだろうか?
「それじゃ」
乱雑に置かれた荷物を手に取りさっさと席を立っていく彼のことを、おれらはただ見ていることしかしない。
あっという間に静かになるこの場所が、どうしてか新鮮に感じてしまう。
「……よく喋るな、あいつ」
考えるだけ無駄、というのはどうやら正解らしい。
◇
建物の中から外に出た時というのは、得てして本来の気温よりも寒く感じるものだけれど、今日はいつもと勝手が違う。
「寒……」
口に出してしまうほどに、寒い。それに風がとにかく冷たかった。冬だから、なんていう言葉で片付けてしまってはつまらない上に、今日は度を越している。
原因は、稀に見る天気の悪さともうひとつ。
「予報、当たったらやだなあ……」
「……さっきの奴が喜びそうだな」
「はは……」
あの場で言うことはしなかったけど、今日の予報は確かそんな感じだった記憶がある。そう思うと、寒さが余計おれをつんざいた。
「……あいつの言ってたこと、本当か?」
あいつの言ってたこと、というのは、恐らくただの雑談の中に埋もれてしまっているであろうあれ。
おれがひとりで家に帰っている道中、橋下君が公園で異端物質と話をしていたところを見た。というのは本当か? ということだろう。
「まあ、うん。大体合ってるかな」
幸い橋下君の言っていたことに相違は無かったし、別におれ自身に何かあったわけでもないから、ここで下手な嘘は言わない。強いて口にしていないことを上げるのであれば、橋下君が詮索する隙をおれに一切与えなかったところを見ると、恐らく余り関わってはいけないものだったのだろうという、おれの推測だけだ。
「……本当かよって顔してるけど、それ以外のことは特に無かったからね?」
「別に疑ってはないけど」
「じゃあ何? 普通に気になるって話?」
「気になるっていうか……」
口をつぐんだのも暫く、拓真の口から言葉が出されるのにそう時間はかからなかった。
「なんか、変に巻き込まれそうだなって思っただけ」
「そうでもないと思うけど? こういうのって、どっちかっていうとおれらより――」
何の関係のない人の方が巻き込まれやすいと思うんだけど。そう言おうと思った時だ。
思わず、口から声が漏れそうになる。それと同時に、おれは足を自然に止めてしまっていた。ああ、こういうの。お約束とでも言えばいいのだろうか。こういう話をすると寄ってくるという話はよく聞くけど、その実本当なのかも知れない。
黒く淀んだ気配が、冷たい風と共に僅かに横切った。
こんなところに、というのがこの時の正直な感想で、今まで当たり前に通っていた場所に急に現れたとなると、恐らく未練があって等という理由でこの辺りにいるという訳ではないのだと推測ができる。
対象物が場所を転々としているということになるだろうけど、どちらにしても明らかにおかしかった。
簡単に言うと、黒いもやが学校付近をうろついている。それが本体ではないというのは分かるのだけれど、問題なのはそこではない。
「おれさあ、拓真がいるところでこういうこと言いたくないんだけど……」
少しだけ思案した後、口から出たのはおおよそ想定通りの言葉だった。
「見ちゃったものを放っておくのは、やっぱり無理があるっていうか」
そう言うと、拓真はため息を落とす。この馬鹿をどうするか、といった様子で頭に手をやるその実、多分考えていることはそんなに多くはないのだろう。
「だったら俺も行く」
「……ま、勝手にしてよ」
そう言いつつも、本当は勝手にして欲しくはない。だが、拓真って大人しそうな顔して言い出したら簡単に退かないタイプだし、無理矢理退いてもらう方が面倒だったから、この際それはしょうがない。おれが退くという選択肢も、当然存在しないのだけれど。
目先にある黒いそれ、もやが発する先を辿っていく。この時間だから学生ばかりが目立つけど、誰もそのもやに気づいている様子はない。こういうのを視ると、あの時橋下君が言っていたように、自分以外にこういうのが視える人なんていないんじゃないかという錯覚に陥ってしまう。
人間の本能的な部分なのだろうか。近づく度に、まるで示し合わせたようにして人が減っていくのが不思議で仕方がなかった。まるで、全ての事柄が仕組まれているのではないかと思うくらいに、だ。
帰路を外れ、大通りを抜けたすぐ左の道に入る。段々と黒いそれが色濃くなっていくのが、手に取るように分かった。天気も相まってか、何となく空気も淀んでいるような気がしてならない。
「あそこ、いるけど拓真は視えないよね?」
細い道の丁度真ん中辺りだろうか。
「……何もない見えないけど」
黒いヒト型の何かが、そこにはいた。
一応拓真にも説明したが、ふうん……と適当な返事を返してくる辺り、この人物は絶対に分かっていない。
もやのようなものを纏っている存在には、確かに何度か会ったことはある。でも、あれは単純に幽霊だった。だから何とかなった。しかし、今回ばかりは様子が違う。唯一、あれが靄の集合体なのではないかという憶測程度のことしか分からなかった。
「どうするんだ?」
「どうするって言われても……。おれ、あんなの視たことないし」
それを聞いた途端、拓真は当然怪訝な顔した。
「お前、それで追ったのか?」
「いやさ、おれだっていつもだったら追わないけど……。これは予想してなかったっていうか」
「……お前の追わないは信用できない」
五月蝿いな。というおれの一言と同時に、少し力を込めた左肘が拓真のどこかに当たる。「おま……マジふざけんな……」という力のない言葉を残して声が聞こえなくなった辺り、かなり変なところに当たったらしいが、今はそんなこと気にしてられない。
一瞬、黒い何かの隙間から身体のようなモノが視えたような、そんな気がした。
……この似たような状況。靄の程度は違えど、おれは最近見たことがある。
あの時は確か、灰色を纏ったこれまた視たことのないモノだった。果たしてこれが同一の存在なのか、何が正しくて何が間違っているのか。それを見極めるにはまだ何かが足りない。そうであるはずなのに、言い様のない既視感に溺れてしまう。
――逝邪。
どういうわけか、その言葉が何故かおれの頭をよぎった。
どこかの誰かが言っていたけど、その単語を説明するのに必要な文字列は確かこうだ。
『幽霊よりももっと格が上で、でも悪霊とかいうのとはまた別のもの。おれみたいなのでは手に負えないような、いわゆる怨霊・悪霊という存在を、無条件でとある場所に送り出すためだけに存在していて、それ以外の行動は禁止されているモノのこと』
誰かが確か、そんなことを言っていた。
今日の放課後までは知らなかった言葉が、頭を駆け巡る。意識せざるを得なくなってしまったのは、完全にどこかの誰かのせいだ。
