事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、いつだって現実は非現実的だ。あり得ないと思っていたことがあり得たり、そんなはずはないという固定概念に囚われて、目の前にある真実に気付かない場合だって往々にしてある。
だけど、そのあり得ないことが何度も続いてしまえば、それはあり得ないことではなくただの日常に変わってしまうだろう。
それこそが、誰の目にも映ることのない存在の思惑であるということに、誰しもが気づくことはない。
「おねえちゃん」
おれの場合、その非現実的事象というのは幽霊だった。
あどけなく声を上げるおれというひとりの小学生は、砂場で遊んでいる姉に声をかける。なあに?と、いつものように当たり前に言葉を発する姉に、おれはこう問いかけるんだ。
「あの人、なんであんなところにいるの?」
でも、そう言ったところで答えは最初から決まっている。
――人なんて、どこにもいないよ?と。
それが、おれにとってはじめてあり得ないことが起こった瞬間だった。
子どもの頃、姉さんと公園で遊んでいた時にいた、おれにしか視えていなかった誰か。公園の隅に、ひとり蹲っていた男。本能的なモノだったのか、それが人間じゃないと何となく分かってはいたものの、例えばそれが透けていて向こう側が見えていたとか、足が消えていたとかそういういかにもな事象ではなかったから、姉さんが視えなくておれが視えるモノという事実がよく分からなかった。恐らく子供ながらの好奇心も相まってのことだろう。姉さんが見ていない隙をついて、その人に近づいたのだ。
「……なにしてるの?」
当然といった様子で、その人は何も答えない。完全に無視といったところだろうか。
「これいる?」
そんな中でもおれが差し出したのは、その時期だったらわりと色んなところに咲いているとある一輪の花。姉さんにその花の名前を教えてもらって、実際に自身の手に取ってみて、どうしてか嬉しかったのを覚えている。
その花を、あろうことかおれは目の前にいる存在に渡そうとした。それは多分子供の頃だから出来たことで、今だったらそこに居るだけの幽霊とか別にどうでもいいし、そもそも害のないモノなんて意識をしないと視えないというのが常だ。普通はそうなのだろう。
その人物の足の付近にじわじわと何か黒いものが蠢ているのが見て取れたのは、僅かに時間が経った後。それは、子供ながらに近づいてはいけないものだと分かるくらいに鮮明におれの恐怖心を煽っていた。一言でいうなら、単純に危険だと感じたのを覚えている。
誰にも見えるはずのない存在がそこにいるという事実と、それに付随する得も言われぬほどの不安。全身が総毛立つ程に体温が下がり、そのまま本当に動けなくなってしまうのではないかという錯覚。つまりは、完全に怖気づいていたのだろう。正し、手に持っていた花は強く握りしめたまま。何かがおれを急き立てるかのように、やっと足が一歩後ろに下がる。その時だった。
「こらこら、駄目だよ」
何かが、優しく背中に触れるのが分かる。いや、正確にはぶつかったのだけれど、そんなことには気づかないくらいに驚嘆した。頭上から聞こえた声に慌てて顔を上げようとした時には既に遅く、ゆっくりとおれの目を何かが覆った。
「知らない人に話しかけちゃダメって、よく言われるでしょ?特にああいうの。仮に視えちゃたとしてもさ」
優しく響く男の人の声は、何年経っても頭から離れることはない。それくらい、恐らくはおれに大きな影響を与えた人物。気付けば、手にしていた花は零れ落ちていた。
「見ないふりっていうのも、大切だよ?」
頭上からの声が何かを言い終わったかと思うと、ぱっと目を覆っていた何かがおれの顔から離れていく。開けた世界には、さっきまで目の前にいたはずの誰かと、それを取り巻いていた黒い何かはもうどこにもいない。言葉を失うおれの代わりとでも言うように、振り向くと後ろには優しい笑みを浮かべた別の誰かがいた。
どうしてか、おれはそれに凄く安堵したのを覚えている。
「……さっきの人、どっか行っちゃった」
「うーん……多分だけど、然るべき場所にでも行ったんじゃない?」
「そうなの……?」
この時のおれは、その人の言っている本当の意味を汲み取れなくて、単に姿を消しただけだと思っていた。
でも、果たして本当にそうだったのだろうか?
