12話:知られてはいけないこと


2024-08-15 10:39:04
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 もし、おれが幽霊なんて見えないなんてことない普通の人間だったら、一体何が変わっていただろうか。そう思うことが少しずつ増えていったのは、ある種当然だと言っていいのだろう。
 正直なところ、それらが見えてしまうというのは余り良い気はしないし、何より見えてしまうことによって必然的にそれに巻き込まれてしまう可能性が高くなってしまう。
 どうして自分がそういうものを見えてしまう側の人間なのか? どうして知りもしない存在の為に巻き込まれないといけないのか? とかなんとか、小学生の頃だったら疑問にすら思わなかったそれらは、いつしかおれの周りを渦巻くようになった。
 そう思う原因のひとつとして挙げられるのは、恐らく中学も半ばになった頃の、とあるひとりの人物が関係しているだろう。

(よりによってあんなところに……)

 あの時は確か、学校の移動教室かなんかで二階の図書室で調べ物をしていた時だったと思う。授業の一環だったから当然他の学生がいる中、窓の外から見えた制服姿のひとりの生徒。この流れからいって容易に想像が出来るだろうけど、そこにいたのは紛れもなく幽霊だった。
 ただ、別に見えたからといって相手にする必要はないし、そもそも首を突っ込むこと自体が良くないということは小学生の時によく分かったから、人の目もあるし極力気にしないようにはしていた。
 だけど、見えてしまうからこそなのか、つい目で追ってしまうというのはいつになっても変わらない。偶然見えてしまっただけであれば、深入りなんてする必要なんてどこにもない。それは十分理解している。そのつもりだった。

(……帰るときにまだ居たら考えようかな)

 でもこの時のおれは、深入りしないという選択を取らなかった。何故なら、距離が離れているにも関わらず鳥肌が立つくらいの異様な空気がそこに漂っていたからだ。
 視えない人からすれば多分なんてことないのだろうけど、余りいい気はしないのは事実としてそこに存在している。今のおれがこの状況に見舞われたとしても、恐らく同じ選択をとっていただろう。

「……なんかいたか?」

 一緒にいた神崎君が、おれにそう問いかける。

「いや? 何もいなかったけど」

 なんていう特に生産性のない会話が、この頃はわりと日常茶飯事だったと言っていいだろう。小学生の頃に出会って以来、神崎君が同じ学校に通っていたことと、意外と近くに住んでいるということが分かったということもあって、何となく一緒に帰ることも増えていって、何となくここまで来てしまった。ただ、クラスが同じになったのは中学が初めてだった。
 傍から見たら、ただ空を見つめていたおれに話かける神崎君という一連の流れなだけかも知れない。でも、果たして本当にそれだけなのだろうか?
 おれが何も見えないただの人間であれば、そもそもこんな会話なんて起こりえない。だからというか、こういう場合は少しだけやりにくかった。
 別に神崎君が悪い訳じゃないし、それ以前に隠しているおれが原因ではあるのだけれど、かといってそういう類の話を簡単に誰かに話すほど馬鹿じゃないし、普通なら隠そうとするだろう。
 元々、お世辞にも人付き合いが良いと呼べる方ではなかったし、友達と呼べる人なんて恐らくは片手で数えても指が余るくらいしかいなかったから、単独行動するにあたってはひとりの方がやっぱり楽だなとか、この時はそんなことを考えていた。それはまあ、今も変わらないといえばそうなのだけれど。
 いつか、おれの知らないところで誰かを巻き込んでしまう可能性だってある。それはやっぱり避けたかったのかも知れない。
 全ての授業が終わりを迎える頃、図書室に行ってみてまだそこにいたのなら、その時は人目を忍んで行ってみてもいいかも知れない。なんて思いながらその授業自体はそのまま終わったけど、多分おれが声をかけない限り、或いはおれ以外の視える誰かが見つけない限り、ずっとあそこにいるんだろうなという直感のようなのが働いた。
 そしてそれは、案の定だった。