「あれ、また会いましたね」
……後ろから、聞きたくない声が走る。
この状況には到底似つかない軽快な声。確認するまでもなく、振り向けばそこには橋下君の姿があった。
◇
「先輩達って結構あれなんですね。行動力に溢れてるっていうか」
「……君に言われたくないんだけど」
一体誰のせいだというのだろう。当の本人はといえば、そんなことはまるで気にしていないかのような態度で、それがおれの機嫌に影響を与えていく。
ま、そうですよねぇ。そうやって他人事のように言う彼との距離は、気づけば既に縮まっている。地面を踏みしめる音は、今のおれには聞こえない。それくらい彼の態度にうんざりしていたのだ。
すると突然、強い風が辺りを走る。巻き起こったのは確かに風ではあった。恐らく、拓真にしてみたらただのそれだっただろう。だけど、そうではなかったのだ。
黒く淀んだ粒が、空を伝う。まるで小さな粒子ひとつひとつが意思を持っているかのように波打つ様は、なんとも現実とは言い難い居心地の悪さを助長していた。
……ほんの僅かな隙間から顔が見えそうになったのを隠すかのように、ひとりの男が動き出す。
「ちょっと待った」
気付けば、橋下君の腕をむんずと掴んでいた。
「あー、別に何もしないですよ? それに……」
僅かにおれのことを視界に入れている彼は、次にこんな言葉を口にした。
「先輩が居るときは、何も起こらないんじゃないですかね?」
余りにも不透明なその言葉に全く疑問を抱かない、なんてことはあるわけがない。
「だから離してくださいよ」
いい加減、その適当な態度を改めてくれないか? そう言おうと思った。
「……嘘ばっか」
それなのに、少しだけ濁した言い方をしてしまうのがよくない。こういうのが後悔の元になるということは、どうせ後になって分かるというものだ。
「嘘、ねぇ」
こうして、おれの言葉に不服を申し立てる声がした。
「そうやって言うならこうしましょう」
まるで止めたおれが悪いかのような言い方をする彼が次にとった行動は、少し意外なものだった。
彼は、おれの腕を掴み返したかと思えば、拓真のいる方つまりは反対方向へと歩を進めた。強く握る手の感触が、布越しによく伝わってくる。
「ちょ、ちょっと……っ!」
「逃げれば文句ないですよね?」
おれの言葉はまるで届いておらず、その流れのまま空いている右手で拓真の腕を掴み足の速さを速めていく。
後ろを振り向けば、まだおれの目には何かが映っている。黒い粒子を纏うそれは、特別追うことも動くことすらもせず、ただただ風の波に打たれている。その姿からは、当然何を考えているのかというのは読み取ることが出来ない。それがまた不気味だった。
曲がり角に差し掛かった一瞬、見えるはずのない顔に薄ら笑いが浮かんでいたような気がしたのは、恐らく気のせいだろう。……気のせいじゃないと、困る。
姿が見えなくなってからのことは、とても早かった。逃げるだなんて言うからどこまで行くのかと思ったら、言うほどでもなかったのだ。角を曲がった先にある人がそれなりに居る大通りに辿り着くと、強めに引かれていた腕はすぐに解放された。
「いやぁ、疲れた……ほんと疲れた……」
口先だけの疲れただなどという言葉に、騙されるわけがなかった。
「……誰のせいだと思ってるわけ?」
「いやいや、先輩がいけないんですよー?」
一体さっきのどの部分におれの落ち度があったのか全くもって分からないが、それはもうこの際どうでもいい。気になったのは、次に彼の口から羅列された言葉。
「やっぱり、視えない方が得ですよね。こういうのって」
その言葉は、決して拓真に言ったわけでもましてやおれに言ったわけでもなく、とにかく他人事で酷く淡々としていた覚えがある。
「さっきの、先輩は関わらないほうがいいと思うんですよねぇ」
「……なんで?」
「なんでも」
「答えになってない」
「なってなくても、駄目ったら駄目です」
困りながらも、あくまで笑顔を絶やさないその複雑な顔から、おれは目を離すことはしない。伝わっているのかは知らないが、真剣だったのだ。
「……どうしましょう?」
先に沈黙に堪えられなかったのは、彼のほうだった。
「普通に理由言えばいいんじゃないの?」
「それは嫌ですね」
「どうして?」
「そんなの、嫌だからに決まってるじゃないですか」
しかし、簡単に言うとラチがあかなかった。
考えなくても分かるが、彼の言動は最初からこの時まで全てにおいて余りにも不自然だったのだ。
「……君がこの前会っていた"知り合い"と関係あるの?」
「ないですよ」
それはまさしく、即答だった。
「あったとしても、オレはないって言いますけどね」
何かしらの嘘を既につかれている。そんな前提が、恐らくは出会った頃からあった。
「だから先輩」
それに気付いたのは、随分と時間が経ってからのことだ。
「これ以上は、何も聞かないでくださいね?」
何も教えない。そんな意思を持った微笑が、とあるモノを運んでくる。
――何か、冷たいものが頬に当たった。
該当する箇所に思わず手を触れ、視線を上に向ける。どんよりとした空を眺めると、目の前を何かがチラついた。
「あ、雪……? 雪っぽくないですか?」
この日の天気予報は、どうやら大当たりらしい。雪だということに気付くのに、少しだけ時間を要してしまっていた。
「ちょっと先輩、雪ですよ雪」
「うん、いやそれはいいんだけどさ」
「今日降るなら降るって言ってくださいよー」
「だから天気予報くらい見ればいいでしょ。じゃなくてさ」
「いやだって、天気予報見たら面白くないじゃないですか。オレの楽しみ無くなっちゃいますよ」
聞きたい答えがまるで返ってこないという、完全に悪い流れだった。天気の話なんでこの状況では本来どうでもいい筈なのだが、いちいち答えてしまっているおれが悪いのだろうか。もしそうだとするのなら、さっき彼が口々に言った「先輩のせい」というのは大方当たっているのかも知れない。
「それより先輩寒い……。いや滅茶苦茶寒くないですか?」
「つ、掴むなよ……」
「ちょっとくらいいいじゃないですかー」
彼の標的が、するりと拓真に変わる。我が物顔で左腕に掴まってべったりとくっついている様子は、さながら周りの誰かに見せつけているどこかの男女のそれのようだ。
「せんぱーい? 先輩ちょっと」
「な、なに?」
「いいから先輩、早く」
「ちょ、ちょっと……」
それはもう、正しく無理矢理だった。絡まられた右腕は、衣服を貫通して僅かに彼の体温が走る。
身長差が相まってかなり歩きづらいうえに、何よりどうしてこうなっているのか理解に苦しむ。もしかして、今まで起きたことを誤魔化しているのだろうか? それもおれの考えすぎか?