否、歳を重ねた今となっては、そうではなかったということがよく分かる。
「おにいさんは、皆には見える人?」
「え?あー……そうだね。さっきの人とは違って、皆にはちゃんと見えてると思うけど」
「さっきの、幽霊なの?」
立て続けに問いかけると、男の人は苦笑いを浮かべるだけで、答えることはしない。しかし、幽霊なのかという問いを間接的に肯定するかのような、別の言葉が返ってきた。
「……他の人に言ったところで信用しては貰えないだろうけど、こういうの、見えたとしてもあんまり人には言っちゃダメだよ」
「どうして……?」
「どうしてって言われるとなあ……」
その人は空を見つめ、頭を掻きながら答えを探していた。
「ああほら、見えない何かがそこにいるっていうのは怖いっていうか、単純にイヤでしょ?変に不安にさせるのも良くないっていうか……。いやでも、見たくないのに見えちゃった挙句、見て見ぬふりっていうのもかなりイヤだよね。実際いい気分じゃないし……」
分かる分かる。その言葉は、おれに向けられたモノというよりは、恐らく独り言に近いものだったのだろう。これも、今になって思えばどうしてこうも不透明な言葉だったのかがよく分かる。
「とにかくっ、信用出来る人以外には簡単に言わないで欲しいなあ」
「でも、さっきおねえちゃんに言っちゃったよ……」
「あー……。いやでも、それはお姉さんだったから言ったんでしょ?だったら大丈夫だよ。……多分」
約束してくれる? そう言って笑みを溢すこの人は、逆光に身を任せるようにして光を身に纏う。どういう訳か、それがとても憂いを帯びていて今にも脆く崩れ落ちそうな気さえしていた。子供ながらにそう思ってしまったのは、ある意味では正しくて、ある意味では間違っていたのだろう。
「……ところで、おにいさんって誰?」
見知らぬ人に変な約束をさせられている時点でおかしいのだけれど、どうしてかおれは、この人が悪い人だとは思えなかった。この質問だって、別に目の前にいるその人を不審に思ったから発したという訳ではなく、単純に知りたかったというだけ。
「え、俺? あーそっか、この状況じゃただの不審者か……。えっと、俺の名前は――」
穏やかな陽気に包まれていたあの日。まるでしだれ柳のように優しく靡く髪の毛によって見え隠れするその人の笑顔を、どうしてか鮮明に覚えている。それくらい、あの時のおれにとっては印象的だったのだ。
「ってことで、よろしくね」
「うんっ」
但し、そうしておれに笑顔を向けた人物の肝心の名前を、あろうことか思い出すことが出来ない。
今のおれがひとつだけ言えることがあるとするのなら、この人はおれと同じ側なのだということだけだ。
◇
あの日、公園で知らない誰かに出会ってから暫くしてから、おれはまた公園に足を運んだ。またあの人に会えたらいいなだなんてそんな悠長なことを思いながら、いつもよりどことなく先急いでいたような気がする。でも結局、あれ以来その人に会うことは一度もなかった。ほんの僅な時間の中でしか話していないのにそれがどうしてか少し寂しくて、おれはまた公園の隅に咲いている花を手に取った。
「なんだっけ、この花の名前……」
この前お姉ちゃんに教えてもらったのに。小さな声で言いながら肩を落としていたけど、よく考えてみればおれは言う程花には興味がないから、名前を聞いたところで右から左だった。
仕方ない。これを持って帰って、またお姉ちゃんに聞いてみよう。そう思って、おれは後ろを振り向いた。
「あ……」
そうしたら、いた。
「幽霊だ……」
そこに居たのは、おれが探していた人物ではなく小さな女の子。まだ小学生に上がる前くらいの、それくらいの子が砂場で遊んでいたのが見えた。
あの時とはかなり状況が変わり、今度は幽霊であるとすぐに認識できた。理由は、そこにいた女の子が透けていたからだ。唯一似ている状況があるとするのなら、女の子の周りに漂ってる『黒いもや』のようなものが僅かに漂っていたということだろう。それを見た時、子供ながらに何か嫌な予感がした。
決してそこに、同情心なんてものは一切無かったなんて言うつもりはない。
「ひとり?」
むやみやたらに話しかけたら駄目だと言われていたにも関わらず、おれはその女の子に声をかけた。