「……いない、わけないよねぇ」

 放課後、誰かに構うこともせず早々に図書室へと足を運び、それがまだいることを確認して、人が少なくなるその時まで待つ。というのが、おれの考えていた一番無難な行動だった。
 幸い途中まで読んでいた本があったからそれで暇をつぶして、三十分は過ぎたころだろうか。部活をしている生徒はそれなりにいるものの、その幽霊がいる場所というのが余り人に触れない場所だったから、余り遅い時間になるのも嫌だったおれは体を動かした。
 ただ、この状況でも何かの見間違いだったらなんて思っていた自分がいたし、それ以前に、どうしておれはこんなお節介みたいなことをしようとしているのかもよく分からない。

「こんにちは」

 でも、視えてしまったということはつまりそういうことなのだ。

「ひとり?」

 言葉だけ見ると、まるで人の行く道を邪魔するナンパ男のようで、正直思い返すというのは余りしたくない。

「……どうして、こんなところにいるの?」

 それにしても、人が来ないような裏側の場所でまだよかったんじゃないだろうか。人が多い教室とかにいたら、流石に人目を偲んで会いに行くっていうのはリスクが大きい。いや、それ以前にこんな存在なんていない方がいいに決まっているのだけれど、おれの感覚がマヒしているのか、一番最初に考えるのは幽霊のことばかりだ。
 目の前のその人は、一向に答えることをしない。靡く風が、寒空の中なのにどうしてか生温く感じる。それは恐らく、まだおれの目には視えていないモノが周りに漂っていたからだろう。
 時を感じさせない流れを作っているそれは、どうやら彼女の周りを取り巻きはじめているらしく、地面に落ちている木の葉が音を立てて動き始めた。
 ……こういう時の嫌な予感というのは、よく当たるというものだろう。
 突然、彼女の下から何処からともなく沸き上がってきたのは細かい粒子のような、黒いもやのようなものが沸き立っていく。それが視界に入った時、全身が総毛立った。
 そこでおれは初めて理解した。窓から見た時のあの異様な空気は、もしかしてこれが蔓延していたからなのではないかと。
 一番最初、小学生の時にあの公園で出会った人の周りのもあれらがうっすらと蠢いていたのを思い出す。あの時はこんなことなかったというのに、今は身体後ずさりしたくなってしまう。平常心を保たないとおれまで何処かに持っていかれそうになるような、そんな錯覚といっていいだろう。
 そして、おれの目の前にいるそれがゆっくりと顔を上げたその時。
 後ろから、誰かが草を踏みしめる音がした。

「え……」

 咄嗟に振り向いたその先に目に映った人物に、おれはかなり驚いていたことだろう。

「……こんなとこで何やってんの?」

 そんな問いを投げかけるのは、おれのよく知っている神崎 拓真という男だったのだ。


   ◇


 内心、心臓が痛くなるほどに跳ね返っているのをひしひしと感じながら。平常心を保つというのは中々に難しい。思ってもいなかった人物が現れた時のおれは、はじめて幽霊を見た時よりも目を丸くしていただろう。

「そういう神崎君こそ……」

 おれに問われた神崎君は、どこか言いずらそうな顔で目を泳がせている。ただ、それはおれと再び視線が交わったからなのか、すぐに収束した。

「……お前の跡、つけてたんだけど」

 その言葉が放たれた時、酷く冷たい風が横を通り過ぎた。嫌な予感が働いて振り向くと、黒いそれがさっきよりも色濃くなっていたのが見てとれた。斜め後ろで状況に似合わない顔をしているこの男。完全に、この人がいるタイミングが悪すぎる。差異はあれどまるであの時みたいだ。
 相手がどういう存在なのかというのが分かっていない今、正直神崎君の相手をしている暇なんてどこにもない。目の前にいる存在を何とかするのが先だろう。
 ……ここで、ひとつの疑問が頭を過る。本当に何とか出来るのだろうか?というところだ。そんな不安は今更ではあるのだか、自分ひとりだけだったら何とかなるだろうで済んだのに、そうもいかなくなってしまったせいで完全に動揺していたのだろう。