「ふたりの先輩の間に挟まれるって、なんかいいですよねぇ……。モテモテじゃないですか」
「……無理矢理挟まれてるようにしか見えないけど」
「いや別に、オレが暖かければなんでもいいっていうか」
真ん中だけ少し窪んでいるかのようになっているからだろうか、その道中拓真と目が合った気がした。多分気のせいだろう。
「でも、どうせすぐにお別れですね」
さも当たり前のように、軽快にそう口にした。
「オレの家こっちじゃないんですよ。反対方向なんですよね」
そう言ったかと思うと、掴まれていた腕が解放されていく。おれの腕には、まだ温もりが残ったままだ。
「じゃあ先輩、また何処かで」
彼の言うように、それは本当にすぐに訪れた。
自由になった腕と、それを存分に使っておれらに手を振っている彼。不思議とこれが最後なのではないかと思わせるあの笑顔がいかにおれを不安にさせているのかということに、恐らく当の本人は気づいていない。
◇
あれから、橋下くんと別れて一週間も経っていない頃だろう。確か一月も終わりを迎えようとしている時、おれ達ふたりはいつものように図書室に足を運んでいた。
どうしてか辺りがいつもより静かに感じていたのは、おれだけではなかったらしい。
「……橋下? だっけあいつ……。最近見たか?」
拓真の質問の意図は知らないが、聞いてきたということは多分気にはかけていたんだと思う。
「いや、あれ以来会ってないけど……。そもそも学年が違うんだし、そんな頻繁には会わないんじゃない?」
「そりゃそうか……」
いくら視えないとはいえ、あんなことがあってから彼を一度も見かけていないとなると、それなりに引っ掛かる部分があるのだろうか。
無論、おれが彼のことを何も考えていないという訳ではない。確かに気にはなるし、最悪あの後何かがあったのではと考えるのも分かる。でも、だ。
「……あ、やっぱりいた」
こういう人物は、おれらが意図しようがしまいが勝手に現れるというものだ。
「何か久しぶりですね?」
それがいかに慢心的考えであるかというのは、また別の話だが。
「あのー、この前のことなんですけど」
早速聞きたいことに触れてきたのは、以外にも彼のほうだった。橋下くんは、すぐ側に来ているにも関わらずこの前のようにずかずかと座ることはしない。しょうがなく、といった様子で目を合わせる辺りが、それを物語っていた。
「あの後、ああいうのに会ったりしました?」
「……いや、おれは視てないけど」
「そうですかー……」
「あの黒いの、探してるんだ?」
「そういうわけでもないんですけどねぇ」
あ、そうだ。まるで名案でも思い付いたかのように、そう口にした橋下君が声を上げる。そして言葉に出されたのはこうだ。
「一応言っておこうかなって思ってたんですけど、出来れば詮索しないで貰えると嬉しいっていうか、寧ろ記憶ごと抹消して欲しいっていうか。無理でもそういうことにしておいて欲しいっていうか」
よっぽといい案でも思い付いたのかと期待して待っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。つまりは視なかったことにして、これ以上の詮索はしないでくれということだろう。別に詮索してるつもりは毛頭ないが、一度視てしまったものに対してそう簡単に引き下がると彼は本気で思っているのだろうか?
「……全然意味が分からないんだけど。随分と都合がいいね?」
それは少々、虫がよすぎるというものだ。
「そこを何とかお願いしますよー」
馴れ馴れしい言葉を口にしながら、ようやく空いているおれの隣を陣取って距離を縮めてくる。お願いと手と手を合わせて懇願してきたかと思えば、チラチラとおれらの様子を伺っているのがよく分かった。どうやら、よっぽと知られたくないことが何処かにあったのだろう。思考を巡らせたところでそれが何なのかが分からない辺り、単に知り合って間もないからというだけなのかも知れないが、もしかするとおれは何かを見逃していたのだろうか?
「……じゃあ、ひとつだけ聞きたいんだけど」
ため息混じりにおれがそう口に出す。久しぶりに彼とちゃんと目があったような、そんな気がした。
「君の言う逝邪? この前会ってた知り合いと、最近のやつ。あれってそれに該当するの?」
「あー……知り合いなんて言いましたっけ? なら失言だったなぁ」
やってしまった、その言葉を体現するかのように彼が苦笑いを浮かべた。どうも彼の言葉は空を浮いているようで落ち着きがないが、どうやらおれは彼の答えたくない部分をちゃんと突けたらしい。
「別に知り合いってわけでもないですけどね。あと、逝邪ではないと思います」
「……どうして?」
おれのその問いに、彼は僅かに目を丸くした。
「先輩、それ愚問ですよ?」
嘲笑にも似た笑みで、彼はそう答えた。
「ひとつだけって先輩が言ったんじゃないですか。その質問には答えません」
その言葉に、おれは心の何処かで安堵を浮かべた。愚問というのはどちらかと言えば責め立てられているような、大抵の場合は何かを見落としているこちらに落ち度があるのだが、そういうことではないらしい。
「……じゃあ、俺がその質問をしたら答えるのか?」
彼が、そう口にしたすぐのこと。突然、拓真の声が割って入ってきたのだ。
今まで全く興味が無さそうに本に視線を落としていたくせに、どうやらちゃんと話は聞いていたらしい。
「そんなにこの話聞きたいですか?」
「気にさせるような言い方ばっかりするらな」
「そうですかね?」
彼は少し唸るように思考を巡らせ、早々に拓真からの解答を投げた。
「本当に逝邪って存在が居るとして、本当に幽霊を然るべきところに送るという力があるとするなら、ですよ?」
次に彼が続けた言葉は、あくまでも推測に過ぎない。
「纏ってるの、黒にはならないと思うんですよね」
だが、その言葉は確かに真理を突いているような気がしてならなかった。
「ということで、質問タイムはこれで終わり。詮索もしないってことで」
だが、どうやら本当にこれ以上のことは聞いても答えてはくれないらしい。オマケに、こっちにはなんのメリットもないこれ以上は詮索しないという条件付きだ。
「さっきから随分と強引だよね。知られなくないことでもあるんじゃないかって思われても文句言えないよ?」
「先輩こそ、そういうことあんまり言わなそうな顔して結構刺々しいですよねぇ。心が痛いんですけど」