砂場にいるせいなのか、膝や服が薄暗く黒い砂のようなもので汚れている。近くまで来たおれに気付く素振りを見せることもなく、ただ単に砂弄りをしているその単調な動作に、どこか私怨めいたものを感じた。ただ、そこで怖気づいてはいけないということを本能的な部分で何となく理解していたということだけが、唯一の救いだったのかも知れない。
「これいる……?」
手にしていた名前の分からない花がちゃんと見えるように、おれは女の子の目の前に花を差し出した。やっと、といったところだろうか。彼女の手が、まるで時が止まったかのようにピタリと静止したのがよく分かる。この時、女の子が何を考えていたのかは流石に分からない。おれはこういう類の存在は確かに視ることが出来るけど、どうしてそこに留まっているのかなんていうところまでは当然分からないのだ。それなのに、当然のように得体のしれないモノに話しかけるとか、自分のことながら正直馬鹿だと思う。
微動だにしない彼女を見て、おれはほんの少しだけ後悔した。やっぱり、こういうことを軽率にするのは良くなかったかったのかも知れない。もし、このまま悪い方向に進んでしまったら? 誰も助けてくれなかったら? この時のおれは、それを跳ね返す術をまだ知らなかったのだ。
「……え?」
だけど、それはどうやらいらない心配のようだったいうことに気付くのは、ほんの数秒後。
女の子に差し出した名前の分からない花から、光の粒がゆっくりと漏れてきたのだ。それが花自身から堕ちていっているのか、はたまたおれが手にしているからなのか、目の前で起きていることが一体何を意味しているのか、どうしてこういう現象が起きているのか。これら全てのを考える余裕なんていうのは、持ち合わせていなかった。
果たしてどれくらい時間が経っただろうか、なんていう程恐らく時間は経っていない。但しこの時、本当に時間は止まっていたんじゃないかと思うくらいに、辺りは静寂だった。
時が動き出したと感じたのは、その女の子が動き出してからだ。まるでそれを求めるようにして優しい手つきで花に触れた時、柔らかな光が地面に堕ちる。するとどうだろうか。その時を待っていたと言わんばかりに、一枚の花びらが意思を持っているかのように空へと舞った。
それに目を奪われた女の子は、とある言葉を口にした。
きれい。
今まで見た花のなかで、一番きれい。
気を抜いたら掻き消えてしまいそうな小さな声で、しかもとても優しく柔和な笑みだったのを覚えている。
彼女は花を持ったままゆっくりと光の粒にのまれていく。どこからともなく辺りに僅かな風が蔓延っていくのが、恐らくは合図だった。
少女を取り巻く光と、それに乗って消えていく彼女の実体。葉の擦れる音が煩わしく思う程に、その光景はどこか寂しくもあり同時に美しかった。どういうわけか光の粒が涙にも見えたのは、気のせいではなかったのかも知れない。
これが、おれがはじめて幽霊という存在を消した時。世間一般的な解釈をするのなら、成仏させた瞬間だった。
「なんだったんだろう、今の……」
その場に立ち尽くす羽目になったおれは、さっきまでその場にいた何かを探すでもなく、その場でそんな呆けた言葉しか出せないでいる。後ろからゆっくりと風が靡いてくるのがどうしてか不思議だったが、この後起きた出来事のせいで、そんなことは些細なことですらない。
◇
――砂が踏みしめられる、音がした。
何処からともなく聞こえてきたそれがおれの耳に入って来た時、どうしようもなく心臓が跳ね上がったのがよく分かる。
まさか幽霊? さっき会ったばかりなのに? まるでなにか悪いことでもしたかのように、おれは反射的に振り返った。
その先、おれの視界に入ったのは、ひとりの男。しかし男と呼ぶにはかなり幼く、同い年くらいの黒いランドセルを背負った男の子と呼んだ方が適切だろう。
さっきからそんなところで何をしているのか? とでも言いたげに、キョトンとした視線をおれに向けていたその彼に初めてあった時の印象としては、どちらかというと大人しそうな、この歳にしては雰囲気だったと記憶している。
「あ、いや……。虫がいたから……」