「やっぱりそういうことか……」

 突然、神崎君が明らかに不審な声をあげる。
 やっぱりそういうことか。彼が漏らしたその言葉を聞いて、途轍もなく身体が冷えたのはよく覚えている。あの感覚は、本当に嫌いだ。

「……神崎君って、見える人だったの?」
「いや、今はじめて見た」

 余りに冷静に言葉を発する神崎君にペースを乱されているのもつかの間、忘れるなと言わんばかりに黒いもやが迫ってくる気配がした。もういい、神崎君のことは一旦無視だ。目の前にいる今にも凶悪化しそうなこれを何とかしてから考えることにする。そして、先ほどの話に戻ることになるだろう。
 そうは言っても、おれに一体何が出来るのかという部分だ。
 特別身体能力が高いという訳でもないおれが避けられるとは到底思えない速さで迫って来るそれ。一瞬にして襲う危機感と、逃れる術のない弱者が陥る絶望視。
 ――残り、数ミリのことだった。何かがおれの危機に反応したかのように、迫ってきたそれを弾き飛ばしていた。
 眩しく感じたのは本当に一瞬のことで、咄嗟に目を塞いではいたけど、恐らく何かが終息する方が早かっただろう。

「なに、今の……」

 そんな言葉しか、おれの口から出てくることはなかった。

「……宇栄原」
「な、なに? 今混乱してるから出来れば後にして欲し――」
「俺とお前の鞄めちゃくちゃ光ってるけど」
「はぁ?」

 少々現実味に欠ける言葉に思わず言葉を返してしまった。言われるがまま反射的に視界に入れたのは、おれと少し距離を取っている神崎君。そして――。

「……次から次へと何なの?」

 彼の言うまま、どこからともなく光を放っている鞄だ。

「俺に言われても困る」

 神崎君の言い分は最もだけれど、別に彼に向けて言った訳ではない。単純に独り言だったんだけど、誰かに拾われてしまったら会話は成立してしまうという典型的なそれだった。
 よく見ると、光っているのはどうやら鞄そのものではなく、鞄の中に入っている何か光が光っていて、それが鞄から漏れ出しているらしいというのが見てとれた。そういえばあの時、小学校のあの日のことだ。女の子を前にしておれは何をした? 確か公園の隅に咲いている花を手に持っていて、それで? それからおれはどうした?

「もしかしてあれか……?」

 噛み砕いて反復する余裕と時間は、そこまで多くはない。
 自らが導いた答えを前に、おれはすぐに自らの鞄のチャックを開ける。無機質な音が、喧しく聞こえて仕方がなかった。こういう現象が起こるには、必ず条件が必要だ。もし考えていることが正しいのなら、原因はひとつしか考えられない。
 おれが探しているものは、学校に持ち歩く鞄の中にある必至アイテムの教科書でもノートでも筆箱でもペンでもない。

「……あった」

 鞄から取り出したのは、本だ。いや、正確に言うなら本に挟んである栞。もっと言うなら、姉さんが好きでよく作っている栞。まるで自己主張をするかのように、はらはらと光を溢していた。
 ……決して忘れていた訳ではない。あの時もそうだったのだ。その辺に咲いていた花を手にして、幽霊に渡そうとして。そして、その花からは光が溢れていた。
 神崎君の鞄から漏れているのも、恐らくそういうことだろう。確か前に貸した本に、おれと同じような栞を挟んだまま渡したのを思い出す。それを到底理解したくなかった自分も確かに存在していただろう。だが、事態はそれを許さない。
 この時、黒いもやは確かにおれらの周りを取り巻いていた。それでも、それ以上のことは何も起きなかったということは、おれの考えていることは恐らく正しかったのだ。

「……おれ、この先に何が起きても責任は取れないからね?」

 誰に向かって言うでもなく、そんな言葉を振り撒いた。当然独り言なんかではなかったが、これをどう受け止められたのか、返事はひとつも返ってこない。
 おれは、手にした栞をその幽霊とやらに勢いに任せ投げつける。それはもう、完全にやけだった。
 風に乗って栞がたどり着いた先にいた彼女に当たったのかどうなのか、空気が変わっていくのがはっきりと分かった。というより、取り巻いていたはずのもやが、栞が放っていた光に負けていくかのように消えていったのだ。
 段々と黒い靄が消滅していく中、流れるままに女子生徒の手に栞が渡る。依然として光は止まることのないまま、やっとといったて差し支えはないだろう。始めて、彼女がおれに何かを訴えてきた。言葉としてではなく念のような、直接脳裏に訴えてくるかのような、そんな感覚だった。