「相手が君じゃしょうがないね」
「えー、絶対素じゃないですか」
これを素と言われてしまうと少々癪に障るのだが、あながち間違ってはいないせいで言葉に詰まる。それを確認したかのように、橋下君は身を乗り出した。
「ところで神崎先輩、なんですかその本。オレって本全然読まないんですよねー」
「読まなそうな顔してるもんな」
「それ、今流行ってるんですか?」
「……十年以上前に流行ったやつだけど」
「ふーん」
「興味ないなら聞くなよ」
橋下君に遊ばれている拓真を放っておくのは中々に面白いけど、流石にそのままっていうのは段々可愛そうになってくる。
「君って本当によく喋るよね。一応ここ図書室なんだけど」
僅かな慈悲と共に、おれは言葉を乗せた。
「あー、そういえばそうでしたねぇ。いやでも、学校の図書室なんてこんなもんじゃないですか?」
「別になんでもいいけどさ……。図書室なんて来なさそうな顔してるもんね」
「またその話ですか? 確かにそう来ませんけど」
学校の図書室なんてこんなもん。いや、彼が来る前まではそれなりに静かなはずだったのだから、それは絶対に違うと言っていいだろう。
だけどまあ、たまにはこういうのも悪くないのかも知れない。
元から読む気なんてない本に挟まれた栞が視界に入ると、おれは自然と本を畳んでいた。
「読むの飽きた……」
それを証明するかのように、おれと拓真は放課後の図書室にいる。用が無いのならさっさと帰ればいいものを、当たり前のようにここで暇を潰しているのが日常になってしまっていることに、特別疑問は抱かない。
特に意味のないこの時間が存外嫌いじゃないと思えるようになったのは、果たしていつのことだったか。それすらも思い出せなかった。
「……じゃあ帰ればいいだろ」
「それ拓真が言う? 図書室に読みたいのが無いって言うからわざわざ持ってきたんだから、もうちょっと言い方ないの?」
「……例えばなんだよ」
「いや、なんでおれが例えを出さないといけないわけ?」
そもそもどうして集まっているのが図書室なのか、というところを突っ込まれると正直困る。例えるなら、意味もなく本屋に行って買う気もないのに店を歩いてみたり、一部の学生が帰りにゲーセンに行くのと同じだろう。昔はおれの家というか、花屋まで来ることが多かったけど、それがいつしか図書室に変わっただけ。ただそれだけだ。
勿論そんなことを毎日しているわけじゃないし、図書室に来る曜日は大体決まっていたりもする。暗黙の了解、というものに近いかも知れない。
「あ、先輩みーっけ」
そのふたりでいるだけのよく分からない空間に、当然のように話に入ってきたひとりの男がいた。
「あの後、結局雪降らなかったですね。オレ結構期待してたんですけど」
橋下 香という、ある日突然現れたにも関わらず、まるで最初からいたかのように話を進めている馴れ馴れしい人物だ。
「いやー降りそうな感じだったんですけどね、惜しかったなぁ……。それに、あの人も見つからなかったし」
天気予報もろくに見ることをしていなかったくせして雪が降らなかったことを本当に残念そうにしながら、雪は降らないのかと心待ちにしている様子は少々整合性に欠けると言っていいだろう。まるで、情報を与えられることを待ち続けている都会の子供のようだ。
それに加えて、あの場にいなかった拓真がいるにも関わらず平然と起きたことを口にしているのは少々いけすかない。核心的なことは言葉に出していないものの、そう簡単に口にしていいことではないはずだ。
「その人、知り合いですか?」
拓真を視界に入れながら、橋下君がそう問いかける。
「知り合い……まあうん。そうかもね」
「なんですかその曖昧な答え。じゃあ隣失礼しまーす」
荷物が床に落ちていく音を聞きながら、拓真の隣に座る彼の様子を視界に入れた。拓真はといえば、さして興味が無さそうに本のページをパラパラとめくっていく。あの感じは絶対読んでいないと断言していいだろう。
一応気にはしているようで、でも視線を向けることをしないのは、おれらに気を使っているだけなのかそれとも余り話に入りたくないからなのか、どちらだろう。まあ別にどっちでもいいんだけど、元々拓真って余り人と話すような人でもないし、かといって人見知りというのとは恐らく少し違う系統だろう。
「あ、オレ橋下って言うので。宜しくお願いしますね」
そんな男に、よくもまあこの橋下という人物は話し掛けようとするものだ。
「ふうん……」
聞いているのかいないのか、拓真からは適当な返事が返ってきた。
「先輩? 先輩ですよね? オレ名前教えて欲しいなー」
「……神崎 拓真だけど」
「神崎先輩ですね。オレ覚えましたよ」
「あ、そう……」
もしかすると、単に何も考えていないだけなのかも知れない。
「……で、君何しに来たの? わざわざおれのこと探してさ」
溜め息混じりに、おれは彼に言葉を向けた。
「えー別に何だっていいじゃないですか。たまたま来たら見つけちゃったのはどうしようもないですよ」
「たまたま、ね」
「疑ってます?」
「さあ?」
疑っている。そう言われたらそうかも知れない。まだ出会って僅かだからというのも勿論あるけど、なんていうか、全体的に彼の言動が軽いのだ。時間にすると恐らくまだ数十分しか話していないと思うけど、その時間の中でもこうやって思ってしまうということは、おれが受けた彼の印象というのがよっぽどだったのだろう。
「ああオレ、幽霊とか見えちゃうんですけど、この前幽霊と話してるところ宇栄原先輩に見られちゃったんですよねぇー」
拓真が話半分で聞いているのを察してなのか、自分から簡単に経緯を説明し始める。拓真のまわりの空気が一瞬止まったようなそんな気がしたが、恐らくは気のせいではなかったのだろう。返事をすることはなかったが、拓真の目はおれを捕らえていた。
「まあうん……そういう感じだから。一応言っておくけど、偶然ね」
拓真は、おれの弁解に答えることをしない。特別怒っているわけでは無さそうだったけど、「お前またか」とでも言いたそうな顔をしているというのだけはよく分かった。
「……その感じだと、神崎先輩って色々知ってる感じですか?」
その質問に答えることに、ほんの僅かだけれど戸惑った。
確かに彼の言っていることは大体合ってるけど、おれら以外の誰かが聞いているかも知れないにも関わらずに、こういうことを日常会話のように言ってしまうようなところ。構わずに拓真まで巻き込もうとしているところ。そこに疑念を抱くのは当然だろう。