なにも聞かれていないはずなのにどうしてか酷く動揺してしまったのは、きっと、心のどこかでこれが人に見られてはいけないことであるということが分かっていたからに違いない。意味の分からな言い訳を口走ってしまったことに後悔していたけど、目の前にいる男の子は、そもそもおれがそこで何をしていたのかなんていうことに興味を示すなんていうことは無かった。
「……それ、あそこにあったやつ?」
「え?」
彼の視線の先にあったのは、さっきまで女の子がいたはずの場所に静かに置かれていた名前の分からないとある花。
「あ、ああ……。うん」
それは正しくおれがさっきまで手にしていて、かつ女の子が手にしたものだった。一緒に消えたんじゃなかったのか、そんな疑問が頭から離れないでいる中、畳み掛けるかのように男の子が言葉を発した。
「リンドウ、だったけ……」
その言葉に、おれはかなり驚いたのを覚えている。
「……それだ」
あの時公園で姉さんが教えてくれた花の名前は、正しくリンドウだった。花屋の息子が覚えていないような、公園の隅に咲いている何処にでもある普通なら名前だって知らないであろうその花の名前を簡単に言い当てたのだ。
砂場に落ちている、リンドウと呼ばれた花。彼は、それ以上何かを言うでもなく静かにそれを手にとった。いやちょっと待って。忘れるところだったけど今はそれどころじゃない。そもそも、一体いつからこの人はここにいたのだろうか? おれがここに来た時はいなかったはずだけど、もしかして見えない所にいたのだろうか? それとも暫くしてから? どんなに考えても、どんなに思い返しても分からない。
もしこの人が一番最初からおれのことを見ていたのだとして、そのことに全く触れずに砂場に落ちているだけの花の話になるのだろうか?
「花、好きなの?」
その疑問を、おれは口にしなかった。
「好きっていうか……」
もしかしたら、さっき起きたことを忘れたかっただけなのかも知れない。でも、興味があったのだ。この余りにも何も動じることをしない、おれの目にちゃんと映っている存在に。
「そしたらさ、ちょっと来てよ」
「え……」
「こっち!」
それはもう、さっき起きたことが本当にこのまま忘れられるんじゃないかという錯覚に陥るくらいに、おれは夢中になってその人の腕を取って足を進めた。今会ったばかりなのにとか、どうしてその花の名前を知っていたのかとか、おれのことをいつから見ていたのかとか、そういうのを全て忘れようとしているかのように、とにかく走った。
恐らくは、罪悪感のようなものを振り解きたかったというのもあっただろう。
「花屋……?」
一直線に向かった先は、おれの住んでる家だった。
「ここ、おれんちなの」
そう言いながら、一緒に走ってきた男の子を視界に入れる。さっきまでとは明らかに目が光っているというか、輝いているのがよく分かった。もしかしてだけど、この時の彼はおれが見た中で一番輝いていたかも知れない。ゆっくりと歩を進めて店に入り、辺りを向かった場所。そこには当然花しかない訳だけれど、その場所がまた意外だった。
「ゼラニウム……。初めて見た……」
ここに来て言った第一声がそれだとは思わなくて、かなり驚いたというか、どちらかというと面白かった。だって、例えば女の子だって花に興味が無ければその単語をこの歳で言うこともないだろうに、それを同い年くらいの男の子の口から聞くことになるなんて、誰が予想しただろうか。
もしかしてこれが、人は見た目で判断してはいけないという典型的なパターンだったのかも知れない。
「ねえねえ、そういえば名前は? おれは宇栄原 渉っていうんだけど」
「……神崎、拓真」
神崎と名乗ったその人は、そう口にするだけしておれの方なんて見向きもせずに花から花へと目を移していく。それを見た時、おれは確かに彼のことを変な人だと思った。恐らく見ていたのであろうさっきのことも全然言及してこないし、寧ろその時のことなんて眼中にさえないんだろうなという気さえもした。
でも、あの場所に現れたのがこの人で良かったのかも知れないと思うことはある。いや、多分あそこにいたのが拓真じゃなかったら、そもそもこれから先の展開なんて起きることはなかったのだろう。