 黒く染まる深淵ではなく、優しく馨るこの光に呑まれて消えてしまいたい。
 そういった類の言葉だっただろう。

「……その黒いのに完全に呑まれる前だったら、まだ間に合うんじゃないの? そんな気がするよ?」

 周りからすれば、明らかに誰もいないところに話しかけているようにしか見えないこの状況。神崎君にはあの声は聞こえていたのだろうか? ……だからといって、別にどうという訳でもないのだけれど。
 今この状況下においては、単純に目の前にいる存在以外の興味はどこにも存在していなかった。

「今行かないと、その次があるなんておれは思えないよ?」

 おれがそう口にすると、瞬く間に光の強さが増していく。
 ……彼女らにとって、この光とは一体どういうものなのだろうか? 黒と白が対で、光と闇が対であると言うのなら、答えを導くことは容易に出来るのかも知れない。
 でも多分、そんな単純な問題ではないのだろう。

「……じゃあね」

 光は、いつしか彼女を取り巻き粒となって収束していく。黒い靄がどうなったのかは知らないが、消えていったのは彼女だけのようにも見えた。ゆっくりと、枯れ葉の上に落ちていく栞。この点は、あの時と全く同じだった。それを確認したのが早いか否か、無意識に体を縮こませていた。
 深いため息と共に、風に任せてゆっくりと木の葉が足元に落ちてきたのが視界に入る。少しだけ落ち着きを取り戻したその場所に残されたのは、力を濫用するひとりの巧者と。それを良しとしないひとりの流者。流者を背に、巧者は言葉を紡ぐ。

「……神崎君って、人のあとをつけるとかそういうことする人だったんだね?」
「いや、なんつーか……」

 数秒の無音が蔓延る中、地面を踏みしめる音が横を通った。神崎君が歩を進めている証拠だろう。顔を上げると、彼が向かっていった先はさっきまで女子生徒がいたところ。ここから僅か数歩先には、一枚の栞が落ちている。
 それを徐に手にしながら、神崎君は言葉を続けていった。

「……お前、前から変なところばっかり見てることあったし、よく一人でどっか行ってることが多かったから……。だから多分、俺には見えないもんでも見えてんだろうなってずっと思ってたんだけど。今日は、いつもより変な顔してたから。だからなんか……」

 その言葉の数々は、おれの思考を停止させた。

「気付いたら、跡つけてたわ」

 何を言ってるのか、正直よく分からなかった。それはつまり、神崎君は前からおれの行動を不審に思っていたということなのだろうか?
 特別仲がいいなんてことをおれは思っていなかったけど、小学校からの仲ということもあって、それなりの時間をそれなりにふたりで過ごしたことは何度もあるし、お互いのことを何にも知らないという訳ではない。でも、そんなことを思われていただなんて夢にも思わなかったのだ。
 だって、気付かれていないものだと思ってた。
 今となってはただの過信となってしまったが、それ以前に気付かれるわけがないと思ってたから。
 気付かれる程の関係なんて築いていないと思っていたから。
 だから、こういう話を誰かとすることになるなんて当時は思っていなかったのだ。現に、姉さんとあの時出会った名前を思い出せない誰か以外の人物にこういう話をしたことが無かったし、姉さんがそんなことを言いふらす人間だとも思えない。拓真と出会って以降は、何となく人がいるところでは出来るだけそれらを視界に入れないようにはしていた。
 気付かれようがどうでもいいと思っていたにも関わらず、気付かれないようにするにはどうしたらいいのかと考えてもいた。
 だけど、この人は気付いていたと口にした。それは一体いつからだったのだろうか? あの口ぶりからしてやっぱり最初から? それとも最近になってからなのか?