会ったばかりだというのを踏まえたとしても、彼が一体何を考えてそういう風な態度を取っているのかが、現状理解が及ばなかった。
「君の色々って言うのがおれらの考えてることと合ってるかは分からないけど、そんな感じかな」
不本意ではあるけれど、一応言っておかないと後でややこしいことになりそうではあったから、そもそも答える気の無さそうな拓真に変わっておれが口を開いた。
「そうなんですねー……なら良かったです」
一体何を聞いて良かったと言っているのかは全然分からないが、言葉の通り橋下君はどこか納得したような素振りで言葉を述べる。
それから、彼はとにかく五月蝿かった。五月蝿いというよりはよく喋るというか、隣にいる拓真が少し可哀想になってくるくらいにわりとずっと喋っていた。
オレ、本ってあんまり読まないんですよね。とか、雪降らないかなあ。とか、次に雪が降りそうな時っていつですかね? とか。
天気予報くらい見ればいいのにと言いたいところだけど、というか言ったけど、「見てもすぐに忘れちゃうんですよねー」とか何とか言われてかわされてしまった。いや違う、問題は別にそこじゃない。そんなのはどうだっていい。
「ところで、ちょっと聞いても良いですか?」
話もコロコロ変わるし、多分、こういうところがおれに疑われるのだろう。いや、正直なところそこもわりとどうでもいい。そういう性格なのだというのは十分に分かった。
「なに?」
「逝邪(せいじゃ)っていう存在、知ってます?」
問題だったのは、完全に彼のペースにこちらが巻き込まれているということだ。
◇
「逝邪……?」
おれがそう問いかけると、彼はまた大量の言葉を投げた。
「幽霊よりももっと格が上で、でも悪霊とかいうのとはまた別のもの。おれらでは手に負えないような、いわゆる怨霊・悪霊という存在を、無条件でとある場所に送り出すためだけに存在していて、それ以外の行動は禁止されているモノのこと」
まるで完全に暗記してきたかのようにスラスラと彼の口から出てくるそれらに、心なしか空気が冷えたようなそんな気がしてならなかった。
逝邪なんていう言葉、今まで聞いたことも無かったのだ。
「基本的に人を襲うことをしたらいけないらしいんですけど、まあそう言われてるってだけで実際は多分違いますよね。人を襲うってだけなら、別に簡単ですし」
「……そんな話、聞いたことないけど」
「都市伝説っぽい感じですけどねー」
都市伝説というと、つまりはあれか。ネットとかで話題になったりする類いのやつか。それなら別に、知らないからといって無知というほどではないだろう。
「でも、そういう存在になるには条件があって。それは、オレらみたいな『幽霊を視ることが出来て、尚且つそれらを制圧出来る力を持っている存在』が、いわゆる向こうの世界に上手く行くことが出来なかった為に起きる、一種の現象みたいな感じらしいんですけど」
説明が終わったのか、一旦彼の言葉が止まる。
「宇栄原先輩は、こういうのいると思います?」
「は?」
「いやだって、そういう噂が立つってことは、一定の可能性はあるわけじゃないですか。しかもそれって、オレらみたいなのしか知りえない情報ばっかりだし」
あ、オレは別に信じてませんけど。そう言いながらも、彼はその逝邪という存在が何なのかというところの答えを求めているようだった。
「仮に、ですよ? もしそういう類の存在が本当にいたら、オレじゃ敵わないなあっていうか。別にオレ、先輩みたいに幽霊と対峙出来る力は持ってないですし。だから出会ったら嫌だなあって。ただそれだけの話なんですけど」
「え……?」
羅列されたそれらの言葉に、おれの眉が歪んだ。
「神崎先輩はいると思います? 逝邪って」
「……俺、幽霊とか見えないんだけど」
「いや、今は視える視えないの話なんてしてないですから。こういうの気になりません?」
「ちょっと待った」
今日、この空間の中ではじめておれの声がちゃんと認識されたかのように、ふたりが一斉におれを視界にいれる。
「おれ、君の前で力なんて使ったことないよね?」
彼は、「先輩みたいに幽霊と対峙出来る力は持ってない」と言った。でも、その言葉は端的に言うならまずあり得ない。
だっておれは、あの時単に彼が何かと話しているというのを見ただけで、それ以外のことは何もしていないのだから。
「……そうでしたっけ?」
この人物、橋下 香は明らかに惚けている。
「まあ何というか、そんな気がするってだけだったんですけど。力にも種類があるじゃないですか。視えるだけの人って少ないと思うんですよ。だから多分、先輩はそっち側の人なんだろうなって」
それは明らかであるはずなのに。
「違いました?」
詮索することを、おれは心のどこかできっと拒んでいた。
そもそも、彼の言う力というのが何を指しているのかもよく分からないし、聞きたいことがどんどんと増えていくせいで最初におれが何を疑問に思ったのか忘れてしまった。もういい、面倒だから今は取り合えず目先にある疑問を片付けておこう。
「そういう君は、その力っていうのは持ってるの?」
「オレですか? そうですねぇ……」
少し考えた後、彼はこう言った。
「あったら、良かったんですけどね」
力のない笑いが、一番最初のあの時に見たそれとよく似ていたような気がしたのは、おれの思い違いなのか否か。この状況じゃ、それが果たして同じものなのかという結論を出すことは出来そうにない。
「……じゃ、オレはそろそろ帰ろうかなっと」
思考を巡らせている最中、お構いなしといった様子で彼は話を遮断させた。
「……君、本当に何しに来たの?」
「ああいや、先輩がいつもどこにいるのか知りたかっただけなので。目的は達成したかなーっていうか」
本当に彼は一体なんなんだろうか、というのを形にした溜め息がおれの口から漏れる。一番最初は、「たまたま来たらおれらを見つけた」と言った。それが今の台詞はどうだ? 「どこにいるのか知りたかった」というのは、それはつまり、たまたまではなくおれを探していたんじゃないのか?
……いや、おれを探していてたまたまここに来たのなら、一応の辻褄は合うのだろうか。何かもう、考えるだけ無駄なような気がしてきた。そう思っているのは果たしておれだけなのだろうか?