もしも出会わなかったとするのなら、おれが幽霊の見えるような人間であるということなんて、きっと誰も知る術はなかったのだから。
だけど、そのあり得ないことが何度も続いてしまえば、それはあり得ないことではなくただの日常に変わってしまうだろう。
それこそが、誰の目にも映ることのない存在の思惑であるということに、誰しもが気づくことはない。
「おねえちゃん」
おれの場合、その非現実的事象というのは幽霊だった。
あどけなく声を上げるおれというひとりの小学生は、砂場で遊んでいる姉に声をかける。なあに?と、いつものように当たり前に言葉を発する姉に、おれはこう問いかけるんだ。
「あの人、なんであんなところにいるの?」
でも、そう言ったところで答えは最初から決まっている。
――人なんて、どこにもいないよ?と。
それが、おれにとってはじめてあり得ないことが起こった瞬間だった。
子どもの頃、姉さんと公園で遊んでいた時にいた、おれにしか視えていなかった誰か。公園の隅に、ひとり蹲っていた男。本能的なモノだったのか、それが人間じゃないと何となく分かってはいたものの、例えばそれが透けていて向こう側が見えていたとか、足が消えていたとかそういういかにもな事象ではなかったから、姉さんが視えなくておれが視えるモノという事実がよく分からなかった。恐らく子供ながらの好奇心も相まってのことだろう。姉さんが見ていない隙をついて、その人に近づいたのだ。
「……なにしてるの?」
当然といった様子で、その人は何も答えない。完全に無視といったところだろうか。
「これいる?」
そんな中でもおれが差し出したのは、その時期だったらわりと色んなところに咲いているとある一輪の花。姉さんにその花の名前を教えてもらって、実際に自身の手に取ってみて、どうしてか嬉しかったのを覚えている。
その花を、あろうことかおれは目の前にいる存在に渡そうとした。それは多分子供の頃だから出来たことで、今だったらそこに居るだけの幽霊とか別にどうでもいいし、そもそも害のないモノなんて意識をしないと視えないというのが常だ。普通はそうなのだろう。
その人物の足の付近にじわじわと何か黒いものが蠢ているのが見て取れたのは、僅かに時間が経った後。それは、子供ながらに近づいてはいけないものだと分かるくらいに鮮明におれの恐怖心を煽っていた。一言でいうなら、単純に危険だと感じたのを覚えている。
誰にも見えるはずのない存在がそこにいるという事実と、それに付随する得も言われぬほどの不安。全身が総毛立つ程に体温が下がり、そのまま本当に動けなくなってしまうのではないかという錯覚。つまりは、完全に怖気づいていたのだろう。正し、手に持っていた花は強く握りしめたまま。何かがおれを急き立てるかのように、やっと足が一歩後ろに下がる。その時だった。
「こらこら、駄目だよ」
何かが、優しく背中に触れるのが分かる。いや、正確にはぶつかったのだけれど、そんなことには気づかないくらいに驚嘆した。頭上から聞こえた声に慌てて顔を上げようとした時には既に遅く、ゆっくりとおれの目を何かが覆った。
「知らない人に話しかけちゃダメって、よく言われるでしょ?特にああいうの。仮に視えちゃたとしてもさ」
優しく響く男の人の声は、何年経っても頭から離れることはない。それくらい、恐らくはおれに大きな影響を与えた人物。気付けば、手にしていた花は零れ落ちていた。
「見ないふりっていうのも、大切だよ?」
頭上からの声が何かを言い終わったかと思うと、ぱっと目を覆っていた何かがおれの顔から離れていく。開けた世界には、さっきまで目の前にいたはずの誰かと、それを取り巻いていた黒い何かはもうどこにもいない。言葉を失うおれの代わりとでも言うように、振り向くと後ろには優しい笑みを浮かべた別の誰かがいた。
どうしてか、おれはそれに凄く安堵したのを覚えている。
「……さっきの人、どっか行っちゃった」
「うーん……多分だけど、然るべき場所にでも行ったんじゃない?」
「そうなの……?」
この時のおれは、その人の言っている本当の意味を汲み取れなくて、単に姿を消しただけだと思っていた。
でも、果たして本当にそうだったのだろうか?