「はあ……もういいや」

 屈んでいたせいなのか、立とうとするとどういうわけか身体が重い。そう、いっそおれごとあの光の中に連れていってくれれば良かったのに。そんなしょうもないことを思い浮かべている中、黙っているわけにもいかず声を出す。

「……神崎君ってさぁ」

 隠す必要が、隠していた意味が、なくなってしまった。

「幽霊って信じる人?」

 諦めにも近いそれは、おれの口を動かすのには十分だった。唯一の救いだったのは、それを言うことになってしまった人物が彼であるということだったと思うのは、もう少し時間が経ってからの話だ。


   ◇


「昔からさ、ああいうの見えちゃうんだよね。別に見たくて見てるわけじゃないし、放っておいたって誰かに何か言われるわけじゃないんだけど……」

 やっぱり見てていい気分じゃないし、少なからず悪影響はあるから。何となく気になってしまう。そういう類いの言葉を口にしたのは、はじめてだった。

「まあ別に、だからって今日みたいに相手にすることは余りしないけど」

 という言葉を一応付け足して、一旦おれの話は終わりを告げる。学校を出て暫く、帰路を共にして以降おれは神崎君のことを視界に入れることはしなかった。恐らく神崎君もそうだっただろう。
 見る必要が特別あるわけでも無かったからというのはもちろんだけど、視界に入れるという行為を自然と拒んでいたんじゃないだろうか。

「俺にも幽霊が見えたのは、お前がいたからか?」

 現実味のない言葉が彼の口から飛び出してくる。それに違和感を覚えたのは、きっとおれだけではなかったはずだ。

「さあ……。それだったら、姉さんも見えてないとおかしいし。考えられるとするなら――」

 思い当たる節が全くない、というわけでは勿論なかった。
 あの栞は姉さんが好きで作ったもの。でも姉さんは見えない側の人だっていうことは知っているから、もしかしたらおれ自身の力が知らない間に込められていた、なんてことがあったのかも知れない。
 その力というのもが何なのかは余りにも曖昧で明言は出来ないけれど、端的にかつ単純に言うのなら『霊力』というものが当てはまるのではないだろうか。もしそれが近くにいる幽霊に反応したのだとするなら、一応辻褄は合う。小学生の時の出来事だって、それなりに説明はつく。だけど――。

「……いや、どっちにしてもさ、もうそういうの止めてよね。後つけるとか趣味悪いよ」

 そんなこと、視えない側の彼に言ってどうするのだろうか?などという思考が、おれの口を妨げた。
 結果的には、それがよくなかったのかも知れない。

「それは無理だ」

 神崎君の口調が、いつもより研ぎ澄まされたように聞こえた。

「……なんで?」
「なんでも」

 いつも多くのことを口にはしないこの人の主張に、思わず怪訝な顔が隠せなかった。

「いやだって……神崎君だって嫌でしょ?おれについていって視たくもないものが視えるとか。何があるかだって分からないし」

 普段怒らない人間学部怒ると怖い、のような典型的なモノだったと言っていいだろう。これが、世間で言うところの怒っているに値するかは微妙なところだけれど。

「それ、お前だって同じだろ?」

 こういう時の彼は酷く頑固であるということが分かるのは、もう少し先の話だ。

「普通はこういうのに余り関わりたくないとか思うんじゃないの?」
「だから、それはお前だって同じって話」

 同じ言葉を繰り返して、彼は続けてこう言った。その間、彼はおれのことを視界には入れていない。

「見たいとか見たくないとか以前に、得体の知れない奴がそこに居たからとか、見えたからって理由だったとしても、何が起こるかも分からない状況の中なら、別にお前が何とかしようとする必要もないんじゃないのか?」

 おれらの進む足が止まっていたのは、一体いつのことだっただろう。

「……あの時から、ずっと不思議だった」

 こんなに喋る神崎 拓真という人物を、おれははじめて見たかも知れない。

「お前がいつも誰も居ない場所を見て呆けてた時も、それを指摘して何でもないって言われ続けてた時も、誰もいない砂場の中でまるで誰かがそこに居るとでも言いたげに花を差し出してたあの時も、ずっと問いただしたかった」