「それじゃ」
乱雑に置かれた荷物を手に取りさっさと席を立っていく彼のことを、おれらはただ見ていることしかしない。
あっという間に静かになるこの場所が、どうしてか新鮮に感じてしまう。
「……よく喋るな、あいつ」
考えるだけ無駄、というのはどうやら正解らしい。
◇
建物の中から外に出た時というのは、得てして本来の気温よりも寒く感じるものだけれど、今日はいつもと勝手が違う。
「寒……」
口に出してしまうほどに、寒い。それに風がとにかく冷たかった。冬だから、なんていう言葉で片付けてしまってはつまらない上に、今日は度を越している。
原因は、稀に見る天気の悪さともうひとつ。
「予報、当たったらやだなあ……」
「……さっきの奴が喜びそうだな」
「はは……」
あの場で言うことはしなかったけど、今日の予報は確かそんな感じだった記憶がある。そう思うと、寒さが余計おれをつんざいた。
「……あいつの言ってたこと、本当か?」
あいつの言ってたこと、というのは、恐らくただの雑談の中に埋もれてしまっているであろうあれ。
おれがひとりで家に帰っている道中、橋下君が公園で異端物質と話をしていたところを見た。というのは本当か? ということだろう。
「まあ、うん。大体合ってるかな」
幸い橋下君の言っていたことに相違は無かったし、別におれ自身に何かあったわけでもないから、ここで下手な嘘は言わない。強いて口にしていないことを上げるのであれば、橋下君が詮索する隙をおれに一切与えなかったところを見ると、恐らく余り関わってはいけないものだったのだろうという、おれの推測だけだ。
「……本当かよって顔してるけど、それ以外のことは特に無かったからね?」
「別に疑ってはないけど」
「じゃあ何? 普通に気になるって話?」
「気になるっていうか……」
口をつぐんだのも暫く、拓真の口から言葉が出されるのにそう時間はかからなかった。
「なんか、変に巻き込まれそうだなって思っただけ」
「そうでもないと思うけど? こういうのって、どっちかっていうとおれらより――」
何の関係のない人の方が巻き込まれやすいと思うんだけど。そう言おうと思った時だ。
思わず、口から声が漏れそうになる。それと同時に、おれは足を自然に止めてしまっていた。ああ、こういうの。お約束とでも言えばいいのだろうか。こういう話をすると寄ってくるという話はよく聞くけど、その実本当なのかも知れない。
黒く淀んだ気配が、冷たい風と共に僅かに横切った。
こんなところに、というのがこの時の正直な感想で、今まで当たり前に通っていた場所に急に現れたとなると、恐らく未練があって等という理由でこの辺りにいるという訳ではないのだと推測ができる。
対象物が場所を転々としているということになるだろうけど、どちらにしても明らかにおかしかった。
簡単に言うと、黒いもやが学校付近をうろついている。それが本体ではないというのは分かるのだけれど、問題なのはそこではない。
「おれさあ、拓真がいるところでこういうこと言いたくないんだけど……」
少しだけ思案した後、口から出たのはおおよそ想定通りの言葉だった。
「見ちゃったものを放っておくのは、やっぱり無理があるっていうか」
そう言うと、拓真はため息を落とす。この馬鹿をどうするか、といった様子で頭に手をやるその実、多分考えていることはそんなに多くはないのだろう。
「だったら俺も行く」
「……ま、勝手にしてよ」
そう言いつつも、本当は勝手にして欲しくはない。だが、拓真って大人しそうな顔して言い出したら簡単に退かないタイプだし、無理矢理退いてもらう方が面倒だったから、この際それはしょうがない。おれが退くという選択肢も、当然存在しないのだけれど。
目先にある黒いそれ、もやが発する先を辿っていく。この時間だから学生ばかりが目立つけど、誰もそのもやに気づいている様子はない。こういうのを視ると、あの時橋下君が言っていたように、自分以外にこういうのが視える人なんていないんじゃないかという錯覚に陥ってしまう。
人間の本能的な部分なのだろうか。近づく度に、まるで示し合わせたようにして人が減っていくのが不思議で仕方がなかった。まるで、全ての事柄が仕組まれているのではないかと思うくらいに、だ。
帰路を外れ、大通りを抜けたすぐ左の道に入る。段々と黒いそれが色濃くなっていくのが、手に取るように分かった。天気も相まってか、何となく空気も淀んでいるような気がしてならない。
「あそこ、いるけど拓真は視えないよね?」
細い道の丁度真ん中辺りだろうか。
「……何もない見えないけど」
黒いヒト型の何かが、そこにはいた。
一応拓真にも説明したが、ふうん……と適当な返事を返してくる辺り、この人物は絶対に分かっていない。
もやのようなものを纏っている存在には、確かに何度か会ったことはある。でも、あれは単純に幽霊だった。だから何とかなった。しかし、今回ばかりは様子が違う。唯一、あれが靄の集合体なのではないかという憶測程度のことしか分からなかった。
「どうするんだ?」
「どうするって言われても……。おれ、あんなの視たことないし」
それを聞いた途端、拓真は当然怪訝な顔した。
「お前、それで追ったのか?」
「いやさ、おれだっていつもだったら追わないけど……。これは予想してなかったっていうか」
「……お前の追わないは信用できない」
五月蝿いな。というおれの一言と同時に、少し力を込めた左肘が拓真のどこかに当たる。「おま……マジふざけんな……」という力のない言葉を残して声が聞こえなくなった辺り、かなり変なところに当たったらしいが、今はそんなこと気にしてられない。
一瞬、黒い何かの隙間から身体のようなモノが視えたような、そんな気がした。
……この似たような状況。靄の程度は違えど、おれは最近見たことがある。
あの時は確か、灰色を纏ったこれまた視たことのないモノだった。果たしてこれが同一の存在なのか、何が正しくて何が間違っているのか。それを見極めるにはまだ何かが足りない。そうであるはずなのに、言い様のない既視感に溺れてしまう。
――逝邪。
どういうわけか、その言葉が何故かおれの頭をよぎった。
どこかの誰かが言っていたけど、その単語を説明するのに必要な文字列は確かこうだ。
『幽霊よりももっと格が上で、でも悪霊とかいうのとはまた別のもの。おれみたいなのでは手に負えないような、いわゆる怨霊・悪霊という存在を、無条件でとある場所に送り出すためだけに存在していて、それ以外の行動は禁止されているモノのこと』
誰かが確か、そんなことを言っていた。
今日の放課後までは知らなかった言葉が、頭を駆け巡る。意識せざるを得なくなってしまったのは、完全にどこかの誰かのせいだ。