否、歳を重ねた今となっては、そうではなかったということがよく分かる。
「おにいさんは、皆には見える人?」
「え?あー……そうだね。さっきの人とは違って、皆にはちゃんと見えてると思うけど」
「さっきの、幽霊なの?」
立て続けに問いかけると、男の人は苦笑いを浮かべるだけで、答えることはしない。しかし、幽霊なのかという問いを間接的に肯定するかのような、別の言葉が返ってきた。
「……他の人に言ったところで信用しては貰えないだろうけど、こういうの、見えたとしてもあんまり人には言っちゃダメだよ」
「どうして……?」
「どうしてって言われるとなあ……」
その人は空を見つめ、頭を掻きながら答えを探していた。
「ああほら、見えない何かがそこにいるっていうのは怖いっていうか、単純にイヤでしょ?変に不安にさせるのも良くないっていうか……。いやでも、見たくないのに見えちゃった挙句、見て見ぬふりっていうのもかなりイヤだよね。実際いい気分じゃないし……」
分かる分かる。その言葉は、おれに向けられたモノというよりは、恐らく独り言に近いものだったのだろう。これも、今になって思えばどうしてこうも不透明な言葉だったのかがよく分かる。
「とにかくっ、信用出来る人以外には簡単に言わないで欲しいなあ」
「でも、さっきおねえちゃんに言っちゃったよ……」
「あー……。いやでも、それはお姉さんだったから言ったんでしょ?だったら大丈夫だよ。……多分」
約束してくれる? そう言って笑みを溢すこの人は、逆光に身を任せるようにして光を身に纏う。どういう訳か、それがとても憂いを帯びていて今にも脆く崩れ落ちそうな気さえしていた。子供ながらにそう思ってしまったのは、ある意味では正しくて、ある意味では間違っていたのだろう。
「……ところで、おにいさんって誰?」
見知らぬ人に変な約束をさせられている時点でおかしいのだけれど、どうしてかおれは、この人が悪い人だとは思えなかった。この質問だって、別に目の前にいるその人を不審に思ったから発したという訳ではなく、単純に知りたかったというだけ。
「え、俺? あーそっか、この状況じゃただの不審者か……。えっと、俺の名前は――」
穏やかな陽気に包まれていたあの日。まるでしだれ柳のように優しく靡く髪の毛によって見え隠れするその人の笑顔を、どうしてか鮮明に覚えている。それくらい、あの時のおれにとっては印象的だったのだ。
「ってことで、よろしくね」
「うんっ」
但し、そうしておれに笑顔を向けた人物の肝心の名前を、あろうことか思い出すことが出来ない。
今のおれがひとつだけ言えることがあるとするのなら、この人はおれと同じ側なのだということだけだ。
◇
あの日、公園で知らない誰かに出会ってから暫くしてから、おれはまた公園に足を運んだ。またあの人に会えたらいいなだなんてそんな悠長なことを思いながら、いつもよりどことなく先急いでいたような気がする。でも結局、あれ以来その人に会うことは一度もなかった。ほんの僅な時間の中でしか話していないのにそれがどうしてか少し寂しくて、おれはまた公園の隅に咲いている花を手に取った。
「なんだっけ、この花の名前……」
この前お姉ちゃんに教えてもらったのに。小さな声で言いながら肩を落としていたけど、よく考えてみればおれは言う程花には興味がないから、名前を聞いたところで右から左だった。
仕方ない。これを持って帰って、またお姉ちゃんに聞いてみよう。そう思って、おれは後ろを振り向いた。
「あ……」
そうしたら、いた。
「幽霊だ……」
そこに居たのは、おれが探していた人物ではなく小さな女の子。まだ小学生に上がる前くらいの、それくらいの子が砂場で遊んでいたのが見えた。
あの時とはかなり状況が変わり、今度は幽霊であるとすぐに認識できた。理由は、そこにいた女の子が透けていたからだ。唯一似ている状況があるとするのなら、女の子の周りに漂ってる『黒いもや』のようなものが僅かに漂っていたということだろう。それを見た時、子供ながらに何か嫌な予感がした。
決してそこに、同情心なんてものは一切無かったなんて言うつもりはない。
「ひとり?」
むやみやたらに話しかけたら駄目だと言われていたにも関わらず、おれはその女の子に声をかけた。