 だからこそ、その彼の言葉全てを理解するのには少なからず時間が必要だった。

「でもまあ、それはしない方が良いんだろうなって思ってずっと言わなかった」

 最初から、出会った時からこの男は全て把握していたという事実は、到底受け入れがたいものだったのだ。

「だから言わなかったけど、そういうのはもう止めた」

 それでも、この男の言葉全てを聞き逃してはしてはいけないのだと、そう思った。

「今日みたいなことがこれからも起きるんだったら、俺は怒るぞ?」

 聞き逃すまいとしたこの言葉に、おれは酷く動揺した。

「……なんで、神崎君が怒るわけ?」

 自身に突き刺さる全ての語彙に反感が生まるのは、必然だったと言ってもいい。

「さっきから、所詮見えない奴の戯れ言みたいな顔してるよな」

 全て分かった上で、この男は今おれに問いを投げかけている。

「俺はそういうの見えないから、お前がどう思ってるかなんて分からないけど……」

 結局のところ、彼が何を言いたかったのかというところまで、この時点でおれはまだ理解できていなかったのだ。

「今日みたいなこと、お前がやる必要あるのか?」

 この質問はおおよそ二回目。但し、彼は簡単な言葉に切り替えた。

「……まあ、ないだろうね」

 それが分かった時、この人の問いからは逃げられないとそう思った。

「でも、それなら何でああいうのがおれに見えるのかって話になってくるでしょ?そこまで一体誰が説明してくれるの?」

 ……はじめてだったのだ。

「……別に、視たくて視てるわけでも、ああいうことをしたくてやってる訳じゃない」

 こうして、誰かに「やる必要ないんじゃないか」と言われるなんていうことを、想定なんてしていなかった。

「ただ、ああいう存在を認識した上で放置っていうのは、ちょっと薄情が過ぎるでしょ」

 しかも最初から気付かれていて、それを黙っていた?

「単に視えるっていうだけじゃない。それ相応に対処出来る術がおれにあるってことは、だよ」

 そんなことを言われてしまっては、非常に馬鹿馬鹿しくなってしまう。

「……知らない誰かにやれって言われてるみたいで、気味が悪いよね」

 言葉の繋がりに、齟齬が出る。
 それでも言いたいことを口にしたくなってしまったのは、全てこの神崎 拓真とかいう男のせいだ。


   ◇


「……なんて、ね?」

 今更そんなことをしたところで特に意味がないと分かっていながらも、取りあえず笑みを繕うところがなんともおれらしく、同時に馬鹿馬鹿しくもある。その点、神崎君はどうだろう? ……彼を視界に入れるということはしたくない。だが、いつまでもそういうわけにもいかないのだ。

「そこまで言うなら、これからは神崎君にバレないようにすればいいわけだ」

 足を翻して一度彼と目が合うと、神崎君はおれのことを視界に入れて放してくれない。その実直な瞳は、きっとおれとは真逆だろう。

「……俺は今、お前と話してるよな?」

 だから、この人の言葉は毎回予想が出来なくて驚いてばかりなのだ。

「他に誰もいないけど」

 突然の質問に、おれは肩を竦めた。辺りは今、おれの目に写っている範囲に誰もいない。こう言えば十分だろう。

「なら、これまでの話の中でお前の本心はどこにあった?」

 神崎君のその声によって、どこか他人事だった今までの言葉が地に落ちた音がした。

「それだけ教えてくれればいい」

 思わず眉を歪めてしまう中、おれは疑問を提示する。

「……聞いてどうするの?」
「聞いてから考える」
「今から言うことが本心とは限らないよね?」
「それならそれで、また考えるよ」

 いつもの彼とは違う、少し強めの口調がおれを黙らせた。

「もういいだろ、別に。隠す必要が無くなったんだ」

 どうしてここまでおれの話を聞きたがるのかと今でも疑問に思ってしまうほどに、二つの水晶はとても澄んでいたと言っていい。

「いや、違うか……」

 だが、その澄んだ瞳に僅かに陰りもあった。……そうさせているのは、一体誰だ?
 彼は、自分に言い聞かせるかのように口を動かした。

「俺は話を聞くぐらいしか出来ないから、きっとお前の気は晴れないし、多分俺も全部は理解が出来ない」

 こうもしつこく彼がおれの真意を突こうとしている理由は、一体何なのだろうか?
 この期に及んで目を逸らすなどという行為は、到底許されるものではない。

「……悪い」

 神崎 拓真という人物に、心配をされていた。
 そしておれは、今までそれに気づかなかった。
 ……一体何故、彼がそのセリフを口にしなければならないのか。おれには理解が出来ない。でも確実に、おれがそれを言わせている。