「あれ、また会いましたね」
……後ろから、聞きたくない声が走る。
この状況には到底似つかない軽快な声。確認するまでもなく、振り向けばそこには橋下君の姿があった。
◇
「先輩達って結構あれなんですね。行動力に溢れてるっていうか」
「……君に言われたくないんだけど」
一体誰のせいだというのだろう。当の本人はといえば、そんなことはまるで気にしていないかのような態度で、それがおれの機嫌に影響を与えていく。
ま、そうですよねぇ。そうやって他人事のように言う彼との距離は、気づけば既に縮まっている。地面を踏みしめる音は、今のおれには聞こえない。それくらい彼の態度にうんざりしていたのだ。
すると突然、強い風が辺りを走る。巻き起こったのは確かに風ではあった。恐らく、拓真にしてみたらただのそれだっただろう。だけど、そうではなかったのだ。
黒く淀んだ粒が、空を伝う。まるで小さな粒子ひとつひとつが意思を持っているかのように波打つ様は、なんとも現実とは言い難い居心地の悪さを助長していた。
……ほんの僅かな隙間から顔が見えそうになったのを隠すかのように、ひとりの男が動き出す。
「ちょっと待った」
気付けば、橋下君の腕をむんずと掴んでいた。
「あー、別に何もしないですよ? それに……」
僅かにおれのことを視界に入れている彼は、次にこんな言葉を口にした。
「先輩が居るときは、何も起こらないんじゃないですかね?」
余りにも不透明なその言葉に全く疑問を抱かない、なんてことはあるわけがない。
「だから離してくださいよ」
いい加減、その適当な態度を改めてくれないか? そう言おうと思った。
「……嘘ばっか」
それなのに、少しだけ濁した言い方をしてしまうのがよくない。こういうのが後悔の元になるということは、どうせ後になって分かるというものだ。
「嘘、ねぇ」
こうして、おれの言葉に不服を申し立てる声がした。
「そうやって言うならこうしましょう」
まるで止めたおれが悪いかのような言い方をする彼が次にとった行動は、少し意外なものだった。
彼は、おれの腕を掴み返したかと思えば、拓真のいる方つまりは反対方向へと歩を進めた。強く握る手の感触が、布越しによく伝わってくる。
「ちょ、ちょっと……っ!」
「逃げれば文句ないですよね?」
おれの言葉はまるで届いておらず、その流れのまま空いている右手で拓真の腕を掴み足の速さを速めていく。
後ろを振り向けば、まだおれの目には何かが映っている。黒い粒子を纏うそれは、特別追うことも動くことすらもせず、ただただ風の波に打たれている。その姿からは、当然何を考えているのかというのは読み取ることが出来ない。それがまた不気味だった。
曲がり角に差し掛かった一瞬、見えるはずのない顔に薄ら笑いが浮かんでいたような気がしたのは、恐らく気のせいだろう。……気のせいじゃないと、困る。
姿が見えなくなってからのことは、とても早かった。逃げるだなんて言うからどこまで行くのかと思ったら、言うほどでもなかったのだ。角を曲がった先にある人がそれなりに居る大通りに辿り着くと、強めに引かれていた腕はすぐに解放された。
「いやぁ、疲れた……ほんと疲れた……」
口先だけの疲れただなどという言葉に、騙されるわけがなかった。
「……誰のせいだと思ってるわけ?」
「いやいや、先輩がいけないんですよー?」
一体さっきのどの部分におれの落ち度があったのか全くもって分からないが、それはもうこの際どうでもいい。気になったのは、次に彼の口から羅列された言葉。
「やっぱり、視えない方が得ですよね。こういうのって」
その言葉は、決して拓真に言ったわけでもましてやおれに言ったわけでもなく、とにかく他人事で酷く淡々としていた覚えがある。
「さっきの、先輩は関わらないほうがいいと思うんですよねぇ」
「……なんで?」
「なんでも」
「答えになってない」
「なってなくても、駄目ったら駄目です」
困りながらも、あくまで笑顔を絶やさないその複雑な顔から、おれは目を離すことはしない。伝わっているのかは知らないが、真剣だったのだ。
「……どうしましょう?」
先に沈黙に堪えられなかったのは、彼のほうだった。
「普通に理由言えばいいんじゃないの?」
「それは嫌ですね」
「どうして?」
「そんなの、嫌だからに決まってるじゃないですか」
しかし、簡単に言うとラチがあかなかった。
考えなくても分かるが、彼の言動は最初からこの時まで全てにおいて余りにも不自然だったのだ。
「……君がこの前会っていた"知り合い"と関係あるの?」
「ないですよ」
それはまさしく、即答だった。
「あったとしても、オレはないって言いますけどね」
何かしらの嘘を既につかれている。そんな前提が、恐らくは出会った頃からあった。
「だから先輩」
それに気付いたのは、随分と時間が経ってからのことだ。
「これ以上は、何も聞かないでくださいね?」
何も教えない。そんな意思を持った微笑が、とあるモノを運んでくる。
――何か、冷たいものが頬に当たった。
該当する箇所に思わず手を触れ、視線を上に向ける。どんよりとした空を眺めると、目の前を何かがチラついた。
「あ、雪……? 雪っぽくないですか?」
この日の天気予報は、どうやら大当たりらしい。雪だということに気付くのに、少しだけ時間を要してしまっていた。
「ちょっと先輩、雪ですよ雪」
「うん、いやそれはいいんだけどさ」
「今日降るなら降るって言ってくださいよー」
「だから天気予報くらい見ればいいでしょ。じゃなくてさ」
「いやだって、天気予報見たら面白くないじゃないですか。オレの楽しみ無くなっちゃいますよ」
聞きたい答えがまるで返ってこないという、完全に悪い流れだった。天気の話なんでこの状況では本来どうでもいい筈なのだが、いちいち答えてしまっているおれが悪いのだろうか。もしそうだとするのなら、さっき彼が口々に言った「先輩のせい」というのは大方当たっているのかも知れない。
「それより先輩寒い……。いや滅茶苦茶寒くないですか?」
「つ、掴むなよ……」
「ちょっとくらいいいじゃないですかー」
彼の標的が、するりと拓真に変わる。我が物顔で左腕に掴まってべったりとくっついている様子は、さながら周りの誰かに見せつけているどこかの男女のそれのようだ。
「せんぱーい? 先輩ちょっと」
「な、なに?」
「いいから先輩、早く」
「ちょ、ちょっと……」
それはもう、正しく無理矢理だった。絡まられた右腕は、衣服を貫通して僅かに彼の体温が走る。
身長差が相まってかなり歩きづらいうえに、何よりどうしてこうなっているのか理解に苦しむ。もしかして、今まで起きたことを誤魔化しているのだろうか? それもおれの考えすぎか?