砂場にいるせいなのか、膝や服が薄暗く黒い砂のようなもので汚れている。近くまで来たおれに気付く素振りを見せることもなく、ただ単に砂弄りをしているその単調な動作に、どこか私怨めいたものを感じた。ただ、そこで怖気づいてはいけないということを本能的な部分で何となく理解していたということだけが、唯一の救いだったのかも知れない。
「これいる……?」
手にしていた名前の分からない花がちゃんと見えるように、おれは女の子の目の前に花を差し出した。やっと、といったところだろうか。彼女の手が、まるで時が止まったかのようにピタリと静止したのがよく分かる。この時、女の子が何を考えていたのかは流石に分からない。おれはこういう類の存在は確かに視ることが出来るけど、どうしてそこに留まっているのかなんていうところまでは当然分からないのだ。それなのに、当然のように得体のしれないモノに話しかけるとか、自分のことながら正直馬鹿だと思う。
微動だにしない彼女を見て、おれはほんの少しだけ後悔した。やっぱり、こういうことを軽率にするのは良くなかったかったのかも知れない。もし、このまま悪い方向に進んでしまったら? 誰も助けてくれなかったら? この時のおれは、それを跳ね返す術をまだ知らなかったのだ。
「……え?」
だけど、それはどうやらいらない心配のようだったいうことに気付くのは、ほんの数秒後。
女の子に差し出した名前の分からない花から、光の粒がゆっくりと漏れてきたのだ。それが花自身から堕ちていっているのか、はたまたおれが手にしているからなのか、目の前で起きていることが一体何を意味しているのか、どうしてこういう現象が起きているのか。これら全てのを考える余裕なんていうのは、持ち合わせていなかった。
果たしてどれくらい時間が経っただろうか、なんていう程恐らく時間は経っていない。但しこの時、本当に時間は止まっていたんじゃないかと思うくらいに、辺りは静寂だった。
時が動き出したと感じたのは、その女の子が動き出してからだ。まるでそれを求めるようにして優しい手つきで花に触れた時、柔らかな光が地面に堕ちる。するとどうだろうか。その時を待っていたと言わんばかりに、一枚の花びらが意思を持っているかのように空へと舞った。
それに目を奪われた女の子は、とある言葉を口にした。
きれい。
今まで見た花のなかで、一番きれい。
気を抜いたら掻き消えてしまいそうな小さな声で、しかもとても優しく柔和な笑みだったのを覚えている。
彼女は花を持ったままゆっくりと光の粒にのまれていく。どこからともなく辺りに僅かな風が蔓延っていくのが、恐らくは合図だった。
少女を取り巻く光と、それに乗って消えていく彼女の実体。葉の擦れる音が煩わしく思う程に、その光景はどこか寂しくもあり同時に美しかった。どういうわけか光の粒が涙にも見えたのは、気のせいではなかったのかも知れない。
これが、おれがはじめて幽霊という存在を消した時。世間一般的な解釈をするのなら、成仏させた瞬間だった。
「なんだったんだろう、今の……」
その場に立ち尽くす羽目になったおれは、さっきまでその場にいた何かを探すでもなく、その場でそんな呆けた言葉しか出せないでいる。後ろからゆっくりと風が靡いてくるのがどうしてか不思議だったが、この後起きた出来事のせいで、そんなことは些細なことですらない。
◇
――砂が踏みしめられる、音がした。
何処からともなく聞こえてきたそれがおれの耳に入って来た時、どうしようもなく心臓が跳ね上がったのがよく分かる。
まさか幽霊? さっき会ったばかりなのに? まるでなにか悪いことでもしたかのように、おれは反射的に振り返った。
その先、おれの視界に入ったのは、ひとりの男。しかし男と呼ぶにはかなり幼く、同い年くらいの黒いランドセルを背負った男の子と呼んだ方が適切だろう。
さっきからそんなところで何をしているのか? とでも言いたげに、キョトンとした視線をおれに向けていたその彼に初めてあった時の印象としては、どちらかというと大人しそうな、この歳にしては雰囲気だったと記憶している。
「あ、いや……。虫がいたから……」