「……それ、神崎君の言う台詞じゃないでしょ」

 おれは何だかんだと理屈を並べているけれど、彼の行動理由は単純だった。だとするなら、失笑もいいところじゃないか。別に、神崎君がどうってわけじゃない。いつかはバレることだったのなら、早々にバレてよかったのかも知れない。
 でも、本当なら言わないで済むほうがよっぽどマシだった。どうやったって存在してしまう、おれの意図しない人との溝が張り巡らされていることが、気に入らなかった。
 だからいっそ、嫌われた方がマシだった。本当に、ただそれだけだった。

「神崎君の言いたいことは分かってる。分かってるつもりなんだ。でも、実際に目に入るとどうしても無視が出来ない。無視したところで誰に何を言われるわけがないのに、それが出来ない」

 ……あの時も、そうだった。神崎君に聞こえているかどうか、それくらいのか細い声で最後にそう付け足した。
 少しだけ考える猶予が与えられたかのように、沈黙が訪れる。身体に当たる僅かな風が、少しだけ冷静さを取り戻させたのもつかの間。

「ごめん、完全に八つ当たりだった」

 自然と、そんなことを口にしていた。

「神崎君を怒らせないような努力はする。その辺にいるだけの幽霊だったらおれは別に何もしないし、今日みたいなことだってそう起こることじゃないと思う。おれだってゴメンだよ、ああいうのがしょっちゅう起こるのなんて」

 今日は例外ってことで、許してよ。そのおれの言葉に、恐らく神崎君は納得はしていなかったのだろう。頭を掻くような仕草が、それを物語っていた。
 幽霊のことはある程度理解が出来ても、それなりに時間を過ごしてきた人間のことを、おれは何も分からないのだそうだ。そう思うと、声にもならない笑みが溢れた。
 口に出して言ってやりたい言葉が、どうしてもその先へと落ちていかないのが少々もどかしい。

「……なに?」
「いや……。結構喋るんだな、お前って」

 それを君が言うか。どちらかと言えばこの人の方が当てはまりそうな台詞に、僅かに口角が上がる。おれは、これ以上この人の独壇場は許さなかった。

「……それ、そのまま拓真君に返すよ」

 この時も、はじめてだった。
 今日こんなことになったのも、至極当然のように名前を口にしたのも、紛れもなく目の前にいるこの人物のせいだ。

「ところで、本当にそれだけの理由であとつけてきたの?」
「つけてたっていうか……」

 居たたまれなくなったお陰で蒸し返されたその質問に、彼は言葉を濁した。まさか、それ以上の理由が他にあったのだろうか?

「これ、返すわ」

 その心配は、どうやら無駄に終わるらしい。

「ああこれ? もう読み終わったの?」
「さっき読み終わった」

 鞄から出されたのは、彼に貸していたひとつの本。おれの姉さんが作った栞が、僅かに顔を出していた。聞くところによると、おれを追ったは良いものの声をかけられずにそのまま図書室で本を読んでいたそうだ。
 ……後をつけることは出来るのに、話しかけることはしない。順番が逆のような気がするが、それほど話しかけられないような空気でもあったのだろうか?

「……面白かった?」

 それ以上詳しいことは、もう聞かないことにした。

「……そうでもなかったな」
「やっぱり? おれもあんまり好きじゃなかったんだよねぇ」

 彼の手からおれの手元に渡っていくのに、そう時間はかからない。気付けば歩みが進み始めていた、なんていうことは別にどうだって構わなかった。

いいね!