「ふたりの先輩の間に挟まれるって、なんかいいですよねぇ……。モテモテじゃないですか」
「……無理矢理挟まれてるようにしか見えないけど」
「いや別に、オレが暖かければなんでもいいっていうか」
真ん中だけ少し窪んでいるかのようになっているからだろうか、その道中拓真と目が合った気がした。多分気のせいだろう。
「でも、どうせすぐにお別れですね」
さも当たり前のように、軽快にそう口にした。
「オレの家こっちじゃないんですよ。反対方向なんですよね」
そう言ったかと思うと、掴まれていた腕が解放されていく。おれの腕には、まだ温もりが残ったままだ。
「じゃあ先輩、また何処かで」
彼の言うように、それは本当にすぐに訪れた。
自由になった腕と、それを存分に使っておれらに手を振っている彼。不思議とこれが最後なのではないかと思わせるあの笑顔がいかにおれを不安にさせているのかということに、恐らく当の本人は気づいていない。
◇
あれから、橋下くんと別れて一週間も経っていない頃だろう。確か一月も終わりを迎えようとしている時、おれ達ふたりはいつものように図書室に足を運んでいた。
どうしてか辺りがいつもより静かに感じていたのは、おれだけではなかったらしい。
「……橋下? だっけあいつ……。最近見たか?」
拓真の質問の意図は知らないが、聞いてきたということは多分気にはかけていたんだと思う。
「いや、あれ以来会ってないけど……。そもそも学年が違うんだし、そんな頻繁には会わないんじゃない?」
「そりゃそうか……」
いくら視えないとはいえ、あんなことがあってから彼を一度も見かけていないとなると、それなりに引っ掛かる部分があるのだろうか。
無論、おれが彼のことを何も考えていないという訳ではない。確かに気にはなるし、最悪あの後何かがあったのではと考えるのも分かる。でも、だ。
「……あ、やっぱりいた」
こういう人物は、おれらが意図しようがしまいが勝手に現れるというものだ。
「何か久しぶりですね?」
それがいかに慢心的考えであるかというのは、また別の話だが。
「あのー、この前のことなんですけど」
早速聞きたいことに触れてきたのは、以外にも彼のほうだった。橋下くんは、すぐ側に来ているにも関わらずこの前のようにずかずかと座ることはしない。しょうがなく、といった様子で目を合わせる辺りが、それを物語っていた。
「あの後、ああいうのに会ったりしました?」
「……いや、おれは視てないけど」
「そうですかー……」
「あの黒いの、探してるんだ?」
「そういうわけでもないんですけどねぇ」
あ、そうだ。まるで名案でも思い付いたかのように、そう口にした橋下君が声を上げる。そして言葉に出されたのはこうだ。
「一応言っておこうかなって思ってたんですけど、出来れば詮索しないで貰えると嬉しいっていうか、寧ろ記憶ごと抹消して欲しいっていうか。無理でもそういうことにしておいて欲しいっていうか」
よっぽといい案でも思い付いたのかと期待して待っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。つまりは視なかったことにして、これ以上の詮索はしないでくれということだろう。別に詮索してるつもりは毛頭ないが、一度視てしまったものに対してそう簡単に引き下がると彼は本気で思っているのだろうか?
「……全然意味が分からないんだけど。随分と都合がいいね?」
それは少々、虫がよすぎるというものだ。
「そこを何とかお願いしますよー」
馴れ馴れしい言葉を口にしながら、ようやく空いているおれの隣を陣取って距離を縮めてくる。お願いと手と手を合わせて懇願してきたかと思えば、チラチラとおれらの様子を伺っているのがよく分かった。どうやら、よっぽと知られたくないことが何処かにあったのだろう。思考を巡らせたところでそれが何なのかが分からない辺り、単に知り合って間もないからというだけなのかも知れないが、もしかするとおれは何かを見逃していたのだろうか?
「……じゃあ、ひとつだけ聞きたいんだけど」
ため息混じりにおれがそう口に出す。久しぶりに彼とちゃんと目があったような、そんな気がした。
「君の言う逝邪? この前会ってた知り合いと、最近のやつ。あれってそれに該当するの?」
「あー……知り合いなんて言いましたっけ? なら失言だったなぁ」
やってしまった、その言葉を体現するかのように彼が苦笑いを浮かべた。どうも彼の言葉は空を浮いているようで落ち着きがないが、どうやらおれは彼の答えたくない部分をちゃんと突けたらしい。
「別に知り合いってわけでもないですけどね。あと、逝邪ではないと思います」
「……どうして?」
おれのその問いに、彼は僅かに目を丸くした。
「先輩、それ愚問ですよ?」
嘲笑にも似た笑みで、彼はそう答えた。
「ひとつだけって先輩が言ったんじゃないですか。その質問には答えません」
その言葉に、おれは心の何処かで安堵を浮かべた。愚問というのはどちらかと言えば責め立てられているような、大抵の場合は何かを見落としているこちらに落ち度があるのだが、そういうことではないらしい。
「……じゃあ、俺がその質問をしたら答えるのか?」
彼が、そう口にしたすぐのこと。突然、拓真の声が割って入ってきたのだ。
今まで全く興味が無さそうに本に視線を落としていたくせに、どうやらちゃんと話は聞いていたらしい。
「そんなにこの話聞きたいですか?」
「気にさせるような言い方ばっかりするらな」
「そうですかね?」
彼は少し唸るように思考を巡らせ、早々に拓真からの解答を投げた。
「本当に逝邪って存在が居るとして、本当に幽霊を然るべきところに送るという力があるとするなら、ですよ?」
次に彼が続けた言葉は、あくまでも推測に過ぎない。
「纏ってるの、黒にはならないと思うんですよね」
だが、その言葉は確かに真理を突いているような気がしてならなかった。
「ということで、質問タイムはこれで終わり。詮索もしないってことで」
だが、どうやら本当にこれ以上のことは聞いても答えてはくれないらしい。オマケに、こっちにはなんのメリットもないこれ以上は詮索しないという条件付きだ。
「さっきから随分と強引だよね。知られなくないことでもあるんじゃないかって思われても文句言えないよ?」
「先輩こそ、そういうことあんまり言わなそうな顔して結構刺々しいですよねぇ。心が痛いんですけど」
「相手が君じゃしょうがないね」
「えー、絶対素じゃないですか」
これを素と言われてしまうと少々癪に障るのだが、あながち間違ってはいないせいで言葉に詰まる。それを確認したかのように、橋下君は身を乗り出した。
「ところで神崎先輩、なんですかその本。オレって本全然読まないんですよねー」
「読まなそうな顔してるもんな」
「それ、今流行ってるんですか?」
「……十年以上前に流行ったやつだけど」
「ふーん」
「興味ないなら聞くなよ」
橋下君に遊ばれている拓真を放っておくのは中々に面白いけど、流石にそのままっていうのは段々可愛そうになってくる。
「君って本当によく喋るよね。一応ここ図書室なんだけど」
僅かな慈悲と共に、おれは言葉を乗せた。
「あー、そういえばそうでしたねぇ。いやでも、学校の図書室なんてこんなもんじゃないですか?」
「別になんでもいいけどさ……。図書室なんて来なさそうな顔してるもんね」
「またその話ですか? 確かにそう来ませんけど」
学校の図書室なんてこんなもん。いや、彼が来る前まではそれなりに静かなはずだったのだから、それは絶対に違うと言っていいだろう。
だけどまあ、たまにはこういうのも悪くないのかも知れない。
元から読む気なんてない本に挟まれた栞が視界に入ると、おれは自然と本を畳んでいた。