なにも聞かれていないはずなのにどうしてか酷く動揺してしまったのは、きっと、心のどこかでこれが人に見られてはいけないことであるということが分かっていたからに違いない。意味の分からな言い訳を口走ってしまったことに後悔していたけど、目の前にいる男の子は、そもそもおれがそこで何をしていたのかなんていうことに興味を示すなんていうことは無かった。
「……それ、あそこにあったやつ?」
「え?」
彼の視線の先にあったのは、さっきまで女の子がいたはずの場所に静かに置かれていた名前の分からないとある花。
「あ、ああ……。うん」
それは正しくおれがさっきまで手にしていて、かつ女の子が手にしたものだった。一緒に消えたんじゃなかったのか、そんな疑問が頭から離れないでいる中、畳み掛けるかのように男の子が言葉を発した。
「リンドウ、だったけ……」
その言葉に、おれはかなり驚いたのを覚えている。
「……それだ」
あの時公園で姉さんが教えてくれた花の名前は、正しくリンドウだった。花屋の息子が覚えていないような、公園の隅に咲いている何処にでもある普通なら名前だって知らないであろうその花の名前を簡単に言い当てたのだ。
砂場に落ちている、リンドウと呼ばれた花。彼は、それ以上何かを言うでもなく静かにそれを手にとった。いやちょっと待って。忘れるところだったけど今はそれどころじゃない。そもそも、一体いつからこの人はここにいたのだろうか? おれがここに来た時はいなかったはずだけど、もしかして見えない所にいたのだろうか? それとも暫くしてから? どんなに考えても、どんなに思い返しても分からない。
もしこの人が一番最初からおれのことを見ていたのだとして、そのことに全く触れずに砂場に落ちているだけの花の話になるのだろうか?
「花、好きなの?」
その疑問を、おれは口にしなかった。
「好きっていうか……」
もしかしたら、さっき起きたことを忘れたかっただけなのかも知れない。でも、興味があったのだ。この余りにも何も動じることをしない、おれの目にちゃんと映っている存在に。
「そしたらさ、ちょっと来てよ」
「え……」
「こっち!」
それはもう、さっき起きたことが本当にこのまま忘れられるんじゃないかという錯覚に陥るくらいに、おれは夢中になってその人の腕を取って足を進めた。今会ったばかりなのにとか、どうしてその花の名前を知っていたのかとか、おれのことをいつから見ていたのかとか、そういうのを全て忘れようとしているかのように、とにかく走った。
恐らくは、罪悪感のようなものを振り解きたかったというのもあっただろう。
「花屋……?」
一直線に向かった先は、おれの住んでる家だった。
「ここ、おれんちなの」
そう言いながら、一緒に走ってきた男の子を視界に入れる。さっきまでとは明らかに目が光っているというか、輝いているのがよく分かった。もしかしてだけど、この時の彼はおれが見た中で一番輝いていたかも知れない。ゆっくりと歩を進めて店に入り、辺りを向かった場所。そこには当然花しかない訳だけれど、その場所がまた意外だった。
「ゼラニウム……。初めて見た……」
ここに来て言った第一声がそれだとは思わなくて、かなり驚いたというか、どちらかというと面白かった。だって、例えば女の子だって花に興味が無ければその単語をこの歳で言うこともないだろうに、それを同い年くらいの男の子の口から聞くことになるなんて、誰が予想しただろうか。
もしかしてこれが、人は見た目で判断してはいけないという典型的なパターンだったのかも知れない。
「ねえねえ、そういえば名前は? おれは宇栄原 渉っていうんだけど」
「……神崎、拓真」
神崎と名乗ったその人は、そう口にするだけしておれの方なんて見向きもせずに花から花へと目を移していく。それを見た時、おれは確かに彼のことを変な人だと思った。恐らく見ていたのであろうさっきのことも全然言及してこないし、寧ろその時のことなんて眼中にさえないんだろうなという気さえもした。
でも、あの場所に現れたのがこの人で良かったのかも知れないと思うことはある。いや、多分あそこにいたのが拓真じゃなかったら、そもそもこれから先の展開なんて起きることはなかったのだろう。
もしも出会わなかったとするのなら、おれが幽霊の見えるような人間であるということなんて、きっと誰も知る術はなかったのだから。